投稿者: k.toyota

先達の足跡:(4) 弓削達『ローマはなぜ滅んだか』

 我孫子での読書会で今読んでいるテキストである。一回に50ページくらい進む。前のテキスト(ヨセフス『ユダヤ戦記』)が絶版で高かったり購入できなかったりしたせいで、受講生から「安いのにしてください」と言われ、アマゾンで1円プラス郵送料で購入できるので、これを選んだという裏話もある。

 何せ1989年初版の、30年前の古い本なので、糊が剥がれやすく、少々力を入れてページを開くとベリッと剥がれてばらばらになってしまう消耗品なので、今回のために2冊購入した。読書会2回目の準備ですでに一冊目はばらばらである。この調子だともう一、二冊押さえておいた方がいいかも。

 しかし内容的には、未だ消耗品ではないことを再確認している今日この頃である。弓削先生が一般向けの本書で読者に語りかけている内容の高度さを痛感し、さて私は出版当時、本当に彼を理解していたのであろうかと、つくづく反省する昨今なのだ。もちろん私なりの「えっ、先生それでいいのですか」と突っ込みを入れたくなる箇所がないわけではないが、それを凌駕する質の高さと弁術の冴えに酔いしれていることを正直に告白しておきたい。

 彼の筆法の鋭さは、たとえば以下に示されている。ローマ帝国の経済構造を論じる場面で、商工業に対する農業の優位を論じて、「そのことは農民一般が豊かであったことを意味しなかった。むしろ反対であって、ほとんどの農民は常に飢餓線上を彷徨する貧農であったが、それにもかかわらず、農業という生産部門への関与ということがもつ社会的威信は、商工業者が容易には得られない社会的権威であった。商工業者も一般には農民と同様に、貧窮状態にあるうえ、かりに致富しえても都市支配者層にはなれないという社会的差別の中に置かれていた」(pp.67-8)と,差別社会の実態と矛盾を赤裸々に指摘した後、「それにもかかわらずローマ帝国の経済的繁栄が、広大な帝国内外を通じての商業取引と貿易にあったという印象を与えつづけて来たとすれば、それは、アレクサンドリア、オスティア、エペソス、アクイレーヤ、カルタゴ、アルル、リヨンのような、数えるばかりの少数の港湾都市、河港都市の花やかな経済活動に眩惑されたからにほかならない」(p.68)と、ばっさり都市伝説的な古代ローマ帝国繁栄論を一刀両断してみせる手際の良さは見事というほかないだろう。いわずもがなの駄弁を弄するなら、一,二世代のちの研究者がそのような認識を共有しつつ、たとえばオスティアの繁栄と富を論じているのか、はなはだ疑問なのであ〜る。

 もっとも、貪欲な読書会メンバーの方々は、すでにその後の酒池肉林のほうに目を奪われてお読みになっているようなのであるが (^_^;

 弓削先生の面白いところは、あやしい数字でもとにかく出してくることである。それが臆面もなく発揮されているが第4章「経済大国ローマの実体」で、そこでの数字を私は授業でもカルチャでも使用してきた。これはこれで面白いのだが、それを現代に応用する姿勢が、最近なぜかマスコミで希薄になっていることに気付かされたのは、以下のウェブ情報だった。https://www.mag2.com/p/news/424962

 これだけではない。森本問題、加計問題・・・。必ず権力は腐敗する。権力とはそういうものである。その認識を常民は常に持っていなければならない。

【追伸】毎日新聞に続報が。これはお金を払ってでも読む価値があるだろう:桜を見る会、新たな疑義「首相枠と官邸枠14年3400人→19年2000人に減少」https://mainichi.jp/articles/20191126/k00/00m/010/325000c?fm=mnm&pid=14606

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「教皇」表記の変化:政府の忖度?

 今日のニュースで突如「教皇」が溢れ出している。日本でこれまで「法王」と呼ばれてきたPapaの呼称が、今回の訪問を機に政府によって「教皇」に改正されたらしい。「法王」だと弓削道鏡などマイナス・イメージでの連想があり、カトリック信者にとっては本当に、やっと、という感じではあるが。

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https://www.j-cast.com/2019/11/22373392.html?p=all

「ローマ法王」が「ローマ教皇」に変更 政府発表で割れるメディアの対応

2019年11月22日 17時28分

フランシスコ教皇は、来日を前にビデオメッセージを発表した
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 今は削除されているそうだが、以下の日本カトリック中央協議会のHPでの文言、私も読んだ記憶がある。

 「日本政府に登録した国名は、実際に政変が起きて国名が変わるなどしない限り、変更できないのだそうです。こうしていまでも『法王』と『教皇』が混用されているのです。皆様には、『教皇』を使っていただくよう、お願いする次第です」。

 ただ、巷のウェブ情報では、この表記の「混乱、併存」は戦後からのことのように書かれているが、納得いかない。明治・大正以来の日本・バチカン交渉史の中での考察が必要なはずである。

 教皇庁や大使館からの要請での変更ではないようだが(きっと現政府お得意の「忖度」によるのだろう)、何はともあれ、なかなかの強行軍ゆえ、82歳の高齢、お疲れがでませんように。

【追記】世界キリスト教情報■第1505信で、以下の記事が掲載された。

◎ローマ「法王」の呼称「教皇」に、政府が来日に合わせ変更  
 政府は11月20日、教皇フランシスコの来日に合わせて、今後は呼称を「教皇」に変更すると発表した。外務省は、カトリックの関係者をはじめ一般的に教皇を用いる例が多いことと、法王が国家元首を務めるバチカン側に、教皇という表現の使用について問題がないことが確認できたためと説明した。ただ「『法王』を使用しても間違いではない」としている。(CJC)

【追記2】https://blog.goo.ne.jp/john-1939
 東京ドームでのミサ聖祭の模様。それにしても谷口神父、よくも共同司式司祭にくわることに成功したものだ。日本司教団のお目こぼしなのか、バチカンご指名だったのか。
 パパさん、激務で大丈夫かと私も冗談抜きで心配だった。我と我が身に照らして他人事ではなく、寒かった長崎や夜の広島での老齢の参列者たち、紙パンツを履いてのご参列じゃないのか、私だったらもたない、と密かに観察してました。
 それを透視漫画的に想像すると、不謹慎だが、ほほえましい、かも。





 とまれ、みなさんご苦労様でした。

 ところで我が国ではマスコミが全然触れなかった(ようだ)が、帰途での機内記者会見でかなり深刻な問題でのやり取りがあったらしい。こういうお手盛りの情報操作が、昨今の政府不信のみならず、マスコミ不信に拍車をかけるわけである。http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52262674.html

 しかし不動産投資など、日赤だってUNESCOだって、それ自体はどこだってやっているわけで。現代社会ではそうしないと活動資金の保全はできはしない。問題はその運用時に不正が生じることだろう。現象には陽があれば自ずと陰もある。ここでも際限のないモグラ叩き現象が現出する。

【追記3】2019/12/2 :折も折、偶然見た今朝のNHKの「アサイチ」で、12月は「寄附月間」とかで寄付金の流れのごく簡単な説明があった。期待して聞き耳を立てていた私には不十分な内容だったが、そこで新知識を得た。寄付金には名称的な区分があって、「災害義援金」の場合は、日赤では寄付者の意向に沿って事務経費もさっ引かず全額を寄付者指定の被災地の県に送り、そこで市町村に分配されて、被災者に届く仕組、だと説明していた。となると経常経費を含めて、膨大にかかるであろう事務費はどこから捻出するのか、ということになるのだが、それについての言及はなかった。

 論の赴くところ通常の「募金」や資産運用金などがそれにあてられることになるのだろうが、この区分や運用方法はあくまで大窓口の日赤のそれであって、他の中小の窓口でもそうだとは言い切れない不透明さが、実は常につきまとっている。みなさん、鷹揚に目をつぶっていらっしゃるようだが、「これは経費です」といって、文字通り人の善意を飯の種にして(商売して)生きている連中がうごめいている、かもしれないのだ。

 そういえば、NHKドラマで「これは経費で落ちません!」というのがあったなあ。

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ハドリアヌスの円柱?

 昨晩、上智のコミカレ講義が終わったら、「こんなのみつけたのですが」と受講生の男性があきれ顔で朝日新聞を持って来た。それはどうやら朝日カルチャの宣伝で、なんと首都ローマに「ハドリアヌスの円柱」があると記載され、しかし写真はどうみても「トラヤヌスの円柱」だったのだ。

 なにも新聞だけのことではないが(出版社の編集者さんも、きちんと校正しなくなっている。彼らの仕事って一体なんなんだろうか)、天下の朝日新聞もチェックが甘くなったものだ。

 日本語をちゃんと読解できない中学生・高校生が多くなったという本が売れているようだが、私のような老害からすると、それは彼らだけに限った話ではない気がしてならない。ま、かくいう私自身、誤植大魔神には違いないわけで。

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私にとってのコンスタンティヌス問題

 義弟がこの11/3に63歳で肝臓ガンが肺に転移してあっけなく急逝した。そのせいもあり、いつお迎えが来てもいいように書き置いておく。

 このところ、私はコンスタンティヌス問題に足を踏み入れている。顧みれば20代で弓削達先生のはるか後塵を拝して研究の道を歩み始め、いずれはと思いながら、なかなか端緒を得ることがかなわず、最近になってようやく自分なりの見解を開陳するに至った、ということかと思う。

 さきほどわがHPを見直していて、あれ、と改めて気付いたこと(すなわち、書いた時点ではそういう認識がなかった、というわけ)が2点ある。それについて書いておきたい。

 第一に、コルヌーティの楯の紋章は、見ようによっては十字架に見えないことはない、ということ。コンスタンティヌスのアーチ門に描かれた紋章はまだそういった印象からは遠いが、5世紀初頭作成に遡る「官職要覧」Notitia Dignitatum が掲載しているAuxilia Palatina所属cornutiの楯紋章には、なにげにキー・ロー的な面影が見てとれるようである。最初はタウ・ロー(τ+ρ)だったが、後世キー・ロー(χ+ρ)のほうが優勢となった、という見解も、こう理解するとき納得できる。

 要するに、ラクタンティウスやエウセビオスが記述している十字の旗頭は、やはりコンスタンティヌス足下の警護部隊のそれ、より限定するなら、コンスタンティヌスの皇帝旗だった、という私論の補強となる。

 これに、ラバルムlabarum軍旗に特徴的な車輪が、ケルト系の天空・雷・太陽神タラニスの持物でもあったことや、異教的見解からコンスタンティヌスが同じくケルト系のグラヌス神の聖地(現グラン)で、同様の属性を帯同するアポロ神と勝利の女神ウィクトリアから啓示を受けた、という史実が重ね合わされるとき、なかなか含蓄ある話となるように思われる。

車輪を帯同するタラニス小像     キリスト教の車輪=花綱型ラバルム(中心にキー・ロー)

 第二に、エウセビオス叙述での父帝コンスタンティウスの位置づけの件である。それは『教会史』ではそう明確ではないが、『コンスタンティヌスの生涯』I.27では、コンスタンティヌスがマクセンティウスに対抗するには強い助け手が必要であると認識し、父が信仰していた同じ神に敬意を払い、父がその神を「帝国の救済者、守護者、すべての繁栄の与え手としていたことなど」に思いを馳せ、逆に多神教に依存した諸帝の不幸な末路を熟考し、「彼の父の神は、彼の権力を認める非常に多数の明白な証拠を父に与えられたことなどを考慮」し、「ご自分の父の神だけに敬意を払うべきだ」と考えるに至った、と述べている。

 要するにエウセビオスは、コンスタンティヌスは父帝コンスタンティウスと同じ神(それがキリスト教の神であるとほのめかしながら)を信仰することにした、としているわけだが、ここで改めて考えてみると、父帝は副帝就任以来ガリア・ゲルマニアを根拠地とし、事実トリーアを自らの首都としていた。すなわち父帝の権力基盤はかの地であり、かの地に依存していたわけで、そこでの彼の守護神とはかの地のそれ(ら)以外ではなかったはずで、それをエウセビオスはキリスト教の神と同一視して叙述しているわけだが、さらに一歩踏み込み、エウセビオスは真実の一片を述べているのではないかという立場からするなら、従来流布してきた「エウセビオスは、コンスタンティヌスのキリスト教信仰を父帝に遡及させていたのでは」という見解を、「父帝の培ってきた軍隊の信仰をコンスタンティヌスも引き継いだ」と逆転して捉え直すことも可能となるだろう。否、それこそが事実の核心だったのではなかろうか。エウセビオスはそれを率直かつ端的に、だが多神教を排して一神教的に表現していたわけである。

 これは、従来コンスタンティヌスの守護神選択は、東方渡りのHelios=Sol Invictus経由でのキリスト教と論じられてきたが、事実はまったく逆で*、もともと西方のケルト・ガリア・ゲルマン的な天空神GrannusないしTaranisであった。まずそれを父の影響で受け入れ(というより、それによって父の培ってきた権力基盤=軍隊や領土を安んじて受け取り)、だが彼の支配領域の拡大に伴って、それをギリシア・ローマ的天空神であるアポロ神、さらに東方由来のHelios=Sol Invictusへとずらし重ねることで、他帝との差別化をはかりつつ、帝国全土掌握で守護神群の一画にキリスト教を受け入れた、と理解するわけである。

 *但し、これはあくまでコンスタンティヌス側の公式見解であり、彼が20代に人質然として滞在していた東部において、実はキリスト教と半ば公然、半ば秘密裏のただならぬ接触があった、というのが拙論における根本仮説である。参照、『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年。

 またしても、エウセビオスの叙述から学ぶことができた思いである。

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全拙稿の誤植訂正:痴呆への一里塚(11)

 誤植が、とりわけ最近多くなった気がしていたが、この作業をしているとなんだかそうともいえないような(^^ゞ(以前から多かった、という意味)。いずれにせよ困ったものだ。お気づきの方からのご指摘を歓迎する。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

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1988年「エウセビオス『教会史』叙述の信憑性に関する一考察(一)」『上智史學』第33号

  p.70 左から7行目:三〇三年〜 ーー> 三一三年〜

  p.71左から2行目:折あるごとに ーー> ことあるごとに

  p.72 5行目:αὐ τόθι ーー> αὐτόθι

  p.73 8行目:ついでに、 ーー> さらに、

  p.76左から8行目:師 ーー> 教師

  p.78左から7行目:τῆ ーー> τῇ

  p.79 2-3行目:a ἱρετικῶν ーー> aἱ-ρετικῶν

  p.79左から6行目:ὅ ーー> ὃ

  p.79左から5行目:διδασκαλεîου ーー> διδασκαλεῖου

  p.79左から1行目:この師に ーー> この教師に

  p.85 5行目:司祭 ーー> 司教・司祭

  p.93 7行目:マキシムス ーー> マクシモス

  p.94左から4行目:まずは、 ーー> だがまずは、

  p.99 上段註(7)6行目:大正一四年 ーー> 一九二五年

    下段註(9)12行目:I ーー> Ⅱ

    下段註(10)3行目:永山 ーー> 久山

  p.101上段註(23)3行目:(HE,VI.ii.14: ーー> (史料F:

  p.102下段註(32)2行目:フィリポス ーー> フィリッポス

      註(35)2行目:司祭 ーー> 司教

         3、4行目:アキラス ーー> アキッラス

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1992年「「ディオクレティアヌスのキリスト教迫害」勃発原因をめぐって(一)」『上智史學』第37号

  p.238 5行目:古き人の法 ーー> 古き法

      9行目:おそらくは ーー> おそらくは最初

  p.240 4行目:旧習派 ーー> 旧守派

  p.242 8行目:本告示 ーー> 迫害告示

         彼ら ーー> 司直

     9-10行目:(と彼らは主張する)。 ーー> 、と彼らは主張する。

  p.242 6行目:影 ーー> 闇

  p.244左から1行目、p.245 2行目:「古き人の法」 ーー> 「古き法」

  p.245 2行目:同じ語 ーー> 類似の語

  p.245左から3行目:古き ーー> かの古き

  p.249図表のⅡ.8:Oratio,xxv. ーー> Oratio,xxv.2.

  p.250図表: IX ーー> XI

  p.252上段4,5行目;p.253上段註(7):口答発表 ーー> 口頭発表

  p.253下段(8)4行目:(現イズミット) ーー> (現トルコのイズミット)

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1994年『キリスト教の興隆とローマ帝国』

  113 左から2行目:vgl,.ーー> vgl.,

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1996年「「ディオクレティアヌスのキリスト教迫害」勃発原因をめぐって(三)」『上智史學』第41号

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2001年「殉教者と北アフリカ」『上智史學』第46号

  p.45 8行目:排出 ーー> 輩出

     左から1行目:Hardumetum ーー> Hadrumetum

  p.49 左から、7,9行目:ハッピィー ーー> ハッピー

  p.61下段左から6行目:xii.。 ーー> xii。

  p.62 註(26) 4行目:Apuleuis ーー> Apuleius

  p.62上段左から2行目:文責 ーー> 分析

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2002年「古代末期ユダヤ教図像考」『上智史學』47号

  p.92 図版1の一番下:Samaritan synagogueの印が間違い

  p.93 4行目:二七一)、ーー> 二七一)。

  p.94 5行目:Yodan ーー> Yudan

  p.99 7行目:マレブ ーー> マムレ

  p.100 左から4行目:だからである」 ーー> だから」

  p.105 左から9行目:右上隅 ーー> 左上隅

        3行目:身近かな ーー> 身近な

  p.106 左から3行目:初穂 ーー> 初物

  p.108 4行目:〜二六 ーー> 〜二五

  p.109左から4行目:『ユダヤ古代史』 ーー> 『ユダヤ古代誌』

  p.112 3行目、左から7行目:雄牛 ーー> 牡牛

  p.113 3行目:海の砂 ーー> 海辺の砂

  p.113左から3行目:ヤーヴェ ーー> ヤハウェ

  p.115 6行目:(読みは変更されている) ーー> 削除

  p.115 7行目:以下を ーー> 以下に

  p.118上段1行目、左から3行目:Zeev ーー> Ze’ev

  p.118上段註(9)の1行目:John C. ーー> John D.

  p.118下段4行目:ディオニュシオス ーー> ディオニュソス

  p.119下段註(20)1行目:Zeev ーー> Ze’ev

          6行目、註(22)末尾:Fig. ーー> fig.

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2003年(2012年第2版)「文書史料の落とし穴」『歴史家の工房』

  p.191左から7行目:ゼベダイのヤコブ ーー> ゼベダイの子ヤコブ

  p.194左から3行目、p.195 2行目:物 ーー> もの

  p.204左から7行目:そう ーー> 艘

  p.205 8行目と14行目:資料 ーー> 史料

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2005年「紀元後3世紀初頭のM.Aurelius Prosenesの石棺を見、銘文を読む」『歴史家のパレット』

  p.36 13行目:マクリアヌス ・・・Macrianus ーー> マクリヌス・・・Macrinus

  p.37下から4行目:都市 ーー> 首都

  p.38下から8行目:マクリアヌス  ーー> マクリヌス

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2006年「4世紀初頭、キリスト教迫害推進を希求した常民たち」『西洋史論叢』新輯35号

  p.173 9行目:10.1.2 ーー> 9.1.2

  p.179 下から5行目:符号 ーー> 符合

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2007年「初期キリスト教考古学とイエズス会」『ソフィア』219号、第55-3

  p.98左から5行目:教皇庁立教会 ーー> 教皇庁立キリスト教

  p.105左から3行目:アッポロンジ ーー> アッポローニ

           ヨジ ーー> ホシ

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2008年『神は細部に宿り給う』

  p.134 図3キャプチャ:パラティヌス丘 ーー> パラティーノ丘

  p.136 註1) の文献に付加:浅香正「ローマ都市の起源と王政」角田文衞・上田正昭監修『古代王権の誕生 IV ヨーロッパ編』角川書店、2003年、pp.121-144.

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2011年『バチカン サン・ピエトロ大聖堂下のネクロポリス』

  ii 10行目:”「マタイ ーー> ”(「マタイ

  vii 下から15行目:Basilia ーー> Basilica

  p.6 左欄1行目:(在位58 ーー> (在位54

  p.26 左欄下から5行目:ジョバンノーニ ーー> ジョヴァンノーニ

  p.29 右欄5行目:ノベナ ーー> ノヴェナ

  p.37 12行目:マイデナス ーー> マイナデス

  p.69 左欄下から15行目:asecco ーー> a secco

  p.73 原典レベルで、図版関係の番号が3箇所欠如

  p.114 図206中で:使徒の記念碑 ーー> 使徒の記念物

  p.132 図243のキャプチャ末尾「ロクルス」の後に以下を付加:[で、本来は壁に塗り込められていた]

     左欄6行目:され病んでいた ーー> されていた

     右欄の7行目:置かれた。 ーー> 置かれた[図243参照]。

  p.133 右欄8行目:「ENI」の後に[図242]を付加

  「付録:用語解説」1頁13行目末尾に付加:図74,92。

           2頁14行目:安置所 ーー> 礼拝堂

           4頁下から2行目:何段 ーー> 幾段

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2013年「歴史研究は刷り込みとの闘い」『歴史家の窓辺』

  p.214 9行目:註(6) ーー> 註(7)

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2016年『モノとヒトの新史料学』

  p.74 下段5行目:サン・ゴレゴリオ通り ーー> サン・グレゴリオ通り

  p.75 下段3行目:保坂氏 ーー> 保坂高殿氏

  p.77 上段図版キャプチャ:「右手1」と「右手2」の表示が逆

  p.81 上段12行目:おくもの ーー> おくのも

  p.83 下段5行目:(ここ ーー> 削除

  p.87 下段左から8行目:四四三/四四三 ーー> 四四三/四八四

  p.89 上段左から9行目:二〇〇六年 ーー> 2006年

  p.92 上段4行目:もの ーー> のも

  p.92 下段4行目:一四頁) ーー> 一四頁)。

  p.132 下段図8:ギリシア半島の テッサロエカ ーー> テッサロニカ

  p.133 下段12行目:伺える。 ーー> 窺える。

  p.141 下段11行目:割合はが ーー> 割合が

  p.172 上段4行目:後述するが。 ーー> 後述するが、

  p.205 下段左から6行目:一端 ーー> 一旦

  p.233 上段図2;同下段6行目;p.241 上段左から2行目:ターレス ーー> タレス

  p.255 左から5行目:砂岩 ーー> 石灰岩

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2018年『軍事史学』54-2

  p.8 上段3行目:二一一年 ーー> 二一二年

  p.8 下段左から2行目:ライン ーー> ドナウ

  p.9 下段【付録】:クラウディス ーー> クラウディウス

           アウレリアヌ ーー> アウレリアヌス

  p.104 図3上部欄外:Marborghetto ーー> Malborghetto

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2019年「人間アウグスティヌスを『告白』から探る」『歴史家の調弦』

  p.221 図1:出典末尾 Bari,2001. ーー> Bari,2001.

  p.229 左から2行目:多用しつつ ーー> 多用し

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エウトロピウス『首都(ローマ)創建以来の略史』全一〇巻・改訳中

【解題、試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにアウレリウス・ウィクトルと教皇列伝の訳もそちらに移管した】

【前口上】これまで『上智史學』第五二(二〇〇七年)〜第五九(二〇一四年)に全訳を訳註つきで掲載しているが(依拠した底本はMGH版:上智大学図書館の「学術情報リポジトリ」から入手可)、このたび全面的見直し作業を開始した(但し、本文のみ)。ただ、まだ訳語確定には至っておらず、現在進行形中とご認識ありたい。

 今般の翻訳では、関係版本の最新と思われるBudé版(初版一九九八年、第二版二〇〇二年)に依拠して見直すことにした。その際、愚直なまでに直訳を試みること、すなわち、可能な限り語順も変えない、可能な限り同一訳語を当てる、単数・複数も明記することを旨とする。ただたとえば、民族・部族名等は、概ね複数形でたとえば「サムニテス人たち」Samnitesとしたが、我が国で一般に流布した慣用にしたがって、たとえばRomaniを「ローマ人たち」、Veientesを「ウェイイ人たち」と表記した場合もあるので、了解願いたい。またUrbs は通例「首都」としたが、ローマ以外のそれは「主都」(初出II.i.2)と訳し分けた。

 なお、テレビ会議での参加者は現段階で、三井、江添、桒原、豊田、時々ポーランドから林、の五名。

【追記】なぜか更新が不調なので2021/7/28のブログにアップし直していますので、第9巻26章以下をご覧いただくのはそちらお願いします。

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【翻訳】

(我らが)主ウァレンス、

ゴート人の偉大なる(征服者にして)、永遠なる正帝陛下に、

 クラリッシムス級文書局長エウトロピウスが(奉る)。

献辞:小官は、ローマの諸事績を、慈悲深き陛下の意向に従い、首都創建以来ab urbe condita 我らの時代までad nostram memoriam、実にそれらは戦時にもvel 平時にもvel 諸々の事柄において卓抜しておりましたがeminebant、時代順に簡潔な記述で集約しました。小官はざっとではありますがstrictim そのうえetiam、元首たちのprincipum 生涯において卓越したものとしてegregia 目を引く諸々の事柄を付加しました。これは、静謐なる陛下の神的精神が、光輝なる人々のinlustrium 諸行動に軍事命令権遂行の中でin administrando imperio 準拠なさっていたことを、読書によってお知りになる以前に、陛下が欣快とされんがためであります。

第一巻

Ⅰ.1:(1) ローマ帝国Romanum imperium、これよりも始まりにおいて小さく、拡張の際に大きくなったものを全世界で人間の記録はほとんど思い出すことはできない。それはロムルスを始祖としている。彼はウェスタの巫女である処女レア・シルウィアと、伝えられるところでは、マルス(神)の息子であり、兄弟レムスとともに双子の片割れとして誕生した。 (2) 彼が羊飼いの中にあって追い剥ぎを生業としていた十八歳のとき、取るに足らぬ首都をurbem パラティヌス山にmonte 建てた。それは四月二十一日、第六オリュンピア期の第三年目にして、トロイアの滅亡後、人々が長短いろいろ伝えているがtradunt、三九四年目のことであった(前七五三年)。

Ⅰ.2:(1) 都市をcivitate 創建すると、それを彼は自らの名前にちなみローマと呼んだ。おおよそ彼は次のことを行なった。彼は近隣の群衆をその都市にcivitatem 受け入れ、より年長の者たちからex senioribus 一〇〇名を選び出した。彼らの助言でconsilio[初出、VI.12は「賢慮」, IX.25.1, 27.1]あらゆることを彼は行おうとした。彼は彼らを年長senectutem であるがゆえに元老院議員たちsenatores と名付けた。 (2) そのときtum 彼自身と彼の民衆はpopulus suus 妻たちを持っていなかったので、彼は祝祭の見世物へとad spectaculum ludorum 首都ローマに近隣諸部族を招待し、そしてまたatque 彼らの処女たちをearum virgines 掠奪した。掠奪の復讐のために諸々の戦争が起こったが、彼はカエニネンセス人たち、アンテムナエ人たち、クルストゥミニ人たち、サビニ人たち、フィデナエ人たち、ウェイイ人たちを打ち負かしたvicit。これらすべての(諸部族の)町々はoppida 首都の周りに位置している。そして、突然嵐が生じた後、彼が姿を見せなくなったので、王位のregni 三十七年目(前七一六年)に彼は神々のもとに渡ったと信じられ、そして神格化された。 (3) それからdeinde、ローマでは五日ごとに元老院議員たちが命令権を行使しimperaverunt、そしてまた-que 彼らが諸統治権をregnantibus 保持して一年が完了した。

Ⅰ.3:(1) その後postea、ヌマ・ポンピリウスが王とされたrex creatus est(前七一五年)。彼は無論quidem 一度も戦争をしなかったが、都市にとってcivitatiロムルスに劣らず有意義であった。 (2) というのも、彼はローマ人たちに諸々の法そしてまた-que道義をleges moresque 制定したからである、(それは)彼らが好戦的な習慣により今や追い剥ぎおよびac 半野蛮人と見なされてしまっていたからだった。そして彼は一年を十か月に区分した、以前何も計算法がなくて混乱していたのだが。そして彼は、ローマで数え切れないほどの宗教儀礼およびac 諸神域を制定した。彼は病気で死没したdecessit[あと、VIII.19.2,X.18.2のみ]、軍事命令権のimperii 四十三年目のことだった(前六七三年)。

Ⅰ.4:(1) この者を継承したのがトゥルス・オスティリウスであった(前六七三年)。彼は諸戦争を再開し、首都ローマから十二(ローマ・)マイルのところにいるアルバ人たちを打ち負かしvicit、ウェイイ人たちとフィデナエ人たち、ひとつが首都ローマから六マイル、ひとつが十八マイル離れているが、彼らを戦争で破ってsuperavit、彼は首都を拡張し、カエリウス山を加えたadiecto。 (2) 彼は三十二年間統治したregnasset 時、雷に打たれて自分の邸宅もろとも燃えてしまった(前六四二年)。

Ⅰ.5:(1) 彼の後、母方を通じでマヌの孫nepos にあたるアンクス・マルキウスが軍事命令権をimperium 受け取ったsuscepit(前六四二年)。彼はラティニ人たちと干戈を交えdimicavit、(2) アウェンティヌス山とヤニクルム(山)を都市にcivitati 加え adiecit、そしてティベリス河の河口にostium ひとつの都市(オスティアOstia)をcivitatem 海に面して、首都ローマから十六マイルのところに創建した。軍事命令権のimperii 二十四年目に、彼は病気で亡くなったperiit(前六一六年)。

Ⅰ.6:(1) それからdeinde、王位をregnum プリスクス・タルクイニウスが受け入れたaccepit(前六一六年)。彼は元老院議員たちの数を倍増し、ローマに競技場を建設し、ローマ祭をludos Romanos 定めた。それは我々の時代まで続いている。彼は同様にidem そのうえetiam サビニ人たちを打ち負かしvicit、そして諸々の農耕地のagrorum 少なからぬ部分を彼らから差し出させsublatum、首都ローマの領域に併合した。そしてまた-que彼は凱旋式を挙行して首都に入城した最初の人物であった。 (2) 彼は諸城壁と諸下水道を作り、カピトリウム(神殿)を(建設し)始めた。彼は軍事命令権の三十八年目にアンクスの息子たちにより殺されたoccisus est(前五七九年)。彼(タルクイニウス)自身が彼(アンクス)の王位を継承していたためであるsuccesserat。

Ⅰ.7:(1) 彼の後、セウィウス・トゥリウスが軍事権を受け取ったsuscepit(前五七九年)。彼は貴顕な女性から生まれた、(母は)やはりtamen 囚われて婢女となっていたのだが。彼もまたquoque サビニ人たちを押さえ込みsubegit、クィリナリス、ウィミナリス、エスクィリヌスの三つの山を首都に加え、諸々の壕を城壁の周りにめぐらした。彼はあらゆる者の中で初めて人口調査を定めた。これはそのときまでadhuc 世界中で知られていなかった。 (2) 彼の下で、ローマは全員が人口調査において付託されdelatis[初出、II.3, V.1.3, VI.12.2, VIII.5.3]、八万三〇〇〇の頭数のローマ人たちの市民をcivium 持った、(但し)農耕地内にin agris いた人々を含めて(の話)だったが。彼は自分の娘婿で、自分が継承していたsuccesserat 王(プルスクス・タルクイニウス)の息子タルクイニウス・スペルブスと、タルクイニウスが妻としていた(自分の)娘の犯罪行為によりscelere 殺されたoccisus est(前五三四年)。

Ⅰ.8:(1)ルキウス・タルクイニウス・スペルブス、王たちの中の七代目そしてまた(つまり)atque 最後の者が、ウォルスキ人を打ち負かしvicitーーその部族はgens カンパニアに赴く際に首都からさほど遠くないところにいるーー、都市civitatemガビイそしてスエッサ・ポメティアを征服したsubegit。彼はトゥスキ人と和平を結び、カピトリウムにユピテルのために神殿を建設した。その後、首都ローマから一八マイルの位置にあった都市civitatem アルデアを攻囲しているときに、彼は軍事命令権を失った。 (2) というのも、彼の息子で自身も小タルクイニウスなる者がきわめて貴顕なnobilissimam 女性ルクレティア、そしてまた-queコラティヌスの非常に貞淑な妻であるこの女性を凌辱し、そしてまた-que彼女が侮辱行為について夫と父と友人たちに訴えて、皆の目の前で自殺したからである。それが原因で、自身もまたタルクイニウスの一族であったブルトゥスが市民をpopulum 煽り立てconcitavit[初出、あとIV.4.3, 16.2, VII.23.1, IX.20.3]、そしてタルクイニウスから軍事命令権をimperium 剥奪したademit。 (3) すぐにmox、都市アルデアを王自身とともに包囲していた軍隊exercitus もまたquoque、彼を残し(て去っ)た reliquit。そしてまた-que首都までやって来たものの諸門が閉じられていたので、王は閉め出されてしまった。そしてまた-que 二十四年間命令権を行使したとき、彼は自分の妻と息子たちとともに逃亡したfugit(前五〇九年)。したがってローマでは七名の王を通じて二四三年間統治が行われたregatum est。それは、そのときまでadhuc ローマが最大でplurimum かろうじてvix (首都から)十五マイルのところまでずっとusque 保持していたときのことである。

Ⅰ.9:(1) ここからhinc 執政官職が始まり、一人の王に代わり、次の理由で二人が選出された。すなわち、もし一人が不正な者たろうとしても、もう一人同様の職権を持ち、その者を抑えるようにするためである。 (2) そして、彼らが一年以上長く軍事命令権を持たず、職権の長さゆえにあまり傲慢になることなく、一年後には私人となることを知って、常に市民的であるように、と決めたのだった。 (3) こうして、王たちが追放されたのちab expulsis regibus 一年目に執政官となったのは、タルクイニウスが放逐されるpelleretur よう殊にmaxime 活動したルキウス・ユニウス・ブルトゥスと、ルクレティアの夫タルクイニウス・コラティヌスであった(前五〇九年)。 (4) しかし、タルクイニウス・コラティヌスからすぐに顕職が委ねられた。たしかにenim、何者であれ首都にタルクイニウスと呼ばれる者が留まるべきではないとされたからである。 ゆえにergo、彼は自分の全財産を(持ち出すことを)認められて首都から移住し、彼の代わりにルキウス・ウァレイウス・プブリコラが執政官とされた(前五〇九年)。 (5) やはりtamen、首都ローマに対する戦争を追放されたfuerat expulsus タルクイニウス王は扇動し、多くの部族をgentibus 集め、王位をin regnum 取り戻さんものと干戈を交えたdimicavit。

Ⅰ.10:(1) 最初の会戦pugna で執政官ブルトゥスとタルクイニウスの息子アルンスは相討ちで死んだが、ローマ人たちはやはりtamen 会戦から勝利者として撤退した。 (2) ブルトゥスをローマの婦人たちは、彼女らの貞操の擁護者として、まるで(彼女たち)共通の父であるかのように一年間喪に服した。ウァレリウス・プブリコラはスプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌス、すなわちルクレティアの父を自分の同僚としたが、彼が病気により死に至ると、再度iterum ホラティウス・フルウィウスを自分の同僚として採用したsumpsit[初出のここだけこう訳し、IX.4以降5箇所は「僭称する」]。 (3) かくしてita 初年度は五人の執政官たちを持った。たしかにenim、タルクイニウス・コラティヌスは名前のために首都から去り、ブルトゥスは戦闘中にin proelio 死んでいたし、スプリウス・ルクレティウスは病気により死に至っていたからである。

Ⅰ.11:(1)(王たちが追放されたのち=共和政開始後)二年目(前五〇八年)にもまたquoque、再度iterum タルクイニウスは王位にin regnum 復帰すべく、ローマ人たちに戦争を仕掛けintulit、トゥスキア(エトルリア)王ポルセンナが彼に支援をauxilium 提供したので、ローマをほとんどpaene 捕獲しかけたcepit。だがverum そのときもまた tum quoque 彼は打ち負かされた。 (2) 王たちが追い出されたexactos のち三年目(五〇七年)にタルクイニウスは王位にin regnum に受け入れられなかった、(というのは)彼にポルセンナも支援をauxilium 送らず、和平をローマ人たちと結んだからで、彼(タルクイニウス)はトゥスクルムに向かった、その都市civitas は首都からab urbe 遠くないところにあるが、つまりatque そこで十四年間私人として妻と共に老い朽ちた。 (3) 王たちが追い出されたxactos のち四年目(前五〇六年)に、サビニ人たちがローマ人たちに戦争を仕掛けたがintulissent、打ち負かされた。そして彼らに対し凱旋式が挙行された。 (4)(王たちが追放されたのち)五年目(前五〇五年)に、あのルキウス・ウァレリウスが、ブルトゥスの同僚で、執政官職四度を務めて、天命を全うして死んだ。彼はそれほど貧しかった、市民からa populo 浄財を募って葬式の費用をあがなったほど。彼に婦人たちはまさしくsicutiブルトゥス同様一年間喪に服した。

Ⅰ.12:(1) 王たちが追い出されたexactos のち 九年目(前五〇一年)に、タルクイニウスの女婿が義父への不正行為に復讐すべく並はずれた軍隊をingentem exercitum 集めたとき、ローマで新たな顕職がdignitas 創設された。それは独裁官職dictatura と呼ばれ、執政官職よりも上位である。同年そのうえetiam、騎兵長官がmagister equitum 創られた、それは独裁官にdictatori従っていた。 (2) 古の独裁官職以上に類似して呼ばれることのできるものは、今や静謐なる陛下がお持ちのこの軍事命令権のimperii 職権よりありますまい。殊にmaxime アウグストゥスまたはquoque オクタウィアヌスーー我々は彼について後述するがーー、そして彼以前にガイウス・カエサルが、独裁官職の名つまりatque 顕職の下でhonore 統治したregnaverint。 (3) ところでautem ローマ最初の独裁官は<ティトゥス・>ラルキウスで、最初の騎兵長官はスプリウス・カッシウスであった。

Ⅰ.13:(1) 王たちが追い出されたexactos のち十六年目に(前四九四年)、暴動をseditionem ローマ市民populus が起こした、あたかも元老院とそしてまた(つまり)atque 執政官たちに抑圧されていたかのように。 (2) そのときtum そして彼ら自らが自分たち自身のために護民官たちをtribunos plebis あたかも自分らの審判者たちiudices そして擁護者たちとして創設した。彼らにより(民衆が)元老院と執政官たちから護られることを可能とするためである。

Ⅰ.14:翌年(前四九三年)、ウォルスキ人たちがローマ人たちに対し戦争を再開し、そして野戦でacie打ち負かされvicti、そのうえetiam 彼らが最高(の格式)を与えていた都市civitatem コリオリを失ってしまった。

Ⅰ.15:(1) 王たちが駆逐されてeiecti erant 十八年目(前四九二年)に、首都から追放されたexpulsus ローマの将軍dux クィントゥス・マルキウスは、ウォルスキ人たちの都市コリオリを捕獲したceperat(のにそんな目にあったので)、怒りに駆られてまさしくウォルスキ人たち自身に進んで赴きcontendit、そしてローマ人たちに対する援軍をauxilia 受け取った。 (2) 彼はローマ人たちをしばしばsaepe 打ち負かしvicit、首都の第五里程標までずっとusque 近づいたがaccessit、彼はそのうえetiam 彼の祖国をpatriam suam 包囲したであろう、彼は和平を要請していた使節団をlegatis 拒絶していたので、もし彼のところに母ウェトリアと妻ウォルムニアが首都からやって来なければ。彼女たちの悲嘆と懇願に負かされてsuperatus、彼は軍隊をexercitum 引いたのである(前四八八年)。つまりatque タルクイニウス後に祖国に敵対した将軍dux として、彼は二人目であった。

Ⅰ.16:(1) ガイウス・ファビウスとルキウス・ウィルギニウスが執政官時に(前四七九年)、ファビウス氏出身だった三〇〇人の貴族nobiles の男たちが、ウェイイ人たちに対する戦争をbellum 彼らだけで企て、元老院と市民にpopulo 独力であらゆる抗争をcertamen[初出、他は「会戦」]完了させることを約束したのである。 (2)そしてかくしてitaque 彼らは出発したのだがprofecti、貴族全員が、そして彼ら一人一人が大軍のmagnorum exercituum 将軍たちduces であったが、戦闘中にin proelio 倒れたのである。(3) たった一人が氏族familia全体から生き残った。その彼は未成年のゆえにpropter aetatem puerilem 会戦へとad pugnam 連れて行かれることができなかったのである。これらののち、人口調査が首都で執り行われ、そして市民たちのcivium 頭数が十一万七三一九名であることが明らかになった。

Ⅰ.17:(1)翌年(前四七八年)アルギドゥス山の中で、(それは)首都から約ferme 十二マイルで、ローマ軍はRomanus exercitus 包囲されたので、ルキウス・クインティウス・キンキナトゥスが独裁官とされた。彼は四ユゲルムの農耕地をagrum 所有し、自分の両手で耕していた。 (2) 彼は、野良仕事に従事している最中に見いだされ、汗をぬぐい、(高級政務官用の)紫縁飾付上着をtogam praetextam 受け取り、そして敵たちを倒すと、軍隊をexercitum 解散した。

Ⅰ.18:(1) 首都創建以来三〇二年目(前四五二年)に、執政官軍事命令権がimperium consulare 中断した。そして、二人の執政官の代わりに十人が作られた。彼らは最高権力を保持することになり、十人委員会decemviri と名付けられた。 (2)しかしsed、一年目は首尾よく振る舞ったものの、二年目にsecundo 彼らの中の一人、アッピウス・クラウディウスが、ウィルギニウス某ーー彼は、まさにiam 誉れ高き兵役(複数)にstipendiis あって、ラティニ人たちに対してアルギドゥス山の中で軍務に服していたーーの未婚の娘を堕落させることをcorrumpere[初出:IV.26.1, IX.9.3, 19.1 ]望んだ。彼女を父は殺した、(それはかの)十人委員による恥辱をもって生きていかなくていいようにと、そして兵士たちのところへとad milites 帰還してregressus 騒乱をtumultum 起こした。十人委員たちから職権がpotestas 差し出され、そしてまた-que彼ら自身も罰せられた。

Ⅰ.19:(1) 首都創建以来三一五年目(前四三七年)に、フィデナエ人たちがローマ人たちに対して反乱を起こした。支援をauxilium 彼らに与えたのはウェイイ人たちとウェイイ人たちの王トルムニウスだった。 (2) 彼ら両者の諸都市はそれほどまでにtam 首都(ローマ)に近く、フィデナエが六(ローマ・)マイル、ウェイイが十八マイルしか離れていない。これらの者たちとウォルスキ人たちも同盟を結んだ。しかしsed 彼らは独裁官アマメルクス・アエミリウスと騎兵長官ルキスス・クインティウス・キンキナトゥスにより打ち負かされ、そのうえetiam 王を失ってしまった。

Ⅰ.20:(1) 二十年後(前四一七年)、ウェイイ人が反乱を起こした。独裁官として彼らに送られたのはフィリウス・カミルスだった。彼はまずprimum 彼らを戦列でacie 打ち負かしvixit、すぐにmox そのうえetiam その都市を長期間diu [初出]包囲した後に捕獲したcepit(前三九六年)、そこはイタリアで最古そしてまた-que最も豊か(な都市)だった。 (2) その後にpost eam 彼はフェリスキ人たちにも(勝利し)、やはり名高さで劣ることのない(一つの)都市も捕獲したcepit(前三九四年)。しかしsed、彼が戦利品を不正分配したかのごとく彼への嫉妬心が扇動され、そしてまた-que 彼はそれを理由に断罪されdamunatus、都市からcivitate 追放された(前三九一年)。 (3) ただちにstatim ガリア(地方)のセノネス人たちが首都へとやって来て、そしてローマから十一(ローマ・)マイルのアリア河畔で打ち負かしたローマ人たちを追って、そのうえetiam 首都までも占領した。(ローマは)カピトリウムを除いて何も防衛することができなかった。彼らが長期間diu 攻囲し、そしてまさにiam ローマ人たちが飢餓に瀕していたとき、[版本の混乱あり:彼らは黄金を受け取ってカピトリウムを占領せずに(軍を)撤退したrecesserunt。]しかしsed近隣の都市にcivitate 亡命していたカミルスにより、ガリア人たちは奇襲されsuperventum est 、そしてまた-queきわめて由々しきほどにgravissimeque打ち負かされた。 (4) その後、やはりtamen そのうえpostae tamen etiam、追跡したカミルスは彼らを打ち倒しcecidit、彼らに与えられていた黄金もet、彼らが捕獲していたcepetrant すべての軍旗もe奪還したrevocaret[あとは、VIII.6.2,IX.13.2のみ]。 (5) かくしてita 三度目にtertio 凱旋式を挙行しながら彼は首都に入り、そしてあたかも彼自身もまた、祖国の創建者であるかのように、第二のロムルスと呼ばれたappellatus。

第二巻

Ⅱ.1:(1) 首都創建以来三六五年目、(すなわち、首都)占領後、ところでautem 最初(の年)にprimo(前三八九年)、諸々の顕職がdigniates 変更された、そして二名の執政官の代わりに執政官権限付軍隊司令官たちがtribuni militares consulari 定めおかれた。ここからまさにhinc iam、ローマ人の国家が大きくなり始めた。 (2) というのもnam、カミルスがその年に、七十年間戦争を行っていたウォルスキ人たちの都市を打ち負かし、そしてアエクイ人たちの主都urbem、そしてストリウム人たちの(主都)、そしてまた(つまり)atque 同じ彼らのすべての軍隊がexercitibus 殲滅され、彼は(それらを)占領した。そして三つの凱旋式を同時に挙行したからである。

Ⅱ.2:(1) そのうえetiam ティトゥス・クインティウス・キンキナトゥスは、戦争と同時に首都ローマの諸城門までずっとusque 来襲していたプラエネステ人たちを、アッリア河まで追撃し打ち負かした。(こうして彼は)彼ら自身の下にあった八都市をローマ人たちの下に加え、プラエネステそれ自体に迫って降伏を受け入れた。 (2) 彼によるそれらすべてのことは二十日の間に行われ、そしてまた-que彼自身に対し凱旋式が決議された(前三八〇年)。 

Ⅱ.3:とはいえ軍隊司令官たちの顕職は長期間diu 続かなかった。というのもnam しばらくして誰も(その職に)任命されないことが決まったからである。そして首都で四年間が過ぎた、そこに上級権限(を持つ政務官)が存在することなく。やはりtamen 執政官権限付軍隊司令官たちは再度iterum 権威を回復し、そして(彼らは)三年間継続した。またもやrursus 執政官たちが採用された(前三六七年)。

Ⅱ.4:ルキウス・ゲヌキウスとクイントゥス・セルウィリウスの執政官時に(前三六五年)、カミルスが死んだ。彼にロムルスに次ぐ二番目の名誉がhoror 付託されたdelatus est。

Ⅱ.5: 独裁官dictatorティトゥス・クインティウスが、イタリアに襲来していたガリア人たちに向けて派遣された(前三六一年)。彼らは首都から四(ローマ・)里程標のアニオ川対岸に陣取っていた。そこで、元老院議員たちの中できわめて貴顕なnobilissimus de senatoribus 青年iuvenis ルキウス・マンリウスは一騎打ちをsingulare certamen 挑発するあるガリア人に進みでて、(彼を)殺し、そして黄金の首輪をtorque aureo奪いsublato、そしてまた-que自分の首につけたので、永遠にトルクアトゥスの添え名をcognomen彼自身にも子孫にも受けた。ガリア人たちは追い払われfugati sunt、すぐにmox 独裁官ガイウス・スルピキウスにそれでもついにtamen 打ち負かされた(三五八年)。ほどなくしてnon multo post[初出、あとIX.19.1, X.12.1]ガイウス・マルキウスによりトゥスキ人たちが打ち負かされ、そして彼らの中から捕虜八〇〇〇名が凱旋式へと連行された(前三五六年)。

Ⅱ.6:(1) 人口調査がcensus 再度iterum もたれた。そしてラテン人たちはローマ人たちによって屈従させられていたsubacti erant のだが、兵士たちを提供することを望まなかったので、ローマ人たちからのみ新兵たちは徴集された。そしてまた-que 十個軍団が編成され、その規模は武装兵たち六万かそれともvel それ以上に達した。 (2) そのときまでadhuc ローマ人たちの諸資源は貧しかったが、やはりtamen 軍事においてはin re militari 高い武徳があった。諸軍団がガリア人たちに向かって将軍duce ルキウス・フリウスにより進発させられたときprofectae essent、ガリア人たちの中のある者がローマ人たちの中に最強の人をと(一騎打ちを求めて)挑発した。 (3) そのときtum、我こそはと軍団将校tribunus militum マルクス・ウァレリウスが名乗り出て、そして武装した彼が進み出た時、一羽のカラスがcorvus 彼の右腕の上に止まった。 (4) すぐにmox(一人の)ガリア人との闘いがpugna 始まると、その同じカラスは両翼と(両足の)爪でガリア人の両眼をまっすぐに見れないように遮った。こうしてita 彼は、(軍団)将校tribuno ウァレリウスによって殺害されinterfectus、勝利だけでなく彼にそのうえetiam 名前もnomen 与えたのだった。というのもその後nam postae 同人はコルウィヌス(カラス男)と呼ばれるようになったからである。およびac この功績により、彼は二十三歳でもって執政官とされた(前三四八年)。

Ⅱ.7:(1) ラティニ人たちは兵士供出を望んでいなかったが、(以下の)このこともまたquoqueローマ人たちから求め始めた、 一人の執政官が彼らから、もう一人がalter ローマ人たちの民衆からpopulo 選出されるべきである、と。 (2) それが拒否され、彼ら(ローマ人たち)に対する戦争が企てられ、諸々の激しい戦闘によって、彼ら(ラティニ人たち)は負かされたsuperati sunt(前三四〇年)。およびac 彼ら(ラティニ人たち)を完全に屈服させて凱旋式が挙行された。諸立像がstatuae 執政官たちのために戦勝の功績によって、演壇にRostris 置かれた。 (3) その年にそのうえeo anno etiam、アレクサンドリア(アレクサンドレイア)がマケドニア人アレクサンデル(アレクサンドロス)により創建された(前三二一年)。

Ⅱ.8:(1) まさにiam ローマ人たちは強力になり始めた。そのうえetiam、戦争は首都からほぼ一三十(ローマ・)マイル離れたサムニウム人のところで行われていた。彼らはピケヌム、カンパニア、アプリアの間にいた。 (2) ルキウス・パピリウス・クルソルが独裁官の顕職をもってcum honore その戦争へと進発したprofectus est(前三二五年)。彼がローマへと帰ろうとしたrediret 際、彼が軍隊にexercitum 残した騎兵長官magistro equitum クイントゥス・ファビウス・マクシムスに、自分の不在中には闘わないようにと指示していた。 (3) かの者(ファビウス)はille機に乗じて最上の幸運に恵まれて干戈を交えdimicavit、そしてサムニウム人たちを殲滅した。このことによってquam rem、彼は独裁官により格頭刑にcapitis断罪されたdamnatus、というのは彼が禁止されて(いたにもかかわらず)闘ったからであるが、兵士たちと市民のpopuli 並はずれた好意により解放された。パピリウスに対し大規模な暴動がseditione 扇動され、ほとんどpaene 彼は殺されかけた。

Ⅱ.9:(1) その後postea、サムニテス人たちはローマ人たちへ、ティトゥス・ウェトゥリウスとスプリウス・ポストゥミウスの執政官時に(前三二一年)、並はずれた不面目によって勝利し、そして軛の下に送ったmiserunt。和平はやはりtamen 元老院と民衆にpopuloよって破棄された、それは彼らと必要に迫られてpropter necessitatem[初出、あとIX.23, X.17.2]結ばれていたが。その後postae サムニテス人たちは執政官ルキウス・パピリウスに打ち負かされ、彼らの(うちの)七〇〇〇名が軛の下に送られた。パピリウスはサムニテス人たちに対し凱旋式を挙行した[最初の人物であった:トイプナー版](前三一五年)。 (2) その頃eo tempore(前三一二年)、監察官censor アッピウス・クラウディウスがクラウディウス水道を引いて、アッピウス街道を敷設した。サムニテス人たちは、戦争が再開されて、クイントゥス・ファビウス・マクシムスを打ち負かし、三〇〇〇名の男たちを殺した(前二九二年)。その後postea、彼の父ファビウス・マクシムスが副官legatus となった時(前二九一年)、一方でサムニテス人たちを打ち負かし、他方で彼ら自身の多くの町を捕獲したcepit。 (3) それからdeinde、両執政官のプブリウス・コルネリウス・ルフィヌスとマニウス・クリウス・デンタトゥスが、サムニウム人たちに対して送られ、並はずれた諸戦闘で彼らと決着をつけたconfecere(前二九〇年)。 (4) そのときtum、彼らはサムニウム人たちと四十九年間にわたって行われた戦争を終えた。一つたりとも、ローマ人の武徳をより以上magis 試すような敵は、イタリア内に存在しなかった。

Ⅱ.10:数年が経過して(前二八四年)、再度iterum ガリア人たちの軍勢がcopiae 自らをローマ人たちに対して、トゥスキ人たちそしてまた-queサムニウム人たちと同盟を結んだ。しかし、彼らがローマを掌握したとき、執政官グナエウス・コルネリウス・ドラベラにより消滅させられた(前二八三年)。

Ⅱ.11:(1)同じ頃eodem tempore、まさにiamイタリアの最遠部にいるタレントゥム人たちに戦争が通告されたindictum est(前二八二年)。なぜならquia、彼らがローマ人の使節団に対しlegatis 愚弄したからであった。彼らは、エピルス(エペイロス)の王ピュルス(ピロス)にローマ人に対する支援をauxilium 要請した、それは彼がアキレス(アキレウス)の後裔に由来する血統を結びつけていたからだった。彼はすぐにmoxイタリアへとやって来て(前二八一年)、そしてまたそのとき初めてtumque primum、ローマ人たちは渡海してきた敵と干戈を交えることになったdimicauerunt。 (2)  彼に対し送られたのが、執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌスであった(前二八〇年)。彼はピュルスの斥候たちを捕獲したときにcepisset(以下を)命じたiussit、彼らを陣営を(くまなく)案内させ、すべての軍隊をomnem exercitum 見させ、そしてまたそれからtumque 釈放するように、と。これは彼らがピュルスにローマ人たちによってなされたことすべてを報告させるようにするためであった。すぐにmox 戦いの火ぶたが切られたため、まさにiam ピュルスは(戦いを)避けようとしたのだが、象たちの支援によりelephantorum auxilio、(ローマ軍を)打ち負かした。ローマ人たちは象などは未知の存在でビックリ仰天したのである。 (3) しかし夜が戦闘に終わりを告げたfinem dedit。ラエウィヌスはやはりtamen 夜陰に乗じて逃げ切った。ピュルスはローマ人たち一八〇〇名を捕獲しcepit、そして彼らを最高の名誉でsummo honore 遇しtractavit、戦死者たちを葬った。彼は向こう傷とそのうえetiam 恐ろしい形相をして横たわっている死者たちを見て、天へと両手を差し伸べて、こう言ったといわれている。自分を全世界の主人とすることができたであろうに、もしこれほどの兵士たちが自分に託されたならcontigissent【あと、II.11.3,III.3,IX.28】、と。

Ⅱ.12:(1)その後、ピュルスは自分をサムニテス人たち、ルカニ人たち、そしてブルッティア人たちと結んで、ローマへ出陣し、あらゆる(場所)を鉄そしてまた-que火でもって荒らしvastavit、カンパニアを冦掠しpopulatus est[初出で3箇所のみ]、つまりatqueプラエネステにやって来た、そこは首都から十八マイル(のところ)だった。 (2) すぐにmox、彼は(ローマの)軍隊exercitus への恐怖によって、それが彼を執政官とともに追跡していたからだが、カンパニアに退いた。(ローマの)使節団は、ピュルスのもとに捕虜たちの身請けについて(話し合うために)送られたが、彼により丁重に受け入れられた。彼は捕虜たちを身代金なしでローマへと送った。 (3)(ピュルスは)ローマ人たちの使節団の内の一人ファブリキウスが貧乏だと知った時、以下のことで彼に驚嘆した。それは、王国のregni 四分の一で約束してpromissa(ファブリキウスを)惑わせて、彼へと寝返らせようtransiret と望み、そしてまた-que ファブリキウスによって無視されたからである。 (4) そのゆえにquare、ピュルスはローマ人たちへの並はずれた称賛でとらえられ、和平を対等なaequis 諸条件で求めて、一人の使者をlegatum 送った、(その使者は)優れた男で、名をキネアスと(言った)。かくしてita、ピュルスは彼がまさにiam 兵力でもって占領していたイタリアの地方を、得ようとしたのであったobtineret。

Ⅱ.13:(1) 和平は不調に終わった、そしてまた-que ピュルスに元老院によって以下が返答された、彼とローマ人たちとは、彼がイタリアから撤退recessisset しない限り、和平をもつことはできぬ、と。 (2) そのときtum、ローマ人たちはピュルスが返還していたreddiderat すべての捕虜たちについて、彼らは恥ずべき者たちとみなされると、決した、なぜなら彼らは武器を持って闘うことができたのに捕虜になったからで、また、彼らが殺された二名の敵の戦利品を持ち帰ることなしに、以前の状態にstatum 帰還できないreverti、と。かくしてピュルスの使者は帰還したreversus est。 (3) 彼にピュルスがローマをいかに見たかと問うたので、キネアスは、王たちの住まう場所のように私には見えました、と言った。まさにscilicet そのようにそれがほぼfere 全員(が王のごとく)であったのである、一人ピュルスがエピルスとギリシアの残り(の地方)では(そう)思われているが。 (4) ピュルスに対し送られた将軍たちはduces、執政官のプブリウス・スルピキウスとデキウス・ムスであった(前二七九年)。会戦がcertamine 始まると、ピュルスは負傷し、象たちは殺され、敵たちの二万名が打ち倒され、そしてローマ人たちからはわずかtantum 五〇〇〇名だった。ピュルスはタレントゥムに追い払われたfugatus。

Ⅱ.14:(1) 一年をおいてinteriecto anno、ピュルスに対しファブリキウスが送られた(前二七八年)。彼は以前prius 使節団の中にあって、王国のregni 四分の一を約束されてもpromissa、惑わされなかった(人物である)。 (2) そのときtum、近くに(それぞれ)陣を彼自身と王は張っていたが、ピュルスの侍医medicus がある夜、彼の所にやって来て、薬物でveneno 自分がピュルスを殺すと約束したpromittens、もし自分と何らかの誓約をしてくれるならpolliceretur、と。その彼をファブリキウスは、拘束し、主人の所に帰還させreduci、そしてまた-que ピュルスに以下を言うように命じたiussit、侍医が彼の首級に対して約束したspopondisset ことどもを。 (3)そのときtum、彼に驚嘆した王が言ったと噂されているfertur[初出、あとVIII.5, IX.24]。「まさしくファブリキウスこそ、太陽がその軌道から逸らされるよりも、名誉から逸らされうるほうが難しい」と。そのときtum 王はシキリアへと進発した(前二七八〜二七六年)。ファブリキウスは、ルカニ人たちとサムニテス人たちが打ち負かされたのでvictis、凱旋式を挙行した(前二七八年)。 (4) それからdeinde、執政官たち、マルクス・クリウス・デンタトゥスとコルネリウス・レントゥルスがピュルスに対し送られた(前二七五年)。クリウスは彼に対して奮戦しpugnavit、彼の軍隊をexercitum 打ち倒しcecidit、彼自身をタレントゥムへと退け、陣営を捕獲したcepit。 (5) その日一日で敵の二万三〇〇〇名が打ち負かされた。クリウスは執政官中に凱旋式を挙行した。彼は初めてローマに象を四頭連れて帰った人物だった。ピュルスはそのうえetiam タレントゥムからすぐにmox 撤退しrecessit(前二七四年)、そしてギリシアの都市civitatem アルゴスで殺されたoccisus est(前二七二年)。

Ⅱ.15:ガイウス・ファビウス・リキニウスとガイウス・クラウディウス・カニナの執政官時で(前二七三年)、首都創建の四六一年目(前二九三年)に、アレクサンドリア人たちの使節団がプトレマエウス(プトレマイオス)から送られ、そしてローマにやって来て、ローマ人たちから彼らが求めていた友誼関係を得たのだった。

Ⅱ.16:クイントゥス・オグルニウスとガイウス・ファビウス・ピクトルの執政官時に(前二六九年)、ピケンテス人たちが戦争を扇動したが、そして次の執政官のプブリウス・センプロニウスとアッピウス・クラウディウスにより(前二六八年)、打ち負かされた。そして彼らに対し凱旋式が挙行された。ローマ人たちにより創建されたのは、ガリアでアリミヌス、サムニウムでベネウェントゥムの諸都市civitates だった(前二六八年)。

Ⅱ.17:マルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・ユリウス・リボの執政官時(前二六七年)に、アプリア内のサレンティニ人たちに対し戦争が通告され、そしてまた-que プルデンシニ人たちは同時にsimul 都市と共にcum civitate 占領され、そして彼らに対し凱旋式が挙行された。

Ⅱ.18:(1)(都市創建以来)四七七年目(前二七七年)、まさにiam 首都ローマの令名冠たるものがあった時、やはりtamen 軍勢arma がイタリア外へ動員されたことはなかった。 (2) こうしてigitur、どれほどローマ人たちの軍勢copiae があるかということを確認するために、人口調査が執り行われた。そのときtum 明らかになった市民の頭数は二十九万二三三四名であった、首都創建から諸々の戦争が中断したことはないにもかかわらず。 (3) そして、アフリ人たちに対して戦争が初めてprimum 企てられた、アッピウス・クラウディウスとクイントゥス・フルウィウスの執政官時(のこと)だった。シキリアで彼らに対して会戦が行われpugnatum est、そしてアッピウス・クラウディウスがアフリ人たちとシキリア王ヒエロ(ヒエロン)に対し凱旋式を挙行した。

Ⅱ.19:(1) 翌年insequenti anno、ウァレリウス・マルクスとオタキリウス・クラッススの執政官時に(前二六三年)、シキリアでローマ人たちにより数々の偉業が達成された。タウロメニタニ(タウロメニオン)人たち、カティネンセス(カタネ)人たち、そして加えてpraeterea 五十の諸都市が誓約をもってin fidem (ローマによって)受け入れられた。 (2)三年目(前二六二年)に、シキリア内でのシクリ人たちの王ヒエロに対する戦争が準備されたparatum est[初出]。彼はシュラクサエ人たちの全貴族ともどもomni nobilitate 和平をローマ人たちから得て、そしてまた-que 銀二〇〇タラントゥムを支払った。 (3)アフリ人たちはシキリア内で打ち負かされ、そして彼らに対しローマで二度目にsecundo 凱旋式が挙行された。

Ⅱ.20:(1) アフリ人たちに対して行われていたポエニ戦争の五年目(前二六〇年)、初めてprimum ローマ人たちはガイウス・ドゥイリウスとグナエウス・コルネリウス・アシナの執政官時に(前二六〇年)、(ローマ人たちは)海で干戈を交えることとなったdimicaverunt。彼らがリブルナと呼んでいる衝角を付けた軍船が準備されたからであるparatis[第2節の叙述から、ここでは衝角よりもむしろ「カラス corvus」のほうがふさわしいかもしれない]。

corvus戦術

(2) 執政官コルネリウスは欺瞞によりfraude[初出、あとはIX.2.3,15.2のみ]欺かれた。ドゥイリウスは戦闘をproelio 始めて、カルタゴ人たちの一人の将軍をducem 打ち負かし、彼は三十一艘の軍船を捕獲しcepit、十四艘を沈め、七〇〇〇名の敵を捕獲しcepit、三〇〇〇名を殺した。にもかかわらずneque ローマ人たちにとってこれ以上に満足できる勝利は何もなかった。というのも、陸で無敵の彼らが、まさにそのうえiam etiam 海上でも優勢となることができたからである。 (3) ガイウス・アクイリウス・フロルスとルキウス・スキピオの執政官時に(前二五九年)、スキピオはコルシカとサルディニアを荒らしvastavit、そこから何千もの捕虜を引っ立て、凱旋式を行った。

Ⅱ.21:(1) ルキウス・マンリウス・ウルソとマルクス・アティリウス・レグルスの執政官時に(前二五六年)、戦争がアフリカに移された。カルタゴ人たちの将軍ハミルカルに対し海で戦闘が行われ、そしてまた-que 彼は打ち負かされた。というのもnam 六十四席の軍船を失って、後方にretro 彼は退いたからである。ローマ人たちは二十二を喪失した。 (2) しかしsed 彼らがアフリカに渡っていて、最初のアフリカの都市クリュペアを降伏へと受け入れた。執政官たちはカルタゴまでずっとusque 進軍し、そしてまた-que 多くの砦を荒らしvastaris、勝利者マンリウスはローマへと帰りrediit、そして捕虜たちの二万七〇〇〇名を連れ帰りreduxit、アティリウス・レグルスはアフリカ内に留まった。 (3) 彼はアフェル人たちに対し戦列をaciem 整えた。三名のカルタゴ人たちの将軍たちducesに対し干戈を交えdimicans,勝利者となった。彼は敵たちの一万八〇〇〇名を打ち倒しcecidit、五〇〇〇名を十八頭の象と共に捕獲しcepit、七十四都市を誓約をもってin fidem 受け入れた。 (4) そのときtum、打ち負かされたカルタゴ人たちは和平をローマ人たちから求めた。それをレグルスはきわめて苛酷な条件でなければ与えることを望まなかったので、アフェル人たちは支援をauxilium ラケダエモニ人たちから求めた。そして、ラケダエモニ人たちから送られていた将軍duce クサンティップス(クサンティッポス)によりローマ人たちの将軍dux レグルスは徹底的にultima 打ち負かされた(前二五五年)。 (5) というのもnam 全ローマ軍omni Romano exercitu のうちわずか二〇〇〇名が逃げ、五〇〇名が最高軍司令官imperatore レグルスもろとも捕らえられ,三万名が殺され、レグルス自身鎖の中に繫がれたからである。

Ⅱ.22:(1) マルクス・アエミリウス・パウルスとセルウィウス・フルウィウス・ノビリオルの執政官時に(前二五五年)、両ローマの執政官たちはアフリカに三〇〇隻の軍船の艦隊と共に進発した。 (2)まず彼らはアフリ人たちを軍船の会戦でnavali certamine 負かしたsuperant。執政官アエミリウスは敵たちの船一〇四隻を撃沈し、三十隻を戦闘員もろとも捕獲しcepit、敵たちの一万五〇〇〇名をあるいは殺しあるいは捕獲するcepit かし、彼自身の兵をmilitem 並はずれた利得で豊かにしてやった。そして、アフリカはこのときにtunc 屈従させられていたsubactaであろう、もしより長く軍隊がexercitus 待てないほどの飢餓がなかったならば。 (3) 執政官たちは、勝利を得た艦隊と共に帰還していてredeuntes、シキリア付近で難破した。そして非常に激しい嵐だったので、四六四隻の軍船のうちわずかtantum 八十隻しか救えなかったservari。にもかかわらずneque いかなる時にもそれほどに猛烈な海の時化は耳にされたことはなかった。 (4) ローマ人たちは、やはりtamen ただちにstatim 二〇〇隻の軍船を再建造し、にもかかわらずneque 誰においても精神はこれらの出来事により打ちのめされなかった。

Ⅱ.23:(1) 執政官のグナエウス・セルウィリスゥ・カエピオとガイウス・センプロニウス・ブラエススが二六十隻の軍船と共にアフリカへと進発した(前二五三年)。若干のaliquot 諸都市を彼らは捕獲したceperunt。彼らは莫大な戦利品を持ち帰るreducentes 最中に、難破した。 (2) そしてかくしてitaque、たび重なる損害はローマ人たちにとって好ましいものではなかったので、元老院は以下を決議した。諸々の海戦からは手を引かざるを得ないこと、そして僅か六十隻の軍船がイタリア防衛のためにとっておかれること、を。

Ⅱ.24:(1) ルキウス・カエキリウス・メテッルスとガイウス・フリウス・プラキドゥスの執政官時に(前二五一年)、メテッルスはシキリアで、アフリ人たちの一将軍をducem一三〇頭の象と大部隊とともにやって来たが負かしsuperavit、敵の二万人を打ち倒しcecidit、二十六頭の象を捕獲しcepit、残りのうろついていた(象)を集めたが、それは彼が支援の中にin auxilium 持っていたヌミダエ人たちの手を借りてのことだった、そしてローマへとそれらを並はずれた行列に従えて護送したdeduxit[初出、あとIV.21導入, 22護送, 23導入, VIII.19.1拡げる, IX.18.2拡げる]。というのも、一三〇頭という象の数が、道中を埋め尽くしたからである。 (2) これら諸々の惨事の後、カルタゴ人たちは彼らが捕獲していたceperant 将軍ducemレグルスに対し以下を求めた。ローマへと進発し、そして和平をローマ人たちから得て、およびac 捕虜たちの交換を行うように、と。

Ⅱ.25:(1) 彼がローマへとやって来たとき、元老院内に通された彼は、ローマ人ではないかのように振る舞い、そしてまた-que 言った、自分はアフリ人たちの権力内に落ちたあの日から、ローマ人であることを止めたのだ、と。そしてかくしてitaque et 妻をもet 抱擁から遠ざけ、元老院にもet、和平がポエニ人たちと結ばれてはならない、と説得した。たしかにenim 彼らは多くの災難で意気消沈しており、もはや希望を持っていないからだ、自分はそれのほどの者ではない、何千もの(カルタゴの)捕虜たちが(交換で)、彼一人の老人やローマ人たちで捕らえられていた僅かな者たちのために戻されるほどの。 (2) そしてかくしてitaque 彼は(望んだとおりの結果を)得た。というのも和平を求めるアフリ人たちを誰も聞き入れなかったからである。 (3) 彼は自分からカルタゴへと帰ったrediit、そしてまた-que 彼にローマに居続けるようにと申し出たローマ人たちに対し、自分がその首都に滞在することを断った、そこの中においては、アフリ人たちに服した後では、名誉ある市民の尊厳を保持できないからである、と。彼はこうしてigitur アフリカへと帰還しregressus、あらゆる拷問により消滅したextinctus est(前二五〇年)。

Ⅱ.26:(1) プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ユニウスの執政官時に(前二四九年)、クラウディウスは鳥占いに反してcontra auspicia闘い、そしてカルタゴ人たちにより打ち負かされた。というのもnam、二二〇隻の軍船のうち三十隻と共に彼(Claudius)は逃亡し、九十隻は海兵もろとも拿捕され、残りは沈められたからであるdemersae。 (2) もう一人の執政官もまたquoque 難破により艦隊を喪失したが、やはりtamen 軍隊をexercitum 無傷で保持した、なぜならquia 近くに浜辺があったからである。

Ⅱ.27:(1) ガイウス・ルタティウス・カトゥルスとアウルス・ポストゥミウス・アルビヌスの執政官時、プニキ(ポエニ)戦争の二十三年目(前二四二年)に、カトゥルスにより戦争がアフリ人たちに対して始められた。彼は三〇〇隻の軍船と共にシキリアへと進発し、アフリ人たちは彼に対し四〇〇隻を準備したparaverunt。(2) 決してnumquam 海においてこれほどの諸部隊によるcopiis 戦いが行われたことはなかった。ルタティウス・カトゥルスは病んだまま一つの軍船に乗船した、たしかにenim 彼は以前の戦いで負傷していたのである。シキリアの都市リリュバエウム(現マルサラ)に対し、ローマ人たちの並はずれた武徳で戦われた。 (3) というのもnam、六十三隻のカルタゴ人たちの軍船が拿捕され、一二五隻が沈められ demersae、敵たちの三万二〇〇〇名が捕らえられ、一万三〇〇〇名が倒され、数え切れないほどの金、銀、戦利品が、ローマ人たちの権限の中に置かれた。ローマ艦隊のうち、十二隻の軍船が沈められたdemersae。それが戦われたのは、三月十日のことだった(前二四一年)。 (4) ただちにstatim 和平をカルタゴ人たちは求め、そしてまた-que 彼らに和平が許諾された。ローマ人たちの捕虜たちーーカルタゴ人たちの下に掌握されていたーーが返還されたredditi sunt。そのうえetiam、カルタゴ人たちは捕虜ーーアフリ人たちの中(の捕虜)でローマ人たちが掌握していたーーを買い戻すことを許可するよう求めた。 (5) 元老院は以下の事を命じたiussit、代価なしでsine pretio 誰でも、国家の管理下にある者たちは与えられる、ところでautem 私人たちによって掌握されている者たちは、主人たちに代価がpretio 返還されればreddito カルタゴへと帰されredirent、つまりatque その代価はpretiumカルタゴ人たちより以上magis (ローマの)国庫から支払われること、と。

Ⅱ.28:クイントゥス・ルタティウスとアウルス・マンリウスが執政官たちに選出され(前二四一年)、(彼らは)ひとつの戦争をファリスキ人たちに仕掛けた[・・・に兵を挙げた]intulerunt。彼らの都市はcivitas かつてquondam イタリアで裕福だった。その(戦争)を両執政官はやって来てから六日以内に片付け、敵たちの一万五〇〇〇人を倒し、他の者たちには和平が赦し与えられ、やはりtamen 農耕地は半分ほど差し出されたsublato。

第三巻

Ⅲ.1:(1) こうしてigniter 二十三年にわたり続いた(前二六四〜二四一年)プニキ(ポエニ)戦争が終結するとfinito ・・・tractum est、ローマ人たちはまさにiam 傑出した栄光によって知られるようになったが、アエギュプトゥス王プトロマエオスへと使節団をlegatos 送ってmiserunt、援軍をauxilia 約束した、なぜならquia シュリア王アンティオクスが彼に戦争を仕掛けていたからであるintulerat。彼はローマ人たちに感謝をしたが、ローマ人たちからの援軍はauxilia 受け入れなかった。 (2) まさにiam たしかにenim 戦いは終わっていたからだった。同じ頃、強勢を誇るシキリア王ヒエロがローマを競技を見物すべく訪れ、そして二十万モディウスの小麦の贈り物を民衆にpopulo提供したexhibuit。

Ⅲ.2:ルキウス・コルネリウス・レントゥルスとフルイウス・フラックスの執政官時に(前二三七年)、この時ヒエロがローマに来ていたのだが、そのうえetiam イタリア内でリグレス人たちに対しても戦争が行われ、彼らから凱旋式が挙行された。カルタゴ人たちは、やはりtamen 戦争を再開しようと試み、サルディニア人たちに反乱を起こすように唆した、彼らが和平の条件によってローマ人たちに服属しなければならなかったからだ。やはりtamen ローマへとカルタゴ人たちの使節団が訪れ、そして和平を得た。

Ⅲ.3:ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスとガイウス・アティリウス・ブルクスの執政官時に(前二三五年)、サルディニア人たちからの凱旋式が挙行され、そして和平が全地で達成され、ローマ人たちはまったく戦争をしなかった。それは彼らにとってローマ創建後に、ヌマ・ポンピリウスによる統治時にregnante たった一度semel tantum 生じたcontigerat だけである。

Ⅲ.4:ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスとグナエウス・フルウィウス・ケントゥマルスが執政官として、戦争をイリュリア人たちに対しておこなった(前二二九年)、そして多くの都市をciuitatibus 攻略し、そのうえetiam 諸王から降伏までも受け入れた。およびac そのときtum 初めてイリュリア人たちからの凱旋式が挙行された。

Ⅲ.5:ルキウス・アエミリウスが執政官時に(前二二五年)、ガリア人たちのおびただしい軍勢がcopiaeアルペス山脈を越えてやって来たtransierunt。しかし、ローマ人たちのために全イタリアが一致協力し、そしてまた-que 伝えられているところではtraditum[初出:III.8.1, IV.8.1, IX.22.1;但しV.6.1, X.14.1, X.17.1は「委ねら(嫁がさ)れる」とすべきか]、かの戦争に居合わせた歴史家ファビウスによると、八十万の人々がこの戦争のために準備されたparata。しかしsed 事態はかの執政官のためにこれほど上首尾に運ばれた、(すなわち)四万人の敵兵が殺害され、そして凱旋式がアエミリウスのために決議された。

Ⅲ.6:(1) それからdeinde 数年後にaliquot annis post、ガリア人たちに対してイタリア内で戦いが行われ、そしてまた-que 戦争はマルクス・クラウディウス・マルケッルスとグナエウス・コルネリウス・スキピオの執政官時に(前二二二年)終結した。そのときtum マルケッルスはわずかな騎兵の手勢で干戈を交えdimicavit、そしてガリア人たちの王、ウィリドマルスという名前の者を彼自身の手で殺した。 (2) その後postea 彼は同僚(スキピオ)とともにガリア人たちのおびただしい軍勢をcopias 殲滅し、メディオラヌム(現ミラノ)を攻略しexpugnavit、莫大な戦利品をローマへともたらしたpertulit[perfero,初出であと2例:IX.10;IX.15.2]。そしてかつac 凱旋式を挙げるとき、マルケッルスはガリアの戦利品を棒で彼自身の両肩に担いで運んだ。

Ⅲ.7:(1) マルクス・ミヌキウス・ルフスとプブリウス・コルネリウス(・スキピオ)の執政官時に(前二二一年)、ヒストリ人たちに対して戦争が仕掛けられた。なぜならquia 穀物を提供したexhibebant ローマ人たちの船(pl.)に対して彼らが海賊行為を働いていたからである。そしてまた-que 彼らすべてが完全に征服された。 (2) 同年、第二次プニキ(ポエニ)戦争が、ローマ人たちに対してカルタゴ人たちの将軍ハンニバルによって仕掛けられた。彼はヒスパニアのローマ同盟都市viuitatem amicam サグントゥムを攻囲し始めたが、二十歳という時期を過ごしていて、そのため十五万もの部隊が召集されたのである。 (3) その彼に対し、ローマ人たちは使節団を介して戦争を自粛するよう警告した。彼は使節団を引見するのを望まなかった。ローマ人たちはそのうえetiam カルタゴにも(使節団を)送ったがmiserunt、これはローマ市民のpopuli Romani 同盟者たちにsocios 対して戦争をしないようにと、ハンニバルに命じられるためであった。冷淡な諸回答がカルタゴ人たちから返ってきた。サグントゥム人たちはその間にinterea 飢餓のために打ち負かされ、そしてまた-que ハンニバルによって占領され、極刑に処される(前二一九年)。

Ⅲ.8:(1) そのときtum プブリウス・コルネリウス・スキピオは軍隊exercitu と共にヒスパニアへと、ティベリウス・センプロニウスはシキリアへと進発した。戦争がカルタゴ人たちに対して通告された。 (2) ハンニバルは、兄弟ハスドルバルをヒスパニアにの故地、ピュレネーを越えた。アルペスはそのときまでadhuc その当時 tum その部分に道がなかったので、(彼が)自ら切り開いた。伝えられているところではtraditur、彼はイタリアへ歩兵八万、騎兵一万、そして三七頭の象を率いてきた。その間にinterea 多くのリグレス人たちやガキア人たちがハンニバルと同盟を結んでいた。センプロニウス・グラックスは、イタリアにハンニバルが到着したことを知ると、シキリアから軍隊exercitum をアリミヌム(現リミニ)へと移動させた。

Ⅲ.9:(1) プブリウス・コルネリウス・スキピオがハンニバルに初めてprimus 対峙した。戦闘が始まると、彼の兵士たちは追い払われfugatis suis、自身も負傷して陣営へ帰ったrediit。センプロニウス・グラックス自身もトレビア河畔で奮戦するconfligit(前二一七年)。彼もまたquoque 打ち負かされる。ハンニバルに多くの者がイタリア内で降伏した。 (2) そこからinde トゥスキアへと行くと、ハンニバルは執政官フラミニウスに対峙した。フラミニウス自身を彼は片づけた。ローマ人たちの二万五〇〇〇人が倒され、残りは散り散りになった。ハンニバルに対してその後postea ローマ人たちによって派遣されたのが、クイントゥス・ファビウス・マクシムスだった。彼は彼を、戦いを避け、逸る気持ちを抑えて、機会を見いだすとすぐにmox 打ち負かした。

Ⅲ.10:(1) 首都創建から五四〇年(前二一六年)に、ルキウス・アエミリウス・パウルスと プブリウス・テレンティウス・ウァッロがハンニバルに対して送られる、そしてまた-que ファビウスを継ぐ。そこでqui ファビウスは両執政官に、抜け目ないが性急な将軍ハンニバルを打ち負かすには、戦闘を避ける以外にお前たちに勝利はない、と戒めた。 (2) だがverum 執政官ウァッロの性急さにより、もう一人の執政官、すなわちアエミリウス・パウルスが反対したにもかかわらず、アプリアのカンナエと呼ばれている村でvicum 戦いが行われ、両執政官はハンニバルによって打ち負かされる。 (3) この闘いで、アフリ人たちの内の三〇〇〇が命を落とし、ハンニバルの軍隊exercitu の大部分が負傷を受ける。やはりtamen ポエニ戦争での戦闘においてproelio ローマ人たちがこれ以上由々しかったgravius ことはなかった。たしかにenim この(戦いで)、執政官アエミリウス・パウルスが亡くなりperiit、執政官級あるいはaut 法務官級で二十名、元老院議員三十名が捕虜とされたりあるいはaut 殺され、貴族の男たち三〇〇、兵士四万、騎兵三五〇〇にのぼったからである。かくのごとき逆境に遭っても、やはりtamen ローマ人たちの中で誰ひとりとして和平を口にしようとする者はいなかった。奴隷たちが、以前にはante 決してなかったことだが、解放されそして兵士とされた。

Ⅲ.11:(1) この闘いの後、ローマ人たちに従っていた多くのイタリア諸都市がハンニバルへと鞍替えしたtranstulerunt。ハンニバルはローマ人たちに捕虜たちを買い戻すよう提案したが、そしてまた-que 元老院から返答されたのは、武装していながら捕虜とされてしまうような者たちは必要ない、と。彼はすべての者をその後postea さまざまな責め苦を与えて殺害し、そして指輪の金三モドゥスをカルタゴに送ったが、それはローマ人たちの騎士身分、元老院議員、そして兵士たちの手から奪ったものだった。 (2) この間にinterea ヒスパニアでは、ハンニバルの兄弟ハスドルバルがその(スペイン)全土をアフリ人たちに従わせるために[初出、あとIX.20.3のみ]、大軍magino exercitu とともに残留していたが、ローマの将軍たちである二人のスキピオたちによって打ち負かされる。彼はその戦いで三万五〇〇〇の兵を失う。すなわち、彼らのうち一万が捕らえられ、二万五〇〇〇が殺される。彼にカルタゴ人たちから、戦力補充のため一万二〇〇〇の歩兵と四〇〇〇の騎兵、二十頭の象が送られる(前二一八〜二一五年)。

Ⅲ.12:(1) イタリアへハンニバルが来て四年目(前二一四年)、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスが、カンパニアの都市ciuitatemノラでハンニバルに対して善戦した。ハンニバルはアプリア、カラブリア、ブリッティイのローマ人たち(側)の多くの諸都市をciuitates 占領した。 (2) この時、そのうえetiam マケドニアの王フィリップス(フィリッポス)も彼に使節団を送った。彼がローマ人たちに対する援軍をauxilia 以下の条件下で約すためだった、すなわちローマ人たちを殲滅したら、彼(フィリップス)自身もまたquoque  ギリシア人たちに対してハンニバルから援軍をauxilia 受ける、と。 (3) こうしてigitur フィリップスの使節団は捕まってしまい、そしてことが露見すると、ローマ人たちはマケドニアにマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスを、サルディニアに前執政官proconsulem ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスを行かせることを決した。というのもnam そのうえetiam そこ(サルディニア)もハンニバルによって惑わされ、ローマ人たちを見限っていたからである。

Ⅲ.13:(1) かくしてita、一度に四箇所で戦いが行われていた。イタリアではハンニバルに対して、ヒスパニア諸州では彼の兄弟ハスドルバルに対して、マケドニアではフィリップスに対して、サルディニアではサルディ人たちそして別のカルタゴ人ハスドルバルに対して。 (2) 彼(ハスドルバル)は、サルディニアに派遣されていた前執政官のティトゥス・マンリウスによって生きたまま捕らえられたが、彼とともにいた一万二〇〇〇人が殺され、一五〇〇人が捕虜とされ、そしてローマ人たちによってサルディニアは屈従させられたsubacta。勝利者マンリウスは捕虜たちとハスドルバルをローマに連れ帰った。 (3) この間にinterea そのうえetiam フィリップスはラエウィヌスによってマケドニアで打ち負かされ、そしてヒスパニアではスキピオたち(兄弟)によってハスドルバルとマゴ、(すなわち)ハンニバルの三番目の兄弟が(打ち負かされる)。

Ⅲ.14:(1) ハンニバルがイタリアへやって来てから十年目、プブリウス・スルピキウス・とグナエウス・フィルウィウスの執政官時に(前二一一年)、ハンニバルは首都からずっとusque 第四里程標のところまで、彼の騎兵隊は一つの市門のところまでad portam ずっとusque 近づいたaccessit。すぐにmox 執政官たちは軍隊をexercitu 率いて来て、(その)脅威のためハンニバルはカンパニアへと退いた。 (2) ヒスパニアでは、(ハンニバルの)兄弟ハスドルバルによって、両スキピオ、彼らは長年にわたって勝利者たちであったが、殺害される。軍隊はexercitus やはりtamen 手つかずでinteger[初出、あとIII.14.2, IV.7.1, VI.20.3, VIII.23, IX.21, X.17.2]残った。たしかにenim 彼ら(両名)は不運のゆえにcasu 武徳より以上にmagis 欺かれたからである。 (3) この頃、そのうえetiam 執政官マルケッルスによってシキリアの大部分が占領された(前二一四〜一年)、(それは)そこをアフリ人たちが掌握しようとしていたので、そしてきわめて名高いnobilissima シュラクサエの主都urbs が(占領され)、莫大な戦利品がローマに持ち去られた。 (4) ラエウゥヌスはマケドニアでフィリップスとそして多くのギリシアの諸市民、アシア王アッタルス(アッタロス)と友誼を結ぶと、シキリアへと進発し、ハンノ某、アフリ人たちの将軍を都市ciuitatem アグリゲントゥムで、その町oppido ともども捕獲したcepit(前二一〇年)。そしてまた-que(ラエウィヌスは)彼をローマへと捕虜になった(アグリゲントゥムの)貴族たちとともに送った。彼は四十の諸都市のciuitates 降伏を受け入れ、二十六(の諸都市)を攻略したexpugnavit。 (5) かくしてita 全シキリアは取り戻されrecepta[初出、他五箇所]、マケドニアは押さえ込まれ、彼(ラエウィヌス)は並はずれた栄光と共にローマへと帰還したregressus est。ハンニバルはイタリアで執政官グナエウス・フルウィウスを急襲し、八〇〇〇の兵士たちともども彼を殺害した。

Ⅲ.15:(1) その間にinterea ヒスパニア諸州では、二人のスキピオが殺されてローマの将軍が誰もいなくなったので、プブリウス・コルネリウス・スキピオ、(すなわち)同じ場所でibidem 戦争を遂行していたプブリウス・スキピオの息子が 送られる(前二一〇年)。(息子の)彼は二十四歳だったが、あらゆるローマ人たちのうちで、そして彼の時代においてもより後代においても、ほぼfere 第一の者である。 (2) 彼はヒスパニアのカルタゴ(カルタゴ・ノヴァのこと)を占領する、その地にあらゆる物、すなわち金、銀そして戦闘用具をアフリ人たちは持っていたし、きわめて貴顕な人質たちnobilissimos obsides をもまたquoque 持っていた、(アフリ人たちは)彼らをヒスパニア人たちから受け取っていたのだ。 (3) ハンニバルの兄弟マゴをそのうえetiam 彼は同じ場所でibidem 捕らえて、彼をローマへ他の者たちと共に送る。ローマではこの上ない歓喜がその通知の後にあった。スキピオはヒスパニア人たちの人質たちを親元へと返還したreddidit。それゆえにquare ほぼfere すべてのヒスパニア諸州が心を一つにして彼へと寝返ったのであるtransierunt。これらの後に、ハンニバルの兄弟ハスドルバルを、彼(スキピオ)は打ち破って、しりぞけ、そして多くの戦利品を獲得する。

Ⅲ.16:(1) その間にinterea イタリアでは、執政官クイントゥス・ファビウス・マクシムスが、タレントゥムを取りもどした(前二〇九年)、(がイタリアにはまだ)ハンニバルの夥しい軍勢copiae がいた。そこでibi 彼はハンニバルの将軍カルタロをも殺し、捕虜二万五〇〇〇人を売却し、戦利品を兵士たちに分配して、(捕虜の)人々を売った代金を国庫へと納めた。そのときtum ハンニバルに以前寝返っていたtransierant ローマの多くの都市が、またもやrursus ファビウス・マクシムスに身を委ねた。 (2) 翌年insequenti anno(前二〇八年)、スキピオはヒスパニアで自らも、そして彼の兄弟ルキウス・スキピオによっても、卓越したegrerias 諸業績をあげた。(すなわち)七十の諸都市を取り戻したのである。やはりtamen イタリアでの戦いは不首尾だった。というのもnam、執政官クラウディウス・マルケッルスがハンニバルによって殺されたからであるoccisus est。

Ⅲ.17:スキピオがヒスパニア諸州へと進発してから三年目に(前二〇六年)、彼はまたもやrursus 人口に膾炙したことどもを行う。(すなわち)あるヒスパニア(部族の)王を大きな戦争で打ち負かし、友誼へと受け入れ、そして敗者から人質たちを要求しなかったすべての人々の最初となった。

Ⅲ.18:(1) ハンニバルはヒスパニア諸州をスキピオに対してこれ以上保持することはできないと絶望し、自分の兄弟ハスドルバルをイタリアへと全部隊とともに召喚した。 (2) 彼は、ハンニバルが到来したその同じ経路でやって来て、執政官たちアッピウス・クラウディウス・ネロとマルクス・リウィウス・サリナトルによってピケヌムの都市セナで仕掛けられた諸々の奸計にinsidias 陥ってしまった(前二〇七年)。彼は活発にstrenue やはりtamen 闘って殺されたoccisus est。彼の夥しい軍勢は捕虜とされたりあるいはaut 殺害されたりして、かなりの重さの金そしてまたatque [本来は「つまり」だが例外訳]銀がローマへと運ばれた。 (3) それからpost hac ハンニバルはまさにjam 戦争の行く末に疑念を抱き始めた。ローマ人たちの間では大いなる自信がingens aminus 加わったaccessit。そしてかくしてitaque 彼ら(ローマ人たち)がet ipsi ヒスパニアから プブリウス・コルネリウス・スキピオを召喚した(前二〇六年)。彼はローマへと並はずれたingenti 栄光と共にやって来た。

Ⅲ.19:クィントゥス・カエキリウスとルキウス・ウァレリウスが執政官時に(前二〇六年)、ブリッティイの中でハンニバルによって掌握されていた全都市が、ローマ人たちに引き渡されたtradiderunt。

Ⅲ.20:(1) ハンニバルがイタリアへとやって来てから十四年目に(前二〇五年)、スキピオは、多くのことを上首尾にヒスパニア内で成し遂げていたので、執政官とされ、そしてアフリカへと送られた。この人物には神的な何かが内在していると考えられており、そのうえetiam 彼は神霊らと会話すると思われていたほどだった adeo ut 。 (2) 彼はアフリカで、アフリ人たちの将軍ハンノと戦い、彼の軍隊をexercitum 滅ぼす(前二〇四年)。二度目の戦闘で彼は陣営を四五〇〇人の兵士もろとも占領し、そして一万一〇〇〇人を殺し(前二〇三年)、ヌミディア王シュファックスを、彼がアフリ人たちと同盟を結んでいたが、捕らえ、そして彼の陣営を襲う。シュファックスは、きわめて高貴なnobilissimis ヌミディア人たちと数え切れない戦利品とともに、ローマへとスキピオにより送られる。 (3) このことを聞くと、ほぼfere すべてのイタリアがハンニバルを見捨てる。彼(ハンニバル)自身は、カルタゴ人たちにより、スキピオが荒らしていたvastabat アフリカへと帰還するようredire に命じられる。

Ⅲ.21:(1) かくしてita 十七年目にしてハンニバルからイタリアは解放された(前二〇三年)。カルタゴ人たちの使節団が和平をスキピオに請うた。 (2) 彼(スキピオ)により彼ら(使節団)はローマ元老院に送られた。四十五日間にわたり、休戦が承諾されたが、それは彼らがローマへと行ってそして帰還してくるregrediことができる程度の期間で、そして三万ポンドの銀が彼ら(使節団)によって受け入れられた。元老院は、スキピオの判断で和平をカルタゴ人たちとなすよう、命じたiussit。 (3) スキピオは以下の諸条件で(和平を)承諾した:(カルタゴ人たちは)三十隻より多くの(軍)船を保有しないこと、そのためut (カルタゴ人たちは)五十万ポンドの銀を支払い、(ローマ軍の)捕虜たちと脱走兵たちを返還することredderent、である。

Ⅲ.22:(1) とかくするうちにinterim ハンニバルがアフリカへとやって来たため、和平はかき乱され、アフリ人たちから多くの敵意が生じた。 (2) 使節団はやはりtamen 首都から戻ってきて、ローマ人たちによって捕らえられ、そしてスキピオが命じて放免された。ハンニバルもまたquoque たびたび諸戦闘で打ち負かされ、スキピオからそのうえetiam彼自身和平を請う。会談に至ると、以前と同じ諸条件で(和平が)承諾された、(ただし)以前の銀五十万ポンドに、十万リブラ(≒ポンド)が加えられることになった、新たな背信のゆえに。(これらの)諸条件はカルタゴ人たちには気に入らず、そしてまた-que ハンニバルに戦うよう彼らは命じた。スキピオとマシニッサ、もう一人のヌミディア人たちの王で、彼はスキピオと友誼を結んでいたが、彼らによってカルタゴへの戦争が勃発した。ハンニバルは、三名の斥候たちをスキピオの陣営へと送ったが、捕らえられた彼らを、スキピオは(以下のようにするように)命じたiussit、陣営中連れ回し、そして彼らに全軍をtotum exetcitum みせ、すぐにmox そのうえetiam 食事を与えて、そしてまた-que 釈放するように、と。(それは)彼らがハンニバルにローマ人たちの所で見たことを伝えるようにするためだった。

Ⅲ.23:(1) その間にinterea 戦闘が両将軍によって準備されていたが、(その準備は)ほとんどuix 何らulla 記録が(残されてい)ないほどのものだった。というのも最も熟練した人物たちが自身の軍勢を戦争に率いていたからである。スキピオは勝者として帰還し、ハンニバルはほとんどpaene 捕虜になりかけた。彼は初めは多くの騎兵たちとともに、次いで二十騎とともに、最終的にpostremo 四騎とともに脱出した。 (2) ハンニバルの陣営内で銀二万ポンド、金八十(ポンド)の他cetera さまざまの装備品が見つかった。この会戦certamen の後、和平がカルタゴ人たちとなされた。スキピオはローマへと帰りrediit、並はずれた栄光で凱旋式を挙行し、つまりatque アフリカヌスとこのことゆえに呼ばれ始めた。 (3) 第二次ポエニ戦争は勃発から十九年目を経て終幕を迎えた。

第四巻

Ⅳ.1:ポエニ戦争が片付いて transacto、続けて行われたのはマケドニア(戦争)で、フィリップス王に対して、首都創建以来五五一年目のことだった。

Ⅳ.2:(1) ティトゥス・クインティウス・フラミニウスは、フィリップスに対して上首尾に事を運んだ rem prospere gessit(前一九七年)。和平が彼(フィリップス)に対して以下の諸(講和)条件でhis legibus 与えられた、(すなわち)ローマ人たちが彼に対して防衛したギリシア諸都市に戦争を仕掛けないことinferret、(ローマの)捕虜たちと脱走兵たちを返還すること、五十隻の軍船だけsolas naues を持ち、残りはローマ人たちに引き渡すこと、十年間にわたり銀四〇〇〇ポンドを提供し、そして人質として彼の息子デメトリウス(デメトリオス)を差し出すこと。 (2) ティトゥス・クインティウスはそのうえetiam ラケダエモニイ人たちにも戦争を仕掛けたintulit(前一九五年)。彼は彼らの将軍ナビスを打ち負かし、そして彼が望んだ諸条件で誓約をもってin fidem受け入れた。彼は並はずれた栄光により、戦車の前にきわめて貴顕な人質たちnobilissimos obsides 、フィリップスの息子デメトリウスとナビスの(息子)アルメネスを引き立てたのである。

Ⅳ.3:(1) マケドニア戦争が片付いてtransacto、続いて行われたのがシュリア(戦争)で、アンティオクス(アンティオコス)王に対するものだった。プブリウス・コルネリウス・スキピオとマニウス・アキリウス・グラブリオの執政官時(前一九一年)のことである。 (2) このアンティオクスにハンニバルは結びついていた。(ハンニバルは)自身の祖国カルタゴをローマ人たちに引き渡されtradereturないかと心配して、捨てていたのである。マニウス・アキリウス・グラブリオはアカイアで善戦した。アンティオクス王の陣営は夜戦で占領され、彼自身は追い払われたfugatus。フィリップスは、アンティオクスに対峙しローマ人たちに支援auxilio を提供したのでquia、息子デメトリウスは返還されたredditus est。

Ⅳ.4:(1) ルキウス・コルネリウス・スキピオとガイウス・ラエリウスの執政官時に(前一九〇年)、スキピオ・アフリカヌスは、自身の兄弟である執政官ルキウス・コルネリウス・スキピオの代理官legatus として、アンティオクスに対して進発した。ハンニバルは、アンティオクスとともにいたが、艦隊戦でnauali proelio 打ち負かされた。 (2) その後postea、アンティオクス自身もアシアの都市、マグネシア・アド・シピュルスで、執政官コルネリウス・スキピオによって並はずれた戦闘の末ingenti proelio、撃破された。ローマ人たちにこの戦いで支援したauxilio fuit アッタルス(アットロス)王の兄弟エウメネスは、フリュギアにエウメニアを創設した。五万の歩兵、三〇〇〇の騎兵がその会戦でeo certamine(アンティオコス)王側で殺された。 (3) そのときtum 、王は和平を求めた。(和平が)以前示されたのと同じ諸条件で元老院から与えられた、(王が)打ち負かされたにもかかわらず、である。すなわち、(王は)エウロパとアシアから引き下がり、つまりatque タウルス(タウロス山脈)内にとどまること、一万タレントゥムと二十人の人質を差し出すこと、ハンニバル、戦争の扇動者を【s.】引き渡すこと、である。エウメネス王には元老院によって、アンティオクスが戦争で喪失したアシアの全都市が送られたdonatae、そしてet ロドゥス(ロドス)人たちには、支援をauxilium ローマ人たちにアンティオクス王に対抗して提供したので、多くの主都urbes が譲渡されたconcessae sunt。(執政官の)スキピオはローマへと帰りrediit、並はずれた栄光でingenti gloria 凱旋式を挙行したtriumphauit。彼自身も兄弟に倣ってアシアゲネスという名前を受け取った、なぜならquia(彼が)アシアを打ち負かしたからである、ちょうどsicuti 彼自身の兄弟がアフリカ(を征した)のでアフリカヌスと呼ばれていたように。

Ⅳ.5:(1) スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスとクイントゥス・マルクウス・フィリップスの執政官時に(前一八六年)、マルクス・フルウィウスがアエトリア(アイトリア)人たちからの凱旋式を挙行した。 (2) ハンニバルは、アンティオクスが打ち負かされたので、ローマ人たちに引き渡されtradereturないようにビテュニア王プルシアス(のもと)へと逃亡していたがfugerat、そのうえetiam 彼(プルシアス)からティトクス・クイントゥス・フラミニヌスの(もとへ降るようにと)繰り返し求められrepetitus、そしてet ローマ人たちに引き渡されそうになったtradendus時、毒をあおった、そしてet ニコメディア人たちの諸領域内のリビュッサ近郊に葬られた(前一八三年)。

Ⅳ.6:(1) マケドニア王フィリップスは死んだが、(彼はそれまでに)ローマ人たちに対して戦争を起こしもし、その後postea ローマ人たちのためにアンティオクスに対抗して支援をauxilium 提供しもしたが、彼の息子ペルセウスがマケドニアで反乱を起こし、並はずれた軍勢が戦争のために準備されたparatis(前一七年)。 (2) というのもnam 、彼は助力者たちとしてトラキア王コテュスそしてイリュリクム王で名をゲンティウスを持ってたからである。ところでautem ローマ人たちの側に支援していたのがin auxilio erant、アシア王エウメネスやカッパドキア(王)アリアラトゥス、シュリア(王)アンティオクス、アエギュプトゥス(王)プトレマイウス、ヌミディア(王)マシニッサがいた。ビテュニア(王)プルシアスはところでautem ペルセウスの姉妹を妻としていたとはいえ、両者に対等さをaequum 示した。 (3) ローマ人たちの将軍、執政官プブリウス・リキニウスが、彼(ペルセウス)に対して派遣された、そして王によって由々しき戦闘でgravi proelio 打ち負かされたvictus(前一七一年)。にもかかわらずやはりneque tamen ローマ人たちは、(戦闘で)負かされたがsuperati、和平を求める王に対し、(それを)保障することをpraestare 望まなかったneque。彼(ペルセウス)が自身と彼の部下たちsuosをローマの元老院と民衆にpopulo 引き渡すという諸条件でなければ。 (4) すぐにmox 彼に対して送られたのは執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスで、そしてイリュリクムには法務官ガイウス・アニキウスがゲンティウスに対して(送られた)(前一六八年)。しかしsed ゲンティウスはたやすくfacile 一度の戦闘で打ち負かされ、すぐにmox 降伏したse dedidit。彼の母や妻(s.)、二人の息子、一人の兄弟もまたquoque 同時にsimul ローマ人たちの手の内に落ちたin potestatem Romanorum uenerunt。かくしてita 三十日以内で戦争が終結したので、戦争の開始が告げられるよりも前にゲンティウスへの勝利が知らされた。 

Ⅳ.7:(1) ペルセウスとは、ところでautem、執政官アエミリウス・パウルスが九月三日に干戈を交えdimicavit、そしてまた-que 彼を打ち負かし、その歩兵二万を殺した(前一六八年)。騎兵隊は王とともに、手つかずでinteger 逃亡した。ローマ人たちの兵士一〇〇人が失われた。王が掌握していたマケドニアの全主都がurbes ローマ人たちに降伏したse dediderunt。王自身は、友人たちから見捨てられ、パウルスの手の内に落ちたuenit in Pauli potestatem。 (2) しかし栄誉をhonorem 彼に執政官アエミリウス・パウルスは持たせた、(あたかも王が)打ち負かされたわけではないように。というのもnam (王が執政官に向けて)足下に跪こうとしたにもかかわらず、それを許さなかった、そして自身のそばでイスに座らせたのである。 (3) マケドニア人たちとイリュリア人たちには、ローマ人たちによって以下のような諸法がleges 与えられたdatae、すなわち、彼らは自由であり、彼らが王たちに払っていた貢税の半分を(ローマに)支払う、というものである。それは、ローマ市民populum Romanumが貪欲ゆえというよりも対等さのためにpro aequitate 干戈を交えるのだdimicareと示すためだった。そしてかくしてitaque 数え切れないほど多くの市民たちのpopulorum 集会でパウルスはこのことを宣言し、そして彼の下へ来ていた諸部族のgentium 使節団をきわめて豪華に宴会で楽しませ、「戦争で打ち勝つことも、宴会の支度も同一人物の優雅さであらねばならぬ」と言う。

Ⅳ.8:(1) すぐにmox 彼は、反乱を起こしていたエピルスの七十都市を捕獲しcepit、戦利品を兵士たちに分配した。彼はローマへと並はずれた豪華さで(飾った)ペルセウスの軍船に乗って帰ったrediit。その軍船は櫂ごとに(漕ぎ手が)十六列sedecim ordines・・・remorum あったと言われるほど、異例なほどのinusitatae 大きさだったと伝えられているtraditur。彼は、ところでautem きわめて豪華に黄金の戦車に乗って、両脇に二人の息子を立たせ凱旋式を挙行した。戦車の前に連行されたのは、王の二人の息子たちとペルセウス自身だった、彼は四十五歳だった。 (2) 彼の後、アニキウスはそのうえetiam イリュリア人たちからの凱旋式を挙行した。ゲンティウスも一人の兄弟や息子たちともども戦車の前を引っ立てられたductus est。この見世物のために、多くの部族の王たちがローマへとやってきた。とりわけinter alios アシア王たちのアッタルス、そしてまたatque[例外訳]エウメネス、ビテュニア(王)プルシアスもやって来た。多大なる栄誉でhonore (王たちは)遇され、そして元老院の許可のもと、彼らは持参した奉納物をカピトリウム(の神殿)に納めた。プルシアスはそのうえetiam 自身の息子ニコメデスを元老院に委ねもしたのである。

Ⅳ.9:翌年(前一五三年)、ルキウス・メンミウスはルシタニアで善戦した。その後、執政官マルケッルスがその同じ場所でibidem 思い通りの諸成果をあげた(前一五二年)。

Ⅳ.10:(1) それからdeinde カルタゴに対する三度目の戦争が企てられ、首都創建以来六〇二年目、ルキウス・マンリウス・ケンソリヌスとマニウス・マニリウスの執政官時に、第二ポエニ戦争以来五十一年目のことであった(前一四九年)。 (2) 彼らが進発して、カルタゴを包囲したoppugnauerunt。彼らに対してカルタゴ人たちの将軍 dux ハスドルバルが干戈を交えたdimicabat。別の将軍ファメアがカルタゴ人たちの騎兵隊を率いていた。 (3) このときにtunc、スキピオ・アフリカヌスの孫nepos のスキピオ(・アエミリアヌス)が、軍団将校tribunusとしてかの地で軍務に服していた。彼に対する多大な畏敬、そして尊敬は、あらゆる者たちに存在していた。というのもそしてnam et、彼は戦闘行為についてad dimicandum 非常に長けており、きわめて思慮深いとされてもいたからである。そしてかくしてitaque 彼のお陰で、多くのことが執政官たちによって上首尾に行われた、(というのは)にもかかわらずneque ハスドルバルにもvel ファメアにもvel、ローマ人たちのその部分、スキピオが干戈を交えようとしていたdimicaret まさに(その部分)に対して関わることを避けることより以上のことをしなかったからだ。

Ⅳ.11:その同じ頃per idem tempus[初出、あとIX.23のみ]、ヌミディア人たちの王マシニッサが、ほぼ fere 六十年にわたってローマ市民のpopuli Romani友人であったが、九十七年の生涯の年齢で死んで、四十四人の息子たちが残されたが、彼はスキピオを彼の息子たちの間で王国のregni 分割者と命じていたiussit。

Ⅳ.12:(1) こうしてigitur スキピオの令名冠たるものとなっていたので、彼は依然としてadhuc 青年だったがiuvenis 執政官とされ、そしてカルタゴに対して送られた(前一四七年)。彼はそこを捕獲しcepit、およびac 打ち壊した。戦利品がそこでibi 発見された、それらはさまざまな都市を荒らしてカルタゴが集めてきていたものだったが、そして諸主都urbium (を象徴するような)諸装飾品ornamenta を、シキリア、イタリア、アフリカの諸都市にcivitatibus (諸都市が)自分のものと認識していたものについては、彼は返還したreddidit。かくてita カルタゴが抹殺されたのは、その創建の七〇〇年目だった。 (2) スキピオは彼の祖父が受けた名を得てmeruit、まさにscilicet その武徳のゆえに、そのうえetiam 自身もipse 小アフリカヌスと呼ばれた。

Ⅳ.13:とかくするうちにinterim マケドニアで偽フィリップスなる者が兵力をarma 動かしたmovit、そしてローマの法務官プブリウス・ユウェンティウスが彼に対して送られたが、(偽フィリップスは)完膚なきまでに打ち負かしたvixt(前一四九年)。彼の後、クイントゥス・カエキリウス・メテッルスが将軍dux としてローマ人たちによって偽フィリップスに対して送られ、そして彼(偽フィリップスの兵)二万五〇〇〇を殺し、マケドニアを再占領し、偽フィリップス自身をipsum そのうえetiam 彼の手中にin potestatem suam 移したredegit(前一四八年)。

Ⅳ.14:(1) コリントゥス(コリントス)人たちに対してもまたquoque、戦争が通告された(前一四六年)。(それは)ギリシアできわめて名高い都市nobilissimae civitati だったのだが、ローマ人たちの使節団への不当行為ゆえのことだった。そこを執政官ムンミウスが捕獲しcepit、そして破壊した。 (2) こうしてigitur ローマで同時に三つの非常に華々しい凱旋式があった。アフリカヌスのアフリカからの(凱旋式)では、彼の戦車の前を引っ立てられたのはductus est ハスドルバルだった。メテッレスのマケドニアからのでは、彼の戦車を先行したのが偽フィリップスことアンドリスクス(アンドリスコス)だった、ムンミウスのコリントゥスからのでは、彼の前を諸々の青銅象や諸々の板絵、そして主都のurbis 非常に輝かしい他の諸装飾品ornamenta が(見物人の前を)運び示された。

Ⅳ.15:再度iterum、マケドニアでは偽ペルセス、彼はペルセウスの息子と自称していたが、(彼が)奴隷たちを集めて反乱を起こし、そして一万六〇〇〇の兵力を擁したが、財務官トレメッリウスによって負かされたsuperatus est(前一四三年)。

Ⅳ.16:(1) 同じ頃(前一四三年)、メテッルスがケルティベリアでヒスパニア人たちのところで卓越したegregias 諸業績を挙げた。彼を継いだのがクイントゥス・ポンペイウスだった(前一四一年)。ほどなくしてnec multo post クイントゥス・カエピオもまたquoque 同じ(ヒスパニアでの)戦争へと送られた。 (2) その(戦争は)ウィリアトゥスなる者がローマ人たちに対してルシタニアで起こしたものだった。その(クイントゥス・カエピオが到来したという)恐怖のため、ウィリアトゥスは自らの配下たちによって殺害されたinterfectus est、彼は十四年にわたってヒスパニア諸州をローマ人たちに対しかき乱していたmovisset。彼は、最初はprimo 羊飼い、すぐにmox 追い剥ぎどもの首領dux、最終的にpostremo 多くの民衆をtantos populos 戦争へと煽り立てたがconcitavit、それほどにローマ人たちに対抗してヒスパニアの解放者とみなされていた。そして彼の殺害者たちがinterfectores 執政官カエピオからの褒賞をpraemium求めたとき、返答されたのは、最高軍司令官たちが自身の兵士たちによって殺害されるinterfici などということが、ローマ人たちに喜ばれたことなどけっしてない、と。

Ⅳ.17:(1) それからdeinde 執政官クイントゥス・ポンペイウスがヌマンティア人たち、(彼らの)都市はヒスパニアでもっとも富んでいたが、その彼らに負かされ、屈辱的なignobilem 和平を結んだ(前一四〇年)。彼の後には執政官ガイウス・ホスティリウス・マンキヌスが再度iterum ヌマンティア人たちと不面目な和平を結んだが、それを市民と元老院は破棄されるべし、つまりatque マンキヌス自身を敵たちに引き渡されるべしtradiと命じたiussit。というのは、(ヌマンティア人たちが)約定の張本人である彼を持つことで、約定の解消という不正行為に報復することができるためだった(前一三七年)。 (2) こうしてigitur これほどの恥辱ignominiamの後に、ヌマンティア人たちによって二度もローマ軍Romani exercitus(pl.) が軛の下を歩まされたわけで、 プブリウス・スキピオ・アフリカヌスが二度目の執政官とされ、そしてヌマンティアへと送られた(前一三四年)。彼はまずprimum 、潰乱しそして弱体化した兵を罰するよりも、むしろ鍛錬し、なんら過酷な処置も伴わず矯正し、そのときtum 彼は、多数のヒスパニアの諸都市を、あるものは捕獲しcepit、あるものは降伏を受け入れて、最終的にpostremo ヌマンティア自体を長期間diu 囲って飢えさせ、そして土台から倒壊し尽くしevertit、残りの属州(s)を誓約をもってin fidem 受け入れた(前一三三年)。

Ⅳ.18: 同じ頃(前一三三年)、アシア王アッタルス、(すなわち)エウメネスの兄弟がなくなり、そしてまた-que 彼は相続人としてローマ市民に populum Romanum 遺贈したreliquit。かくしてita ローマ帝国に遺言に従ってアシアが加わったaccessit。

Ⅳ.19:すぐにmox、そのうえetiam デキムス・ユニウス・ブルトゥスはカラエキア人たちとルシタニア人たちから、大いなる栄光をgloria もって凱旋式を挙行し(前一三六年あるいは前一三三年)、そして プブリウス・スキピオ・アフリカヌスはヌマンティア人たちからの二度目の凱旋式を行った、彼がアフリカから初めて(凱旋式を)行って以来一四年目のことであった(前一三二年)。

Ⅳ.20:(1) とかくするうちにinterim アシアで戦争がアリストニクス(アリストニコス)によって引き起こされた、(彼は)エウメネスの息子で、妾腹の生まれだった。このエウメネスはアッタルスの兄弟であった。彼(アリストニクス)に対して送られた プブリウス・リキニウス・クラッススが、王たちの数え切れないほどの援軍をauxilia 指揮した(前一三一年)。というのは、ビテュニア王ニコメデスはローマ人たちを支持し、ポントゥスのミトリダテスーーこの男との戦争はその後postea 非常に由々しくgravissimum なるのだがーーも、カッパドキアのアリアラテスも、パフラゴニアのピュラエメネス(ピュライメネス)も、だった。やはりtamen クラッススは打ち負かされ、そして戦闘中に殺害された。彼自身の首級はアリストニクスに差し出され、胴体はスミュルナで葬られた。  (2) その後、ローマ人執政官ペルペルナが、クラッススの後継者となることになるのだが(前一三〇年)、戦争の成り行きを聞くとアシアへと急ぎ、そして都市civitatemストラトニケア(ストラトニケイア)近郊の戦列(戦線)acieでアリストニクスを打ち負かし、彼が逃げ込んでいたそこ(の都市)を、飢餓で降伏へと強いた。アリストニクスは元老院の命令により、ローマで牢獄内で絞殺された。というのもenim 彼に関して凱旋式を挙行することができなかったからである、なぜならquia ペルペルナはペルガムム(ペルガモン)でローマへと帰ろうrediensとして死を迎えてしまったからである。

Ⅳ.21:ルキウス・カエキリウス・メテッルスとティトゥス・クインティウス・フラミニヌスの執政官在職時に(前一二三年)、カルタゴがアフリカで元老院の命令により再建された、それは今なお存続していてmanet、スキピオによって完全に倒壊し尽くされてからfuerat eversa 二十二年後のことだった。そこにローマ市民たちが導入されたdeducti sunt(前一二二年)。

Ⅳ.22:首都創建以来六二七年目(前一二四年)、執政官ガイウス・カッシウス・ロンギヌスとセクストゥス・ドミティウス・カルウィヌスが、アルペス(山脈)の向こう側のガリア人たちに対して、戦争を仕掛けたintulerunt、そしてアルウェルニ人たちのこのときにtunc きわめて名高い都市nobilissimae civitati、つまりatque 彼らの首領duciビトゥイトゥスに対しても(仕掛け)(前一二三年)、そしてまた-que 数え切れないほど大勢をロダヌス(ローヌ)河付近でiuxta 殺害した。ガリア人たちの首輪(トルクイス)からなる膨大な戦利品がローマへと持ち去られたperlata est 。ビトゥイトゥス(王)はドミティウスに降伏しse dedit、つまりatque 彼によりローマへと護送されdeductus est(前一二一年)、そしてまた-que 大いなる栄光で両執政官は凱旋式を挙行した(前一二〇年)。

Ⅳ.23:マルクス・ポルキウス・カトーとクイントゥス・マルキウス・レックスの執政官在職時、(すなわち)首都創建以来六三三年目に(前一一八年)、ガリア内のナルボに植民都市coloniaが導入されdeducta est、そしてまた-que 翌年に(前一一七年)執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルスとクイントゥス・ムキウス・スカエウォラによって、ダルマティアに関する凱旋式が挙行された。

Ⅳ.24:首都創建以来六三五年目(前一一四年)、執政官ガイウス・カトーはスコルディスキ人たち戦争を仕掛けintulit、そしてまた-que 恥辱的にignominiose 闘った。

Ⅳ.25:ガイウス・カエキリウス・メテッルスとグナエウス・カルボの執政官在職時(前一一三年)に、二人のメテッルス兄弟は、同じ日に、一方はサルディニアから、他方はトラキアからの凱旋式を行った(前一一一年)。そしてまた-que ローマに知らされたのは、キンブリ人たちがガリアからイタリアへ越えてきたことだった。

Ⅳ.26:(1) プブリウス・スキピオ・ナシカとルキウス・カルプルニウス・ベスティアの執政官在職時(前一一一年)に、ヌミディア王ユグルタに対して戦争が仕掛けられたinlatum est。というのも彼(ユグルタ)はアドヘルバルとヒエムプサルーー彼(ユグルタ)自身の兄弟ミキプサの息子たちで、王たちにしてローマ市民の友人たちーーを暗殺したからである。彼(ユグルタ)に対して送られたのが、執政官カルプルニウス・ベスティアだった。彼は王の金銭によって堕落させられcorruptus、彼(ユグルタ)ときわめて破廉恥な和平を結んだが、それは元老院によって拒否された。 (2) その後postea、まさにその彼(ユグルタ)に対して、翌年(前一一〇年)、スプリウス・ボストゥミヌス・アルビヌスが進発した。彼もまたquoque兄弟(アウルス)を介してヌミディア人たちと恥辱的にignominiose闘った。

Ⅳ.27:(1) 三度目に送られたのが、執政官クイントゥス・カエキリウス・メテッルスだった(前一〇九年)。彼は軍隊exercitumを並はずれた厳格さと控え目さでmoderatione 矯正させcorrectum、誰に対しても何ら残虐なことをcruentum せず、ローマ的規律へと連れ戻したreduxit。彼(メテッルス)はユグルタをあまたの戦闘で打ち負かしvicit、彼(ユグルタ)の象たちを殺したりそれともvel 捕獲したりしてcepit、彼の多くの都市を降伏により捕獲したcepit。そしてまさにjam 彼(メテッルス)が戦争に決着をつけようとしていた時、彼を継いだのがガイウス・マリウスだった(前一〇七年)。 (2) 彼はユグルタとマウレタニア王ボックスーー彼はユグルタへの支援をauxiliumし始めていたーーを、双方ともpariter 負かしたsuperavit。ヌミディアの多少の町をaliquanta oppida彼はまたもや捕獲しcepit、そしてまた-que 戦争に結末をつけたが、それは、並はずれた男にして彼の財務官であるコルネリウス・スッラを介してユグルタが捕らえられたからで、それはボックスがユグルタを引き渡したからであった、前にante彼のために闘ったにもかかわらわず。 (3) マルクス・ユニウス・シラヌスーー彼はクイントゥス・メテッルスの同僚だったがーーによって、キンブリ人たちはガリアで打ち負かされ(前一〇九年)、そしてミヌキウス・ルフスによってマケドニアでスコルディスキ人たちとトリパリ人たちが(前一〇九年)、そしてセルウィリウス・カエピオによってヒスパニアでルシタニア人たちが屈従させられたsubacti(前一〇七年)。 (4) そして行われたのが、ユグルタからの二度の凱旋式で、まずprimusメテッルスによって(前一〇六年)、第二がsecundusマリウスによってだった(前一〇四年)。マリウスの戦車の前にやはりtamen、ユグルタは二人の息子と共に鎖で繫がれて引っ立てられductus est、そしてすぐにmox 執政官の命令により牢獄内で絞殺された。

第五巻

Ⅴ.1:(1) 戦争がヌミディアでユグルタに対して行われている間に、ローマの執政官たちマルクス・マンリウスとクィントゥス・カエビオは、キンブリ人たちとテウトネス人たちとティグリニ人たちとアムブロネス人たちーー彼らはゲルマニアとガリアの諸部族だったーーによってロダヌス河畔で打ち負かされ、そして並はずれた虐殺で、そのうえetiam 彼らの陣営と軍隊exercitus の大半を失った(前一〇五年)。 (2) 恐怖はローマで大変なもので、それはほとんどハンニバルのポエニ戦争時に匹敵した、再度iterum ガリア人たちがローマへと戻ってきた(時)ほどではないにしろ。 (3) ゆえにergo、マリウスは、ユグルタからの勝利の後、二度目にsecundo 執政官とされ(前一〇四年)、そしてまた-que 戦争が彼にキンブリ人たちとテウトネス人たちに対して決議された。彼には三度目tertioと四度目quartoもまたquoque 執政官職が付託されたdelatus est(前一〇三年と前一〇二年)、なぜならquia キンブリ戦争が長引いていたからである。 (4) しかし、四度目の執政官在職に、彼は同僚としてクイントクス・ルタティウス・カトゥルスを持った。そしてかくしてitaque 彼はキンブリ人たちに奮戦しconflixit、そして二度の戦闘で二十万の敵を打ち倒しcecidit、八万と彼らの首領ducem テウトボドゥスを捕獲しcepit、この功績のため、(ローマ)不在のまま五度目にquinto執政官とされた(前一〇一年)。

Ⅴ.2:(1) その間にinterea キンブリ人たちとテウトネス人たちは、彼らの兵力copiaは依然としてadhuc 数え切れないほどだったが、イタリアへと(アルペス山脈を)越えてやって来たtransierunt。再度iterum ガイウス・マリウスとクイントゥス・カトゥルスによって彼らに対し干戈が交えられたdimicatum est、しかしカトゥルスのほうがより幸運であった。 (2) というのもnam、同時に両者が行った戦闘によって、一四万人があるいはaut 闘いの中で、あるいはaut 敗走中に倒され、六万人が捕らえられた。ローマ兵たちは両軍で三〇〇人を失った。三十三の軍旗がキンブリ人たちから差し出されsublata sunt、これらのうちからマリウス軍は二つを持ち帰り、カトゥルス軍は三十一だった。これが戦争の終わりであった。凱旋式が両者に決議された。

Ⅴ.3:(1) セクストゥス・ユリウス・カエサルとルキウス・マルキウス・フィリップスの執政官在職時、首都創建以来六五九年目(前九一年)に、ほとんどprope 他の全ての諸戦争は終結していたが、イタリアで極めて由々しきgravissimum 戦争へとピケンテス人たち、マルシ人たち、そしてまた-que ペリグニ人たちが動いたmoverunt、彼らは長年にわたってまさにローマ市民にpopulo Romano 従っていたが、そのときtum 対等のaequam 自由を我が物にしようとし始めた。この戦争はまったくもってadmodum 致命的でperniciosum[初出、IX.7, 8, 19.1]あった。 (2) 執政官プブリウス・ルティリウスがこの(戦争)で殺されoccisus est(前九〇年),貴顕な青年juuenis カエピオ、もう一人の執政官ポルキウス・カトーも(殺された)(前八九年)。ところでautem ローマ人たちに対峙するピケヌム人たちとマルシ人たちにとっての将軍たちduces は、ティトゥス・ウェッティウス、ヒエリウス・アシニウス,ティトゥス・ヘレンニウス、アウルス・クルエンティウスだった。 (3) ローマ人たちにとって、彼らに対する戦いは上首尾に行われた、(それは)六度目に執政官であったガイウス・マリウスによって、そしてグナエウス・ポンペイウスによって、殊にmaxime やはりtamen ルキウス・コルネリウス・スッラによって、であった。彼(スッラ)は、他のことどもでも卓越したegregia(諸成果)を挙げたが、敵の将軍ducem クルエンティウスを大兵力magnis copiis ともども撃破しfudit[初出、あとVI.21.3(落涙し), IX.18.1, X.4.3]、自軍からは一人しか失わなかった。 (4) 四年にわたって由々しきgravi 損害を伴いながら、やはりtamen この戦争は続いた。五年目にやっとdemum 執政官ルキウス・コルネリウス・スッラにより終結を迎えた(前八八年)が、それ以前にantea 同じ戦争で彼は多くのことを活発にstrenue 成し遂げたが、それは法務官としてだった。

Ⅴ.4:(1) 首都創建の六六二年目(前八八年)、初めてローマで内戦が引き起こされ、同年そのうえミトリダテス戦争も(引き起こされた)。 (2) 内戦に原因を与えたのは、ガイウス・マリウスが六回執政官だったからである。というのもnam 執政官スッラが、アシアとアカイアを占領していたミトリダテスに対し、戦争を行うべく送られ、そしてまた-que 彼は軍隊をexercitum カンパニア内にしばらくの間paulisper 居続かせていたが、それは我々がすでに述べていたイタリア内で行われていた同盟市戦争の残党どもを排除するためだったのだが、マリウスは自分自身がミトリダテス戦争に送られることを熱望した。そのことでスッラは怒りに駆られて軍隊exercitu とともに首都へとやってきた。そこでillic マリウスとスルピキウスに対して彼は干戈を交えたdimicavit。彼は首都ローマに武装したまま入った最初(の人物)で、スルピキウスを殺害し,マリウスを敗走させた。つまりatque かくしてita 翌年(前八七年)の執政官たちにグナエウス・オクタウィウスとルキウス・コルネリウス・キンナを定めてordinatis、彼はアシアへと進発した。

Ⅴ.5:(1) たしかにenim ミトリダテスはポントゥス王で、つまりatque 小アルメニアと全ポントゥス海(黒海)をボスフォルス(ボスフォロス)を含む周辺を掌握していたが、まずprimum ローマ市民の友人amicum populi Romani ニコメデスをビテュニアから追放することを欲し、そしてまた-que 元老院に彼が彼に戦争を行うであろうと通告した、(それは)彼が受けた数々の不正行為ゆえである、と。元老院からミトリダテスへの返答は、もしそんなことをするならローマ人たちへの戦争に自身も晒されることになろう、というものであった。 (2) それゆえにquare 怒った彼はカッパドキアをただちにstatim 占領し、そしてかの地から王でローマ市民のpopuli Romani 友人アリオバルザネスを敗走させた。すぐにmox そのうえetiam ビテュニアとパプラゴニアを強奪しinvasit、かの地(s.)からex ea 王たちでローマ市民の友人たちamicis populi Romani ピュラエメネスとニコネデスを撃退したpulsis。そこからinde エフェスス(エフェソス)へ彼は進んで赴いたcontendit,そして全アシアに向けて諸書簡を送った、(それに書かれていたのは)そしてまたどこであれubicumque 発見されれば、ローマ市民はciues Romani 即日uno die 殺されるべきである、と。

Ⅴ.6:(1) その間にinterea そのうえetiam アカイアの都市ciuitas アテナエ(アテナイ)がアテナエ人アリスト(アリストン)からミトリダテスに委ねられたtradita est 。たしかにenim すでにiam アカイアへミトリダテスが自身の将軍ducem アルケラウス(アルケラオス)を十二万の騎兵およびac 歩兵とともに送っていたしmiserat、彼(アルケラウス)によってそのうえetiam 残るグラエキアも占領されていたoccupata est。スッラはアルケラウスをアテナエから遠くないピラエウス(ペイライエウス)で攻囲し、アテナエ自体も捕獲したcapit。 (2) その後posteaアルケラウスに対する戦闘が始まり、次のように彼を打ち負かしたuicit(前八六年)。(すなわち)十二万人のうち、かろうじてuixアルケラウス側で一万人が生き残りsuperessent、スッラの軍隊のうちexercitu 殺害されたのはたった十三人だった。この戦いのことが知られると、ミトリダテスは最精鋭七万をアシアからアルケラウスに送り、彼に対して再度iterum スッラは戦った。最初の戦闘で一万五〇〇〇人の敵とアルケラオスの息子ディオゲネスが殺害された。二度目(の戦闘)で、すべてのミトリダテスの諸部隊copiae が消滅しextinctae sunt、アルケラウス自身は三日間丸裸で沼地に隠れた。このことを聞いて、ミトリダテスはスッラと和平を結ぶように命じたiussit。

Ⅴ.7:(1) とかくするうちにinterim このとき、スッラはそのうえetiam ダルダニ人たち、スコルディスキ人たち、ダルマティア人たち、そしてマエディ人たちをも、一部はpartim 打ち負かしvicit、他の者たちは誓約をもってin fidem 受け入れた。 (2) しかし、ミトリダテス王から(送られて)和平を求めていた使節団が来たときは、以下のようにスッラは返答した、もし王が占領していた諸処を放棄して自分の王国へregnum 帰らredisset ないのならば、何も与えられないであろう、と。その後postea やはりtamen 会談へと両者はやってきて、和平が彼らの間で定められた(前八五年)。スッラは内戦へと急いでいたので、背後からの危険を持たないようにするためだった。 (3) というのもnam スッラがアカイアそしてまたatque[例外訳]アシアでミトリダテスを打ち負かしているvincit 間に、逃亡していたマリウスと執政官の一人であるコルネリウス・キンナが戦争をイタリアで再開し、そして首都ローマへ入ると(前八七年)、元老院のきわめて貴顕な人々nobilissimos e senatu と執政官級の人々をconsulares viros 殺害し、多くの人々の公権を剥奪し、スッラ自身の邸宅を倒壊し尽くしeversa、息子たちと妻を逃亡に追い込んだ。 (4) 残る元老院のすべては、首都から逃亡し、グラエキアのスッラのもとへ行き、祖国を助けるように懇願する。彼(スッラ)は、イタリアへと渡った(前八三年)、内戦を執政官ノルバヌスとスキピオに対して行うためだった。最初の戦闘でノルバヌスに対し、カプアからそれほど遠くない所で彼は干戈を交えたdimicavit。そのときtum 彼(ノルバヌス)方の六〇〇〇を打ち倒しcecidit、六〇〇〇を捕獲しcepit、自軍は一二四を失った。そこからinde そのうえetiam スキピオの方に転進し、そして戦闘に先立ち、彼のすべての軍隊をexercitum 流血なくして降伏でin deditionem 受け入れた。

Ⅴ.8:(1) しかし、ローマで執政官たちが変更され、マリウスの息子マリウスおよびac パピリウス・カルボが執政官職を引き受けた時に(前八二年)、スッラは小マリウスに対して干戈を交えdimicavit、彼(マリウス方)の一万五〇〇〇を殺し、自身からは四〇〇を失った。すぐにmox そのうえetiam 彼(スッラ)は首都へと入った。マリウスの息子マリウスを追跡して、プラエネステを攻囲し、死へと追い込んだ。再びrursus、きわめて由々しき会戦をpugnam gravissimam マリウス派の将軍たちduces ランポニウスとカリナスに対してコッリナ門付近でもった。敵七万がその戦闘でスッラに対峙したと言われている。一万二〇〇〇がスッラに降伏したが、残りの者たちは、戦列でacie、陣営で、逃亡中に、勝利者たちの飽くなき怒りによって(生命を)奪い尽くされたconsumpti sunt 。 (2) 執政官グナエウス・カルボ もまたquoque 、アリミヌムからシキリアへと逃げ去り、そしてそこでグナエウス・ポンペイウスによって殺害された。スッラはつまりatque 二十一歳の未成年であるadulescentem[初出]彼(ポンペイウス)に、その精励ぶりをindustria[初出]認めて諸軍隊exercitibus の指揮を任せており、スッラにより二番目としてみなされていた。

Ⅴ.9:(1) ゆえにergo カルボは殺され、シキリアをポンペイウスは取り戻した(前八二年)。そこから彼はアフリカへと渡り、マリウス派の将軍ducemドミティウスと、マウレタニア王ヒエルダを殺した。彼がドミティウスを支援auxilium していたからである。これらの後に、スッラはミトリダテスから並はずれた栄光ingenti gloria とともに凱旋式を挙行した(前八一年)。そのうえetiam グナエウス・ポンペイウスは、ローマ人たちの誰にもこのようなことは認められたことはなかったが、二十四歳になっていた彼が、アフリカからの凱旋式を挙行した。 (2) かくて非常に不幸な二つの戦争が終局を迎えた。同盟市戦争とも言われるイタリア(戦争)と、内(戦)ciuile で、両者(の戦争)は十年にわたって続いた。ところでautem(それらの戦争が)奪い尽くしたconsumpserunt のは、十五万人以上で、執政官級の人物二十四名、法務官級七名、按察官級六十名、元老院議員約二〇〇名であった。

第六巻

Ⅵ.1:(1) マルクス・アエミリウス・レピドゥスとクィントゥス・カトゥルスの執政官職時(前七八年)、スッラが国家を安定させた時に、新たな諸戦争が勃発した。一つはヒスパニア、もう一つはパンフュリアとキリキア、三つ目はマケドニア、四つ目はダルマティアだった。 (2) というのも、マリウス派だったセルトリウスが、抹殺されていた他の者たちの運命を恐れて、戦争へとヒスパニア諸州を扇動したからだった。彼に対し送られたのは将軍たちduces ユグルタ王を打ち負かしたvicit人物の息子クイントゥス・カエキリウス・メテッルスと、法務官ルキウス・ドミティウスだった。 セルトリウスの将軍duce ヒルトゥレイウスにより、ドミティウスは殺されたoccisus est。メテッルスは紆余曲折の経過によりuario successu セルトリウスに対し干戈を交えたdimicavit。その後postea 闘いにpugnae 単独は不利であると思われたので、グナエウス・ポンペイウスがヒスパニア諸州へと送られた。 (3) かくして、二人の将軍たちにducibus 対峙されて、セルトリウスは運命の浮き沈みとともにfortuna uaria(s.)、しばしばsaepe 闘ったpugnauit。八年目についにdemum 彼は自分の部下たちによって殺されoccisus est(前七二年)、そしてこの戦争に終止符が打たれたのはfinis datus、未成年のadulescentem グナエウス・ポンペイウスとクイントゥス・メテッルス・ピウスによってであった。つまりatque 全ヒスパニアはほとんどprope ローマ市民populi Romani の主権の中にin dicionem[初出、あとはVI.3,IX.13.1のみ]置かれた(前七一年)。

Ⅵ.2:(1) マケドニアへ送られたのは、執政官職(前七九年)後post consulatum のアッピウス・クラウディウスだった(前七八年)。諸々の小競り合いをleuia proelia 彼は属州ロドペに居住していたさまざまな諸部族gentes とし、つまりatque その地で病死した(前七六年)。 (2) そこに送られたのは、後継者ガイウス・スクリボニウス・クリオで、執政官職(前七六年)後post consulatum のことだった。彼はダルダニ人たちを打ち負かしvicit、そしてダニウィウス河にまでずっとusque 入り込みpenetravit[初出]、そしてまた-que 凱旋式を得てmeruit、そして三年のうちに戦争にbello 終止符をもたらしたfinem dedit(前七四年)。

Ⅵ.3:キリキアとパンフュリアへと、送られたのは、元執政官ex consule(在職:前七九年)のプブリウス・セルウィリウスだった。彼は活発なstrenuus 人物だった。彼はキリキアを押さえ込みsubegit、リュキアで最も傑出していた諸主都をurbes 攻囲しそして捕獲したがcepit、それらの中には、ファセリスやオリュンプス(オリュンポス)、キリキアでコリュクス(コリュコス)がある。彼はイサウリ人たちもまたquoque 襲撃し、主権内にin dicionem 移しredegit、つまりatque 三年のうちに戦争に終止符をもたらしたfinem dedit(前七四年)。彼は全ローマ人の中で初めて、タウルス(タウロス)[山中]に道をつくった。(ローマに)帰還したrevertens 彼は凱旋式を受け入れ、そしてイサウリクスの名を得たmeruit。

Ⅵ.4:イリュリクムへと送られたのは、執政官相当pro consuleのガイウス・コスコニウスだった。彼はダルマティアで広範な部分を押さえ込んだsubegit。彼はサロナエを捕獲しcepit、そして戦争を処理して、ローマへと二年後に帰ったrediit。

Ⅵ.5:(1) 同じ諸時期にisdem temporibus (pl.)、執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥスが、カトゥルスの同僚だったが、内戦を引き起こすことを望んだが(前七八年)、やはりtamen 一夏のうちに彼の動きは鎮圧された(前七七年)。 (2) こうして、短期間にuno tempore(s.)、多くの凱旋式が同時に[次々と]simul 挙行された、すなわち、メテッルスのヒスパニアからの、ポンペイウスの二度目がヒスパニアからの、クリオのマケドニアからの、セルウィリウスのイサウリアからの、である。

Ⅵ.6:(1) 首都創建六七六年目に、ルキウス・リキニウス・ルクッルスとマルクス・アウレリウス・コッタの執政官在職時に(前七四年)、ビテュニア王ニコメデスが死去し、そして遺言でローマ市民をpopulum Romanum 相続人とした。 (2) ミトリダテスは和平を破り、ビテュニアとアシアをまたもやrursus 強奪することをinvadere 望んだ。彼に対して両執政官が送られ、彼らは運命の浮き沈みを体験したuariam habuere fortunam。コッタは、カルケドン付近において、彼(ミトリダテス)により戦列でacie 打ち負かされ、そのうえetiam 町の中にintra oppiodim 追い込まれ、そして包囲された。 (3) しかし、そこからinde ミトリダテスが自らキュジクス(キュジコス)へ移動したときにtranstulisset、キュジクスを占領した上で、全アシアを強奪しようinvaderet としたので、もう一人の執政官ルクッルスが彼に対峙した。およびac、ミトリダテスがキュジクスの包囲に手間取っている間にdum、彼自身(ルクッルス)が彼を背後から包囲し、そしてまた-que 飢餓で疲弊させ、そして多くの諸戦闘によって打ち負かし、最終的にpostremo ビュザンティウム(ビュザンティオン)へと追い払ったfugauit が、そこは今やnunc コンスタンティノポリスである。(一度のs.)艦隊戦でもまたnauali quoque proelio 彼の将軍たちをルクッルスは制圧した。かくしてita、一冬と一夏でuna hieme et aestate ルクッルスによって王のおよそfere 十万が消滅したextincta sunt。

Ⅵ.7:(1) 首都ローマの六七八年目に(前七二年)、マケドニア属州をマルクス・リキニウス・ルクッルスが受け取った、彼は、ミトリダテスに対して戦争をおこなっていたルクッルスの従兄弟である。 (2) そして、イタリア内で新たな戦争がすぐにsubito 引き起こされた。というのもenim 七十四人の拳闘士たちが、指導者duce(s.)スパルタクス、クリクスス、そしてオエノマウスによって、カプアの(剣闘士)養成所を打ち壊して脱走した。そして彼らはイタリア中を動き回り、そこでin ea ハンニバルが(以前)起こしたmoveratのにほとんどpaene 劣ることのない戦争を準備したparaverunt。というのもnam、彼らは多くの将軍たちducibus、そしてローマ人たちの二人の執政官たちを同時にsimul 打ち負かしuictis、ほぼfere 六万の武装者たちの軍隊をexercitum 集めたからである。そしてまた-que 彼らはアプリア内で執政官格のpro consule マルクス・リキニウス・クラッススによって打ち負かされuictis、そしてイタリアでの多くの災禍の後に、三年目にこの戦争に終止符が定められたest finis inpositus(前七一年)。  

ティグラネスのアルメニア王国最大時、BC69年:基本的に「小アルメニア」はローマ帝国内の地域名で、「大アルメニア」はペルシアとの緩衝王国

Ⅵ.8:(1) 首都創建六八一年に、プブリウス・コルネリウス・レントゥルスとグナエウス・アウフィディウス・オレステスの執政官在職時に(前七一年)、わずかに二つの由々しき戦争がgravia bella ローマ帝国内であった。ミトリダテスのと、マケドニアの、である。それら(の戦争)に二人のルクッルスたち、ルキウス・ルクッルスとマルクス・ルクッルスがあたっていた。 (2) ゆえにergo、ルキウス・ルクッルス は、キュウジクスでの戦いで、ミトリダテスを打ち負かし、そして彼の将軍たちを制圧した海戦navalemの後で、彼を追跡した、そしてパフラゴニアつまりatque ビテュニアを取り戻しrecepta、そのうえetiam 彼の王国をregnum 強奪しinvasit、ポントゥスのきわめて名高い諸都市civitates nobilissimas シノペとアミスス(アミソス)を捕獲したcepit。(3) 第二の戦闘のため、都市カビラ(カベイラ)近郊で、そこに ミトリダテスは並はずれた軍勢を全王国からex omni regno 率いていたが、王の最精鋭三万はローマ人たちの五〇〇〇の兵によって荒らされたのでvastata essent、ミトリダテスは敗走させられ、彼の陣営は略奪された。彼が掌握していた小アルメニアもまたquoque 同じ人物(ルクッルス)に差し出された。 (4) やはりtamen ミトリダテスは敗走後、アルメニア王ティグラネスに保護された。彼(ティグラネス)はそのときtum 並はずれた栄光で支配していた人物で、ペルシア人たちをしばしばsaepe 打ち負かし、メソポタミア、そしてシュリア、そしてフォエニケ(フォイニケ)の一部を占領していた。

Ⅵ.9:(1) ゆえにergo、ルクッルスは敗走した敵を再攻撃して、アルメニア人たちに命令権を行使していたimperabat ティグラネスの王国へと進撃した。彼はアルザネア(地方)のティグラノケルタという、アルメニア人の王国のきわめて名高い都市civitatem nobilissimam を捕獲しcepit(前六九年)、王自身を、(彼が)七五〇〇の重装騎兵たちclibnariis、そして弓兵たちsagittariorum と武装兵たちのarmatorum 十万と共にやって来たので、彼(ルクッルス)が手持ちの一万八〇〇〇の兵でもって打ち負かしvicit 、アルメニア人たちの(軍隊の)大部分を抹殺した。そこから、彼(ルクッルス)はニシビスへと進発すると、この都市をもまたquoque 王の一人の兄弟とともに捕獲したcepit(前六八年)。 (2) しかし、かの輩ども、即ちポントゥスにルクッルスが軍隊のexercitus の一部と共に残しておいた者たちなのだが、それは打ち負かされかつ今やiam ローマ人たちのものとなった諸地域を防衛するためであったが、自らを省みることなく、そして強欲に振るまったために、再びiterum ミトリダテスがポントゥス内に押し入る機会を与えることになり、つまりatque こうして戦争が再開された。ルクッルスが獲得されたニシビスで、彼がペルシア人たちに対する遠征を準備していてparanti、後任が送られたのである。

Ⅵ.10:ところでautem、別のルクッルスはマケドニアを管理していたがadministrabat、ローマ人たちの中でベッシ(ベッソイ)人たちに戦争を仕掛けたintulit 最初の人であり、つまりatque 彼らをハエムス(ハイモス)山中での並はずれた戦いで負かしたsuperavit。ベッシ人たちが住んでいた町oppidum ウスクダマを、彼が襲撃したのと同日に 打ち負かしvicit 、カビュレを捕獲しcepit、 ダヌビウス(河)までずっとusque 入り込んだpenetravit。そこからinde ポントゥス(海沿岸)にある多くの諸都市をcivitates 襲撃した。そこでアポロニアを完全に倒壊し尽くしevertit、カラティス、パルテノポリス、トミイイ(トミス)、ヒストルム、ブルジアオ(ブルジアオン)を捕獲しcepit、そしてまた-que 戦争に決着をつけconfecto、ローマへと帰ったrediit (前七一年)。両者は(別々に)凱旋式を挙行したが、やはりtamen ミトリダテスと奮戦していたルクッルスがより大きな栄光をgloria 伴った、というのも、これほどの諸王国の勝利者として帰ったredisset からである。  

Ⅵ.11:(1) マケドニア戦争は決着しconfecto、ミトリダテス(戦争)が存続していてmanente、ルクッルスが戻った後、王が援軍をauxiliis 集めて再開し、クレタ戦争が始まった。 (2) それに対して送られたクイントゥス・カエキリウス・メテッルスは、並はずれた諸戦闘によって三年のうちに属州全体を捕獲したcepit(前六七ないし六六年)。そしてまた-que 彼はクレティクスと呼ばれ、つまりatque (クレタ)島に関する凱旋式を挙行した(前六二年)。 (3) この頃リビュアもまたquoque ローマ帝国に、そこの王だったアッピオ(アピオン)の遺言により、加わったaccessit。その中にはよく知られていた諸主都urbes、ベレニケ、プトレマイス、キュレネがあった。   

Ⅵ.12:(1) これらのことがなされている間に、海賊たちがあらゆる海域を脅かしていたので、全世界の勝利者たるローマ人たちにとって、唯一船旅が安全でなかったのである。そのゆえに、その戦争がグナエウス・ポンペイウスに(元老院によって)決議された(前六七年)。それを彼はわずか数ヶ月のうちに、並はずれた幸運にも迅速さにも(恵まれて)決着をつけたconfecit。 (2) すぐにmox 、彼にはミトリダテス王とティグラネス(王)に対する戦争もまたetiam 付託されたdelatum(前六六年)。それを受領した彼は、ミトリダテスを小アルメニア内で野戦で打ち負かしvicit、陣営を掠奪しdiripuit、彼の四万を殺したが、自分の軍隊からはexercituたった二十人、そして二人の百人隊長を失ったのみだった(前六五年)。ミトリダテスは妻[s.]と二人の側近とともに逃亡した。(3) ほどなくしてneque multo post、彼は自分の部下たちに怒りをぶちまけsaeviret[初出、VII.12.3,]、彼の息子ファルナケスによって、兵士たちの面前で暴動でseditione 死を強いられ、毒薬をあおった。かくのごとき最期をミトリダテスは迎えたのである(前六三年)。ところでautem 彼が亡くなったのはperiit ポスフォルス(王国)においてで、この人物は並はずれた精励ぶりindustriae そしてまた賢慮をconsiliique もっていた。彼は六十年統治し、七十二年生きvixit、ローマ人たちに対して戦争を四十年間行なった。

Ⅵ.13:ティグラネスにそれからinde ポンペイウスは戦争を仕掛けたintulit(前六六年)。その者(ティグラネス)は彼に降伏しse dedidit、そしてポンペイウスの陣営にアルタクサタから十六里程標を赴き、およびac 彼のディアデマ(冠帯)を、ポンペイウスの膝下に平伏した時に、彼自身の両手の中に置いた。それをポンペイウスは彼に返還し、そしてまた-que 名誉をもって彼を遇したが、やはりtamen 王国の一部と多額の(賠償)金で罰した。彼(ポンペイウス)に剥奪されたのはadempta、シュリア、フォエニケ(フォイニケイア)、ソファネネ(ソフェネ)であった。加えてpraeterea 銀六〇〇〇タレントゥムが、ローマ市民populo Romano に支払うように通告されたindicta、なぜならquia 彼が戦争を理由なくローマ人たちにもたらしたためだった。

Ⅵ.14:(1) ポンペイウスはすぐにそのうえmox etiam アルバニア人たちに戦争を仕掛けintulit、そして彼らの王オロデスを三度 打ち負かしvicit、最終的にpostremo 諸書簡およびac 諸々の献上品によって懇請されたので、そして彼に赦免およびac 平和とを与えた。ヒベリアの王アルタケスもまたquoque 彼(ポンペイウス)は戦列でacies 打ち負かしvicit、そして降伏を受け入れた。彼は小アルメニアをタラティア王デイノタルス(デイオタロス)に贈ったdonavit、なぜならquia 彼がミトリダテス戦争で同盟者socius だったからである(前六四年)。アッタルスとピュラエメネスにパフラゴニアを返還したreddidit。アリスタルクス(アリスタルコス)をコルキス人の王に据えた。すぐにmox、彼はイトゥラエア人たちとアラビア人たちを打ち負かしたvicit(前六三年)。 (2) そして、シュリアに到着すると、アンティオキア(アンティオケイア)近郊の都市セレウキア(セレウケイア)に自由を贈ったがdonavit、それは(セレウキアが)ティグラネス王を受け入れなかったからである(前六三年)。アンティオキア人たちには人質たちを返還したreddidit。かなりの農耕地をダフネ人たちには引き渡したが、それはそこの聖なる森がより広大になるようにするためだった。彼は、(その)土地の心地よさと水の豊富さに魅了されていたのである。そこからinde 彼はユダエアに移動すると、(その)部族の首都capto gentis ヒエロソリュマ(エルサレム)を三ヶ月で捕獲しcepit、一万二〇〇〇のユダエア人たちを殺し、残りの者たちを誓約をもってin fidem 受け入れた。これらのことをなして、彼はアシアへと立ち帰り、そして(ミトリダテスとの)非常に古くからの戦争に終焉をもたらした。

Ⅵ.15:弁論家マルクス・トゥッリウス・キケロとガイウス・アントニウスの執政官在職時、首都創建以来六八九年目(前六三年)に、ルキウス・セルギウス・カティリナ、きわめて貴顕な一族の人物nobilissimi generis vir、しかしながら生来並はずれて堕落した人物が、祖国を破滅させるために。幾人かのquibusdam無論quidem 傑出してはいるがclaris、しかし無謀な人物たちとともに、共謀した。キケロによって彼は首都から追放されたexpulsus est 。彼の相棒たちはsocii 牢獄に捕らえられて絞殺された。もう一人の執政官アントニウスによって、カティリナ自身は戦闘でproelio 打ち負かされ、そして殺害された(前六二年)。

Ⅵ.16:首都創建の六九十年目、デキムス・ユニウス・シラヌスとルキウス・ムレナの執政官在職時に(前六二年)、メテッルスはクレタからの、ポンペイウスは海賊とミトリダテスの凱旋式を挙行した。かつて(この)凱旋行進に同様なsimilis(ほど盛大な)ものはなかった。彼(ポンペイウス)の戦車の前を連行されたのは、ミトリダテスの息子たち、ティグラネスの息子、そしてユダヤ人たちの王アリストブルスであり、並はずれた財宝、量りきれないほどの重さの金そしてまたatque [例外訳]銀が(見物人の前を)運び示されたpraelata est。このとき、全世界を通じて深刻な戦争はなくなった。

Ⅵ.17:(1) 首都創建六九三年目に、後にpostea (皇帝になって)命令権を行使したガイウス・ユリウス・カエサルが、ルキウス・ビブルスとともに執政官とされた(前五九年)。彼に(元老院によって)決議されたのはガリアとイリリクムで、十個軍団付きだった。 (2) 彼は最初のヘルウェティイ人たちーーいまやnunc セクアニ人たちと呼ばれているーーを打ち負かしvicit (前五九年)、それからdeinde きわめて由々しき諸戦争を通じてper bella gravissima 勝利することによって、ブリタンニアの大海(オケアヌス)までずっとusque進軍した(前五六年)。 (3) ところでautem 彼は、九年ですべてのガリアをほぼ押さえ込んだdomuit[初出、IX.20.3, 23]、それは、アルペス(山脈)、ロダヌス河、レヌス(河)、そして大海(オケアヌス)の間にあり、その周囲については三二十万バッススに及ぶ。ブリタンニア人たちにすぐにmox 彼は戦争を仕掛けたintulit(前五五、五四年)、 彼らには彼以前にローマ人たちの名は無論quidem 知られていなかった。そしてまた-que 彼らを打ち負かしvicit、(カエサルは)人質たちを受け入れた上で貢納を課した。ガリアではところでautem 貢税の名のもとにtributi nomine 年間四十(四千)万セステルティルスを命じ、そしてまた-que ゲルマン人たちをレヌス河を越えて襲撃し、非常に凄惨な諸戦闘で打ち負かした(前五五、五三年)。この合間にそれほど成功した彼は、三度不首尾な戦いをした、一度はsemel 彼がいるときにアルウェルニ人たちのところにおいて(前五二年)、そして彼の不在時にゲルマニアにおいて二回bis あった。というのも彼の二人の総督代理たちlegati、ティトゥリウスとアルンクレイウスが諸々の奸計によって per insidias 倒されたからである(前五四年)。

Ⅵ.18:(1) ほぼ同じころ、首都創建六九七年目にマルクス・リキニウス・クラッススがグナエウス・ポンペイウス・マグヌスの同僚として、二度目の執政官職在職時に(前五五年)、パルティア人たちに対して送られた。そして彼はカッラエ付近で一つの前兆と(幾度かの)鳥占いに反して干戈を交えたdimicasset ときに、オロデス王の将軍duce スレナ(スエナス)によって打ち負かされ、最終的にad postremum きわめて傑出しclarissimo そしてきわめて注目すべきpraestantissimo 青年iuvene であった息子とともに殺害されてしまった(前五四年)。 (2) 軍隊exercitusの残りは、財務官ガイウス・カッシウスによって救われたservatae sunt[初出、あとIX.11のみ]。彼は特異な精神によってsingulari animo、絶望的諸状況を多大な武徳によって回復させたrestituit。つまりペルシア人たちをエウフラテス河を越えて帰るrediens 途中の彼が幾多の戦争で打ち負かしたのである(前五二〜五一年)。

Ⅵ.19:(1) ここからまさにhinc iam 、忌まわしく悲しむべき内戦が続き、それによってquo 諸戦闘で生じた災禍に加えて、そのうえetiamローマ市民populi Romani の運命まで変えられてしまった。 (2) というのはカエサルがガリアから勝利者として帰りrediens、二度目の執政官職を、つまりatque(誰からも)疑われることなく、彼にもたらされるようにと求め始めたからである(前五一〜五〇年)。そのことは執政官マルケッルス、ビブルス、ポンペイウス、カトーによって反駁され、そしてまた-que 彼は諸々の軍隊exercitibus を解散した上で首都に帰るredire よう命令された。その侮辱行為のゆえに、彼はアリミヌム(現リミニ)から、彼がそこに兵士たちの集めていたのだが、祖国へ向けて軍隊とともにexercitu 到来した(前四九年)。 (3) 執政官たち、ポンペイウスそしてまた-que 全元老院、つまりatque あらゆる貴顕階級nobilitas が首都から逃亡し(s.)、グラエキアへと渡ったのである(s.)。エピルス、マケドニア、アカイアで、ポンペイウスを将軍としてduce、元老院はカエサルに対して戦争を準備したparavit。

Ⅵ.20:(1)  カエサルは人気(ひとけ)のない首都に入り、独裁官に自らを任じた。それからヒスパニア諸州へ向かった。その地でポンペイウスの諸軍隊の中でexercitus もっとも精強で勇猛な者どもを、三人の将軍たちdubious 、ルキウス・アフラニウス、マルクス・ベトレイウス、マルクス・ウァッロもろとも負かしたsuperavit。 (2) そこからinde 帰還したregressus 彼はグラエキアへ渡り、ポンペイウスに対して干戈を交えたdimicavit。最初の戦闘で彼(カエサル)は打ち負かされ、そして敗走したが、逃げおおせた。やはりtamenなぜならquia、夜になり、ポンペイウスが追跡しようとしなかったからである。そしてまた-que カエサルは言った、「ポンペイウスは勝つすべを知らない」、そして「彼はその日十分にtantum 自分を負かすことができたのに」と。 (3) それからdeinde テッサリアのパラエオファルサルス(ファルソス)で、彼らは双方とも並はずれた諸軍勢をcopiis 率いて干戈を交えたdimicaverunt。ポンペイウスの戦列はacies 四万の歩兵、騎兵が左翼に六百、右翼に五百、 加えてpraeterea 全東方からの援軍auxiliis、あらゆる貴顕階級nobilitatem、数え切れない元老院議員たち、法務官格たち、執政官格たちがいた、そして彼らはまさにiam (過去の)大戦争の勝利者たちだった。カエサルは自身の戦列に in acie sua 無傷でないintegra 歩兵三万と騎兵一〇〇〇を保持していた。tin

Ⅵ.21:(1) そのときまでadhuc これほど大勢のローマの諸軍勢copiae がひとつの場所に、これほど優れた将軍たちによってdubious 集まったことは一度もなかった、全世界をたやすくfacile 屈従しえたsubacturaeであろうに、もしも(これらの軍勢が)蛮族たちに対して率いられたのならば。 (2) やはりtamen 並はずれた激烈さでもって戦いが行われ、そしてまた-que 最終的にpostremum ポンペイウスは打ち負かされ、そして彼の陣営は掠奪されたdirepta sunt。 (3) 彼自身は敗走しアレクサンドリアへ向かった、なぜなら彼は、アエギュプトゥス王から援軍をauxiliis 受け取るためであった。かつて(ポンペイウスは)後見人に元老院によって彼(エジプト王)の若さiuvenilem ゆえに任じられていたのである。友情よりも運命につき従った彼(エジプト王)は、ポンペイウスを殺した。彼の首級と指輪をカエサルに彼は送った。これを見て、カエサルはそのうえetiam 落涙したfudisse と言われている、偉大な人物にしてかつてquondam 彼の義理の息子(だった人物)の首級を見つめながら(前四八年)。

Ⅵ.22: (1) すぐにmox そのうえetiam カエサルはアレクサンドリアにやって来た。彼に対してもまたquoque プトレマエウスは諸々の奸計をinsidias 準備することをparare 望み、これが原因で、戦争が王に対して起こされたinlatum est。打ち負かされた彼はニルス(ネイロス)河中で亡くなりperiit、そしてまた-que 彼の遺体は金製の甲冑とともに見つけられた(前四七年)。 (2) カエサルはアレクサンドリアを得て、王位をregnum プトレマエウスの姉クレオパトラに引き渡したが、彼女と恥ずべき情交を交わしていた。そこからinde 帰るrediens 途中、カエサルはファルナケス、つまり大ミトリダテスの息子が、ポンペイウスを支援してin auxilium fuerat 、テッサリアにいたのだが、ポントゥスで反乱を起こし、そしてローマ市民populi Romani の多くの諸属州を占領していたのを、戦列でacie 打ち負かしvicit,その後postea 死へと追い込んだ(前四七年)。

Ⅵ.23:(1) そこからinde 彼(カエサル)はローマへと帰還するとregressus(前四七年)、マルクス・アエミリウス・レピドゥスーー前年に独裁官の騎兵長官だったーーと共に、自らを三度目のtertio 執政官に任じた(前四六年)。そこからinde アフリカへと進発したが、その地で数え切れないほどの貴顕階級nobilitas がマウレタニア王ユバと共に戦争をbellum 再開していたからである。 (2) ところでautem ローマの将軍たちはduces、スキピオ・アフリカヌスの非常に古い家系出身であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ(彼はポンペイウスの義父でもあった)、マルクス・ペトレイウス、クイントゥス・ウァルス、マルクス・ポルキウス・カトー、独裁官スッラの息子ルキウス・コルネリウス・ファウストゥスだった。 (3) 彼らに対して戦闘がproelio 始まり、多くの激戦の後にpost multas dimicationes 勝者となったのはカエサルだった。カトー、スキピオ、ペトレイウス、ユバ、この者たちは自殺した。ファウストゥスはかつてのquondam 独裁官スッラの息子で、ポンペイウスの娘婿だったが、カエサルによって殺害された。

Ⅵ.24:一年後、カエサルはローマへと帰還しregressus、四度目の執政官へと自らを任じ、そしてただちにstatim ヒスパイニア諸州へと進発した(前四六年末)。そこでubi ポンペイウスの息子たちグナエウス・ポンペイウスとセクストゥス・ポンペイウスが大がかりな戦争の準備をしていたからである。多くの戦闘がproelia あり、最後のそれは都市ciuitatem ムンダだった(前四五年)。そこでとりわけadeo カエサルはほとんどpaene 打ち負かされ、自軍が逃亡したために自殺を望んだほどであった。そのことはこれほどの軍事的栄光のgloriam後、五十六歳で未成年たちのadulescentium 手中に堕ちることのないようにするためだった。結局のところdenique 彼は自軍を再結集し、打ち負かしたvicit。ポンペイウスの年上は殺されoccisus est、年下は逃亡した。

Ⅵ.25: そこからinde カエサルは全世界で完全に内戦が終結してから、ローマへと帰ったrediit。彼はより傲慢に振る舞い始め、そしてローマの自由の慣習に反するようになった。ゆえにergo そしてそれ以前にantea 市民populo によって与えられていた諸顕職をhonores 彼の意向で授けたり、元老院(議員)が彼の所に来ても立ち上がらなかったり、そしてまた-que 他の事どもでも王のごとく、そしてほとんどpaene 暴君のごとく行ったので、彼に六十人それともvel それ以上のローマの元老院議員そしてまた-que 騎士身分たちによって陰謀が企てられた。共謀者たちの中の主要人物たちは、二人のブルトゥスーー彼らはローマで最初の執政官でそして王たちを追放したかのブルトゥス氏の出身であるーー、そしてガイウス・カッシウスもセルウィルウス・カスカもだった。ゆえにergo カエサルは元老院の(開催)日に他の者たちの中でクリアへとやって来た時、二十三箇所の傷で刺し殺された(前四四年三月一五日)。

第七巻

Ⅶ.1:(1) 首都の七〇〇とほぼfere 七〇九年目(前四四年)、カエサルが殺害され,諸々の内戦が再開された。というのもenim カエサルの暗殺者たちに元老院が好意的だったからである。カエサル派の執政官アントニウスは、内戦で彼らを制圧しようとしていた。ゆえにergo 国家が混乱に陥り,多くの犯罪行為をscelera アントニウスは犯していたので、元老院によって敵であると審判された。 (2) 追跡するために彼へと送られたのが、二人の執政官パンサとヒルティウス、そして十八歳の未成年adulescens オクタウィアヌスであった(前四三年)。彼はカエサルの孫nepos (実際は大甥)であり、彼をかの者(カエサル)は遺言状によって相続人として残し、そして自らの名を称するよう命じていた。彼こそがその後postea アウグストゥスと呼ばれ、そして国権を握ったのである。そのゆえにquare アントニウスに対し進発した三人の将軍たちはduces 彼を打ち負かした。やはりtamen 勝利者である両執政官は没してしまった。そのゆえにquare 三者の諸軍隊はexercitus 一人カエサル・アウグストゥスに従うことになったのである。

Ⅶ.2:(1) 敗走したアントニウスは軍隊をexercitu 失って、レピドゥスのもとに逃げ込んだ。彼はカエサルの騎兵長官だったが、そしてそのときtum 兵士たちの大軍勢を保持していた。その者(レピドゥス)によって彼(アントニウス)は受け入れられた。すぐにmox レピドゥスの尽力で、カエサル(アウグストゥス)は和平をアントニウスと結び、そして彼の父の死を復讐しようとするかのようにーーその彼によって遺言状を通して養子とされていたのでーー、ローマへと軍隊exercitu と共に進発し、自分に二十歳で執政官職が与えられるよう強要した。 (2) 彼は元老院を公権剥奪に処しproscripsit、アントニウスおよびac レピドゥスと共に国家を軍事力によって掌握し始めた。彼らによってそのうえetiam 弁論家キケロが殺されoccisus est、そしてまた-que 多くの他の貴顕階層もalius nobilis そうされたのだった。

Ⅶ.3:(1) その間にinterea カエサルの殺害者たちブルトゥスとカッシウスが並はずれた戦争を引き起こしたmoverunt。というのもenim、マケドニアとオリエンスには、彼らが掌握していたoccupaverant 多くの軍隊exercitusがいたのである。こうしてigitur、彼らに対して、カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥスとマルクス・アントニウスが進発した、たしかにenim イタリアを守るためレピドゥスは留まっていた。マケドニアの主都urbem フィリッピ(フィリッポイ)で彼らに対して、彼らは奮戦した(前四二年)。 (2) 最初の戦闘で打ち負かされたのはアントニウスとカエサルだったが、やはりtamen 貴顕階級のnobilitatis 将軍カッシウスは亡くなりperiit、二度目には、ブルトゥスと、打ち負かされた彼ら(カッシウスとブルトゥス)と共に戦争をおこなった数え切れないほどの貴顕階級をinfinitam nobilitatem 、彼ら(アントニウスとオクタウィアヌス)は打ち負かし殺害した。 (3) およびこうしてac sic 彼らの間で国家は分割された、すなわちut アウグストゥスはヒスパニア諸州、ガリア諸州、そしてイタリアを掌握し、アントニウスはアシア、ポントゥス、オリエンスだった。 (4) しかしイタリアでは、執政官ルキウス・アントニウスが内戦を引き起こした(前四一年)。彼はカエサル(オクタウィアヌス)と共に、ブルトゥスならびにカッシウスと干戈を交えたdimicaverat 人物の兄弟である。彼はトゥスキアの都市ciuitatem ペルーシア(現ペルージャ)で打ち負かされ、そして捕らえられたが、にもかかわらずneque 殺されなかった(前四〇年)。

Ⅶ.4:とかくするうちにinterim グナエウス・ポンペイウス・マグヌスの息子セクストゥス・ポンペイウスによって並はずれた戦争がシキリアで引き起こされ、生き残っていたブルトゥスそしてまた-que カッシウスの党派の者たちが彼のもとに合流した。戦争が、カエある・アウグストゥス・オクタウィアヌスとマルクス・アントニウスによって、セクストゥス・ポンペイウスに対して行われた(前四〇年)。和平が最終的にpostremo 成立した(前三九年)。

Ⅶ.5: その頃、マルクス・アグリッパはアクイタニアで事を上首尾にrem prospere 運んだ(前三八年)。そしてルキウス・ウェンティディウス・バッスス はシュリアに親友しているペルシア人たちを三度の戦闘で¥打ち負かしたvicit(前三九〜前三八年)。(彼は)オロデス王の息子パコルス(パコロス)を殺害したが、まさにその日は、過日olim ペルシア王オロデスが将軍ducem スレナを介してクラッススを殺した日であった。彼はパルティア人たちからのきわめて正当な凱旋式をローマで挙行した最初の人物であった(前三八年)。    

Ⅶ.6:(1) とかくするうちにinterim ポンペイウスは和平を破り、そして海戦で打ち負かされて(前三六年)、アシアへと逃げて殺された(前三五年)。アントニウスはアシアとオリエンを掌握していたが、カエサル・アウグストゥス・オクタウィアヌスの姉妹が離縁され、アエギュプトゥス女王クレオパトラを妻へと迎えた(前三二年)。 (2) ペルシア人たちに対して、そのうえetiam 彼自身も奮戦した。最初の諸戦闘で彼らを打ち負かしvicit、帰還中のregrediens 彼はやはりtamen 飢えと疫病に苦しみ、そしてパルティア人たちが逃げる彼(アントニウス)に迫っていたので、彼自身は打ち負かされたかのように撤退することになったrecessit(前三六年)。

Ⅶ.7:彼もまたquoque 並はずれた内戦を引き起こしたが、妻アエギュプトゥス女王クレオパトラがせがんだからだった(前三二年)。つまりdum 彼女は女性的な功名心でそのうえetiam首都の中を統治しようとregnare 求めるのである。彼はアウグストゥスにより、アクティウム(アクティオン)での傑出しそして光輝ある海戦で打ち負かされた(前三一年)。その場所はエピルスに位置しているが、その(海戦)から彼(アントニウス)はアエギュプトゥスへと逃げ、そして状況が絶望的になって、皆がアウグストゥスのもとへ鞍替えしてしまったので、彼自身は自害した(前三〇年)。クレオパトラは自身に蛇を受け入れ、その毒によって消滅したextincta est 。アエギュプトゥスはオクタウィアヌス・アウグストゥスによってローマ帝国に加えられadiecta est、そしてまた-que そこに配置されたのがガイウス・コルネリウス・ガッルスであった(前三〇年)。ここに初めてprimum アエギュプトゥスはローマの審判者iudicem を持つことになった。

Ⅶ.8:(1) かくしてita 諸戦争が全世界で決着しconfectis、オクタウィアヌス・アウグストゥスがローマへと帰ったがrediit、それは彼が執政官になってから十二年目のことであった(前二九年)。 (2) その年から国家を四十四年間彼一人がsolus得たobtinuit。というのもenim その前の十二年間アントニウスとレピドゥスとともに掌握していたからであるtenuerat。 (3) かくしてita 彼の元首政はprincipatus[初出]始まりから終わりまでは続けざまにusque 五十六年間だった。 (4) ところでautem 彼は七十六歳で自然死によってカンパニアの町opiduo アテラで崩御したobiit(後一四年)。ローマで彼はマルスの野にin campo Martio 埋葬され、かの人物はきわめて不当ではなくほとんど神deo に同様なものとsimilis みなされた。にもかかわらずneque というのもenim あるいはaut 諸戦争において彼よりも幸運で、あるいはaut 平時においてより控えめな者はmoderatior たやすくはfacile いなかったからである。四十四年間ただ一人彼がsolus 軍事命令権をimperium[この意味ではI.18以来初めて登場]行使したが、彼はきわめて一市民らしくciuilissime 生きたvixit。万人に対してきわめて寛大で、友人に対してきわめて誠実で、彼らを諸々の顕職でtantis honoribus 高めたが、それはほとんどpaene 自らの高位fastigio suo と同等視するaequaret ほどだった。

Ⅶ.9:彼以前にいかなる時代もそれ以上magis ローマ国家が繁栄したことはなかった。というのもnam 彼が不敗だった諸々の内戦を除き、ローマ帝国に彼が加えたのはadieit、アエギュプトゥス、カンタブリア、ダルマティアーーそれぞれしばしばsaepe 以前においてante 打ち負かされていたが、徹底的にpenitus そのときtum 屈従させられたsubactamーー、パンノニア、アクイタニア、イリュリクム、ラエティア、アルプス山脈のウィンデリキ人たちとサラッシ人たち、ポントゥスの沿岸の都市すべて、それら(諸都市)の中できわめて名高いのがnobilissimas、ポスフォルス(ボスフォロス)とパンテイカパエウム(パンテイカパイオン)である。ところでautem 彼は諸戦闘でダキ人たちを打ち負かしたvicit。彼はゲルマン人たちの並はずれた軍勢をcopias 打ち倒しcecidit、彼らをもまたquoque アルビス河(現エルベ河)の向こうに追い払ったsummovit、そこ(アルビス河)は諸々の蛮族(の土地) で、レヌス河を越えたはるかに遠くにある。やはりtamen この戦争を彼は自身の継息子ドルススを通じて管理したadministravit、ちょうどsicut 別の継息子ティベリウスを通じてのパンノニア(の戦争)と同様で、その戦争で彼は四万の捕虜をゲルマニアから移動させtranstulit、そしてレヌス(河)の岸を越えてガリア内に植民させた。彼はアルメニアをパルティア人たちから取り戻した。人質たちを、それ以前になかったことだが、ペルシア人たちは彼に与えた。そのうえetiam 彼らは、ローマの諸軍旗をsigna 返還したreddiderunt、それらは打ち負かされたクラッススから彼らが剥奪していたものであったademerant(前二〇年)。

Ⅶ.10:(1) スキュタエ(スキュタイ)人たちとインディ(インド)人たちーー彼らに以前にはantea ローマ人たちの名前は知られていなかったのであるがーー が、献上の品々と使節団を彼へと送ったmiserunt。 (2) ガラティアもまたquoque 彼のもとで属州にされたが(前二五年)、それは以前antea 王国であった、そしてまた-que 最初にprimus それをマルクス・ロッリウスが法務官格で管理したadministravit。 (3) ところでautem 多くの好意をそのうえetiam 彼は蛮族たちの間で持たれていたので、ローマ市民のpopuli Romani 友であった王たちは、彼の栄誉のため諸々の都市を創建し、それらを彼らはカエサレアと名付けた。まさしくsicut マウレタニアでユバ王によって、そしてパラエスティナ(パライスティネ)でも(創建され)、後者は今やnunc きわめて傑出した主都urbs である。(4) ところでautem 多くの王たちがreges 自分たちの王国からex regnis suis 彼に従うべくやってきて、そしてローマ人の習慣にしたがって、まさにscilicet トガをまとって、彼(=アウグストゥス)の乗り物、それともvel 馬へと[候伺のために]走り寄ったものである。 (5) 彼は死ぬと神君Divus と呼ばれたappellatus(在位:前二七年一月一六日〜後一四年八月一九日)。彼は非常に恵まれた国家を後継者ティベリウスに遺贈したreliquit。彼(ティベリウス)は、彼にとって継子だったが、すぐにmox 婿となり、最終的にpostremo 養子縁組によって息子となっていた。    

Ⅶ.11:(1) ティベリウスは並はずれた怠惰で軍事命令権をimperium 行使した、由々しきgravi 無慈悲さcrudelitate[初出、VII.12.3, 13.1, 23.1, IX.13.1, 14, X.9.4]、悪しき貪欲さ、恥ずべき色欲で。というのもnam どこにおいても、自ら戦うことはせず、諸戦争を自身の代理人たちを通してper legatos suos 行ったからである。 (2) 幾人かの王たちを自分のところへと甘言を弄して呼び出し、決して戻さなかった、彼らの中でカッパドキアのアルケラウス(アルケラオス)について言えば、そのうえetiam 彼の王国を属州の形に移しformam redegit、そして最大の都市を自分の名で呼ばれるよう彼は命じたiussit。それは今やカエサレアと呼ばれているが、以前はマザカと呼ばれていた。 (3) 彼は、軍事命令権のimperii 二十三年目、生涯の七十八年目に皆の並はずれた歓喜の中で、カンパニアで死去した(在位:後一四年〜三七年三月一六日)。

Ⅶ.12:(1) 彼を継承したのがガイウス・カエサル、添え名はカリグラで、アウグストゥスの継子であるドルススの、そしてティベリウス自身の孫nepos であった。彼はきわめて邪悪およびac 破滅的で、そしてティベリウスの不面目な諸行すらかき消してしまった。 (2) 戦争をゲルマン人たちに対して彼は開始した、そしてスエビアに入った後、活発になにごとも行わなくなったnihil strenue。 (3) 陵辱を姉妹たちに仕掛けintulit、そのうえetiam 彼女たちの中の一人から生まれた娘を認知した。彼が万人に対して並はずれた貪欲、色欲、無慈悲さでcrudelitate 荒れ狂ったのでsaeviret、殺害されたのはパラティウムの中で、生涯の二十九年目、軍事命令権のimperii 三年十か月そしてまた-que 八日のことであった(在位:三七年三月一六日〜四一年一月二四日)。

Ⅶ.13:(1) この者の後は、クラウディウスだった。彼はカリグラの叔父で、ドルススーーモゴンティアクム(現マインツ)に記念建造物があるーーの息子で、そしてカリグラは、彼(ドルスス)の孫nepos だった。この者は、功罪相半ばする統治をしたが、それは多くのことを静謐に、つまりatque 控えめにmoderate、いわば無慈悲にcrudeliter そして無味乾燥にinsulse 行ったからである。 (2) ブリタンニアで彼は戦争を仕掛けたintulit、そこにはローマ人たちの誰もガイウス・カエサルのあと侵入していなかった。そしてまた-que そこは、グナエウス・センティウスとアウルス・プラウティウスという光輝あるinlustres およびac 貴顕なnobiles 人物たちによってviros 制圧され、彼(クラウディウス)は賑々しいcelebrem 凱旋式を挙行した(四四年)。 (3) ある島々、すなわちブリタンニアを越えた大海に位置する、オルカデスと呼ばれているそれらを、彼はローマ帝国に加え、ところでautem 自身の息子にブリタンニクスの名を与えた。 (4) それほどまでにtam ところでautem 彼はとても一市民らしくあることを幾人かの友人たちの間で示したが、それはオプラウティウス、貴顕な人物で、ブリタンニア遠征において多くの事績を卓越してegregie 行った(人物)を、凱旋式を挙行した際に自ら同行しprosequeretur、そしてカピトリウムに登る際には、彼は左側を歩んだほどであった。 (5) 彼は六十四年間生き、十四(年間)統治した。死後彼は神格化されconsecratus est、そしてまた-que 神君Divus と呼ばれたappellatus(在位:四一年一月二四日〜五四年一〇月一三日)。

Ⅶ.14:(1) この者を継承したのがネロだった。彼は自分の伯父のカリグラに非常によく似ていて、ローマ帝国を汚しもしet、弱体化させもしet、異例なほど贅沢そしてまた-que 諸々の浪費のくせがあり、ガイウス・カリグラの例にならって、熱いそして冷たい香油で体を洗い、緋色の綱で引き上げる金糸の漁網で魚を獲っていたほどだった。元老院の数え切れないほどのinfinitam 部分を彼は殺害し、あらゆる良き人々にとって敵であった。 (2) 最終的にad postremum 彼は自分自身を大きな不面目でさらした。つまり、踊りもしet 歌いもしたet ほどであった、舞台上でキタラ奏者それともvel 悲劇役者の振る舞いで。 (3) 彼は多くの親族殺人を犯し、一人の弟、一人の妻、一人の妹、一人の母を殺害した。彼は首都ローマに放火した、あたかもそれは過日olim 占領されたトロイが炎上したときのような、その見世物的な光景を思い浮かべるためであった。 (4) 軍事においてはin re militari まったく彼はなにもする気がなく、ブリタンニアをほとんどpaene 失った。というのも彼の(治世)下で、二つのきわめて名高い町々がnobilissima oppida そこで占領され、つまりatque 倒壊し尽くされた eversa sunt。アルメニアをパルティア人たちが奪い取り、そしてまた-que ローマの諸軍団を軛の下に送ったmiserunt。 (5) やはりtamen 彼の下で二つの属州が作られた。ポントゥス・ポレモニアクスはポレモ(ポレモン)王が譲渡し、cocedente、そしてアルペス・コッティアエはコッティウス王が死去後に(譲渡したからである)。

Ⅶ.15:(1) これらのことによってローマ世界であらゆる者たちから呪われ、同時に見捨てられ、そして元老院により敵と宣告されたiudicatus。彼は処罰のために捜索されたが、その処罰とは次のようなものであった。すなわち、裸にされ公衆の面前を引っ立てられductus est 、首かせがfurca 彼の頭にはめ込まれ、鞭でずっとusque 死ぬまで屠殺されcaederetur【初出、あとIX.23, X.11.2】、つまりatque (タルペイアの)断崖からa saxo 突き落とされるpraecipitaretur[ここのみ、関連でIX.23, X.10.1]、というものであったが、彼はパラティウムから逃亡し、そして彼の被解放奴隷の郊外別荘、それはサラリウス街道とノメンタヌス街道の間にあり、首都から四ローマ・マイルだったが、そこで自殺した。 (2) 彼はローマで諸浴室をthermas 建設したが、これは以前ネロの(浴場)と言われ、今やnunc アレクサンデルのと呼ばれているものである。 (3) 彼が崩御したのはobiit、生涯の三十二年目で、軍事命令権の十四年目だった。つまりatque 彼でもってアウグストゥスの全家系は消滅した consumpta est(在位:五四年一〇月一三日〜六八年六月九日)。

Ⅶ.16:(1) 彼をセルウィウス・ガルバが継承したが、彼はきわめて古い貴顕階級のnobilitatis 元老院議員であったが、それは人生の七十三歳の時のことで、ヒスパニア人たちとガリア人たちから最高軍司令官として選ばれelectus、すぐにmox 軍隊exercitu 全体から歓呼をもって受け入れられた。 (2) というのもnam 彼の私人としての生活ぶりはprivata eius vita 軍務と市民生活できわだっていたからである。しばしばsaepe 執政官として、しばしばsaepe 執政官格として、たびたびfrequnter きわめて由々しき諸戦争でgravissimis bellis 将軍dux であった。彼の軍事命令権は短命であった、そしてより厳格な傾向とpropensior[初出、IX.13.1,X.15.2のみ]見なされなかったならば、よき始まりであったかもしれない。 (3) オトの諸々の奸計によりinsidiis やはりtamen 軍事命令権の七ヶ月目に殺されたoccisus est。彼はローマ広場で喉を掻き切られ、そしてまた-que 彼の庭園に埋葬されたが、そこはアウレリウス街道にあって首都ローマからそう遠くない(在位:六八年六月九日〜六九年一月一五日)。

Ⅶ.17:(1) オトはガルバを殺して軍事命令権を強奪したがinvasit、彼は母の一族のほうが父方よりより貴顕とはいえ、やはりtamen どちらも無名ではなかった。 (2) 彼は私人時代においてはin privata vita 軟弱者で、そしてネロに親密であったが、軍事命令権にある間何も記録することをなしえなかった。 (3) というのもnam オトがガルバを殺したのと時を同じくして、そのうえetiam ウィテッリウスがゲルマニア駐屯の諸軍隊から最高軍司令官とされたからであるが、彼に対して戦争を企てたものの、彼(オト)はイタリア内のベトリアクムで軽微な戦闘で敗れたvictus esset 時に、並はずれた軍勢copiasを(その後の)戦争のために保持していたやはりtamen、自分から進んでsponte 自殺してしまったからである。諸戦争の結果にそんなに早く絶望しないようにと兵士たちに嘆願されたのだが、自分は私のために内戦が引き起こされるほどの値打ちはない、と言って、彼は自発的にvoluntaria 崩御してしまったobiit、それは生涯の三十八年目にして、軍事命令権の九十五日目であった(在位:六九年一月一五日〜四月一六日)。   

Ⅶ.18:(1) それからウィテッリウスが軍事命令権を握った、家系的に貴顕というよりもむしろ(顕職による)栄誉が優っていた。というのも、彼の父はまったくもってadmodum 傑出した(元老院身分の)生まれではなかったが、 やはりtamen 三度正規執政官職をordinarios consulatus 担っていたのである。 (2) 彼はおおきな不面目で命令権を行使した、そして由々しき獰猛さでgravi saeuitia 目立っていた、とりわけ暴飲暴食によってで、実際quippe、一日にしばしばsaepe 四度かそれともvel 五度も宴会を張ったと噂されているferatur。 (3) その上さらにcerte[初出、IX.20.2のみ]きわめて悪名高い晩餐が記録されていてmomoriae mandata est、それを彼のため兄弟のウィテッリウスが提供したexhibuitのだが、そこでは他の諸々の浪費に加えて二〇〇〇尾の魚、七〇〇〇羽の鳥が供せられたことが伝えられているtraduntur。 (4) 彼はネロと同様にsimilis なることを望み、つまりatque それほどまでにadeo そのうえetiam みすぼらしく埋葬されていたネロの遺体に栄誉を与えたhonoraret て見せびらかしたほどだったので、ウェスパシアヌスの将軍たちによってducibus 殺されたのだがoccisus est、(そうなる)以前にprius 彼は首都において最高軍司令官imperatoris ウェスパシアヌスの兄弟サビヌスを殺害し、彼をカピトリウムもろとも焼き殺していた。 (5) ところでautem 彼が殺害されたのは、おおいなる不面目でだった:首都ローマを公然と引きずり回され、裸にされて、髪の毛を掴んで顔を上げさせられ、そして剣を喉元へあてがわれ、糞で顔と胸めがけて、通りかかったすべての人々によって襲われ、最終的にpostremo 喉を掻っ切られ、そしてティベリス(河)へと投げ捨てられ、そのうえetiam 共同墓地すらなしであった。 (6) ところでautem 彼が亡くなったのはperiit 生涯の五十七年目にして、軍事命令権のimperii 八か月と一日目であった(在位:六九年四月一六日〜一二月二〇日あるいは二一日)。

Ⅶ.19:(1) ウェスパシアヌスが彼を継承し、パラエスティナで最高軍司令官とされ、無論quidem 無名のobscure 生まれの元首であったが、しかし門閥の人々とoptimis 同列におかれ、私人の時期も光輝あるinlustris(存在) だった。そして彼はゲルマニアへとクラウディウスによって、それからdeindeブリタンニアに派遣され、三十二回敵と奮戦し conflixerit、二つのきわめて精強な諸部族gentes、二十の町々、ブリタンニアにきわめて近いウェクタ島をローマ帝国に加えたadiecerit。 (2) ローマで彼は軍事命令権にある間、きわめて控えめに振る舞った。金銭に対してはより貪欲だったが、やはりtamen 誰のそれをも不正に奪い取りはしなかった。それをあらゆる節約で先を見通して集めたのだが、やはりtamen きわめて熱心にstudiosissime、とりわけpraecipue 必要としている人たちへ贈与していた。そして彼以前のいかなる元首たちのprincipis[本文中での初出]寛大さも、(ウェスパシアヌスより)より偉大またはより公正であるとみなすのは容易でないnec facile。 彼はきわめて穏やかで温厚だったので、自分に対する大逆罪の咎すらもまたquoque、犯罪者たちを流刑以上に罰することはほとんどなかったnon facile。 (3) 彼の下でユダエアがローマ帝国に加わりaccessit、そしてヒエロソリュマも(加わった)。そこはパラエスティナのきわめて名高い主都urbs nobilissima だった。 (4) アカイア、リュキア、ロドゥス(ロドス)、ビュザンティウム、サムス(サモス)、それらはその時代以前は自由だったが、同様にitem トラキア、キリキア、コンマゲネ、それらは友誼関係の王たちの支配下にあったが、彼は諸属州の形に移したformam redegit。

Ⅶ.20:(1) 彼は諸々の侮辱と敵意を忘れ(ることができ)た。弁舌の徒たちや哲学者たちによる彼に向かって言われた諸々の罵詈雑言を軽く受け流し、やはりtamen 軍規をdisciplinae militaris[初出、あとはVIII.7.2,23,IX.14]厳格に重んじる人だった。彼は息子のティトゥスと共にヒエロソリュマ人たちからの凱旋式を挙行した(七一年六月)。 (2) これらのことのために、元老院と市民populo、最終的にはpostremo すべての人々にとって人好きのするamabilis[初出、あとIX.14,X.1.3,X.10.2]およびac 感じがよかったがiucundus[初出、X.10.2]、サビニ近くの私有の別荘で下痢によって消滅したextincta est。生涯の六十九年目を過ごしていて軍事命令権の九(年)目と七日目だったが、そしてまたatque 神君たちの間に列せられたinter Divos relatus est[初出](在位:六九年一二月二三日〜七九年六月二二日)。 (3) 息子たちの(誕生時の)星位によりgenituram、以下のごとく確信していた、彼に対する多くの陰謀がなされて、それらが露見しても素知らぬ顔でingenti 無視したcontempsit。元老院において彼は言ったものだ、息子たちが自分を継ぐかaut、誰もいないかだaut、と(スエトニウスVIII.25に類似文:de sua suorumque genitura semper fuisse,tu post assiduas in se coniuratiounes ausus sit adfirmare senatui aut filios sibi successuros aut neminem)。

Ⅶ.21:(1) 彼を息子ティトゥスが継承した。彼は自身もウェスパシアヌスと呼ばれた。その男は生来あらゆる武徳(ウィルトゥス)を備え、驚異的人物であり、人間種族の愛とお気に入りとまで言われていたほどであった。そしてきわめて雄弁で、きわめて勇敢で、きわめて控え目であった。彼は諸々の訴訟をラテン語で行い、諸々の詩や悲劇をギリシア語で起草した。 (2) ヒエロソリュマの攻囲では、父の下で軍事活動に従事し、十二人の籠城兵たちに対して十二本の矢を放って的中させた。ローマでは軍事命令権の中でin imperio 非常に市民的ciuilitatis であり、まったく誰も罰せず、彼に対して陰謀の有罪者たちを放免し、そして以前に持っていたのと同様の親密さで接したほどであった。 (3) 彼はたいへん愛想よくfacilitatis、そして贈与もしliberalitatis、誰にも何ごとも拒絶せず、そして友人たちから(そのことを)非難されたときも、悲嘆にくれたまま誰も最高軍司令官からab imperatore 去ることはない、と答えたほどであった。加えてpraeterea ある日の晩餐の際、その日誰に対しても何も与えなかったことを思い出した彼はこう言った。「友人たちよ、私は今日一日を無駄にしてしまった」と。 (4) 彼はローマに円形闘技場を建設し、そして五〇〇〇頭の野獣をその奉献式で殺した。

Ⅶ.22: (1) このため彼は異常なほど好意的にinusitato fauore 扱われたが、病気で父(が亡くなった)その別荘で亡くなったperiit。それは最高軍司令官にされてから二年と九ヶ月と二十日後のことで、生涯の四十二年目だった。 (2) 彼の死で公にされた哀悼は大きく、皆が近親者を失って嘆き悲しむかのようであった。元老院は、彼自身の崩御をobitu 夕暮れごろに知らされたが、夜に元老院議事堂(クリア)へと押し入り、そして死んだ彼に生前にすら面と向かって決して行われなかったほどの多大な称賛laudes そしてまた-que 感謝を積み重ねた。彼は神君たちの間に列せられた(在位:七九年六月二四日〜八一年九月一三日)。

Ⅶ.23: (1) ドミティアヌスがすぐにmox 軍事命令権をimperium 受け取った。彼は(ティトゥス)自身の弟frater iunior だった。その彼はネロ、あるいはaut カリグラ、あるいはaut ティベリウスに自分の父それともvel 兄弟よりも似ていた。やはりtamen 軍事命令権において最初の数年は控え目でmoderatus あったが、すぐにmox 色欲libidinis、怒りっぽさiracundiae、無慈悲さcrudelitatis、貪欲auaritiae の並はずれたingentia 諸悪徳へと進み、多くの憎しみを自分へと煽り立てたconcitavit 結果、父のも et 兄弟のもet 功績を無にしてしまうほどだった。(2) 彼は元老院でのきわめて貴顕な人々をnobilissimos 殺害した。自身を主にして神dominum et deum と呼ばれることを初めてprimus 命じたiussit。自分に対して金か銀でなければ一体の立像といえどもカピトリウムに置くことを許さなかった。(3) 彼の(父方の)従兄弟たちを殺害した。またquoque 彼に備わっている傲慢さによっても忌み嫌われた。(4) 彼は四回の遠征を行った。一回はサルマタエ(サルマタイ)人たちに対するもの、もう一回はカッティ人たちに対するもの、(あとの)二回はダキ人たちに対するものであった。ダキ人たちそしてまた-que カッティ人たちからの二重凱旋式を行った。サルマタエ人たちについては月桂冠のみを獲得した。やはりtamen サルマティアでは彼の一軍団が将軍duce もろとも壊滅し、そしてダキ人たちによって執政官オッピディウス・サビヌスと近衛軍長官コルネリウス・フスクスが多数の軍隊exercitibus と共に殺された。 (5) ローマでもまたquoque 多くの公共事業を行った。それらの中には、カピトリウムと通路のフォルムForum Transitorium、諸神君の柱廊Divorum Porticus、イシスおよびac セラピス(神殿)Isium ac Serapium、そして競技場Stadium がある。

マルスの野の建物
Forum Transitorium

 (6) だがverum 並はずれた諸々の犯罪行為のためscelera 彼は皆に嫌われる存在になり始め、自分の部下たちの陰謀によりconjuratione、パラティウム内で殺害された、それは生涯の四十五年目にして、軍事命令権の十五年目ことだった。彼の遺体はfunus 並はずれた不面目をdedecore 受けながら死体処理夫たちによりvespillones 運び出され、そして屈辱的にignobiliter 埋葬された(在位:八一年九月一四日〜九六年九月一八日)。

第八巻

Ⅷ.1:(1) 首都創建以来八五〇年目、ウェトゥスとウァレンスの執政官在職時に(九六年)、国家はきわめて繁栄する状態に帰ったrediit、[国家が]善き元首たちにprincipibus 並はずれた ingenti 幸運によってfelicitate[初出]託されたためである。というのもenim 破滅的なexitiabili[初出]暴君ドミティアヌスに対し、ネルウァが継承したからである。この者は私人時代においてはin privata vita 控え目で活発でstrenuus 、中くらいの貴顕階級にnobilitatis 属していた。彼はまったくもってadmodum 高齢で、近衛軍長官ペトロニウス・セクンドゥスが謀って、同様にitemドミティアヌスの殺害者パルテニウスにより、最高軍司令官imperator とされた。彼は自身もっとも対等でaequissimum そして市民性を示していたからである。 (2) 国家に神的予見力によりトラヤヌスを養子にすることで彼は配慮した。彼が死んだのはローマで、彼の軍事命令権のimperii 一年四か月およびac 八日の後、生涯の七十二番目の年で、つまりatque 神君たちの間に列せられた(在位:九六年九月一八日〜九八年一月二八日)。

Ⅷ.2:(1) 彼を継承したのはウルピウス・クリニトゥス・トラヤヌスで、彼はヒスパニアのイタリカ生まれだった。家系は傑出している(クララ)というよりも古いものであった(アンティクワ)。というのも、彼の父が初めて執政官となった。ところでautem 彼が最高軍司令官imperator にされたのはガリア諸州のアグリッピナ(現ケルン)でだった。彼は国家を管理したadministravit、それはすべての元首たちをprincipibus 功績において凌駕するほどで、異例なほどinusitatae 市民的でそして勇敢だった。 (2) ローマ帝国の(諸領土)は、アウグストゥス以降目覚ましく拡張するよりも、むしろみごとにnobiliter 防衛的であったが、彼はその諸国境をfines 長くそしてまた-que 広く拡大した。彼はゲルマニア内でレヌス河の向こう側の諸主都をurbes 得た。彼はダキアをデケバルスを打ち負かすことによって押さえ込みsubegit、属州がダヌビウス河の向こう側に作られた、それらの農耕地は今やnunc タイファリ人たち、ウィクトアリ人たち、テルウィンギ人たちが持っている。その属州は周囲一〇〇万バッススを掌握していたのであるtenuit。

Ⅷ.3:(1) パルティア人たちが占領していたoccupaverant アルメニアを、彼は取り戻し、それを掌握していたtenebat パルトマシリスを殺し、アルバニア人たちに王を与えた。彼はヒベリア人たちの王を、そしてサウロマタエ人たちの、そしてボスポラニ人たちの、そしてアラビア人たちの、そしてオドロエナ人たちの、そしてコルキス人たちの(王を)誓約をもってin fidem 受け入れた。彼はカルドゥエニ人たち、マルコメディ人たちを占領したoccupavit、そしてアンテムシウム、ペルシアの重要地域を、セレウキア(セレウケイア)、クテシフォン、バビュロン、メッセニイ人たちを打ち負かしvicit、およびac 掌握したtenuit。 (2) 続けざまにusque 彼はインドの諸国境finesと紅海にまで近づいたaccessit、つまりatque そこでibi 、アルメニア、アッシュリア、メソポタミアという三属州を作った、マデナ地域に接しているそれらの諸部族gentibus ともどもにだった。その後postea アラビアを属州の形に移したformam redegit。紅海で艦隊を編成し、それによりインドの諸国境をfines 荒らそうとしていたのであるvastaret。

Madena地方は、Cyrus川とAraxe川の間と思われる

Ⅷ.4:やはりtamen、軍事的栄光をgloriam 市民性と控え目さでmoderatione、彼は負かしたsuperavit。ローマで、そして諸属州に対し、対等な自らをaequalem se 万人に示しexhibens、友人たちを挨拶をするために病床時でも祭の日々でもしばしば訪れ、同じ友人たちと気の置けない諸々の宴会を順々に開催し、しばしばsaepe 彼らの乗物に同乗し、元老院議員たちの誰をも害せず、何らの不正も元首金庫を富ますためになさず、誰に対しても親切で、公的そしてまた-que 私的にも、すべての人々を豊かにし、そしてさほど親しくなかった人々ですら名誉によって高め、世界中に多くの建物を建て、免除特権を諸都市に認めて、静謐でないこと、そして温和ではないことを何も行わなかったので、つまりatque とりわけ彼の全生涯において、たった一人の元老院議員のみが断罪されたがdamnatus、やはりtamen それも元老院によりなされたのであり、トラヤヌスは知らなかったことである。それらの結果として、彼は世界中で神にもっとも近く、生前も死後もet vivus et mortuus 崇拝に値しないことは何もなかった。

Ⅷ.5:(1) 他に噂されているfertur ことの中で、次のように彼自身の偉業egreium が示されている。たしかにenim すべての人々に対して分け隔てなさ過ぎではと咎めた友人たちに次のように答えたからだ。私人であった私が最高軍司令官たちにimperatores そうあれかしと思ってたように、最高軍司令官とimperatorem なった私は私人たちにかくあるのだ、と。 (2) 彼は並はずれた栄光をpost ingentem gloriamこうしてigitur 戦時そしてまた平時にbelli domique 勝ち得た後に、ペルシアから帰るrediens途中で、イサウリアのセレウキアで胃の洪水によりprofluvio ventris 消滅したextincta est。ところでautem 彼が崩御したobiit のは、生涯の六十三年と九か月と四日目、軍事命令権のimperii 十九年と六か月と十五日目であった(在位:九八年一月二八日〜一一七年八月七日)。彼は神君たちの間に列せられ、そしてまた-que 全員のうち首都内に埋葬された唯一の者と言われている。遺骨は金の壺へ入れて(彼が)建設した広場に運ばれ、円柱の下に置かれたが、その(円柱の)高さは一四四ペースである。  (3) 彼の記憶の多くは付託されてきていてdelatum est、ずっとusque 我らの時代にまで全く同じくnon aliter 元老院内で元首たちにprincipibus(次のように)歓呼されないことはない。「アウグストゥスよりも幸運で、トラヤヌスよりも善くあれかし」と。とりわけadeo 彼の中には善意の栄光gloriaが保たれていたのだがobtinuit、それは追従者たちにもvel、真に称賛に値する者たちにもvel、最も豪華な事例の機会をoccasionem maginificentissimi exempli 示しているのである。 

Ⅷ.6:(1) トラヤヌスが死去し、アエリウス・ハドリアヌスが元首にprinceps 選出されたcreatus est、しかし(それは)無論quidem トラヤヌスの何らかの意向ではなく、トラヤヌスの妻プロティナの尽力で、というのも彼をトラヤヌスは、彼自身の従姉妹の息子であるにもかかわらず、生前に養子にするのを望んでいなかったからである。彼自身も生まれはヒスパニアのイタリカだった。 (2) 彼は、トラヤヌスの栄光にgloriae 嫉妬して、ただちにトラヤヌスが加えた三属州を放置しreliquit、そしてアッシリア、メソポタミア、アルメニアから諸々の軍隊をexercitus 奪還しrevocavit、およびac 軍事命令権のimperii 境界をfinem エウフラテスでよしとした。同様にダキアについて試みることを、友人たちは阻止した。(それは)多くのローマ人たちが諸蛮族に引き渡されないためだった。というのはpropterea なぜならquiaトラヤヌスがダキアを打ち負かして、全ローマ世界からそこに数え切れないほどの歩兵部隊をinfinitas copias hominum 諸々の農耕地や諸都市へと居住させるために移動(鞍替え)させていたからであるtranstulerat。ダキアはたしかにenim 長きにわたる戦争により、デケバルスの男たちを(人的資源的に)消耗させられていた。[この箇所は写本的に問題とされている]           

Ⅷ.7:(1) やはりtamen 平和を彼は彼の軍事命令権のimperii すべての時代において維持していて、一度だけ一人の属州長官を通じてper praesidem 干戈を交えたことがあったdimicavit。 (2) 彼はローマ世界を巡回し、多くのものを建設した。ラテン語の演説において非常に流暢で、ギリシア語について非常なる教養があった。寛容さについては大いなる栄光をgloriam 持っていなかったが、やはりtamen 国庫(アエラリウム)と軍規にmilitum disciplinam 関しては非常に入念だった。 (3) 彼が崩御したobiitのはカンパニアで 、六十歳より上で、軍事命令権のimperii 二十一年十か月二十九日目のことだった。元老院は彼に神君たちの名誉を認めるのを望まなかった。やはりtamen 彼の後継者ティトゥス・アウレリウス・アントニヌス・フルウィウスは、これを熱心に要求し、すべての元老院議員たちがおおっぴらにpalam 抵抗したが、結局のところtandem 彼(ハドリアヌス)は得たのだったobtinuit(在位:一一七年八月一〇日〜一三八年七月一〇日)。

Ⅷ.8:(1) ゆえにergo ハドリアヌスを継承したのが、ティトゥス・アントニヌス・ボイオニウスで、そのうえetiam 同じ人がピウスと名付けられた。傑出していた(クラルス)が、しかしまったくもってadmodum 古くはない出自だったが、際立った人物で、そして功績によりヌマ・ポンピリウスに比肩される。かくしてita トラヤヌスがロムルスに対等視されるようにaequetur。 (2) 彼は並はずれたingenti 清廉さで私人として生きたがvixit、軍事命令権中にはin imperio 一層そうで、誰に対しても厳しくなく、すべての者たちに対して気前よくbenignus、軍事においてはin re militari ほどほどの栄光gloria があり、諸属州を拡張するよりもむしろ防御することに熱心で、もっとも対等な者たちをviros aequissimos 国家を管理するためにadministrandam 求め、善き人々に対して栄誉をもち、無節操な人々をなんの苦悩もなく避け、友好的な王たちには恐怖よりも少なからぬ尊敬をもたせ、その結果、蛮族たちのうち多くの種族(ナティオネス)が武器を置き、彼のところへ自分たちの諸々の係争と、そしてまた-que 訴訟沙汰を持ち込み、そしてまた-que (彼の)裁定に従ったほどだった。 (3) 彼は、軍事命令権以前にante imperium とても裕福で、無論quidem 彼のすべての財産を兵士たちの俸給stipendiis そして友人関係への諸々の贈与liberalitatibus によって減らした、だがuerum 豊かな国庫(アエラリウム)を遺贈したreliquit。彼は寛容さのゆえにピウスと呼ばれた。 (4) 彼はロリウムで崩御したobiit、そこは彼の別荘で、首都から十二(ローマ・)マイルの所で、生涯の七十三年目、軍事命令権のimperii 二十三年目だった。つまりatque 神君たちの間に列せられ、そして功績によって神格化された(在位:一三八年七月一一日〜一六一年三月七日。)

Ⅷ.9:(1) 彼の後、命令権を行使したのはimperauit マルクス・アントニヌス・ウェルス(M・アウレリウス)だった。彼は疑いなくhaud dubie[初出] きわめて貴顕nobilissimus(ノビリッシムス)であった。実際quippe 彼の父方の祖先はヌマ・ポンピリウスから、母方はソレンティニ人の王から繫がっていたからである。そして彼とともにルキウス・アンニウス・アントニヌス・ウェルスが(帝位に就いた)。 (2) かつそのとき初めてtumque prinum ローマ国家は、対等の権利でaequo iure 軍事命令権をimperium 管理するadministrantibus 二人に従うことになった。彼までずっとusque 一人づつ常にsemper 正帝たちを戴いていたのだが。

Ⅷ.10:(1) 彼らは互いに血縁でもet 姻戚でもet 結びつけられていた。ところでautem マルクス・アントニヌス(ウェルス)はアントニヌス・ピウスの娘婿で、彼の従姉妹である妻ガレリア・ファウスティナ・ユニオルを通してだった。 (2) 彼らはパルティア人たちに対して戦争を行ったが、彼ら(パルティア人たち)はトラヤヌスの勝利以後そのときtum 初めて反乱を起こしていたのである。ウェルス・アントニヌスはそれへと進発した。彼はアンティオキアとアルメニア周辺で、彼の将軍たちをduces 介して多くのことを成し遂げ、そして並はずれたことを達成した。彼は、セレウキア、(即ち)アッシリアのきわめて名高い主都をurbem nobilissimam、四十万の兵士たちもろとも捕獲したcepit。彼はパルティア人たちからの凱旋を持ち帰った。彼は兄弟でそしてまた-que 同じく舅(であるマルクス・アウレリウス)とともに凱旋式を挙行した。 (3) やはりtamen 彼が崩御したのはobiit、ウェネティアにおいて、都市コンコルディアからアルティヌムへ進発していて、そして兄弟とともに馬車に同乗していた時に、彼は突然subito 血で打たれた、ギリシア人たちが卒中(’αποπληξία/-πλήξις)と呼んでいる病気の不運casuだった。 (4) かの人物は生まれつき市民性が不十分で、やはりtamen 兄弟への畏敬により、いかなる粗暴さもあえてしなかった。彼は軍事命令権のimperii 十一年目に崩御したobisset 時に、神々の間に列せられた(在位:一六一年三月六日〜一六九年一/二月)。

Ⅷ.11:(1) 彼の後に、マルクス・アントニヌスが単独でsolus 国家を掌握したtenuit、かの人物は誰もが称賛するlaudare よりも驚嘆することができるほうがより簡単である。彼は生涯の初めからa principio きわめて静謐で、幼少期からもex infantia またquoque 歓喜でも悲嘆でも顔色ひとつ変えないほどだった。彼はストア派哲学に身を捧げ、そのうえetiam 自身は生活習慣のみならず、学識でもsed etiam eruditione 哲学者であった。 (2) 彼は青年にしてiuvenis それほどまでにadhuc これほど感嘆すべきadmirationiだったので、彼を後継者として残すように準備しようとしたparaveritのはハドリアヌスだった。やはりtamen アントニヌス・ピウスが養子とされていたので、(ハドリアヌスは)彼(マルクス・アントニヌス)が彼(ピウス)の娘婿になることをあんなこんなでidcirco [初出、あとⅧ.18のみ]望み、(その結果)この順番でhoc ordine 彼(マルクス・アントニヌス)は軍事命令権へとad imperium 到達したのであるperveniret。

Ⅷ.12:(1) 彼が教育されたのは、哲学に関してはカルケドンのアポッロニウス(アポッロニオス)によってであり、ギリシア文学の知識に関してはad scientiam 、プルタルクス(プルタルコス)の孫カエロネア(カイロネイア)のセクストゥス(セクストス)によってだった。ところでautem ラテン文学を彼に教授したのは、きわめて名高いnobilissimus 弁論家フロントだった。彼はローマでは皆と共に対等の権利でaequo iure 振る舞った、(こうして)彼は傲慢さがinsolentiam[初出、VIII.12.1, IX.24, X.6.3]ないことで軍事命令権のimperii 頂点に昇らされたのである。(彼は)贈与においてliberalitatisきわめて機敏であった。 (2) 諸属州を並はずれた気前よさingenti benignitate と控え目さで遇したtractavit。ゲルマニア人たちに対しては、彼が元首principe であるうちは物事が幸運の内にfeliciter 運んだ。彼自身はマルコマンニ戦争をおこなったが、しかしこれほどの(戦争)は記録になく、ポエニ人たちとの(諸戦争)に匹敵されるconferaturほどだった。というのもその時に、より由々しきことがgravius 起こったからで、つまりローマの軍隊exercitus 全体が万事休すだったのであるperierant。 というのもenim 彼の下で疫病の不運がcasus ひどく、(ウェルスによる)ペルシア勝利後に、ローマで、およびac イタリアそしてまた-que 諸属州においても、住民たちの大部分、兵士たちのほぼすべての諸軍勢がcopiae 無力化されてしまっていたlanguore defecerint。

Ⅷ.13:(1) ゆえにergo 並はずれた労苦と控え目さでmoderatione、彼はカルヌントゥムに三年間ずっとそこにいて、マルコマンニ戦争に決着をつけconfecit、その戦争を、彼ら(マルコマンニ人たち)と共に、クァディ人たち、ヴァンダル人たち、サルマタエ人たち、スエビ人たち、つまりatque 野蛮の地全体が揺れ動いていたのである。彼は何千人もの人々を殺害し、およびac パンノニア人たちを隷属から解放し、ローマでまたもやrursus 彼の息子コンモドゥス・アントニヌスーー彼をまさにiam 副帝にしていたのだが ーーと共に凱旋式を挙行した(一七六年)。  (2) この戦争の出費のために国庫(アエラリウム)が使い果たされて、帝室資金largitiones がまったくなくなり、にもかかわらずneque 属州民たちあるいはaut 元老院に何ごとも通告するindicere ことを望まなかったので、(彼の)日常使いのcultus王宮のregii備品を、神君トラヤヌスの広場で競売でして、売り払った。(すなわち)金製の諸容器、水晶と蛍石の諸々の杯、妻およびac 自分の絹と金糸の衣服、多くの貴石の装飾品類ornamenta。およびac 二ヶ月間続けてこの売却はvenditio 行われ、そしてまた-que 大量の黄金を回収した。やはりtamen、勝利後に、入手した諸々のものを返還することを望んだ買い手たちに、価値相当のものを取り戻させた。いったん購入したものを保持することを込んだ人は誰に対しても彼は煩わさなかった。

Ⅷ.14:(1)  彼はより傑出した(クラルス)人物たちに、諸々の宴会を彼自身(が催しているもの)と同じ日常使いでcultu、そして似ている従者たちによって彼らが提供するのを許した。勝利後の諸々の見世物の開催に際しては、彼は豪華でmagnificus fuit、一〇〇頭のライオンたちを同時にsimul 提供したと伝えられているほどであるtradatur。 (2) こうしてigitur 彼は幸運な状態を武徳(ウィルトゥス)によっても慈悲深さによっても取り戻してreddidisset、軍事命令権のimperii 十八年、生涯の六十一年で崩御しobiit、そして皆が競って尽力して、彼は神君たちの間に列せられた(在位:一六一年三月七日〜一八〇年三月一七日)。

Ⅷ.15: 彼の後継者、ルキウス・アントニヌス・コンモドゥスは、ゲルマン人たちに対するそれ(戦争)を幸運のうちに feliciter 奮戦したことを除いて、何ら父親的(なところ)はなかった。九月(セプテンブレ)を自分の名前に替えてコンモドゥスと言われるよう企てた。 しかし贅沢と好色によって堕落した彼は、剣闘士たちの諸々の武器でarmisきわめてしばしばsaepissime 訓練所内でin ludo、続いてそのうえetiam 円形闘技場内でこの類いの人間たちとしばしばsaepe 干戈を交えたdimicavit。彼は突然死で崩御したobiit。いやむしろatque adeo【初出、X.16.3のみ】絞殺されたかそれともvel 毒殺されたと考えられている。それは父の後、十二年と八か月命令権を行使したimperasset 時のことで、あらゆる人々の呪詛によって、人類の敵として死後もそのうえetiam 審判されたiudicareturほどだった。

Ⅷ.16:彼を継承したのは老齢のペルティナクスだった。そして彼は七十歳に達していたにもかかわらず、そのときtum 首都長官職を勤めており、元老院決議により命令権を行使することをimperare 命じられた。彼は軍事命令権のimperii 八十日目に近衛軍兵士たちの暴動seditione とユリアヌスの犯罪行為によってscelere 殺されたoccisus est(在位:一九三年一月一日〜同年三月二八日)。

Ⅷ.17:彼の後、サルウィウス・ユリアヌスが国家を強奪したinvasit。彼は貴顕な人物で、そして法律にきわめて習熟していて、サルウィウス・ユリアヌスの孫nepos だった。その彼(サルウィウス・ユリアヌス)は神君ハドリアヌスの下で永久告示を作成した。彼はセウェルスにムルウィウス橋で打ち負かされ、パラティウムで殺害されたinterfectus。彼は命令権を行使しimperare 始めた後七か月間を生きたvixit(在位:一九三年三月二八日〜同年六月一日)。   

Ⅷ.18:(1) ここからhinc ローマ帝国のimperii Romani 管理をadministrationem セプティミウス・セウェルスが受け取ったが、彼は、アフリカ、トリポリス属州、レプティスの町にoppido由来していたoriundus[初出]。すべての記録上、後にも先にもante et postea アフリカ出身のただひとりの最高軍司令官imperator だった。 (2) 彼は、初めはprimum 元首金庫代訴官(フィスキ・アドウォカトゥス)であったが、まもなくmox 軍団将校となり、それからdeindeそして多種多様の役職つまりatque 諸々の顕職をhonores 経て、続けざまにusque全国家の管理へとad administrationem 到達した。(3) 彼は、ユリアヌスによって殺されたペルティナクスと自身を呼ばれることを望んだ、かのペルティナクスの栄誉の中で。彼はまったくもってadmodum 吝嗇で性格は獰猛saeusだった。 (4) 彼は多くの戦争をまた幸運の内にfeliciter 行った。彼はペスケンニウス・ニゲルーー彼はアエギュプトゥスとシュリアで反乱を起こしていたーーを、キュジクスで殺害した。彼はパルティア人たちを打ち負かしvicit、そして内アラビア人たちそしてアディアベニ人たちも(打ち負かした)。アラビア人たちを、そのうえetiam 属州を作るほどそれほどまでにeo usque 打ち負かしたsuperavit。そんなこんなでidcirco 彼はパルティクス、アラビクス、アディアベニクス(パルティア、アラビア、アディアベネの征服者の意)と言われた。彼は多くのものを全ローマ世界で修復した。彼の下でそのうえクロディウス・アルビヌスーー彼はペルティナクス殺害の時にユリアヌスにとっての相棒socius だったーーは、彼自身をガリアで副帝となしたがfecit、そしてまた-que ルグドゥヌムで打ち負かされ、そして殺害されたinterfectus。 

【以下、これまでの定訳が通用しなくなる例が頻出。正直困ること多し】

Ⅷ.19:(1) やはりtamen セウェルスは、戦争の栄光gloriam に加えて、そのうえetiam 市民的諸熱意においても ciuilibus studiis 傑出(クラルス)しており、そして文学に精通して、哲学の知識を豊富に会得していた。彼は最後の戦争をブリタンニアで行い、そしてまた-quo(ブリタンニアの)取り戻されたreceptas 諸属州を完全な安全性で護ろうとして、防塁を十三万二〇〇〇バッススにわたって海から海へと拡げたdeduxit。 (2) 彼はエボラクムでまったくもってadmodum 高齢で死没したがdecessit、それは軍事命令権のimperii 十六年目と三か月目のことであった。彼は神君と呼ばれたappellatus est。 (3) さて(というもの)nam 彼は二人の息子たちを後継者に残した(遺贈した)。バッシアヌスとゲタであるが、しかしバッシアヌスにアントニヌスの名を元老院から与えられるのを望んだ。そしてかくしてitaque 彼はマルクス・アウレリウス・アントニヌス・バッシアヌスと言われ、そしてまた-que 父を継承した。というのもnam ゲタは公敵と通告され、遅滞なくconfestim[初出、あとIX.18.1,X.4.2,17.2のみ]亡くなったからであるperiit(在位:二一一年二月四日〜二一一年一二月二六日、あるいは二一二年二月二七日)。

Ⅷ.20:(1) こうしてigitur マルクス・アウレリウス・アントニヌス・バッシアヌス、そしてまた同様にidemque カラカッラは、父の諸性向をほぼfere 備え、幾分paulo より苛酷で、そして威嚇的だった。彼はローマで浴場のlauacri 卓越した(偉業の)egregium 建造物opus を作った。それら(諸々の浴室termae)はアントニヌスのと呼ばれている。加えてpraeterea 記憶すべきものは何もなかった。彼は抑えきれないほどの色欲を持ち、自身の継母ユリアを妻に娶ったとされている。 (2) 彼が死去したdefunctus est のは、オスドロエナの中のエデッサで、パルティア人たちに対する遠征を目論んでいるmoliens[初出] 最中のことで、軍事命令権の六年と二か月目、かろうじてuix 四十三歳になったばかりだった。公の葬儀によって彼は葬られた(在位:二一一年二月四日〜二一七年四月八日)。

Ⅷ.21:それからdeinde オピリウス・マクリヌス、彼は近衛軍長官だったが、息子ディアドゥメヌスとともに最高軍司令官たちとされfacti imperaatores、彼らは記憶すべきことは短期間であったため何も行わなかった。さて(というのも)nam 彼らの軍事命令権はimperium一年と二か月だった。軍隊の暴動でseditione 両者は双方ともambo pariter 殺されたoccisi sunt(在位:二一七年四月一一日〜二一八年六月中頃)。

Ⅷ.22: 彼らの後に選出されたのがcreatus est、マルクス・アウレリウス・アントニヌスだった。彼は、アントニヌス・カラカッラの息子と考えられていて、ところでautem 彼はヘリオガバルス神殿の祭司だった。彼は、ローマへと兵士たちやet 元老院の et 並はずれたingenti 期待とともにやって来たのであるが、あらゆる醜聞により自身を汚した。彼はきわめてふしだらそしてきわめて淫らに 生きたvixit、そしてまた-que 二年と八か月後に軍隊の騒乱によってtumultu 殺害されinterfectus est、そして彼と共に母シュミアセラも(在位:二一八年六月〜二二二年三月一一日)。

Ⅷ.23: 彼を継承したのがアウレリウス・アレクサンデルで、軍隊からexercitu 副帝に、元老院から正帝に指名された彼は、 まったくもってadmodum 青年だったがiuuenis、そしてまた-que ペルシア人たちに対する戦争が始まると、彼らの王クセルクセスをきわめて華々しく打ち負かした vicit。彼は軍規をmilitarem disciplinam きわめて厳しく糺した。騒乱を起こしたtumultuantes 諸軍団をひとつ残らずintegras 解体した。助言者それともvel 尚書長官(マギステル・スクリニイ)として法律の編纂者ウルピアヌスを彼は持っていた。彼はローマでもまたquoque 人気があった。彼が亡くなったのはperiit ガリア内での軍隊の騒乱によってでtumultu 、軍事命令権のimperii十三年と九日目のことだった。彼は自身の母ママエアをことのほかunice[初出、あとIX.12のみ]敬慕(ピウス)していた(在位:二二二年三月十一日〜二三五年三月一八日、あるいは一九日)。

第九巻 

Ⅸ.1:彼の後、マクシミヌスが一兵卒の出で初めてprimus 軍事命令権へとad imperium 兵士たちの意向voluntate のみでsola 近づいたがaccessit、(それに)何ら元老院の権威は介在しなかったし、彼自身元老院議員でなかったにもかかわらずだった。彼はゲルマニア人たちに対する戦争を幸運の内にfeliciter 遂行し、兵士たちにより最高軍司令官imperatorと呼ばれていたが、プピエヌスによりアクイレイアで殺されたoccisus est。(それは)彼の兵士たちが彼を見捨てたからで、依然として少年だった息子ともどもcum filio adhuc puero 、その彼とともに三年と若干の日々に命令権を行使してきていたimperaverat(在位:二三五年三月あるいは四月〜二三八年四月から六月末)。

Ⅸ.2:(1) その後、三人の正帝たちが同時にsimul 存在した。プピエヌス、バルビヌス、ゴルディアヌスで、前者二人はきわめて知られざるobscurissimo 出自であるが、ゴルディアヌスは貴顕(ノビリス)であった。実際quippe 彼の父、大ゴルディアヌスは、兵士たちの合意で、アフリカの属州総督職を務めていた時に、マクシミヌスが命令権を行使していたがimperante、元首としてprinceps 選ばれていたからであるfuisset electus(在位:二三八年三月下旬〜四月中旬)。 (2) そしてかくしてitaque 彼らがローマへやって来たとき、バルビヌスとプピエヌスはパラティウムで(兵士たちによって)殺害されinterfectus sunt、ゴルディアヌスのみに軍事命令権がimperium 取っておかれたreservatum[初出](バルビヌスとプピエヌスの在位:二三八年四月中旬〜七月下旬)。ゴルディアヌスはまったくもってadmodum 少年puer だったが、トランクイリナをローマで妻に娶り、ヤヌス・ゲミヌス(神殿の扉)を開き、そして東方(オリエンス)へと進発してパルティア人たちに戦争を仕掛けたinfulit。彼らがまさにiam 出撃を目論んでいたからであるmoliebantur。それを彼は無論quidem 幸運の内にfeliciter 遂行しgessit、かそしてまた-que 並はずれたingentilbus 諸戦闘によってペルシア人たちを打ち砕いたadflixit[ここのみ]。 (3) 彼は、ローマ諸国境からa Romanis finibus まったく遠くないhaud longeところに帰りrediens、フィリップスの欺瞞でfraude 殺害されたinterfectus est。その彼(フィリップス)は彼(ゴルディアヌス)の後、命令権を行使したimperavit。軍はmiles[ここでのみ登場]彼(ゴルディアヌス)のために一つの記念墓をtumulum キルケシウムから二十ローマ・マイルに建設した[Ammianus Marcellinus, 23.5.7ではZaitha]。そこ(キルケシウム)は今やnunc ローマ人たちの砦があり、エウフラテス(河)に張り出しているが、(軍は)遺骨をローマへと持ち帰り、彼自身を神君と呼んだ(在位:二三八年五月〜二四四年三月)。

Ⅸ.3:二人のフィリップス、息子およびac 父は、ゴルディアヌスを殺しocciso、軍事命令権を強奪しimperium invaserunt、つまりatque 無傷の軍隊exercitu を連れ戻すべくreducto、イタリアへとシュリアから進発した。彼らの命令権行使下でimperantibus、首都ローマ(創建)一千年目が諸競技そしてまた-que 諸々の見世物の並はずれたingenti 準備で祝賀された。それからdeinde 両者は軍隊によってexercitu 殺害されたinterfecti sunt、大フィリップスはウェロナで、ローマで小(フィリップス)が。彼らは五年間命令権を行使したimperaverunt。彼らは神君たちの間にやはりtamen 列せられたinter Divos relati sunt(在位:二四四年初頭〜二四九年九月ごろ)。

Ⅸ.4:彼らの後、下パンノニア出身でブダリア生まれのデキウスが軍事命令権をimperium 僭称したsumpsit[マイナスイメージか]。彼はガリア内で起きていた内戦を制圧した。自身の息子を副帝としたローマで彼は浴場をlavacrum 建設した。二年間彼自身と息子が命令権を行使していたimperassent 時に、両者ともuterque 蛮族の地で殺害された。彼らは神君たちの間に列せられた(在位:二四九年九月ごろ〜二五一年六月ないし八月)。   

Ⅸ.5:すぐにmox 最高軍司令官たちがimperatores 選出されたcreati sunt、ガルス・ホスティリアヌスとガルスの息子ウォルシアヌスである。彼らの下でアエミリアヌスがモエシア内で諸変革を目論んだres novas molitus est[初出]。彼を制圧するために両人が進発しようとした時に、彼らはインテラムナで殺害された。(統治すること)二年に満たなかった。彼らはあらゆる点で傑出したこと(クラルス)を何も行わなかった。ただ疫病そして諸々の病気、つまりatque 諸々の苦痛で有名だったのが、彼らの元首政だったeorum principatus fuit(在位:二五一年六月か八月〜二五三年七月末か八月初頭)。

Ⅸ.6: きわめて知られざる obscurissime 生まれのアエミリヌスが、より知られざる obscurius 命令権を行使しimperavit、およびac 三か月目に消滅したextincta est(在位:二五一年七月末ないし八月初頭〜同年一〇月ごろ)。

Ⅸ.7: ここからhinc リキニウス・ウァレリアヌスが、ラエティアとノリクムで(総督として)職務遂行中で、軍隊によりexercitu 最高軍司令官imperatorに、そしてすぐにmox (元老院によって)正帝とされた。(息子)ガッリエヌスもまたquoque ローマで元老院から副帝と呼ばれたappellatus。彼らの軍事命令権はimperium ローマの名声にとり致命的でperniciosum、そしてほとんどpaene 破滅的でexitiabile あったが、(それらは)元首たちのprincipum 不運さでinfelicitate【ここのみ】でもありvel 無策ゆえでもあったvel ignavia[初出]。ゲルマニア人たちは、ラウェンナにまでusque やってきた。ウァレリアヌスは、メソポタミア内で戦争に従事中にペルシア人たちの王サポル(シャープール一世)により圧倒されsuperatus est、すぐにmox そのうえetiam 捕らえられて、パルティア人たちのもとで屈辱的なignobili 隷属下で老い朽ち果てた(在位:二五三年一〇月ごろ〜二六〇年六月?/死去は二六二年以降のことか)。  

Ⅸ.8:(1) ガッリエヌスは、未成年(レベル)でadulescens 正帝とされ、軍事命令権をimperium 始めは幸運の内にfeliciter、すぐにmox 相応に、最後には致命的にperniose 行使した。というのも、青年期iuvenis(の彼は)、ガリアとイリュリクムで多くのことどもを活発にstrenue 行った。(すなわち)ムルサで紫衣を僭称していたpurpuram sumpserat インゲヌスを、そしてトレベッリアヌスも殺した。長期間diu 温和でそして平穏だった彼は、すぐにmox まったくの放蕩三昧へと解き放たれて、掌握すべきtenendae 国家の手綱を恥辱的probrosa[ここのみ]無策ignavia と絶望のゆえにdesperatione[ここのみ]手放した。 (2) アラマンニ人たちは、ガリア諸州を荒らしてからvastatis、イタリア内に入り込んだ penetraverunt。ダキアは、トラヤヌスによりダヌビウス(河)を越えて加えられていたがadiecta、そのときtum 手放されamissa、グラエキア、マケドニア、ポントゥス、アシアは(おのおの)ゴート人たちによって荒らされたvastata est。パンノニアは、サルマタエ人たちそしてまた-que クアディ人たちにより冦掠されpopulata est、ゲルマニア人たちはヒスパニアにまでusque 入り込みpenetraverunt、そして著名な都市タッラコを攻略しexpugnaverunt、パルティア人たちはメソポタミアを占領してoccupata、シュリアを自身のものと主張し始めた。

Ⅸ.9:(1) まさにiam 諸状況が絶望的で、そしてローマ帝国がほとんどpaene 消滅に瀕したときに、ポストゥムスがガリア内で、きわめて知られざるobscurissime 生まれながら紫衣を僭称した purpuram sumpsit、そして一〇年間かくして ita 命令権を行使しimperavit、ほとんどpaene 疲弊しつくした諸属州を並はずれた武徳(ウィルトゥス)と控え目さでmoderatione 再建しようとした。彼は兵士たちの暴動でseditione 殺害されたが、それは[女性名詞civitasを補う]モゴンティアクム(現マインツ)で、ラエリアヌスが諸変革をres novas 目論んでmoliente 彼(ポストゥムス)に対して反乱を起こしていたのだが、兵士たちに掠奪さるべきdiripiendam (その都市)を引き渡さなかったからだったtradere noluisset(ガリア皇帝在位:二六〇〜二六九年)。 (2) 彼の後、きわめて卑賎なvilissimus[初出で、他はIX.21のみ]職人opifex[ここのみ]マリウスが紫衣を受け取ったpurpuram accepit[ここのみ]、そして二日目に殺害されたinterfectus est(ガリア皇帝在位:二六九年中頃)。 (3) ウィクトリヌスがその後postea 軍事命令権を受け取った imperium accepit。彼はきわめて活発な人物vir strenuissimus であったが、過剰な色欲のnimiae libidinis[ここのみ] (人物)で、そして他人の妻女たちを堕落させたのでcorrumperet、アグリッピナ(現ケルン)で殺されたoccisus est、とある主計担当官がactuario quodam[ここのみ]悪企みをdolum[初出、他はIX.9.2, X.3.2] めぐらしたからであるmachinante[ここのみ]。彼の(言うところの)sui 軍事命令権のimperii 二年目だった(ガリア皇帝在位:二六九年中頃〜二七一年初頭)。

Ⅸ.10: 彼を継承したのは元老院議員テトリクスで、アクイタニアを彼は地方総督のpraesidis 栄誉で管理していたがadministrans、不在中に兵士たちによって最高軍司令官imperatorとして選ばれ、そしてブルディガラで紫衣を僭称したpurpuram sumpsit。彼は兵士たちの多くの暴動をseditione 甘受したpertulit[perfero,III.6.2では「もたらした」]。しかしこのような事どもがガリア内で行われている間に、東方ではオデナトゥスによってペルシア人たちが打ち負かされた。シュリアを防衛し、メソポタミアを取り戻しrecepta、クテシフォンにまでずっとusque オデナトゥスは入り込んだのであるpenetravit。

Ⅸ.11:(1) かくしてita ガッリエヌスが国家を放ったらかしにしている間に、ローマ帝国は、西方ではポストゥムスにより、オデナトゥスによって東方で救われたのであるservatum est[初出はVI.18.2、あとここのみ]。ガッリエヌスは、その間にinterea メディオラヌム(現ミラノ)で兄弟ウァレリアヌスともども殺されたoccisus est、軍事命令権のimperii 九年目のことだった(在位:二五三年一〇月頃〜二六八年九月頃)。そしてまた-que クラウディウスが兵士たちに選ばれて彼を継承し、元老院により正帝と呼ばれたappellatus 。(2) 彼はイリュリクムそしてまた-que マケドニアを荒らしていたvastantes ゴート人たちを並はずれたingenti (一回の)戦闘で打ち負かしたvicit 。彼は質素でparcusかつac 控え目でmodestus、そしてet 公正さに忠実かつac 国家の運営にふさわしい人物であった。彼はやはりtamen 軍事命令権のimperii 二年目の内に病死した。彼は神君と呼ばれたappellatus est。元老院は彼を並はずれたingenti 名誉で飾り、まさにscilicet 元老院議事堂内に彼自身のために黄金の円楯(クリペウス)が、同様にitem カピトリウム内に黄金の立像が置かれたponeretur(在位:二六八年九月〜二七〇年八月)。

Ⅸ.12: 彼のあと、クラウディウスの兄弟クインティッルスが、兵士たちの合意によりconsensu 最高軍司令官imperatorとして選ばれた。その者はことのほかunicae 控え目さmoderationis と市民らしさをもっており、兄弟と対等であるaequandus か、それともvel 凌駕していたpraeferendus。元老院の合意によってconsensu 正帝と呼ばれappellantes、軍事命令権のimperii 十七目に殺されたoccisus est(在位:二七〇年九月)。

Ⅸ.13:(1) 彼のあと、アウレリアヌスが軍事命令権をimperium 引き受けたが、彼はダキア・リペレンシス由来でoriundu、戦争において有能な人物であったが、やはりtamen 常軌を逸した精神のanimi immodici[ここのみ]、そして無慈悲な傾向があったpropensior[VII.16.2,X.15.2]。<彼>もまたquoque ゴート人たちをきわめて活発にstrenuissime 打ち負かしたvicit。ローマの主権をdicionem[他は、VI.1.3, 3のみ]往時のpristinos[ここのみ]諸国境へとad fines 諸戦争で種々の幸運によってuaria felicitate 奪還したrevocauit。ガリアでテトリクスをカタラウニ人たちの(地=Châlon-sur-Marne)で負かしたsuperavit。それはテトリクス自身が自らの軍隊をexercitum 見捨てたからで、その軍隊の絶え間ない諸暴動にseditiones 彼(テトリクス)が対処できなくなっていたからである。そればかりかそのうえquin etiam、彼は密書によってper litteras occultas[ここのみ]アウレリアヌスへと以下のように懇願していた、すなわち他の事どもの間にウェルギリウスの一句「予を救い出せ、不敗の者よ、かの悪しき事どもから」Eripe me his inuicte malis を用いてのことだった(ガリア皇帝在位:二七一〜二七四年)。 (2) ゼノビアもまたquoque、夫オデナトゥスが殺されたので東方を掌握していたがtenebat、アンティオキアから余り遠くないところでゆゆしきgravi 戦闘もなく彼は捕獲しcepit、そしてまた-que ローマへと入った際に著名なnobilem 凱旋式を、まるで東方そしてまた-que 西方の回復者receptor であるかのように行ったが、戦車をテトリクスとゼノビアに先導させたのである。無論quidem かのテトリクスは、のちにルカニア県監督官corrector となり、およびac 私人として非常に長く生きたvixit。ところでautem ゼノビアは、依然としてadhuc ローマに存続している manent子孫たちを残したreliquit。

Ⅸ.14: 彼が命令権を行使しているimperante 時に、そのうえetiam 首都で貨幣製造者たちが反乱を起こし、諸々の金銭が偽造され、そして貨幣鋳造担当者のrationali フェリキッシムスが殺害された。彼らは打ち負かされ、アウレリアヌスは究極の無慈悲さでcrudelitate 根絶したconpescuit[ここのみ]。彼は多くの貴顕な人々をnobiles 頭格刑に断罪したdamnauit。彼は獰猛saevusそして血に飢えsanguinarius[初出、X.1.3のみ]、およびac 誰かにとり人好きするamabilis よりも、誰彼となくin quibusdam 必要とされているnecessarius 最高軍司令官imperator だったのである。いつでも情け容赦なくtrux[ここのみ]そのうえetiam 姉妹の息子の殺害者でもあり、やはりtamen 軍規のdisciplinae militaris そしてet 弛緩した諸慣習の大部分に関する矯正者correctorであった。

Ⅸ.15:(1) 彼は首都ローマをより堅固な城壁で囲んだ。彼は神殿を太陽神(ソル)のために建設し、その中に数え切れないほどのinfinitum 黄金そしてまた-que 諸々の貴石を置き、属州ダキアーーそれをトラヤヌスがダヌビウス(河)を越えて作っていたーーを放擲したがintermisit[ここのみ]、それは全イリリュクムとモエシアが荒らされてvastato、彼はそれを保持することができないと絶望したから、そしてまた-que ダキアの諸主都と諸農耕地(アゲル)からex urbibus et ageris 引き揚げさせられたabductos[ここのみ] ローマ人たちをモエシア中部に据え置きcollocauit[ここのみ]、そしてまた-que それをダキアと呼んだ。それは今やnunc 二つのモエシアに分割し、そして海へと注ぐダヌビス(河)の右岸にある。以前は左岸にあったのであるが。 (2) 彼は自分自身の奴隷の欺瞞でfraude によって殺される。彼(その奴隷)は彼(アウレリアヌス)自身の友人たちの、ある将官たちへとquodam militares uiros、彼らの名前を書き付けてadnotata もたらしたpertulit、虚偽で彼の筆跡を模倣して、にもかかわらずtamquam アウレリアヌスが彼ら自身たちを殺そうと準備しているかのようにpararet、そしてかくして itaque 彼は先手をとられてpraeueniretur[初出、あとIX.16,X.4.4]、まさにそのかれらによって旅の途中で殺害されたinterfectus est、そこはコンスタンティノポリスとヘラクレイアの間の旧道にあたり、その場所はカエノフルリウムと呼ばれていたappellatur。やはりtamen 彼の死は復讐を免れることはなかった。彼もまたquoque 神君たちの間へと列せられることを得たmeruit(在位:二七〇年秋〜二七五年秋)。

Ⅸ.16: タキトゥスが彼のあと軍事命令権をimperium 引き受けた。彼は卓越したegregie 性向の持った人物で、そして国家の運営にふさわしかった。やはりtamen 彼は何も傑出さ(クラルス)を示すことができず、軍事命令権のimperii 六ヶ月の内に死に先手をとられてしまったpraeventus(在位:二七五年冬〜二七六年六月)。フロリアヌスが彼を継いだが、二ヶ月と二十日間軍事命令権の中にin imperio あったが、にもかかわらずneque 彼も記憶に値するようなことを何もなさなかった(在位:二七六年夏)。

Ⅸ.17:(1) 彼の後、プロブス、軍事的栄光において光輝ある人物vir inlustris が国家の管理へとad administrationem 近づいたaccessit。蛮族たちによって占領されていたoccupatas 諸ガリアを、彼は諸戦闘での並はずれた幸運のうちにfelicitate 取り戻したrestituit。軍事命令権をimperium 僭称しようと企てたある者たち、まさにscilicet 東方でのサトゥルニヌス、アグリッピナ(現ケルン)でのプロクルスとボノススを、諸会戦でcertaminibus 制圧した。 (2) ブドウの木々をガリア人たちとパンノニア人たちが持つことを許可して、軍隊動員によりopere militari シルミウムのアルマ山と上モエシアのアウレウス(山)でブドウの木々を植え、そして属州民たちに植民すべき(土地)を与えたdedit。(3)  彼は、数えきれないほどの戦争を遂行したので、平和がもたらされたら、やがてbreui 兵士たちは不必要になるだろう、と言った。かの人物vir は鋭敏なacer、敏腕なstrenuus、活発でstrenuus、公正で、そして彼はアウレリアヌスと軍事上の栄光では対等視されaequaret、ところでautem 性格の市民性においては負かしていたsuperaret。やはりtamen 彼は殺害されたinterfectus est、シルミウムで軍隊の騒乱でtumultu 鉄塔の中でin turri ferrata(在位:二七六年夏頃〜二八二年秋)。

Ⅸ.18:(1) 彼の後、カルスが正帝とされたが、彼はガリアのナルボ生まれだった。彼は遅滞なくconfestim 息子たちであるカリヌスとヌメリアヌスを副帝とした。しかし彼がサルマタエ人たちに対する戦争を遂行中に、ペルシア人たちの 騒乱がtumultu 知らされて、東方に進発し、ペルシア人たちに対して顕著な(ノビリス)な諸事績を挙げた。彼ら自身を戦闘で(s) 撃破し、コケ[クテシフォンの対岸のセレウキアのこと]、クテシフォンというきわめて名高い(ノビリッシマ)諸主都を urbes nobilissimas 捕獲したcepit。そしてティグリス(河)を越えて陣営を張った時に、神的な雷の力により亡くなったperiit(在位:二八二年秋〜二八三年夏頃)。 (2) 彼の息子ヌメリアヌスもまたquoqueーー彼を(カルスは)自分とともに副帝としてペルシア人たちのところに連れてきていたがーー、卓越したegregiae 諸々の素質をindolis[初出、X.6.3, 9.1]持った未成年adulescens であったが、 両眼の痛みに襲われて小さな輿で運ばれていたときに、彼の義父であった扇動者アペルに諸々の奸計によりper insidias 殺された occisus est。そして悪企みによりdolo 彼の死は、アペルが軍事命令権を強奪できるinvadere ようになるまで隠されたのだが、死体の悪臭で露見した。というのもenim 彼に随行していた兵士たちが腐敗臭に刺激されて、小さな輿の幕を拡げdeductis、数日後に彼の死に気がつくことができたからであった(在位:二八三年夏〜二八四年秋)。      

Ⅸ.19:(1) その間にinterea カリヌスはーー彼を副帝としてパルティア人たちへと進発したカルスが、イリュリクム、ガリア、イタリアのために残していたがreliqueratーー、あらゆる諸々の犯罪行為でsceleribus により自らを汚した。これは多数の罪なき者たちを、犯罪をでっち上げて殺し、貴顕な(ノビリス)婦人たちを堕落させcorrupit、学友たちにとってcondisciulisもまたquoqueーー彼(カリヌス)を講堂(アウディトリウム)でたぶんvel 軽い意地悪で貶めていたーー、彼は致命的perniciosus であった。それらのことであらゆる人々に嫌われた彼は、ほどなくしてnon multo post 諸々の罰を受けた。 (2) というのもnam ペルシアから勝利者として帰還したrediens 軍隊exercitus が、正帝カルスを雷で、副帝ヌメリアヌスを奸計でinsidiis 失っていたので、ダルマティア出身のディオクレティアヌスを最高軍司令官としてimperatorem 選出したからである。彼はきわめて知られざるobscurissime 素性の人物で、多くの者からは書記(スクリバ)の息子と、少数の者からは元老院議員アヌッリヌスの解放奴隷(リベルティヌス)と信じられているほどである。   

Ⅸ.20:(1) 彼は最初の兵士集会でexercitus contione 誓った、ヌメリアヌス殺害は自分自身の悪企みにdolo よるものではない 、そしてそのとき彼の横にいたアペルこそが、ヌメリアヌスに奸計をinsidias 仕掛けていたのだ、として、彼(アペル)は軍隊の目の前でディオクレティアヌスの手で長剣(グラディウス)により刺殺された。 (2) その後postea あらゆる者たちの敵意と嫌悪でもって生きていたカリヌスを、彼はマルグス(河)で並はずれた戦闘により打ち負かしたvicit。彼(カリヌス)は自身の軍隊exercitu にーー彼は(ディオクレティアヌスより)より強力な(軍隊)を持っていたのだがーー裏切られ、その上さらにcerte 見捨てられた。それはウィミナキウムとaut アウレウス山の間でのことだった(在位:二八三年夏〜二八五年夏か秋)。

(3)  かくしてローマ人たちの事ども(権力)を得た彼は、騒乱をtumultu 農夫たちがガリアで煽り立てconcitassent、彼ら自身の党派にバガウダエの名を付け、ところでautem 彼らはアマンドゥスとアエリアヌスという将軍たちduces(ドゥクス)を持っていたので、 彼らを従わせるためにad subigendos eos 副帝アクシミリアヌス・ヘルクリウスを送った。彼は農民たちを軽微な諸戦闘で押さえ込んでdomuit、そしてガリアの平和を回復させたreformauit[ここのみ]。

Ⅸ.21:これらの諸時代にper haec tempora[初出、あとX.13のみ]そのうえ、カラウシウスーー彼はきわめて卑賎なvilissime 生まれであったが、活発なstrenuae 軍務の連続によりordine 卓越したegregiam 名声を得ていたーーは、ボノニア[ここのみ:現Boulogne-sur-Mer]あたりでベルギカとアルモリクスの(海岸)線に沿ってper tractum[ここのみ]、そこをフランク人たちとサクソネス人たちが脅かしていたが、彼は海域平定を引き受けていたので、多くの蛮族をしばしばsaepe 捕らえたにもかかわらず、あるいはaut 手つかずのintegra 戦利品を属州民たちに返還するredditaこともせず、あるいはaut 最高軍司令官たちにimpeatoribus 送りもしなったために、以下の疑いが生じ始めた、(すなわち)故意に彼によって蛮族たちが戦利品とともに通過するのを見逃し、つまりatque この機会に私服を肥やしているのではないか、と。それでマクシミアヌスによって殺害が命じられと、彼(カラウシウス)は紫衣を僭称しpurpuram sumpsit、そしてブリタンニア諸州を占領したoccupavit。

Ⅸ.22: (1) このように全世界にわたって諸事態が混乱に陥っていたとき、ブリタンニア人たち(の地)ではカラウシウスが反乱を起こしており、アキレウスがアエギュプトゥスで(反乱を起こし)、アフリカをクインクエゲンティアニ(十五部族)たちが脅かし、ナルセウスが東方で戦争を起こしていたので、ディオクレティアヌスはマクシミアヌス・ヘルクリウスを副帝から正帝とし、コンスタンティウスとマクシミアヌス(・ガレリウス)を副帝たちとした。彼らのうち、コンスタンティウスは娘を介したクラウディウスの孫nepos と伝えられていてtraditur、マクシミアヌス・ガレリウスはセルディカから遠くないダキア生まれだった。 つまりatque ディオクレティアヌスがそのうえetiam 彼らを婚姻によってもつなげるために、コンスタンティウスはヘルクリウスの義理の娘テオドラを受け入れ、彼女からのちにpostea コンスタンティヌスの兄弟である六人の子どもたちを持ち、ガレリウスはディオクレティアヌスの娘ウァレリアを(受け入れ)、両者とも彼らが持っていた妻たちを離縁することを強いられたのである。 (2) カラウシウスとは、やはりtamen 諸々の戦争が無益にかの百戦錬磨の人物に対して試みられた挙げ句に、最終的にad postremum 和平が成立した。彼(カラウシウス)を七年後に彼の相棒socius のアレクトゥスが殺した、つまりatque 彼(アレクトゥス)自身が 彼(カラウシウス)の後、ブリタンニア諸州を三年間掌握したtenuit。彼(アレクトゥス)は(コンスタンティウスの)近衛軍長官アスクレピオドトゥスの指揮により制圧された。かくしてブリタンニア諸属州は十年目に取り戻されたreceptae。

Ⅸ.23:その同じ頃per idem tempus[あと、IV.11のみ]、副帝コンスタンティウスによって、ガリア内では上首尾に戦いが行われた。リンゴネス(現Langres)では一日で逆境と順境を彼(コンスタンティウス)は経験した。というのもnam 不意にrepente[ここのみ]急襲してきたingruentibus[ここのみ]蛮族たちによって都市の中へと彼が追い込まれたとき、それほどまでにtam 火急のpraecipiti [初出、あとX.10.1]必要でnecessitate 、(すなわち) 諸城門が閉じられていたので城壁内に綱(pl.)で引き上げられたのだった。かろうじてvix 五時間を介してmediis 軍隊がexercitu 到着して、彼はほぼ六万のアラマンニ人たちを打ち倒したcecidit。正帝マクシミアヌスもまたquoque アフリカで戦争を完遂したprofligavit[初出、あとX.7.1, 12.1]、クインクエゲンティアニを押さえ込みdomitis、そして和平へと至らせることによって、である。ディオクレティアヌスはアレクサンドレイアで包囲されたアキレウスをほぼfere 八か月目に負かしてsuperavit、そしてまた-que 彼を殺害した。彼は勝利を存分にacerbe[ここのみ]利用した。(すなわち)全アエギュプトゥスを由々しきgravibus 公権剥奪公告でproscriptionibus(プロスクリプティオネス:別に、X.11.2)、そしてまた-que 屠殺によってcaedibus 辱めたfoedavit[ここのみ]。この機会に彼はやはりtamen 先見の明をもって多くのことを整えそして定めた、それらは我々の時代にまで存続しているmanent。   

Ⅸ.24:ガレリウス・マクシミアヌスは最初にprimum ナルセウスに対して不首尾な戦闘を行った。それはカリニクムそしてまた-que カラエの間で交戦した彼が、無気力というより無思慮に干戈を交えたdimicasset からであった。というのもenim まったくもってadmodum 多勢に無勢で敵と(戦いを)始めたからである。こうしてigitur 彼は撃退され、そしてディオクレティアヌスのところへと進発させられ、行軍中の彼(ディオクレティアヌス)に遭遇した際に、たいそう傲慢にinsolentia 迎えられたと噂されているfertur。すなわちut 数千バッススにわたり紫衣を着たまま(ディオクレティアヌスの)乗物へと伴走したと伝えられているほどであるtradatur。

Ⅸ.25:(1) すぐにやはりmox tamen イリリクムそしてまた-que モエシアを回って軍勢が集められ、またもやrursus ホルミスダとサポルの父祖であるナルセウスと、彼(ガレリウス)は大アルメニア内で並はずれたingenti 成功で戦ったのだが、少なからぬ賢慮consilio と同時にsimul 勇敢さでおこなった、実際quippe、彼はそのうえetiam 偵察兵の役割を、二番目あるいはaut 三番目の騎士身分[単数なので、おそらく彼の幕僚たちtribunus militum内での序列を示していると解釈する]とともに引き受けたのである。彼はナルセスを撃退して、彼の陣営を掠奪したdiripuit:妻たち、姉妹たち、子供たち、その外にはextrinsecus[ここのみ] ペルシア人たちの数え切れないほどの貴族層infinitam nobilitatem、ペルシアのきわめて莫大な宝物をgazam[ここのみ]をも捕獲したcepit 。彼(ナルセウス)自身を王国の最果ての荒野へと彼は追いやった。それゆえにquare、メソポタミアにそのときtum 諸守備隊とともに滞在していたディオクレティアヌスによって、帰還したregressus彼は並はずれた名誉で受け入れられた。(2) つづいてdeinceps 彼らは一緒にsimul、そして個々にviritim[ここのみ]、さまざまな戦争を行い、カルピ人たち、そしてバスタルナエ人たちを屈従させsubactis、サルマタエ人たちを打ち負かし、それらの諸種属をnationum 並はずれた捕虜たちの軍勢copias としてローマの諸国境内に in Romanis finibus 配置した。

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イタリアを知るために:ミヤザキ マリさん

 他のことを検索していたら、偶然ヒットした。イタリア関係で最近なんだかすっかり塩野七生大先生の後継者となった観のある「ミヤザキ マリ」さんのブログである。大先生と違って彼女は取り澄ましたところはないし、なにしろ即物的にマンガで表現できるし、結婚して深〜くイタリア社会に漬かっているので下世話に通じているからだろうが、気軽に読ませてくれるので、あれこれ笑いながら読んでしまった。以下に行くと、芋づる式に読めるはずです(連載としてはもう終わったらしいが)。 http://italia.miguide.jp/lifestyle/5434

 それを読んでいるうちに、既視感にとらわれた。どこかで読んだ記憶を思いだしたのである。これも偶然だが、カルチャーでの講演の準備をしていたらそれが出てきた。2004年のレジメ掲載だった。

 以来15年。アマゾンを見てみると、内田さんはその後も毎年のように書き綴っているようだ。20世紀末には、たぶん夫の赴任で異文化社会イタリアに居住することになった女性の滞在記が、主婦感覚でよく書かれていた。内田さんはそれとは若干違った構造的な切り口だったような記憶がある。

 それで思い出した。以下もあった。いや、もちろん今もある。難攻不落のバチカンへの普通では考えられない、すごい食い込み方だった。

郷富佐子『バチカン:ローマ法王庁は、いま』岩波新書、2007年。 

 郷さんがイタリア特派員だったときの朝日新聞の彼女の記事の扱いは破格だった。さて今彼女はどこにいるのだろうか。えっ、シドニぃー?

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エルコラーノ駅にて禁断の落書き調査(1):トイレ噺(8)

 といっても、古代ローマではなく、現代の、である。

【警告!:以下の画像を見て不快感を感じる人がいるかもしれません】

 広島に帰省して充電のためパソコンにiPhoneを繋いだら、これまでの写真がずらーと出てきて、最新のものとして今年の夏にエルコラーノからの帰りに撮ったものがあった。電車が来るまで時間を持てあましていたら目に付いてしまったので、とっさに現地調査となったわけである(同様に、ポンペイ・サンチュラリオ駅のほうはニコンで撮っている:それにこれまでの折に触れての蓄積もあるのだ。乞うご期待、かな)。今回のものはすべてプラットフォームの、地下通路から階段で上がってきた所の構造物に書かれたもの。ここは、刺すような太陽光線が容赦なく照りつけるプラットフォーム上で唯一日差しを避けることができる場所なので、地元民が集まりやすいわけ。落書きは一目瞭然で解説はいらないだろうが、ここに時代を超えての落書きの常識がすでに見えているように思う。

 まず、同じ書き手が複数場所に書き付けていることが、絵のタッチで明確に確認できたり、文字と数字の組み合わせと筆跡で分かるものがある、ということ。

 第二に、こんな衆人の目に触れる公共の場所に、名前を明記という行為の意図で、私には、当事者二人が自分たちの愛の宣言というよりは、悪友のいたずらないし悪意を持った第三者による暴露のような気がしてならないのだが、どうだろう。

ヴェスヴィオ周遊鉄道では、ずっと以前から、駅も
車両も、例外なくこんな調子
上の方に縦書き風に書かれているのは、漢字のつもりか。二つ前にも登場

 これを2000年前の祖先たちのそれと同期させて考えるとき、さてどういうことになるだろう。

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史料論:庶民と法律

 母が今年の初め2/11に亡くなって、その後始末で翻弄されている。法律的には申告期限が決まっていて、慣れていながゆえにやたらストレスとなる。たとえば、死亡時から4か月以内に「準確定申告」をしなければならない。ところが取り紛れて気付いたときには4か月過ぎていた。慌ててこれまで広島の実家がらみの確定申告でお世話になっている税理士事務所に「どうしたらいいのですか」とメールしたら、「お宅の場合、最初の二ヶ月足らずだから放っておいて大丈夫でしょう」と言われて肩すかしの一件落着。

 次なるそして最大の関門は10か月以内に手続きしなければならない相続税の申告であるが、その前段階として銀行口座の凍結をしなければならない。そのためには、母の除籍された戸籍謄本や住民票が銀行ごとにいちいち必要らしいので、ノウハウ本に書かれてあった「法定相続情報証明制度」を利用することにした。これだと謄本とかがワンセットで済むという触れ込みだったからだ。

 この「証明」のコピーを入手するためには関連の書類を揃えて法務局に提出しなければならない。母の場合は提出先は広島法務局である。この法務局にはもうひとつ用事があった。相続財産の財産目録作成のため必要な書類として、土地・建物の登記状況を把握しておかないといけない。そこで猛暑の今夏に帰省して、広島法務局を訪ねて行った。もちろん生まれて初めての体験である。案内図を頼りに汗だくになりながら街中をうろうろし、くたくたになりながらようやく建物に到着、冷房に生き返り申請用紙を提出して待っていると、呼び出されて「その地番、ないのですが」と。そこで私は「地番」という呼称があって、それは本籍地の表記とは異なっていることを、初めて知った。本籍地は広島市西区○○町三丁目530番地○なので、それで申請したのだが、その付近の平面図を示されてそこが「地番」としては三丁目112番△、であることを初めて知ったのである。これまでの私の生涯70年間で地番はまったく関係なかったのだから,知るよしもない。

 こうしてなんとか登記簿の写しを入手し、次いで「法定相続情報証明制度」の窓口へ。窓口のお役人たち(みな女性だった)は親切であった。そこでもっとも大変なのは母の出生から死亡までのすべての戸籍謄本を集めることですよ、とご指導をいただき、手順を書いた説明書や申出書をもらって、こっちは後日郵送で処理すべく、また湿気のひどいいかにも広島らしい真夏の午後の外気に放り出された。

 もう一人の相続人の妹は手回しよく関係書類を準備してくれていていた(実際は、経験あるご主人の手をわずらわせていたのであろうが)。さらにメールで母の実家の従兄弟に母の両親の名前を問い合わせたうえで、広島西区役所にいく。そこでかなり待たされて除籍謄本と2通の改製原戸籍なるものをまずゲット(私と母の関係を証明する書類が必要なのはいうまでもない)。次の日に、母の出生以来の古い戸籍を得るために、郵送でも可なのだが、帰省ついででもあるし、いっちゃえという感じでJR山陽本線に乗って東広島市役所へむかう。ここではそう待たされなかったが,ぶ厚い(田舎なので子供が多かったせいだろう)2通を受領することに成功。以上、再度足を運ぶ手間を考えて,上記すべて3通入手申請したので、予想外に費用がかかった。

 こうして、帰京して今度は練馬区役所に行き、自分と母の住民(除籍)票とか関係書類を揃え、返信用封筒に念のため簡易書留料金の切手を貼って広島法務局に送付したのは、月曜だった。さていつ返信が帰ってくるのかと思っていたら、木曜の朝に電話があり、書類関係は揃っているが「法定相続情報一覧」に不用な記入があるので出し直してほしい、と。で,何が不備だったかというと、住民票通りに書いて欲しいので、マンション名とか削除して下さい、と。練馬区ではなんかの時にマンション名まで書けといわれた記憶あったのでそうしたつもりだったのだが、役所が違い担当が違うとこんな調子で、ストレスとなる。

 それから10日もたったころだったろうか、文科省科研の現地調査で渡伊する直前に、法務局お墨付きの「証明」書類のコピーが届いたので(ご丁寧にも戸籍謄本などの提出書類も同封返還されていた)、2週間ほど間を開けて帰国してから、こんどは個別に銀行と接触。ところが、ゆうちょの場合、ご近所の窓口で「一番簡単な方法をとりましょう」といわれて、なんと解約関係の書類を渡されてしまった。あれれ、凍結しないでいいいの?という感じ。で後日改めて解約の書類を提出したが、あれほど手間かけた法務局の「証明」書類は不要、と言われて突っ返されてしまったのであ〜る。そのうえその場で貯金残高全額が払い戻されたのであ〜る。本当は喜べばいいのあろうが、なんだかうれしくないのはどうしたことか。貯金残高が少ないせいでの簡易処理だったのかもしれないが、狐につままれた感じだった。

 残りの2つの大都市銀行の預金凍結は、まずその担当窓口に電話かけて書類送付をお願いし、届いた書類を送り返した段階だが、そこでも法務局の書類のことにはまった触れられておらず、あれこれの書類を集めて提出のこととされていたが、今さら戸籍謄本類を同封する気にはならず、法務局の「証明」書類を封入して送り返した。あと、実印の押印と印鑑証明が要求されたので、こんなこともあるだろうと練馬区役所で入手しておいたものを同封した。電話連絡時に、いずれも手続き完了に1,2か月かかりますと言われたが、さて書類不備で返ってくるのかどうか、あちらさんのご都合待ちの昨今だが、こうしてまあ一応この仕事は官僚、もとえ完了となった次第。

 明日から数日また帰省する。今回はいよいよ土地・宅地の相続関係だが、これまで確定申告でお世話になっている税理士事務所に行って、相談する予定である。私の勝手な計算だと遺産相続で納税のレベルに達しないですみそうなのだが(基礎控除3000万+600万×相続人数、の枠内で収まりそう;それ越えた場合の、妻の弟から裏技を伝授されていたのだが、不発ですみそうなのは喜んでいいのかどうか,国家権力からは問題にされていない存在として認定されたようで,ちょっと微妙な感想なのである)、その後の名義変更手続きをどうすれば節税できるのか、がど素人相続人の目下の問題なのだ。

 かくの如く、とかく法律というものは庶民にとって常日頃の日常生活とはかけはなれ、しかも法的定めと窓口の対応も個別的に違っているようで、ますます素人にはとまどうことばかり(せっかくそろえた書類を不用、と突っ返されることも多い)。そこでリタイア歴史家として体感するのは、法律の条文で過去を再現することの非現実性である。たとえそういう原則はあっても、その通り運用されていないことが多いのが現実、という体験を古代ローマ法制史研究に投入している研究者がどれほどいっしゃることやら。歴史の目的は、かつての実際の生活の再現であると私は思っているが、史料不足を口実に(その実、手軽だからと私はにらんでいるのだが)、たまたま残存しえた法律文言を金科玉条のごとく振りかざす研究者のいかに多いことか。ありもしない仮想現実を作りあげて悦に入っている場合ではないのだが。それが実態とは乖離した古代ローマ史ムラでの身内意識のなあなあのお遊びに堕していないことを、過去の自分の生き様を含めて今は祈るばかりである。

【追伸】先日、ひとつの都市銀行から返信が届き、代表人の私の口座に残金を振り込みますとの連絡があったと思ったら、もう一つのほうからも、こっちは若干面倒くさく、私の口座に移行するから振込先を書類に書いて(通帳とカードも返還せよ)、もう一人の相続人の妹の実印登録証と押印した書類を送り返せ、という一件書類が届き、妹へ送って登録証をとってもらったり、書類に押印してもらったりして、返送した。預金の処理はこれで一件落着のようである。あとは、遺産登記の変更で、今年中に済ませれば、広島市から来た書類も提出しないですむようなので、11月中に動きだそうと思っている。

【付論】以下はイタリア(といっても,中南部に限っておいた方がどうしても無難な気がする(^_^;)での私の体験なのだが、まあ現代イタリア人というのはこまめというか、事前に規則はこまごまときちんと作るのだが、実際にはそれはすぐさま反故にされてしまっている事例に日常体験的によくぶつかるのである。結論を先に述べると、この現代イタリア人の規則に対する民族的特性・習性、規則は作ってもすぐさまお上は励行しなくなる,それで誰も守らなくなる、要するに実効性を持たない法律の文言だけが六法全書や判例集に残る現実を、なぜ古代ローマ人に応用していけないことがあろうか、と私は言いたいのである。素人が思うに、イタリアでは何か不都合が生じたら後追い的に法律を気軽に作る、でもそれが適用される事例なんてそうあるわけでないので、発布と同時にほとんど無視される、こんなことの連続なんではないかと。日本人風(というか研究者にありがち)に法律を律儀に考えていると間違う、ような気がする。ローマ法の研究者さんにお聞きしたいことである。

 たとえば、あれは大聖年2000年を前にして、これまで長年閉鎖されていたパラティヌス丘収蔵庫が博物館として新装開店した。この時は無料だったが、入り口に向かう階段前に麗々しく大きく掲示されて目についたのは、入場にさいしての見学者と見学時間の制限規則で、たとえば、10時半から10時50分まで20人、といった調子で、ご丁寧にも開館時間から閉館時間までそれがずらーと掲示されていたのだった。入り口の外にはちゃんと監視員がいて(そこまではごリッパ)、だけどまあ人数や時間をチェックしている様子はなかったのでそのまま入場できて、その時は地下からじっくり時間かけて見学させていただいた。ここでの私にとっての目玉は「冒瀆の十字架」だったのは言うまでもない。もちろん初見参できて大感激だった。当時は館内にも複数の監視員がそれなりにいて、偏屈そうな東洋人が一箇所にへばりついているので警戒されてはと思い、何度か行きつ戻りつして見学したが、今考えるとそれも十分怪しい行動ではあったなあ。で、本論はこれからで、翌年もその後も毎年のようにもちろん見学に行ったのだが、その時は例の掲示板はそのまま健在だったが、入り口の外に監視員はいなくなっていた(例のごとく、入り口の内側に所在なくお一人お座りにはなっていた)。要するにまったくのフリーパスだった。そしてその翌年くらいだったろうか、掲示板の時間制限の箇所にビニールテープが貼られ出して、おやおや掲示板だけはまだあるんだ〜と思いながら通うこと数年、とうとう掲示板そのものも引退されたとみえ、ようやくお姿をお消しになったのであ〜る。

これが件の掲示板(2005/9/10撮影):上の方、ビニールテープ貼っているが、うっすら入場時間が透けて見えるでしょ。その下の細かい人数と時間制限もお見落としなく。

 もう一つの事例。数年前のことだったか、「法律で、今度から博物館や遺跡には一定以上の大きさのバッグはしょって入れず、荷物置き場に預けなければならなくなった」という情報が私の耳に入ってきた。このころになると私など「おいおい、そんな場所、入場者多いポンペイなんかどこに作るというの、人員だって割けないでしょ。また計画倒れだよね」と冷静で、実際いってみても従来通り。唯一エルコラーノ遺跡だけは、観光バス用の駐車場ができたせいで事務棟が奥まった所に新設されたこともあるのだろうが、荷物置き場も作られ職員も一名いらっしゃり、遺跡入り口のチケットチェックの場所にはその掲示も未だある(初年度に比べるとだいぶ小さくなったが)。でもまあ、チケットチェックの監視員さんも法律どこ吹く風とばかりチェックされることは最初からない。今年の夏、荷物置き場と係員さんまだいたが、えっ、と驚きやっぱりねとこれは残念に思ったのは、遺跡構内の博物館グッズ売り場が閉鎖されていたことである。立派な建物は今は空き屋となっている。今年は寄らなかったのでわからないが、ポンペイ遺跡だとスカーヴィ入場口のトンネル横に最近できた売り場はまだ健在なのだろうか。こうなると、国立ナポリ博物館で入手するよう算段したほうが安全な気がする。

【補論】今年の夏の新ならず旧発見。ポンペイの円形闘技場入場口にはこれも3,4年前に作られた「石膏像死体の展示場」二棟がある。ローマのサン・ピエトロ広場を囲む円柱廊よろしく、左右に湾曲して1つずつあるが、これも片方だけと記憶しているが中に入れたのは最初だけで(私は入った)、今は外から汚く曇ったガラス越しにしか覗けなくなっている(光って見えづらいので、なんのための展示やら。入り口に向かって左側のもう一棟は物置となっている)。そして今年同行者と落ち合う待ち時間のとき所在なく、左側に貼られていた小さな掲示を見るともなくみていたら、なにやらここに荷物置き場があると書いてあるではないか。それ読んで、でも例のごとくもはや掲示倒れだろうなと思ったのだが、そうこうするうちに、乳母車の赤ちゃん連れの夫婦が遺跡から出てきてあれこれ騒ぎだし、クストーデ(番人)風の男性が鍵を持ってやってきて扉を開け、夫婦だけ二人が中に入って(番人じゃナシに!)ショルダーバッグを持ち出したので、クストーデ部屋に頼めば制度そのものはまだ生きていることを確認できた。しかしそれが見学者からの申し出による措置となっているのは、預けている人がごくごく限定されている様子から明白で、さて、これさえいつまで続くのだろうか。というより続いてほしいものだと思う。

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HerculaneuminPictures、そしてPompeiiinPictures:遅報(13)

 今年の夏の現地調査は、エルコラーノでは我々は空振りだった。現地考古管理事務所の調査許可が我々の滞在期間には間に合わず、我らは一般観光客として入構するしかなかったのだ。それでも沈船博物館が開いていたし、折から開催されていた展示会に遭遇することができて、新収穫なしというわけでもなかった:私の最近の最大の注目場所「200年祭の家」Casa del Bicentenarioはまだ修復中だったし。

 ところで、10/3段階での情報によるとようやくエルコラーノの調査許可が出たそうで、今回はIV.1-2のCasa dell’ Atrio a mosaicoに入るようだ。ここはこのところずっと修復中で閉鎖されていた。それで今般検索かけたら、なんと標記のHPが新たに立ち上がっていて驚いた(HerculaneuminPictures:2018年5月かららしい)。これは表題からしてこれまでよく利用してきたPompeiiinPicturesの姉妹編で、同じ人たちJackie and Bob Dunnさん(ご夫婦かな)が作成されている。それもあって、元のポンペイのほうも覗いてみたのだが、なんと私にはよく理解できない理由なのだが、とにかくEUからイギリスが離脱したら、このHP、来年の1月1日をもってイギリス以外の者はみることできなくなるとの告知がされていて、かなりショック。これまでたいへん重宝してきただけに、これが本当なら大変残念なことです。

【後日談】偶然見つけた以下の2019/11/1のブログで最悪の情況は避けられたことが判明した:http://bloggingpompeii.blogspot.com/

【余談】ところであれこれ検索していたら、なななんと、我らがこっち方面でお世話になっている現地通訳女史がいつの間にかHPを、そして私が201△年に調査で入ったときのことを若干詳しくアップしておられました(そこの紹介はまだ時効でないので、パスしておきます。というのは、調査そのものは問題ないのですが、その中で、当方が申請もしていなかったのに、通訳女史が「みたい!」とお願いしたら、案内してくれていたベテランのクストーデ(鍵の管理人)さんいとも簡単にかぎ取って入れてくれたのが、なんと驚きの「パピルス荘」だったのです。これがイタリア! 頼むのが男だとこうはいかない、と一応やっかんでおこう。彼は、そこで発掘品の整理していたボローニャ大学のメンバーにも紹介してくれました(女性ばっか10名あまり。東洋人もいらっしゃった。中国系かな;遺跡の中では別行動の3人の男性メンバーにも遭遇して、握手)。
 いつも許可を取るのには苦労しているのですが(といっても、現地遺跡管理事務所との交渉で悪戦苦闘しているのは通訳女史なんですが:本当に感謝しないといけませんよね)、お役人のお偉いさんではなくて、現場の人たちの中にはこんな親切な人もいるのです(怖いよね)。逆にいうとこれまでの体験から、両者の間には深い断絶がある感じです。

 こっちは、公表していいかな。https://www.piazzaitalia.info/

 エルコラーノの許可とれなかったので、彼女が気配りして代わりにと紹介してくれたのが、ナポリ市内のアウグストゥスの水道渠遺跡。これの記事その気になったら書くかもです。それには東大のソンマ発掘地見学にも触れないといけないかな。

【追記】2020/3/22に試しに「PompeiiinPictures」に行ってみたら、健在でした。というより2月からエルコラーノやスタビアなどポンペイ周辺の遺跡すべてを含めて再出発していた(https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/index.htm)。これで一安心。とりわけポンペイの新発掘「V」が詳細に公開されていて壮観。まだ一般公開されていないので、ありがたいことだ。それにしてもこの公表状況は、公式HP以上のすばらしさで、どうすればこんなことできるにか、不思議でしょうがない。よほどの信頼関係あるのだろう。

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