投稿者: k.toyota

大文字の歴史・小文字の歴史

 2021/5/22の毎日新聞の有料記事で五輪関係にアクセスしたら、別の記事が目にとまった。それが「文春砲にあって新聞にないもの:文春編集局長×スクープ/上」(https://mainichi.jp/articles/20210520/k00/00m/040/195000c?cx_fm=mailhiru&cx_ml=article&cx_mdate=20210522)。そのインタビュー記事の中に週刊文春編集長の以下の言葉があった。「私たちの仕事って、人間の営みを、過ちも含めて記録していくことではないでしょうか。・・・ ゴシップを楽しむのも一つの文化だと思います。大文字の歴史があれば小文字の歴史もあるわけです」「大事なのは片方に片寄らないこと」「共通するのは人間へのあくなき興味です」。

 我が意を得たり、の感あり。

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【閲覧注意(^^)】そうだ「娼年倶楽部」でどうだっ!:Ostia謎めぐり(8)

 以前チャンネル回していて、後半だけみた「娼年」(2018年)ではそうも考えなかったが、今朝深夜に番組表の503チャンネルで「ザ・娼年倶楽部」が眼にとまった。このチャンネルは契約していないので映像を見たわけでないが、題名でひらめいた。

 Ostiaの「トリナクリアの浴場」Terme della Trinacria(III.xvi.7)も、聖所あり、地下水くみ上げ構造あり、一見パン窯風構造ありと、なかなか興味深い浴場なのであるが、とりあえず私が関心を持っているモザイクが二つある。ちなみにトリナクリアとは三角形のことで、その形状から三つの岬を持つシケリア(シチリア)の別称となっている。

、「トリナクリアの浴場」平面図;、シチリア州旗中心部分。蛇のメドゥーサでなく麦の穂になっているのがミソ

 その一つが、上記平面図での番号7の南壁際のベンチ前に埋め込まれたラテン語の白黒モザイクである。最後の一字の空間が手狭で「M」が無理矢理小さく書かれているのもご愛敬だが、頭の「S」の前に空間があるのだから、最初にちゃんと按配すればいいものを、と思わずにはおれない。手抜きの奴隷仕事だからか、今のイタリアにも連綿と通じるやっ付け仕事の民族性なのか、こんな仕事ぶりは他にも墓石碑文や顕彰碑文でもよく見かけるので、決して例外ではない(よもや、図案的なアクセント、ってことはないよね)。

部屋(7)の南から(5)方向を見る:右下の影部分に銘文モザイクの一部が見える
「STATIO CVNNVLINGIORVM」と読み取れる

 さて「statio」とは普通には宿駅のことだが、ここでは同じオスティア遺跡内にある「協同組合広場」Piazzale delle Corporazioni (II.VII.4)のそれとの連想で「事務所」とでもするしかない、そして「cunnulingiorum」はなんとも難物で、このラテン語、男性属格複数形なので、ご存知のように女性器をなめ回す男どものこととなるが、どう邦訳すれば品格あふれる私の論考にふさわしいかとなると、これまで思案投げ首だったのだ。ご多分に漏れず表看板だけにせよ、ここにはご婦人方に奉仕する若くてハンサムな男性奴隷たちがいて、お客様のお好みのままですよ、というわけ。世に「ボーイズ・クラブ」なるものが存在していることも今回初めて知ったほどの世情に疎い私であるが、続編「逝年」(せいねん,と読ませるので「少年」から「青年」への語呂合わせか)では文字的イメージでなんだか夢がないし(青年を通り過ぎて私世代みたいな)、このブログを読んだ後輩が「娼年」ではなく「娼夫」ではないかという意見も寄せてくれたが、看板的にはやはり若いほうがいいはずなので、やっぱり「娼年」でいこう!、というわけ。読者の皆さんでもっといいネーミングありましたら、教えて下さい。

 なおもうひとつは、部屋番号「8:tepidarium」に辛うじて残っているアスリート・モザイクであるが、それについてはいずれまた。

上記は一昔前の写真のもので、現在の保存状況はもっと悪い

 以下は参考事例としてのPompeiiの「郊外浴場」Terme Suburbane(VII.16.a)平面図(だいたいが地階[=日本での一階]だが、Dから階段登って上階となる)、とその脱衣所apodyterium (7)、そしてそのフレスコ画部分図。ここは最近は通常見学ができたりできなかったりの感じだが(私は最初見学許可を得て入った:その後、修学旅行風のイタリア人男女高校生一団がどやどや入って来てギャアギャア騒いでいた場面に遭遇したことがあって、さすがイタリア、18禁はないのだと)、その一階(日本での二階)には、娼館が付属していて専用トイレ(14:女神Fortunaの絵もある)もあって、こっちは許可を得ないと見学できない。私はトイレだけ一度見学したことがあるのだが、監視員が融通効かない中年女性だったせいか(すみません)、娼館のほうは見せてくれなかった(いや申請書には見学先を「トイレ」としか書いてなかったので、当たり前なんだけど。現場に行ったらそっちもちょっと見えて、しまったと・・・(^^ゞ)。

、平面図;、(7) 脱衣所全景:正面と右側に件のフレスコ画。件の画材はもっぱら右壁に残っている。当時は木製の棚があり、壁には釘跡も発見されている由
、主が女・奉仕者が男(III);、主が男・奉仕者が女(II)
これは、髪の形から一説では女性同士と考えられている(IIII)

 古代の著述家たちががどう書き残しておろうが、現代の研究者が上品ぶってなんと言い繕おうが、古代ローマ時代において、たぶん能動者も受動者も、娼館といわず自宅においても、相手が奴隷であろうが妻であろうが夫であろうが、何憚ることなくこの快楽と痴態に身を委ねていた、と私は想像する。ちなみに、オスティア銘文では奉仕者が男性形なので、享受側を女性と一応みなしたが、実際にはもちろん享受者が男性の場合もあるだろうし、奉仕者が女性の場合だってあったはず、と私はにらんでいる。

【閑話休題】参加者の大部分が私より年上で、女性のほうが多いある読書会で、なんかのついでに「私はホスト・クラブなんかに行ったことないので、行かれたことのある女性のご意見など承れれば」とつい口走ったことある。すぐさま女性陣から「ホスト通いするのは、男相手の水商売している女性がその屈辱感を逆に晴らすため鬱憤晴らしで行くところです!」と、きつく反論されたことがあった。ま、70歳過ぎてもこんなことも私は知らない野暮天でして、すみません。またまた普通の社会人に教えられました。

【追記】我が家に孫娘が来たら滞在する彼女専用の部屋に置いてあったトイレ関係を入れていた段ボールがあふれかえって壊れたので別のに入れ替えをしたら、下の方から2冊欧文著作が発掘された。Luciana Jacobelli, Le pitture erotiche delle Terme Suburbane di Pompei, L’Erma, 1995;Garrett G.Fagan, Bathing in Public in the Roman World, The University of Michigan Press, 1999, paperback 2002. こんな感じで研究書がどこかにかなり埋もれているはずなので、時々掃除するのはいいことだ。実はもとの所属大学に寄贈した雑誌のJRA,15が未だ行方不明。さて生きてる内に探し出せることやら。

【関連ブログ:2022/10/8をご参照下さい】

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コンスタンティヌスの青銅巨像の人差し指再発見!

 2021年4月29日にローマ・カピトリーニ博物館は、以下の発表を行った。その博物館のマルクス・アウレリウス騎馬像本体が保存されているエクセドラに展示されているコンスタンティヌス大帝の青銅巨像諸部分の(頭部、左手、右足首、球体グローブglobus;なお勘違いでなければ、この巨像、以前は息子コンスタンティウス二世とされていたという記憶がある。30年前に私が最初に訪問したときの表示もそうなっていて、別所での展示だった)、左手人差し指の第2関節からの末端断片が、フランス・ルーヴル博物館所蔵品の中から再発見され、まず3Dの模型を作成して確認され、このたび本体が5年間カピトリーニ博物館にお里帰り展示され、実に500年振りの邂逅となった、と。https://www.facebook.com/MuseiCapitolini/videos/462373691692375

上図が左人差し指断片、下図左が従来の展示(右足首は写ってない)、下図右が修復後の姿

 この青銅像はもともと高さ8−9mあったとされ(一説では12mとも:実際に立像であったか座像であったかは不明)、ルーヴル所蔵の長さ38cmの断片を3Dで複製したものが、その左手の人差し指にピタリと符合したわけ。この青銅像自体の由来や、人差し指のルーヴル所蔵の由来には興味深い文書記録もあって、機会があれば触れてみたいが(残存左手に、球体グローブが握られていた)、今は今回の発端となったのが、2018年のルーヴルでの展示会カタログでの、博士課程の院生Aurelia Azemの研究報告(これまで足の指と認識されていたが、手の指の可能性を指摘)が機縁となったということだけ言及しておきたい(https://www.researchgate.net/publication/341281663)。

2005年以前の修復時に一時的に旧態に戻した時の写真:globus上に女神Victoria像があったはずで、中央左側の2つの穴がその痕跡か。その穴は本来は上部のはずだが現況で針状付属物があるのでずらして撮影したのだろう

 イタリアにありがちなロマン溢れる解説を排して、冷静かつ慎重な見解によると、残存物が元来一体の青銅像を構成していたかどうかはこれまでも疑問視されてきたのだが、いずれにせよこの巨像、色々と後世の修復も受けているので、オリジナルがどうであったのかは、形状の比較や青銅の成分比較など緻密な研究が必要となり、そう簡単ではない。その点では今後の研究に期待せざるをないが、下から見上げられることを予想して作成されている由で(ま、これもひとつの仮説かも)、というからにはそういう角度からの映像も示した上での説明を求めたい気がする。

 プッリャ州中部のBarlettaのドゥオーモ外壁に設置されている青銅製巨像(こっちについては冷静に4世紀のどの皇帝かは不明、とされている:12世紀だっけにコンスタンティノポリスからのヴェネツィア船が難破しての取得品らしい)は5.11mでこの偉容なので、今回のコンスタンティヌスの青銅製巨像はその二倍近くあり(基壇の高さも8−9mあったと想定)、さらに迫力あったと思われる。ま、それにしたところでコロッセオに隣接して設置されていたネロ帝巨像の三分の二にも及ばないのであるが。

【補遺】2023/9/16-12/10に東京の東京都美術館で開催中の「永遠の都ローマ展」で、エウルのローマ文明博物館所蔵の「コンスタンティヌス帝の巨像の左手」のコピーが展示されていたが、そこでは既にこの人指し指も復元されていたので、おやおやイタリアにしては周到なこと、と。展示会では写真が撮れなかったが、カタログだと小指方向から撮っていて人指し指を確認できないのが残念。

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読まれている我がブログ上位リスト

 退職して一段落したころの2017年後半に始めたこのブログは、まあ私の研究の落ち穂拾いのつもりだった。そのうち、自らの老化の記録とか、世に知らしめたいニュースなども書くようになり、以来もうすぐ4年となる。

 先日、ブログをアップしているサイト統計情報でたまたまこれまでのアクセス数が開示されているのに気づいたので、上位十四位までを転載。

 ローマ史関係よりも、他が読まれていてあれれ状態(ホームページ関係の2つは、この人何者?というアクセスなんだろうか)。特に宮内君はコンスタントで、再放送があるととたんに増加して、2021/2/8にはなんと1573に達し、このところ一日の総数がせいぜい40〜50なのでさすがに驚いた。

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ラルゴ・トッレ・アルジェンティーナ広場、来年公園化

 ローマのヴィクトリオ・エマニエル2世通りに面した、ユリウス・カエサル暗殺場所に隣接の、共和政代の4つの神殿が地下に保存されている聖域「Area Sacra」を観光客向けに一般公開するための作業が、五月から始まるらしい。資金提供はブルガリで約100万€を寄附した。ここは猫の楽園となって久しいのだが、彼らはどうなるのだろうか。

上が北:巨大トイレは遺跡の左隅を南北に設置されている

 この遺跡は、ムッソリーニによる1926年の都市計画プロジェクトで発見された。かなり雑な発掘だったので、年代決定等に支障をきたしたらしい。私はオスティアへの途中にあるモンテ・マルティーニ博物館(国立ローマ博物館の分館)で,そこ出土の女神フォルトゥーナの巨大な頭部や手足と不意打ちに遭遇しビックリしたことがある。これは下図右のBの円形神殿に安置されていた。

、ここには頭部と右手だけ見えるが左足首もある。もとの立像は8mあった由;上の「4」が当面の巨大トイレだが、左方向のそれはポンペイウスのポルティコに属していたトイレとか

 トイレ研究者としては、カンポ・デイ・フィオーリ寄り、四神殿の裏側の北半分に、ポンペイウスのポルティコとの間に作られた巨大公共トイレを見ることできるので、大注目なのだが、さて公園化されたとき、それを当時の地面に立って見学できるかどうか。もちろん見れるようになっていてほしいが、まあ無理か。

、便座や背後の壁は失われているが、足元の溝は残っている;、ちょっと大袈裟な復元想像図:この向きだとこのトイレもポルティコに所属していたような・・・

【予告】この近くにもうひとつ面白いトイレが残っている。それが「クリプタ・バルビ」だ。それについてはいずれ「トイレ噺」のほうで。

西端のポンペイウス劇場、ポルティコ、4神殿の区画のやや北東が「Cripta Balbi」
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季節の果物、タロッコ・オレンジぃ〜

 早いものでもう20年以上も前になってしまったが、イタリアに一年間滞在すると短期の旅行とはひと味ちがった思い出を持つことができる。

 そのひとつが季節のたべもので、9月下旬だとフンギ・ポルチーニである。当時は大げさではなく直径20cm級のソテーが、一万2千リラだっけで食せて、大感激だった。最近は小ぶりになって最初の感激を思い出すこともできない。ま、香り的には日本の松茸といったところで、食感の歯ごたえがよくて、あれっと何かを思い出したりもする人もいる、ようで (^_^; これも土産用の乾燥品があるが、あれはまあ代用品もいいところで、生食には遠く及ばない。香りも付けているらしいし。

秋になるとメルカートにこれだけ売る店が登場する。食通の方は、虫が入っていないものを選べとおっしゃるが・・・

 実は秋の味覚にもうひとつ、タルトゥーフォ(トリュフ)があるのだが、私のような新参者にはそのかんばせはよくは分からないので、パス。

タルトゥーフォには白と黒がある

 今年ぼんやりとしていて(はい、惚け老人です)、すんでのことで時期を逸するところだったが、昨晩「鶴甁の家族に乾杯」だっけの総集編見ていて、危うく思い出した、通称ブラッド・オレンジ。今日慌ててウェブで注文した。ふぞろいの家庭用5kg、送料込みで¥5600。愛媛から届く。

日本産は表皮が厚めで、色の入り方が少ない気がする

 これは現地イタリアでも3月からせいぜい5月までのもので、シシリー原産。私は吸血鬼ではないのでブラッドという名称は嫌いで、タロッコと呼んでいる(もっと色の濃い品種はモロというらしいが、日本ではみかけない)。初めて生食した時の感激は忘れられない。当時、普通のオレンジ・ジュース(ズッコ・ダランチャ)も美味しかったが(バールで、冷やしもしていないオレンジを、3コくらい半分に切ってぎゅっと絞って、夏でも氷を入れずに、出てきていた)、タロッコは独特の甘さがクセになります。私だったら、冷蔵庫に入れて年中出すようにするのだけどなあ、と思ったことだ。還元ジュースはあるけど、あれはぜんぜんまがい物。生の面影などまったくない。

 そうそう、思い出した。二度目のローマ長期滞在中に日本から研究仲間では名の知れた先輩の古代ローマ史研究者が来られたので(但し,イギリス滞在経験者)、我らがコンドミニオに泊まってもらい、珍しいだろうと思って「シシリア産のオレンジです」と言って1つ差し上げた。翌朝「どうでしたか」と聞いたら、答えはなんと「腐っていたので捨てました」と。場合によっては一面にではなく普通のオレンジに部分的に赤紫がはいっているから腐っていると思ったらしい。不意を突かれ毒気も抜かれて、私は何も言えなかった。絶句であった。

 研究者は机の上で文字ばかり扱っているから、外国の現地の庶民の実生活には疎くても全然平気だ。そんなこと気づきもしない(ちなみに、私は大学院入試での第二外国語のドイツ語で、日常品とかの単語が分からず苦戦した)。それで天下国家を論じている気になるのはなんだか滑稽なことで、こりゃ自戒せねばと思ったことだ。私が坂本先生のエッセイ好きなのは、庶民目線でイタリアを論じているからである。

【追記】4/25に届いた。実際にはこんな調子の色め。

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スペイン出土の木製金庫復元作業

 ポンペイ方面でも類似品が出土しているが、スペイン・メリダのCasa del Mitreoで1994年に、後4世紀の貴重品を入れた木製の「Arca Ferrata」が、保存状態がよくないが、ローマ時代に火災に遭った豪華なvillaから見つかっていた。

 2017年にそれを遺跡からとりだして、正面のみ復元されたらしい。この木製金庫は現況では約3m×1.5mの大きさであるが、二階の崩落により押しつぶされたので元々の大きさは不明の由。

 こういった調度品は、多くの場合、家の所有者が訪問者を迎えた応接室に配置されていた。盗難を避けるために、鉄の釘を使って壁や地面に貼り付けていた。それらはしばしば加工された金属で華やかに装飾されていた。

出土状況
取り出し作業中
:
多分こんな感じだったはず:Zaragoza博物館所蔵のTarazona出土のArca ferrata(そこには4例ある由)

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/04/remains-of-wooden-safe-excavated-from.html

【参考事例】以下は、Torre Annunziataにあるオプロンティスの、Lucius Crassius TertiusのVilla B出土のStrongbox。この遺跡は1974年の中学校体育館建設中に偶然発見された。そこには前2世紀創建商業取引の建物があって、海にも接していたらしい。ちなみに発掘した時、一説ではすでに中は空だった由。避難するとき家人が持ち出したのだろうか(別説では200点以上のコイン、金銀の宝飾品が入っていた)。発見場所は列柱廊peristyleであるが、それはないので、おそらく上階から落下したものと考えられている。

https://exhibitions.kelsey.lsa.umich.edu/oplontis-leisure-and-luxury/strongbox.php

追加情報:A.Angela,I tre giorni di Pompei, Milano, 2014の口絵で以下の画像を見つけた。エルコラーノ発見と表記されているので、上記のコインとは別かも知れないが、たぶんこんな溶解状況での出土であったのではなかろうか。

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非番のカラビニエリ、ベルギーで盗品を見つける

 2011年11月にローマ郊外のVilla Marini Dettinaの考古遺跡から盗まれた紀元前1世紀の大理石彫像(頭部がないTogatus)を、非番のカラビニエリ(原意は騎兵隊、現在は武装警察隊としてテロ対策や対マフィア取り締まりを主務としているが、部署に美術遺産保護部隊もある由)所属で別の仕事でブリュッセルに配属されていた2名がたまたま不審な彫像を骨董街のサブロン地区でみつけ、帰国後に手配データと照合して盗品と判明。10万ユーロ(1千200万円)の価値ありとか。

https://www.classicult.it/tag/villa-marini-dettina/

 現品はすでに2月にイタリアに返還されているが、スペイン人の偽名を使ってのイタリア人による違法取引だったらしい。

 あちらでは手柄を立てた関係者をこのように記念写真的に写すのが通例。

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後79年の火砕流の持続時間は15分

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/03/pompeii-duration-of-pyroclastic.html

 西暦79年のベスビオ火山の噴火中にポンペイを襲った火砕流の持続時間は約15分続いた。住民が吸い込んだ火山灰は致命的であり、窒息を引き起こした。

 バーリ大学地球地球環境科学部がIstituto Nazionaleと共同で実施した「火砕流の持続時間が人間に与える影響:ベスビオ山のAD79噴火の事例」という研究がこれを明らかにした。
 実際、火砕流は、いわゆる爆発的噴火の最も破壊的な現象である。雪崩に匹敵する、それらは噴煙柱の崩壊によって生成される。結果として生じる高密度の火砕流は、時速数百キロメートルの速度で、高温で、高い粒子濃度で火山の斜面に沿って流れる。

Source: National Institute of Geophysics and Volcanology [March 22, 2021]

【追加】2018/7/16(https://karapaia.com/archives/52262341.html)に、3Dアニメで後79年8月23-25日の二日にわたって埋没した様子を再現したものが掲載されている。https://www.youtube.com/watch?v=dY_3ggKg0Bc

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坂本鉄男「イタリア便り」:遅報(74)

 以前、坂本鉄男先生の「イタリア便り」の件を書いたことがある(2019/7/11)。今年になってお書きになっていないので、ちょっと気になって今回検索したら、うかつにも以下の存在を初めて知って、さっそく「日本の古本屋」で発注し、幸いかろうじてたまたま2冊とも入手できた。

『チャオ!イタリア:イタリア便り』三修社文庫、1986(昭和61)年;『ビバ!イタリア:イタリア便り(2)』三修社文庫、1987年

 『チャオ!』の「はしがき」を読んだら、予測通り当時お書きになっていたサンケイ新聞日曜版に手を加えたもので、日付的には両書で1982年春〜1985年冬、すなわち日本が貿易摩擦で国際的な物議を醸していた時代、イタリアは恒常的インフレに悩んでいたリラの時代である。両方とも叢書的には<異文化を知る一冊>の中のもので、さもありなん。筆者は「日本の常識は世界の非常識」を標榜して、日本的価値観を押しつけることを読者に戒めている。出版時期はそろそろバブルに入ろうかという、第3次中曽根内閣の時期。

 さて、あれから40年、状況は破竹的に変化したが、人間の心情はどれほど変化したであろうか。

 一つだけエピソードを紹介しておきたい。典拠は『チャオ』のp.81-2: 

 言葉は人間が社会生活を営むうえで必要性に迫られて生じた一種の符丁である。このため社会環境の異なる外国の言語に自分の母国語に相当する言葉がないことがよくある。 例えば日本語では、年上か年下によって「兄・弟」「姉・妹」を完全に区別するが、欧米語ではこれを単に「ブラザー」とか「シスター」のような言葉で済ませてしまうことが多い。このため友人に「これは私のシスターです」と紹介されると、われわれ日本人は、その「シスター」なる女性を何気ないような顔でシゲシゲ観察し「いったい、彼の姉なのか、妹なのか」と憶測をたくましくする。 なにしろ日本語には「姉」でも「妹」でもよい言葉は存在しないので、どちらかに分類をしないと落ち着かないわけだ。

 ラテン語の翻訳していると、「兄弟」frater「・姉妹」sororとのみ出てきて、だけど日本語文献だと先回りして「兄」とか「妹」と限定されている事例に直面する。ラテン語を重視するなら漠然と「兄弟」「姉妹」と訳さざるをえないのだが、ここに背景となる彼我の家族関係の違いを感じざるを得ない。我が国は儒教的に長幼の序を重視して長男・長女を他と区別するのだろう。

 その伝で、私は孫ができたときに気付いたのだが、日本語で「孫娘」とはいうが「孫息子」とは言わない。古来「孫」といえば男系を意味していたのだろう、と。さて当たっているだろうか。

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