投稿者: k.toyota

Pompeiiの3邸宅新公開:遅報(77)

 新コロナ騒ぎを一段落させて、観光解禁を目前に、客寄せのためどこも精を出している。

 2020/2/19公表:https://news.artnet.com/art-world/pompeii-recycled-1848195

 EUが2014年に開始し1億5千万ユーロを投入してきた「大ポンペイ・プロジェクト」“Grande Progetto Pompei”が完了し(イタリア政府は引き続き五千万ユーロを投入して継続予定とのこと)、それに合わせて、これまで長らく未公開だった3つのフレスコ画で著名な邸宅が公開されていた。「果樹園の家」 Casa del Frutteto(I.9.5-7)、「恋人たちの家」Casa degli Amanti(I.10.11)、そして、「商船エウローパの家」Casa della Nave Europa(I.15.3)である。私的には落書きとトイレに興味がある。

 「恋人たちの家」(I.10.11)は1933年に発掘されたが、1980年の地震で危なくて立ち入れなくなっていた。実に40年振りの公開である(https://www.youtube.com/watch?v=0C5zKGm3NOA;https://www.youtube.com/watch?v=EuiimfV22B0&list=TLPQMjIwNjIwMjE5U9KCHBpljA&index=2)。

、「恋人たちの家」のPeristyle:私はこの上階をみてみたいのだが、無理だろうな;、地階平面図(14の奥にトイレ)

 ペリスタイル10に面した部屋13の外壁の落書き:アヒルの上部に”Amantes ut apes vitam melitam exigunt”「恋人たちは、蜜蜂の如く、甘露な人生を過ごす」(CIL,IV.8408a);すぐ下に第二筆bで”Velle”「そうだといいけど」;アヒルの下に、c”Amantes amantes cureges”と第三筆あり。最後の語がよくわからないが、「(ああ)恋人たちよ!恋人たちよ!(あなたは)注意めされよ」といった意味だろうか。

 「商船エウローパの家」(I.15.3)は、1951年に発掘され、平面図でペリスタイルに面した2の外壁に件の落書きが現状保存されている。トイレは9の兼台所にある。

 件の落書きは大きい上に不鮮明なのでここでは描画を示しておく。船名は、右の描画の大きな船の船首側の底の小さな柄付碑銘板tabulae ansataeの中に「EVROPA」と書かれている。中央の柄付碑銘板の中は空白。

 裏庭は菜園や果樹園として多目的で使用されていた。

 「果樹園の家」(I.9.5-7)は1913年と1951年に部分的に発掘され、とりわけ部屋番号11の華麗豪華なフレスコ画で著名である。落書きは、12のペリスタイルに面した10と11の出入口の間の柱に方形の黒曜石が鏡代わりにはめ込まれた周囲の石膏に書かれていて、4つが解読されている(CIL,IV.10004-7)。下にそのうちの10005を若干猥褻な挿絵ともども掲載する。トイレは15に設置されている。

平面図は上部が東
”FORTVNATA”:挿絵は頭髪で女性に見えないけど、かなあ
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ポンペイ構内博物館新装開店:遅報(76)

 2021/1/27発信(https://www.afpbb.com/articles/-/3328580?pno=0&pid=23014190)によると、「古事物収蔵館」Antiquarium の内容を一新しての再開となったようだ。場所は、ポンペイ・スカーヴィ駅からの遺跡入り口のマリーナ門の右上テラス。たしかトンネルの途中に入口があったので、見落とさないで見学すべし。ま、遺跡に入る前に見るか、歩き回って疲労困憊の挙げ句に見るか、それぞれの体力と許容時間との相談になるだろうが。

上記写真の右上の建物がその地上階で、地下もある

 A.Maiuriによるとそれは1861年に創設されていたが、20世紀末に私が訪れだしたころはずっと閉鎖されていて(世界大戦の爆撃とか、地震とかでの破壊なんかもあったらしい)、研究者見学さえ許されなかったようで、「まだ見せてもらってないが、なんとか見学したいものだ、いずれコネ作って見せてもらうつもりだ」と当時古代学協会で発掘日誌解読に従事していた故・岩井経男氏(当時、弘前大学教授)が話していたのを聞いた覚えがある。それが21世紀の10年代のある夏の訪問時にトンネルを登っていて、あれっ、この入口はなんなんだと。2016年のことだったのだろうか(http://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R8/8%2001%2004.htm)。その時はなんだかミュージアム・グッズ売り場に毛の生えたような狭苦しい展示で、あまり感激しなかった記憶がある。それが充実して一新されたらしい。ならば行かねばなるまいて。

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新幹線運転手の便意対策:トイレ噺(30)

https://mainichi.jp/articles/20210613/k00/00m/040/079000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20210614

 考えてみると、どんなに節制したところで所詮運転手も人の子、たまには体調不良で漏らしたくもなるだろう。そのため列車を緊急停止したくないとなると、運転室に簡易便器を持ち込んでおくしかない、ような気がする。

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イギリス出土の拘束具付き骸骨をめぐって

 2021/6/4研究雑誌Britannia情報:

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/06/unique-burial-thought-to-be-rare-direct.html;an-unusual-roman-fettered-burial-from-great-casterton-rutland.pdf

 イギリスのラトランドRutland州グレート・キャスタートンGreat Castertonで、2015年に民家の改築工事中に骸骨が発見され、放射性炭素年代測定の結果、遺骨は男性で、後226年から427年と判明したが、この遺体の両足首には鉄製の足かせが付けられていたので、俄然研究者の注目を浴び、MOLA(Museum of London Archaeology)の詳細な調査が行われてきた。

イギリスとフランスでの奴隷用足枷出土地点と、グレート・キャスタートン
発掘地点と、発掘状況(頭部はない)
件の遺骨と足枷

 この男性は遺骨に残されていた痕跡から生前苛酷な労働に従事していたこと、またほんの60m先にローマ時代の墓地があったにもかかわらず、その外のしかも溝に斜めに埋葬されていた。

 古代ローマ時代の鉄製の足枷は数多く発掘されていて、当時の奴隷の拘束具だったと考えられているが、遺骨に装着されての出土はイギリスでは今回のものが初めてではとはMOLAの研究者の見立て。

はレントゲン写真で鍵の部分が詳細に見えてる感じで興味深い
たぶんこのような鍵構造だったのだろう:A pair of slave shackles linked by a padlock bar, on display in Norwich Castle Museum (image: Murdilka)

 とはいうものの、イタリアと違いさすがイギリスの研究者、なかなか慎重で、こういった拘束具付きでの埋葬は、奴隷に限らず死者を侮蔑したり、死後の霊魂を縛る目的でのものもあるので、一概に奴隷とは考えられないとの見解も示している(が、結論的には奴隷だったとにおわしているが)。それにDNA鑑定で、意外と遠隔地からの訪問者も確認された。北アフリカや中近東出身者である。

 この情報に接して思い出すのは、京都の古代学協会によるポンペイのいわゆる「カプア門」付近の発掘調査の最終段階の2002年に、北側城壁から約20m外側で、火砕流で流されてきた男性遺骨二体が、地表下7mから発見され(第一報の新聞報道では一人は少女とされていた)、男性は身長170cmで(もう一体は150cm)、彼の足首にやはり鉄製の足枷が付けられていたので、おそらくウェスウィオス山の裾野の農業ウィッラで労働・拘束されていた農業奴隷だったのだろうと結論された事例である(https://www.kodaigaku.org/study/study.html)。この発見はそれまで獣骨やゴミ出土ばかりだったので、「最後の最後に人骨が」と古代学協会の皆さん大変喜んでいたのを懐かしく思い出す。それにしても、もう20年も昔になるのか・・・

【補足】2020/6/12の報道によると、フランスのサントSaintesの円形闘技場は18000人収容できる現在フランスに残る最大のものであるが、その西250mの建築現場から後1-2世紀の墓地が発掘された。

サントと、円形闘技場の位置
サント円形闘技場の現況と想像図

 そして、約300の墓地の中から鎖で繫がれたままの大人四人、子供一人の骸骨が出土した。大人の三人は足首を鉄の鎖で縛られ、四人目は首に首輪も、子供は手首に鎖が付けられ、溝の中に互い違いに埋葬されていた。それで彼らは奴隷身分で、この墓地は、おそらく闘技場で処刑された人々の墓地だったのかもと想定されている。

、拡大頭部の首輪;、同じ人物の足枷にも注目

 だが、2005年にはイギリスのヨークで、大腿骨に野獣に噛まれた跡のあるのがDriffield Terraceで出土していた由で、それは野獣刑で犠牲になった者と想定されているし、同時に両足首に足枷嵌められた遺骸も出土しているようで(しかも頭部が切断されているのがここの特色とか)、そうなるとグレート・キャスタートンのものが最初という言説は成り立たないような気がするがどうだろう(https://www.theguardian.com/science/2010/jun/07/york-gladiator-graveyard;https://static1.squarespace.com/static/5c62d8bb809d8e27588adcc0/t/5d0779edfb33ed00011bbe70/1560771061518/Driffield-Terrace.pdf)。

、ヨーク西南の墓地地帯の地図、川向こうの北東隅に軍団駐屯地;、野獣の咬み跡
件の遺骸と、両足首の足枷

 しかもである。ブリテン島には、Isca Augusta(Caerleon)、Deva(Chester)、そしてEboracum(York)にローマ軍団が常駐していた歴史があり(Viroconium(Wroxeter)にも一時:今は補助軍には触れない)、上記2箇所には当然のように円形闘技場遺跡が確認されるにもかかわらず(ブリタンニア全体では都合15)、ヨークだけは未だその場所が不明とされ、現地ではその発見が話題となっていて、古代ローマ史ハンターたちの格好の調査対象となっている由。現在のヨーク大学構内の地下駐車場の下ではとか、セント・メアリーズ修道院構内地下じゃなかろうかとか・・・。

、軍団駐留地;、円形闘技場遺跡

 と、まあこのようにこの分野の研究はそれなりのエビデンス(えー、わざと使ってます)の蓄積あるので、研究対象になり得るとは、若いの誰かやらんかいという、老爺のお節介です。

 ただ、コンスタンティヌス大帝がご当地軍団によって皇帝歓呼されたと想定されているのは現在のミンスター教会で、そこはかつての軍団駐屯地だったから納得できても、円形闘技場の候補地に想定されているセント・メアリーズ修道院もヨーク大学もその区画、ということは、今般の遺骸出土地とはウーズ川を挟んで1.5km離れていることになり、この距離はちょっとありすぎのような気がしてならない。むしろ、墓地に近い川の南側に想定すべきではと愚考したくなるのである。

、中央から右側がDriffield Terrace
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ローマ時代の磔刑についての新説

 2021/6/2付でのBiblical Archaeology Societyから送られて来た情報「Roman Crucifixion Methods Reveal the History of Crucifixion」が興味深い。読者のコメントもすでに69に及んでいる。要するに1985年に提出されたローマ時代の磔刑の実際に対する批判に基づく新説で、端的にいうと、以下の図の左から右への変化である。

 私は以前の小稿(「ローマ時代の落書きが語る人間模様」上智大学文学部史学科編『歴史家の散歩道』上智大学出版、2008/3/31、pp.283-300)で、付帯的にではあるが、いわゆる旧説を紹介したことがある。新説のキモは、以前の唯一の出土諸資料(骨、木片、釘)の再検討によって、両手首は釘で打ち付けられてない、諸足首が一本の釘で打ち付けられていない、という点にある。

ひとつだけ付言しておく。よく巡礼たちがエルサレムでイエスの真似事やっていて、via Dolorosaで片々とした十字架を軽々と担いで錬り回していたりしているが、あれはカトリック教会堂内の「十字架の道行き」via crucis なんかの影響での誤ったイメージで、実際は、処刑場には縦棒が常設されているので、死刑囚は横棒だけ両手にくくりつけられて運ばされ、処刑場に着くと横棒ごと縦棒にひっかけ上げ下ろしさられていたらしい(ヴァリエーションは各種あるだろうが)。

 上図は、処刑場についてからのプロセスを描いたものだが、両手首への釘打ちについては旧来の説に依拠しているわけだ。

 詳しくは上記のデータをググれば容易に英語原文に行きつけるので、それをDeepLなどの翻訳ソフトにかければ簡単に邦訳できるから、是非試してほしい。私が最近煩瑣に新情報を掲載できているのもそのお陰である。いちいち辞書ひかなくていいし、それよりなにより翻訳文をちまちまと打ち込まなくていいので、楽である。

 だけど、修業時代の若い人に真似してもらいたくないような気もしているが、労力削減には目のない彼らのことだ、演習などでもう十二分に活用しているに違いない。だったら大量読破でより角度と内容のある卒論・レポートの量産に励んでほしいと私など思ってしまうが、何のための労量軽減かというと彼らの目的はそこにあろうはずもないのだから、実力の低下は目に見えているだろう。ああ。

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呪詛が刻まれた2300年前の壺発掘

 とうとう成果公表にいたらずに終わりそうな私の呪詛板研究であるが、2021/6/1付情報で、アテナイのアゴラ出土の壺が公表された。かつて職人たちが働いていたアテナイのアゴラの商業ビルの床下から、出てきた今から2300年前のその壺には、鉄の釘や貨幣、それにまだ幼いニワトリの頭部と下肢の骨が入っていて、壺の表面には55名以上の名前が刻まれ、鉛板の呪詛板の場合と同様、釘で突き刺された穴も残っていた。

 研究者はそれを、未だ自分を守れないニワトリの無力さを呪いの対象にし、頭部と下肢にあいた穴は55人の呪われた人々に対応する体の部位に同様の影響を与えるべく呪ったのだと説明している。

 いつの世も、呪いたくなる対象がいるのが人生なのである。

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スペイン・メリダからモザイク舗床出土

 私が一度だけ訪問したことのあるメリダMéridaからの2021/5/13情報。ベニート・トレサノBenito Toresano通りでのガス工事中に、紀元3世紀末から4世紀初めの幾何学モチーフのモザイク群が発見された。専門家は古代ローマのヴィッラのものと考え、民家の下にまで伸びていて、自治体はさらに範囲を拡大して調査する予定。

 メリダでは1978年に同じ通りで「猪と犬のモザイク」が、この3月末には4世紀の金庫が発見された、というようにやはり前25年のアウグストゥス時代にローマ都市として機能し始めていたこの町に話題は尽きない。博物館はとりわけ素晴らしかった。私は訪問時の記念として古物商からコイン一つを購入したことを思い出す。

 上述の「猪と犬のモザイク」って、これだろうか。犬が見えないようだが。

【閑話休題】写真で見るとせいぜい数十センチの深さで出てきているから、これまでの建物や地下工事でも実は見つかっていたはずと思う。これは首都ローマも同様の状況である。東京だって江戸末期の遺物は同様で、有り体に言えば文化財調査員に見つからなければ壊してでも工事の納期を護りたいというのが、施主側の本音であろう。

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オスティアに円形闘技場?:Ostia謎めぐり(9)

 オスティア関係でググっていて以下を偶然見つけた。「Ostia at Tulane」(https://ostiaattulane.wordpress.com)。最初はTulaneの正体がわからず、アメリカかどっかのOstiaという別名の町なんだろうと思ってパスしていたが、検索していくうちに、Pinterestがらみでイタリアの我らのOstiaの画像が引っかかりだして、要するにアメリカのルイジアナ州ニューオーリンズにある私立大学で、そこでの2017年度の秋学期の「Roman Ostia」セミナー(Allison Emmerson Assistant Professor指導)の参加学生が調査研究した内容の一部を2017/9-12にかけてウェブ化したものだったこと、が分かってきた。

A.Emmerson女史(2013年にU.of Cincinnatiで博士号取得);右は2020年にOxford UP出版の主著

 なんと学生2名づつのたった3グループでの成果のように表記されているが、その内容たるや完全に愛すべき我が国の学部レベルのレポート水準を越えていて、驚嘆ものなのはどうしたことか。

 今はその詳細な紹介は省いて、私的にもっともビックリした件にだけここで触れておきたい。そこは第5地区のこれまで私の盲点だった場所である。というのは、そこは東西大通りデクマヌス・マキシムスの東端であるローマ門から西に少し歩いた左手(南)の、Google Earthで見ても未発掘の(あるいは、埋め戻された)単なる野っ原にしか見えず、東西大通りからは樹木でその向こう側(南)を見通せないし、これまで足を踏み入れたことがないからである。次回に訪問の機会があれば実際に現地を訪れてつぶさに確かめてみたいと思う。

               ここの空間にあった?

 彼らのレポートによると、このスペースは元々倉庫だったが、オスティアが衰退していく中でスペースが余ってきたのを利用して、そこに円形闘技場が建設されたと。辛うじて北西に楕円の痕跡が残っている由(cf., https://brewminate.com/store-buildings-of-ancient-ostia/)。縮尺によると長径は80mほどの規模だったようだ。またその存在の傍証に、浴場、特にネプチューンの浴場で発見された舗床モザイクに(下記【付言】の12)、円形闘技場の存在を裏付ける証拠も記されている、と。本当にそう言えるのであろうか。舗床モザイクに多く見受けられるのは、円形闘技場に特化した剣闘士競技ではなく、むしろボクシング、レスリング、それに統合格闘技パンクラティオンといった競技なのだが。ただ、場所的には、真正面の北側には先ほど触れたネプチューンの浴場付設の運動場palaestraや関連モザイクも遺存しているし、さらに西に少し歩けばローマ式劇場も設置されている、という土地柄ではある。

 これが本当だとすると、典型的ローマ都市の定番公共施設として、こうしてオスティアに欠けているのは(ないし今現在未発掘なのは)競技場くらいになるわけである。

 これまで私はこの地域では、Southampton大学のSimon Keay教授を発掘責任者としてPortusで2007年から3年間で発掘された円形闘技場しか知らなかったので、Ostiaにもそれがあったという想定はまったくの不意打ちであった。ポルトゥスのそれは後2世紀後半から3世紀前半にかけて、皇帝宮殿の東側ファサードと北側の領域に囲まれた、42m×38mの楕円形の空間だった。遺存する土台部分からすると一見半円形で劇場にみえるが、それは後世になって道路が作られて破壊されてしまったせいだとのこと。ポルトゥスのこの闘技場は、皇帝主催で客人を招いて行われる個人的使用のためのもの、とどこかで読んだ記憶がある。

、円形闘技場発掘地点;、3Dモデル

【付言】上記のネプチューンの浴場に私は積年のつのる思いがある。それは下図の2の部屋がらみのことである。その部屋は現地の説明板にも「トイレlatrine」と表記されているのだが、見学に入れない。私も外から覗ける色々の角度で内部観察を試みてきたのだが、かなり床が掘られているようでもあり、倉庫になっているようでもありで、よく分からないのである。なんとも隔靴掻痒状態なのである。ただこの区画にはまったく反対側の角の14に、明々白々な公共トイレが公開されている。同様なことはポンペイでもあって、VII.5の南端にもともとトイレがあったのだが、現在そこは遺跡内レストランと売店となっている。また、II.711、すなわち円形闘技場の西側に隣接した大運動場の南端にひっそりと大型トイレがあるのだが(下記平面図11)、ここも倉庫となっていて公開されていない。どうもトイレはこのように転用の受難を受けやすいようだ。

、Terme di Nettuno (II,IV,2)の平面図;、Pompeii,VII.5現況
、大運動場南端入口と、壁越しに奥まって位置しているトイレの建物
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日経「私の履歴書」:トイレ噺(29)

 言わずとしれた日経文化欄。今月の執筆者はTOTO元会長・木瀬輝雄氏。第一回は「人を思うトイレ 「不自由なく使える」目標に:現場に近い人から多くを学ぶ」。但し、有料記事。ま、偶然だが彼は私と同い年の1947生まれのようだ。

 内容的には現在まだ幼少期だが(私も貧しかった時代を共感できる)、この後の展開に注目したい。

【追記】6/15でいよいよ「ウオシュレット」が話題に。

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ローマ帝国辺境からトランペット?出土

 私はローマのコンスタンティヌスのアーチ(凱旋)門の図像を扱ったときに、若干ながらローマ軍の軍用楽器に触れる機会があった(http://www.koji007.tokyo/wp-content/uploads/2018/11/312年コ帝図版補遺決定稿.pdf)。今回、それと関係ある新発掘情報が眼にとまったので、紹介したい(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/05/french-archaeologists-discover-rare.html)。

                            Bagacum

 今年の4月のこと、なんと発掘場所は現在ベルギーとの国境に接したフランス北部のノール県の主都バヴェBavayで、ここはかつてガリア・ベルギカ属州のBagacumで、もともとこの周辺に住んでいたNervii族の主邑で、交通の要衝であった。アウグストゥス時代にローマ都市になり(前16-前13年ごろ)、フランス随一の広さを誇る広場forum(約2.5ヘクタール)も建設され、都市を守るための頑丈な城壁や要塞も残っている(高さ8m)。

 その広場に見学用の通路を建設工事中に、曰くありげな3つの石灰岩の石板がみつかった。その下から出てきたのは、不思議な奉納物だった。出てきた物は数本の金属棒で、考古学者はそれらを後3-4世紀に作成されたガロ・ローマ時代の解体されたトランペットで、マウスピースからベルまで揃った、組み合わせると全長約2.7mの保存状態も完璧なものと判断した。前例としては19世紀に発見された2つの標本しかないが、ただ、これまでは長さ1.8m程度で、それに比べるとかなり長く(今回のが完品だったせいかも、と)、そしてなぜこんな形でその場所に奉納されているのか、その理由はまだ不明とされている。層位学的にもこの広場が放棄される直前の仕業で、鎖帷子、武器、馬具、兵舎などの軍事的な出土品も次々発見されていて、あるいは軍の駐屯地となっていた可能性もあるらしい。

、ケルトのホルン;
、ローマの軍楽器;、トラヤヌス円柱上のtuba

 私の勝手な推測だが、出土地が北辺であり、純粋なローマ式武具としてのトランペット(より正確にはtuba)というよりは、ひょっとすると、ケルトないし土着ガリア的な(その影響を受けた)儀式用の物だったのでは、と密かに想像している。完品ゆえという説明は、私の知っているローマの直管式ラッパの図像からは、人間の身長をはるかに超えていて、納得できないからである。

【参考図版】Trajanusの大浮彫(Cf., Anne-Marie Leander Touati, The Great Trajanic Friese, Stockholm, 1987, Pl.55:Drawings by Mirs Marika Leander)

人物44のラッパは浮彫切り取りで別々になった:いわゆるspoliaで、現コンスタンティヌスのアーチ門の東側屋階に張られているレリーフ:中央から右へtubaが長く延びている。背後にcornuが続く

こんなモザイク画もあったことを、思い出した。

アルジェリア出土の舗床モザイク(Jamahiriya Museum所蔵):一日の見世物の出番を順に描いて、いよいよ真打ちの剣闘士競技開催を告げる楽団:tubaの右は水オルガン
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