今日、イギリスから書籍が届いた。A.J.Parker, Ancient Shipwrecks of the Mediterranean and the Roman Provinces, BAR International Series 580, Oxford, 1992, pp.547+図版・地図、の大判で、古代ローマ時代の地中海における沈没船研究であるが、本を開いて驚いたことに、その大部分が沈船データのカタログ・リストで、本文といえるのは、最初の30ページを占めている程度。いかにも英国的研究で、価格は古書で¥12,947。本当は所蔵する国内大学図書館が複数あるのだが、図書館が閉鎖中でやむを得ず自腹を切った。相互貸借だとまあ郵送費往復2000円台ですんだのだが。
これの入手動機は、この秋の某学会大会で発表しませんか、という話があり、じゃあ時節柄マルクス・アウレリウスの疫病についてやろうと思い立ち、関連論文を集めていたら、その中で、疫病蔓延影響のせいで、明らかにマルクス・アウレリウス時代の沈船が少なくなっているとの以下の記述を確認するためであった。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9, 1996, p.139, n.182. 以下がそこで引用されていたfig.5である。私的にはむしろfig.3のほうが全体を見通せていいと思うので、並載しておく。
その発見場所は、実はとりわけ特殊な場所だった。その女子修道院は広大な「Santi Pietro e Marcellinoのカタコンベ」群の上に建っていたからである。その墓地群は3層の回廊をもち最深部は地表から11mと、ローマ所在の最大級規模カタコンベの1つで、3世紀後半から4世紀にかけて拡張され総延長4.5キロにわたり、実に、2万から2万5千人の死者が埋葬されていただけでなく、ローマ市周辺の60のキリスト教墓地の中にあって、このカタコンベは壁面を飾る全壁画の三分の一を占めていた。なので当然のこと、最初は新たなカタコンベの部屋と考えられた。しかし実際は異教徒の墓だった。
その地所にはカタコンベ以前にも著名な前史があった。すなわちそこは元来、皇帝警護特別騎兵連隊 Equites singulares Augusti の墓地だった。この騎兵連隊は、1世紀末に皇帝トラヤヌスによって創設されたらしい。それが200年以上を経ての312年、コンスタンティヌスとマクセンティウスの内戦で、かの騎兵連隊はローマを守護するマクセンティウス側として戦闘に動員され、ミルウィウス橋の闘いの敗北後に勝者コンスタンティヌス大帝によって解隊の憂き目にあった。彼らの新旧兵舎は、現在のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂付近にあった。衆知のように、コンスタンティヌスが帝都ローマを掌握した後、その兵舎は没収された(一時皇后ファウスタが居所としたのは、新兵舎というよりも近所のラテラヌス家邸宅だったとすべきだろう)。旧兵舎のほうは皇母ヘレナに譲られ、現在はサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会及び周辺遺跡となって残っている。他方、新兵舎はキリスト教共同体に寄進され、現在のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂・宮殿となっていく。騎兵連隊の練兵場が、そこからラビカナ街道を3km東にいった「in comitatu」であり、そのそばの「Ad duas Lauros」に彼らの専用墓地もあった。そこが後にSanti Pietro e Marcellinoのカタコンベになった。
この件に最初出会った当時集めていた情報には、出土品の中にネロ時代や3世紀初頭のコインが含まれていて、といったのもあったはずだが、今回それはヒットしなかった。ま、コインが出土したからといってそれはその同時代性を意味しておらず、いわゆる「terminus post quem」(年代想定の)上限年代を示しているだけのことで、その後であればたとえ200年後の作業員が落とした可能性もあるわけだ。それにまた、当方入手の情報に時間的揺れもあって数字が必ずしも一致しないが、その埋葬状況から、時代がいつにしろ、それが疫病などの犠牲者で、短期間の間に大量の死亡者が出て埋葬されたというあたりの想定に間違いはないだろう。
余談だが、教皇フランシスコが2015年12月から翌年11月にかけて実施した「慈悲の聖年」Anno Santo della Misericordiaの折のこと、世界各国からの巡礼団向けに特別公開されていたこのカタコンベを見学する僥倖に恵まれた(掲示だといつでも予約で見学可能となっていても、連絡しても私のような個人レベルに対しては音沙汰がないのが普通なので)。いつか見たいものと思ってきたが、それを知らせ予約してくれた藤井慈子さんに深く感謝しなければならない(あろう事かその見学予定を失念していて、藤井さんからの電話でテルミニからタクシーで駆けつけたというおまけもあった(^^ゞ)。もちろんガイド引率のもと、内部撮影は許可されなかったものの、おおこのフレスコ画もここだったっけ、とか、写真での印象より思ったより小さいな、といった驚きと実体験にみちた見学であった。それほどに著名で保存のいい鮮やかなフレスコ画にあふれていたことを思い出す。その時我々は8年前まで行われていた発掘調査を知るよしもなく、担当した女性ガイドに確かめることもなく素通りしてしまったわけで、言ったところで、基本ボランティアのガイドが見せてくれるはずもないが、それでも万一の僥倖なきにしもあらずがイタリアなので、その点はかえすがえすも残念であった。
デザインと打刻銘文はまったく同じ(ただ明らかに彫り手は違っている:よく見ると頭髪の襟足部分も異なっているが):表側が右向き月桂冠着装の皇帝ネロ(銀貨のほうは顎髭あり)、銘文は「NERO CAESAR」。裏面は、皇帝が放射冠をかぶって、トーガ姿で全体は正面を向いているが、左足をやや折り曲げ、右手に小枝、左手に円球の上に立つ女神Victoria像を持し、皇帝の顔は女神に向いている。銘文は「AVGVSTVS GERMANICVS」。彼の正式称号はNero Claudius Caesar Augustus Germanicusなので、ちゃんと符合している。
論文検索していて、偶然見つけた。使いこなせればなかなか有用に思える。”ORBIS:The Stanford Geospatial Network Model of the Roman World.” 19 November 2014(http://orbis.stanford.edu/). 人も物も、そして感染症もこれらを通じて移動していく。
もう少し時代が下ると、パーカーはこのように考えを表明している。「疫病はローマ世界を打ちのめした。多くの地方は、ほとんど人が住まないようになってしまった。おそらくは、他のどんな要因にも増して、ローマ帝国の衰退の原因となったことだろう」。ボークはそれよりも20年ほど後の1955年に、重要な著作Manpower Shortage and the Fall of the Roman Empire in the West において、実質的に同じ意見を踏襲している。特に注目すべきなのは、以下の点である。マルクス・アウレリウスはマルコマンニ戦争の末期に、「ローマ軍に兵力を供給する義務を持った土地所有者として、敗れたマルコマンニ族を帝国内に定住させるという手段に訴えなければならなかった。明らかに、マルコマンニ族を配置する誰もいない土地を見つけることは困難ではなかった」。
多少「マルクス・アウレリウスの疫病」を勉強してみると、より最近の疫病研究である意味画期だった2篇が浮かび上がってきた。重要学説としては以下だろう。J.F.Gillian, The Plague under Marcus Arelius, American Journal of Philology, 82-3, 1961, pp.225-251. この、文書文献の記述内容を抑制的だったギリアムの所説に35年後にその後の成果を加え、一定の修正を施したのが、以下である。R.P.Duncan-Jones, The Impact of the Antonine Plague, Journal of Roman Archaeology, 9,1996, pp.108-136.
320年シルミウム造幣所打刻の、コンスタンティヌス大帝(表側:CONSTANTINVS MAX AVG)、クリスプスとコンスタンティヌス2世(裏側:CRISPVS ET CONSTANTINVS CC:SIRM)の三皇帝の肖像画を刻印したAR Miliarenseで、出品者想定価格は$7750。まず私などの手にはおえない。
問題は「テリアカ」theriacaである。それについては、ガレノス『解毒剤について』1.1(14.4K)、『テリアカについて、ピソのために』15-16, 14.270-84Kあたりに書かれているらしいが、ずばり「皇帝のテリアカにはアヘン(「ケシの実の液」)も入っていた」由で(p.230f.)、要するにマルクス・アウレリウスはアヘン常用者だったと。この件は最近の文獻だと、Heinrich Schlange-Schöningen, Die römische Gesellschaft bei Galen:Biographie und Sozialgeschichte, Untersuchungen zur antiken Literatur und Geschichte, 65, 2003, Berlin, p.198-204で触れられている由だが、ガレノス処方のそれは3、4%で、マルクスは毎日「エジプト豆の大きさ」分の量を服用していた(『解毒剤について』1.1., 14.3K)、すなわち、一服ごとに33ミリグラムのアヘンが入っていたことになるらしい(Th.Africa, The Opium Addiction of Marcus Aurelius, Journal of the History of Ideas, 22, 1961, pp.97-102=Schlange-Schöningen, op.cit., p.202あたりの算定による)。これは生アヘンとしては少量ながら十分効果がある量だったらしい(p.231)。