昨日、美術史の後輩から教えてもらった以下の本が届いた。Idler Garipzanov, Graphic Signs of Authority in Late Antiquity and the Early Middle Ages, 300-900, Oxford UP, 2018. パラパラとめくっていたらその55ページに、なんとコインの表側だけにせよEの予期以上に鮮明な写真をみつけたのである。そのキャプションには、登録番号(inv.no.OH-A-ЛP-15266)まで明記されているではないか。スキャンしようとして、ふと思いついてググってみると、あっさりウェブ画像にもうアップされていた。それが以下の写真の上図右側で、中央はいつでも出てくるMである(博物館のHPに登場しているのであたりまえであるが)。左のWは摩滅で細部が不鮮明であるが、今回のEとの比較から、特に馬のたてがみや兜の羽毛飾りや皇帝の髪、それにぐっと下を見据え、顎を引いた細面の顔全体の表現の仕方から、おそらくEとWが同一金型だった可能性が強くなったように思われる。もちろん更に、裏側の詳細な比較検討が必要なことはいうまでもない。裏面の鮮明な画像の所在をご存知の方からの情報提供を期待している次第である。
そこで、我が図書室にある本で面白そうなものを昨日漁り、とりあえず以下を借り出した(余談だが、この分野で必須の古典は、W.H.マクニール(佐々木昭夫訳)『疫病と世界史』新潮社、1985年[原著:Plagues and Peoples, 1976]で異論はなかろうが、なんと我が図書館には文庫本も所蔵されていなかったのには、びっくり)。ジェニファー・ライト(鈴木涼子訳)『世界史を変えた13の病』原書房、2018年(原著:Get Well Soon:History’s Worst Plagues and the Heroes Who Fought Them, 2017)。原題と邦訳題はだいぶイメージが違う感じ。それとこの女性、語り口がかなりざっくばらんで軽妙なのである(ナウいアメリカの流行語を多用しているので、私などにはそのウイットの大部分が理解不能である。これは読者によって評価が分かれるところだろう:こうなると翻訳ももっと砕けた超訳にしたほうがよかったのでは)。論旨は「はじめに」で以下のごとし。
480年代著作の、Victor Vitensis, Persecutionis Africanae Provinciae, I.3 (9), in:MGH, AA, Tom.III, Pars 1, 1879 (rep.1961), p.3に、以下の文言が残っている。「そして必須の事どもを述べるなら、彼ら(ヴァンダル人たち)は、聖殉教者たちペルペトゥア、かつそしてフェリキタスの遺体が埋葬されたMaior(先人たち)の教会、Celerinaの(教会)、またScillitaniの(教会)、そして彼らが破壊しなかった他(の諸教会)を、彼ら(アレイオス派)の宗教へ暴君的な許可により引き渡したのだ」Et ut de necessaires loquar, basilicam maiorem, ubi corpora sanctum martyrum Perpetuae atque Felicitatis sepulta sunt, Celerinae vel Scillitanorum et alias, quas non destruxerant, suae religioni licentia tyrannia mancipaverunt.
最初にこの地を発掘してBasilica Majorumと断定したのは、アフリカにおけるキリスト教宣教を目的に、1868年にアルジェ大司教によって創設された「白衣宣教師会」Pères Blancs(ドミニコ会系らしい:Ch.-R.アージュロン[私市正年・中島節子訳]『アルジェリア近現代史』クセジュ文庫、白水社、2002年[初版1964, 11e édition, 1999]、 p.87)に所属していたAlfred-Louis Delattre師(1850-1932年)で、早くも1907年4月にペルペトゥアらの墓碑発見を報告している(A.-L.Delattre, Lettre à M.Héron de Villefosse, sur l’inscription des martyrs de Carthage, sainte Perpétue, sainte Félicité et leurs compagnons, in:Comptes rendus des séances de l’académie des Inscriptions et Belles-Lettres, 51e année, N.4, 1907, pp.193-5)。この書簡の宛先の人物は、Antoine Héron de Villefosse(1845-1919年)で、当時フランスで著名な考古学者、とりわけラテン碑文学の権威で、言うまでもなく投稿先の l’Académie des inscriptions et belles-lettresの会員であった。
左端のアプシスと右端のAreaを除き、61m×45mの広さの長方形の教会堂の中央身廊の真ん中に3.7m×3.6mの、床モザイクが敷かれたアプシス付き礼拝堂が建てられており、その地下クリプトは聖遺物室となっていて、巡礼が両脇の階段で昇り降りできるようになっていたらしい。礼拝堂のアプシスが教会堂のそれと逆向きになっているので、おそらくAreaがもともと1,2世紀起源の異教墓地で、そこに最初殉教者たちが葬られていたのであろう。但し、Noël Duval, Études d’architecture chrétienne nord-africaine, in:Mélanges de l’École française de Rome, Antiquité, 84-2, 1972, p.1117のFig.19では、教会堂からAreaへの入り口を囲むように小アプシスが、そしてArea内の南側、即ち、聖遺物室のアプシスと同方向に大きなアプシスがそれぞれ描かれており、後者の方は「Abside trouvée en 1929」と表記されている(この二重アプシス構造は、とりわけ北アフリカの特徴のようだ:cf., N.Duval, Les Églises africaines à deux absides: recherches archéologiques sur la liturgie chrétienne en Afrique du Nord, 2vols., Roma, 1971,1973)。ローマ世界では2世紀末から3世紀初頭にかけて火葬(遺灰壺埋葬)から土葬(木・石棺埋葬)への移行期だったので、異教墓地のほうの主流は火葬墳墓だったはず。教会堂とAreaの東側にキリスト教徒の土葬墓が集中的に確認されている他、例外的に教会堂北東の壁沿いに5基が描かれている(以下の写真Fig.3 参照)。
この発掘場所は、現在Mcidfaと呼ばれている場所で、奇しくも第2次世界大戦で戦死したアメリカ兵の広大な墓地が隣接し、また歩いていける距離で、音楽堂Odeon遺跡のそばには2004年に時の大統領Zine el-Abidine Ben Aliの名前の、堂々たるモスクも建設されている。しかし、2011年1月の「アラブの春」「ジャスミン革命」勃発で彼はサウジアラビアに亡命し、その地で2019年9月に死亡しているので、その後モスクはどうなったのだろうか。
墓碑発見後すでに1世紀経過しているが、この墓碑を巡っての論義は活発とは言いがたいらしいが続いている。上記で触れたように、そもそもDelattre師の発掘地点が本当にVictorが述べているBasilica Majorumなのか、ということ自体に疑問があるし、Delattre師たちの発掘方法が問題視されたり(正直、次段落のモザイクの発掘地点がどこなのか、私にはよくわかっていない)、銘文の復元を巡っても異論が提出されている(cf., B.D.Shaw, The Passion of Perpetua, Past & Present, 139, 1993, p.42, n.88, 89)。おそらく聖書考古学での発掘にありがちな最初に結論ありきの決め打ち発掘や、強引な論証、さらには調査方法の杜撰さが指摘されているわけであるが、だがH・シュリーマンのトロイア発掘(1870年代)やH・カーターのツタンカーメン発見(1922年)でもそうだったように、調査方法がまだ手探りだった考古学黎明期では多かれ少なかれそれが普通のことだったというべきか。この件は、このブログでもポンペイでの最近の再調査でこれまでのロマンあふれる解釈がもろくも崩壊していることを考え合わせると納得していただけるかもしれない(2019/4/14)。それにしても、この問題をからめて集中的に掘り起こすと色々面白そうなテーマなので、誰かきちんとやってくれないかな、と思う。
関連で、さらに浴場近くのDermech地区の遺跡(le monastère de Saint-Étienne)からは、モザイクで描かれたメダイオンの中に、5+2名の聖人名が記されていたものが出土している。右端からSaturninusとSaturusの銘文が埋め込まれ、次いでSirica、Istefanus、Speratus、そしてかろうじてフェリキタスを予想させる「・・・TAS」が続き、となるとほとんど失われてしまった左端のメダイオンにはペルペトゥアが想定される一連の殉教者モザイクなのである。これは現在バルドー博物館に展示されている。これもカラー写真が見当たらない(中央部分の2つのは見つけた)。ご存知寄りの方からの提供を期待している。
ところで、ウェブ情報(https://www.wikiwand.com/fr/Perpétue_et_Félicité)で以下を知った。彼女の聖遺物は439年(ヴァンダル族のカルタゴ占領時)にローマに移動され、それから843年にBourges大司教Raoulにより、フランス中部のSaint-Georges-sur-la-PréeにあったDèvres (ないしDeuvre)大修道院に移され、そこが903年のノルマン人に掠奪された後に、926年に近隣のVierzonに移され、そこの現在の市庁舎に置かれていたが、1807年にNotre-Dame de Vierzon教会内に移葬され今に至っている由。以下の写真は、その教会内のもの。以上の聖遺物の移葬情報はベリー地方の伝承によるものなので、その真偽を問うのは野暮というものだろう。
もう一つはフェリキタスで、University of Dayton所蔵の160を数える聖遺物の中にあった。大学だからもちろんちゃんとした鑑定書付きである。以下いずれもアメリカ合衆国の事例。
他に大学関係では、University of Notre Dameにもペルペトゥアとフェリキタスの聖遺物がある由(http://faith.nd.edu/s/1210/faith/interior.aspx?sid=1210&gid=609&pgid=13647&cid=28385&ecid=28385&crid=0)。
ペルペトゥアの夢の中に出てくる「天に向かう(ヤコブの)梯子」La scala del cielo(di Giacobbe)に関して、以下の文獻から首尾よくフレスコ画の出版当時の残存状況のカラー画が入手できたので衆知します。
Joseph Wilpert, Roma Sotterranea : Le pitture delle Catacombe romane, Roma, 1903, tavole, Tav.153 ; testo, p.445, Fig.43.
残存フレスコ画(カラー)はTav.153、復元線描画はFig.43、です。後者で、左右の図柄が同じなのはなぜ、と思っていたが、この原画をみたらWilpertの想像ということが今回判明。中央のイエス像も光輪はなかったのでは。出土場所は、Henri Leclercqによると( par Le R.P.dom Fernand Cabrol, Dictionnaire d’Archéologie Chrétienne et de Liturgie, Paris, II/1, 1910, col.151-2)、cimetière de Balbineとなっているが、Wilpertでは、arcosolio dei Santi Marco e Marcelliano。製作年代は四世紀末となっているよう。
実は上智大学には、なぜか以下が所蔵されてます。20年ほど前にそれを見つけたとき狂喜しました。でも・・・ドイツ語とはいえ、出版年など書籍データがイタリア語版とかなり重複しているので、ひょっとして同内容? 明日調べてみましょう。 Joseph Wilpert, Die Malereien der Katakomben Roms ; Textband, Tafelband, Freiburg, 1903.
場所はI.x.11の、Casa degli Amanti。1980年の地震による修復がようやく終わって、この火曜日(2/18)からの公開らしい。確かに以下の写真ではぼろぼろであった。https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R1/1%2010%2011.htm
この家の名称は、以下の落書きに依っている(上図の部屋13の入り口南側に面した、列柱廊10東側の壁):“Amantes ut apes vitam mellita exigent.” :「恋人たちは、蜜蜂のように、蜜の(甘い)生活を営む」[CIL IV 8408a];この落書きの下に以下も見える。”Velle”:「そうあれかし」[CIL IV 8408b]
アヒルの下にも落書きがある。”・・・ Amantes cureges” [CIL IV 8408cでは、”Amantes Amantes cureges”と読んでいて、最後の単語は‘scil.curae egentes, vel egeni sunt’と注釈つき].「恋人たちは恋人たちの世話を焼きたがるものだ」といった類いの意味か。
このフレスコ画の近くに、以下もあるらしい。”C(aius) Ann(a)eus / Capito / eq(ues) coh(ortis) X pr(aetoriae) / c(enturia) Grati” [CIL IV 8405]:ガイウス・アンナエウス・カピト、第10近衛歩兵連隊騎士、グラトゥス中隊出身
彼女たちの裁判官は「財務管理官procurator ヒラリアヌスHilarianus」だった。元老院管轄属州で最高の格式を誇っていたアフリカ州には当然執政官格の元老院身分が派遣されるのが常だった。ヒラリアヌスは「そのとき属州総督proconsulで死去したミヌキウス・ティミニアヌスMinucius Timinianusの座にいて死刑執行権ius gladiiを拝命していた」、要するに現職の総督が在任中に死亡したので、後任総督が派遣されるまで(ないし、次年時になるまで)、臨時に勅命によりおそらくカルタゴないしその近辺で皇帝直轄領の財務管理官だったヒラリアヌスが任命されたのであろう。Rives, 1996, p.5は、その線で年給金が10万セステルス級のprocurator provinciae Africae tractus Karthaginiensisと、20万級のProcurator IV publicorum Africaeの二つの候補を挙げ,後者と想定している。それが騎士身分の最高位であり、アフリカ属州のproconsulの代理にふさわしいとの判断からである。
1968年に公表された2つの碑文史料(A.Garcia y Bellido, Lapidas votivas a deidades exoticas halladas recientemente en Astorga y Leon, in : Boletín de la Real Academia de la Historia, 163, 1968, pp.203-204, figs.4 & 5 ≒ AE, 1968, 227, 228)を投入して、新たな知見が展開されるようになった。出土場所はスペインのレオン県のアストルガ。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、こんな碑文のことなど知りもしなかった。
T.D.Barnes, Tertullian, Oxford, 1971, p.163 ; W.Eck, Miscellanea prosopographica, ZPE 42, 1981, p.235f. ;J.B.Rives, The Piety of a Persecutor, in: Journal of Early Christian Studies, 4-1, 1996, pp.1-25(idem, Religion and Authority in Roman Carthage from Augustus to Constantine, Oxford, 1995, p.244);Barnes, Early Christian Hagiography and Roman History, Tübingen, 2010, pp.304-7.
名前が削り取られた皇帝(たぶんコンモドゥス帝:在位180-192年)の治世下にスペインのアストルガで、Publius Aelius Hilarianusが財務管理官として奉職中に、子供たちと共に皇帝の安寧を願って2つの奉献を行った。ここでのヒラリアヌスが、203年ごろに北アフリカ属州カルタゴ付近に派遣されていた者と同一人物、と考えるわけである。それを、H.-G.Pflaum, Les Carrières procuratoriennes équestres sous le Haut-empire romain, Suppl., Paris, 1982, p.117 や、W.Eck, RE Suppl., XV, 1978, p.3, 69a)は、彼の職名を同じく20万級のprocurator Hispaniae Citerioris per Asturiam et Gallaeciam、ないしprocurator Hispaniae Taraconensisであると結論している。そして彼の父の名前もPubliusだったことが分かる。
簡単な原文を邦文のほうはだいぶふくらまして書いているが、それも事情を十分知らない日本の読者に向けて、親切というべきであろう。ただガラス質が見つかったのはただ一体のみ、それもcollegium Augustalium(Ins.VI.21-24)からの出土である。遺体の出土場所は、おそらく(a)から玄関に入って右隅の部屋(e)であろう。ここは最近中を覗けないようになってしまったが、これまでアウグストゥス礼賛会の管理人部屋とされていて、ベッドもあって、1961年にそのベッド上で25歳ぐらいの男性の遺骸が見つかった。オリジナル情報は、以下。『New England Journal of Medicine』