投稿者: k.toyota

日本トイレ最新情報:トイレ噺(17)

「コロナで脚光 日本発トイレ革新、世界へTOTO・LIXIL:クリーンテック 駆けるトイレ(上)」:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63652270Z00C20A9X11000/

「パナソニック、トイレの常識覆す樹脂のマジック:クリーンテック 駆けるトイレ(下)」:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63728150R10C20A9X13000/?n_cid=NMAIL006_20200914_Y

 シャワー・トイレをあまり日本の発明と得意げに公言してほしくないので、お尻を水で洗う先輩に、ヨーロッパのビデがあることを指摘しておきたい。もちろん水を使って手を使うアラビア式もある。

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権力は腐る:コンスタンティヌスの場合

 世情はあれこれ賑やかであるが、まあ露骨に民意を蔑ろにした政権交代の茶番劇といったところか。質問にまともに答えない体質や、討論が全然成り立たないのも今に始まったことではない。ことを荒立てない民度の高い日本人の叡知の現れなのであ〜る(皮肉です)。

 ここでは、安倍政権7年8ケ月どころではない、30年の長期政権を保持したコンスタンティヌス大帝(a.272-337年)について、知るところを若干書いておこう。

左、たぶん若い頃の大理石彫像(1823年以前にYork出土);右、手前が皇帝、奥が太陽神(313年Ticinum打刻金貨)

 彼は306年(34歳)に政権の一端に突如登場し、以後20年にわたる内乱を制して(310年[38歳]義父マクシミアヌス殺害、312年[40歳]義兄弟マクセンティウス殺害、324年[52歳]義兄弟リキニウス殺害:要するに彼の政治的上昇は、政略婚姻関係という仮そめの仲とはいえ親族殺しによって達成されたわけ)、その後13年間ローマ帝国の単独支配者だった。そして又、コンスタンティヌスは326年(54歳)に最初の内縁の妻ミネルウィナ系の長男クリスプスと正妻ファウスタを殺害に及ぶ。政治家の評価はいつの時代でも毀誉褒貶あい乱れ、難しいものだが、コンスタンティヌス大帝がらみでは、最初の「10年間はすばらしい君主だった、続く12年間は盗賊であり、最後の10年間はあまりの浪費で禁治産者だった」(4世紀末の無名氏『諸皇帝伝抜粋』Epitome de Caesaribus)との評価があって、その伝でいくと、彼は単独皇帝となってどうやら、”たが”が外れてしまったようなのである。

左、青銅巨像部分(カピトリーニ博物館);右、ハギア・ソフィアのモザイクの皇帝像

 一般に頌詞作品とみなされ、高名なる識者たちの評価も低いカエサレイアのエウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』Βίος Μεγάλου Κωνσταντίνου(Vita Constantini) であるが、先入観を排して注意深く読んでみると、なかなか隅におけない記述が含まれている。突っ込み処満載なのに、研究者はほとんど突っ込もうとしないので、私は不満である。

 その最たる箇所が第4巻第54章で、以下要約する。

 コンスタンティヌスは完全な人間の域に達していたが、彼はとくに慈悲深く(cf.,Ⅳ.31)「多くの人は、これを皇帝の弱点」とさえみなしていた。というのは、皇帝の我慢強さをよいことに悪を行った恥知らずの男たちが跳梁跋扈し、我々(=エウセビオスを含めた、おそらくキリスト教聖職者たちのことか)ですら気付かざるをえなかったのだが、①国民を食い物にした強欲で恥知らずの男たちがほとんど非難・告発されることがなかったこと、②キリスト教徒を僭称した者が教会内に忍び込み、「口にするも憚れる偽善」が生じた。皇帝は慈悲深さと寛大さのゆえ、また信仰深い誠実な性格のゆえに、自分への忠誠を狡猾に申し立てた自称キリスト教徒たちの「演技を信じるに至った」。このため彼は「彼らの不適切な振る舞いのために非難され」、こうして「妬みの霊がこの汚点」を彼にもたらした、のだと。

 そして第55章冒頭で「程なくして、神の裁きがこの者たちに下」ったと述べ、読者に事の真相が暴露されるのかと期待させるのだが、具体的には何も触れないままで、別の話題に転ずる。すなわち、コンスタンティヌスは死の直前に「いつもの聴き手[単数!:ひょっとしてエウセビオス?]を前に」遺言めいた挨拶をした中で、「無神論者の悲劇的最期」について長々と述べたが、それは「ご自分の周囲にいる一部の者[たち]を批判しているようにも見え」た。ここも意味深だが、さらに次いでエウセビオスの謎めいた表現が出てくる。皇帝は「その知恵を誇っている者の一人[誰のことやら]にご自分の話をどう思ったかと尋ねさえされ、その者は語られたことの真実性を証し、本心からではないでしょうが、多神教への非難に対して盛んに拍手喝采しておりました」。死の直前にこのような話を「腹心の者[集合名詞的に「たち」か]にすることで、皇帝はみずから、ご自身のために、よりよいものへ向かう旅立ちを何の支障もない容易なものにしようと」しているようであった、と(以上、秦剛平訳:但し[ ]内は私の付加。こういう箇所の単数・複数は慎重に吟味すべきだ)。

 いずれ触れたいテーマで、注意深く考察し味読すべき箇所であるが、今はくどくど解説する必要はないだろう。長期政権は佞臣を引き寄せ、権力者は孤独であるがゆえに彼らの跳梁跋扈を容認する。似非お友達関係である。こうして悪貨は良貨を駆逐し、それは世人たちには目に余るほどになる。たとえ平穏な時代であっても、否、そうであればこそ、文字通り長期政権は腐るのである。

 後日談だが、コンスタンティヌス大帝の死後、ファウスタ系の三人の息子たちが、祖父の後妻にして正妻のテオドラ系を抹殺するという挙に出て、血縁の血の上塗りをおこなっている。それもあってか、コンスタンティヌス一族の男系は、背教者ユリアヌスで断絶。ただし女系はコンスタンティノポリスで7世紀初頭まで存続していた。

 アメリカ合衆国で一世を風靡した「ケネディ王朝」も、J・F・ケネディ暗殺以降すでに60年近く過ぎ、子孫の相次ぐ不祥事で暗雲が垂れ込めている。2世、3世の政治家というのも難儀なことだ。つくづく同情させていただこう。「まさかの米上院予備選結果と”ケネディ王朝”の終焉」:https://wedge.ismedia.jp/articles/-/20769?utm_source=newsletter&utm_medium=email&utm_campaign=20200914

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現代スケスケ・トイレと古代ローマの木造トイレ:トイレ噺(16)

① 渋谷の公園に最近オープンした透明トイレ:施錠をすると見えなくなる仕組みとのこと(https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2008/21/news120.html)。夜だと街灯がわりにもなる、と書いてあるが、でも変な見物人や路上生活者が集まってきそうで、どうかな。ちょっと心配。

【追記】最近こんな体験ブログをみつけた。「検証 スケスケの公衆トイレ 用を済まして確かめてやる」(https://www.youtube.com/watch?v=VoROw7wVdss):参照、2021/8/16

② オランダ内陸のネイメーヘンでの発掘されたトイレの模式図が,地域柄木造でおもしろかったので、とりあえず掲載しておきます。構造的に汚水枡まで考慮されていてリッパ。そのあとどうなるのか気になったが、くみ出しなのであろうか。Harry Van Enckevort et Elly N. A. Heirbaut,Nijmegen, from Oppidum Batavorum to Ulpia Noviomaguscivitas of the Batavi: two successive civitas-capitals, Gallia, 72.11, 2015, 285-298.

https://journals.openedition.org/gallia/1577Gall
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漱石とあばた(痘痕):遅報(49)

 感染症でググっていたら、以下で、夏目漱石(1867-1916:49歳で死亡)が3、4歳頃の種痘の失敗であばた面の持ち主だったことを初めて知った。2020/5/24:小森陽一「夏目漱石と感染症の時代:『吾輩』の主人・苦沙弥先生はなぜ「あばた面」だったか」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020052200006.html);佐藤博「生誕150年・夏目漱石は病気のデパートだった・・・PTSD、パニック障害、糖尿病、胃潰瘍」https://biz-journal.jp/2017/04/post_18711.html

 これはけっこう有名な話だったらしく、彼のイギリスでの3大劣等感のひとつとされている(他の2つは、英文学者なのに英会話はきわめて苦手、イギリスでは短躯:158cm 52kg:「倫敦に住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり」『文学論』序:但しこの一文、ド田舎の第五高等学校から東京への就職運動がらみでの彼の小ずるい偽装だった可能性もあるようだ)。昔読んだとき、そんな箇所私はすっ飛ばしていたのだろう、全然記憶にない。しかしそれにこだわって彼の書いたものを読むと、当時のイギリスにおける人種差別にまで考察が至ることができるわけだ。

は晩年、が大学予備門時代、写真の傷のように見えるが、両者でその位置が共通しているし、彼の写真はだいたい左側を正面に見せているのも、右側がよりひどくそれを意識していたからなのだろうか。

 それはともかく、彼の写真はあばたがきれいに修正されているのだということも、当たり前といえば当たり前のことだが、今回初めて知った(見合い写真は言うまでもなく、切手や昔の千円札でも)。ちょっとウェブ検索しても明確にそれらしい素顔の写真はみつからなかったが、ロンドンでもじろじろ見られたというからにはかなりのあばた面だったに違いない。とはいえ日本ではそのころこんな感じ↓の人は珍しくはなかったのだろうが。

幕末の通弁御用役・塩田三郎(1864年撮影)

 そういえば「あばたもえくぼ」っていうことわざもあったっけ。当時鉛をいれたおしろい(鉛白粉)が女性の化粧に使われていたが、それだとあばたがきれいに隠せたそうだ。ただし「引きずり痘痕」になるとそれも無理だったが、とのこと(https://www.isehanhonten.co.jp/wp-content/uploads/2019/10/vol47.pdf)。どんな傷だったのか見てみたい気がするが、ぐぐっても出てこない。

この宣伝ってどう考えても嘘くさい。光のあて方も違うし、右に細工しての左だろう、ぜったい

【補記】こんな漱石観もあるようだ(2021/6/15):筒井清忠「初めて「漱石神話」を解明した書:夏目漱石と帝国大学」(https://wedge.ismedia.jp/articles/-/23099)。とにかく脱神話化はけっこうなことだ。立身出世主義とか蓄財とか、明治人なら当然のことではあろうし、なにしろ病弱だった彼は49歳で死亡しているのだから、残される家族のこと思っていたのはよくわかる(それにしても未亡人の散財癖には畏れ入る)。とはいえ、若い時私なども感激した「則天去私」と異なる実像を知ることはいいことだ。一筋縄ではいかない多重的な赤裸々な人間性を白日の下に曝しているのだから。

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コインから引退皇帝の表情をうかがう

 面白いコインが売りに出ていた(PEGASI NUMISMATICS SALE 158 Hosted by Agora Auctions)。周知のように、四分治帝tetrarchの東西両正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは305年5月1日に同時に引退した。それを記念した銀5%程度含有の青銅貨AE FOLLIS、よって発行年は一応305-6年とされている。出品業者の説明では、左がディオクレティアヌスで造幣場所はロンドン、右がマクシミアヌスでトリーア製、裏面はいずれも同じで,右側のProvidentia(「神意」の擬人化)が手に持った枝を左のQuies「静寂」に差し出しているデザイン。両方ともマクシミアヌスの後継西部正帝コンスタンティウス・クロルス領域での打刻であるが、今回の政権禅譲で帝国が平静であれかしとの思いが伝わってくるような気がする。マクシミアヌスのほうの表情によりリアリティを感じることができるのも、これまで彼の副帝で女婿コンスタンティウスによるものだからかも知れない。落札希望価格も同じで$335。$250からのオークションとなっているが、すでにマクシミアヌスのほうは「SOLD」表示が。開始直後に言い値で落札されたわけだ。収集家がほしくなるような個性をマクシミアヌスに感じることができたからだろうと納得。ちなみに、ディオクレティアヌスは引退時60歳で、マクシミアヌスは4、5歳年下だったと想定されている。

 彼らが二分治体制dyarchyを敷いた286年では、ディオクレティアヌスが41歳、マクシミアヌスが36, 7歳で、その頃の少壮期の両帝の表情と比較してみるのも一興であろう。それが以下のローマ造幣所打刻の記念金貨*。両者ともに精悍さに満ちた顔つきであるが、多少くずれているとはいえ20年後もほぼまだその線を維持しているかのように見えるマクシミアヌスに比べ、ディオクレティアヌスの衰えは著しい。精気がまったく感じられないのである。よもや病み上がりが反映されていたとも思えないが。それでもディオクレティアヌスは隠居地Split(現クロアチアのダルマチア海岸の町)で引退後8年間生き続けた。他方、マクシミアヌスは帝位復活を目論んで再三策謀をめぐらし、ために実子マクセンティウス、女婿コンスタンティヌスに疎(うと)まれ、後者によって5年後に死に追いやられてしまった。いずれが武人としての生涯を全うしたというべきか、微妙である。

裏面は、象のクワドリガに両名が乗っての架空の執政官就任行列か
  • J.P.C.Kent,photo.by Max & Albert Firmer, Roman Coins, London, 1978, p.323によると、本コインは287年の両帝執政官就任行列を描いたもの。その根拠は、裏面銘文「IMPP DIOCLETIANO III ET MAXIMIANO CCSS」だが、両帝同道の行列そのものは架空のものか。これはAureus金貨5枚分に相当する記念金貨として軍高官や高級官僚に送られた一品で(すなわち流通貨幣を意図していない:cf., S.Williams, Diocletian and the Roman Recovery, London, 1981, p.49)、現品はAboukir遺跡(エジプトのアレクサンドリア北東端の岬)から出土の由。
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コロナ・トイレ関連三題:トイレ噺(15)

【閲覧注意!】「英国でトイレ危機 草むらで続出、女王の居城までも被害」(https://digital.asahi.com/articles/ASN7S3DVKN7RUHBI01V.html?iref=com_rnavi_arank_nr02)。2020年7月24日 但し有料。

 内容をまとめると、コロナで休業しているパブや公共施設が多いせいで、公園内での処理が続出している、とおもいきや、それ以前から予算削減で公衆トイレ全体の二割が閉鎖されていて・・・、というお話。それはたくさんの「拭いた紙」(但し、ティッシュなので雨でもすぐには分解しないわけで)が捨てられてのことで、だから小ではなく大なのだろう。

ロンドン東部の公園、ロンドン・フィールズ内に設置された「ここは公園で、トイレではありません。それは家に帰っておやりください」と書かれた掲示

 ポンペイやオスティアなど広大な遺跡でも、物陰にその痕跡があったりするが、元ワンゲルの私には「野ぐそ」は爽快で、普通にやっていたので違和感はない(但し、スコップで掘ってやっていた。いわゆる「キジ打ち」)。ただ、素人さんへ緊急時におけるご注意をひとつ。蛇やサソリなんかに咬まれないため事前に草むらをふみつけるのを必ずやること。また、これは実体験したことだが、朝夕の一定時間帯にはブトの活動が活発化する、それを知らなかった入部直後に露出したお尻を集中攻撃され(金玉もやられた)、テントに帰ってかゆくてしかたなくシュラフの中でボリボリかいて指の爪が血だらけになったことがある。皮膚の直下に血だまりがデキているからだ。呉々もお気をつけください。

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https://digital.asahi.com/articles/ASN572V8GN57UHBI00M.html?iref=pc_extlink 2020/5/7

いかにも英国:「ロックダウン」教授から「パンツダウン」教授に:外出制限中に自宅で密会  

 英国で、新型コロナウイルスの感染抑止策として厳しい外出制限の導入を政府に進言した著名な大学教授が5日、外出制限のさなかに女性を自宅に招いたと報じられた。教授は「判断を誤った。後悔している」として、政府の専門家会議の委員を辞任した。

 英紙テレグラフによると、感染症数理モデルの専門家、インペリアル・カレッジ・ロンドンのニール・ファーガソン教授は、政府が同世帯の人以外とは会わないことなどを国民に要請する外出制限に踏み切った3月下旬以降、少なくとも2回、交際している既婚女性(!)を自宅に招いていたことがわかり、大衆紙から「パンツダウン教授」とやゆされるはめに。

 ファーガソン教授は3月半ば、感染が疑われる症状が出た人だけに自宅待機を求めるなどの緩い措置のままでは25万人以上が死亡し、医療態勢もパンクするという試算を発表。これがきっかけとなり、英政府は全ての人を対象にした外出制限や商店の閉鎖などを含む厳しい措置に踏み切った。政府の施策に強い影響力を持つことなどから、同紙は教授を「ロックダウン都市封鎖)教授」と名付けている。

 ファーガソン教授は報道後の声明で、新型コロナに感染して回復し、自分には免疫があると信じていたと弁明した上で「ウイルスの流行を抑えるためには社会的距離をとることが必要であり続けるという明確な(政府の)メッセージを揺るがしたことを深く後悔している」としている。(ロンドン=下司佳代子)

 記者は別所のインタビューで以下のように述べている(但し、有料):

Q なんか、めちゃくちゃですね。……。

A もっとも、不倫が問題になったというよりは、ロックダウンを言い出した専門家が自ら外出制限を破っていたことが批判されました。 たとえばジョンソン首相にしても、過去に2人の妻がいて、子どもは「少なくとも6人」と言われるなど、・・・(イギリス人に)あまり気にされている様子もありません。退院後に出産した婚約者ともまだ正式な結婚はしていませんし、日本とはとらえ方が違うのかもしれませんね。(聞き手・神田大介

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 コロナがらみでトイレ話をもうひとつ。「トイレスリッパは必要?実験でわかった意外な効果」(https://lidea.today/articles/46?utm_source=outbrain&utm_medium=display&utm_content=lifehack2&dicbo=v1-6676fddf5cf95f190087fecd57c801cd-00db9f691cb51569c0c01ab018dcadb8bc-geydayjugq3dcljtgi4tcljumm4tsllbg43ggllbmfswmztcmnrgeyrvgm)。アップは2014/10/23。

 欧米でのコロナ感染拡大に、屋内での土足そのままでの生活が一役かっているのかも。

 「思わぬところにリスクも トイレとウイルス感染の関係」2020/7/29(https://style.nikkei.com/article/DGXMZO61535750V10C20A7000000?&ora)

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コンスタンティヌスのアーチ門:北面東側レリーフをめぐって

 以前、「続・コンスタンティヌスのアーチ門の太陽神について」(2020/6/5)の中でちょっと触れているが、あらためてここで図版を掲示して説明を加えておきたい。掲載図版はすべてウェブから拝借した。

 実は、テトラルキア時代のフォロ・ロマーノについて面白い研究テーマが転がっている。ディオクレティアヌスが開始したテトラルキア体制の理念を象徴する建造物がそこに幾つかあり、それにその支配体制の継承者を自認していたマクセンティウスが一連の公共建築物を追加、だがその後、征服者としてローマに入城したコンスタンティヌスは彼らとは一線を画して、マクセンティウスの造営を乗っ取ると同時に、ローマ帝国の単独支配理念を復活させている、という視点で彼の公共建築造営を位置づけようというものである。それが最もよく現れているのが、アーチ門の北面東側のレリーフである。

北面東側レリーフ全体図

 左から見てゆく。さりげなく背景として刻まれている記念建造物に集中したい。

左はフォロ・ロマーノ西端の平面図;右再現想像図は、西からの景観。手前左からセプティミウス・セウェルスのアーチ門、ロストラ、ティベリウスのアーチ門、そして90度向こう側にバシリカ・ユリア

 レリーフ左端から見ていく。この部分の背景左半分を占めて4連のアーチが見えるが、これらは明らかにBasilica Juliaを示している。そして右端に若干大きめのアーチが続いているが、これはArcus Tiberiを示していると思われる。前者がガリア戦争での戦利品で前54年から建設が開始され、アウグストゥス時代に完成、後者は後9年にゲルマン人に奪取された軍旗返還を記念して後16年に建立された。前面の群像はローマ市民男性で、一人男児が描かれている。

 ただ、中央広場から西を見たときに、Basilica Juliaは正面ではなく左に位置している。そしてArcus Tiberiは、最近の説ではBasilica JuliaとAedes Saturuniの間の通りvicus Jugariusの入り口に想定されている場合もあるので(上記平面図でゲタ記号状の印の箇所がそれ)、その場合これも中央広場から直接見れたはずはないので、いうまでもなくレリーフ製作側の意図的意志だったと思われる。

 次に、レリーフ中央部分。背景に見える列柱は、テトラルキア体制創設10周年を記念して303年に建設された5柱記念物で、中央柱頭上に主神ユピテル像(ディオクレティアヌス帝の保護神でもある)、その左右に4帝立像が配置されていた。手前の囲い部分がロストラ(演壇)で、その左右端にマルクス・アウレリウス帝とハドリアヌス帝が座像で描かれている。群像中央の顔面が破損された立像がコンスタンティヌス帝で、あとの登場人物は元老院議員集団。

左がロストラ正面の想定例、右が背後からの復元想像図、の一例(レリーフに一致したものを選んだ)
こちらの方が円柱の配置に関しては正しいかも

 最後にレリーフ右端背後に見える3連アーチは、セプティミウス・セウェルスのアーチ門。いうまでもなく対パルティア戦勝利(後194/5と197-9年)を記念して後203年に創建された建造物。手前の群像はローマ市民男性で、右端に男児2名が紛れ込んでいる。

 総体的にこのレリーフは、いわゆる対外戦争勝利を記念した記念建造物、とりわけユリウス・クラウディウス朝がらみとセウェルス朝の凱旋門が左右に描き込まれ、中央演壇上にアントニヌス朝の2皇帝、そしてコンスタンティヌスにとっては直前の第一次テトラルキアの4皇帝(その一人が父コンスタンティウス)が刻み込まれていて、自らをローマ帝国を代表する諸皇帝の正統継承者として表現しているわけである。315年、未だ皇帝として盤石の地位を確保できていなかったコンスタンティヌスにとって重要なプロパガンダであったし、実質的にアーチ門建立を担ったローマ元老院としては、新皇帝の治世方針がローマ元老院を尊重する帝国再興の賢帝であれかしとの思いもあったはず。ある意味で両者同床異夢の蜜月時代を演出していたわけである。ただし、コンスタンティヌス帝自身は、旧帝都ローマを疎んじ、すでに過去の遺物と見ていた節があり、それは単独皇帝となった324年以降にあからさまになる。その意味で彼は皮肉にも、テトラルキア体制からの脱却をはかっていたにもかかわらず、こと対旧都ローマに関してはディオクレティアヌス帝の遺志の継承者でもあったのである。

 最近の考古学の成果を反映した以下の書籍が必読(見)文献。Gilbert J.Gorski & James E.Packer, The Roman Forum:A Reconstruction and Architectural Guide, Cambridge UP, 2015;Ed. by Andrea Carandini e Paolo Carafa, Translated by Andrew Campbell Halavais, The Atlas of Ancient Rome:Biography and Portraits of the City, 2vols., Princeton UP, 2012;Gregor Kalas, The Restoration of the Roman Forum in Late Antiquity: Transforming Pbulic Space, University of Texas Press, 2015.

【付記】ほとんど知られていないはずだが、フォロ・ロマーノにはここで触れた古来からの「ロストラ」(別名「西のロストラ」「アウグストゥスのロストラ」)の他に、中央広場を挟んで3世紀末ないし4世紀初頭に「東のロストラ」も造られていた(それ以前からあったとする説もある)。これは現在の遺構だとカエサルの火葬場遺構の前方西側に見ることができる。その建設はテトラルキア体制によるフォロ・ロマーノの再構成の一環だった。よってこの東のロストラは別名で「ディオクレティアヌスのロストラ」Rostra Diocletianiとも呼ばれているが、テトラルキアの正統継承者を自認するマクセンティウスが、フォロ・ロマーノ東端で自らの権威を誇示すべく一連の公共建造物(ロムルス霊廟と新バシリカの新築、女神ウェヌスと女神ローマの神殿修復;その他、アッピア街道沿いに競技場、さらにクイリナーレの浴場もか)を建設した時のものとする説もある。

左はフォロ・ロマーノを南東上のパラティーノ丘から見た写真、中央長方形区画の左に残る遺構が「東のロストラ」跡;右は後310年頃の復元想像図
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長生きはするもんだ:Ticinum銀貨

 ニコメディア・レリーフ関係でコインをチェックしていたら、なんと驚くべきことにぶつかった。それは2020/3/11のほうに追記として入れておいたが、私の一生の間にこんな僥倖に遭遇するなど考えたこともなかった。2020/1/12掲載のSPES PVBLICAEが3000ドル、2020/3/28のConと息子二人のが7750ドルで、特に前者が市場に出てきたことはそれでもまあ可能性としてあり得るような気がしていたが、今回のTicinum銀貨のご登場にはまったく度肝を抜かれてしまった。なにしろ現存4枚目という超稀少コイン、その上新品同様の保存状態なので、2825万円(25万スイスフラン)という落札価格も納得である。オークションからすでに二年、然るべき博物館の所蔵になっていて、いずれご対面の機会が得られることを祈っているのだが。

https://www.numisbids.com/n.php?p=lot&sid=2518&lot=1051

 以前表側をみつけたエルミタージュ博物館蔵の、鮮明な裏側写真も探しているが、まだみつけえていない。情報をお待ちしている。

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4/9発注本、ようやくのご到着

 インターネットで古書販売のAbeBooksに発注していた本が一冊ようやく届いた。そもそもの到着日に関しては以下のように書いてあって、早くて5月半ば、遅くても6月上旬だったはずが、でも平常だとこの数字より早く着くのがいつものことだったが、コロナ騒ぎのせいでそれよりも余分に20日遅れたわけだ。

Estimated Delivery Date: June 3, 2020 
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 1996年出版の疫病関係の書籍で、価格が4.60ドルで送料が9.00ドル。目次を見たら、本文220ページ中、私に必要なのはとりあえず8ページだけ。こんなの国内大学図書館にあれば(ないから海外発注した)、まあ今回の半額以下でコピーがとれるのに、と思ってしまう。しかも、すでに当面の関心は別に移動しちゃっているので、読むのはいつになることやら、だ。

 その前後で海外発注した数冊の本、いつ届くことやら。なにもかも、一件以来宅配便は遅れがちであるが、まあこれまでが無用に早かったともいえるので、これでいい気がする。

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ニコメディア出土のレリーフ:遅報(41)

 小アジア半島の北西端に位置するニコメディア(現在名イズミット)は、テトラルキア体制の上級正帝ディオクレティアヌスが自らの都に定めた場所であるが、なぜかこれまでめぼしい遺跡に恵まれず、他の諸皇帝の首都(トリーア、ミラノ、シルミウムないしテッサロニカ)に比べて、もの足らないものがあった。21世紀に入り、市内中心部のチュクルビク地区のビル解体時に地下に眠っていた遺跡が発見され、2度(2001,2009年)の緊急発掘にめぐまれ、そこからかつての煌びやかな帝都にふさわしいディオクレティアヌス時代の多色レリーフや立像が出土した。ニコメディアはかの時代、大理石の集散地で、主としてマルマラ海に浮かぶプロコンネソス島産や、ニコメディアの南東200kmのフリュギア地方のドキミオン産大理石を扱っていたが、今般の出土品はプロコネンソス産。出土品はレリーフ30以上、少なくとも4体の巨像の諸断片、1ダースほどの建築資材であった由。

右平面図の黄土色が、ビルに取り巻かれた発掘地点で、黒点箇所からレリーフが発見された:まず下方、次いで上方、だったのだろう

 まだ悉皆的な紹介・報告はなされていないようだが、もっぱら報道され目を奪うのは、何らかの歴史的場面を描いた諸レリーフで、軍事遠征、戦闘、捕虜の移送、凱旋式、将軍たちの会合が描かれていた(といっても、公表されているのは、ここで示したものに限られている)。ヘラクレス、アテネ、ローマ、ニケないしウィクトリアといった神々は持物(「じぶつ」と読む)によって容易に判別可能で、また、剣闘士競技、戦車競走、劇場での演劇など、ニコメディアの人々の日常生活も描かれている由。いずれも完品の出土ではないが、部分的に着色がまだ残っているほど保存状態は良好である(劣化を防ぐため保存処理中で、現在非公開)。私の印象では、人物の描き方が後期帝国に顕著な静的で冷厳な様式からはかけ離れていて、むしろ帝国東部の緻密で繊細なモザイク表現に似かよった親しみやすささえ感じてしまう。たとえが変かもしれないが、肩肘張らず一本力が抜けた感じの造形なのだ。

入城式adventusでの、中央に女神ローマ座像、手に女神ニケ像、左右両端はトガ姿の市民たちか(少年もいる)

 2001年の発掘をもとに当初は、後2世紀末のセプティミウス・セウェルス帝関係の戦勝記念物と想定されたが、2009年の発掘結果により、ディオクレティアヌス時代がらみ(後284-330年の間)の戦勝記念物で、ただ、幾つかのレリーフはより以前の建造物の再利用や奪取spoliaによるせいで、より以前の表現形式が見られる、と分析された。注目すべきは、幾つかのレリーフがテトラルキア時代の芸術で基本となるモチーフが表現されていることで、その代表例が以下である。これは2009年に発見されたレリーフで、中央にひときわ大きく二名の人物が描かれており、彼らは、玉座が設えられた4頭立4輪馬車carrucaから降りて歩み寄り抱擁しているので、この二人をディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝と特定して同定することも可能であろう。ならば、テトラルキア以前の二皇帝diarchia時代(後293年以前)の場面を表していることになる。となると、コンスタンティヌスのアーチ門(315年落成)に先立つこと20数年前、テッサロニカのガレリウス凱旋門(303年落成)に先行することわずか10年ほどの作ということになり、必然的にそれらとの比較が可能となるはずである。とりわけ風雪で摩滅が甚だしいガレリウス凱旋門上のレリーフの復元の参考になるであろう(ここでは詳しく触れないが、同時代の画像として、エジプトのLuxor神殿内のフレスコ画、スペインはCentcellesの天井モザイク画、シシリー島のVilla Romana del Casaleの床モザイク等との比較研究は心躍るものがある。これらのいずれについても現地訪問も果たしているのだが。問題は私に残された時間である・・・)。

1枚のレリーフはおおむね高さ1m、幅1.5m

 ところで、これがなぜディオクレティアヌス時代の基本的モチーフなのかというと、以下のヴェネツィアのサン・マルコ聖堂前の四帝立像や、ヴァチカン図書館所蔵の二帝立像(いずれも紫斑岩製)がどちらも抱擁の挨拶を交わしていて、それによりテトラルキア体制でのスローガン「一致 concordia・一様 similitudo・友愛 fraternitas」が強調されているからである。この件は貨幣その他のデザインとも通底しており、いずれ詳しく比較検討したいテーマではあるのだが、その時間が残されているかどうかは神のみぞ知るなので、ここでも興味深いネタが転がってますよと、若い後進にお知らせしておこうと思う。

左からヴェネツィア、ヴァチカン、ニコメディア:比較してみると、右端の緻密さは圧倒的だ

 なお、色彩が鮮やかに残っているので、発掘プロジェクト責任者のTuna Şare Ağtürk博士などは、建築後そう時を経ず、おそらく358年に当地を襲った大地震でこの記念建造物が破壊されてしまったのであろう、と想定している(http://archive.antiquity.ac.uk/projgall/sare346;https://www.jstor.org/stable/10.3764/aja.122.3.0411)。屋内の展示であればその仮説も可能かもしれない。私はそれ以上に、コンスタンティヌス王朝時代の意図的破壊や、コンスタンティノポリス建設材料に回されてしまった可能性ありかもと、想像しているがどうだろう。

Tuna Şare Ağtürk博士:生誕年不明

【参考図版】

① Luxor神殿内のフレスコ画:

② Centcellesの天井モザイク画:https://www.mnat.cat/en/monumental-complex-of-centcelles/

上図のように四人の玉座が描かれている;下図での人物像表現にも注目したい

③ Villa Romana del Casaleの床モザイク:https://www.piazzaarmerina.org/villa-del-casale/la-villa-del-casale

皇帝と目されもする人物たち:左中央がマクシミアヌス、右中央がマクセンティウスと想定説あり

④ テッサロニカのガレリウス凱旋門:http://galeriuspalace.culture.gr/en/monuments/kamara/

上部中央のトガ姿の4名がテトラルキア・メンバー:中央着座の2名の左右に月桂冠を捧げる有翼のアモル
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