彼は306年(34歳)に政権の一端に突如登場し、以後20年にわたる内乱を制して(310年[38歳]義父マクシミアヌス殺害、312年[40歳]義兄弟マクセンティウス殺害、324年[52歳]義兄弟リキニウス殺害:要するに彼の政治的上昇は、政略婚姻関係という仮そめの仲とはいえ親族殺しによって達成されたわけ)、その後13年間ローマ帝国の単独支配者だった。そして又、コンスタンティヌスは326年(54歳)に最初の内縁の妻ミネルウィナ系の長男クリスプスと正妻ファウスタを殺害に及ぶ。政治家の評価はいつの時代でも毀誉褒貶あい乱れ、難しいものだが、コンスタンティヌス大帝がらみでは、最初の「10年間はすばらしい君主だった、続く12年間は盗賊であり、最後の10年間はあまりの浪費で禁治産者だった」(4世紀末の無名氏『諸皇帝伝抜粋』Epitome de Caesaribus)との評価があって、その伝でいくと、彼は単独皇帝となってどうやら、”たが”が外れてしまったようなのである。
① 渋谷の公園に最近オープンした透明トイレ:施錠をすると見えなくなる仕組みとのこと(https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2008/21/news120.html)。夜だと街灯がわりにもなる、と書いてあるが、でも変な見物人や路上生活者が集まってきそうで、どうかな。ちょっと心配。
② オランダ内陸のネイメーヘンでの発掘されたトイレの模式図が,地域柄木造でおもしろかったので、とりあえず掲載しておきます。構造的に汚水枡まで考慮されていてリッパ。そのあとどうなるのか気になったが、くみ出しなのであろうか。Harry Van Enckevort et Elly N. A. Heirbaut,Nijmegen, from Oppidum Batavorum to Ulpia Noviomagus, civitas of the Batavi: two successive civitas-capitals, Gallia, 72.11, 2015, 285-298.
面白いコインが売りに出ていた(PEGASI NUMISMATICS SALE 158 Hosted by Agora Auctions)。周知のように、四分治帝tetrarchの東西両正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは305年5月1日に同時に引退した。それを記念した銀5%程度含有の青銅貨AE FOLLIS、よって発行年は一応305-6年とされている。出品業者の説明では、左がディオクレティアヌスで造幣場所はロンドン、右がマクシミアヌスでトリーア製、裏面はいずれも同じで,右側のProvidentia(「神意」の擬人化)が手に持った枝を左のQuies「静寂」に差し出しているデザイン。両方ともマクシミアヌスの後継西部正帝コンスタンティウス・クロルス領域での打刻であるが、今回の政権禅譲で帝国が平静であれかしとの思いが伝わってくるような気がする。マクシミアヌスのほうの表情によりリアリティを感じることができるのも、これまで彼の副帝で女婿コンスタンティウスによるものだからかも知れない。落札希望価格も同じで$335。$250からのオークションとなっているが、すでにマクシミアヌスのほうは「SOLD」表示が。開始直後に言い値で落札されたわけだ。収集家がほしくなるような個性をマクシミアヌスに感じることができたからだろうと納得。ちなみに、ディオクレティアヌスは引退時60歳で、マクシミアヌスは4、5歳年下だったと想定されている。
J.P.C.Kent,photo.by Max & Albert Firmer, Roman Coins, London, 1978, p.323によると、本コインは287年の両帝執政官就任行列を描いたもの。その根拠は、裏面銘文「IMPP DIOCLETIANO III ET MAXIMIANO CCSS」だが、両帝同道の行列そのものは架空のものか。これはAureus金貨5枚分に相当する記念金貨として軍高官や高級官僚に送られた一品で(すなわち流通貨幣を意図していない:cf., S.Williams, Diocletian and the Roman Recovery, London, 1981, p.49)、現品はAboukir遺跡(エジプトのアレクサンドリア北東端の岬)から出土の由。
A もっとも、不倫が問題になったというよりは、ロックダウンを言い出した専門家が自ら外出制限を破っていたことが批判されました。 たとえばジョンソン首相にしても、過去に2人の妻がいて、子どもは「少なくとも6人」と言われるなど、・・・(イギリス人に)あまり気にされている様子もありません。退院後に出産した婚約者ともまだ正式な結婚はしていませんし、日本とはとらえ方が違うのかもしれませんね。(聞き手・神田大介)
最近の考古学の成果を反映した以下の書籍が必読(見)文献。Gilbert J.Gorski & James E.Packer, The Roman Forum:A Reconstruction and Architectural Guide, Cambridge UP, 2015;Ed. by Andrea Carandini e Paolo Carafa, Translated by Andrew Campbell Halavais, The Atlas of Ancient Rome:Biography and Portraits of the City, 2vols., Princeton UP, 2012;Gregor Kalas, The Restoration of the Roman Forum in Late Antiquity: Transforming Pbulic Space, University of Texas Press, 2015.
2001年の発掘をもとに当初は、後2世紀末のセプティミウス・セウェルス帝関係の戦勝記念物と想定されたが、2009年の発掘結果により、ディオクレティアヌス時代がらみ(後284-330年の間)の戦勝記念物で、ただ、幾つかのレリーフはより以前の建造物の再利用や奪取spoliaによるせいで、より以前の表現形式が見られる、と分析された。注目すべきは、幾つかのレリーフがテトラルキア時代の芸術で基本となるモチーフが表現されていることで、その代表例が以下である。これは2009年に発見されたレリーフで、中央にひときわ大きく二名の人物が描かれており、彼らは、玉座が設えられた4頭立4輪馬車carrucaから降りて歩み寄り抱擁しているので、この二人をディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝と特定して同定することも可能であろう。ならば、テトラルキア以前の二皇帝diarchia時代(後293年以前)の場面を表していることになる。となると、コンスタンティヌスのアーチ門(315年落成)に先立つこと20数年前、テッサロニカのガレリウス凱旋門(303年落成)に先行することわずか10年ほどの作ということになり、必然的にそれらとの比較が可能となるはずである。とりわけ風雪で摩滅が甚だしいガレリウス凱旋門上のレリーフの復元の参考になるであろう(ここでは詳しく触れないが、同時代の画像として、エジプトのLuxor神殿内のフレスコ画、スペインはCentcellesの天井モザイク画、シシリー島のVilla Romana del Casaleの床モザイク等との比較研究は心躍るものがある。これらのいずれについても現地訪問も果たしているのだが。問題は私に残された時間である・・・)。