投稿者: k.toyota

ペルペトゥア・メモ:(4)彼女の夫問題

 2001年の学会発表内容(レジメを本ブログに既掲載)、まだきちんと論文にしていないなあ。史料的には絶対にそれ以外読めないのでそうなるのだが、その事実があまりに刺激が強すぎて、時期尚早という自制心が働いていたのかもしれない(そんな配慮なんか全然しないくせに、とは陰の声(^^))。

 で、この発表での自分的に一番の目玉は、ペルペトゥアの夫(というか、今風に表現するとパートナー)は、サティルスであると断定した点にあるのだけれど、発表時においても今に至っても、それに注目する我が国での研究者は例の如く皆無であった。これが、そもそも研究者層の薄い我が国の学界の常態なので、別に驚きもしないが、もう先のない身であるので、ここに事後談を含めて書き残しておこう。

 実は、この発表の1年以上後になって文献検索をしていて以下を見つけた。 Carolyn Osiek, Perpetua’s Husband, in:Journal of Early Christian Studies, 10-2, 2002, pp.287-290.

 そこにはなんとなんと、私と同じ結論が書かれていたのであ〜る。ただこの件については、個人的には、理系論文よろしくどっちが早いとかの先陣争いということよりも、私見が妥当だったという安堵感のほうがむしろ強かった(実際正直にいえば、口頭とはいえ当方の発表の方が先だったという満足感はある。私の研究史上、全世界レベルでの新説発見はこれが初めてかと:もちろん極東の無名の私は、インターナショナルな知名度でOsiek女史に圧倒的に負けているが)。私が何をいってもそれは我が国では「珍説」にすぎないのだが、欧米研究者によってそれの「新説」の可能性が生まれたのだから、これを慶賀しないでどうする。

 その後今にいたるまで、この件に関して私の確信はいささかも揺らいでいない。今回その後の様子をググったり、手元文獻でちょっと調べてみた。まず、Osiek女史がカトリックの聖心侍女会(英語表記でRSCJ:我が国では聖心女子大学を経営している女子修道会)の修道女らしいことを知って文字通り仰天した(https://rscj.org/carolyn-osiek-rscj-provincial-archivist)。どうやら新約聖書学がご本業のようで、すでに10冊以上の単共著を持っているシスターだったのである。

 次いで、ペルペトゥアの夫問題にはシスターの文献がなぜか2012年以降ようやく引用されるようになってはいるが、やはり全幅の賛意からではないように感じるのは、私のひが目であろうか(たとえば、Thomans J.Heffernan, The Passion of Perpetua and Felicity, Oxford UP, 2012, p.273, 328;Ed.by Jan N.Bremmer & Marco Formisano, Perpetua’s Passions :Multidisciplinary Approaches to the Passio Perpetuae et Felicitates, Oxford UP, 2012, p.59, n.12;Rex D.Butler, The New Prophecy, and ‘New Visions’ : Evidence of Montanism in the Passion of Perpetua and Felicitas, BorderStone Press, 2014, p.91, n.18;Eliezer Gonzalez, The Fate of the Dead in Early Third Century North African Christianity:The Passion of Perpetua and Felicitas and Tertullian, Tübingen, 2014, p.5, n.2, in:Studien und Texte zu Antike und Christendom, 83;Petr Kitzler, From Passio Perpetuae to Acta Perpetuae, de Gruyter, in:Arbeiten zur Kirchengeschichte, vol.127, 2015, S.41, Anm.178)。とはいえ、まあこの調子で、刺激的すぎる事実が徐々に受け入れられていけばいいと思う。

 このあたり俗世にまみれ、世事に通じているはずの一般研究者のほうがより身近なので、体験に基づいて積極的に発言すればいいのにと思うわけだが、そんなこと書くと自らの旧悪を暴露・追求されかねないので避けているとしか思えない立ち振る舞いなのであ〜る(実際、常に珍説を唱えている私など、周囲から「お下劣」「好き者」と誤解されまくっている。まあ興味の赴くところにづけづけ踏み込む性格なので否定はしないが、この機会に声を大にしていっておこう。ただひたすら史料の忠実な読み取りをしているだけなのだ、と。誹謗中傷は史料解釈への批判であってほしいと思う。研究者など学問的真理追求を気取り清廉潔白づらしていても一皮むけば、史料の身勝手なちょい読みで、手早く業績を稼ごうというそのレヴェル(この点は私も同類ではあるが)。現実の追究など実は少しもできない、する気もない輩の集団なのであ〜る。その証拠に、私のような俗物はともかく、清浄な生活を送ってこられたシスターの方がむしろ本質に迫ることができている、というこの事実は無視できないはず。これをみてどう判断するのか、よ〜く考えてみてほしいものだ。

 いずれにせよ、欧米の研究者の叙述に依拠して立論するよりも、原典を読み込むことが、結局事態打開の早道なのだということを再認識した次第。

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ペルペトゥア・メモ:(3)書評補遺

 『ペルペトゥアとフェリキタスの殉教伝』関連の、 ジョイス・E・ソールズベリ『ペルペトゥアの殉教:ローマ帝国に生きた若き女性の死とその記憶』後藤篤子監修・田畑賀世子訳 (白水社、2018年)の書評を某学会誌から求められて、8000字の原稿を提出し、査読を受けた結果700字の追加を認められて完成原稿を提出した。そのプロセスで字数制限で削除したり(この耄碌老人は、なぜか上限を12000字と思い込んでいたのだっ(^^ゞ)、削除部分をここに転載し、またその後気付いたことがあったので、記憶の新しいうちにそれをメモしておこうと思う。実は、この殉教伝、謎が満載なのである。

(1)先行研究:以下が冒頭での全面削除箇所

 最初に私事に触れることをお許し戴きたい。私が本書の存在を知り入手したのは出版直後のことで、翌年前期の演習で十四名のゼミ生たちとともに読み始めた。当時の授業記録を確かめると、演習をするにはゼミ生が多すぎたので、テキストとゼミを二つに分け週二回でそれぞれ読み進めている。註を含めて二〇〇頁強だったので半期で読了し、後期は関連著作のPeter Dronke, Women Writers of the Middle Age, Cambridge UP, 1984と、Cecil M.Robeck,Jr, Prophecy in Carthage : Perpetua, Tertullian, Cyprian, The Pilgrim Press, Clevel an Ohio,1992の関連箇所へと向かった。そして、一九九九年度の院ゼミでラテン語原典の精読に入った。その成果は幾つかの口頭発表のあと論考にまとめられた(1)

  註(1)「ペルペトゥア殉教者伝をめぐって」上智史学会第四八回大会(上智大学)、一九九八年十一月二二日;「『ペルペトゥア殉教者行伝』をめぐる一考察:「兄弟・姉妹」の意味するもの」日本西洋史学会第五十一回大会(東京都立大学)、二〇〇一年五月一三日;「『ペルペトゥア殉教者行伝』をめぐる一考察:「幻視」を中心に」キリスト教史学会第52回大会(梅花女子大学)、二〇〇一年九月二九日;「殉教者と北アフリカ:ペルペトゥアはキリスト教徒といえるのか:及び、西洋古代史でのパソコン利用の一試行作業」古代史の会月例会(東京大学文学部)、二〇〇一年一二月二一日. 

 思い起こせば足かけ四年の作業で、評者にとってことのほか思い入れ深く,同時にたいへん刺激的な体験だったことを告白しておこう。翻訳に付き合い共に考えてくれたゼミ学生・院生には感謝している。かくして、本書や『ペルペトゥアとフェリキタスの殉教者行伝』(以下、『殉教伝』と略称)に対する評者の見解は、すでに公にしているわけで、本書評の論がおもむくところ、必要に応じて再言ないし修正することになる。

 本『殉教伝』に触れた邦語文献は、長らくカトリック系の聖人伝を除き皆無といっていい状況だった(2)。それが様相を転じ出したのは、本書も基本史料としているH.Musurillo編訳の邦訳の出現で(以下、M訳 :但し著者が不可解な修正を時折加えたためか、邦訳者は著者訳に依拠。二七九頁)、以降多少とも関心ある識者の目に触れるようになった(3)

  註(2)「三月七日(2) 聖女ペルペチユア殉教、聖女フエリシテ殉教、他四名の聖殉教者」シルベン・ブスケ『聖人物語 三月之巻』一九一二(全十二巻、聖若瑟教育院、一九一〇~一九二六)年 ;「三月六日 フェリシタス、ペルペツア両聖女殉教者(Ss.Felicitas et Perpetua MM.)」光明社編『カトリック聖人傳』上巻、光明社、第三版、一九六三(初版一九三八)年、二一五~八頁 ; アダルベール・アマン(波木居斉二訳)「5アフリカの若き母、P」『初代キリスト教徒の日常生活』山本書店、一九七八(原著一九七一)年、二八八~二九八頁 ; ヤコブス・デ・ウォラギネ(前田敬作・山中知子訳)「167 聖サトゥルニヌス」『黄金伝説』4,人文書院、一九八七年、三三九〜三四三頁(原著は13世紀半ばの著作);M-L・フォン=フランツ(野田倬訳)「Pの殉教:心理学的解釈の試み」『ユング・コレクション4 アイオーン』人文書院、一九九〇(原著一九五一)年。

  註(3)「聖なるPとフェリキタスの殉教」土岐正策・土岐健治訳『殉教者行伝』(『キリスト教教父著作集』二二)教文館、一九九〇年[英訳、邦訳に問題なきにしもあらず] ; 堤安紀「Pとフェリキタス : 三世紀初頭、北アフリカの殉教者たち」『上武大学商学部紀要』一〇-一、一九九八年、四一~六二頁 : 秋山由加「セプティミウス・セウェルス帝治下のキリスト教徒迫害」『学習院大学人文科学論集』一五、二〇〇六年、二一~四八頁。拙論は、前掲豊田HP「学術論文」(27)〜(30)参照。その動きと無関係だが、志賀亮一訳によるポーリーヌ・シュミット=パンテル「女たちの肉声」:モニック・アレクサンドル「Pあるいは自己意識」G・デュビィ、M・ペロー監修(杉村和子・志賀亮一監訳)『女の歴史Ⅰ 古代二』藤原書店、一九九四(原著一九九〇)年、七七八~七八九頁 ; モーリーン・A・ティリー(指谷朋子訳)「第三九章 Pとフェリシティの受難」エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ編・絹川久子・山口里子日本語版監修『聖典の探索へ フェミニスト聖書注解』日本キリスト教団出版局、二〇〇三(原著一九九四)年、六二一~六四四頁。[なお、西洋女性史叢書の古代史篇の類いの邦訳で、本『殉教伝』の一部が巻頭言的にほんの数行転載されていたが、あまりにひどい訳だったものがあった。その典拠を思い出せない。ご存知寄りの方からの情報を期待している]

(2)『殉教伝』Ⅱの編纂者編集句の箇所: 書評ではⅡ.3にのみ言及したが、そこでの初期原稿と、1とⅢ.1についても素原稿を掲載しておく。

 Ⅱ.1の「若い洗礼志願者が逮捕された。レウォカトゥスと、彼と同じく奴隷のフェリキタス、そしてサトゥルニヌスとセクンドゥルス、そして彼らとともに」Pも逮捕された(一二五頁)、の箇所である。著者は「Pが家の奴隷二人とともに逮捕された」(一六頁)と先述していて、この二人とは「レウォカトゥスと彼の奴隷仲間[女性名詞単数]フェリキタス」(M訳)を指しているのだろうが、なぜ他の二人がそれに含まれないのかは説明しない。また二七頁で「Pと彼女の奴隷フェリキタス」としているが、彼ら二名がPの父のファミリアだったと断定する論拠も示していない。さらに、冒頭の「若い洗礼志願者」に該当するのは最初の四名のみで、すでに子をなして二十二才の既婚婦人Pは含まれていない可能性が高い。有り体にいうなら、少なくとも命名法からして、四名は全員奴隷で、おそらく十代半ば過ぎだったのではないか 。

 そして、Ⅱ・3の最後の一文である。ラテン語原文を、M訳は版本的根拠がないにもかかわらずカッコで括り、著者(=邦訳者)もそれに準拠し「(ここからの彼女の試練の物語はすべて彼女自身が、彼女の考えに従い、彼女自身が選んだ順序で書き記した通りである)」(一二五頁)と訳す。土岐訳は当然のことカッコをはずし「Pその人が、自分の受けた殉教の顛末を、直接自分の手で書いたかのように、すべて順序立てて物語り、自分の意志で(我々のために)残したのである」として、拙訳「彼女は彼女の殉教のすべてを・・・自ら物語った。いわば彼女の手で、そして彼女の意志で書き付けて残したのだった」に近い(以上、下線は評者)。M訳=邦訳者と土岐=豊田の違いは、P自身が書いたのか、彼女は物語っただけで第三者が書いたのか、にある。サトゥルスの場合、彼は「自身の以下の幻を述べた。それを彼自身が記した」としている(Ⅺ・1。 但しXIV・1に誤解を招きやすい文言あり)。よってこの件での軍配は、もちろん編纂者の意図的改竄の可能性も含めて、わが方にあると確信しているが、多くの先行研究者は前者を採用してきた。彼らは、後述のYouTube(「The Perpetua Documentary」)で市井の一視聴者が「She did not write it herself」と喝破しているのを、どう受け取るのだろうか。この一事をもってしても殉教伝全体の構造把握に決定的に重要な文言に、著者を含め研究者が意外に無頓着なのは驚かされる。

 もうひとつ指摘するなら、M訳と邦訳者が、Ⅲ・1「essemus」と5「baptizati sumus」での一人称複数形を、後者だけ単数で訳しているのも疑問だ。また「私たち」とは具体的に誰を指しているのか、これも問題である。Pの父は上流市民の権限を最大限に利用して、娘が収監されるまでに暫時自宅で説得する時間をえた(皇帝祝日挙行の野獣刑用の死刑囚確保は逃亡奴隷で十分だった官憲にとっても、それが好都合だったはず)。奴隷たちはこの特権を享受できるわけもなく、直ちに収監されてしまっていたはずなので、したがって史料を忠実に読む限り、ここでの「私たち」とはPとその幼子だった。洗礼は信者なら誰でも執行できたので、父の不在(Ⅲ・4)を狙って行うことは十分可能だった。おそらく奴隷たちも獄中で陣中見舞いの世話役から受洗したのだろう。ならば先取りして触れておこう。Ⅵ・1-4の裁判の場では彼らがキリスト教徒であることが前提となっていて、これはそもそもの逮捕の根拠となっていた皇帝セウェルスの改宗禁止令(すなわち洗礼志願者とその幇助者が逮捕要件)と微妙に罪状がずれていて違和感がある。殉教伝編纂者の場面短縮によるのか、総督代理の恣意的な審理指揮だったのか。そもそも改宗禁止令など存在しなかったのか。いずれにせよ、著者はそれにまったく関心を示していない。

(3)その後の研究の進展について:以下も全面削除箇所。

 本書出版の翌年から二〇〇〇年にかけて、著名なキリスト教史研究誌に書評が掲載された(4)。興味ある向きは併読されたい。Amazon.comでの一般読者の反応を読むと、おおむね好意的であるが、殉教者というキリスト教徒にとって崇敬対象の人物を、著者が歴史事象の中で解明しようとしていることへの素朴な反発・戸惑いも表明されていて、なるほどと思わされもした。研究対象として扱うことが信仰者をして「何も分かっていない」「headではなくheartでとらえるべき」と苛立たせるのである(この点では、評者は言うまでもなく著者の側であるが)。また本書の表題から『殉教伝』そのものの翻訳の一括掲載が当然のこと期待されていたのに、ばらばらの断片で掲載されていることへの不満も示されていた。なお、本書後も注目すべき学術研究書が上梓されているし(註5)、その上最近、世界に冠たる大学出版会からコミックを加味したものさえ出版されたことに言及しておこう(註6)

  註(4)管見の限りでも、Amy G.Oden, Church History, 67-3, 1998 ; S.Benko, The Catholic Historical Review, 84-4, 1998 ; Shira L.Lander,  Journal of Women’s History, 11-3, 1999 ; Judith E.Grubbs, The American Historical Review, 104-2, 1999 ; M.Heintz, Journal of Early Christian Studies, 7-2, 1999 ; S.Hervé, L’Antiquité Classique, 69, 2000 ; M.Whitby, Classics Ireland, 7, 2000.

  註(5): そのうち主要四冊(二〇一二〜一四年)が以下で書評に取り上げられている。Journal of Early Christian Studies, 24-3, 2016, pp.458-460 ; 25-2, 2017, pp.307-319. とりわけ,今後の研究において版本レベルの検討から出発して逐語的・テーマ的に詳細にいるThomas J. Heffernan, 2012は、見落とせない。

  註(6) Jennifer A.Rea and Liz Clarke,  Perpetua’s Journey : Faith, Gender, & Power in the Roman Empire,Graphic History Series, Oxford UP, 2017. DVDもある(Catholic Heroes of the Faith:The Story of Saint Perpetua, 2009)。 また、関係アニメ・動画も枚挙にいとまない。興味ある向きはYouTubeで、たとえば以下のキーワードを入れると、簡単に鑑賞することができる。 The Story of Saint Perpetua and Saint Felicitas(スペイン語版やインドのドラヴィタ族のマラヤーラム語版もある);Martyrdom of Perpetua; The Perpetua Documentary;St Perpetua and her vision of her little brother in Purgatory !

(4)邦訳について:ここでも初期原稿を転載しておこう。

 「訳者あとがき」によると、原書の誤記は断りなしに修正されている由だが(二七八〜九頁)、英語表記「Felicity」については一言あってよかったのではないかと思う。これは書評でBenkoが「Felicitas」とすべきだと指摘していた点である(初出十一頁:但し本訳書では修正済み)。評者が気付いた範囲でも、なぜか一次文献にポリュビオスが抜けているし、六九頁でカルタゴのそれが帝国第二の闘技場となっているのも、通例はカプアがそれに当てられているので異論があるかもしれない。ちなみに、最大はローマのコロッセオ、次いでスパルタクス叛乱で著名なカプア[現Santa Maria Capua Vetere]、スペインのItalicaと続き、その後は僅差とはいえフランスのCaesarodunum[Tours]、Augustodunum[Autun]、そしてカルタゴとなる計算だからだ。

 邦訳はよくこなれていて読みやすい。そのために邦訳者は多くの時間を費やしたはずである。しかし重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、ケアレス・ミスがないわけではない。たとえば、編纂者の手になる冒頭部分に限っても、Pを考える上でキー・ワードとなりえる「matrona」が本文中では「貴婦人」とされている割には(たとえば一〇、一五頁)、[図1・1]では通常訳の「既婚婦人」となっている(二一五頁も)。ここは予断を避けるためにニュートラルな後者で統一すべきではなかったか。また、註(2)の位置が一文ずれたりもしている(一六頁)。六八頁でcolumnsを「円柱」としているが、遺跡写真を見れば一目瞭然で「(土留めの)支柱」とすべきだろう、云々。文献一覧で(そして註記でも)、邦訳を並記する労多き作業をされていて有難いが、管見の限り少なくとも一〇以上見逃しがある。専門家にはいずれも周知とはいえ(たとえば、von Franz, Prudentius, Dumézilなど)、一般読者のために是非再版の機会に付加してほしい。ここで見過ごしやすいものを挙げるなら、第二章註 (17)のオットー・キーファー(大場正史譯『古代・ローマ風俗誌』桃源社、一九六四年、三二頁[但し全訳ではない]; 初版Otto Kiefer, Kurturgeschichte Roms unter besonders Berücksichitung der römischen Sitten, Berlin, 1933 ; 英訳初版 Sexual Life in Ancient Rome,  London, 1934)にしろ、彼が引用しているウェレユス・パテルクルス(西田卓生・高橋宏幸訳『ローマ世界の歴史』京都大学学術出版会、二〇一二年、三六頁)など。また、第三章註(19)以降数カ所引用のテルトゥリアヌス『スカプラへ』も目立たないところで邦訳がある(大谷哲訳『歴史と地理:世界史の研究』No.664:235, 二〇一三年、二九〜三三頁)。こういったことを敢えて指摘するのは諸先達の業績に敬意を表したいがためである。

(5)その他の気付き:書評を書いているうちに、ペルペトゥアをめぐる言語状況の複雑さ(と先行研究者の杜撰さ)に気付くことができた。これは私的にはアウグスティヌスのそれと連動してのことなのであるが、それで多少修正付加することができたのはありがたかった(著者ソールズベリはまったく気付きもしていないようだが)。

 また、たとえば『殉教伝』Ⅲ〜Xでの記述が、彼女の獄中日記が元になっているかどうかという論議はなかなか決着しないようである。私見では、彼女を明らかに預言者として位置づけようと種々工夫を凝らして読者を意図的に(誤読へと)誘導している編纂者はいうまでもなく、獄中でおそらく「キリスト再臨直前の最後の預言者」との思いで彼女の言動を逐一聞き漏らすことなく記録しようとしたはずの筆(速)記者が存在したはずなのであるが、そのような視点で立論している研究者は皆無である。管見の限りで、たしかに一応検討している論文があるものの(Jan N.Bremmer, Perpetua and Her Daiary : Authenticity, Family and Visions, in : Hrsg. von Walter Ameling,  Märtyrer und Märtzrerakten, Stuttgart, 2002, pp.77-120;Vincent Hunink, Did Perpetua Write her Prison Account ?, Listy filologické, 133, No.1/2, 2010, pp.147-155)、それでも私見からすると核心に迫っているとは言いがたい現実がある。

 また、あとから気付いたことだが、著者は北アフリカの邸宅の床を飾っていた舗床モザイクに血なまぐさい図像が多く、それが北アフリカ的風土の特徴でペルペトゥアにも影響を与えていた、と強調している(九二頁)。まあそう言われてみるとその種の画材がたしかに多くあったなと思い出したりして、なんとなく納得させられてきたのだが、しかしまんまと著者の罠に嵌められていることに気付いたのは、本ブログに掲載するため「野獣刑 ad Bestias」や「野獣狩り Venatio」のモザイクを収集し出してからだった。すなわちバルドー博物館などの所蔵品を総体として見た場合、血なまぐさいモザイクはあることはあるが、著者のようにことさら声高に言って強調するほどには多くないのである・・・。そしてまた、帝国東部や北部においてもこの種の「残酷なモザイク」は存在していて、それについて著者はもちろん知らぬ振りを決め込んでいるわけで、このあたりの印象操作には気をつけないと、とは自戒を込めての反省点。たしかに野獣刑はかなり刺激的な描写となってはいるが、それは再発防止を含めての犯罪者の処刑方法なので、見せしめという別要素が入ってくるわけで、猛獣の狩りなどと同列には論じ得ないように思えるのだが、どうだろう。

野獣刑:リビアのジャマヒリーヤ博物館所蔵
Sousse出土、The J. Paul Getty Museum所蔵
Carthage出土、Tunisia:上記2点、残酷かなあ。噛みつかれているロバの表情がなんだか他人事のようで滑稽
紀元後6世紀イスタンブル大宮殿博物館所蔵:これは残酷ではないわけですね、ソールズベリさん
同上
Römerhalle、Bad Kreuznach,ドイツ
野獣狩りでの思わぬアクシデント? 闘獣士が熊に襲われて:Römische Villa Nennig、ドイツ

【追記】2019/3発行の『西洋古典学研究』67に、本書の監修者の後藤篤子氏が,シンポジウム「古代ギリシア・ローマ世界におけるgender equality:理念と現実」の中でのご発表「古代ローマ社会における女性たちの現実」(pp.95-100)を寄稿されているが、本書やペルペトゥアにまったく触れられていないことを付記しておく。ま、正直いって残念ながらこのような西洋古典学的「上から目線」で論じる限り、いつまでたっても「現実」への接近は果たせないだろう。

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ペルペトゥア・メモ:(2)参考図版

(1) 古代ローマの拘置所・監獄のイメージ

都市広場forum地下通路の参考写真(Pompei, il criptoportico di Villa Diomede):
拘置所代用の場合、明かり採りの窓(兼、地上との荷物の搬出入口)を塞ぐと暗闇となる
Napoli市内のローマ時代の地下構造
野獣刑直前に収監されたはずの円形闘技場地下牢跡?

(2) 202年打刻(ローマ造幣所)の副帝ゲタ(13歳)の貨幣

(3) 古代の拳闘士(ボクサー)と拳闘士競技(ボクシング)

クイリナリスの拳闘士,ローマ国立博物館
2018年に、拳闘士が手にはめたグローブがイギリスのウィンドランダで出土が公表された:
https://www.history.com/news/only-known-boxing-gloves-from-roman-empire-discovered
Rheinisches Landesmuseum、トリーア、ドイツ
Villelaure出土、フランス、ca. 175 AD、Getty博物館所蔵:右の人物は頭から出血。しかしなかなかりりしいたたずまいだ
3世紀Thuburbo Majus出土、バルドー博物館所蔵、チュニジア:左の人物は頭から出血。こっちはいささかコミカルな印象

(4) 野獣刑 ad Bestias

Sollertiana Domus出土、El Djem博物館所蔵、チュニジア:死刑囚の背中を支えているのは闘獣士か。死刑囚は容貌から南方のガラマンテス人と想定されている。となると、202年後半以降の作?
Villa di Dar Buc Amméra、Zliten出土、ジャマヒリーヤ博物館所蔵、リビア:猛獣相手なので、こんな運搬具も考案されていたらしい
Villa Silin出土、In situ、リビア:ペルペトゥアとフェリキタスの闘牛の見どころは、牛の角に引っかけられて死刑囚が宙を舞う場面だったのだろう。だから衣服や網が必要だった。かけ声をかけて狂喜する観客の声が聞こえてくるようだ。
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墓にSol神?:Ostia謎めぐり(2)

 帝都ローマの外港オスティアには、いまだ解き明かされていない謎が幾つも残っている。 

 この港町には東の城壁門外に墓地があって、紀元前からキリスト教時代までの遺跡が残っている。今回紹介するのは、後1世紀に創建され、その後増改築された「Tomba degli Archetti(弓の墓室)」(Heinzelmann M. – Martin A. – Coletti C. , Die Nekropolen von Ostia, München, 2000 掲載の図版だとB6)である。ここの北側外壁の装飾に、私にとってたいへん興味深い図柄がある。どうやら太陽 Sol(神)なのである。かなり遊び心が加味されているようでおもしろいので、いつか多少踏み込んで紹介したいテーマのひとつである。

 この墓室は紀元後1世紀前半の創建になるが、おそらく二世紀前半(紺色)に改修、三世紀初頭(赤色)に増築されたようで、くだんの壁部分は、赤と黄色のレンガ、それに黒色の軽石がモザイク状に組み合わされている。本来5つのアーチ内に描かれていたが、うち現在4つが残存していて、図案は2種類あったようだ。

 それにしても、なぜここに不敗太陽神Sol Invictusにつながるようなデザインが残されたのであろうか。

    この上 ↑
東側からの画像
北(正面)からの画像
左端:一番保存がいいもの
放射光だらけ上記との違いは、円・楕円模様にある
これは黒色の軽石なんかが剥落しただけかも
現在の右端:もともとは、この右にもう一つあった

 この墓室からは他にも興味深い遺物があって、ひとつはすでに失われてしまったらしいが、猪狩り(この墓室名はここから来ているらしい)と船の部品類を描いた多彩色のモザイク床である。もうひとつは、セウェルス朝時代に増築された南側の左の部屋のトラヴァーチンで囲われた通路上のまぐさ石上に「H(oc)・M(onumentum)・H(eredes)・N(on)[S(equetur)]」、すなわち「本建造物は相続人たちに[帰属]しない」(相続人といえども売買することを禁じる)という定形銘文が穿たれていることだ。

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ウェブでの遺跡写真:Ostia謎めぐり(1)

 別件でググっていたらこんな写真集に行き当たりました。

http://iviaggidiraffaella.blogspot.com/2016/01/gli-scavi-di-ostia-antica-terza-parte.html

https://twitter.com/Ostia_Antica  
 このツイートは2014/10/17より開始され、2017/9/18段階で途切れている。

http://www.flickriver.com/groups/ostia_antica/pool/interesting/
 ここの高精密な写真はとてもいい。昔、といっても7年前だが、登録数は1772枚だったのが、現在はなぜか半減してしまっている。

https://twitter.com/parcostiantica  
 これは、2016/11/25あたりから開始され、現在まで継続されている。署名は parco_archeo_ostia@parcostiantica。書き手はどうやら現所長のMariarosaria Barbera女史のようだ。  
 それによると、遅報ですが、16年間休館だったフィウミチーノ船舶博物館が、20年初めには公開されるとの告知が。  

 また、関連で「オスティア落書きプロジェクト」と銘打って、クラウドファンドが昨年行われて、目標額22万円のところ、18人から8万円強の寄付があった由。Ostiaってこの程度の認知度なんでしょうかねえ。ちょっとがっかり。
https://www.facebook.com/donate/441050056644467/

 そこで目にとまった以下の写真は、Trajanus時代打刻(106-111年頃)のセステルティウス貨の裏面の Portus港。これは港の六角形に忠実のあまり、幾何学的にすぎて美しくないが。

 もう一つのポルトゥス港の著名コインは、ネロ帝代のもので、これは我らの『古代ローマの港町:オスティア・アンティカ研究の最前線』勉誠出版、2017年、の背表紙と裏表紙カバーで目立たないようこぢんまりと使わせてもらった。

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ケルンで2000年前のドイツ最古の図書館出土:遅報(9)

 ケルンの中心街でプロテスタント教会の集会所建設予定地から、2017年に壁の遺跡が出てきたが、それがドイツ最古の図書館らしいことが判明した。内壁に80×50㎝のニッチが並んでいて、最初はそこに彫像が飾られていたと想定されていたが、同様な構造がエフェソスの「ケルソスの図書館」にも見られたことから、そう同定された。そこに2万の巻物が所蔵されていた由。ちなみにこの時期の書物は冊子本ではなく巻物だった。

https://www.history.com/news/ancient-roman-library-germany

https://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/roman-library-0010485

https://gigazine.net/news/20180802-spectacular-ancient-library-discovered/

発掘現場
ニッチの状況
エフェソスのケルソス図書館復元図
古代図書館想像図
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アウグスティヌスも入浴した

 数少ない研究者仲間の新保良明氏から以下の恵送をいただいた。

 「『テルマエ・ロマエ』の主人公が現代日本にタイムスリップするのはなぜか」『地歴最新資料』第23号、2019/5/10、pp.2-6。

 氏の中心論点は表題にあるのだが、それを拝読していて、アウグスティヌスは母モンニカの死亡で悲しみに暮れていたが、気持ちの切り替えを期待して、入浴した(p.5)という件があって、おや、おいおいっ、と。なんと典拠は、私が読書会まで開いて読んだ『告白録』(9.27-32=9.12)だったので、見逃していた事実にがっくり。ここでは宮谷宣史訳(教文館、2012年、p.305)で核心部分のみ引用する。

 入浴するのがわたしにとりいいように思われました。というのは、入浴はパルネウムという名で呼ばれていますが、それはギリシァ人が入浴を「心から悲哀を追い払う」という意味でバラネイオンと言ったことに由来する、と聞いていたからです(11)。visum etiam mihi est, ut irem lavatum, quod audieram inde balneis nomen inditum, quia Graeci balaneion dixerint, quod anxietatem pellat ex animo.  ・・・ わたしは入浴しましたが、入浴する以前と全く変わりませんでした。わたしの心から苦痛は、全く消え去りませんでした。quoniam lavi et talis eram, qualis priusquam lavissem. neque enim exudavit de corde meo maeroris amaritudo.

 宮谷氏はここに以下のような註をつけている。註(11)「ラテン語の浴場を意味するbalaneaは、ギリシャ語のβαλανείονから来たとみなされて、これは、ギリシャ語の、βάλλω投げ出す、とἀνίαν嘆き、を意味する言葉から成り立っているとみなされ、このようなことが一般に言われていたのであろう。このような考えと習慣がヨーロッパに伝わっていたことは、たとえば、中世の代表的な神学者、トマス・アクィナスにも見られるので、興味深い(『神学大全』I・II、38・5参照)。」

 ギリシア語が苦手だったアウグスティヌスでもこれくらいの耳学問はあったということだろう。彼が始終入浴していたかどうか、私には、ここでの叙述ではめったにないことだったような雰囲気が感じられてならない。ということは、おそらくアウグスティヌスにとって「入浴」するとは、気晴らしの遊興設備も整った公衆浴場でのそれだった可能性が強くなる。であれば、オスティア・アンティカには幾つも候補があった。それについてはいつか触れる機会をもちたい。

 ここでは宿舎に付属していたであろう簡易風呂について知るところを簡単に触れておこう。たぶん日常的には冷水で身体を拭うくらいのことをしていたのだろうが、例えば温水を使うとなると、ギリシアのヒップバス式ではなく、いわゆるクレタのクノッソス宮殿で確認されているバスタブ・タイプや、チュニジアのケルクアン遺跡だとあちこちで見ることができる座浴式バスタブであったと思われる。それらはイタリア半島でも見ることができるし、現在でもその型の浴槽はある;前者はイタリアのホテルで今もよく見かけるし[ただし、往々にしてカーテンがないので、その場合、座ってそっとシャワーしないと浴室が水浸しになるのでご注意、というか、以前そういうこと考えない後輩のあと浴室に入ってひどい目にあったことを思い出す。すべるのである]、後者についても、私は南イタリア旅行で、アドリア海沿いのある博物館で見た記憶がある。また、かつてチュニジア旅行したとき宿泊したホテルの浴室がまさしくそれであったので、狂喜して写真も撮ったのだが、さてそれはどこにいってしまったのやら。

クノッソスのテラコッタ製バスタブ:隣室には水洗式トイレもある由
ケルクアンの座浴風呂の一例

 そういったバスタブ式の浴槽自体がオスティアの遺跡に残っているわけではないが(正確には、遺跡管理事務所の倉庫を調査してみないと結論できないけど)、設置されたであろう浴室(ラテン語でlavatrina)は、オスティアのIII.v.1のCasa delle Volte Dipinteの2階[https://www.ostia-antica.org/regio3/5/5-1.htm掲載の平面図のXXIV参照]に確認されているようなものだったのでは、と私は推測している。この建物の上階部分(2階と、今は失われてしまっているが3階)はおそらく宿泊施設だった。たぶん現在でいうモーテルに相当する施設で、というのは当時の移動・運搬手段だった馬やロバやラバの駄獣を収容したであろう厩舎がまさしく北側に隣接しているからだ(Ⅲ.iv.1:Caseggiato Trapezoidale)。また、この浴室の通路を隔てた部屋は台所で[XXVI]、そこには小振りながら水槽も設置されていたので、水をあたためるのには便利がよかったはずだ。というかひょっとしたらこの台所、湯沸のための設備だったのかも知れない。もちろん宿泊客のご主人様のため奴隷が食事をつくることもできたであろうが。なおこの建物は現在立入禁止になっている。写真はそうなる以前に撮影したものなので、悪しからず。

日本式に表現すると「2階」平面図
オスティアの浴室入り口部分(水の流出を防ぐ土手の存在に注目)
部屋の奥を見る:床と壁の接続面に防水のため漆喰が厚く重ねられていることに注目
窓際左隅の排水構造:穴の向こう側に二階トイレが設置されているので[平面図のXXVの窓際]、使用済み汚水は糞尿を流すのに再利用されたわけ

【追記】オスティア遺跡で、上階での浴場の存在を確認することは容易ではない。上階そのものが現在は残存していないからである。次善の策として排水構造、すなわち土管の存在がらみで筆者が見つけえた希有な例を紹介しておこう。III.x.1の「戦車御者の集合住宅」Caseggiato degli Aurighi の二階に奇妙な一角があることを三階に登った時、西方向を見下ろしてみつけることができた。

 上図の下が一階、上が二階で、一階の23が上り階段で、二階から三階への踊り場右に入口のある部屋(一階の28部分の上)の一画が塀で囲まれているが、その中のやや北西寄りの床に、おそらく20cm級の土管穴をみることができる(年によってはそこから長い雑草が生えていたりする)。そこは立ち入り禁止の区域なので、望遠で写真を撮ったものが以下である。いずれにせよ、その土管穴の存在により、その区切られた区画が水を使用する場所だったことは間違いないだろう。

 この件でウェブをググっていたら、以下を見つけた。山之内昶「フロロギア(1);(2)」『大手前大学人文科学部論集』1、2000、pp.71-83;2、2001、pp.105-119;山内彰編『風呂の文化誌 山内昶遺稿』 文化科学高等研究院出版局、2011年。ま、ほとんど日本語で読んでのまとめのようだが。ありがたかったことに、論文は自宅で簡単に降ろせて印刷できたし(1が西洋篇で、2が日本篇:実は著者の姓の表示が異なっているが、たぶん「山内」が正しい)、死後出版された著書はなんと上智の図書館に入っていた。これからみてみるつもりである。

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エジプト人兵士のパピルス書簡解読:遅報(8)

 1899年に、エジプトのファイユーム地方のTebtunisで、Bernard Grenfell とArthur Huntによって発見されていたパピルス文書をアメリカ・ライス大学の院生Grant Adamson君が2011年に解読し、2012年に公表した(Grant Adamson, Letter from Soldier in Pannonia, The Bulletin of the American Society of Papyrologists, Vol. 49 (2012), pp. 79-94)。この論文、自宅でググったらすぐさま入手できた。

 パピルスの書き手はAurelius Polionで、紀元後214年頃に筆無精な家族に宛てて愚痴を書いている。彼はパンノニア・インフェリオル(現在のハンガリー)に派遣されていた第2アディウトリクス軍団Legio II Adiutrix(本部駐屯地は今のブダベスト)所属の兵士と想定されている。Aureliusという名前からすると解放奴隷あがりのような気がするが、さて果たして正規の軍団兵だったのか、それとも補助軍兵士だったのか。カラカラ帝の全自由民へのローマ市民権付与は212年だったので、それ以降だと軍団兵だった可能性があることになり、また、書簡中に「執政官格(総督?)のπα[ρὰ] τοῦ ὑπατεικοῦ 許可をえて」なる文言があるので、その属州が執政官格属州となったのは214年以降だったこともあり、書簡発信年の上限を絞ることができる、とAdamson君は想定しているが、兵士が外出許可を求めるのは軍団司令官のほうのはずで、はたしてそう言えるのだろうか、若干疑問。とまれ、庶民の生活証言の残存史料で貴重である。こういったパピルス史料に正面から立ち向かった研究(たとえ欧米の研究の紹介にせよ)の進展を期待せざるをえない。

Grant Adamson君

興味ある方は以下をご覧下さい。

https://news.rice.edu/2014/03/14/rice-grad-student-deciphers-1800-year-old-letter-from-egyptian-soldier/

https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52200993/

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中世ロンドンの3人用トイレ便座「再」発見:トイレ噺(4)

 私のHPのほうで、かつてヴィンドランダ出土の古代ローマの木製便座について言及したことありましたが、なんと、12世紀ロンドンで使用されていた便座についてのウェブ記事をみつけたので、興味ある人はごらんください。アップは2019年2月付けですが、実はこの便座、1980年代にテムズ川につながり現在は暗渠でかくされている地下河川フリート川のそばで発掘されていたけど、研究の資金難でなんと30年以上も調査されず、放り投げられていたようです。

 しかも、この便座を利用していたと想定される家族名も、1100年半ばに帽子屋だったJohn de Flete(と彼の妻 Cassandra) が所有したアパートの裏にあたることから、彼らに特定された由です。いかにもイギリスらしい研究成果です。

https://www.museumoflondon.org.uk/discover/triple-medieval-toilet-seat-secret-rivers-docklands

 なんでも今年5月から10月までロンドンのドックランズ博物館Museum of London Doclandsで公開されるそうなので、行かれる人はついでに見学するのも一興かと。

http://karapaia.com/archives/52271748.html

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【続報】2017年には、1000年前のヴァイキング時代のデンマーク最古のトイレが発掘された、とMuseum Southeast DenmarkのAnna Beck博士が公表した。トイレと言っても、写真を見る限り掘られた穴の遺構で、ローマ式のような立派なものではないようだ。しかし他の諸証言によるとこの地方の農村部にトイレが出現するのは1800年代のことらしいので、その真偽をめぐってはまだ論争中のようだ。http://mentalfloss.com/article/502111/archaeologists-may-have-unearthed-oldest-toilet-denmark

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一万年後に思いをはせてみる:遅報(7)

 昨日、ウェブ検索していて偶然見つけた記事に興味をもち、今日四谷に行ったときに大学図書館で以下を借りた。

 柳沼重剛『語学者の散歩道』研究社出版、1991年。

 今から30年も前に上梓されたものである。これには2008年に再版された文庫版(今話題の岩波書店)もあるが、原典から削除されたものと付加されたものがあって、両方読み比べたほうがいいらしい。著者は改めて紹介する必要もない古典ギリシア・ラテン文学の碩学。

 借り出してみたら、読まれていないこと歴然の新品同様の様態で、これならアマゾンの中古品としても十分売れそうである。ま、これが私がかつて在職していた大学での西洋古典の偽らざる現状をあらわしているということだろう。

 さっそく帰りの電車の中で繙いて読み出した。語学能力に著しく劣る私には、ただただ敬して拝読するしかない内容で(なにせ、p.2には、留学先のイギリスで教授から「ラテン語やっていてイタリア語をやらんとはなんたることだ:What a shame!」といわれ、二週間の速成で身につけて一冊を読み報告したとか、p.3には、アメリカ進駐軍の中佐と語学交換教授したが、彼は九つめの語学として日本語を覚えたいと希望、それまでに英・独・仏・伊・露・西・希・トルコ語を読み書き話すことができた人で、などという話が平気で出てきて表題通り「語学者」の面目躍如なのだ)、しかし新版で削除された「一万年後の東京大学あるいはポケット・ティッシュについて」が、私の関心の射程にも触れていたせいか特に興味深かった。

 一万年後になって東大があった場所を発掘した考古学者の書いた報告書が「およそ大学などというものではないものを想定する結論を出す。何が想定されていたかが思い出せないのだが、とにかくその推論の一つ一つが、非常にもっともらしいどころか、論理的ですきがない、にもかかわらず出てくる結論は東京大学を知っているわれわれには奇妙なことこのうえなく、しかも何ともおかしいのだ。・・・その時思ったことは覚えている。考古学というのは発掘品があるだけに危ないなということだ。発掘品、つまり証拠があるから強いのであると同時に、発掘品という、そのまま証拠だと信じられがちなものを手にするから危ないのだ。発掘品はたしかに証拠になり得る。しかし一つの発掘品は一つの事実だけの証拠になるのではなく、というよりは、一つの発掘品は、他と関連づけて(つまり、文章ならば前後関係を参照して)読み取って、それではじめて証拠としての力をもつ。だから一つの発掘品は、その読み取りかた次第で、いくつかの事実の証拠として利用できる。考えてみればあたりまえのことだが、われわれはつい忘れがちがだ」(p.260-1)として、身近な例として街頭で無料配布されているサラ金業者なんかのポケット・ティッシュが自宅のメール・ボックスにあって溜まっていたが、風邪気味だったので八つも持っていて交通事故に遭って意識不明になった場合、警察はこの身元不明人をどう断定するだろうか。「私の所持品の中に八つものサラ金業者のポケット・ティッシュがあった、これは事実である。しかしこの事実は、それだけではまだ何の証拠でもないということだ。ここまで思った時、ふだん私が学問だといってやっている仕事の中でも、これと似たようなことを、気がつかずにやっているのではないかと恐ろしくなった。危ないのは考古学だけではないということである」(p.263-4)。

 それで思い出したことがある。史学科全体のゼミ代表者の卒論発表会が毎年年度末に開催されていたが、さていつごろのことだったか、日本現代史で70年安保の大学「紛争」を扱った男子学生がいた。その発表を聞いていて私は異常な違和感にとらわれたのだ。「全然違う、わかっていない、ずれている」と。私と同年齢の東洋史のO教授も同じだったとみえて、期せずして二人で突っ込んで彼をいじめる結果となってしまったのだが、ことほど左様に、その現場に身を置いた人間の感覚・記憶と、それをまったく知らない者の文字だけをたどっての把握の間には、埋めようもない溝が存在することを実感した瞬間だった。こういう体験はおそらく初めてのことだった。たった3、40年前のことなのに、まだ生存者もいるのに、現場感覚は失われているのだ。

 で、思ったことは、オレも歳を食ったものだという感慨と、50年経たないと歴史として扱えないとよく聞かされてきたが、それは隠された史料がその頃にならないと出つくさない、という意味では正しいのだろうが、それにしても体験者の消えた後の歴史叙述とはいったいどれほど事実に切迫したものでありえるのだろうか、そして、それが2000年前の古代ローマとなるとほとんど不可能では、という思いであった。この疑念は柳沼先生の慨嘆に通底していると思う。ま、考えてみると、それを繫ぐのが専門研究者としての歴史学者の役割、のはずなのではあるが。そしてまた、はたして針小棒大のまやかしを我が論考がかいくぐっているであろうか。

【閑話休題】ちなみに私は1968年当時学部3年生で、1969年1月の東大安田講堂攻防戦のときイチョウ並木を切り倒したことで、知る人ぞ知るの惡名を轟かした革共同中核派の拠点校の広大に身を置いていたこともあり、いっぱしの全(文)共闘シンパだった。京大出身のO先生は民青同シンパだったようだが(なにせ奥さんとは歌声喫茶で知り合った、と聞き及んでいたのでそう思ったのだが、あるときそれを言ったら逆鱗に触れたので違うのかも知れない。ま、二人で互いに、この暴力集団が、とか、なに民コロが、とじゃれ合っていたわけだが、おかげであの二人は仲が悪いと学生が噂し、どうやら学生間で代々伝承されるというおまけもついて、学生の理解能力のなさにあきれ果て、また心外でもあったので、こんなところで共闘するとは予想外のことだった。そして、まあ二人とも大学を卒業式もなく卒業したわけで、決してそのトラウマのせいではないのだが(問題が何も解決されていない幕引きとなり、正直卒業式なんかどうでもよかった)、言い合わしたわけでもないのに、二人とも卒業生が主催する謝恩会参加を「謝恩されるいわれはない」と拒否する問題教員でもあった。ま、このあたり、橋口先生が学生のコンパで軍歌が唱われるのを嫌ってコンパに一切出席されなくなったという故事と一脈通じるのではと思う(今日日の学生さんは不思議に思うのだろうが、私の学生時代の1960年代後半には軍歌とかよく歌われていた。未だ色濃く戦後を引きずっていたわけだ。実際まだ兵役体験者が生きていたわけだし。そのへんの感覚が失われ出すと、またぞろ一国主義が地球規模で叢生され出している昨今、ま、人類は懲りない連中としかいいようもない現実がある:そこでの体験継承って大切なことはわかっているが、その成果を考えるとなんとも難儀なことだ)。


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