投稿者: k.toyota

コンスタンティヌスの青銅巨像の人差し指再発見!

 2021年4月29日にローマ・カピトリーニ博物館は、以下の発表を行った。その博物館のマルクス・アウレリウス騎馬像本体が保存されているエクセドラに展示されているコンスタンティヌス大帝の青銅巨像諸部分の(頭部、左手、右足首、球体グローブglobus;なお勘違いでなければ、この巨像、以前は息子コンスタンティウス二世とされていたという記憶がある。30年前に私が最初に訪問したときの表示もそうなっていて、別所での展示だった)、左手人差し指の第2関節からの末端断片が、フランス・ルーヴル博物館所蔵品の中から再発見され、まず3Dの模型を作成して確認され、このたび本体が5年間カピトリーニ博物館にお里帰り展示され、実に500年振りの邂逅となった、と。https://www.facebook.com/MuseiCapitolini/videos/462373691692375

上図が左人差し指断片、下図左が従来の展示(右足首は写ってない)、下図右が修復後の姿

 この青銅像はもともと高さ8−9mあったとされ(一説では12mとも:実際に立像であったか座像であったかは不明)、ルーヴル所蔵の長さ38cmの断片を3Dで複製したものが、その左手の人差し指にピタリと符合したわけ。この青銅像自体の由来や、人差し指のルーヴル所蔵の由来には興味深い文書記録もあって、機会があれば触れてみたいが(残存左手に、球体グローブが握られていた)、今は今回の発端となったのが、2018年のルーヴルでの展示会カタログでの、博士課程の院生Aurelia Azemの研究報告(これまで足の指と認識されていたが、手の指の可能性を指摘)が機縁となったということだけ言及しておきたい(https://www.researchgate.net/publication/341281663)。

2005年以前の修復時に一時的に旧態に戻した時の写真:globus上に女神Victoria像があったはずで、中央左側の2つの穴がその痕跡か。その穴は本来は上部のはずだが現況で針状付属物があるのでずらして撮影したのだろう

 イタリアにありがちなロマン溢れる解説を排して、冷静かつ慎重な見解によると、残存物が元来一体の青銅像を構成していたかどうかはこれまでも疑問視されてきたのだが、いずれにせよこの巨像、色々と後世の修復も受けているので、オリジナルがどうであったのかは、形状の比較や青銅の成分比較など緻密な研究が必要となり、そう簡単ではない。その点では今後の研究に期待せざるをないが、下から見上げられることを予想して作成されている由で(ま、これもひとつの仮説かも)、というからにはそういう角度からの映像も示した上での説明を求めたい気がする。

 プッリャ州中部のBarlettaのドゥオーモ外壁に設置されている青銅製巨像(こっちについては冷静に4世紀のどの皇帝かは不明、とされている:12世紀だっけにコンスタンティノポリスからのヴェネツィア船が難破しての取得品らしい)は5.11mでこの偉容なので、今回のコンスタンティヌスの青銅製巨像はその二倍近くあり(基壇の高さも8−9mあったと想定)、さらに迫力あったと思われる。ま、それにしたところでコロッセオに隣接して設置されていたネロ帝巨像の三分の二にも及ばないのであるが。

【補遺】2023/9/16-12/10に東京の東京都美術館で開催中の「永遠の都ローマ展」で、エウルのローマ文明博物館所蔵の「コンスタンティヌス帝の巨像の左手」のコピーが展示されていたが、そこでは既にこの人指し指も復元されていたので、おやおやイタリアにしては周到なこと、と。展示会では写真が撮れなかったが、カタログだと小指方向から撮っていて人指し指を確認できないのが残念。

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読まれている我がブログ上位リスト

 退職して一段落したころの2017年後半に始めたこのブログは、まあ私の研究の落ち穂拾いのつもりだった。そのうち、自らの老化の記録とか、世に知らしめたいニュースなども書くようになり、以来もうすぐ4年となる。

 先日、ブログをアップしているサイト統計情報でたまたまこれまでのアクセス数が開示されているのに気づいたので、上位十四位までを転載。

 ローマ史関係よりも、他が読まれていてあれれ状態(ホームページ関係の2つは、この人何者?というアクセスなんだろうか)。特に宮内君はコンスタントで、再放送があるととたんに増加して、2021/2/8にはなんと1573に達し、このところ一日の総数がせいぜい40〜50なのでさすがに驚いた。

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ラルゴ・トッレ・アルジェンティーナ広場、来年公園化

 ローマのヴィクトリオ・エマニエル2世通りに面した、ユリウス・カエサル暗殺場所に隣接の、共和政代の4つの神殿が地下に保存されている聖域「Area Sacra」を観光客向けに一般公開するための作業が、五月から始まるらしい。資金提供はブルガリで約100万€を寄附した。ここは猫の楽園となって久しいのだが、彼らはどうなるのだろうか。

上が北:巨大トイレは遺跡の左隅を南北に設置されている

 この遺跡は、ムッソリーニによる1926年の都市計画プロジェクトで発見された。かなり雑な発掘だったので、年代決定等に支障をきたしたらしい。私はオスティアへの途中にあるモンテ・マルティーニ博物館(国立ローマ博物館の分館)で,そこ出土の女神フォルトゥーナの巨大な頭部や手足と不意打ちに遭遇しビックリしたことがある。これは下図右のBの円形神殿に安置されていた。

、ここには頭部と右手だけ見えるが左足首もある。もとの立像は8mあった由;上の「4」が当面の巨大トイレだが、左方向のそれはポンペイウスのポルティコに属していたトイレとか

 トイレ研究者としては、カンポ・デイ・フィオーリ寄り、四神殿の裏側の北半分に、ポンペイウスのポルティコとの間に作られた巨大公共トイレを見ることできるので、大注目なのだが、さて公園化されたとき、それを当時の地面に立って見学できるかどうか。もちろん見れるようになっていてほしいが、まあ無理か。

、便座や背後の壁は失われているが、足元の溝は残っている;、ちょっと大袈裟な復元想像図:この向きだとこのトイレもポルティコに所属していたような・・・

【予告】この近くにもうひとつ面白いトイレが残っている。それが「クリプタ・バルビ」だ。それについてはいずれ「トイレ噺」のほうで。

西端のポンペイウス劇場、ポルティコ、4神殿の区画のやや北東が「Cripta Balbi」
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季節の果物、タロッコ・オレンジぃ〜

 早いものでもう20年以上も前になってしまったが、イタリアに一年間滞在すると短期の旅行とはひと味ちがった思い出を持つことができる。

 そのひとつが季節のたべもので、9月下旬だとフンギ・ポルチーニである。当時は大げさではなく直径20cm級のソテーが、一万2千リラだっけで食せて、大感激だった。最近は小ぶりになって最初の感激を思い出すこともできない。ま、香り的には日本の松茸といったところで、食感の歯ごたえがよくて、あれっと何かを思い出したりもする人もいる、ようで (^_^; これも土産用の乾燥品があるが、あれはまあ代用品もいいところで、生食には遠く及ばない。香りも付けているらしいし。

秋になるとメルカートにこれだけ売る店が登場する。食通の方は、虫が入っていないものを選べとおっしゃるが・・・

 実は秋の味覚にもうひとつ、タルトゥーフォ(トリュフ)があるのだが、私のような新参者にはそのかんばせはよくは分からないので、パス。

タルトゥーフォには白と黒がある

 今年ぼんやりとしていて(はい、惚け老人です)、すんでのことで時期を逸するところだったが、昨晩「鶴甁の家族に乾杯」だっけの総集編見ていて、危うく思い出した、通称ブラッド・オレンジ。今日慌ててウェブで注文した。ふぞろいの家庭用5kg、送料込みで¥5600。愛媛から届く。

日本産は表皮が厚めで、色の入り方が少ない気がする

 これは現地イタリアでも3月からせいぜい5月までのもので、シシリー原産。私は吸血鬼ではないのでブラッドという名称は嫌いで、タロッコと呼んでいる(もっと色の濃い品種はモロというらしいが、日本ではみかけない)。初めて生食した時の感激は忘れられない。当時、普通のオレンジ・ジュース(ズッコ・ダランチャ)も美味しかったが(バールで、冷やしもしていないオレンジを、3コくらい半分に切ってぎゅっと絞って、夏でも氷を入れずに、出てきていた)、タロッコは独特の甘さがクセになります。私だったら、冷蔵庫に入れて年中出すようにするのだけどなあ、と思ったことだ。還元ジュースはあるけど、あれはぜんぜんまがい物。生の面影などまったくない。

 そうそう、思い出した。二度目のローマ長期滞在中に日本から研究仲間では名の知れた先輩の古代ローマ史研究者が来られたので(但し,イギリス滞在経験者)、我らがコンドミニオに泊まってもらい、珍しいだろうと思って「シシリア産のオレンジです」と言って1つ差し上げた。翌朝「どうでしたか」と聞いたら、答えはなんと「腐っていたので捨てました」と。場合によっては一面にではなく普通のオレンジに部分的に赤紫がはいっているから腐っていると思ったらしい。不意を突かれ毒気も抜かれて、私は何も言えなかった。絶句であった。

 研究者は机の上で文字ばかり扱っているから、外国の現地の庶民の実生活には疎くても全然平気だ。そんなこと気づきもしない(ちなみに、私は大学院入試での第二外国語のドイツ語で、日常品とかの単語が分からず苦戦した)。それで天下国家を論じている気になるのはなんだか滑稽なことで、こりゃ自戒せねばと思ったことだ。私が坂本先生のエッセイ好きなのは、庶民目線でイタリアを論じているからである。

【追記】4/25に届いた。実際にはこんな調子の色め。

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スペイン出土の木製金庫復元作業

 ポンペイ方面でも類似品が出土しているが、スペイン・メリダのCasa del Mitreoで1994年に、後4世紀の貴重品を入れた木製の「Arca Ferrata」が、保存状態がよくないが、ローマ時代に火災に遭った豪華なvillaから見つかっていた。

 2017年にそれを遺跡からとりだして、正面のみ復元されたらしい。この木製金庫は現況では約3m×1.5mの大きさであるが、二階の崩落により押しつぶされたので元々の大きさは不明の由。

 こういった調度品は、多くの場合、家の所有者が訪問者を迎えた応接室に配置されていた。盗難を避けるために、鉄の釘を使って壁や地面に貼り付けていた。それらはしばしば加工された金属で華やかに装飾されていた。

出土状況
取り出し作業中
:
多分こんな感じだったはず:Zaragoza博物館所蔵のTarazona出土のArca ferrata(そこには4例ある由)

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/04/remains-of-wooden-safe-excavated-from.html

【参考事例】以下は、Torre Annunziataにあるオプロンティスの、Lucius Crassius TertiusのVilla B出土のStrongbox。この遺跡は1974年の中学校体育館建設中に偶然発見された。そこには前2世紀創建商業取引の建物があって、海にも接していたらしい。ちなみに発掘した時、一説ではすでに中は空だった由。避難するとき家人が持ち出したのだろうか(別説では200点以上のコイン、金銀の宝飾品が入っていた)。発見場所は列柱廊peristyleであるが、それはないので、おそらく上階から落下したものと考えられている。

https://exhibitions.kelsey.lsa.umich.edu/oplontis-leisure-and-luxury/strongbox.php

追加情報:A.Angela,I tre giorni di Pompei, Milano, 2014の口絵で以下の画像を見つけた。エルコラーノ発見と表記されているので、上記のコインとは別かも知れないが、たぶんこんな溶解状況での出土であったのではなかろうか。

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非番のカラビニエリ、ベルギーで盗品を見つける

 2011年11月にローマ郊外のVilla Marini Dettinaの考古遺跡から盗まれた紀元前1世紀の大理石彫像(頭部がないTogatus)を、非番のカラビニエリ(原意は騎兵隊、現在は武装警察隊としてテロ対策や対マフィア取り締まりを主務としているが、部署に美術遺産保護部隊もある由)所属で別の仕事でブリュッセルに配属されていた2名がたまたま不審な彫像を骨董街のサブロン地区でみつけ、帰国後に手配データと照合して盗品と判明。10万ユーロ(1千200万円)の価値ありとか。

https://www.classicult.it/tag/villa-marini-dettina/

 現品はすでに2月にイタリアに返還されているが、スペイン人の偽名を使ってのイタリア人による違法取引だったらしい。

 あちらでは手柄を立てた関係者をこのように記念写真的に写すのが通例。

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後79年の火砕流の持続時間は15分

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/03/pompeii-duration-of-pyroclastic.html

 西暦79年のベスビオ火山の噴火中にポンペイを襲った火砕流の持続時間は約15分続いた。住民が吸い込んだ火山灰は致命的であり、窒息を引き起こした。

 バーリ大学地球地球環境科学部がIstituto Nazionaleと共同で実施した「火砕流の持続時間が人間に与える影響:ベスビオ山のAD79噴火の事例」という研究がこれを明らかにした。
 実際、火砕流は、いわゆる爆発的噴火の最も破壊的な現象である。雪崩に匹敵する、それらは噴煙柱の崩壊によって生成される。結果として生じる高密度の火砕流は、時速数百キロメートルの速度で、高温で、高い粒子濃度で火山の斜面に沿って流れる。

Source: National Institute of Geophysics and Volcanology [March 22, 2021]

【追加】2018/7/16(https://karapaia.com/archives/52262341.html)に、3Dアニメで後79年8月23-25日の二日にわたって埋没した様子を再現したものが掲載されている。https://www.youtube.com/watch?v=dY_3ggKg0Bc

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坂本鉄男「イタリア便り」:遅報(74)

 以前、坂本鉄男先生の「イタリア便り」の件を書いたことがある(2019/7/11)。今年になってお書きになっていないので、ちょっと気になって今回検索したら、うかつにも以下の存在を初めて知って、さっそく「日本の古本屋」で発注し、幸いかろうじてたまたま2冊とも入手できた。

『チャオ!イタリア:イタリア便り』三修社文庫、1986(昭和61)年;『ビバ!イタリア:イタリア便り(2)』三修社文庫、1987年

 『チャオ!』の「はしがき」を読んだら、予測通り当時お書きになっていたサンケイ新聞日曜版に手を加えたもので、日付的には両書で1982年春〜1985年冬、すなわち日本が貿易摩擦で国際的な物議を醸していた時代、イタリアは恒常的インフレに悩んでいたリラの時代である。両方とも叢書的には<異文化を知る一冊>の中のもので、さもありなん。筆者は「日本の常識は世界の非常識」を標榜して、日本的価値観を押しつけることを読者に戒めている。出版時期はそろそろバブルに入ろうかという、第3次中曽根内閣の時期。

 さて、あれから40年、状況は破竹的に変化したが、人間の心情はどれほど変化したであろうか。

 一つだけエピソードを紹介しておきたい。典拠は『チャオ』のp.81-2: 

 言葉は人間が社会生活を営むうえで必要性に迫られて生じた一種の符丁である。このため社会環境の異なる外国の言語に自分の母国語に相当する言葉がないことがよくある。 例えば日本語では、年上か年下によって「兄・弟」「姉・妹」を完全に区別するが、欧米語ではこれを単に「ブラザー」とか「シスター」のような言葉で済ませてしまうことが多い。このため友人に「これは私のシスターです」と紹介されると、われわれ日本人は、その「シスター」なる女性を何気ないような顔でシゲシゲ観察し「いったい、彼の姉なのか、妹なのか」と憶測をたくましくする。 なにしろ日本語には「姉」でも「妹」でもよい言葉は存在しないので、どちらかに分類をしないと落ち着かないわけだ。

 ラテン語の翻訳していると、「兄弟」frater「・姉妹」sororとのみ出てきて、だけど日本語文献だと先回りして「兄」とか「妹」と限定されている事例に直面する。ラテン語を重視するなら漠然と「兄弟」「姉妹」と訳さざるをえないのだが、ここに背景となる彼我の家族関係の違いを感じざるを得ない。我が国は儒教的に長幼の序を重視して長男・長女を他と区別するのだろう。

 その伝で、私は孫ができたときに気付いたのだが、日本語で「孫娘」とはいうが「孫息子」とは言わない。古来「孫」といえば男系を意味していたのだろう、と。さて当たっているだろうか。

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新刊紹介:堀賀貴編著『古代ローマ人の危機管理』

 このたび、堀賀貴編著『古代ローマ人の危機管理』九州大学出版会、2021/5/15、¥1800[税別]、がなぜか奥付より一ヶ月以上早く出版されたようで、今日届いた。
 長年一緒にオスティア、ポンペイ、エルコラーノで現地調査してきた仲間の国際シンポジウム開催での成果。
 私はゲラ刷りで読ませていただいたが、編著者が30年間現地調査で培ってきた経験が、従来の一般叙述とはレベルの違う知見をもたらしていることに感心したので、紹介させていただく。一般向けに廉価本となっているのも好感が持てる。
 なお、近々にこれも国際シンポの成果、『古代ローマ人の都市管理』九州大
学出版会、¥1800、も6月か7月には出版されるようなので、あわせて紹介しておこう。

【追記】アマゾン・コム・ジャパンの「古代ローマ史」部門で、未だトップにランキングされている塩野七生女史に伍して,現在堂々の4位にランクされている。世の中見る目のある人はいるということで、そう捨てたものではない、との思いが強い。

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えっ、脱糞フレスコ画?:トイレ噺(27)

 希有な画題のご紹介。帝都ローマの西部、川向こうの旧アウレリア街道に接したローマ最大の公園Villa Doria Pamphilj付近では古くからいくつも古代ローマ時代の墳墓が発見されていた。残念ながら私はまだ見学したことがないが、事前予約で公開されている納骨堂columbariumには、大・小・それにScribonius Menophilusの三箇所あるようで、特に大納骨堂Colombario MaggioreとScribonius Menophilusのそれはそれぞれ500の遺灰壺を収容するニッチからなっている。いずれも共和政末期から初期アウグストゥス時代の建設で、二世紀半ばまで継続して使用されていた。とくに壁画はパラティヌス丘のアウグストゥスやリウィアの家、テヴェレ川沿いのファルネジーナの邸宅のそれと類似した第2期後半から第3期のスタイル、つまり前30−前10年に日付けられている。現在、国立ローマ博物館(パラッツォ・マッシモ)に展示されているのは大納骨堂のもので、そこはすでに1838年に発見され、第8列目まで保存されていたが略奪を受け、拾い集められた彩色装飾は1922年にローマ国立博物館に引き渡され、2008年に未完成のまま公開された(他方、1984年に再発見されたScribonius Menophilusの納骨堂は、現場保存)。その中に貴重な脱糞の絵が紛れ込んでいたわけである。

発掘中の大納骨堂と南西の壁の書き起こし

 パンフィーリといえば、どうしても丸一年過ごしたナヴォーナ広場を思い出してしまう私ではあるが、今はそれを横に置いといて、件の地下墓室である。当時は火葬だったので遺灰を納める骨壺が壁体のニッチ(ないし小アルコソリウム)下に蓋付きで埋め込まれ、それが幾段か横一列に並び、その下に故人の姓名を記す柄付碑銘板tabulae ansataeも周到に描かれていた。実際、赤や黒の顔料で、なぜか二重に書かれたものもあれば(たぶん転売されたのだろう)、そうかと思えば未だまっさらな空欄のままのものもあって、そこを買えばいいようなものであるが、複雑な所有権問題があったことも想起させる(ここの埋葬の大部分は、特定の家族familiaや同業組合collegiumの兆候が見当たらないため、建売分譲販売だったようだ)。なおcolumbariumとは「鳩小屋」の意なのだが、蜂の巣のようにニッチにフタをしたものもあって、命日には故人の好物のワインなど上から注いで死者との供食行事をしたはずなのだが、フタしてしまったらさてどうなるのだろうか。それにしても、博物館では表面のフレスコ画だけが剥ぎ取られ、いささかきれいすぎるほどの修復を経て展示されているので、本来壁体の中に埋め込まれていた骨壺やその中の遺灰はない、平べったく文字通り抜け殻風の、なんとも浮世離れした弛緩した展示なのである。

博物館内での展示状況

 そしてその上下のニッチ間の、白というより象牙色の空間に色々な風景画,動植物、演劇マスクなどが当時流行の筆致で自由闊達に描かれていて、それが見どころのひとつとなっているのだが、その中の一つにナイル河風景よろしく3人の裸体のピグミーの船遊びがある。彼らは例のごとく戯画的に各々大小の男根を露出し、それぞれ竿で一艘の葦舟と思しき船を操っているが、船尾の一人が、大口を開けて迫ってきたカバに向かって撃退すべく、尻を突き出して若干水っぽそうな糞をひっかけているのだが、これがなんと古代ローマ時代に描かれて現在のところ唯一残存の、よってたいへん貴重な脱糞図なのだそうなので、皆様、心して拝観してくださいませ。

フレスコ画の上の段に柄付碑銘板tabulae ansataeが見えるだけでなく、埋葬者の重複記載の跡あり

【参考文献】

 Thomas Froehlich & Silke Haps, Architektur und Dekoration der Columbarien an der Villa Doria Pamphilj, XVIII CIAC:Centra y periferia en el mundo clasico, Merida, 2014, pp.1187-1192(=https://www.academia.edu/18451855/Architektur_und_Dekoration_der_Columbarien_an_der_Villa_Doria_Pamphilj_Rom).

 Dorian Borbonus, Columbarium Tombs and Collective Identity in Augustan Rome, Cambridge UP, 2004.

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