投稿者: k.toyota

ツタンカーメン:遅報(39)

 専門外の著名な考古学的知見については、素人なので触れたくは無いのだが、先ほどBS4Kで「地球ドラマチック」「ツタンカーメン:財宝に刻まれたファラオの真実」(2018年フランス製作)の再放送をみて、びっくり。それよりちょっと前にこれも偶然見た再放送、たぶんBSプレミアムでの「探険!ツタンカーメン王墓」(2017/11/18放送)がCG技術を駆使して詳細に扱っていたのをみた後だったので、まあ、製作の時差が一年あるにしても、あれれと思わされてしまった。「探険!」の内容がもう古い感じなのだ。

王墓全体の透視CG画像

 核心はなにかというと、2018年のほうがなかなか興味深い話で、仏人研究者マルク・ガボルド博士の仮説に基づいて、これまでツタンカーメンのものと思われていた副葬品やあの黄金のマスクも別人用に作られていたことが、カルトゥーシュの書き変え痕跡から判明した、というもの。書き換えの事実は2015年頃にすでに判明していたようで、元の名前については諸説あったようだが(https://55096962.at.webry.info/201601/article_19.html)、2018年の番組ではイクナートンの四女だっけの「メリトアテン」で、どうやらツタンカーメンが大きくなるまでつなぎで女性ながらファラオをやっていたということらしい。以下の図の緑がツタンカーメンのカルトゥーシュで、赤の部分がそこに残されていた前の痕跡、それに基づいての復元例が黄色というわけ。

以下から拝借:https://55096962.at.webry.info/201601/article_19.html

 その説に基づいてのことかどうかは不明だが、最近の以下の論文でもツタンカーメン王墓内出土品に「メリトアテン」名が残っていると指摘されていて、これはもう定説となっているようで、素人にはたいへん興味深かった(野中亜紀「トゥトアンクアメン王墓出土のクラッパーに関する一考察」『貿易風 :中部大学国際関係学部論集 』第14号、2019)。

 ところでコロナ騒ぎで取り紛れ忘れていたが、私の余命はあと2610日。

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ポンペイ修復作業終了:遅報(38)

 ポンペイ遺跡は、それまでの遺跡保存管理が不十分だったこともあり、10年前頃から各所で遺構が倒壊した。そのためユネスコが世界遺産登録取り消しを警告したのをきっかけに、2014年からEUの支援を受けて修復作業に入っていたが、2020/2/18に終了が宣言された。かかった費用は約125億円。

 修復の一環で、ポンペイ発掘開始270周年を記念して第五地区の一部が新発掘され、すばらしい成果を上げているが、ここでは2019/10に公表された剣闘士競技のフレスコ画を紹介する。今回はさすがに遠慮して、小さな画像に留めるが、詳しくは下記の「Pompeiiinpictures」をご覧ください(YouTubeつき:それをみると規模的に小さく狭いことがわかる)。

 管理局はいつものように正確な番地を公表していないが(まだ未定なのかも)、「剣闘士たちの宿舎」 Caserma dei Gladiatori(V.v.3) 近く(?)の居酒屋(タベルナ)の二階への階段下で発見された(私には中二階にみえる。だったらそこは倉庫だった可能性もある:なお、ある記事で地下室とされているが誤訳:たぶんground floorがらみ?)。写真右側で勝負あった瞬間が描かれている。左側に下半身だけ一人描かれているが、その服装からすると審判員のようにみえるがどうだろう。このタベルナについて詳細な紹介が「PompeiiinPictures」のHPですでにアップされているのは、さすがだ。これをみただけで、誰もがおびただしい新発見に目を見張るはず(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R5/5%2008%2000%20gladiatori.htm)。そこでは出土場所は「Termopolio con Gladiatori Combattenti : Bar with fresco of gladiatorial contest at crossroads between Vicolo delle Nozze d’Argento and Vicolo dei Balconi」と名付け、表現されている。

 ところで古代ローマ時代では、居酒屋といえば,酌婦は売春婦を兼ねていて(そのほとんどが女奴隷だった)、二階へとお客さんをいざなったり、だからそこにベッドがあるので簡易ホテルにもなっていた、そういう場所である。ただ、剣闘士が描かれているからといって、「剣闘士の宿舎」の住人たちがなじみ客だったと結びつけるのは私には疑問だ。二区画西のさらに北側なので隣接しているわけではないし、剣闘士が自由に居酒屋で飲食できていたとすると、私などカーク・ダグラス主演「スパルタカス」やラッセル・クロウ主演「グラディエータ」などで獲得した、従来のイメージを大幅に修正しなければならない(そもそも、目抜き通りの1つ「ノラ大通り」の真ん中に面して剣闘士宿舎があることすら、私には納得できないのである:剣闘士がらみの落書きがいかに多くあるにせよ、だ。むしろそこは興行主やパトロンの屋敷で、試合前夜に招かれ供応されてのそれら、と考えたいところである)。ポンペイの専門家たちはどういう根拠でそう言っているのだろうか。

【疑問】フレスコ画の右端の敗者がこちら向きだとして、右手の動きがよくわからない。兜を脱ごうとしているのか、顔を覆っているのか。左手の指を1本立てているのは「降参」のサインだろう。

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続・コンスタンティヌスのアーチ門の太陽神について

 論じ残しているちょっとしたテーマに、ローマのコンスタンティヌスのアーチ門(凱旋門)上の東面に掲げられているトンド内の太陽神像があります。以下に、トンド全体像と太陽神拡大図を掲載してみます。

東面トンド

 何かお気づきのことありませんか。・・・ 私は以前からこの太陽神に違和感を感じてきました。らしくない、のです。まずなんとなく女性っぽい描き方なんですが、この点は西面の月神が明らかに女神として描かれているので、それとの対照により一応除外しておきます(顔つきは月神のほうがきつい感じすらします:太陽神のほうが摩滅しているせいかもしれません)。また、着衣が横皺が目立つトガのようにではなく、ギリシア風に見えるせいもあるでしょう。

 そんなこともあって、らしくない、そう、勇ましくないのです。これは不敗太陽神Sol Invictusとの対比からくるせいかもしれません。このHPの「実験工房」のほうで2018/5/20口頭発表「戦勝顕彰碑としてのコンスタンティヌスのアーチ門」を掲載してますが、その末尾近くでこのトンドについて「東に4頭立て戦車、クワドリガで今まさに海上から天空に浮かび上がってきた太陽神、それを導くアモル、海中でそれを眺めている海の神オケアノスが描かれています。なおここでの太陽神は、放射冠をかぶっていません」と触れていますが、端的に放射冠抜きなのです。となると、本当に太陽神なんだろうか・・・。先に触れた衣装からよりギリシア的にアポロ(ン)神的イメージが勝っているような気にもなってきます。そうは思いませんか。それでトンドに似たアポロンの彫像を見つけようと探したのですが、これがなかなか・・・。というのは神は完璧な肉体をお持ちなので、アポロン様はだいたいが裸でして・・・。そんな中、ようやく見つけることができたのが以下の右です。

左がよくある裸体像、右は竪琴がなければまさしくトンドのそれ:いずれもヴァチカン博物館所蔵

 ところが、アーチ門の東側廊での太陽神はかなり破壊が進んでいますが、斜めからの写真だと頭上に放射の鋭角の三角形が辛うじてわかります。またアーチ門上に複数刻まれている軍旗の竿頭飾りのそれでもちゃんと放射冠が確認できます。下に、ギリシア的なヘリオス神像を示しておきます。

左、東側廊の太陽神を左45度でみる;右、西面レリーフの太陽神:頭部の上枠にギザギザの刻み
前4世紀のものらしい

 こうして、同じアーチ門上で、東面トンドのそれと他の太陽神の表現が放射冠他に関して異なっていること、そして東面トンドのほうがとりわけ不敗太陽神Sol Invictusとしては特異な表示である、と指摘できるように思います。それが何を意味しているのかですが、ひょっとして、トンドのそれはギリシア的アポロン像風に描かれているのかも、と今現在考え直しております。

【追記1】このギリシア的表現は、西面のルナ女神でより一層指摘できるかもしれない。たとえば、彼女の後に羽衣風にたなびいているストール、それにどうやら片肌脱ぎで(ここでは左肩を)露出し、さらに彼女の頭上にかつては三日月があったらしい痕跡も認められ、さらに二頭立て二輪戦車bigaに騎乗していて、むしろギリシア神話のセレネの表象が勝っている印象なのである。

後3世紀作のセレネ:メトロポリタン美術館蔵

【追記2】ここまで書くと、どうしても私は以下の2点を思い出し、触れたくなる。一つは、ギリシアのパルテノン神殿東側ペディメント「アテナイの誕生」の両端彫像である。ここでは、復元修復したものを示す。

左が上昇するヘリオス、右が下降するセレネの戦車:この場合、両方とも四頭立てだが

 もう一つは、Prima Portaのアウグストゥス像の鎧上部のヘリオス神と四頭立て二輪戦車である。

ここでのヘリオス神の衣装はまさしくアーチ門のそれと類似:
中央上部は天空神ウラノス

 こうしてみると、アーチ門東西両トンドの神像は、どの神名をとるかはともかくギリシア的意匠に準拠している、すなわちヘリオス/アポロンとセレネで、それがローマ神話のアポロ/ソルとルナに横滑りし、さらにソルからソル・インウィクトゥスに特化していくプロセスが見てとれる、と考えた方がいいように思われる。コンスタンティヌスがアウグストゥスをも意識して視野に入れていたことは、アーチ門両面に掲げられた銘文から明白である。

【追記3】私は、コンスタンティヌスは彼の統治領域内では、そこ出身の自軍兵士たちの共感を得るためにまずケルト系の太陽神を自分の守護神に選んでいた、それを帝国中心部においては東方起源の同様な太陽神ないし古代ギリシア的なアポロン神・ローマ的なユピテル神に重ねることで汎地中海世界的な自己プロパガンダの基軸とした、との仮説を提示している。したがって、315年段階での本アーチ門での太陽神図像はあくまで首都ローマに寄り添ったものと理解することになる。その観点からすると、帝都ローマでのコンスタンティヌスのアーチ門の西面(出立図:Profectio)と、東面(入城図:Adventus)に描かれている鹵簿での皇帝臨座の馬車の車輪は意味深かもしれない。

西面:Quadrigaというよりも、四頭立て四輪馬車carrucaだったことがわかるが、馬車や人物像の描き方にかなり違和感がある
東面:こちらも玉座仕立ての四頭立て四輪馬車だが、納得できる描き方
20世紀初頭の復元図:かなり杜撰だが車輪はちゃんと描かれている

 なお、今や破壊されて跡かたもないが、同じく東西両面のトンド上の戦車にも車輪があった:現状で車軸のみ確認できる。

上図とここの典拠は以下:Salomon Reinach, Répertoire de Reliefs Grecs et Romains, Paris, 1909.

 生存中に改めて一文を草する余裕がないかもなので、他の気付きもメモしておこう。東西面レリーフでの登場人物たちの顔の向きが前後を向いているのは、後を向いているというよりも、これらの行列が一直線ではなくて、「⊂」字型に、左隅でUターンしていて、それを正面から見て重複表現している場合もある。また、出立図Profectioの場面は従来説ではなぜかミラノ出立等イタリア内とされているが、皇帝馬回りの登場人物たちが平時のフェルト帽を被り武装していないので、敵地でのそれとは思えず、私はコンスタンティヌスの領域首都トリーア出立とすべきと判断した。またProfectio左端の、まさに城門を出てきたばかりの四輪馬車の座乗人物が他と比べて小さいことから、彼はコンスタンティヌスではなくて、息子クリスプス(当時12歳)とする別説もあるらしい(となると、そこにコンスタンティヌスは描かれていないことになる、かも)。レリーフにおけるコンスタンティヌス像は例外なく少なくとも頭部が破壊されているので(恐らく4世紀後半の反コンスタンティヌス時代に)、ここで頭部が保存されているのは別人と判断されてのことであろうか。いずれにせよあのブロックは違和感の塊である。また、西面の荷駄に馬ないしラバ以外にめずらしくラクダが描かれ、その背後にうずくまった人物がいるが、これは何を示しているのだろうか(捕縛されているのかも)。南面レリーフについては拙稿で多少とも触れているので、省略。

 入城図Adventusの東面レリーフに移る。左端でローマの市門をくぐってコンスタンティヌスが座した四輪馬車carrucaが進む。それに先行する行列の中に武装解除された二名のローマ人捕虜が、徒(かち)でおそらく両手を縛られて引き回されている。たぶん同時代のローマ在住者には誰と見当がついたはずだ。その行列の先頭は浮き彫りの右端から北面東端にかけて、まさに四面門(しかもその屋階上に四頭の象を頂いている:これは剥落が進んだ現在、確認しづらくなっている)をくぐろうとしているが、この門は凱旋式の際行列が必ず通過したPorta Triumphalisに間違いなかろう(cf., Martialis, Epig. 8.65)。

東面右端と北面東端の柱部分の両端にそれぞれ4頭の象の戦車が描かれていたと思われるがぽっこり剥落し、現在かろうじて北面、兵士の兜の左上にその痕跡が残っている(2015/8/29:筆者撮影)

 実はこの門は、コンスタンティヌスのアーチの屋階の北面の東側から2枚目のレリーフ(もともとはマルクス・アウレリウス帝の出立図profectio:皇帝の頭部は18世紀にトラヤヌス帝に似せて修復された)にも描かれており、その屋階上にトロパイオンと四頭の象、それに一体の神像が確認できる。

 北面の2レリーフも興味深い。特に左側の演説図Adlocutioでは、ロストラ(演壇)の両脇の背景に描かれている公共建築物は、左がBasilica Julia、右がセプティミウス・セウェルス凱旋門とされ、ロストラ上についても中央に唯一正面向きで立つコンスタンティヌス(但し顔面破損)、彼の背後に5本の列柱があって、それらは第1テトラルキア体制の成立を記念して立てられたもので、その中央は主神ユピテルをいただき、左右円柱上の小立像は4人の皇帝を示している。また皇帝のすぐ背後の2旒のvexillumは皇帝旗であると私は考えている。ロストラ前面の左右端に二名の座像が見えるが、左がマルクス・アウレリウス帝で、右がハドリアヌスとされている。こうして、このロストラは全体として、コンスタンティヌスが過去30年間のテトラルキア体制の正統継承者であること、ローマ帝国華やかりし時代の、アウグストゥス時代、ハドリアヌスやマルクス・アウレリウス時代の帝国の回復者であることを暗黙のうちに明示しているわけである(なお、このことは政治家コンスタンティヌスがテトラルキア体制を放棄して独自の政治的プロパガンダを以後開始することと矛盾しているわけではない)。なお、彼を左右から見守る男性群像(とりわけ壇上はトガ着用の元老院集団で、一段低く地面に立つのはローマ市民たち)の中に男児三名が紛れている。彼らが大帝の後継者の息子たちとする説は、出生年的にも位置的にも受け入れがたい。

 最後に言わずもがなのことだが、このレリーフでの登場人物は(そして、アーチ門全体でも女神と円柱台座での捕虜を除けば)、すべて男性であった。昨今の「人種差別主義者」チャーチル像への落書きのように、「性差別主義者」コンスタンティヌスなどと落書きなどされないように願わざるをえない。

腹に巻かれているのは「黒人の命も大切だ!」Black Lives Matterの張り紙らしい

 さて、ぜひとも触れておきたいテーマに、コンスタンティノポリスでの紫斑岩製円柱上の太陽神としてのコンスタンティヌス像の件がある。いつか書く機会があることを念じている(まだ書く気でいるのが、我ながらいじらしい)。これにより、コンスタンティヌスの一貫した自己認識がヘリオス・ソル神であったことが立証されるはずで、キリスト教的プロパガンダの虚構性ないし相対性が明確になるはずでアル。

左、ポイティンガー地図で、コンスタンティノポリスに特に表示されている円柱;中央・右、紫斑岩製円柱上のHelios神としてのコンスタンティヌス像復元図

 以下の写真はこの円柱の柱頭の状況である(この時はパイプで足場を組んでの作業のようだった)。その凸凹を検証して上記のような立像が再現された(後世に、十字架が立てられたりしている)。私はこれをローマで、コンスタンティヌスのアーチでやりたかったのだが、ドローン撮影は許可が必要で果たしていない。

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古代ローマの感染症:(8)その工芸品?への反映[閲覧注意]

 残念ならが、今秋の広島での学会大会も中止されたようだ。確かに晩秋であれば年中行事のインフルエンザの流行にまぎれて、コロナの再発もありえるわけだ。そこで発表予定だった内容の中心部について、概略を記しておこう。初めに弁解を。この勉強を始めて海外に発注した本を二か月経っても未だ入手できていない。航空機が飛んでいないせいだろう。また、国内大学図書館も休館中である。そのため文献的に完璧を期せてないことをお断りしておく。

 マルクス・アウレリウス時代の疫病については、すでに史料的限界が許す限りでの検討が行われてきた。ここではちょっと従来と違うアプローチを試みる。それは、出土遺物の、とりわけ彫像類において病気を示していると思われる諸事例の検討である。それに関して、古来(といってもせいぜい19世紀以降であるが)挙げられてきたものを、感染症の周辺を含めてまずは列挙してみる。

 ちまたでは、疫病の考古学的証拠として著名なのは、たとえば、エジプトのファラオ・ラムセス5世(前1157年死亡)のミイラの頬に一面のイボがある所見から、彼の死亡原因が天然痘だったのではと言われてきたが、最近では、この痕跡は水疱瘡によるものと疑われているらしい(水疱瘡はヘルペスウイルスで、人類誕生以来感染していた)。さてどうだろうか。私のような文系の素人からすると、細胞培養かなんかすれば病原菌も特定できるのではないかと想像するのだが。また、庶民のミイラもたくさん出てきているのだから、それらの調査ではどうなっているのだろうか、とつい思ってしまう。

左はラムセス5世のミイラ、頬のぶつぶつに注目;右は水疱瘡の皮膚所見:ぜんぜん違うような

 古代の医療に関しては、ex voto(病気治癒の祈願成就の奉納品)の出土品がまずは注目される。著名なのは古代ギリシアのアスクレピオス神域からのそれらであろう。ローマ時代だとたとえば以下は、首都ローマのテルミニ駅の東、引き込み線操車場の南に隣接のTempio di Minerva Medica(医療女神ミネルウァ神殿)出土のex votoである。

左,上左が胎盤、右上は乳房・下左が内臓、下右が子宮;右、足と手

 こういったex voto以外にも、グロテスクな異形の人物像(例えば、くる病、朱儒など)を表現した遺物は多く、中には義足・義肢らしきものの出土すらある。

左上、エジプト出土ミイラの、左下、イギリス出土の、足指補正具;右はカプア出土の金属製義足とその縦断面

 だが、我々が知りたい感染症関係の証拠はほとんどない。かろうじてこれまでそう主張されてきたものについて列挙し、だが判定にきわめて慎重なのが以下の論考である。M.Grmek e D.Gourevitch, Les Maladies dans l’art antique, Fayard,1998, pp.341-347. なにしろそもそも該当テーマでの彼らの章立てが「錯覚の病理学 Les Patrologies illusoires」となっていて、従来の諸見解は妄想であると概ね斥けている。彼らが列挙するもののうち、マルクス・アウレリウスの疫病に直接関係するのは、②、③、⑤の3つだけで、しかも著者たちはいずれに対しても天然痘を表現したものでないと結論づけている。これをめぐって若干の論争があるがここでは深入りしない。

① 播種性結節により神経線維腫の診断が下された小立像:この写真のみ現存し、大きさすら不明の由

この写真のみ現存し、所在不明で追跡調査不能

② 皮膚に結節が描かれているサテュロス像:ローマのVilla Albani-Torlonia所蔵

足に顕著なぼつぼつは、野蛮性を表現しただけのことでは、と:右二つは美術表現としてそう描かれているシレノス像

③ 多数の結節が描かれた肘ないし膝の断片

何を表しているのか諸説あるが、先述のTempio di Minerva Medicaで発見されたので、膿疱の可能性も否定できない。

④ 単なる女神・女性像の頭髪部分の剥落事例?

これもTempio di Minerva Medicaで発見されたので、「禿頭」平癒祈願との解釈もあながち捨てきれないような

⑤ 髭ないし毛瘡を思わせるドッド模様

首や胸にも見えている:ナポリ国立博物館所蔵

 たしかに古代の事物製作者がいかなる意図でそう描いているのか、慎重に考察すべきであるが、とりわけex votoの場合は病理現象に関わっているという方向で捉えてよいかもしれない。

天然痘の症状:学会の口頭発表では最初にこれらを見せて、つかみにしようと思っていたのだが・・・、我ながら悪趣味である

 最後に付言しておく。このex votoであるが、実は現代にいたるまでよく見られる奉納物である。特に、奇跡を信じるイタリアにおいては。市内を歩いていて突如心臓を模した金具がいっぱいぶら下がっている壁に遭遇したり、巡礼地や教会内の聖母マリア像なんかのまわりに一面にぶら下がっていたり(2019/12/11掲載のSant’Agostino教会の聖母子像右のもそれ)・・・。否応なく庶民の悩みの多くがとりあえず病気や身体的不具合であることに気づかされるのである。治癒を願っての奉納が勝っているような気もしてくる*。となると、右足首が思わしくない私もそろそろ奉納してみようかしら。

石畳が多く冬冷え込むイタリアでは足がらみが多いように思う:子供のそれは受胎祈願、いや水子供養もありか
  • 最近知ったのだが、祈願成就での奉納はvota solutaで、祈願のそれはvota suscepta、というらしい。

【余談】ところで、アスクレピオス神殿等での古代ギリシア以降のex votoの奉献物に、明らかに腹部切開による内臓器や子宮の奉献物があるわけで、これはすでに古代において人体解剖は行われていた、としか私には思えないのだが。やはりガレノスの動物解剖は世間的目くらましだったのだろう、という確信が強まらざるを得ない。我が愛しい嫁さんは、「動物を解体して食していたのだから、生きた人間に何かをするのは避けたにしても、死体を腑分けするなんてことは簡単なこと」とのたもうた。この調子だと私の死後、平気で腑分けされそうで恐ろしい。ちなみにご自分は解剖させていただいた恩返しで献体登録されていらっしゃる。立派なことだ。私は、一年間フォルマリンのプールに無様な裸体でプカプカ浮かんでいるのを想像するだけでおぞましく(それ用にダイエットしなきゃあならんだろ (^_^;)、直行での焼却炉行きを希望している。

左、パレストリーナ博物館所蔵;右、ローマ・ティヴェル川・中の島出土、ローマ国立博物館所蔵
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ベジタリアンだった剣闘士:遅報(36)

 久々に坂本鉄男先生の「イタリア便り」(https://www.aigtokyo.or.jp/?cat=27)に行ってみたら、以下のようなコラムが。

古代ローマの剣闘士は菜食主義者

 古代ローマ人は血なまぐさい決闘競技を見物するのが好きだった。良い季節には、首都ローマの巨大円形闘技場コロッセオをはじめ、植民地にまで建てさせた多くの円形闘技場で闘技が催され、市民を喜ばせた。

 演目は北アフリカから運ばれた猛獣退治に始まり、剣闘士同士の命をかけた決闘で終わる。当時のアフリカは地中海沿岸まで森林が続き、ヒョウなどの野獣がたくさん生息していたが、ローマに送るための動物狩りで激減してしまったといわれる。

 催しの最後を飾る剣闘士について、最近、古代遺跡オスティアの研究者による「剣闘士の骨の調査」の興味深い結果が発表された。

 剣闘士は、ローマとの戦いに敗れた異民族の戦士から、身長1メートル68前後の屈強な30~30歳ごろの若者が選ばれた。彼らは剣闘士養成所で訓練を受ける。

 体中傷だらけになって死ぬまで戦う運命となった彼らの食事は、現代のレスラーのイメージから、血の滴るビフテキなど肉類が主だと類推しそうなものだが、骨の調査から意外にも現在の菜食主義者とほとんど同じであることが判明した。

 主な食べ物は大量の大麦と豆類。飲み物には動物の骨を焼いて砕いた粉や岩塩を溶かし入れたという。

 古代ローマの剣闘士の方が、現代のわれわれより健康的な食事だった?

坂本鉄男(2020年4月14日『産経新聞』外信コラム「イタリア便り」より、許可を得て転載)

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 これを読んで、「えっ、オスティアで剣闘士の骨? これはしたり」ということで慌ててググって見たが、2014年10月既報の記事で、
Medical University of Vienna、すなわちウィーン発情報で、出土場所は小アジアのエフェソスのものはずらずら出てきたが、オスティアは出てこなかった。ちょっとホッと。たぶん場所は坂本先生の記憶間違いかと。1933年発見のかの剣闘士たちの集合墓地出土の遺体を(後2,3世紀[前2,3世紀とする記事もあるが間違い]の全部で53遺体出土、うち剣闘士は22)で1993年に改めて調査したときに、残りの通常人との遺骨の成分比較をしたらしい。この墓やグラディエータの骨分析について我が国では踏み込んだ報告が未だなされていないが、私は20年来卒論で誰かやらないかとずっと言ってきたのだが、誰もしようとしないのは、やっぱりドイツ語になっちゃうからなのだろうか。現地のMuseum Ephesosで開催の展示会パンフも出ていて手軽にまとめることできる穴場なのだが。あのパンフさしあげますよ、やる人いたら。Hrsg. von Österreichisches Archäologisches Institut et als., Gladiatoren in Ephesos:Tod am Nachmittag, Selçuk, 2002, 105S.

発掘地点は、右の図で「DAM93G」

 こんな書き込みもみつけた:https://gigazine.net/news/20180630-gladiator-diets/

【補遺】https://imperiumromanum.pl/en/curiosities/what-did-gladiators-eat/

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コロナ以後の古代ローマ史研究への提言

 たいした提言ではありませんが、せっかくの新傾向の芽生えがあったのだから、今後も前向きに実践してほしい、と思いまして。すぐにできることは、

①「ウェブでの論文公表の促進とそれへの学界的認知」であろう。論文公表は私が試みているようにウェブにアップすればいいだけのことである。多くの図版やデータをカラーで掲載できるので、読者の理解を深めるにはきわめて有効、と自己満足しているが、いかんせん後続は皆無。ただ問題は、知的所有権や著作権の侵害問題を恐れる人が多いので、それをどうクリヤーするかであろうが、活字論文でも実施しているように典拠引用をきちんとしておけばいいという了解を、できれば学界的に得ることできれば簡単と思う。実際、私のウェブにこれまでのところ抗議は一切来ていない(ま、それほど全然注目されていない、ということでありんすが (^^ゞ)。

 そして、さらに重要なのは、そのウェブ論文を研究業績として学界が認知することである。ただウェブはアップした個人とともに消滅してしまうのが普通なので、恒常的な保存の裏打ちとして、ウェブ論文管理学会といった組織設立がもとめられ、そこでクラウドにアップして、会員はいつでも閲覧できるようにすればいいのでは、と考えている。

 本当は、ウェブ論文をアップする前段階として ②「テレワークによるインターナショナルな発表・討論の実施」がなされるべきである。これは、事始め的にはせめて日本語でやってもと思うが、相互批判を避ける内向きでシャイな日本人にとって、かなり高いハードルになるだろう。しかも、そもそも我が国には実のある討論ができるほど古代ローマ史研究者の蓄積がないので、活発な討論を期待する素地がもともとあると思えないが、やらないよりはやったほうがいいに決まっている。ことと次第によっては、①にコメントつけていくやりかたでもありかと。 

 よって、なんたら研究会の月例会なんかも一堂に会するための交通費なんかを不用にできるわけで、テレワークですればいいだけのこと、と思ったりしております。

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3000年前のゴールデン・ハット:遅報(33)

 「ゴールデン・バット」は発売中止になったタバコであるが、昨年だっけ放送のNHK BSプレミアムで「コズミック フロント☆NEXT」の「謎のゴールデンハット 秘められた古代天文学」の再放送を偶然みた。

 そのあとの番組「プレミアム・カフェ」がなんと「失われた色を求めて」だった。帝王(貝)紫の「染司よしおか」4代目常雄氏(1916-1988年)がなつかしく、とうとう全部みてしまった。息子さんの5代目幸雄氏も録画後の2019年に亡くなられて(1946-)、現在は3女の更紗さんが6代目を継承(録画の中で、誰もやる人がいないので、と)、常雄氏以来の染師福田伝士氏とともに天平の色彩再現で頑張っている。https://www.youtube.com/watch?v=Pen9_R3d8jo;https://www.youtube.com/watch?v=NrHH4eWUo8s

吉岡三代と、染師福田伝士氏

 以上、昔多少手がけた分野なので懐かしく(本はすべて処分してしまった)、ついやってしまった閑話休題でした。

 今から3000年前の、農耕が始まっていた後期青銅器時代の「骨壺墓地文化」に属する、フランス・ドイツ・スイスから出土した4つの特異な黄金製の帽子?をめぐってのお話。重さ300〜490グラムの軽くて薄く伸ばされた黄金製の表面に打ち出された円盤などの紋様に注目して、サロス周期(太陽、月、地球が18年ごとに同一平面で並んで日・月蝕が起こる)を記録しているのでは、という天文学者提唱の仮説を紹介している。複雑な計算法は私には理解不能である。

原型には最初みな帽子のつばがあったらしい
ベルリン博物館所蔵品底部:ドイツ南端ないしスイス北端あたり出土と想定されている。好事家所有だった
日蝕・月蝕仮説での計算例

 これが事実だとすれば、これまで古代バビロニア人が最初に知っていたとされていた学説が修正される可能性もある。いわんや前5世紀にギリシア人が初めて発見した、という旧説は完全崩壊で、ご同慶の至りだ。農耕時代において日・月蝕の予言は農民統治に大いに役立ったはずなので、支配者・神官が権威づけにかぶって、もっともらしくやっていたのでは、というわけ。

こんな感じかな

 出土土偶類にもそれをかぶっていると思われるものがあるそうだ(テレビ画像では出ていたが、ウェブをググってみたがみつからなかった)。そういえば、メソポタミアだったっけに宇宙人か爬虫類人種かといわれてきたとんがり頭の土偶あった。そっちはすぐに出てきたが、それには帽子のつばはない。ま、見方によれば、むしろ古代ローマの神官flamenのかぶり物やローマ教皇の三重冠のほうがそれに見えないこともないような。・・・ちょっと強引か。

メソポタミアだっけの土偶
左、Ara Pacis壁画での4人のflamenたち;右、ベネディクト16世と教皇三重冠

 これまで後進地域とされてきた古ヨーロッパ世界の見直しにもつながってくるし(ストーンヘンジに代表される、エジプト以前の巨石文明のヨーロッパ先在が認められ出しているし)、このあと鉄器を持ってケルト人が登場する。それとの関係も興味深い。というか、謎だらけ。

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ローマ・パンテオン前広場で地面陥没

 どうもこのところ体調が今ひとつである。連日夕方になると風邪をひいている感じなのである。微熱があって熱っぽいくせに、首回りから悪寒を感じる。家から出ないから温室効果的になって、夕方の気温の低下に体がついていかない、そんなときうとうとしているとてきめんそうなる、そんな感じ。妻からは時節柄いま風邪を引くと面倒ですよ、と言われていて、でもどうしようもなく。

 なので、ここでは今ひとつ情報を詰める余裕がないので、とりあえずメモ的に記しておこう。5/6の報道。

 ローマでは時々起こっているのだが、大雨の後など、突然道路が陥没したりする。なにかの拍子に地下の埋蔵の空間が口を開けるわけだ。ここ100年間に年平均で30箇所、なんと2018年には175箇所、2019年には100が記録されている由。ちなみにナポリでは2019年に20箇所。

こんな調子で、ときに自動車も転落してたりしています

 先月、映画「ローマの休日」のロケ地のひとつでもあるパンテオン前の広場の西端でそれが生じた。今回、広場を舗装している玄武岩のsanpietrini約40個分の穴が開いたのだが、ここは実は1990年代の地下共同溝工事ですでに知られていて、調査も行われていた箇所、らしい。

 なのにこの機会に再調査もしているようで、写真のような感じで古代ローマ時代の構造物が現れた。現在の地面下2m余に横たわる敷石はわかるが、ほとんど地面直下の西側面のあの構造物はなんだろうか。それなりの公共建築物の外壁のようにも見えるが。気のせいかパンテオン内のドーム部分の構造に似ているような・・・。

パンテオンのは単純な矩形ではなくて何重にもなっている

【追記】それでなくともローマの地面はちょっと掘るだけで古いものが出てくる。次の写真は、2012/9にたまたまクリプタ・バルビ前の通りで遭遇した風景。トッレ・アルジェンティーナ広場方向に西に向けて撮っている。さて何のための工事だったか。

 アメリカ人研究者がかつて意気揚々と地下埋蔵物の探査機を持ち込んだが、そこら中で反応するので調査にならなかった、という話を聞いたことがある。むべなるかな、むべなるかな。

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今日みつけた呪詛板関係4つ:遅報(31)

 他のことをググっていたら、目についた。とりあえずメモっておこう。

① 2003年ピレウス発見の、2400年前のギリシアの呪詛板:

https://www.livescience.com/54285-curse-tablets-uncovered-in-greece.html;http://karapaia.com/archives/52215623.html

② 2013年に、エルサレムで発掘された1500年前の呪詛板:

http://karapaia.com/archives/52205572.html;https://www.livescience.com/ancient-curse-of-dancer-deciphered.html

③ 20世紀半ばにイタリアの発掘隊によってイスラエルのカエサレイアの劇場跡から発掘された1600年前の呪詛板:

http://karapaia.com/archives/52205572.html;https://knowledgenuts.com/2015/11/13/the-mysterious-curse-tablet-found-in-the-city-of-david/

④ 約2700年前のアッシュール出土の粘土板にてんかん発作の原因とされていた悪魔の姿が描かれていた。http://karapaia.com/archives/52287454.html;


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ローマ軍の金属製水筒? ほぼ完品で出土

 https://archaeology-world.com/a-roman-laguncula-water-bottle-of-the-4th-century-ad-discovered-in-france/

 みなさんは、これ↓を見てなにを想像しますか。

 私は一目見て「水筒」と思った。しかし説明文を読んで混乱する。水筒ではなく、携帯食糧の容器だ、というのである。まだ完全に納得させられてはいないが(下に表示されているスケールは全体で10cmを表示:江添誠氏ご教示による。最初一目盛りが10cmと誤認していたので汗顔の至り)。

左がSeynodの場所、右が出土状況

 スイス国境に近いフランスのSeynodの古代ローマ時代の神域から、例外的に良好な状態で、後4世紀前半のlaguncula(私は最初「水筒」と訳していた)が出土した。そこはショッピング・センター建設予定地での、緊急発掘だった。第一層からは1世紀末に神殿の最初の痕跡、次いで42の土葬墓が出土し、それらから貨幣、土器、小立像が見つかった。こういった奉納品の中から、金属製の容器が出てきたのである(大きさは、本体直径12,3cm、幅7cm程度)。鉄製円板2枚を、月桂樹の葉状の丸い突起のアウトラインの青銅製平板で接合し、把手とフタも青銅製で、フタはかつて銅製の鎖で本体に結ばれていた痕跡が残っている。フタと底は同心円状の輪型で装飾されている。

 私的には、この器の使用目的に短い把手と底の輪型の存在が、ヒントになるように思う。火中に立てるなり横倒しにして温めていたのでないか、と。

上は底の形状、下は側面

 軍隊用水筒は一般には19世紀後半にさかのぼるとされてきた。すでに水筒型の容器が古代ローマ時代にあったことはこれまでも出土例が2、3例あって知られていたらしいが、今回は完品に近い出土で改めて注目されている次第。そもそもローマ兵が日々の軍用糧食の貯蔵用に帯同していたもので、おそらく、8人からなる分隊contubernium個々人の常備品だったのだろう。まあ確かに、行軍中ラバが曳く荷車もあったらしく、石臼・鍋・釜・その他の共同装備品がそれで運ばれていた。当時ローマ軍の食糧供給は、一軍団(約5000名)で一日当たり1.2トンの穀物を必要としていた由。ならば単純計算で一人当たり240g/日か(兵士は行軍中通常3日分の食糧配給されていた由)。この水筒型容器の容量がどれほどになるのか、計算すれば出るはずなので、算数得意な人はチャレンジしてください(後述の【追記】の復元品は、水筒を前提とし、本出土品よりも、直径で1.5倍、幅で2倍の大きさで、容量は1.5リットルとなっている)。

 容器内の底から残留有機物が検出された。キビ粒(Panicum miliaceum)、ブラックベリー、乳製品の痕跡もあった。そしてオリーブ酸も確認されたのでオリーブも入っていたようだ(別説だと、それら動物性・植物性材料は加熱され、料理されていた、と想定されている)。かくしてこの容器、固形食物を入れることができたので、一種の実験台apprenticeshipだった、のかもしれない。

 なぜそれが墓地から出てきたのか。記事では、推察するに、死者の同僚兵士、友人、ないし兄弟による究極の敬意からだった、とされている。

 実際には、ローマ兵たちは水筒として山羊皮製の水袋を使っていた。これだと落としてもこすっても破れないし、素焼きの土器と同じで、外側の表面が濡れて気化熱で冷やされるという利点もあった。だからその皮製水筒は第1次世界大戦時まで使用され、「ghirba」と呼ばれていた(cf., http://new.alpitrek.com/Equipaggiamento-Acqua.html)。

ローマ軍の水筒はたぶん左端のような物だったろう:中央は第1次大戦の伊軍、右端は第二次大戦の仏軍のもの、金属製になってもまだ山羊の形態を留めているのがおもしろい
最近の、ghirba名を継承した品物にこんなのもある、らしい

【補遺】ghirbaをググっていたら、第1次世界大戦のイタリア兵墓銘碑に好んで刻まれていたらしい文言が出てきた。

【追記】こんなものも出てきた。ローマ時代の複製品と銘打って、1.5リットルの水筒として販売されているらしい(販売価格30ユーロ:Lenght : 19 cm ; width : 14 cm ; weight : 855 gr.)。

左:オランダの業者Celtic Webmerchantのカタログより;右想像図の右端にも描かれている

 余談だが、よく兵士たちがこういった日常携帯品を十字架状の棒forcaにくくりつけて(背嚢:sarcina)担いで行軍していたように描かれているが(重量20〜50kgに及んだとも)、あんな棒きれでその重さを支えるなど、ワンゲル出身の私としては考えられない。錬成訓練では30kgをリュックに詰めて仰向けに成って背中に密着させて背負うが、立ちあがるのがやっとで、よろよろ歩きだ(別途持参の武器・防具の重さも考えてみよ)。こんなこと、実際体験すればすぐ分かるのだが、手抜きの紙上研究では平気で間違ってしまう(これを「紙上談兵」「机上の空論」という)。文献的には、兵士が背負って行軍しているかのような記述が残っているが(Appianos, HR, Hisp. 86:Josephos, JW, III.4-5:Vegetius, Epitoma rei militaris, II, ;画像的にはトラヤヌス円柱上)、訓練ならともかく、実戦においては行軍速度を稼ぐためにも、ちょっと考えられないことで、この矛盾をどう解釈すればいいのか、思案のしどころである。上記でも触れたが、普段は荷車使用が普通だったのでは。道なき道に直面して、それが不可能な場合の各自、ないしは従者の下僕の携行だったのではないか、と想像している。

浮き彫りでも兵士が実際に担っているようには描かれていないことに注意すべきかも

 ところでforcaのことを「十字架状の棒」と書いたが、考えてみれば、ローマ兵が揃いもそろってそれを背負っていたとすると、行軍とはまさにイエスの「道行き」Via Dolorosaではないか。であればキリスト教護教家たちの言説にそれが見えても不思議はないが、なぜか私にそれの記憶がない。御存じ寄りからの情報をお待ちしている。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

念のため:私説ではここで金属製水筒はありえない。実際上記トラヤヌス円柱にそれらしきものは見当たらない

【追補】エウトロピウス、Ⅳ.27の事情を知るために、栗田伸子訳で、サルスティウス『ユグルタ戦争』(岩波文庫、2019年)を読んでいたら、第43-45章(p.76-79)で以下の箇所に出会った。前109年の新執政官メテッルスは任地のヌミディアで前任執政官アルビーヌスから無気力な軍隊を引き渡されたが、賢明にも父祖伝来の軍律が回復されるまでは出陣しないことにし、「陣営内でも戦列においても奴隷や荷役獣を所有してはならない」等を命じ、「兵士が食糧と武器とを自ら運ぶようにさせ」、こうして「処罰よりもむしろ過ちから遠ざけることによって、短期間に軍を立て直した」と。換言すると,平時にはそういったことが容認されていた、おそらく非常時にでも、ということでもある。

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