投稿者: k.toyota

古代ローマの感染症:(7)日常復帰に向けて、沈船データ


 コロナ騒動に付随して多少あれこれ書いてきた。ま、100年に一度の出来事ではあるが、すでに山を越えつつあるという認識で、そろそろ我が日常に戻ろうと思う。それでこのあと罹患して死んだら笑ってください。

 今日、イギリスから書籍が届いた。A.J.Parker, Ancient Shipwrecks of the Mediterranean and the Roman Provinces, BAR International Series 580, Oxford, 1992, pp.547+図版・地図、の大判で、古代ローマ時代の地中海における沈没船研究であるが、本を開いて驚いたことに、その大部分が沈船データのカタログ・リストで、本文といえるのは、最初の30ページを占めている程度。いかにも英国的研究で、価格は古書で¥12,947。本当は所蔵する国内大学図書館が複数あるのだが、図書館が閉鎖中でやむを得ず自腹を切った。相互貸借だとまあ郵送費往復2000円台ですんだのだが。

 これの入手動機は、この秋の某学会大会で発表しませんか、という話があり、じゃあ時節柄マルクス・アウレリウスの疫病についてやろうと思い立ち、関連論文を集めていたら、その中で、疫病蔓延影響のせいで、明らかにマルクス・アウレリウス時代の沈船が少なくなっているとの以下の記述を確認するためであった。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9, 1996, p.139, n.182. 以下がそこで引用されていたfig.5である。私的にはむしろfig.3のほうが全体を見通せていいと思うので、並載しておく。

Fig.3 Ancient shipwrecks:Mediterranean wrecks by date, grouped in centuries

 あげく、学会大会なくなるかも、だが。その時は、この研究、面白そうなので誰かやってみませんか。

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古代ローマの感染症:(6)大量遺体発見、Santi Pietro e Marcellinoのカタコンベ

 スペインやイタリアでは「医療崩壊」に続いて「葬儀・埋葬崩壊」が起こっているという。通常の2.5倍の死者で、感染症ということもあり、感染防止のため遺族は最後の面会もできず、葬儀業者も二の足を踏んでいるとか。https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60217?pd=all

キャプションによると、北イタリアで火葬を待つお棺:あちらでも火葬は段々広まってきてはいたが
アメリカ、NY市営墓地のハート島での集団埋葬。こっちは相変わらず土葬のよう;https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/041500236/
ブラジル、アマゾン地区の埋葬場所

 それで、紀元前5世紀後半にアテナイを襲った疫病や、14世紀の黒死病のときの死体の処理の仕方を思い出した。とにかく穴を掘って次々放り込むしかなかった。https://www.msn.com/ja-jp/news/world/14世紀半ば、全欧が怯えた「黒死病」パンデミック/ar-BB12seT4;https://www.jsvetsci.jp/veterinary/zoonoses/159.php;https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/011700018/?P=1;https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/022400122/

ロンドンで発掘された14世紀の集団墓地

 この話で以下も思い出した。以前、コンスタンティヌス帝とマクセンティウス帝のローマ攻防戦を扱った時に、マクセンティウス側の皇帝特別警護騎兵連隊専用墓地を調べていて、思いがけず以下のような情報に接していたからである。

 2002年のこと、ローマ市城壁から東に走る現在のCassilina通り(かつてのVia Labicana)の、約3キロに位置する、Sacra Famiglia女子修道院とそれが経営する小学校の地下排水管が壊れた。修理のため下水溜め周辺が掘り返された時、シスターたちは驚くことになる。とんでもないサプライズに出会ってしまったからだ。翌年夏までに地下から5つの部屋が新発見され、その中から1000体以上の人間の遺骸が見つかったのである。出土遺物の調査結果から、一説では彼らは3世紀の初めのあるときに、ほとんど一斉に埋められたらしい。

発掘現場:遺体がぎっしり床を埋める

 その発見場所は、実はとりわけ特殊な場所だった。その女子修道院は広大な「Santi Pietro e Marcellinoのカタコンベ」群の上に建っていたからである。その墓地群は3層の回廊をもち最深部は地表から11mと、ローマ所在の最大級規模カタコンベの1つで、3世紀後半から4世紀にかけて拡張され総延長4.5キロにわたり、実に、2万から2万5千人の死者が埋葬されていただけでなく、ローマ市周辺の60のキリスト教墓地の中にあって、このカタコンベは壁面を飾る全壁画の三分の一を占めていた。なので当然のこと、最初は新たなカタコンベの部屋と考えられた。しかし実際は異教徒の墓だった。

聖ピエトロと聖マルチェリーノのカタコンベ:右端円形が聖ヘレナ墓廟

 その地所にはカタコンベ以前にも著名な前史があった。すなわちそこは元来、皇帝警護特別騎兵連隊 Equites singulares Augusti の墓地だった。この騎兵連隊は、1世紀末に皇帝トラヤヌスによって創設されたらしい。それが200年以上を経ての312年、コンスタンティヌスとマクセンティウスの内戦で、かの騎兵連隊はローマを守護するマクセンティウス側として戦闘に動員され、ミルウィウス橋の闘いの敗北後に勝者コンスタンティヌス大帝によって解隊の憂き目にあった。彼らの新旧兵舎は、現在のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂付近にあった。衆知のように、コンスタンティヌスが帝都ローマを掌握した後、その兵舎は没収された(一時皇后ファウスタが居所としたのは、新兵舎というよりも近所のラテラヌス家邸宅だったとすべきだろう)。旧兵舎のほうは皇母ヘレナに譲られ、現在はサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会及び周辺遺跡となって残っている。他方、新兵舎はキリスト教共同体に寄進され、現在のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂・宮殿となっていく。騎兵連隊の練兵場が、そこからラビカナ街道を3km東にいった「in comitatu」であり、そのそばの「Ad duas Lauros」に彼らの専用墓地もあった。そこが後にSanti Pietro e Marcellinoのカタコンベになった。

ローマ市壁傍の現ラテラノ教会付近の新・旧騎兵連隊宿舎地

 キリスト教時代になり地下墓地が掘削されただけでなく、地上には、コンスタンティヌス朝時代のローマ特有のチルコ型バシリカbasiliche circiformiで、巡礼教会堂のみならず、コンスタンティヌスの皇母聖ヘレナの霊廟も建てられた。彼女用にそこに安置されていた紫斑岩製の巨大な石棺は、現在ヴァチカン博物館に展示されている(もう一つの対面して置かれた同様の石棺は、現サンタニエーゼ・フォリ・レ・ムーラ教会横のサンタ・コスタンツァ霊廟にあったもの)。すなわち、騎兵連隊によって使用されていた時期に、この地はそこで奉職していた兵士たちのための墓地として使用されていた。なので、異教徒の埋葬の存在自体は驚くべきこととは言えないのである。

聖ピエトロと聖マルチェリーノ教会の現況
http://www.meetingmostre.com/detail.asp?c=1&p=0&id=2757

 カタコンベは普通、loculi、arcosolia、cubiculaが隣接する回廊で成り立っているが、今般発見された2つの回廊に接続した部屋の構造(大きさ、形状、レベル)は異常であった。各々の部屋は高さ1mもの大量の人骨が折り重なっていた。ピサ大学の二人の人類学者によって2004年に一室で行われた調査では、50体以上が同時ないしきわめて短期間の間にそこに埋葬されたことが判明した。2005年と2006年の調査で、残りの6つの内2つの集団が対象とされ、160の遺体がみつかった。これらも交互に並べてほぼ10体の高さで積み重ねられていた。他の部屋でも精査が行われ、総計3000体以上が算定された。劣悪な保存状態にもかかわらず、生物学的研究は、若い成人(しばしば女性)が多く、子供が少なかったことを示した。また、処刑されたキリスト教殉教者を示すような骨の損傷は認められなかった。

交互にぎっしりしかも整然と積み重ねられてた遺体

 最大の驚くべき点は、各々の墓の中での例外的葬送習慣だった。各々の遺体は、布で包まれて頭、足と交互に丁寧に並べられ、贅沢な埋葬品は見あたらないが、最初注意深く扱われ(後になると乱雑だった由)、頭から足まで白っぽい物質が振りまかれていた。幾人かのそれは極上の赤い粒子と金糸で覆われていた。実験室での調査で、遺体を覆っていた材質は漆喰と、バルティック沿岸由来の琥珀のような赤い残留物に同定された。葬送儀礼の独創性と使用された材質は裕福な社会層を示唆している。一つの仮説として、この集団埋葬が「マルクス・アウレリウスの疫病」の反復襲来の犠牲者だったのでは、という想定がなされていて、かなり説得力があるが、ただ、とりあえずの炭素14の調査では時期的にもっと早めの数字が出ているようで(この情報段階では、まだ一体だけの調査のようだが、後28-132年の間と出たらしい)、断定はできない状況ではある(Cf.,http://archive.archaeology.org/online/features/catacombs/;https://www.inrap.fr/en/catacombs-rome-thousands-victims-epidemic-12166)。

 この件に最初出会った当時集めていた情報には、出土品の中にネロ時代や3世紀初頭のコインが含まれていて、といったのもあったはずだが、今回それはヒットしなかった。ま、コインが出土したからといってそれはその同時代性を意味しておらず、いわゆる「terminus post quem」(年代想定の)上限年代を示しているだけのことで、その後であればたとえ200年後の作業員が落とした可能性もあるわけだ。それにまた、当方入手の情報に時間的揺れもあって数字が必ずしも一致しないが、その埋葬状況から、時代がいつにしろ、それが疫病などの犠牲者で、短期間の間に大量の死亡者が出て埋葬されたというあたりの想定に間違いはないだろう。

 余談だが、教皇フランシスコが2015年12月から翌年11月にかけて実施した「慈悲の聖年」Anno Santo della Misericordiaの折のこと、世界各国からの巡礼団向けに特別公開されていたこのカタコンベを見学する僥倖に恵まれた(掲示だといつでも予約で見学可能となっていても、連絡しても私のような個人レベルに対しては音沙汰がないのが普通なので)。いつか見たいものと思ってきたが、それを知らせ予約してくれた藤井慈子さんに深く感謝しなければならない(あろう事かその見学予定を失念していて、藤井さんからの電話でテルミニからタクシーで駆けつけたというおまけもあった(^^ゞ)。もちろんガイド引率のもと、内部撮影は許可されなかったものの、おおこのフレスコ画もここだったっけ、とか、写真での印象より思ったより小さいな、といった驚きと実体験にみちた見学であった。それほどに著名で保存のいい鮮やかなフレスコ画にあふれていたことを思い出す。その時我々は8年前まで行われていた発掘調査を知るよしもなく、担当した女性ガイドに確かめることもなく素通りしてしまったわけで、言ったところで、基本ボランティアのガイドが見せてくれるはずもないが、それでも万一の僥倖なきにしもあらずがイタリアなので、その点はかえすがえすも残念であった。

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ポンペイ首なし遺体の新解釈:遅報(28)

 いつものことながら他をググっていて、偶然見つけた。現在発掘が進行しているポンペイ遺跡の第五地区で2018年5月に新発見された首なし遺体は飛んできた岩によって首が飛んだ、と解釈されていたが(それにしても、あのしゃれこうべは強烈な印象であったので、それなりに説得力あったが:

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/07/ancient-pompeii-victim-not-crushed-by.html#rqH59eTFZPPorzPz.97)、新たな死因が浮かび上がった、由。https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/070300292/ 

「岩による圧迫死ではなく、火砕流に巻き込まれて窒息死したものと考えられます」とフェイスブックで発表したのだそうだが、私は釈然としない。

 どうしたってイタリアでの考古学記事は、最初は新聞種になりやすいセンセイショナル な解釈が、多分に意図的に提示され、あとからなんとも散文的で陳腐な説明がされるようで、なんだかな、という感じである。

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太陽神としてのネロ貨幣

 このところ貴重な珍品の出品が続いているCNGのウェブ・オークションにまた出物があった。皇帝ネロの巨像colossusがらみのもので、しかも金貨と銀貨が。ちなみに、このコインたち、業者想定価格は、銀貨が$8500、金貨が$7500。銀貨の方が高いのはなぜだろう。それだけ品薄なのだろうか。

 デザインと打刻銘文はまったく同じ(ただ明らかに彫り手は違っている:よく見ると頭髪の襟足部分も異なっているが):表側が右向き月桂冠着装の皇帝ネロ(銀貨のほうは顎髭あり)、銘文は「NERO CAESAR」。裏面は、皇帝が放射冠をかぶって、トーガ姿で全体は正面を向いているが、左足をやや折り曲げ、右手に小枝、左手に円球の上に立つ女神Victoria像を持し、皇帝の顔は女神に向いている。銘文は「AVGVSTVS GERMANICVS」。彼の正式称号はNero Claudius Caesar Augustus Germanicusなので、ちゃんと符合している。

 このコインが注目されるのは、裏面の皇帝立像が、最初彼の黄金宮の前庭に建てられた高さ30メートル(台座含みで37メートルか)の巨像を彷彿させるからである。というより実際には、コインのデザインが巨像の復元において影響を与えている、というべきであろう。ただ、コロッセウム関係のコインのデザインを見てみると、共に巨像が描かれているものは多くない(ゴルディアヌス3世のみで、ティトゥス[その理由は、コロッセオ近くへに移動はハドリアヌス帝時代のため]、アレクサンデル・セウェルスにはない[悪帝コンモドゥスを想起させるからか]:メタ・スーダンスのほうは確実に描かれている:なお、東側の、右に描かれている建物が今一明快でないので、識者のアドバイスをいただけたらと思っている:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。

左はGordianus III世貨幣の舵を持つ巨像、その手前は噴水のメタ・スーダンス;右側のようなコロッセウム建設当事者のTitus時代の衝角付円柱上の太陽神立像もあったらしい
色々の復元があるが、巨像を支えるため舵と肘置き台は必要だったと思う:この復元図だとコンスタンティヌスアーチ門が描かれているので、後315年以降の風景となる(但し、307年にアーチ門右奥のウェヌスとローマ神殿は火災に遭っていた)。

 上掲のゴルディアヌス打刻コインの裏側も機会があれば詳しく触れたい興味深い物件である。皇帝ハドリアヌスがかの巨像をフラウィウス円形闘技場の西北に移動させた件は、拙稿「記念建造物の読み方:コンスタンティヌス帝の二大建造物をめぐって」豊田編著『モノとヒトの新史料学:古代地中海世界と前近代メディア』勉誠出版, 2016年,87頁あたりで多少触れたことがある。

【付論】ところで、この巨像は金メッキの青銅製で中は中空だった。そしてその片足(たぶん上の想定図だとまっすぐの右足のほうか)の内部に、おそらく螺旋状の階段があり上に登れる構造となっていたらしい。私的には肘置き台のほうがありえると思うのだが。その階段の一部と称するものがトラヴァーチン製で残っていて、それが東から聖道Via Sacraを登り切って、ティトゥス凱旋門の手前、現在入場口となっている場所の右側になにげに放置されている(https://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Gazetteer/Places/Europe/Italy/Lazio/Roma/Rome/_Texts/PLATOP*/Colossus_Neronis.html)。それが巨像の階段だったと断定されている根拠を、私は知らない。住宅の階段のように、こっから上は案外木製だったのかもしれない。いや皇帝の建築だからそんなことないか。

左が正面、右が裏側:2015年冬撮影

【追記】2020/5/30のCNGでは、上記ネロ帝金貨が、想定価格5000ドルで再登場している(2500ドルもコストダウン!)。現在入札は4人目で3500ドル。銀貨は売れたのだろうか。

【追記2】https://gigazine.net/gsc_news/en/20210203-rome-in-3d/

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古代地中海通商路地図

 論文検索していて、偶然見つけた。使いこなせればなかなか有用に思える。”ORBIS:The Stanford Geospatial Network Model of the Roman World.” 19 November 2014(http://orbis.stanford.edu/). 人も物も、そして感染症もこれらを通じて移動していく。

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古代ローマの感染症:(5)簡略学説史

 私は、2ー3世紀の感染症が古代地中海世界の「3世紀の危機」の付随的ながら第1要因だった、という仮説を検証しようと思っている。より決定的要因は、おそらく地球規模の気候変動によるものだろう(その原因としては、太陽黒点の問題や地軸の移動、小氷河期の到来、などが考えられている)。簡単に言えば、当時生きていた人々にとって前代未聞の事態(気候変動)が生じ、それがそれまで定着・依存してきていた農耕牧畜生産に重大な影響を及ぼし、飢饉による食糧難状況が出来していたところに、東方渡りの感染症が伝播してきて、それが波状的反復的に流行することで、多大な人的損耗を生じ、経済的・軍事的基盤に顕著な後退をもたらした、と考えるのである。

 このような視点で考えるとき、頭をよぎらざるを得ない疑問として、第1に、多大な被害を受けたのは、地中海世界のローマ帝国住民だけだったようだが、ほんとうにそうだったのか、ということである。すなわち、まず、帝国にとって第1戦線だった東部国境線の向こう側(パルティアやササン朝ペルシア)はもとより、帝国内でも、東部諸州に比べて、帝国西部での被害がより大きかった印象がある。第2に、ローマ帝国にとって第2戦線といえるライン・ドナウ国境線の北のゲルマン諸部族はこの感染症によって被害を受けていなかったのかどうか、である。要するに、ローマ帝国西部の一人負け状態だったといえるのか(それはもちろん、5世紀の帝国西部崩壊への布石となる)、という問題提起である。今はやりの言い方をすると、この感染症が多数の地域での罹患流行の「パンデミック」だったのか、一定地域でのそれ「エピデミック」だったのか、ということである。西欧古代史研究者は西欧人が中心なので、もっぱら地中海のみに視野が置かれていたせいもあり、このような周辺地域を比較検討してみる視点が私を含めこれまで欠落していたように思われる。我々東洋人がそれに追従する必要はない。

 忘れないうちに、メモしておこう。

 実は、マクニールなども、ユーラシア大陸の東端の中国でこの時期に疫病の周期的流行が記録されていることに注目してきた。前段の件でもローマと中国が疫病に襲われていた時期に、イラクやインドは人口増加していたとしている(p.109)。それに、ユーラシア大陸の西と東を結ぶ陸路のシルクロードや、インド洋貿易路の活発化、その象徴的出来事としてよく挙げられるのは、後漢の正史『後漢書』に、まさしく166年に大秦王安敦の使者(と称する者)が日南郡(現在のベトナム中部)に渡来し、象牙・犀角・タイマイ(海亀の甲羅)などをもって入貢した、という記述であるが(それに先立つ97年に、西域都護の班超が部下の甘英を大秦に派遣し、パルティアに達したがそこで引き返している)、マクニールは、隊商貿易は2世紀中葉以前に早くも下向きになっていることに注目している(p.107)。とはいえ、こういった遠距離を通商路が媒介となって感染症が伝播した、と言い切るのには正直いって現段階では勇気がいるのであるが。少なくとも途中で感染者がほぼ死亡してしまう陸路よりは、今般のクルーズ船さながらに海路のほうの可能性ははるかに高い、かもであるが。

 また、この時の感染症の目撃者として登場する医師ガレノスは動物だけ解剖して、人体解剖はしていなかった、と言われているが、信じられない。「しなかった」のは、何らかの理由で「してはならない」という忌避観があったので、公然とは避けられていたが、医師教育の秘儀伝授としては行われていたのでは。というのは、少なくともエジプトでははるか紀元前の昔からミイラ製作をしていたではないか。また、アスクレピオス医療団の特異性も麻酔を使っての外科手術とされていたはずではなかったか。なにも16世紀のヴェサリウス(1514-1564年)を待たなくとも、実際にはやっていたが、外聞が憚られたからだけのことではないのか。

 さらに、今般の疫病で、251年に皇帝デキウスの第二子Hostilianusがローマで(Epit.de Caes.30)、270年に皇帝クラウディウス・ゴティックスがSirmiumで没している(Zonaras, 12.26;Historia Augusta, vita Claudii,12.26)。以上、閑話休題。 

 さて、ローマ帝国衰亡との関わりで、後出のJ.F.Gilliam(2004年)はまず簡略な学説史をまとめている。ニーブールは19世紀半ばにこう書いている。「この悪疫は、信じられないほどの激しさで襲いかかってきたに違いない。そして無数の犠牲者を出したのである。マルクス・アウレリウスの治世は、さまざまな分野、特に芸術や文化において転換点となっているので、この危機が疫病によって引き起こされたことを私は疑わない。古代社会が、マルクス・アウレリウスの治世に試練をもたらしたこの疫病から受けた打撃から回復することはもうなかった」。

 オットー・ゼークは20世紀初頭にこう断言している。「帝国の人口の半分以上が失われた。その後のゲルマン人の定着は、長期的な意味での価値に根本的な変革をもたらした」。

 もう少し時代が下ると、パーカーはこのように考えを表明している。「疫病はローマ世界を打ちのめした。多くの地方は、ほとんど人が住まないようになってしまった。おそらくは、他のどんな要因にも増して、ローマ帝国の衰退の原因となったことだろう」。ボークはそれよりも20年ほど後の1955年に、重要な著作Manpower Shortage and the Fall of the Roman Empire in the West において、実質的に同じ意見を踏襲している。特に注目すべきなのは、以下の点である。マルクス・アウレリウスはマルコマンニ戦争の末期に、「ローマ軍に兵力を供給する義務を持った土地所有者として、敗れたマルコマンニ族を帝国内に定住させるという手段に訴えなければならなかった。明らかに、マルコマンニ族を配置する誰もいない土地を見つけることは困難ではなかった」。

 彼らの論述が事実だとすると、はっきり言ってローマ帝国は実質的に崩壊状況だったことになる。

 ギボンやロストフツェフのように、諸史料からの影響をそれほど受けず、ローマ帝国の衰微に関して、帝国に起きた流行の影響をより控え目に見る著述家もいて、疫病なんかに関心持たない研究者は専らこっちの立場に立ってきたわけ。

 多少「マルクス・アウレリウスの疫病」を勉強してみると、より最近の疫病研究である意味画期だった2篇が浮かび上がってきた。重要学説としては以下だろう。J.F.Gillian, The Plague under Marcus Arelius, American Journal of Philology, 82-3, 1961, pp.225-251. この、文書文献の記述内容を抑制的だったギリアムの所説に35年後にその後の成果を加え、一定の修正を施したのが、以下である。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9,1996, pp.108-136.

 中長期的に見たローマ帝国の衰微におけるアントニヌスの疫病の役割に疑問符を呈する研究者たちの中で、もっとも説得的なのはギリアムである。彼によると、本質的な問題は、マルクス・アウレリウスの治下に疫病で何人が死んだのかを理解することである。ギリアムは自らの論証に基づく答えを導くために、1961年の上記論文の中で、165年に始まった疫病が致死率の点で強い衝撃を与えたことを支持する数々の研究者たちが行った論証を批判的に分析しようと試みている。

 ギリアムによれば、綿密かつ広範な統計はない上に、包括的で正確で信頼に足る悪疫の話は一つもないとされる。文字史料が肯定的な答えを出すための主要な証拠だとするならば、より興味深く広範な記述は4世紀や5世紀まで時代が下るものであり、したがって事件の同時代の著述家が直接書いたものではないという点を特に気づかせてくれる。ガレノス自身、この件について何ら著作を残さず、いつも付随的に、他の出来事との関連で述べるにとどまっている。つまり、ギリアムの意見では、現代まで伝わっている報告には、後の世紀の著述家たちによって過度に誇張されたものであるとか、同時代の人々が客観的ではなかったのではないかという疑惑があるというのである。特にオロシウスにはあまり信頼を置くことができず、エウトロピウスやヒエロニュムスさえもほとんど信頼できないとする一方で、『ローマ皇帝群像』には一定の信用性があるとされる。「疫病については、皇帝が指揮する大戦争と関係がある場合、あるいはローマを襲った場合を除いて、ほとんど何も報告されていない」という疑念が持たれている」。

 ギリアムの批判はこれらの文書史料にとどまらない。その見解をまとめると、仮説を論証するために持ち出された疫病にまつわるギリシアの碑文も、作成年代が確かではない。軍の苦境に関するデータも、問題となっている時代の募集可能人数の低下によって部分的なものにとどまっており、信頼に値する評価はできない。そして彼の判断するところ、エジプトが大規模な流行に見舞われた証拠はなく(クレペレイオスを除き、エジプトで流行が拡大していたことを報告している史料はまったくない)、農村部からの逃亡やその結果として172年または173年に起こった牧人たちの反乱――アウィディウス・カッシウス指揮下のローマ軍団が介入することを余儀なくされた――は、重すぎる税徴収や他の原因(国粋主義的な衝動か)によるものだった、とされる。

 さらにギリアムは、貨幣発行において疫病への言及が期待されるが、実際にはそうしたものは特段見られないと指摘する。あいまいな形ではなく、明確に疫病に言及されている事例は、ガリア王国の貨幣で確認されており、そこでは救済者アポロン(Apollo Salutaris)の肖像が登場するくらいである。

 最後にギリアムは、帝国の国境線内に蛮族出身の住民を登用する慣行は何もマルクス・アウレリウスに始まるものではないという点も気づかせてくれる。ストラボンは、アウグストゥスの治世に4万4千のゴート族がドナウ以南に定住したこと、またネロの治世にモエシア総督が10万以上の蛮族を属州に受け入れたことを記している。ギリアムは、マルクス・アウレリウスがローマ帝国を蛮族の領域にまでさらに拡大させてドナウ以北に新しい属州を創設しようとしていたかについては否定的である。また、国境線内に蛮族の住民を登用するという皇帝の意志は、これらの未開の地においてローマの庇護の下で植民活動の可能性を広げると同時に、ローマ軍がよりコストの小さい部隊を保有する機会を手にするためのものであり、さらにはこうした動きによって外敵の最前線を政治的軍事的に分断するための施策と解釈すべきだと考えている。哲学を見事に論じることもできたほどの高度な知的能力により、やがて哲人皇帝の異名を取るようになったマルクス・アウレリウスの知的な力量の高さを忘れてはいけない、というわけである。

 ギリアムは、その批判的著作を結論づけてこう書いている。「ともあれ、改変や修辞的な慣例を大目に見れば、マルクス・アウレリウスの治世に破壊的な大流行があったことはかなりはっきりしている。確実ではないものの、おそらくこの流行は、3世紀半ば以前のローマ帝国で起きたいかなる流行よりも多くの死者を出したものと思われる」。

 疫病がどれだけの死者を出したかという疑問に関しては、現在残っている唯一のデータ、すなわちディオン・カッシオスが挙げている数字から推計している。ディオンは、189年にローマで一日に2千名が死んでいったと記しているのだが、その際、この死者数はそれまで述べてきたどんな流行の時よりも多かったと述べる。それゆえギリアムは、アントニヌスの疫病の致死率が1から2%であり、5万から10万の死者を出したと推計している。

 これに対し、社会経済史家Duncan-Jonesは、35年後に、考古学資料を加味してギリアム説の一部修正に成功している。まず彼はエジプトのパピルス史料を読み込み、得られたデータを分析することで、アントニヌスの疫病がローマ帝国に及ぼした全体的な損害について見積もろうとする。要約すると、流行の初期にあたる調査対象の時期において、以下のことが分かる。

1) エジプトの村々で記録されている納税者の数は、流行に伴う死亡や逃避によって、33%から93%まで揺れ動いている。

2) 農地の賃貸契約の種類が増えていることが確認される。ただし、貸し出される農地の面積は小さくなり、同時に契約期間は延びている。このデータは労働力不足を示すものと解釈されている。

3) 167年直後に作成された文書の数は40%も減っていることが分かる。

 ナイル渓谷に住む人々にも流行の影響が及んでいたことを確証するとともに、人口減少のあおりを受けた農業経済の苦境を浮き彫りにしているこれらの証拠以外にも、もっと一般的にだが、流行現象の規模を示す別の情報もある。ダンカン・ジョーンズは、ローマやイタリア各地で年代が記された碑文が2世紀後半に明らかに減少していることを報告しているが、これは同時期の公共建築の衰退と関係がある。また、軍団兵の除隊にまつわるデータもヒントになるだろう。実際、兵士の除隊証明書数の減少が観察されており、特に167-180年にかけてはまったく確認されていない。さらに、ローマ――首都では特に167年に確認できる――でも、エジプトでも、通貨発行が劇的に減少していることが分かっている。もちろんナイル渓谷は、ローマ帝国の経済および文化面で最も重要な地理的区域の一つであった。デルタ地帯のいくつかの地域で村が移転していることを語るパピルスも面白い。より多くの支持を集めている仮説は、この人口減少は過度の税負担が原因であり、主にこうした理由から、農民が農村部から逃亡して都市に避難するようになったのだとしているのだが。

 ローマ帝国は農民の労働力で養われており、数多くの都市に食糧を供給するためにはかなりの労働量が必要とされた。そしてこの労働を圧倒的に生み出していたのは、穀物やオリーヴ油やワインを主たる収穫物とする農園であった。要するに、疫病と重すぎる税徴収が経済をうちひしぐ致命的な組み合わせとなって、ナイルのデルタ地帯において、また軍隊に補給し、税の徴収を通して中央政府に新しい資金を供給する義務を負ったその他のローマ帝国内の地域において、さらなる人口減少を招いたのだった。人々が商業をなりわいとし、行政機構で成り立っていた都市も、同様の苦しみを味わうこととなった。食料品が不足するようになって、暴動や反乱の危険があった。この劇的な時期においては、皇帝や国家に対する結束や忠誠が必要とされ、先に見たようにマルクス・アウレリウスが伝統的な信仰に対する信心を実践したのも偶然ではない。

 ところで、疫病に関して軍隊が大きなマイナスの役割を果たしたことは改めて言うまでもないだろう。文字通り「三密」(密閉・密集・密接)だからである。若干話が横に逸れるが、中国において、そもそも「疫病」の「疫」は、軍隊のなかで伝染病が発生しやすかったことから、軍人の服役の「役」に「疒」(やまいだれ)を加えてできたものだったらしい(邵沛「中日疫病史の中の「疫」と「瘟」『日本医史学雑誌』46-3, 2000, pp.140-1)。

 一説によると(https://www.mag2.com/p/news/448191/3;https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19337?utm_source=newsletter&utm_medium=email&utm_campaign=20200416)、今回の新コロナウイルスが、米海軍の空母四隻で感染拡大していて、現時点で世界展開するアメリカ海軍の三分の一に相当する戦力が動けず、著しい作戦能力の低下が見込まれている由。その間隙を縫って中国海警が進出し、これまでのバランスが崩れる恐れがあるようで、ローマ帝国と比較対照する上で今後注目していきたい(この場合、中国がゲルマン部族となるが、トランプ大統領がマルクス・アウレリウスの役を演じられるとは思えないのがミソである)。

患者が出た原子力空母「セオドア・ルーズベルト」

 もうひとつ、これまで触れておいたが、医療崩壊もマルクス・アウレリウス時代でご同様だった。おそらく多くの医療従事者がなすすべもなくなぎ倒され、ないしいち早く敵前逃亡して信用を失ったはずで、その時、同様に多大の犠牲を払いつつ罹患者救済に挺身したのがキリスト教であり、それが結果的に教勢拡大に寄与したとする識者も多い。

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古代ローマの感染症:(4)感染症は社会構造転換の契機となり得る

 「マルクス・アウレリウスの疫病」「ガレノスの疫病」「アントニヌスの疫病」は、いずれも紀元後165年から数十年、ないし1世紀間、古代地中海世界ローマ帝国を繰り返し波状的に襲った感染症である。

 その結果、著しい人的消耗=人口減が生じ、ために軍事力の低下、経済構造の破壊で、当時の社会構造全体が崩壊したとする仮説は、これまでも研究者によって注目されてきた。筆者の当面の関心は、この疫病を契機にキリスト教が上昇期を迎えたメカニズムの解明にあるが、それを今般目前で展開している新型コロナウイルスのパンデミック騒動(多分に情緒的な)と重ね合わせることで、探求したいのである。

 その意味で、今日掲載の以下のウェブ記事から学ぶことが多かった。高野猛「剥がれた化けの皮。安倍首相「やってるフリ」で逃げ切り図る賭け」https://www.mag2.com/p/news/447497/4。要するに「ソフトパワー」が変わるのではないか、という予感である。

 今回世界中の笑いものになった茶番劇「アベノマスク」は、あれこれの忖度騒動で国民の信頼感を消失してきた彼にとって(http://nml.mainichi.jp/h/acpjaxr7dDwDt5ab)、これまでと同じパターンで言い逃れようとしてかえって墓穴を掘り、側近政治の底の浅さをあますところなく露呈してしまったわけであるが、ここでそれには深入りしない。筆者が注目するのは高野氏の以下の指摘である。

 「このことを契機に、国家のあり方も世界経済の姿も、大きく構造転換を遂げていくことになるのではないか。米国は、世界最大の経済大国であり、全世界の軍事費の半分近くを一国で使い果たすほどの史上最強の軍事帝国であるけれども、その経済力と軍事力を振り回しても国民の命をろくに守ることができないという、情けない姿を晒している。しかもその責任を逃れようとするためだろう、これを「中国ウイルス」とか「武漢ウイルス」とか呼ぶことで危機の責任が米政府にはないことを国民に認めて貰おうとする、醜い努力を続けている。」「米国は、偉そうなことを言っているけれども、最低の生活保障も、最高の医療保障も、適正な福祉保障もない、詰まらない国だと世界中の人々が思い始めることで、世界は変わるのかもしれない。」

 この最後の引用が庶民感覚として流布・定着し出すとどうなるか。各種の数字をもとに、アメリカでの貧富の差の拡大など識者はすでに触れていたことだが(納税者のトップ0.1%、約17万世帯が国の富の20%を占め、全体としてアメリカ経済は成長を続けているにもかかわらず、トップ1%が国の富の約39%をコントロールし、下の90%が国の富に占める割合はわずか26%:https://www.businessinsider.jp/post-191278)、映画やメディア戦略で最大限振りまかれてきた「チャンスの国」幻想にまんまと乗せられてきた世界中が、今般の騒動でアメリカ帝国の実態のもろさに気付いてしまったのである。であれば、これはかつてのローマ帝国と軌を一にした崩壊プロセスのボタンが今回押されてしまった、ことになりはしないだろうか。

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古代ローマの感染症:(3)疫病と人種差別

 私はいい時代に長期滞在していたのだろう、イタリアで表だって東洋人として差別された記憶はない。コンドッティ通りで日本人どもが行列して買い物に狂奔し呆れられていた時代。私もひったくり(ターラント)やスリ(ローマ)、パスポート泥棒(ナポリ)に遭ったことはあるが、これは旅行者=金持ちと見られての被害だから、むしろ光栄だったのだ(と思っている)。まだもっぱら貧民層の中国人流入時代であり(このころ流入チネーゼは貧相な衣服なので一見して判別できた。今はそれができない。むしろニコンD3あたりをフル装備でこれ見よがしにぶら下げていて、私は羨望の眼でみたものだった)、韓国人も目立たなかった。30年前に目についた最底辺労働者は、北アフリカ人(チュニジア、モロッコ)やフィリピン人だった。そう黒人もいたが、彼らは悪いことせずもっぱら路上行商だったなあ。バングラデシュ人が多くなったのは20年前あたりからだったか。

 どこかでしゃべったり書いた記憶があるが、30年前に、アヴェンティヌス丘のサン・サビーナ教会を見学したあと、テヴェレ川を見下ろす見晴台から夕暮れなずむサン・ピエトロ方面を眺めていたら、聞き慣れない女性たちのお喋りが背後から聞こえてきた。そちらを見ると、数台の乳母車を連ねて、ベンチに座ってタガログ語でてんでに喋っている数名のフィリピンさんたち。乳母車の中はイタリア人の赤ちゃん。そうか、ローマでイタリア人の赤ん坊を育てているのは、安い賃金で雇用されているフィリピン女性なんだ、しかしタガログ語聞いてどんなローマ人に育つのやらと思って、ふとひらめいたのは、そうだ! 古代ローマ人を育てていたのは奴隷女だったのだ! ということだった。今も昔も異民族労働を享受して少しも動じないのが富裕層のイタリア人、というわけ。そういえば思い出したが、街を歩いているイタリア人老女の手を取って散歩させているのも一見して分かる多くがフィリピン人女性で、これは数年前私の母がヘルパーさんの世話になるようになって、だいたいは同朋女性だったが、東京練馬区でちょっとたどたどしい日本語の女性もいたりして、なるほどなと納得した次第。

 それほどにイタリア人の日常生活に溶け込んでいても、しかし異常事態になると、誰もが疑心暗鬼になる。こうして疫病流行時には、当然のようにフン族、蒙古人以来の黄禍思想が頭をもたげてくる。これが震源地がアメリカだったらどうなるだろう。アメリカ発祥なのに未だ「スペイン風邪」と表現して居直っている厚かましい彼らのことだ(スペインは抗議しないのだろうか)。どうしたっていずれかの劣等民族になすりつけるに違いない。

 「コロナショック 差別の“感染力”ウイルス以上:イタリアで、米国で 噴出するアジア人蔑視」:https://mainichi.jp/articles/20200323/dde/012/040/019000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article

 それで思い出した。サース騒ぎの2003年の夏に、南イタリア・ポッツオリの西のアヴェルヌス湖完全一巡の最終段階で、爆走してすれ違った車の中から何か叫ぶ声がした。ここの名物の温泉に入りたいなあと、そっちに気を取られていた私には聞き取れなかったが、同行の女子留学生から「サース」と言っていたとご報告が。このあと、アグリッパの隠し海軍基地で有名なルクリーノ湖の駅のジェラート屋に行った彼女が憮然とした顔で帰ってきて言うには、販売の兄ちゃんに「何いるの、サースちゃん」と言われた由。まあこんなもんです。彼らには中国人も日本人も区別できない。

 この2月に私が地下鉄の豊島園駅に向かっていて体験したことだが、マンションから出て車道横の二人並ぶのがせいぜいの狭い歩道を歩いていたとき、なぜか咳き込んでしまった(ちなみに私はマスクをしてました:花粉症なんで)。と、向こうから歩いてきていた若い同朋3名の男性がぎょっとして立ち止まり、塀と車道に身を寄せて、私の目の前には悠々すれ違える空間ができたのであ〜る。こりゃいいや、今度満員の地下鉄の優先席の前でやってみよう、厚かましい若いあんちゃんやねえちゃん、慌てて逃げて、座れるぞ、という着想が湧いたのは言うまでもない。

 しかし、あれもこれもまだ最初だからのような気がする。これ、黒死病みたいに蔓延してきたらどうなるだろう。たぶんそれどころではなくなるのでは。いや、かつてのユダヤ人のように、それ以前に東洋人は撲滅されちゃうのだろうか。

 だけど、と思う。たとえ同朋の中でさえも、日常的に学校でいじめがあり、福島原発被災者への心ないいじめもある。忘れっぽい日本人のこと、私は原爆二世だが、一世の時代には疫病扱いであり、結婚差別・就職差別もあったのだっ。もちろん部落差別も。今の若い人は知らないかもしれないが、沖縄差別もあった。欧米人をあげつらう前に、自分たち自身を見直せ!といいたい。というか想定内。

 ということで、166年の疫病の蔓延の時、地中海世界でどんな人種差別が生じていたのか、気になりだしている。瞥見の限りそれに触れた論文はないようだが、実際には絶対あったはずだ。これも研究者の怠慢。

【追記】あちこちでの差別行動が流れ出している。人間とは、どう言いつくろおうが、根底的に同じ人間を差別して一向に恥じないどう猛で、同時に哀れな動物なのである。https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60192?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60204?pd=all;https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60184?pd=all;https://mainichi.jp/articles/20200417/k00/00m/040/323000c?cx_testId=81&cx_testVariant=cx_2&cx_artPos=0&cx_type=trend&pid=14613

 最後のなんか、日本での日本人への仕打ちです。私も故郷にコロナ疎開したら、どうなることやら。ま、自衛はしないといけないだろうけど。

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コイン・オークションから:コンスタンティヌス貨幣

 CNGのオークション465でまたもや珍しいコインが売りに出た。

 320年シルミウム造幣所打刻の、コンスタンティヌス大帝(表側:CONSTANTINVS MAX AVG)、クリスプスとコンスタンティヌス2世(裏側:CRISPVS ET CONSTANTINVS CC:SIRM)の三皇帝の肖像画を刻印したAR Miliarenseで、出品者想定価格は$7750。まず私などの手にはおえない。

 2世は正妻Faustaからの316年頃の出生で、なんと半年後の317年にシルミウムで副帝caesarに昇格されている。クリスプスは300年頃に先妻(内縁)Minervinaから生まれた長男で、同じく317年に17歳で副帝昇格された。要するに以前紹介した319年打刻の陣営図型貨幣(ブログ2019/5/15)の翌年に製作されたもの。ちなみに大帝は47,8歳であった。

 私が注目するのは、この三皇帝並置のデザインが、「ラバルム」labarum、私が言うところの「皇帝旗」にきわめて似かよっていた可能性を感じるからである。以下が、エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』Ⅰ.31に基づいて作成された想像図である。そこでは「皇帝の胸像と、同じく彼のご子息たちのそれ」と書かれており、複数形の息子たちの数は明らかではないが、312年の後のことなので、まず319/20年段階では上記三帝だったとしていいだろう。

 そして、以下の図は、コンスタンティノポリスの宮殿入り口門に掲げられた巨大なパネル絵の想像図である。これもエウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』Ⅲ.3の叙述をもとに作成されたもの。

 めざといあなたは気付いたはずだ。上図のラバルムはブログ2020/1/12で紹介した「SPES」コイン裏側のデザインでもある。

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古代ローマの感染症:(2)アヘン常用者マルクス・アウレリウス帝

 スーザン・P・マターン女史の著作(p.226ff.)を読んでいたら、私的にとんでもない箇所に出くわした。本音ではしめしめと舌なめずりの体ではあるが。

 ディオン・カッシオスの言として「彼(マルクス・アウレリウス)は非常に小食で、常に夕食のときに取っていた。日中はテリアカという薬以外は決して口にしなかったからである。・・・その[薬の]おかげで、この[病気の]ことも他のことも耐えられたのだと言われている。」『ローマ史』72[71].6.3

 問題は「テリアカ」theriacaである。それについては、ガレノス『解毒剤について』1.1(14.4K)、『テリアカについて、ピソのために』15-16, 14.270-84Kあたりに書かれているらしいが、ずばり「皇帝のテリアカにはアヘン(「ケシの実の液」)も入っていた」由で(p.230f.)、要するにマルクス・アウレリウスはアヘン常用者だったと。この件は最近の文獻だと、Heinrich Schlange-Schöningen, Die römische Gesellschaft bei Galen:Biographie und Sozialgeschichte, Untersuchungen zur antiken Literatur und Geschichte, 65, 2003, Berlin, p.198-204で触れられている由だが、ガレノス処方のそれは3、4%で、マルクスは毎日「エジプト豆の大きさ」分の量を服用していた(『解毒剤について』1.1., 14.3K)、すなわち、一服ごとに33ミリグラムのアヘンが入っていたことになるらしい(Th.Africa, The Opium Addiction of Marcus Aurelius, Journal of the History of Ideas, 22, 1961, pp.97-102=Schlange-Schöningen, op.cit., p.202あたりの算定による)。これは生アヘンとしては少量ながら十分効果がある量だったらしい(p.231)。

ケシの実の樹液(白色)から生アヘン(褐色)の収穫

 というわけで、中毒者までには至らないが、皇帝は常用者だったということにはなりそうだが、これは一日33ミリグラムがどれほどのものかという医学的判定を経なければ結論でないものの、効果の持続のためには徐々に増量していったはずなので、さて実際にはどうだったのか、というところではある。

 となると、ストア派の賢人と誉れ高い人物の言説の背後に薬物依存という現実があったことになって(当時別に禁止されていたわけではないものの)、彼が書いていることのレベルを斟酌する上で、人間マルクス・アウレリウスの実像を追究すべき歴史学的にはとても興味あるテーマで、こういう観点からの『自省録』他の諸史料の読み直しが必要なのでは。誰かやらんかいな。

【追記】アヘンに関する簡便な論文を読んだ。最近はウェブからすぐとれる論文も多くなっていて大変有難い。M.H.ツェンク、田端守「アヘン:その薬物史と功罪」『生薬學雑誌』50-2、1996、pp.86-102。それによると、紀元後214年のローマ宮廷在庫品目録に17トンのアヘンの記録があり、312年には独特のアヘン商業組合も存在していた由(H.-G.Behr, Weltmacht Droge, Wien/Düsseldorf, 1980:古書発注中)。アヘンを精製したヘロインの耽溺者は一日に約0.6g(即ち、600ミリグラム)を必要としているとか(p.99)、17世紀の津軽の秘薬「一粒金丹」はアヘンを三倍量の米飯と搗(つ)いて丸薬としたもの(p.90)だとか(参照せよ、松木明知「麻酔の歴史:ケシの渡来と津軽一粒金丹」『日本臨床麻酔学会誌』10-5、1990、p.27によると一粒金丹は「阿芙蓉(アヘン)、膃肭臍の勢(オットセイのペニス)、龍脳、麝香、辰砂、金箔焼酎、三年酒」などで処方されていた由で、上記と内容に食い違いある。ま、混ぜ物も色々なレベルがあり、それによって価格帯もおのずと高低差があったのであろう)。

 となると、マルクス・アウレリウスは耽溺者の18分の1の摂取量となる計算になる。これがケルソスの調合で挙げられていた数字だった。

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