投稿者: k.toyota

坂本鉄男「イタリア便り」:遅報(74)

 以前、坂本鉄男先生の「イタリア便り」の件を書いたことがある(2019/7/11)。今年になってお書きになっていないので、ちょっと気になって今回検索したら、うかつにも以下の存在を初めて知って、さっそく「日本の古本屋」で発注し、幸いかろうじてたまたま2冊とも入手できた。

『チャオ!イタリア:イタリア便り』三修社文庫、1986(昭和61)年;『ビバ!イタリア:イタリア便り(2)』三修社文庫、1987年

 『チャオ!』の「はしがき」を読んだら、予測通り当時お書きになっていたサンケイ新聞日曜版に手を加えたもので、日付的には両書で1982年春〜1985年冬、すなわち日本が貿易摩擦で国際的な物議を醸していた時代、イタリアは恒常的インフレに悩んでいたリラの時代である。両方とも叢書的には<異文化を知る一冊>の中のもので、さもありなん。筆者は「日本の常識は世界の非常識」を標榜して、日本的価値観を押しつけることを読者に戒めている。出版時期はそろそろバブルに入ろうかという、第3次中曽根内閣の時期。

 さて、あれから40年、状況は破竹的に変化したが、人間の心情はどれほど変化したであろうか。

 一つだけエピソードを紹介しておきたい。典拠は『チャオ』のp.81-2: 

 言葉は人間が社会生活を営むうえで必要性に迫られて生じた一種の符丁である。このため社会環境の異なる外国の言語に自分の母国語に相当する言葉がないことがよくある。 例えば日本語では、年上か年下によって「兄・弟」「姉・妹」を完全に区別するが、欧米語ではこれを単に「ブラザー」とか「シスター」のような言葉で済ませてしまうことが多い。このため友人に「これは私のシスターです」と紹介されると、われわれ日本人は、その「シスター」なる女性を何気ないような顔でシゲシゲ観察し「いったい、彼の姉なのか、妹なのか」と憶測をたくましくする。 なにしろ日本語には「姉」でも「妹」でもよい言葉は存在しないので、どちらかに分類をしないと落ち着かないわけだ。

 ラテン語の翻訳していると、「兄弟」frater「・姉妹」sororとのみ出てきて、だけど日本語文献だと先回りして「兄」とか「妹」と限定されている事例に直面する。ラテン語を重視するなら漠然と「兄弟」「姉妹」と訳さざるをえないのだが、ここに背景となる彼我の家族関係の違いを感じざるを得ない。我が国は儒教的に長幼の序を重視して長男・長女を他と区別するのだろう。

 その伝で、私は孫ができたときに気付いたのだが、日本語で「孫娘」とはいうが「孫息子」とは言わない。古来「孫」といえば男系を意味していたのだろう、と。さて当たっているだろうか。

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新刊紹介:堀賀貴編著『古代ローマ人の危機管理』

 このたび、堀賀貴編著『古代ローマ人の危機管理』九州大学出版会、2021/5/15、¥1800[税別]、がなぜか奥付より一ヶ月以上早く出版されたようで、今日届いた。
 長年一緒にオスティア、ポンペイ、エルコラーノで現地調査してきた仲間の国際シンポジウム開催での成果。
 私はゲラ刷りで読ませていただいたが、編著者が30年間現地調査で培ってきた経験が、従来の一般叙述とはレベルの違う知見をもたらしていることに感心したので、紹介させていただく。一般向けに廉価本となっているのも好感が持てる。
 なお、近々にこれも国際シンポの成果、『古代ローマ人の都市管理』九州大
学出版会、¥1800、も6月か7月には出版されるようなので、あわせて紹介しておこう。

【追記】アマゾン・コム・ジャパンの「古代ローマ史」部門で、未だトップにランキングされている塩野七生女史に伍して,現在堂々の4位にランクされている。世の中見る目のある人はいるということで、そう捨てたものではない、との思いが強い。

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えっ、脱糞フレスコ画?:トイレ噺(27)

 希有な画題のご紹介。帝都ローマの西部、川向こうの旧アウレリア街道に接したローマ最大の公園Villa Doria Pamphilj付近では古くからいくつも古代ローマ時代の墳墓が発見されていた。残念ながら私はまだ見学したことがないが、事前予約で公開されている納骨堂columbariumには、大・小・それにScribonius Menophilusの三箇所あるようで、特に大納骨堂Colombario MaggioreとScribonius Menophilusのそれはそれぞれ500の遺灰壺を収容するニッチからなっている。いずれも共和政末期から初期アウグストゥス時代の建設で、二世紀半ばまで継続して使用されていた。とくに壁画はパラティヌス丘のアウグストゥスやリウィアの家、テヴェレ川沿いのファルネジーナの邸宅のそれと類似した第2期後半から第3期のスタイル、つまり前30−前10年に日付けられている。現在、国立ローマ博物館(パラッツォ・マッシモ)に展示されているのは大納骨堂のもので、そこはすでに1838年に発見され、第8列目まで保存されていたが略奪を受け、拾い集められた彩色装飾は1922年にローマ国立博物館に引き渡され、2008年に未完成のまま公開された(他方、1984年に再発見されたScribonius Menophilusの納骨堂は、現場保存)。その中に貴重な脱糞の絵が紛れ込んでいたわけである。

発掘中の大納骨堂と南西の壁の書き起こし

 パンフィーリといえば、どうしても丸一年過ごしたナヴォーナ広場を思い出してしまう私ではあるが、今はそれを横に置いといて、件の地下墓室である。当時は火葬だったので遺灰を納める骨壺が壁体のニッチ(ないし小アルコソリウム)下に蓋付きで埋め込まれ、それが幾段か横一列に並び、その下に故人の姓名を記す柄付碑銘板tabulae ansataeも周到に描かれていた。実際、赤や黒の顔料で、なぜか二重に書かれたものもあれば(たぶん転売されたのだろう)、そうかと思えば未だまっさらな空欄のままのものもあって、そこを買えばいいようなものであるが、複雑な所有権問題があったことも想起させる(ここの埋葬の大部分は、特定の家族familiaや同業組合collegiumの兆候が見当たらないため、建売分譲販売だったようだ)。なおcolumbariumとは「鳩小屋」の意なのだが、蜂の巣のようにニッチにフタをしたものもあって、命日には故人の好物のワインなど上から注いで死者との供食行事をしたはずなのだが、フタしてしまったらさてどうなるのだろうか。それにしても、博物館では表面のフレスコ画だけが剥ぎ取られ、いささかきれいすぎるほどの修復を経て展示されているので、本来壁体の中に埋め込まれていた骨壺やその中の遺灰はない、平べったく文字通り抜け殻風の、なんとも浮世離れした弛緩した展示なのである。

博物館内での展示状況

 そしてその上下のニッチ間の、白というより象牙色の空間に色々な風景画,動植物、演劇マスクなどが当時流行の筆致で自由闊達に描かれていて、それが見どころのひとつとなっているのだが、その中の一つにナイル河風景よろしく3人の裸体のピグミーの船遊びがある。彼らは例のごとく戯画的に各々大小の男根を露出し、それぞれ竿で一艘の葦舟と思しき船を操っているが、船尾の一人が、大口を開けて迫ってきたカバに向かって撃退すべく、尻を突き出して若干水っぽそうな糞をひっかけているのだが、これがなんと古代ローマ時代に描かれて現在のところ唯一残存の、よってたいへん貴重な脱糞図なのだそうなので、皆様、心して拝観してくださいませ。

フレスコ画の上の段に柄付碑銘板tabulae ansataeが見えるだけでなく、埋葬者の重複記載の跡あり

【参考文献】

 Thomas Froehlich & Silke Haps, Architektur und Dekoration der Columbarien an der Villa Doria Pamphilj, XVIII CIAC:Centra y periferia en el mundo clasico, Merida, 2014, pp.1187-1192(=https://www.academia.edu/18451855/Architektur_und_Dekoration_der_Columbarien_an_der_Villa_Doria_Pamphilj_Rom).

 Dorian Borbonus, Columbarium Tombs and Collective Identity in Augustan Rome, Cambridge UP, 2004.

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水源と水道渠:Ostia謎めぐり(7)

 オスティアは海が近かったにもかかわらず井戸から良質な地下水が容易に得れたので、それが利用されるのが通常であったとされているが(但し、私は実際に飲んで試したわけではない;遺跡内の水道水はたしかに美味しくなかったが、あれの水源はどうなんだろう。駅から遺跡への途中にある水道蛇口nasoneのそれはまずまずだったが、一昨年に行ってみたら壊れていた。自動車がぶつかったて破壊された感じだった)、公衆浴場のような大量消費に対しては、オスティアからまず9km北上してAciliaに至り、そこから東にMalafede方向を越えて8kmのTrigoriaが水源と想定されている(具体的ポイントがどこか私は知らない)。水はそこから水道渠ないし暗渠でAciliaで発見された貯水槽を経由して(それはLido線Acilia駅から下流に400mほど帰った場所。その年の調査期間に滞在したレジデンスのご主人が車で連れて行って下さった。ありがたいことだ。その時の雑談で、現在路上に設置されている垂れ流しのローマ水道の蛇口nasoneは,実はムッソリーニが作ったものだ、と聞いてなるほどと感心したが、それは庶民にありがちな都市伝説だったようで、実際には19世紀末から設置がされていたらしい:https://en.wikipedia.org/wiki/Nasone)、そこから水道渠がオスティエンセ街道に並行して現Borgo di Ostiaにまで伸び、さらに当時の川筋の湾曲に即応して南方向に曲がり(その痕跡は現在の住居や司教館の外壁に残されている:参照、黒田泰介「ボルゴ・ディ・オスティアにおける古代ローマ水道橋遺構の転用による中世都市組織の形成」坂口明・豊田編著『古代ローマの港町:オスティア・アンティカ研究の最前線』勉誠出版、pp.321-299、口絵)、さらにOstia Antica遺跡の正門Porta Romana東のやや高台に設置された貯水槽(標高8mの由)に貯められたあと、都市内に流され、また一部さらに城壁上を走っていたとのこと(cf., https://www.ostia-antica.org/regio5/aqueduct/aqueduct.htm)。貯水槽探索で猛暑の中で黒田氏と茨をかき分けながらさ迷ったこともいい思い出である。

 これをGoogle Earth計測による等高線的に確認してみると、テヴェレ川中流域の標高は6m、ドラゴンチェッロ丘がせいぜい21m、アチリアの貯水槽跡が34m、マラフェデ地区が60m、その東のクリストフォロ・コロンボ通り東の丘が70m以上となった。水源と想定されているTrigoriaあたりは80m級ある場所もある。ついでに触れておくと、ボルゴの北端道路面が5m、遺跡内の貯水槽が5-6m、ウィクトリア広場の噴水・貯水池が3m、スカヴィ通り(昔のDecumanus maximus)が2m(但し、遺跡付近でのテヴェレ川の水面が-1mと表示されているが、それはありえないので、以上の数字には1mほど誤差があるとみるべきかも:堀教授情報では、Google EarthはGPSデータなのでかなりの誤差がある由)。

M.A.Locicero, Liquid footprints:water, urbanism, and sustainability in Roman Ostia, Leiden University dissertation, 2018:The hydrogeological composition of Ostia and the surrounding area. The archaeological site of Ostia is indicated by the dark circle (Mastrorillo et al. 2016, 37, Fig. 2).—テヴェレ川左岸デルタ:水文地質学的設定。a)採石場を埋め戻すための不均一な堆積物HOLOVCENE;b) 砂質、シルト質、粘土質の沖積堆積物 HOLOVCENE;c) 砂浜の堆積物HOLOVCENE;d) 不均一な砕屑性堆積物(砂質シルトと粘土の堆積物が砂利と混ざり合っている)PLEISTOCENE;e) ピエゾメトリック表面(等距離:1m);f) 高塩分地域;g) テヴェレ川とスタグノ運河での海水の上昇;h) オスティア埋め立ての水ポンプ場;i) Ostia Anticaの遺跡
Acilia貯水槽跡:Viale dei Romagnoliと鉄道のリド線で囲まれた高架上に移築され(それがイタリアでの遺跡保存のやりかた)、下をvia OstienseとVia del Mareが通る
Acilia付近の東西状況:左端上隅をテヴェレ河、水源と思しき地域は右の山岳地帯のどこかにある
、R.Meiggs, Roman Ostia, 2.ed., Oxford, 1973, p.112:破線が水道渠;、1517年作成のEufrosino dlla Volpaiaの地図にも、オスティエンセ街道沿いに断続的に残存水道渠が描かれている。
中央右端からの破線が水道渠の経路(現在残っていない):http://books.openedition.org/efr/docannexe/image/3734/img-14.jpg
東方向からボルゴと遺跡入口をみる。水道渠は手前中央のボルゴ区画北端の塔から左に司教館外壁をぐるりと廻って遺跡方向に向かっていた:Google Earthより
がボルゴ北端の塔古写真、が黒田氏による民家と司教館の外壁に組込まれた水道渠復元図
東南方向から遺跡の中央道路を見る:中央付近に遺跡入口、その左下方向に貯水槽遺構:Google Earthより
上記写真の貯水槽部分拡大:その延長部分と道路の交点にPorta Romanaがあった。道路沿い左手前に長方形の大噴水・貯水池の遺構:Google Earthより

 都市オスティアの正門のローマ門Porta Romanaを入ってすぐに、かなり広い空間の女神ウィクトリア広場Piazzale della Vittoriaがある(現在、その広場の左奥に女神ウィクトリアのレプリカ像が設置されているが、本来は城門上に立っていた由で、出土現物は遺跡内博物館所蔵)。そしてこの広場の東側には一見不必要なほど大きなニンフェウム(泉水:長さ23m;前面に貯水池あり)があって、私には長らくなぜこんなに巨大なのだろうと疑問に思ってきていたのだが、今回面白い叙述に出会って、なるほどと腑に落ちたのである。

 が、巨大ニンフェウムと貯水池:その右端奥に女神ウィクトリアのレプリカ像;が、正門のPorta Romana跡

 それは、私などには思いもつかぬ意表を突いた観察から導き出された考察からだった。遺跡の東西中央通りのDecumanus maximusの石畳には多くの車輪の轍が見られるが、劇場より向こう側では見られない。それはオスティアでの物資輸送が、そこから先は陸上輸送において荷馬車ではなく、荷役奴隷や荷駄によって行われたからだというもので、この点は、ポンペイ(北東最高標高のウェスヴィオ門Porta Vesuvioが集積場だった:よってそこに分水施設もある)やローマ(トラヤヌスのメルカート:ここも一番上から下へ荷下ろしされていた)の状況と似た側面がある。この伝から推察するに、広場がそれなりの広さをもっていた理由も、そこが荷物輸送の集積場であると同時に、積み荷の交換場所だったからだったこと、よってそこは多数の荷駄や当時のタクシーにあたる無蓋の軽装馬車が集合する、現在の高速道路のサービス・エリアないしパーキング・エリアに相当し、ニンフフェウムの前の貯水池も馬やラバ・ロバの荷駄獣にとっての水場、ガソリン・スタンドを兼ねていたに違いない。

 こう考えることで、これも私の積年の漠然とした疑問だった、なぜ城門近くにわざわざ浴場(Terme dei Cisiarii:すなわち「御者たちの浴場」II.ii.3)が存在するのか(も少し先に巨大な「ネプチューンの浴場」があるではないか)、も同時に氷解した。無蓋の軽装馬車でローマから到着した乗客や御者がここで埃や汗を洗い流すことができたわけだ。そのつもりでこの浴場の冷浴室frigidarium(下図でのA)の舗床白黒モザイクを読み解いてみるとたいへん興味深い。すなわち、描かれている中心テーマは、無蓋の軽装馬車と御者・乗客、それを牽引するラバなのである(周辺には海に生息する海獣たちと泳者も見えるが)。部屋の真ん中の排水口を囲む城壁と四隅の塔(それをアトランテス、ないしテラモネスが支えている)はおそらくオスティアを意味し、この部屋の壁沿いをぐるりと取り囲んだ城壁には数多くの城門が描かれているので、帝都ローマとも絵解きできるわけである(cf., https://www.ostia-antica.org/regio2/2/2-3.htm)。また、この浴場には2つのバールも付属していたので、一風呂浴びるだけでなく、一息入れて軽食をとることもできる仕組みだった。たぶん御者たちのたまり場だったに違いない。ところで、御者ってやっぱり奴隷・解放奴隷の職種だったのだろうか。

左図:https://www.ostiaantica.beniculturali.it/en/educational-panels/the-area-serving-the-river/terme-dei-cisiarii/

 上図左は二頭立てを御者が乗客2名を乗せ、右は一頭立てで御者が客寄せしている場面だろうか。下の2つには荷駄獣(たぶんラバ)の名前が記載されていて貴重である。左のPudes(はにかみ屋)とPodagrosus(痛風持ち)は並んで水を武者振り飲んでいる様子から、オスティアに到着直後で、御者は足台のはしごから客を下ろしているところだろうか、右のPotiscus(がぶ飲み)とBarosus(腰抜け)は御者に手綱をとられている;ちなみに彼ら4頭はその名前が明記された最古のラバらしい(cf., J.M.C.Toynbee, Beasts and Their Names in the Roman Empire, Papers of the British School at Rome, 16, 1948, 24-37)。

 と、ここまで書くとついでに触れたくなる。この浴場の東に隣接した建物(II.i.1)にはやはりモザイクで犬が描かれていて、犬の名前も「MONNVS」(日本風に言うとポチ?)と埋め込まれている(モザイクは3世紀初頭作)。愛犬の名前として最古かどうかは、残念ながら確かめていないが(周知のように、名付けられた猟犬のモザイク事例は数多い:cf., Toynbee, op.cit.)。

「犬のMonnusの集合住宅」の連続モザイク(https://www.ostia-foundation.org/the-mystery-of-cane-monnus/):左隅下に件の犬で、全体のテーマからは明らかに外れている

【付論1】個人的関心から、ここまで詮索していて妙な関連が明るみに。それは以前扱った「アレクサンデルとヘリックスの居酒屋」(IV.vii.4)のモザイク師(工房)がこの「犬のMONNVSの集合住宅」、および「落雷(封じ)の邸宅」(III.vii.3-4)のモザイク製作者だったとの指摘がある(https://www.ostia-foundation.org/want-to-uncover-the-cane-monnus-mosaic/)。その正否について私はそう判断する根拠を知らないが。

「アレクサンデルとヘリックスの居酒屋」の、エジプト流グロテスクな棒使いダンサー(一人は巨根持ち)と、鏡を持つウェヌスとガードルを捧げるアモルの図:この画題ゆえこの居酒屋は売春宿を兼ねていた(普通は上階の部屋で客をとる)、とも
「落雷(封じ)の家」三世紀半ばの作(https://www.ostia-antica.org/regio3/7/7-3.htm):左が、鏡とウェヌス女神で「BENVS/[・・・]AE」(ウェヌス女神?)の銘文、右はレダと白鳥。その時期、その画題のゆえ売春宿に改築された、とも

【付論2】なお、現地でつい見落としやすいが、この浴場には地下貯水槽からの人力揚水装置が備わっていた。デクマヌス通りに近い区画の赤茶けたトタン下がそれであるので、是非覗いてみてほしい。コマネズミよろしく奴隷が中に入ってくるくる回す木造ホイールの断片がそこから出土しているらしい(どこに保存されているのか私は知らない)。

左、出土した木造人力揚水装置断片;右、その構造図(但し、ミトラス浴場の第1段階図のもの:https://www.ostia-antica.org/regio1/17/17-2.htm):N室のがそれ
写真、中央左寄りのトタン屋根下がそれ;中央写真、ここにホイールが設置されていた;写真、現在でも階段直下まで地下水がきている
人力揚水機にも当然色々ある:左がホイール型、右が左上での腕力型;もちろん平地空間さえあれば、エジプトなんかのように動物を動力にした場合もあるはず。

【追記】我孫子の読書会でこれ関係の発表したら、ヴェネツィアは雨水に依存していたようだがとの例を出しての質問があった。それに対して、私に確たる根拠・確信があったわけではないが、ヴェネツァでも日々の飲料水は本土側から船で運んでいたのでは、とお答えした(緊急状況下では、しょうがなく貯蔵雨水を飲んだかもだが;貯水槽の防水が完璧だったとは思えない上に、今みたいに海水面が上昇したら貯水槽に海水が入るわけだし、ほんとどうしていたのやら)。私は地下貯水槽に備蓄しての雨水って飲料水にならないだろうという認識が強く(正直、如何に濾過していたとしても、そんな生水飲みたくない)、あれだけ水源からの直接取水にこだわっていたローマ人がそれで満足していたとは到底思えないので、家に帰ってちょっと調べてみたら、やはりというべきか、「水売り業者」の存在が出てきた。それが、必ずしも上水に恵まれなかった当時の一部庶民にとって水道渠よりはよほど身近だったかもしれない。というのも、夏の渇水期においては現在でも取水制限が課せられる場合があるように、さしもの水道渠も張り子の虎になる事態を想起すればいいだけのことである。

これらはいずれもIsola SacraのNo.30で出土したテラコッタかと。に「LVCIFER/AQVATARI [us]」、真ん中の柄付碑銘板tabulae ansataeにも「LVCI・・・/N・・・」の文字が読み取れる

 考えてみれば近代的な上水道が整備されるまでは、古今東西に「水売り」が存在していた(し、今だってそうだ、特にローマでは観光客相手にボトルで売っているじゃないか)。空気と水はタダのわが日本でさえも「水屋」「水船」があったではないか(以下、江戸の話ではありますが:https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/kaisetsu3.html;https://www.jdpa.gr.jp/siryou_html/14html/14_essay1.pdf)。置かれていた状況と場合によっての、地下(井戸)水、雨水、上水、湧き水の利用という、その多様性にこそ注目して、これまで巨大水道渠にばかり目が向いてきた都市伝説は修正されるべきだろう。

各地の水売り人:、スペイン(ベラスケス画);、モロッコ;、エジプト
、イスタンブール;、満州一輪車水売り;、江戸の水屋

 反論が予想されるのであらかじめ付け加えておく。現代ではこの水売屋、観光客相手とはいえ、さらには薄めたジュースであるとはいえ。

【補遺】2021/4/19:在イタリアの藤井さんに問い合わせたら、彼女も最近井戸の井桁putealeの浮彫装飾に関心を持っていた由で、大略以下のブログを訳して送ってくれた。感謝。

 結論をいうと、最初は井戸を掘ってそれで水を確保していたらしい。それ
が可能な場所に住んでいた、というわけ。「マラモッコMalamoccoに飲み
水があったからこそ、最初の大規模なラグーン集落が生まれたのです。」

 「リアルト地区でのヴェネツィアの誕生は、雨水を集める貯水槽なしにはあ
り得なかった。」(図版1参照)

 だが人口の増加で公共・民間の井戸の数が増えても、雨水の供給も不足する
ようになる。

 そのうえ、貯水槽は冠水したり、穴があいたりして海水(より正確にはラグーンだから、汽水)が入ると、修理が大変で、だから修理せず放棄されるのが普通だったらしい。

 1318年以来、平底の水船が本土のブレンタ川の河口で新鮮な水を汲み、8バ
ケツ1ペニーで売っていた(1493年の価格)。小売りは「bigolanti」と呼ばれる
女性たちが、湾曲した棒の両端にバケツをぶらさげ肩にかけて、「aqua mo」というかけ声を呼びながら街を歩いたそうだ(図版2参照)。

 人口が増えていくと雨水の貯水槽には、potabile(飲料可)とnon potabile
(飲料不可)があり、16世紀初頭で、前者(100の公共貯水槽と2700の個人貯
水槽)と、1300の後者があった由。

 1884年に本土からの水道橋の開通式がおこなわれ、新時代が到来したわけで
す。

 ということで、私の山勘はそう間違っていなかったようです。掘り抜き井戸、雨水、本土からの輸送、の組み合わせ。
左、図版1:雨水利用井戸の構造;右、図版2:ヴェネツィアの水売り女(左隅に井戸も見える)

 なお、このブログ(Vanzan Marchini, I puteali veneziani. Storia di ieri e ignoranza di oggi – TIMER magazine )は、Elena Vanzan Marchini, Venezia Civiltà Anfibia, Sommacampagna,  CIERRE Edizioni 2009、を参照しているそうなので、探したらまだ入手可能。早速発注しました(例のごとく、本代より郵送料のほうが・・・(^_^;)。

 ところで、私なんかヴェネツィアはそのほとんどが浮き島みたいに思い込んできたが、今回坂本鉄男氏の『ビバ!』を新幹線の中で読んでいたら、以下の箇所が。p.96:「ベネチア本島の石畳の小路を歩いているかぎり、この町が118の小島を400以上の橋でつなぎ合わせたものとは想像がつかない」と。小島だったらそこで井戸は掘ることできるわけだ。となると雨水の件ばかりを強調するのもおかしくなる。これも一種の観光案内的誇張のような気がする。

 また、藤井さんの在所の中部イタリアの「アラートリAlatriでは、つい70年ほど前まで、街の各所にある噴水?から水を汲んで、各家庭に持ち帰っていたそうで、頭に載せて運んだ銅製の両把手付きの水入れが町のシンボルにもなっています。我が屋から最も近いところで歩いて40分のところに、かつての水くみ場の痕跡があります」とのこと。40分! ま、渇水のアフリカの現状よりはましだが。

Alatriの市町村章
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翻訳ソフトの今

  ラテン語一緒に読んでいる若い人から最近、無料の「Google翻訳」なる翻訳ソフトの存在を教えられ、大まかなこと知るためには、こりゃほんとうに便利だとこのところ遊んでいる。デジタル論文が手軽に試訳できて、たしかに超便利。キーボード打たなくても日本語が出てくるので、労力の節約にもなる。ただ、活字本の場合はコピーしてOCRスキャンし、訂正しないといけないので、そう簡単にはいかないだろうし、意味不明の誤訳部分の修正にやはりかなり時間がとられてしまって、これじゃあ最初から訳した方が、などと文句いいながらであるが。

 後輩がこれまでも「ざっと読んでみましたが」などと書いていた理由がやっと分かった気がする。若い人は先刻ご承知で利用しているわけだろう。皆さんおやりなのに、私は相変わらず辞書引き引きタイプ打ってやってたのがバカみたいな気がしないでもない。とはいえ試して見て、さすがにラテン語の邦訳は無理みたい。 それとあれこれやっているうちに、jpgをpdfに変換するソフトなんかもみつけてたが、やっぱりちょっと面倒だ。 

 以下は、ローマ・トイレ関係の本のAmazon.comでの紹介でオランダ語から直接日本語に訳し たもの。ざっと文意をとるためにはほぼ完璧で、びっくり。細かいこと言うと冒頭からちょっと問題かもだが、古代ローマ世界には一定の共通の給水・排水システムがあったわけではなく、状況に合わせて住民がそれぞれ小規模な解決策を色々ためしてみて、それらがだめだったとき初めて大規模で高価な工事を行ったのだ(それが従来、他文明や後世の中世・近世ヨーロッパとの比較で、優れた水道渠や地下排水システムとして喧伝されてきたわけであるが)、という重要な趣旨は十分に伝わるはずだ。ま、第2次世界大戦のドイツ戦車となると映画などでは必ずと言っていいほど「6号戦車」(Tiger:アハトアハト)が出てくるが、確かに最強だったがコスト的に量産できなかったのが現実だったのと似ているのかも知れない。

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Gemma C.M.Jansen, Water in de Romeinse Stad Pompeji-Herculaneum-Ostia,2002(https://www.amazon.co.jp/-/en/Gemma-C-M-Jansen/dp/9042911182

ローマ人は都市の水供給が良いことで知られています。すべての都市で、彼らは優れた給水、衛生設備、排水システムを提供しました。この研究では、イタリアで最も保存状態の良い3つのローマの都市、ポンペイ、ヘルクラネウム、オスティアのこのような施設について説明し、比較します。これは、ロ ーマのシステムがなかったことを示していますが、ローマ人は水問題に対してさまざまな標準ソリューションを持っていて、さまざまな組み合わせで適用していました。都市の住民は、井戸、雨水収集、またはセスプールなどの好ましい小規模施設を調査しました。 これらが効果がなかった場合にのみ、上下水道システムなどの大規模で高価なインフラストラクチャの作業が開始されました。

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 次はイタリア語。Barbara Lepri et Lucia Saguìの論文(Vetri e indicatori di produzione vetraria a Ostia e a Porto,2018)の冒頭、ためしに掲載すると以下のごとし。註番号なんか直さないでそのままにしている。

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 オスティエンセのガラスシーンに関する私たちの知識はまだ非常に不足しています。最新の発掘調査のガラスの発見物が現在ほぼ定期的に公開されているとしても(図1)、それらは体系的な研究ではありません。1唯一の例外は、スイマー浴場の発掘に関する巻に掲載された先駆的な研究によって表されます。 これはそれが作られた年を考えると、特にフラビアン時代から、そして2-3世紀の終わりから、まだオスティアガラスの研究の基礎を表しています。2 アウグスブルク大学のMacellum4ブロックの発掘調査で、ドイツ考古学研究所ロムとローマのアメリカンアカデミーが地域III、IV、Vで実施した37のエッセイで見つかったガラスを、ここ数か月で研究する可能性3(図.2)、ポルトゥスのローマにある英国アカデミーのものでは、皇居のエリア(図3)5、そしてパオラ・ゲルモニ博士の利用可能性のおかげで、オスティアの預金と文書にアクセスするそして彼女の共同研究者6は、まだ多くの調査が残っているとしても、その範囲が次第に広がっている研究に着手するように私たちを刺激しました。

^^^^^^^^^^^

 とはいえ、辞書や文体が一番鍛えられているはずの英語でも、書き手の文体によってぐちゃぐちゃな訳になる場合もあった。たぶん技巧を凝らした文体なのだろう。それ以上に自分的に辞書を鍛えるわけにはいかないようで、これが目下の不満。Senatorが「上院議員」、Emperorが「天皇」と訳されるが、それを私が「元老院議員」「皇帝」と提案してもたぶんダメだろう。その道の人から聞いた所では、翻訳業用の高額な変換ソフトもあるらしいが、とてもリタイア老人には手が出ない。

 ポーランド滞在の林君からは、以下のような指摘が。「Googleのオンライン翻訳は、ポーランドのニュースを知るために私もよく使い ますが、データが蓄積されてないとマイナー言語のオンライン翻訳はきついです。(中略) ポーランド語→日本語は使い物にならないので、ポーランド語 →英語でGoogle翻訳はよく使っていますね。 データが蓄積されているのでネット翻訳でも普通に読めます」。ビッグデータの解析投入で情報を早く正確に取得できるようになってくれることは、残り時間が限られている痴呆直前の私にとってなにはともあれありがたいことに違いない。

【追記】その後、あれこれやっていると、訳されていない脱文が生じている事例に遭遇。それなりに見直しは必定であると認識。

【追記2】イタリアのF女史から、同様の翻訳ソフト「DeepL」を教えてもらった。有料にすると独自の辞書も構築できるという触れ込み。Googleよりはこなれた日本語のように思える。

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古代ローマ男子専用トイレ:Ostia 謎めぐり(6)

 現地調査は休暇の都合で例年真夏となる。私にとってOstia antica遺跡が主要研究対象になって以来、とにかく現場に転がっているオリジナルな宝を求めて歩き回るのを信条に、というのも遺跡に不可欠な考古学や建築・土木の知識も皆無だったので、無手勝流でいくしかなく、「犬も歩けば棒にあたる、豊田が歩けば遺物にあたる」と念じつつ、猛暑の午後も遅くなると半ば朦朧として遺跡内を彷徨するのが常だったが(遺跡内レストランで14時頃の昼食時にいつもビール飲んだりするせいでもあるが (^^ゞ)、さていつごろだったか、たぶん早々と妙な構造物をみつけていた。それが私にとっての、古代ローマ時代の男子専用立ちション・トイレ開眼の瞬間だった。

 場所は、遺跡群の北西端といっていい「ミトラスの浴場」Terme del Mitra(I.xvii.2:その先には旧河口にあった宮殿以外ほとんど未発掘)。ここは1939-40年に発掘され、創建はハドリアヌス時代で、セウェルス朝時代と四世紀第1四半世紀に改造されたことがレンガ積みによって判明している。現況でみると、南北に細長いこの箇所は地上に浴場とキリスト教教会堂の遺跡が相前後して広がり、西外側地下にはミトラエウムがあってミトラス神のもっともらしいレプリカ像が置かれ(本物は遺跡内博物館に展示)、これらすべては通常の見学者でも見ることができる。逆の東側地下は南北の通路となっているが、こっちには許可なしでは入れない。

右写真の中央が東西通路の入り口で、すぐ右にそこから北への通路出入り口が見える
後述のNielsen & Schiøler, Fig.1による現況の地階=一階平面図:中央から左が浴場部分、右が教会部分、それに手前の壁体2列は地下構造と連動して地下では南北の通路となっている;なお、本構造体の西外側の左上のL字型は公共トイレ、その右手地下にミトラエウムが位置する

 しかしなかなか複雑な構造体なので、細かい施設の意味は当時の私には不明だった(後日、その理由が分かった。ここは一階=地階だけを見ている限りダメで、地下と上階を含めて初めて理解できる構造なのだっ)。だがそれだけに私にとって興味深い遺構であることも確かだった。東側の南北の道(ミトラス通り)から南寄りの、西へと建物を横断する通路に入ってすぐ右側に、北に向けての入り口があるが、現在では鉄格子があってそちらに進入はできなくなっている。

 その右壁の床に大理石製とおぼしき奇妙な構造物がある。さてそれが何なのか、排水口でよく見る切れ口の穴があり、屋内での壁際でもあるので、ひょっとしてとの思いは最初からあったが、本当に思い付きのレベルなので口には出せず、これが積年の課題だった。この狭い空間、逆方向も鉄門で閉鎖されていたが、鍵さえ開けてもらえれば進入できる感じだったので、そのころ遅ればせながらようやく見つけたほとんど唯一の先行研究文献(Nielsen,I. & Schiøler,T., The Water System in the Baths of Mithra in Ostia, in:Analecta Romana Instituti Danici, 9, 1980, pp.149-159+plate)を把握した上で、2016年に管理事務所の許可を得て開けてもらった。以下の写真がその時のもの(同時に、堀教授グループのレザー測量も入った)。

左、鉄格子越しに通路の北方向をみる;右、内側から南端部分をみる:右排水口付近に注目

 床に長年の土砂が堆積していたので、それを取り除いてみると、白色のモザイク舗床が微妙に凹になっていて(上掲写真では巧まずして、鉄格子の影でそれとわかる)、しかも南端のトラバーチン製敷居の下部に排水口とおぼしき穴が開いていることも判明。これは思わぬ収穫だった。要するにこの場所が水を使う場所であることの傍証だからだ。なお、見方によれば穴が2つ見える。ひょっとすると右上のそれは、掃除の際に栓を抜くと水が流れ出る仕組みだったのかもしれない(cf., Nielsen & Schiøler, Fig.10:但し、彼らはその左の排水口については無視しているようだ)。

上が実写、下が構造断面図(cf.,Nielsen & Schiøler, Fig.11)

 さて、件の構造物である。材質は大理石か。縁が若干高くなっていての凹面に都合5つの穴が開いている。両脇2つが花片状切れ込み、内側2つが単純な丸型、中心の大きな穴はどうやら破壊された痕跡が認められるので、花片状だったのかもしれない(そこで左右に割れてもいる)。これらの穴で上からの流水を受け止めて、下のたぶんテラコッタ製の箱に流し込んでいたのだろう。この箱状の中の現状は枯れ葉や土砂が詰まっていて、私にはついに未確認のままなのだが、左隅に、溜まった液体を下に導く土管の穴が開いているらしい(以下参照)。Fig.11の断面図への我々の実測を記しておくと、上蓋部分は縦39cm、横185cm、穴の形式は大3と小2が交互に配置されていて、直径はそれぞれ20cm(中央15cmか)と12ー13cm(排水口自体は直径5cm)。深さはスケールを差し込んでの概算で36cm。小の排水口は単純な丸型だが、大のほうは、遺跡でもその気になればよく目撃される花片状の切れ込みが、この場合は6箇所入っている。Ostiaにはそれとちょっと異なった「丸に逆三つ巴」といった意匠の下水の上蓋なども見られる。

左はDomus del Protiro(V.ii.4-5):たぶん墓石の再利用品;右はよくある菱形三切込型(Terme del Faro:IV.ii.1)

 そうこうしているうちに、トイレ関係の色々な文献を目にすることができるようになってきた。イギリスのリタイア医師Barry Hobson氏(残念ながら氏の生年月日はウェブで見つからなかった。ご存知寄りからの提供を待つ:辛うじて以下から写真は得た:https://www.blogger.com/profile/10361942168808542040)、アメリカのAnn Olga Koloski-Ostro女史(1949- )、オランダ人のGemma C.M.Jansen女史(1963-)たちである。こうして私は自分の直感を信じていいことの裏打ちを得た。このように私の場合、まず現場があって、そこで浮かんだド素人の疑問を解決すべく文献調査に向かう、という段取なのであるが、それが実を結んだ希有な例であろう。

Barry Hobbson、    Ann Olga Koloski-Ostro、   Gemma C.M.Jansen

 ところで以下は参考資料。サルディニア島のCagliariの「全国社会保険公社」INPS改築時発見の洗濯工房fullonicaの床モザイク。銘文は「M(arci) Ploti(i) Silisonis f(ilius) Rufus」(マルクス・プロティウス・シリソネの息子ルフス)。おそらく同工房の所有者名と思われるが、fullonicaの必需品の男性用立ちション・トイレを図案化したものと想像。

 さて本筋に帰って、テラコッタ部分の左底の導管の下部はどうなっているのか。

 上記の図、Nielsen & Schiøler, Fig.12は、Fig.1のA-Aでの東西断面図である。左端がトイレとその部分拡大図、そして浴場湯沸・暖房構造、右端が地下のミトレウムである。部分拡大図を見ると、地下通路に導管が伸びていて、そこにはもとアンフォラが置かれていて、尿が集められたと想定されている。そしてそれは地下通路を北のfullonicaに運ばれて使用された。筆者はその構造を現地でつぶさに確認することができた。

地下構造図(九州大学・堀研究室提供):右端下のΓ字区画の2箇所「Full-1,2」表記が洗濯作業場
左、見つけたぞ!導管開口部;右、それにライトを当ててみた

 地下部分は一般的に奴隷の作業場であり、ここのfullonicaも劣悪な作業環境だった(オスティアには地階=一階部分でのfullonicaは別に数軒確認されているので、何を好んでの地下設置だったのか、私には疑問となっている:https://www.ostia-antica.org/dict/topics/fullones/fullones.htm)。しかも私ですら幾度も頭を天井についぶつけたほど、なぜか低く、大の大人よりも子供奴隷がもっぱら投入されていたのかもしれない、とは実感であったし、道路沿いを除いては自然光源も届かず暗闇の世界なのである。

左、こっから入った;右、内部の天井はこんなに低い
左が上図でのFull-1、右がFull-2:作業場は、ここも天井は低くとても狭苦しい:かなりの臭気を発したはずなので、劣悪な作業環境だったと思われる

 こうして、立ちション・トイレがおのずとfullonica研究につながってくるわけである。となると、ポンペイ出土のフレスコ画に触れておきたくなるのも人情というものだが(但し、もう遺された時間がないので、fullonica研究は後進に譲っておこう:とりあえず以下参照、Miko Flohr, The World of the Fullo:Work, Economy, and Society in Roman Italy, Oxford UP, 2013)、私はこれを所蔵場所とされていた国立ナポリ博物館で探していたのだが、偶然まったく予想外の部屋でみつけることができた。これについてだけ紹介する機会を持ちたいが、そこでも子供の作業員が描かれていて示唆的である。

 閑話休題。ところで、この階段下に構築された小空間がトイレだったことは、階段の3段目に換気のための穴が穿たれていることからも明らかかと思われる。そして2017年に、筆者は意を決してこれをよじ登って階段を上がってみた。そうすると、上階の左右になんと貯水槽を確認できた:もちろんそのための地下貯水槽から上階への揚水装置も2段構えで併設されていたわけであるが、今はそれに触れる余裕はない(cf., https://www.ostia-antica.org/regio1/17/17-2.htm)。そこに登って大規模な仕掛けが工夫されていることを、私はようやく実感をもって理解できた次第である。高所揚水の利点は、いうまでもなく重力を利用しての配水の便にある。

左、高台から撮ってみると階段は踊り場を経て更に上に伸びていた;右、下の階段の3段目の下に空気穴が開いていることが確認できる。これは同時に光源にもなっていたはず。

 それにしてもこの階段は途中から上に伸びていてなんとも奇妙な外階段である。しかし歩道に数段分伸びていたとしたら歩行者の邪魔になるし。最初は関係者以外が登れないようになっていて、たぶん利用時に木製の踏み台が設置されたのであろうと思っていたが、同じ通りに面した北側でこれまた奇妙な構造物を見つけてしまったので、この仮説はあっけなく撤回となった。ま、素人の淺知恵でありんした。

北側の階段構造の遺物:中空構造なのである

 要するに、この壊れた遺物はローマ時代の階段の構築方法のひとつを示してくれているわけである。そういえば南のそれにも歩道にわずかだが一段目の踏み台のトラヴァーチンが残っている。この階段構造の類似物はフォロ・ロマーノのアントニヌス・ピウスと妻ファウスティナの神殿の階段でより大規模に目撃できる。

Tempio di Antonino e Faustina:左、復元想像図;右、遺跡ならではの現況で構造丸見え

 さらに、この件で写真を見ていて色々気付くことあった。私には歩道に見えていたものがどうやらそうではないこととか、その「歩道」はこの浴場の北端まで延びておらず途中で途切れていることとか、その「歩道」の下のところどころに穴が開いていることとか。

南から北を見る:「歩道」の下の穴に注目。たぶん光源や空気穴かと

 下の写真のほぼ中央部に件の階段構造遺物。たまにはいつもと逆の視点で見直してみると思いがけない発見をすることもできる。なにごとによらず正面玄関からばかり見ていると実態を見逃しかねないわけだ。いやあ、なかなか難物だが実に興味深い構造体である。

北から南を見る:「歩道」の路肩が途切れている?;そういえば道の対面にはそれはまったくない

【備忘録】もうひとつ、男子専用立ちション・トイレが確認されている中部イタリアのMinturno遺跡について触れる機会を得たいものだ。ここには写真だけ掲載しておくが、例のJansen女史の論文もある。Gemma Jansen, in: a cura di Giovanna Rita Bellini e Henner von Hesberg, Minturnae.Novi contributi alla conoscenza della forma urbi, Edizioni Quasar, Roma, 2015, pp.129-138.

壁に向かって石畳の道路に設置されている。ここでは下部構造は確認されておらず、今となってはなんとも希有な例である(私的には壁の穴も気になっている)

 上階トイレの総まとめや、そうそう、トイレの宝庫、Piazza ArmerinaやVilla Adrianaにも触れなきゃ。さてさて私に残り時間はどれほどあるのやら。学部演習で完訳した以下の内容も紹介したいものだ。B.Hobson, Latrinae et Foricae:Toilets in the Roman World, London, 2009.

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ローマで前6世紀の住居出土:遅報(73)

 2015年に、現在のローマ市の中心部から前6世紀の大きな邸宅が発見された(参照、https://www.digitalaugustanrome.org/:85付近かと)。その場所は、古来Quirinaleの丘と呼ばれている地区で、現在ではテルミニ駅から共和国広場を経て、バルベリーニ広場に弧を描いて至るバルベリーニ通りの北端に位置するPalazzo Canevari(Largo di Santa Susanna, 13)の敷地内で、その改築現場での2010年からの予備発掘によって出土した。この歴史的建造物は、19世紀後半にイタリア王国で3度財務大臣を勤めたQuintino Sellaによって建てられ、地質学研究所の元本部で、現在はCassa Depositi e Prestiti S.p.A.が100%所有するCDP Immobiliare=不動産開発セクターの所有である。2013年に前五世紀の神殿が発見され(幅25m、長さ40mと、当時ローマ最大級:その下から前七世紀の新生児の骨格も出てきた由)、調査は周辺に拡大され、そこで今回の発見に至った。

中央上部の赤印がPalazzo Canevari

 ローマ第6代の王セルウィウス・トゥリウス(紀元前578-535年)による城壁の北西端に位置していたその場所から、なんと、かの王と同時代の前六世紀に属する大きな住居がでてきたのである。保存状態は良好で、家は長方形で(3.5m × 10m)、玄関と柱廊玄関のあるトゥフォ石のブロックで区切られた2つの部屋、壁は粘土で覆われた木で作られ、高さは3m、屋根は瓦で覆われていた可能性がある。ここ10年間でもっとも重要な発見とされているのも無理はない。

左図赤線がセルウィウスの城壁:出土地は上部くびれやや下付近か;右写真、中央に女性が立っている

 この地域は城壁内とはいえ場末であったので、従来ネクロボリス=墓地としての使用が想定され、ローマの住民はフォロ周辺(上記地図ではティヴェレ川蛇行付近以南)に居住しているものとばかり考えられてきたが、今回、居住地が予想以上の広がりを持っていたことが実証されたわけである(考えてみれば、城壁でわざわざ護る必要があったのだから、まあ墓地よりも住民がそれなりにいたはずではある)。その一方で、2013年に発見された前五世紀の神殿との関連でその管理人の住居だったという、時代設定的に若干矛盾したような想定もされているようだ。別の考古学者は、この住居はかの神殿ができるまでの約50〜60年間使用されていた、と考えている。

 イタリアでは、このような発見があると、私有地といえども遺跡保存されなければならない法律があるので、いかなる形になるかは不明だが、遺存されるはず。たとえばナヴォーナ広場北側でドミティアヌスのスタディウムがビルの地下と一階部分の空間を割いて保存されているように(以下の写真参照)。

は時々見学会が開かれている地下遺跡、は現在の通りから見ることできる入場門
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2020年発掘トップ10:遅報(72)

2021/1/1ARCHEOLOGY誌情報:トップ10の中に古代ローマ関係がひとつだけ入っていた。

 このところ、ずっと整備調査中で見ることできないフォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスのアーチ門と元老院会議場の間であるが、そこの地下にローマの礎石といわれている「黒石柱」ラピス・ニゲルLapis Nigerがある。その付近から小さな記念碑が、1899年に考古学者Giacomo Boniによって発見されていたが、その後1世紀以上にわたって忘れられていたものが、今回の調査で「再発見」された。

 カエサルが作った元老院会議場curia Juliaの階段を修復中に、前6世紀の石棺と小さな丸い祭壇を含む地下墓室が出てきた。そこが伝説時代のローマの最初の王ロムルス(前771-717年)の墓ではないかというわけである。私にはその真偽を論ずる資格はない。

左がラピス・ニゲル付近の祭壇復元図;右が再発見の丸祭壇と石棺

 余談になるが、それにしても、上左のラピス・ニゲル隣接の祭壇復元図を見て、かつて1997年夏に訪れたラヴィニウムで見学した「十三祭壇」にそっくりなことに驚かされる(http://www.koji007.tokyo/atelier/bar/)。

現在は第14番目も見つかっている由
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Oplontisの希有なトイレ:トイレ噺(26)

 エルコラーノのトイレ話を書いていたら、思い出して。OplontisのVilla di Poppeaには、意表をついた隠しトイレがあるので紹介しておこう。

中央サロン(下図での24)から両翼に広がる邸宅に向かって、右端の坂を下っていく。

 この別荘、皇帝ネロの愛妾ポッパイア所有と言われているだけあって、鮮やかな色彩の剛胆ともいえる壁面絵画が目を奪うが、正面左にみえる列柱廊の裏側に、共同トイレ(下図左での21;右図だと44:平面図は上記写真とは方向が逆になっていることに注意)があって、そこには下図では右方向から入って行けることが見てとれよう。そしてさらによく目を凝らして見てほしい。馬蹄形をした通常の共同トイレを示す番号(21)に重なって手前に狭く細長い空間があることに(右図では44の下)お気づきだろうか。

右はその拡大図で、トイレは(44)

 上記写真が馬蹄形の普通の流水型共同トイレで、往時は木製の便座があったと思われる。室内に外光は直接入らずほとんど真っ暗。手前右端の構造物は水槽の縁。ところでここに至る通路が右手前にあって、それを逆にトイレ側から写した写真が下図である。そこでは左側に出入りする通路が伸びている。手前左下に見える構造物は水槽の縁。

 問題は、侵入禁止の木製扉が壊れてたてかけてある箇所で、そこを覗いて右向きに撮った写真が以下である。ついでにいうと、ここはさらに真っ暗闇である。

ただ左壁に沿って深い溝が区切られているだけ

 溝の上の壁に便座を設置した痕跡はない。すなわち、男子用の立ちション用便所である。要するにここでは、共同トイレの手前に男子専用の立ちション・トイレが立地している希有な例で、私の知っている数少ない男子専用トイレである。それにしても、両トイレとも閉鎖空間なのでいかに流水型とはいえ、往時においてはかなり強烈に異臭がただよったのではないか。華麗を極めた豪邸のすぐ背後の思わぬ秘め場所である。なぜこんなややこしい場所に作ったのだろう。私には賓客用とは到底思えず、従業員の奴隷や被解放奴隷専用だったと断じたいのだが、どうだろう。ひと言申し添えておくと、この邸宅、今のところ他にトイレ構造は残っていない(完全に発掘されているわけではないが)。

 なお、Pompeii in picturesの中では(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/VF/Villa_055%20Oplontis%20Villa%20of%20Poppea%20p12.htm#_Room_47:_Latrine)、この横長トイレを女性用、馬蹄形のほうを男性用と表記しているが、納得できない。

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エルコラーノのトイレの落書き:トイレ噺(25)

 前ブログで思い出したことが。エルコラーノの「宝石の家」Casa della Gemma(Ins.or.I,n.1)には、小さい個人用トイレがあって(下図17:18は台所)、そこの南側壁に有名な落書きが残っている。ここは事前に見学許可をとる必要がある。

Apollinaris medicus Titi im(peratoris) / Hic cacavit bene=「アポッリナリスは、医者は、ティトゥス皇帝の / ここでよき排便をした」(CIL, IV, 10619)

 ウェスビオス火山の後79年の噴火時(8/24;ないし10/24)、ローマ皇帝はティトゥスであったので(79/6/24-81/9/13)、エルコラーノの埋没までの実にきわどい期間に、この家をティトゥス帝の侍医が訪れたことになる。もっとも「imperator」とは当時ではまだ「最高軍司令官」の意味が強く、第一次ユダヤ戦争でエルサレムを陥落させたティトゥスは、71/8/6以来帝位に就くまでに8年間に実に計15回も最高軍司令官の歓呼を受けているので、父帝生前においてそう呼ばれることがあっても一向に不思議ではないのであるが。

 また、この邸宅の北と東側を占めている大規模(約1800㎡)で眺望絶景なうえに豪華絢爛な邸宅「テレフォス・レリーフの家」Casa del Rilievo di Telefo (Ins.or.I,n.2:下図・写真参照)が、もしウェスパシアヌスが勝利して皇帝になった68-9年の内乱で、彼を支持した元老院議員マルクス・ノニウス・バルブスM.Nonius.Balbus 所有のものだとすると、ひょっとするとそこにティトゥスが滞在した折に(ヘルクラネウムにおいて格式的にも皇族の宿舎に最もふさわしかったはず)、同行していた侍医が隣家に逗留(分宿)したのかもしれない。いずれにせよ、この落書きを記したのがはたして侍医自身だったのか、それとも貴人逗留を記念して家人が書き込んだものなのか、謎であるが。常識的に後者の方がありえるだろうが。

この豪邸から郊外浴場に出ることできるそうなので、M.ノニウス・バルブス所有と想定されている。ちなみにバルブスとは「吃音=どもり」の意
往年の絢爛豪華さを偲ばせる最上階展望台のMable Salon(18)

 段々と、M.Nonius Balbusにも言及したくなるが、それはいずれ。郊外の浴場前の広場の彼の立像と、国立ナポリ博物館のたしか中庭列柱廊の出口近くにあった騎馬像が、今回ようやく結びついた(JuniorとSenior両人がいる)。

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