【2021/2/1発信】イタリア・ローマのヴェネツィア広場から発して南北に突っ切っている直線道路がコルソ通りだが、その一本東側の大通りを入って右側奥に巨大な列柱廊が特徴の教会がみえる。これが聖十二使徒教会 Basilica dei Santi XII Apostoliで、500年間フランシスコ会厳格派(コンベンツアル)の拠点となっている。
この邸宅のモザイクに興味を持つようになったのは、私の当時のもうひとつの研究対象、ウァチカン・サンピエトロ大聖堂の地下マウソレオのCampo Pの「壁面G」上の落書きがらみで、あの押しの強い碑文研究者Margherita Guarducci女史編纂の史料集掲載の写真に出会ったのがきっかけである(I Graffiti sotto la Confessione di San Pietro in Vaticano, Vatican City, 1958, p.411:この本、現在山積みの梱包発掘調査中 (^^ゞ )。そこには、イエスの筆頭使徒ペトロ(彼はイエスから天国の鍵を授けると言われていた:マタイ福音16.13)の名前(PetrosのPとE)で鍵を暗示した組み合わせのキリスト教的モノグラムが読みとれる、とされる写真が掲載されていた。かく、グアルドゥッチ大先生はローマ首位権論者なのであ〜る。
このキリスト教シンボルとおぼしきモザイクは部屋「I」にではなくcubiculum「L」の西壁際の一角に黒地に白のモザイクで穿たれていて、そばにシュロの葉が添えられている(Angelo Pellegrino, Ostia Antica:Guide to the Excavations, Roma, 2000, p.57:ここも保護用シートと土砂で覆われ床モザイクは見ることできない:管理事務所としてそこまで保護土砂を掘る用意がなかったのかもしれない)。この邸宅の名称のもとになったのは部屋「H」の床モザイクに航海の守り神であるディオスクロイが描かれているからであるが(「使徒行伝」28.11:「(パウロが乗船した)この船はディオスクロイの印をつけていた」)、よって家主はもともと貿易商か船主ではないかとも想定され、研究者によっては、モザイクはその家、その部屋にペトロが滞在した記念にはめ込まれた、とまで想像をたくましくしてゆくわけ。
それをポイント箇所を回りながら滔々と開陳される。無知な私は気のきいたこともいえず、ただ黙って聞くだけだったのだが、そんな私でもそういえばと気付いたことがある。「ユピテルとガニメデスの邸宅」(Domus di Giove e Ganimede:I.iv.2)出入口の敷居の高さなど、どう考えても普通ではないのだ。南北のその角地付近と東西のダイアナ通り北側の高さは、とてもでないが踏み台がないと入れはしない。すなわち人間工学的に作られたのではないことが明白である。もひとつ、私もずっと「?」だった構造物が「七賢人浴場」のそばにあるが、その謎解きは堀先生の著書のおたのしみにとっておこう。こうしてみると水没を前提にしているという説はなるほど説得力がある。しかも世界レベル的に新見解なのである。それを可能にしたのは遺跡全体のレーザー測量データである。
イタリアの首都ローマから20km南東に、カステッリ・ロマーニCastelli Romani と呼ばれる丘陵地が広がっていて、古来より著名な保養・観光地である。その中でもひときわ有名なのがフラスカーティFrascati で、その名前の白ワインとポルケッタ(豚の丸焼き)が名物となっている。そこに林立する由緒ある別荘のひとつに、1582年に枢機卿Bonanniによって建設されたVilla Lancellotti がある。その後の詳しい来歴を辿るのは今は省略して(Wikipedia 参照)、ただちに本論に入ろう。
この別荘には、実は「トゥスクルム・モザイク」Il Mosaico Tuscolano と称される床モザイクが一階玄関間に保存されている。それは古代トゥスクルムの斜面に位置するカマルドリ会修道院の庭で発見されたものだった。それを最初に報告したのはE.Pinderで1862年9月のことだった(Musaico Tuscolano, Bullettino dell’Instituto di Corrispondenza Archeologica, 1862-9, pp.178-182)。その翌年、今度はH.Hirzel が Pinderの先行研究を批判的に再検討している(Musaico Tusculano, Annali dell’Instituto di Corrispondenza Archcologica, 35, 1863 pp.397-412。そして41年後にHans Lucas, Athletentvpen, Jahrbuch des kaiserlich deutschen archäologischen Instituts, 9-3, 1904, pp.127-136 が発見以来の研究を総括的に論じた。 余談になるが、19世紀と20世紀初頭の上記3論文はたいへん有難いことにウェブ検索で入手できた。研究はその段階で早くも終わったようで、私はこれまで後続研究を見つけ得ていない。
Pinder によると、そのモザイクは、12 passi × 6 passi(≒ 9m × 4.5m;他説では12m × 6m;いずれにせよ、上記写真を見る限り、私には幅と縦の比率が2対1のようには見えないのが不審)の長方形で、おそらく体育訓練場 palestraの床を飾っていたものだったらしい。その部屋の山側の壁面は、発掘当時まだかなりの高さで壁が残っていた(4〜5 passi)。そしてモザイクはほぼ完璧な保存常態で、白黒のテッセラだけで作製されていた。製作年代を彼はハドリアヌス時代としている。この別荘への移設の際、両脇の2つの小さな四角の枠内に銘文が埋め込まれ、以下のように書かれているらしい。「ROMANVM HOC VETVS OPVS E TVSCULO TRANSLATVM」(この古いローマ(時代)の作品は、トゥスクルムから移設された);「PHILIPPVUS LANCELLOTTVS HIC POSVIT ANNO MDCCCLXXIII」(フィリッポ・ランチェッロッティがここに1873年に設置した):典拠は以下、M.Domenico Seghetti, Frascati nella natura, nella storia, nell’arte, 1906(未見。なお1986年なり2007年にAtesa社から再刊されたらしい。なお、銘文中の2箇所の「U」表示はママ)。ここに登場する人名はフィリッポ・マッシミリアーノ・マッシモ・ランチェッロッティ公爵(1843-1915年)。彼は1865/2/22にエリザベッタ・アルドブランディーニ(1847-1937年)と結婚し、この別荘を翌年購入していた。
一見して分かるように、古代の接近格闘競技を中心に描いているが(具体的には、下部右から順に、ボクシング、レスリング、円盤投げ、徒競走?、パンクラティオン、幅跳び、など)、なぜか通常のそれ関係の本では紹介されることのないモザイクである(少なくとも、私は知らない)。私はググっていて偶然見つけた。その具体的解題は、地元のジャーナリストによって詳細に紹介されている。Achille Nobiloni, Il Mosaico Tuscolano della Villa Lancellotti a Frascati : Rinvenuto nel giardino dei Padri Camaldolesi nell’estate del 1862 (http://achillenobilonifrascati.blogspot.com/2010/01/:2010/1/14)