投稿者: k.toyota

最近の発掘報告等若干:オスティア、エルコラーノ、Civita Giuliana

 このところちょっと学会発表とかで立て込んでいて、万事他が疎かになってましたので、落ちはあるでしょうが、まとめて掲載します。

1)10/7:トルコの旧ニカイア(現イズニック)のネクロポリスから後2世紀の石棺2つの中からミイラ化した骸骨発見。ここからはこれまで計6つの石棺が発見されていた。

 実は今回発見されたものは両方ともエロスが描かれていて、その1つは以前盗掘を受けていたらしい(2008年に遡るペットボトルのキャップが見つかっている由)。そちらからは女性と男性の骨格が発掘され、未盗掘の方は一人の女性が見つかった。

 2019年発見のものからは「アスティリスが母ニグレニアと自分のために造った」とギリシア語で碑文があり、内部には2人の女性の骸骨が入っていた。床には後4-5世紀頃のモザイクが張られていたので教会だったことが判明。

 ということで世紀は前後するが、異教とキリスト教が同所から出土したわけである。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/10/two-roman-era-sarcophagi-found.html

^^^^^^^^^^^^^^^^^

2)10/15 アウグストゥスからコンスタンティヌス11世までのローマ皇帝は175人の男性だった(自力で統治しなかった皇帝は除く)。それを、研究者は地震などの現象での80/20ルールに生存率が従っていると結論付けた。

 帝国西部の69名中自然死した者は24.8%、残りは戦死・宮廷陰謀死だった。175名全員だと非自然死は30%。

 また、皇帝死亡の時間分析から、即位時が高いこと、その後、在位期間が13年になるまでは低下するが、その時点で急激に上昇し、その後再びリスクは低下する。

 13年目の危機の原因はまだ答えがでていないが、こういった統計分析が歴史研究の重要な補完となりえることは確かであろう、と記事は結んでいる。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/10/only-one-in-four-western-roman-emperors.html

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

3)10/17:エルコラーノから新たな骨格が出土。40-45歳の男性遺体が火山岩の中から発見された。その回りからは組織や金属の痕跡も見つかっているので、今回発見された人物のバッグ、仕事道具、あるいは武器や硬貨などではないかと想定されている。

            写真で、遺骨の先端が切断されているのは発掘時のものだろう

 ヘルクラネウムは町としてポンペイよりは裕福だったが、ポンペイの場合熱せられたパーミスpumiceという小さな軽石が降り注いだのと異なり、ウェスウィウス火山からまず500度の火砕流で襲われ、その後溶岩泥流で密閉されたので、発掘は一種の硬く締まった溶岩を掘削しなければならず、一層困難である。ただその代償として、2階建てはそのまま出てくるし、木製部分は木炭化して出土してくれるわけである(ポンペイの場合、上階部分は軽石の重みで崩壊し、木製は完全に蒸し焼き状になって空洞化してしまう)。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/10/new-skeleton-find-could-reveal-more.html

2021/12/2により詳しい紹介が、頭部まで露わになって、そばから出てきた袋の中身までも、ちょっと残酷な写真ともどもなされた。少しづつ慎重に発掘が進んでいるのだろう。http://www.thehistoryblog.com/archives/date/2021/12

 以下はその頭部付近の写真:

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

4)以前、ローマ時代の儀式で使用されたと思しき戦車がこれまでにない保存状態で出土したCivita Giulianaのヴィッラから(2021/2/28報告)、今度は奴隷が居住したと思しき納屋が発見された。

、発掘完了区域      、今回発掘の納屋の状況

 これまで奴隷の居住区については仮説以上のものは発見されていなかったが(彼らの作業空間で寝泊まりしていたか、家内奴隷の場合は、仕えるご主人様の寝室の床に寝ていたのが普通とされてきた)、今般の発掘で大人用の木製ベッド2つと子供用のそれが1つ、そのほか日常品も出てきたので、その部屋は奴隷一家(法的建て前では、基本奴隷は結婚はおろか家庭を営めないことになっているが、この場合は実際よくあった繁殖事例ととるべきか、ベッド2つが夫婦の男女の存在を示しているわけではないと考えるべきでしょうね)の居住家屋と発掘者は考えているようだ。私は力点を置き換えて納屋に奴隷たちが住んでいた、とまあ微妙な違いに過ぎないが、そう考えているが、家内奴隷の常態解明に大いに役立つ出土には違いない。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/11/slave-room-discovered-at-civita.html

^^^^^^^^^^^^^^^^

5)東京を留守にしている間にイギリスから展示会のカタログが送られて来ていた。現在ローマのカピトリーニ博物館で展示中のトルロニア博物館所蔵品である(2020/10/14-2022/1/9)。Ed. by Salvatore Settis & Carlo Gasparri, The Torlonia Marbles:Collecting Masterpieces, Electa, 2020. もちろんイタリア語版もあるし、短縮版もある。

 この博物館は逸品を所蔵しているが現在非公開で、その中に私的に見逃しがたい1864年ポルトゥス出土の港湾風景のレリーフがあって、もちろん公開中に見ることできそうもないわけだが、その一葉ほしさに発注した。もちろん郵送料込みでいい値段だったが、生涯ない、もとえ、しょうがない。予想通りとはいえ、pp.175-178に解説と見開きでの写真が一葉載っているだけだったが。画像そのものはググればいくらでも手に入る。以下のごとし。このレリーフには港湾関係以外にも、なぜか4頭の象が曳く戦車も登場するかと思えば、唐突に邪視も登場する。ちなみに中央上部の灯台の炎や、左の大型船の帆の裏側の人物とかで明白なように、もともと色彩も施されていた。あれやこれや図像の詳細な謎解きは優に卒論に値すると思うのだが、誰かやらんかい。

Filed under: ブログ

世界のトイレ事情紹介記事

 参考までに。たまたま見つけた記事です。2年前の情報。「日本人が海外でやりがちな「トイレ」でのNG行動」(https://tripeditor.com/359132)。

 最後にイタリアが出てきますが、便座がない場合、まああれは中腰でやるしかないでしょうね。

 それと路上なんかの有料の公衆便所は用心したにこしたことはない。というよりやめたほうがいい。壊れていて入れない、入れても出れなくなる、用が済んでも水が流れないなどなど。私は最後の件では、ナポリの国立美術館近くの地下鉄に向かう地下の若干安すぎる有料トイレで遭遇しました。ええ、もちろんそのままとんずらしましたよ。

 ともかく、だれか一緒でないとやばいです。有事の場合、外で見張っていてもらわないと、文字通り長時間の雪隠詰めになる危険性が。

Filed under: ブログ

オスティアのHP:オスティア謎めぐり(17)

 オスティアに関しては無類に充実したHPがある。それが「Ostia:Harbour City of Ancient Rome」(https://www.ostia-antica.org/)で、常時アップグレードしているので、オスティア研究する時にはまずこのHPを精読すればなにかと便利である。その管理人がJan Theo Bakker氏である。オランダのLeiden 大学関係者(卒業生なのは確か)らしい。彼のオスティア研究は1983年にはじまり、おそらく遅くとも1999年ごろから構築されたようだ。同志・友人たちの援助があるにしても、彼の継続的な熱意がなければとうていなしえなかった快挙である。

1998/11撮影

 ググっても彼の個人情報はそんなに公表されていないようだが(かろうじて、以下で多少書かれている:

https://www.ostia-antica.org/dict/intro.htm)、最初のローマ滞在が1987年、最初の著書を1994年に出版しているので、60歳前後あたりかと想像している。末永いご活躍を祈らざるを得ない。

Filed under: ブログ

古代ローマ関係食材2点

 日頃イタリア食材でお世話になっている「ベリッシモ」(https://www.bellissimo.jp/c/new)から新入荷情報が来て、それを見ていたら、古代ローマの食材として以下2点が。ま、もちろんそのまんま古代のものであるはずはないけれど、少なくとも教材にはなるはず。

(1)古代小麦が原料のパスタ3種:古代ローマにパスタはなかったはずだがまあいいか。

 最近、グルテンによる小麦アレルギーが出るようになったせいで、それが発症しない品種改良されていない古代小麦への関心が高まっているようで、ググってみると「スペルト小麦」の広告販売、確実に多くなっている。私は昔、滋賀県産のそれを購入して学生に教材として渡したことがある。その一人は母にクッキー状に焼いたものを造らせてもってきてくれたので有難く賞味したことがあった。自作したら満点だったのに。

粉だと面倒だという横着な人向け(実は私もそう)には以下で焼いたパンを売ってくれる。(https://item.rakuten.co.jp/hamunder/kodai_set/)。ただし製品に「グルテン少なめ」とあったりするので、一応ご了解を。100%は600円高くなる。

 今回のは、ギリシャ時代からシチリアで生産されている古代硬質小麦「トゥミニア」とのこと。

【食後感】パサパサ感がなかなかいい、それに慣れるとグルテン系がねちこく感じられる。それに気のせいか食後にお通じもよくなっているような。

 以前見つけていたシチリア産古代小麦生地の現地情報:https://www.pokkasapporo-fb.jp/plyuki/column/20.html

(2)古代ローマの魚醬の中世・近世での発展形「コラトゥーラ」、それの日本・新潟産。

左、チェラータ産            右、新潟産

 本来はカタクチイワシが原料で、これまでイタリアだけでなく日本でも幾つか購入したが、教材用だったこともあり使い切ったことはない。新潟産は原料が鮭で、「チャーハンやパスタ、スープ、炒め物、煮物等日常的に」隠し味にお使いください、とのこと。まあアンチョビ代わりの隠し味といったところか。日本産の商品名「Ultima Goccia」(最後の一滴)が気に入ったのでどっかでパクりたい。

 あと、こういった話題では、古代ワインの件もあるが、それは改めていつか。先日、通販でギリシアの松ヤニ込みも飲んでみたが、・・・あんまし違いは分からなかった。ま、ものにもよるのだろうが。やっぱり現地で購入するのが一番だろう。

Filed under: ブログ

エルサレムの王宮?遺跡から個人用トイレ発掘!

2021/10/8公表
Biblical Archaeology Societyからの情報(http://reply.biblicalarchaeology.org/dm?id=7F1C0DB737796CF5408185192138D194EAA4B20683170824)。

 イスラエル考古局の発掘チームは、第一神殿時代末期(紀元前7世紀頃)のもので、ユダ王国最後の王の一人が所有していた可能性があるトイレを発掘した。今日ではトイレは家庭の必需品だが、古代ではトイレは富や地位、特権の象徴で、それは古代ユダにおいても同様であった。出土場所の周辺の状況から、王の個人的な個室トイレだったと考えられている。素材は石灰岩らしい。

 この時期の「トイレ」は私が知る限り、このような丸い穴が開いているだけで、大するにせよ小するにせよちょっとどうかなと思わざるを得ないのだが、そんなこといえば、古代ローマ時代の便座だって、小には対応していない、と私は思っている。この上に別に椅子形の便座なんかがあって下に伸びる土管を固定するだけの機能かも、とつい思ってしまうのだが、さてどうだろうか。

 以下も参照。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/10/2700-year-old-toilet-found-in-jerusalem.html

当時のトイレ環境の想像図

【追記】2021/11/12公開 このトイレから採取された土砂を分析した結果、回虫、サナダムシ、鞭虫、ギョウ虫の4種類の寄生虫の卵が確認された(残存できなかった寄生虫の卵もあったはずである)。これらは腹痛、吐き気、下痢、かゆみなどの症状を起こす寄生虫で、特に子供にとって、栄養失調や発達の遅れ、神経系の損傷、そして極端な場合には死に至ることもあった。

 

Armon Hanatzivの石造りの便座の下にあった堆積物から回収された腸内寄生虫の卵。(a). ギョウ虫Enterobius vermicularis;(b).回虫Ascaris lumbricoides;(c).豚鞭虫Trichuris suis;(d). 鞭虫Trichuris trichiura;(e).サナダムシTaenia sp. 各バー=25μm。写真はEitan KremerとSasha Flit(拡大率X400)

 以上、https://doi.org/10.1016/j.ijpp.2021.10.005

Filed under: ブログ

もうひとつの「死の川」fiume mortoみっけ:オスティア謎めぐり(16)

 テヴェレ川関係をググっていて、以下の書き込みを発見(https://www.montinvisibili.it/Ansa%20morta%20Tevere)。表題は「テヴェレ川の死の曲がり角」Ansa morta del Tevere

 てっきりオスティア・アンティカ付近の1557年の大湾曲部分の切断のことだと思って読み出したのだが、・・・なんか変だ・・・。

 掲載のGoogle Earthの地図がなぜか湾曲が真逆になっているしと思っていると、測量図的な地図も出てきて湾曲部分の真ん中を「G.R.A.」が横切っているではないか。それは首都ローマの回りを走る高速道路「ローマ大環状線」のことなので、こりゃ違うぞと。

 調査の結果、この場所をテュレニア海の河口から遡上させると、下記の画像の右上となり、遺跡から直線距離で11.5km、逆にそこからローマ市内のフォロ・ロマーノまで直線距離で11km。まあ、帝都ローマから河口までの中間点。現在自然公園化されていて、この湾曲に沿ってサイクリング道があるそうで、それ関連の写真もいっぱい出てきた。こんな場所があったこと、これまで全然しらなかった。

                     右上の青色に注目せよ ↑

 ところで、先にこの「もう一つ」に触れてしまったが、我らの本命の「死の川」についてはまた別に紹介したい。

Filed under: ブログ

最近の海中考古学情報

 久々にArchaeological News Networkを覗いてみた。幾つか最新情報が目についたが、中でも以下が興味深かった。

 「エガディ諸島の戦いで発見された2つのブロンズ製軍艦ラム」(

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/09/two-bronze-warship-rams-discovered-at.html

 この記事は第1次ポエニ戦争に決着をつけた「エガディ諸島の海戦」(前241年3月10日)での2021年夏の調査で、新たに青銅製の2つの衝角(ラム)その他が発見されたという報告である。今回の調査ではその他にも、戦闘時に弾丸として使用された鉛製のスリンガー弾数十発、青銅製のヘルメットや頬当て数個、ローマ時代やヘレニズム時代のギリシアのコインなどが発見されたらしい。すべてがあの海戦の遺物だとすると、噂に違わぬ大海戦だったわけだ。とはいうものの、あのブログに掲載されているのは海上に引き揚げられた衝角の写真だけだった。もっと詳しく知りたいものだ。

 以上はこのプロジェクト16年目の成果で、それ以前には古代の衝角はなんと2つしか発見されていなかったものが、これで25個を数えるに至った由。なかなかの成果だが、だれかまとめて紹介してくれているのだろうか。

軍艦に装着された衝角想定図                海戦想像図

 しかも今般、副産物的に、後4世紀前半のアンフォラ(現ポルトガルのルシタニア製とスペイン・バエティカ製)を輸送していた難破商船さえも発見した由。こっちも知りたいものである。

 しかしこういう情報に接するたびに疑問に思うのだが、なぜ我が国の共和政ローマや海軍史やっている研究者(およびその周辺、院生など)がまともに紹介しようとしないのか、ということである。

 そんなこんなで、もっと詳しい情報はないかとぐぐってみたら、2017年度の報告がアップされていた(https://www.realmofhistory.com/2017/10/31/battle-egadi-islands-punic-war-rams/)。ここではなぜかそれをうまくアップできなかったので、YouTubeを掲載しておこう(あれ、後からみたらアップされてたのは、なぜ? 今度は余分な二つ目の消し方がわからん;あ、なんとか消せたぞ:以上、アップ時の独り言でした)。

https://www.realmofhistory.com/2017/10/31/battle-egadi-islands-punic-war-rams/
Filed under: ブログ

どう思いますぅ? 河岸のローマ道発見!?:オスティア謎めぐり(15)

  先にテヴェレ川の左岸を歩いたと書いたが、それはオスティア遺跡のちょうど裏側のことである。そこから遺跡まで帰る道すがら、妙なことに気付いた。寡聞のせいかこれまで触れた文献に出会っていないので(絶対あるはず)、にわかには信じられない、というか確信をもてないのだが。この件、ご存知よりの方からのアドバイスを求めています。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 それをやはりGoogle Earthのストリートビューの画像で紹介しよう。現代のテヴェレ川の湾曲部の凹の地点にコンクリートを15m×10m の長方形に平打ちした感じの簡易船着き場がある。そこから下流にさらに175m 歩くと葦に遮られて道が途絶えてしまう。地図的にはその葦原を250m 突破するとヨットハーバーに出ることできるようにおもえるのだが、その時の私はそれを試みる体力が奪われていたので、オスティア遺跡に帰り着くべくUターンした(グーグル・アースで後からみると、船着き場に降りないでそのまま遺跡の北側にそって河口方向に向かう道もあるようだ。次回があれば試してみたいが、それにしたところでヨット・ハーバー目前で「Da qua nun se passa,toma indietro」とわざわざ表記されているので行き止まりとなっているのだろうし、藪を突破したところでヨット・ハーバーの柵があるだろう)。その船着き場から約1km 弱のところに例の石柱が立っているわけだが、まずは船着き場から140m 戻ると左側に2軒ほど民家があり(番犬がいてやたら吠える)、右側はオスティア遺跡事務所(コ字型のピンクの天井)の裏口といった趣の三叉路に出る。そこから川筋を遡上すると来た道になるが、今回の復路は三叉路の右であった。そこをものの20m も歩かないうちに,私は道路面の変化に気付いてしまったのだ。

 それまで未舗装のはずの差し渡し4.4m 幅のその道の片一方、帰途の私にとっての左半分にどうやら平たい小石が敷き詰められていたのである。最初は断続的に、しばらくするとずっとそれが次の人家の手前まで続いている。その距離約300m。その写真が以下である。後日、動画も撮っていたはずだ。

   、初め付近          、向こうに人家が見え出す

 残念ながら私は考古学者ではないので、この道の舗床がいわゆるローマ時代のものそのものかどうかは判定できない。みなさんおなじみの大きな玄武岩を敷きつめたアッピウス軍道などと比べれば石自体があまりに小型である。砕石を敷きつめたようにさえ見える。しかし私にはスペインでサンチャゴ巡礼した時、河原から拾い集めたような若干大きめな丸っこい玉砂利のこれは正真正銘のローマ軍道を目撃した経験があるので、違和感はない。ローマ街道はよく画一的規格で解説されがちであるが、石材も工法も地域的特色があるのが普通だった。今の場合、古代ローマ時代に平底船を綱で牽引していた奴隷や牛にとって一番いい舗床がどういうものだったかが重要だったはずである。

 また、この石が敷きつめられているのが、現在の道幅の半分、せいぜい2m なのはなぜか、これも疑問である。もともと2m 幅だったのが、現代生活で不可欠な自動車の普及で道幅を拡張したのではないか、というのがど素人の私の思い付きなのだが、どうだろう。川端近くの三叉路付近には先に述べたように1、2軒の民家しかないが、オスティア遺跡の裏口として物品の運搬時に8トン・トラックにしたところで車幅は2m強なので、この道の使用も十分可能だからである。この件は、遺跡内を避けてその東西大通りdecumanus maximus の北側を遺跡入場口受付から事務棟、さらにはその奧の収蔵庫にむけて走っている舗装道路の道幅も4.4m とほぼ同じことも、それを傍証しているように思える)。

 船着き場から人家まで約500m のこの道は、おそらくかつて大湾曲していたFiume Morto 沿いの道にほぼ相当していたのではという私の直感が正しければ、往時、奴隷や牛に曳かせてテヴェレ川を平底船が帝都ローマまで遡上していた運搬路があったことは確かで、しかし、その時のものと断言するのはさすがに勇気がいるが、大湾曲部分が洪水でFiume Mortoとなってしまった1557年まで、この道は河沿いの道路として機能していたのは確実といっていいように思うが、どうだろう。

       ↑船着き場から人家までの道筋↑      下隅、ユリウス2世の砦Castello
、1884年:大湾曲部の片鱗が砦付近にまだ残っていた   、1911年の航空写真
Filed under: ブログ

河岸河床監督官の石柱みっけ?:オスティア謎めぐり(14)

 前の書き込みの続き。Mauro Greco氏の叙述内に「2つの大きな石柱」があって未だ直立しているほうにラテン語碑文が刻まれていてと、写真も2葉添えられていた(下の写真)。ただどうやら二つとも同一石柱の写真で、しかもそれから刻字を読み取るのは無理なようだ。立っていないほうの石柱はどうなっているのだろう、といつものない物ねだりで気になるところではある。

 最終的にみつけた場所をGoogle Earthで表示しておこう。大通りに面したOstia Antica 遺跡の正面玄関の真ん前に教皇ユリウス二世が枢機卿時代に創建した砦があり(下の写真①だと右下隅の三角形構造物)、そこの白丸を基点として黄色の線を辿って最初の三叉路(白丸)を左折して次の三叉路の交差点中央(白丸)にそれ(ら)があった。基点からの距離は340m ほど。

写真①  Ostia遺跡    煉瓦色の屋根が屋敷   中央の白色の道筋と白丸の交差地点が石柱設置場所

 かのお屋敷(といってもそれほどの豪邸にはみえないが)は、オスティア遺跡だと以前このウェブで扱ったことのある「御者たちの浴場」Terme dei Cisiarii (II.2.I3) の北側真裏になる。今から20年も前そういえば、ミトラエウムを探しあぐねて格子越しにのぞき込んで、境界に設置された頑丈な金属製の柵に寄りすがって「ここにあるんだろう。入りたい」と嘆息したことを思い出してしまった。

 これももう数年前のこと、思い立ってテヴェレ川のかつての川筋(Fiume Morto)の痕跡を求めてボルゴの東北地域の畑の中をさ迷ったことがある。遺跡の神様も哀れに思ってくださったのだろう、偶然、一面の畑の真ん中にぽつんと保存された遺跡にひとつだけ行きつくことができた(いずれ触れる予定)。平べったい農地の中の農道をひたすら歩くだけなのだが、そのときは体調思わしくなく、めまいに襲われたこともあり、涼しい午前中に出発しても炎天下なので昼過ぎには体力と同時に気力も奪われてしまう。しかしあきらめず帰り道は西に歩いて現在のテヴェレ川の左岸に至り、川筋沿いに道がある限り下ってみた。そこはちょうどオスティア遺跡の本当にま裏だったが、そっから先は葦の原になっていて、ワンゲルでは普通の昔とった杵柄とはいえ、その時の私にはもはや藪こぎする余力は残っていなかったし、単独行だったので河岸で事故った時が怖かったので、川辺でしばし休憩してからUターンした。川筋のすぐ南側はオスティア遺跡の敷地なのだが、ここも丈夫な柵で閉鎖されているので、目前に慣れ親しんだ遺跡を見ながら大回りせざるを得ないことを呪いながらだったが、その帰り道、何が幸いするかわからないもので、実は今問題の石柱が設置されている交差点で件の石柱にこれも偶然遭遇し、由来もなにも知らないまま念のために写真も撮った記憶がある。今はそれを探す手間を厭って手っ取り早くGoogle Earthのストリートビューを利用しての写真を掲載しておく。有難い時代となったものだ。

写真② 左奥にAldobrandini家の建物がみえる   東から見た石柱   右の道を行くとテヴェレ川左岸に出る   

 ストリートビューは撮影機器が通った道にしか進めないので、今の場合、左の道はAldobrandini家のお屋敷のファサードに導く並木のアプローチ道であり、私有地だから撮影されていない。それで石柱のそっち側や裏側の映像は確認できないのが残念だ。だが、石柱のそばに倒れた切り石が見つかったのは、なにはともあれ収穫だった。但し、重そうだし、ここでひっくり返したりして刻文をチェックしたりしていると(何もないかもだが:じゃあなんなのさ、この切り石)、車で通りすがる地元民のみなさんに怪しまれること請け合いだろう。

写真③ 石柱を北西側からみる

 さて、その石柱に刻まれている銘文は以下の通りらしい:CIL XIV 4704 = AE 1922, 95(但し、未確認)。不完全だが現段階での試訳も付記しておく。

1 C(aius) Antistius C(ai) f(ilius) C(ai) n(epos) Vetus /

2 C(aius) Valerius L(uci) f(ilius) Flacc(us) Tanur(ianus) /

3 P(ublius) Vergilius M(arci) f(ilius) Pontian(us) /

4 P(ublius) Catienus P(ubli) f(ilius) Sabinus /

5 Ti(berius) Vergilius Ti(beri) f(ilius) Rufus /

6 curatores riparum et alvei /

7 Tiberis ex s(enatus) c(onsulto) terminaver(unt) /     

8 r(ecto) r(igore) l(ongum) p(edes) //

9 Sine praeiudic(io) /                 

10 publico aut /                    

11 privatorum                     

 1行目のAntistiusのみ祖父まで書いた若干くどい念入りな標記なのは、彼が執政官格の本監督官評議会の筆頭者だからで、後の4名は法務官格だったから、だろう。

 6行目から7行目冒頭に出てくる「curatores riparum et alvei / Tiberis」は一般に知られている政務官職名だが、Greco氏が書いている「オスティア・アンティカの」di Ostia anticaが抜けているのが気になるし、その語が di Ostiaと、しかもアンティカと現代表記したイタリア語なのだ。奇妙だとようやく気付いたが、あれはGreco氏の勝手な付加だとすれば、帝都ローマのcuratores (pl.)がこれを建てたことになって、それはそれでリーゾナブルではある。

 実は、8行目については別の読み方もあり、最後に欠字もあるようだ(あってほしい)。ちょっと調べてみたら、9-11行目は研究論文などでなぜか省略されている場合が多い。定型表現のようだが、異読もあり、いずれにせよこの銘文いずれきちんと検討・詳述できればと思っているので、ご意見いただければ嬉しい。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 ところでこの探険、もうひとつの思わぬ副産物にこれも偶然出会った。それは続きで。

Filed under: ブログ

アルドブランディーニ家とミトラエウム:オスティア謎めぐり(13)

堀賀貴編著『古代ローマ人の都市管理』九州大学出版会、を読んでいて、関連でちょっと調べたら、アルドブランディーニ家がらみで偶然23つの事例が引っかかってきた。 ことの発端は以下である。ティベリス川の洪水に古来悩まされ続けたローマは、河岸河床監督官を定めたというくだりで、その官職名curatores riparum et alvei Tiberis をググっていて(それはそれで、「使徒行伝」13.4-12に登場するキプロス総督[正確には騎士身分から派遣される管理官procuratorのはず]Lucius Sergius Paulus/Paullusと関係あるかものという名前も出てきて、知らなんだ〜と大いに興奮したのだが、念のためと田川建三大先生の注解書を開いてみたら、すでにK.Lakeが1933年の注解書でちゃんと説明しているように同一人物とはいえない、とそっけなく却下なさっていて、私はエウセビオス研究がらみでかねてK.Lake先生のご研究を尊敬してきたので、こりゃもうあかんとガックリ)、たまたまなんと、curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica もヒットした。 おいおいこれはなんなんだ、そんな官職オスティアにあったって聞いてないよ〜とそっちをググり出すと、Mauro Greco氏が2018/2/4にアップされた「Il cippo dei Curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica」(http://visiteromeguide.altervista.org/cippo-dei-curatores-riparum-alvei-tiberis-ostia-antica/)が引っかかった。最近クラウディウス帝のローマ市域石標pomerium cippus を紹介していたので、あれれこんなものオスティアにあったかいなと、レジメ作成作業を中断してとうとう大幅に横道にそれることに。Mauro Greco氏によるその紹介文に「オスティア・アンティカをよく知る人なら、遺跡の左側にあるアルドブランディーニ家の敷地に沿った未舗装の道を散歩したことがあるだろう。アルドブランディーニ家の敷地に通じる大通りから数十メートルのところにある分かれ道で、2つの大きな石柱に出会う」とあって、これまたはじめて知った「アルドブランディーニ家」Aldobrandini という存在(ググってみれは、これはフィレンツェ起源の大変な名家だった。以下の[付記]参照)や、それが遺跡の左側にあるという叙述に、どっちから見て左側なんだ、現在牧場風の空間が広がっている右側の間違いじゃないの〜、と首を傾げながら、Google Earthで検索したりググってみたりする中で、今度は「Mithraeum Aldobrandini」なんてものもヒットして(http://www.visitostiaantica.org/en/2017/07/02/the-mithraeum-aldobrandini/:但し、Stefania Gialdroni女史撮影の掲載写真は表紙の1枚を除きすでに見ることできなくなっている)、これはひょっとして20年も前に気になって探していた19番目のミトラエウムのことでは、と。 昔、オスティア遺跡にあるミトラエウムに興味を持ち調べたときの知識では、オスティアのローマ側からの入城門 Porta Romana門の右側城壁をテヴェレ川方向に辿ると塔があって、そこがミトラス教の祠だった、というごく簡単な説明しかなかったと記憶しているが、現地で遺跡とテヴェレ川の間のそれらしい場所を見当つけて道伝いに探し歩いたこともあったのだが、農地と私有地だらけで、その上甲高い番犬どもに吠えられたりで目的を果たせなかった過去があった。今回みつけた写真はあのとき探せなかったのも道理で、「塔」というにはおこがましい小型の構造遺物で、しかも「アルドブランディーニ家」の私有地の中にあって非公開ということも分かり、まあこれで一応積年の疑問を解消することができただけでなく、上記ウェブ掲載のリンク先に飛んでみるとなんとそれは例の「OSTIA:Harbour City of ancien Roma」で、いつの間にか充実した記事となってアップされていて(https://www.ostia-antica.org/regio2/1/1-2)、めでたく写真や碑文も入手できたのである。そのウェブの管理人Jan Theo Bakker氏の尽力はかくも偉大なのである。これはこれで十分紹介する内容を備えているので、誰か手早く紹介すればいいのになと思わざるを得ない。ああ、天我をして十年の命を長らわしめば・・・。 さて本論のcippusに話を戻したいが、それは続きで。最後にGialdroni女史撮影の「塔」の表紙写真を転載させていただこう。
ところでこの項目、なんど段落切っても修正されない。どうしたことか。読みづらくて申し訳なし。 [付記]2021/11/24 帝都ローマのトラヤヌス市場の3D画像をGoogle Earthで切り取ろうとしたら、そのすぐ北に「Villa Aldobrandini」を見つけてしまった。これは今は庭園だけのようだが、フラスカーティには文字通りの豪邸があるようだ。
Filed under: ブログ