投稿者: k.toyota

イエスのエルサレム巡礼路をさぐる

 昔予約していたBiblical Archaeology Reviewからときどき情報メールが届くが、今回は表記だったのでちょっと興味を引かれた。特権階級は別として、庶民や貧民にとって、年に3回の大祭への参加は一生に一回だったかもしれないが、古代ユダヤ人がガリラヤ地方からどのようなルートを通ってエルサレム巡礼をしていたのかは、ユダヤ教徒にとっては神聖な宗教行事だったはずなのだが、なぜか詳細な記録が残っていないらしい。歴史史料にはこういった奇妙な欠落がよくある。当時あまりに普通だったせいだからで、となるとヨハネ伝の叙述は特例だったことになる(ユダヤ地方からガリラヤへの逆コースだったが)。それは4.4にわざわざ「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と特記されていることでも傍証されるだろう。4.1で出てくるファリサイ派の追跡を逃れるためだったのだろう(周知のように、こういう読み方はヨハネを読むときいつも正しいわけではないが、ま、とりあえず)。

 たとえば私が豊島園から四谷にどの経路をとっていたかなんて、ことさら記録していないから他人には不明だし興味もないだろう。傍証で、このブログを読んでいる熱心な読者であれば、新宿経由ではなくて、代々木経由ということはわかるだろうが。

 以下、Dr. Jeffrey P. Garcíaの小論から。ガリラヤ地方からの巡礼路には都合三ルートあって、ヨハネ伝4章を見ると、イエスはあえてサマリア経由を採用した時もあったような記述がなされているが(最短路で徒歩で3日)、普通のユダヤ人はサマリア人との摩擦を避けて別の東西ルートを使っていた、ということらしい。東道は5〜7日、西路は最長期間(日数は書いてない)を要したようだが、著者は通常の巡礼路としてはこの海岸沿いを支持しているらしい。https://www.youtube.com/watch?v=p8_V47huAqE

https://i0.wp.com/www.biblicalarchaeology.org/wp-content/uploads/2021/07/Pilgrimage-Map.jpg?ssl=1

【追記】以下は、2019/9/24にニューヨーク市にあるNyack Collegeでの講演:https://www.youtube.com/watch?v=p8_V47huAqE

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象とラクダ:オスティア謎めぐり(10)

 オスティアがらみのお役人関係を探っていて、面白いテーマを見つけた(いまさらだけど (^^ゞ)。

 オスティアのネクロポリス(って、イゾラ・サクラ? それともローマ門?)からフラウィウス朝時代の宮廷解放奴隷 T.Flavius Stephanusの葬祭碑文が出土して、銘文には彼の官職名「PRAEPOSITO / CAMELLORVM」が、そしてその下部に鼻でX形状の二本の棒を操っているらしい象一頭と、その両側にラクダが対で描かれている(https://www.ostia-antica.org/severiana/severiana-10.htm)。彼は、オスティア近隣のLaurentum(昔のラウィニウムに近いラティウムの森:ユウェナリス『諷刺詩』XII.100:arboribus Rutulis et Turni pascitur agro)にあったと想定されている野獣収容施設で、ラクダの飼育管理に従事していたのだろう。フラウィウス朝となると帝都ローマの円形闘技場の落成公演やドミティアヌスの競技好きとかで、野獣の需要は半端でなかったはずなので、この施設、さぞや大規模だったのだろうと想像してしまう。

銘文下部に描かれた動物たち

 もちろん、オスティア遺跡内の協同組合広場のStatio 14と28にはモザイクで象が描かれているし、この広場からやっぱり象が登場する落書きも3例発見されている(https://www.ostia-antica.org/piazzale/p-contents-inscriptions-frames.htm)。

 さらに1935年には、いわゆる「小プリニウスの別荘」の北1500mから、一頭の象の骨格(化石ではない)が発掘されたほか、オスティアの北西部の小川の近くから一頭のラクダの骨も出土した由(こっちは写真等未確認)。ひょっとして、このラクダ、見世物だけではなく運搬にも利用されていたのかもしれない。

これは象さんのほうの骨

 そういえばコンスタンティヌスのアーチ門西側レリーフにもラクダが描かれているが、これはトリーアからのローマ遠征軍での使役獣だった。また、エルコラーノの遺跡からも(V.1:Casa Sannitica)コブなしだがラクダらしき落書きが出てきている。これはラクダが珍しくないからなのか、珍しかったからなのか。

、コンスタンティヌスのアーチ門;、ヘルクラネウム、V.1

 またポルトゥスからは、ライオンの入っている檻を運んでいる船がオスティア灯台を通過しているレリーフも発掘されている。

 こうして、帝都ローマでの野獣狩りが、考古学遺物からも立証されたわけである。なにより、地中海対岸から運び込まれた野獣たちの収容施設がオスティア近郊にあって、それなりに厳重に管理されていたことを知ったのはいい勉強だった。

【追記】別件で探索していて偶然見つけた。「Ivan Bogdanovi, A Camel Skeleton from the Viminacium Amphitheatre」(file:///Users/kojitoyota/Downloads/VukovicS.andBogdanovicI.-AcamelskeletonfromtheViminaciumamphitheatre.pdf

 それによるとラクダの遺骸は、イタリア、イベリア半島、フランス、ベルギー、 スイス、ドイツ、イングランド、オーストリア、スロベニア、ハンガリー、セルビア、ウクライナおよびブルガリアのローマ時代の遺跡、要するにローマ帝国全域で発見されていて、Viminacium地域では実に14、そのうち13は円形闘技場で、そしてすべてはフタコブ・ラクダとその雑種であり、ヒトコブ・ラクダは発見されていない由である。生息地からすると若干意外で奇妙な出土結果としか思えないが、ご当地ではフタコブ・ラクダのほうがより珍しかったからこそなのかもしれない。それにしても、小アシア半島なんかがフタコブ・ラクダ生息地だったとは知らなかった(これって、ひょっとして現代の?)。

生息地:、ヒトコブ・ラクダ;、フタコブ・ラクダ

 別件でたまたま目についた以下は、イスラエルのガリラヤ湖西岸に位置するフコークHuquqのシナゴーグの、ノアの方舟に動物たちが雄雌一対づつ乗船する場面を描いた舗床モザイクであるが、まあ地域的にも当然のことながら、ヒトコブ・ラクダが描かれている。右の大きなネズミ・ミッキーマウスと見まごうのは象なんだよな。耳が立っているのが変。

2012年発掘、5世紀の作
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先達の足跡:(6) 合阪學

 まだご存命であれば80代半ばと推察するが、彼が書かれた以下が単著として出版されることを願っている。

 「エウギッピウス『聖セウェリーヌス伝』の研究」『大阪大学文学部紀要』30,1990−2,335PP.

 合阪先生の研究分野は古代ギリシアから共和政ローマと思っていたので、私的には前触れもなく、紀元後6世紀のエウギッピウスが書いた師セウェリヌスの伝記の出現には大いに戸惑った記憶がある。最初は見て見ぬ振りしていたが、学部用の授業でテキストに選んで通読して、見直した。古典学の手法を使って、キリスト教の知識もきちんと押さえた内容であることが分かったからだ。

 あわてて古書検索をかけたが当時すでにかなり高額となっていたので、購入は諦め、阪大のリポジトリでpdfを落として、授業でもそれを利用した(KJ00004305051)。今となっては古書にも出ていないが、無理してでも押さえておけばよかったと思う。掲載が紀要なので、図書館にこのまま埋もれさせておくにはもったいない、多くの人々の目に触れるために出版されることを、心から祈っている。

 ぐぐっても、1937年生まれである以外には、なぜか写真はおろか、業績一覧といったデータもまとまった形で出てこなかった。退職時に普通はまとめて掲載するのが通例なのだが、さてどうしたことか。ご存じ寄りの方からのご教示をお待ちしている。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

【追記】2023/12/31:国立国会図書館のデータ表示で、「1937〜2009年」を見つけた。上記を書いた時点ですでにみまかられていたわけである。

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ミルウィウス橋コイン続報

 Agora Auctionsに、例のミルウィウス橋貨幣が既報の5/28に続いて登場した。といってもそんなに積極的に探査しているわけではない私からすれば、の話であるが。現在入札3回目で表記的には$65。データは以下。

Lot 621. Constantine I. A.D. 307/10-337. AE 4. Constantinople mint, struck A.D. 330. Rare. Ex Imperial Coins. Estimate: $ 100.00
Current Bid: $ 65.00 (3 bid(s))
Bidding Ends: Tuesday, 20 Jul 2021, 17:09:30

 掲載写真がふるっていて、裏面が天地逆となってる。右端はそれを試しに逆転させたもの。全体に不明確なのが安価な理由なのであろう。

 造幣所ナンバーはこれも不明確ながら「S」、すなわち「第6工房」。「Z」なら「第7工房」となる。

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オークションに偽造貨幣の金型?出品

 CNG(Classical Numismatic Group)のウェブ・オークションに、偽造貨幣とおぼしき「金型」一歩手前のものが出品された(https://auctions.cngcoins.com/lots/view/4-2WB2WA/antoninus-pius-ad-138-161-forgers-pb-impression-or-die-for-a-sestertius-35mm-5360-g-12h-copying-a-rome-mint-issue-of-ad-161)。以前、2019/8/26にも別件での既報があったので、今回はまあよりちゃちではあるが、約二年ぶりである。ちなみにオークションは現地時間で7/7の正午、手数料が落札価の18%かかる。

 本当は個人的に所有したいところだが現段階でも実質200ドルを超えているので、最終的には300ドルが予想される。よって私のようなビンボーな年金生活者は写真だけで満足せざるをえない。

 出品者のコメントによると、素材は鉛。アントニヌス・ピウス死亡時の161年ローマ造幣所打刻のものを真似たもので(RIC III, 1226)、貨幣の裏面のみ。刻印は「神格化CONSECRATIO」、デザインは四層の葬儀用火葬場の上に四頭立て戦車が正面向き、下部刻銘部には「元老院決議」SC(senatus consultum)。ただ、この偽造金型は鉛製なので、それを金型として打刻するには軟らかすぎ、おそらく本物の貨幣を鉛に打ち付けての凹型印影の試作段階のものと思われる。ここまでなら私でもできるだろう。まあその程度。

 参考事例として以下、本物を示す。表面には故人皇帝アントニヌス・ピウスの右向き肖像、刻印は「神帝Antoninus」DIVVS ANTONINVS。大きさ33.1×34.9mm、重さ28.47g。

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首都ローマの集合住宅跡:遅報(78)

 古代の都市ローマでアウレリアヌスの城壁で囲まれている領域は、ほぼ直径8km程度で、要するに徒歩で二時間程度、東西とか南北を縦断して歩けばフォローすることができる環状、もとえ勘定となる。そんな中で、しかし2000年を経て古代ローマの庶民生活を彷彿させる遺構はすでに現代首都ローマにそう残ってはいないのだが、カンピドリオ丘の西麓に、当時庶民も居住していたはずの賃貸住宅、すなわち「アラ・コエリの集合住宅」Insula dell’ara Coeli がひっそりと保存されている。これは、1929年から1933年にかけてムッソリーニが国威発揚のため大規模な都市再開発で、カンピドリオ丘の西側斜面にあったルネサンス様式の建物を解体した時に、古い教会の下から再発見されたものだ(他には、Casa Cristiana、taberna delle Tre Pile、Caseggiato dei Molini、Balneumなど)。ただ、ヴィットリオ・エマニエル二世記念堂とサンタ・マリア・アラ・コエリ教会へのあの急な階段の設置時に、この集合住宅の一部が破壊されてしまったのは、残念と言うよりほかないだろう。

 現在の地面の9m下から、4階までが残っているが、元来は少なくとも5階はあって、約300〜380名の住民を収容していたとされている。ほぼ垂直な斜面を利用して建てられているので、3階まではそんなに奥行のない構造だったようだ。4階は若干平地が広がり、そこにあたかも奴隷部屋を彷彿させる11の独房風の部屋が確認され、カンピドリオという場所柄興味深い、というか、以前書き込んだ「ダウントン・アビー」との類似が見てとれる。

、横断面図;写真は、北から写したもの

 まあカンピドリオという特等の立地を考えれば、高級マンション(コンドミニウム)というべき存在だったからこそ残り得たともいえる。その意味で、典型的庶民のインスラはやはりむしろオスティアで確認されるべきかと思われるかもしれないが、しかし、オスティアは帝都ローマの外港という特殊事情もあって、いわば皇帝直轄領的扱いを受けていたと考えると、本当の庶民のうらぶれた集合住宅はもはや跡形もなく消え去ってしまったとするのが至当であると思わざるを得ない。

、エウルのローマ文明博物館の模型;、地階と中二階までが現在の地面の下になる

 この建物は紀元2世紀建設とされていて(上から下までレンガ構造)、現在許可なく内部の見学をすることはできないが、幸いにも、2014年6月にレザー・スキャンが完了していて、それがウェブにアップされたのは2015年2月だった。それが以下で、上手に編集されているので、臨場感をもって一見の価値がある。https://vimeo.com/109825918;他にも、この箇所の時代の経過を分かりやすくアニメ化したものや、見学用の説明などもある。https://www.youtube.com/watch?v=qRt5Swtih_E;https://www.latinacittaaperta.info/2021/05/14/archeotour-linsula-dellaracoeli-mini-video-conferenza-2/

うらぶれた集合住宅想像図:上階の実際はもっとひどかっただろう

 かつて入手していたものを発掘した。帝都ローマのSubura地区の街角の安普請のインスラ想像再現図。こんな建物は2000年後に残りようもないわけで。我々は遺物として残っているものを当時の現実だと思ってしまうが、まちがっている。

https://www.youtube.com/watch?v=C51bStZQpP4
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Pompeiiの3邸宅新公開:遅報(77)

 新コロナ騒ぎを一段落させて、観光解禁を目前に、客寄せのためどこも精を出している。

 2020/2/19公表:https://news.artnet.com/art-world/pompeii-recycled-1848195

 EUが2014年に開始し1億5千万ユーロを投入してきた「大ポンペイ・プロジェクト」“Grande Progetto Pompei”が完了し(イタリア政府は引き続き五千万ユーロを投入して継続予定とのこと)、それに合わせて、これまで長らく未公開だった3つのフレスコ画で著名な邸宅が公開されていた。「果樹園の家」 Casa del Frutteto(I.9.5-7)、「恋人たちの家」Casa degli Amanti(I.10.11)、そして、「商船エウローパの家」Casa della Nave Europa(I.15.3)である。私的には落書きとトイレに興味がある。

 「恋人たちの家」(I.10.11)は1933年に発掘されたが、1980年の地震で危なくて立ち入れなくなっていた。実に40年振りの公開である(https://www.youtube.com/watch?v=0C5zKGm3NOA;https://www.youtube.com/watch?v=EuiimfV22B0&list=TLPQMjIwNjIwMjE5U9KCHBpljA&index=2)。

、「恋人たちの家」のPeristyle:私はこの上階をみてみたいのだが、無理だろうな;、地階平面図(14の奥にトイレ)

 ペリスタイル10に面した部屋13の外壁の落書き:アヒルの上部に”Amantes ut apes vitam melitam exigunt”「恋人たちは、蜜蜂の如く、甘露な人生を過ごす」(CIL,IV.8408a);すぐ下に第二筆bで”Velle”「そうだといいけど」;アヒルの下に、c”Amantes amantes cureges”と第三筆あり。最後の語がよくわからないが、「(ああ)恋人たちよ!恋人たちよ!(あなたは)注意めされよ」といった意味だろうか。

 「商船エウローパの家」(I.15.3)は、1951年に発掘され、平面図でペリスタイルに面した2の外壁に件の落書きが現状保存されている。トイレは9の兼台所にある。

 件の落書きは大きい上に不鮮明なのでここでは描画を示しておく。船名は、右の描画の大きな船の船首側の底の小さな柄付碑銘板tabulae ansataeの中に「EVROPA」と書かれている。中央の柄付碑銘板の中は空白。

 裏庭は菜園や果樹園として多目的で使用されていた。

 「果樹園の家」(I.9.5-7)は1913年と1951年に部分的に発掘され、とりわけ部屋番号11の華麗豪華なフレスコ画で著名である。落書きは、12のペリスタイルに面した10と11の出入口の間の柱に方形の黒曜石が鏡代わりにはめ込まれた周囲の石膏に書かれていて、4つが解読されている(CIL,IV.10004-7)。下にそのうちの10005を若干猥褻な挿絵ともども掲載する。トイレは15に設置されている。

平面図は上部が東
”FORTVNATA”:挿絵は頭髪で女性に見えないけど、かなあ
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ポンペイ構内博物館新装開店:遅報(76)

 2021/1/27発信(https://www.afpbb.com/articles/-/3328580?pno=0&pid=23014190)によると、「古事物収蔵館」Antiquarium の内容を一新しての再開となったようだ。場所は、ポンペイ・スカーヴィ駅からの遺跡入り口のマリーナ門の右上テラス。たしかトンネルの途中に入口があったので、見落とさないで見学すべし。ま、遺跡に入る前に見るか、歩き回って疲労困憊の挙げ句に見るか、それぞれの体力と許容時間との相談になるだろうが。

上記写真の右上の建物がその地上階で、地下もある

 A.Maiuriによるとそれは1861年に創設されていたが、20世紀末に私が訪れだしたころはずっと閉鎖されていて(世界大戦の爆撃とか、地震とかでの破壊なんかもあったらしい)、研究者見学さえ許されなかったようで、「まだ見せてもらってないが、なんとか見学したいものだ、いずれコネ作って見せてもらうつもりだ」と当時古代学協会で発掘日誌解読に従事していた故・岩井経男氏(当時、弘前大学教授)が話していたのを聞いた覚えがある。それが21世紀の10年代のある夏の訪問時にトンネルを登っていて、あれっ、この入口はなんなんだと。2016年のことだったのだろうか(http://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R8/8%2001%2004.htm)。その時はなんだかミュージアム・グッズ売り場に毛の生えたような狭苦しい展示で、あまり感激しなかった記憶がある。それが充実して一新されたらしい。ならば行かねばなるまいて。

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新幹線運転手の便意対策:トイレ噺(30)

https://mainichi.jp/articles/20210613/k00/00m/040/079000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20210614

 考えてみると、どんなに節制したところで所詮運転手も人の子、たまには体調不良で漏らしたくもなるだろう。そのため列車を緊急停止したくないとなると、運転室に簡易便器を持ち込んでおくしかない、ような気がする。

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イギリス出土の拘束具付き骸骨をめぐって

 2021/6/4研究雑誌Britannia情報:

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/06/unique-burial-thought-to-be-rare-direct.html;an-unusual-roman-fettered-burial-from-great-casterton-rutland.pdf

 イギリスのラトランドRutland州グレート・キャスタートンGreat Castertonで、2015年に民家の改築工事中に骸骨が発見され、放射性炭素年代測定の結果、遺骨は男性で、後226年から427年と判明したが、この遺体の両足首には鉄製の足かせが付けられていたので、俄然研究者の注目を浴び、MOLA(Museum of London Archaeology)の詳細な調査が行われてきた。

イギリスとフランスでの奴隷用足枷出土地点と、グレート・キャスタートン
発掘地点と、発掘状況(頭部はない)
件の遺骨と足枷

 この男性は遺骨に残されていた痕跡から生前苛酷な労働に従事していたこと、またほんの60m先にローマ時代の墓地があったにもかかわらず、その外のしかも溝に斜めに埋葬されていた。

 古代ローマ時代の鉄製の足枷は数多く発掘されていて、当時の奴隷の拘束具だったと考えられているが、遺骨に装着されての出土はイギリスでは今回のものが初めてではとはMOLAの研究者の見立て。

はレントゲン写真で鍵の部分が詳細に見えてる感じで興味深い
たぶんこのような鍵構造だったのだろう:A pair of slave shackles linked by a padlock bar, on display in Norwich Castle Museum (image: Murdilka)

 とはいうものの、イタリアと違いさすがイギリスの研究者、なかなか慎重で、こういった拘束具付きでの埋葬は、奴隷に限らず死者を侮蔑したり、死後の霊魂を縛る目的でのものもあるので、一概に奴隷とは考えられないとの見解も示している(が、結論的には奴隷だったとにおわしているが)。それにDNA鑑定で、意外と遠隔地からの訪問者も確認された。北アフリカや中近東出身者である。

 この情報に接して思い出すのは、京都の古代学協会によるポンペイのいわゆる「カプア門」付近の発掘調査の最終段階の2002年に、北側城壁から約20m外側で、火砕流で流されてきた男性遺骨二体が、地表下7mから発見され(第一報の新聞報道では一人は少女とされていた)、男性は身長170cmで(もう一体は150cm)、彼の足首にやはり鉄製の足枷が付けられていたので、おそらくウェスウィオス山の裾野の農業ウィッラで労働・拘束されていた農業奴隷だったのだろうと結論された事例である(https://www.kodaigaku.org/study/study.html)。この発見はそれまで獣骨やゴミ出土ばかりだったので、「最後の最後に人骨が」と古代学協会の皆さん大変喜んでいたのを懐かしく思い出す。それにしても、もう20年も昔になるのか・・・

【補足】2020/6/12の報道によると、フランスのサントSaintesの円形闘技場は18000人収容できる現在フランスに残る最大のものであるが、その西250mの建築現場から後1-2世紀の墓地が発掘された。

サントと、円形闘技場の位置
サント円形闘技場の現況と想像図

 そして、約300の墓地の中から鎖で繫がれたままの大人四人、子供一人の骸骨が出土した。大人の三人は足首を鉄の鎖で縛られ、四人目は首に首輪も、子供は手首に鎖が付けられ、溝の中に互い違いに埋葬されていた。それで彼らは奴隷身分で、この墓地は、おそらく闘技場で処刑された人々の墓地だったのかもと想定されている。

、拡大頭部の首輪;、同じ人物の足枷にも注目

 だが、2005年にはイギリスのヨークで、大腿骨に野獣に噛まれた跡のあるのがDriffield Terraceで出土していた由で、それは野獣刑で犠牲になった者と想定されているし、同時に両足首に足枷嵌められた遺骸も出土しているようで(しかも頭部が切断されているのがここの特色とか)、そうなるとグレート・キャスタートンのものが最初という言説は成り立たないような気がするがどうだろう(https://www.theguardian.com/science/2010/jun/07/york-gladiator-graveyard;https://static1.squarespace.com/static/5c62d8bb809d8e27588adcc0/t/5d0779edfb33ed00011bbe70/1560771061518/Driffield-Terrace.pdf)。

、ヨーク西南の墓地地帯の地図、川向こうの北東隅に軍団駐屯地;、野獣の咬み跡
件の遺骸と、両足首の足枷

 しかもである。ブリテン島には、Isca Augusta(Caerleon)、Deva(Chester)、そしてEboracum(York)にローマ軍団が常駐していた歴史があり(Viroconium(Wroxeter)にも一時:今は補助軍には触れない)、上記2箇所には当然のように円形闘技場遺跡が確認されるにもかかわらず(ブリタンニア全体では都合15)、ヨークだけは未だその場所が不明とされ、現地ではその発見が話題となっていて、古代ローマ史ハンターたちの格好の調査対象となっている由。現在のヨーク大学構内の地下駐車場の下ではとか、セント・メアリーズ修道院構内地下じゃなかろうかとか・・・。

、軍団駐留地;、円形闘技場遺跡

 と、まあこのようにこの分野の研究はそれなりのエビデンス(えー、わざと使ってます)の蓄積あるので、研究対象になり得るとは、若いの誰かやらんかいという、老爺のお節介です。

 ただ、コンスタンティヌス大帝がご当地軍団によって皇帝歓呼されたと想定されているのは現在のミンスター教会で、そこはかつての軍団駐屯地だったから納得できても、円形闘技場の候補地に想定されているセント・メアリーズ修道院もヨーク大学もその区画、ということは、今般の遺骸出土地とはウーズ川を挟んで1.5km離れていることになり、この距離はちょっとありすぎのような気がしてならない。むしろ、墓地に近い川の南側に想定すべきではと愚考したくなるのである。

、中央から右側がDriffield Terrace
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