投稿者: k.toyota

最後の被爆者:いつかニュースで:飛耳長目(12)

 2019/8/17深夜、とんでもない朗読を聞いてしまった。私としたことが、本当におくればせもいいところだが(なんせ、原爆投下2年後の1947/8/9広島市生まれの原爆二世:言いたいこと分かりますよね)。NHK Eテレ特集「少女たちがみつめた長崎」で、知った(再放送は8/21深夜予定)。林京子『やすらかに今はねむり給え』(講談社、1990年)の、「あとがき」にあるらしい。著者は1930-2017年、86歳で死没。

左写真:長崎県長崎高等女学校3年(14才)で学徒動員中、三菱兵器工場で被爆

   「今日、広島・長崎の、最後の被爆者が死にました」。二十一世紀のいつの日か、こういう記事が、新聞の隅に載ることでしょう。見出しが大きくとも、小さくとも、その日が平和であるのを願うのみです。

【追記】林京子がその作品中でなんども引用している「工場日記」2冊は、高女の引率教員3人が書いていて、その一人角田京子の遺族が保管。それが長崎原爆資料館に寄贈されたのは、2017年9月のこと。林京子は彼女の教え子だったので、それ以前にそれを見せてもらっていて作品中に参照引用していたことになり、創作でなかったことが判明。【同様に、文中で引用されていた同学年生だった山口美代子と吉永正子らの手記も、実在していて、テレビでも紹介されていた:参考せよ https://mainichi.jp/articles/20190809/k00/00m/040/334000c】

 生前、福島原発事故に際し、林京子は「日本人は結局なにも学んでいなかったのではないか」といい、彼女の思いを継承しようとしている作家・青来有一が「書いたものを読んでくれるのは、被爆についてすでによく知っている人たちで、でも、本当に読んでほしい若い人たちは、またあの話かと、なかなか読んでくれない」現実があると言っていたのが、実に示唆的だった。

 そう、歴史から誰も学んでくれないのだ、普通。

 8/16深夜には、後半だけだが、映画「ひろしま」を見た。日本が独立を果たした1952年の翌年、当時の日教組が製作したもので、一種の臭さと群像を多用するわざとらしさが漂っていたが、まあ収容施設での被爆者のぼろぼろの姿なんかはリアルなんだろうな、と思いながらみた。許せなかったのは、登場人物がそろいもそろって東京弁だったことだ。きつく響くその違和感はいかんともしがたいんよう。

こんなに顔がきれいなわけもなし。髪も逆立っていた、いや燃えていたはず

【追記2】埋もれてきた戦争孤児たちの戦後史(2017/8/13):https://www.youtube.com/watch?v=L0A1i1ddSlY;https://digital.asahi.com/articles/ASK7Z4CHWK7ZULZU006.html

 そういえば、NHK総合の朝の連続小説「なつぞら」もそれ扱ってましたね。厚生省あたりの統計では12万3千となっているが、それは生き残った数にすぎない気がする。おそらく誰からも見捨てられて餓死した孤児たちはその数倍はいたのでは。石井光太『浮浪児1945:戦争が生んだ子どもたち』新潮文庫、 2017年、を読んでみよう。

【追記3】「74年目の東京大空襲(28) 戦争孤児は何人? 政府のずさんな実態調査」(https://mainichi.jp/articles/20200429/k00/00m/040/088000c);「うちに来る?「駅の子」育てたママの記録 びっしり245人、よみがえる戦争孤児」(https://mainichi.jp/articles/20201206/k00/00m/040/196000c);「74年目の東京大空襲(25) 戦災孤児、生きるために売春婦に 高校生が当時の聞き取りを読み解く」(https://mainichi.jp/articles/20200408/k00/00m/040/260000c)

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ローマ地下鉄C線工事現場からローマ軍兵舎、部隊本部出土:遅報(12)

 2018/3/7発信情報:首都ローマでの地下鉄C線工事は、考古学的視点からすると見逃せない大チャンスである(いわずもがな同時に、遺跡破壊という側面もあわせ持つが)。2年ほど前に、Amba Aradam駅の工事現場の地下15mからトラヤヌスないしハドリアヌス帝時代の兵舎が出てきていた。今回はそれに接続して指揮官用邸宅ないし部隊本部とおぼしき建物が発掘された。真ん中に噴水を備えた中庭があり、周囲を14の部屋が取り巻き、地下暖房の設備を有した浴場も備えた300㎡の構造の由。このあたりは、私が以前ちょっとだけ触れたことのある4世紀初頭のEquites singulares Augustiの兵舎(現サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂)の隣接地区で、大聖堂から南西500mの場所に位置している。そこから逆方向の西北西500mにはミトラス神殿の上に立つSanto Stefano Rotondo教会もあって、その意味でも興味深い。

 やはりローマはとんでもない考古学の宝庫である。研究者としては、これを見逃す手はないはずなのだが・・・。北斎「天我をして十年の命を長らわしめば」といい暫くして更に言いて曰く「天我をして五年の命を保たしめば・・・」と言吃りて死す。誰かやらんかい。

https://www.wantedinrome.com/news/rome-metro-c-works-uncover-second-century-military-home.html; https://www.lostateminor.com/2018/03/12/rome-construction-workers-dig-ancient-military-barracks/ ;https://www.realmofhistory.com/2018/03/07/rome-metro-ancient-roman-domus/ 【動画有り】

これは兵卒用兵舎でしょう

【追記】今日偶然見つけた。それによると兵士の遺骸も出てきたことになっているが、さて。https://karapaia.com/archives/52255237.html

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入魂を忘れた仏師は仏師といえるのか:庶民史への誘い

 早いものでもう4年近く前になるが、我が国で初めて呪詛板の研究書が邦訳された。ジョン・G・ゲイジャー編(志内一興訳)『古代世界の呪詛板と呪縛呪文 』(京都大学学術出版会、2015年)である。その第一章の表題は「競技呪詛板:劇場や競走場で」とあって、要するにとりわけ戦車競技での御者や馬に対する呪詛に触れられている。ファンは賭けの配当金を求めて、魔術に手を染めた。「彼らがクラッシュしますように、彼らが(地面を)引きずられますように、彼らが破滅しますように・・・」といった文言を刻んだ鉛板を呪詛の対象者(馬)のできるだけ近くの壁や木の隙間に、そっと埋め込んでおくわけである。私が注目するのは、ここでは当然のことのように観衆は「賭け」をしていたことになっていることである。

カルタゴの競技場出土呪詛板。ご丁寧に釘が打ち込まれている:Gager,p.19(翻訳p.27)

 ところが、話変わって、世のいわゆる古代ローマ史研究者の皆さんの叙述をみてみると、まったく様子が違うのである。こちらで触れられることが多いのは、競馬ではなくて、剣闘士競技のせいかもしれないが(そんなはずありはしないが、反論を予想して一応書いておく)、見世物に観衆が熱狂していたと言及されていても、その熱狂の根源がなんであったのかについては一言も触れられていない。

 一例を挙げるなら、百年に亘る剣闘士競技研究を俯瞰した梶田知志(以下、敬称略)は、文字史料に加え、考古学、社会・心性史、さらには文化人類学・民俗学の成果を加味すべきこと、視点的には、主催者、剣闘士、観衆の三側面で分析すべきと指摘しつつ(これらの指摘そのものは正しい)、観衆を「目眩く見世物に驚嘆、熱狂する」存在としてのみ記述し、それより先に思考をめぐらせてはいない(「Homo Pugnans」『地中海研究所紀要』7、2009、p.33-4;「剣闘士闘技(munera gladiatoria)研究百年史」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊、2007、p.21-29)。ただこれは彼だけではなく、あたかも古代ローマ史研究者の通弊のようで、比佐篤も概論叙述の中で、観客の「エリートたちも剣闘士の試合を熱心に観戦していた」「剣闘士に魅せられる女性もいた」と指摘するにとどまっている(「テーマ史2 剣闘士とローマ帝国」上田耕造他編著『西洋の歴史を読み解く』晃洋書房、2013、p.33-39)。今、出先なので確認できないが、あとはこれを正面から研究テーマに設定していた本村凌二、佐野光宜あたりの業績をチェックすれば事足りるだろうが、もっともらしく種々の社会構造論的な知見を開陳・駆使して、あれこれ舞台装置の分析に走る研究では、当時生きていた生身の庶民たちがなにゆえ度しがたく熱狂していたのか、熱狂せざるをえなかったのか、という肝心要の核心に少しも切迫することはできないはずで、まあいわば姿形ばかり作って入魂に失敗しているのでは、と言いたくもなる。ただ、これは欧米の研究者の体たらくをそのまま邦訳して輸入しているということでもあるのだが。

 しかし、ウィキペディア(但し英文:邦語は誤訳が多すぎる)のような若干くだけた叙述では、むしろ当然のごとく「there was widespread betting among spectators.[40][41][42] 」「Seats in the Circus were free for the poor, ・・・. The wealthy ・・・ probably also spent much of their times betting on the races」と喝破されているのだが。

 要するに、原因は表面的には簡単な理由、採用している史資料群の違いなのである。呪詛板のような庶民感覚に近い史資料の中には当然のように出てくる文言が、ハイソのエリート層の手になる文言ではいっかな登場しない(事実は、彼らとて賭けにうつつを抜かしていたのであるが:競馬や剣闘士競技と明言されてはいない[ここにすでにある秘密が隠されている、と思うのだ]が、スエトニウスによるアウグストゥスが無類の賭博好きだったとの叙述参照;お、我らがアウレリウス・ウィクトルもそうだった)。だから凡庸に史資料を扱えば、そうなっちゃうわけであるが、書き手の上品ぶった社会的立場とかを思い切りひっぺ返してみると、あられもない素顔がようやく出てくる(はず)、なのである。いうなれば庶民史を掘り起こそうとすれば、「家政婦は見た!」(市原悦子さん、合掌)という少々えげつない視点が求められているのである。大邸宅を通りから溜め息つきつつ仰ぎ見ているだけではだめなのだ。

 ローマ法的に言えば、元老院身分の者は地主として農業経営に従事するよう規定されていて、商業活動などという下賤な生業に携わってはいけなかった、ことになっていた。実際には、子飼いの有能な解放奴隷たち(ご主人様がローマ市民権保有者にして育てあげ、中には騎士身分にまで成り上がれた者もいただろう)を通じて、隠然・公然と儲け話に乗ってやっていたのであり、現代風に言えば、元老院身分の皆様は、腹心の子分たちに資金提供して、体のいいマネー・ロンダリングで洗浄された水揚げをしっかりと横領・着服していたはずなのである。そんな史資料は残っていない、見当たらない、のではなく、残存史資料をそこまで読み破っていない(読み破ろうとしていない)だけのことなのだっ、と私は言いたいのである。すぐにばれるような形で誰が証拠を残すものか。

 しかし、私とて偉そうにあまり大口はたたけない。私自身、五賢帝(この命名は実態に照らして持ち上げすぎなので、変更すべきである)がなぜ養子でつないでいったか、ということの真相(ハドリアヌスはもちろんのこと、ことにトラヤヌスについて)は、ウィキペディアでの一文でようやく悟ったようなことだからである。そういう意味で、庶民史探訪のためには、ウィキペディアといえども、片隅に追いやっていいというわけにはいかないような気がする。その多くを、学究ではなくて庶民が書いているのだから。

【補遺】中島みゆきに「地上の星」という歌がある(公式チャンネル:https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE)。かつてのNHK総合「プロジェクトX挑戦者たち」のオープニングの主題歌である。この歌の歌詞はちょっとあざといが、ビデオの映像がとてつもなくいい。2018年の日本西洋史学会大会(広島)の小シンポ「『見えざる人びと』の探し方:庶民史構築のために」での冒頭で、冗談でなくこれを音声と映像両方でガンガン流したかった。・・・が、しなかった (^^ゞ。同番組のエンディング「ヘッドライト・テールライト」もいい(こっちは、ひで&たまさんのカバーがいいす:https://www.youtube.com/watch?v=IavVBp2mTL4)。働きづめの昭和への郷愁とは思いたくない。

【追記】家に帰りついて、もう20年以上昔になる本村氏の『ポンペイ・グラフィティ』中公新書、をざっと読み直したが(特に、第3章「民衆は見世物を熱望する」)、p.97に「最後に、われわれには次のような疑問が残る。なぜローマ人はあれほど剣闘士試合に熱中したのであろうか」と自問し、「その答えの一部は、古代の人々の宗教観に求めることができる」と、他の研究者と同レベルで自答している。「一部」としているからには、別の部分についても触れているかと期待したのだが、未だ発見できないでいる。

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17才で夭逝した研究者、宮内和也君:遅報(11)

 昼ご飯でチャンネル変えていると飛び込んだNHK BS4の、「これが恐竜王国ニッポンだ」の再放送の後半をちょい見。8日にも再放送ありとか。

 何に感動したかって、8才のとき小児ガンを告知された岸和田の宮内和也君が、限られた人生の中で目標を近くで発掘されたモササウルスに絞り、闘病しながら画期的な成果をあげたこと。だが、彼は古生物学会で発表の数ヶ月後の2007年に17才で死亡した。

 画期的な発見とは、彼が中学から高校生になるころ、その骨格模型を木製で自作するなかで、モササウルスが獲物を大量に丸呑みするために大きな水流を起こす顎の仕組みを解明したこと。私が思うに、これは、彼が模型を自作する中でこそ初めて気付くことできたのではなかろうか、と。

中央の少年が宮内君。その左奧にみえるのが自作模型の発展形かと。隣はお父さん:http://geoca.org/2005geo-mosasaurusu.htm

 大人の研究者は自作なんかしないで、出土品の設計図(2次元)を下請け業者に出して、もっともらしい復元像ができてめでたしめでたしと終わりにするところを、いかにも10代の生徒らしく模型作っちゃろ(3次元)、と木製であれこれやっているうちに、顎が開く仕組みに気付くことできたのでしょう(https://kishibura.jp/blog/umeda/2010/12/post-181.html)。

 以下に、モササウルスの想像図(https://www.nhk.or.jp/vr/AR/mosa/3D.html;https://www.gibe-on.info/entry/mosasaurus/)

 そういえば、研究者たちこれまで恐竜化石の骨格ばかりに目が奪われていて、骨格の中に埋っていた夾雑物は捨てていたが、待てよと思ったある研究者がそのまま透視してみたら、そっから内臓とか胎児の化石がみつかった、という、なんともあんぽんたんな話も最近どこかのテレビで見た記憶が。これじゃないけど→:https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4717/;https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/021600057/

 初心に還る、べし。  ところで教育って、なんなんでしょうね。以下、引用です。

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岸和田の「高校生にして研究者」との出逢い(2016年02月13日):https://www.r-ac.jp/campus/osaka/blog/cat/jtakeuchi/2489.html

 「その高校生の名は、宮内和也くん。小学生の頃から化石の研究に目覚め、科学者としての道を歩み始めていました。が、10年間に及ぶ闘病生活と研究生活が同時進行し、2007年に17歳の若さで夭折されました。限られた時間の中、彼は絶滅した大型爬虫類の モササウルス(名前に反して恐竜でない)の研究、特に骨格標本を基にした古生態学的な研究活動に邁進し、彼が駆け抜けて行った人生を懐い、今からの混迷の時代を生き抜く高校生諸君の指針にさせて戴きたく以下、彼の遺志を取り継ぐ気持ちでいます。

 彼の足跡は、きしわだ自然資料館の2階にモササウルスの常設コーナにありました。私も早期に科学研究に目覚めた方ですが、それでも中学に入ってからのことです。それゆえ日本の学校敎育で自分で好きなコトを貫き通すことのシンドさはイヤという程、経験してきました。明らかに学校が求める学力と研究者としての能力との間に乖離があるからです。これは、成績を上げて大学進学を決めてきた偏差値秀才の方には理解が及ばない苦難です。そこを、宮内くんは迷わずわが道を歩みました。私はそれが痛いほど分かります。」

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 このコメントの後半には大いに共感するものがあると同時に、ひょっとして人間っておおざっぱにいって平等なんじゃないかと妄想もしてしまう。平々凡々と生きてしまう、いや生きざるを得ない、そのように生きることを期待されている一応五体満足な、圧倒的に多数を占める我ら凡人は、いわば日常的業務にいそしむ没個性的な働き蟻で、大きな流れの維持に貢献しているとはいえ、歴史にこれといっためざましい爪痕も残すことなく、マスの一員としてあえなく忘却の彼方に消えてゆくのだ。

 ダ・ヴィンチについての医学的新知見(ADHD=注意欠陥多動性障害、読字障害、斜視)なんかをみてると、さながら障害のオンパレードで(https://www.carenet.com/news/general/hdn/48125)、「天才」「才能」とは、非日常的な規格外の「異人」「異能」に通じているような気がし出す。ごく限られた少数派にすぎない彼らにとって、自分の宿命との対決が常人には想像を絶する壁となっていたはずで、それに打ち勝ってこそ名を残し得たのであろう。障害とか劣等感に苛まれるのではなく、それをかけがえのない自分だけの個性として生かす道を探ること、が閉塞状況からの打開策になるはずであろう。

 ちょっと論点がずれるかもしれないが、最近その存在が確認された働かない蟻=フリーライダーの存在に注目していきたい(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48850;https://ja.wikipedia.org/wiki/働きアリの法則)。

【追記】2019/8/27-8の深夜、福山雅治主演の「ガリレオ」(2013年 第11話「聖女の救済」)を見ることなしに聞いていたら、「今から13年前、それまで無駄なものとして捨てていた恐竜の骨格内部の土をそのままCTスキャンしてみたら、3次元画像で心臓そのものが出てきた」と。私の情報源はどうやらこれだったようだ。(^^ゞ

【追記2】「注目の人 古生物学者/佐藤 たまきさん:気が付いたら恐竜が好き。首長竜(くびながりゅう)の研究で猿橋(さるはし)賞を受賞」(https://www.wendy-net.com/nw/person/335.html)

 文系だったのに、子供の頃から好きだった恐竜研究をしたくて、理学部に入るために苦手の数学をなんとか克服し、夢をかなえることができた頑張り屋サン。

 私はいま、ピーター・ラーソン、クリスティン・ドナン著 (池田比佐子訳)『スー:史上最大のティラノサウルス発掘』朝日新聞社、2005年、を読んでるが、ググっていて佐藤さんのこと知りました。https://digital.asahi.com/articles/ASN7Z5DCZN7KUEHF00H.html?iref=com_alist_8_08(2020年8月1日:但し、有料)

 こんな記事も:「高校生が見つけた「恐竜」、名字が学名に:50年の歩み」(https://digital.asahi.com/articles/ASL7N46DZL7NUGTB00G.html?iref=pc_rellink_01)。

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オランダで新約聖書関連の新銘文発見?:cohors II Italica

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/07/inscribed-roman-road-marker-found-in.html#Tl8zOm57yVzwEmEp.97

 昨年の9月に、オランダのLeiden・Katwijk間をつなぐRijnland Route自動車道路工事中にValkenburg近くで125mのローマ道が発掘され、そこから合計470本の木材の柱が出てきたが、そのひとつから「COH II CR」と彫られた銘文が発見され、このたび公表された。

(https://www.dutchnews.nl/news/2018/09/roman-road-artifacts-found-during-digging-for-a-new-motorway/)

 年代は後125年頃の由。発掘者によってこの銘文は「Cohors II Italica Civium Romanorum」(ローマ市民たちのイタリア第2大隊)を示していると考えられているようである。碑文ではVoluntariorumが付く場合もあるので、「志願者のローマ市民たちのイタリア第2大隊」というのが正式名称というべきか。とはいえ部隊名確定のポイントとなる「Italica」が今回の場合ないので、さて。cohorsは一般的に500人強の規模だったようなので、ここでは「大隊」という訳を当てておこう。

 なぜこれが話題になるかというと、キリスト教がらみだからである。新約聖書の「使徒行伝」10.1に「カイサレイアにコルネリオスという名前の男がいた。イタリア隊と呼ばれた部隊の百人隊長である」(1)とあるからに他ならない。この部隊についてはこれまで色々論じられてきたが、一般にこれまで安直にそう想定されてきたローマ正規軍たる軍団legioについての通説(共和政的イタリア半島的視点)とは異なって、帝国東部では、ユリウス・クラウディウス朝期からすでに必ずしもローマ市民権を持つ兵士によって構成されていたわけではなかったと考えられている。ちょっと考えてみれば当然のこと、東部にローマ市民権保有者は少なかったのだし、まあ江戸時代の旗本株を購入して、といった裏技もあっただろうし。すなわち、部隊の主体兵士は属州で徴募され、であれば今の事例も正規軍団の分遣隊と解することも、補助軍auxiliaであった可能性も生じてくるはずだ。要するに、帝国東部では一般軍団兵士はローマ市民権を保有していない属州民、とりわけ社会的上昇に意欲的だった解放奴隷からなっていたのが現実と思われるが(私は西部でも、市民権の売買や養子といった抜け道もあって、いかにもイタリア的に大いに活用されていたと想像している)、また補助軍の場合、おそらく指揮官や上級将校には正規軍団あがりの退役兵(ローマ市民権保有者)が再就職していたかもで、もしそうだったとしたら現代と通底する実情となっていて面白い。逆に、イエスの生涯などを描いた映画では、えてしてローマ正規軍団兵として登場している在ユダヤ・ローマ軍分遣隊の実態は、この補助軍だったと考えるのも一興であろう。ま、だからこそ本来非軍団駐留属州のユダヤの地にコルネリオスがいることができたわけである(cf., ヨセフス『ユダヤ戦記』II.13.7:カイサレイアの地の部隊の大半はシリアから徴募した者たちだった)。

 というのも、ヘロデ大王以後第一次ユダヤ戦争にいたるまでに、カイサレイアのユダヤ駐留ローマ軍部隊は、シリア駐在のローマ軍団の分遣隊で、具体的には一騎兵大隊(ala I Sebastenorum)と5歩兵大隊(少なくともその1つがcohors I Sebastenorum)の総勢三千で構成されていたようだからだ(ヨセフス『ユダヤ戦記』II.3.4)。これについてはやはり新約聖書に平行記事がある。それが「使徒行伝」27.1で、イタリアに出航するとき、パウロとほか何人かの囚人がセバステ部隊の百人隊長でユリウスという名の人物に委ねられた(2)。しかし逆にそれを補助軍からの分遣隊と見ることも可能のはずである。上記2史料でシリアとセバステと異なった地名・名称が登場しているが、整合性をとる立場からすると、シリアで徴募され大隊名がセバステ[このギリシア語はラテン語のAugustaの翻訳とみる説と、サマリアの地名セバステとする説があるようだ;但し、その語源はご同様にアウグストゥスではあるが]だったと考えておこう。いずれにせよ当然その運用指揮権は実質的にユダヤ総督が持っていたはずである。

 もしこの新約聖書での部隊が今回出土銘文のそれと同一だとするなら、大変貴重な発見で、同時に彼らの移動距離が従来よりも相当広範だったことになるが(たいたいが、シリア方面だったが、オーストリア東端のカルヌントゥムから碑文が出土している(3))、しかし、今回出土の銘文は単に「COH II CR」なので、新約聖書の部隊と同一と考えていいのか、現段階ではやはりちょっと首をかしげておいたほうが無難なのかも知れない。続報を期待しつつ、ここにも宝が埋もれている予感がするが、私は老い先短いがゆえに、これ以上深入りするのはどなたか興味を持たれる後進にお任せしたいと思う。

(1) Ἀνὴρ δέ τις ἐν Καισαρείᾳ ὀνόματι Κορνήλιος, ἑκατοντάρχης ἐκ σπείρης τῆς καλουμένης Ἰταλικῆς

(2) εἰς τὴν Ἰταλίαν, παρεδίδουν τόν τε Παῦλον καί τινας ἑτέρους δεσμώτας ἑκατοντάρχῃ ὀνόματι Ἰουλίῳ σπείρης Σεβαστῆς.

(3) CIL III.13483a(cf.p.2328,32), ILS 9168. cf., Michael P.Speidel, The Roman Army in Judaea under the Procurators:The Italian and the Augustan Cohort in the Acts of the Apostles, Ancient Society, 13/14, 1982/3, pp.233-240.

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アウレリウス・ウィクトル『ローマ皇帝列伝』完訳最新版

【解題、試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにエウトロピウスと教皇列伝もそちらに移管した】

(但し、日々語句改訂中。誤訳・脱文等のご指摘大歓迎:いまだときどき見つけますので(^^ゞ なお、第39章24節〜第42章25節の訳註付きは、2019年11月発行の『上智史學』第64号に掲載ずみ)

セクトゥス・アウレリウス・ウィクトル
『(ローマ)皇帝列伝:アウグストゥス・オクタウィアヌス以来の略史、
すなわちティトゥス・リウィウス(の書)の末尾(前二七年頃)から、
正帝コンスタンティウスが十度目、且つ副帝ユリアヌスが三度目の執政官職
(三六〇年)までの(略史)』

第1章
1-1:ほぼfere 首都(創建後)七七二年目【前三一年】に、今やetiam ローマで一人(の人物)にひたすらprorsus 服従すべしとの慣習が生まれた。なぜならnamque オクタウィアヌスは、オクタウィウスを父とし、そしてまたatque 大伯父との養子縁組によってカエサルの、かつac まもなく領袖たちの決議で、諸派閥への(彼の)派閥の勝利が控えめに行使されたことにより、アウグストゥスの添え名で呼ばれたがdictus、(それは)彼が金品で兵士たちを、そしてまたatque 穀物管理の見せかけで大衆vulgo を差配し、他の者たちをもまったく困難なく屈服させたからだった。

1-2:そのようにしておよそcirciter 四十四年間が経過し、彼は病をえてノラで逝去したconsumptus。(その間)市民たちの帝国にラエティアとイリュリクムが加えられ、かつac(帝国)外の諸部族のgentium 凶暴さは、ゲルマニアを除き沈静化された。

1-3:にもかかわらずヌマの後の三人目として、(彼は)アントニウスを打ち負かすと、ヤヌス(神殿の門)を閉じた。それはローマ法によって諸戦争が鎮まると起きたことだった。

1-4:性癖的にかの人物は市民的で魅力的だったが、まったく節度がないほどの贅沢三昧と諸競技に熱中し、そしてまたatque 睡魔には抑制がきかなかった。

1-5:(今と違って)たくさんいた学者たちと(その)取り巻きたちに(彼は)大いに敬意を払っていた、(それは彼が)雄弁の研究と、かつac 諸々の宗教儀礼に驚くほどmire 惹かれていたからであった。

1-6:彼は寛容さゆえに国父で、かつac 終身護民官職権tribunicia potestate perpetuo を有していた。そのため(彼を)神に、ローマと全属州でのきわめて活気のある諸都市を通じて、(彼の)生存中と死後を問わず、諸神殿、諸祭司団sacerdotes、および諸神官団がcollegia 聖別していた。

1-7:とりわけadeo 彼は幸運に恵まれfelix[子供たちと、にもかかわらずtamen 同時にsimul 結婚は別だったが]、インド人、スキュタエ(スキュタイ)人、ガラマンテス人、そのうえac バクトリア人が諸使節を派遣して、同盟を嘆願したほどだった(在位:前二七年一月一六日〜後一四年八月一九日)。

第2章
2-1:次いで、クラウディウス・ティベリウス・ネロは、アウグストゥスの子供たちの中に継子から養子縁組で迎え入れられていたが、恐れていたことどもが(杞憂で)十分にsatis 安全であると気づいてから帝権を受け入れたが、かの(アウグストゥスなる)称号は策略的に拒んでいた。狡猾で必要以上に秘密主義の彼は、しばしば偽って殊にmaxime 欲していたことどもを嫌ってみせ、嫌悪していたことどもに欺瞞的に専念したりした。本性的にはingenio 突発的なことにはるかに鋭敏だった。はじめこそ良かったが、その後(彼)は有害となり、ほぼfere あらゆる年齢性別に対し非常に手の込んだ情欲を持ち、そしてまたatque 無実だろうとなかろうと厳しく罰し、(これは)自分の身内であるなしに関わらず同様だった。

2-2:そのうえつまりadhuc dum、諸都市や諸集会を忌み嫌うあまり、カプレア(カプリ)島を諸々の破廉恥行為を隠すために求めた。

2-3:それゆえquare 軍事的諸学芸をなおざりにしたので、ローマ法(の下)のjuris 多くの場所が強奪されたdirepta。(治世)劈頭のカッパドキアを除くと、何ひとつ属州として屈服させられておらず、(それですら)アルケラウス(アルケラオス)王が退けられたからだった。ガエトゥリ族の諸々の盗賊行為が押さえ込まれたが、彼らは頭目duce タクファリナスの下で至る所を襲撃していた。

2-4:同時にsimul、スエビ人の王マロボッドゥスは巧妙な計略ではめられた。加えて近衛大隊が集結させられた。(それまで)近くの諸自治都市municipiis や、あるいはローマ(市内)で諸々の邸宅に分散宿営していたのを、彼は首都隣接の陣営内に移した。彼はそこで(近衛大隊を)掌握すべく近衛長官職の称号を与え、また(その職権を)強化した。これに対しnam、身辺警護隊員の別の者たちと首都警護隊員たちを設立したのは、アウグストゥスである。

第3章
3-1:かくしてigitur(ティベリウス・)クラウディウスは熱病ないし諸々の奸計により押し潰された。そのとき彼は帝権を三とそしてまたatque 二十年(合計二十三年間)行使しegisset、八十歳に一歳足りなかったが(在位:一四年九月一八日〜三七年三月一六日)、添え名カリグラなるガイウス・カエサルが、皆から熱望されて選ばれる。(それは)祖父たちと父(ゲルマニクス)への敬意のゆえだった。

3-2:なぜならnamque、(アウグスティヌスの)娘を通じて曾祖父がアウグストゥスで、母方の家系にアグリッパが、ドルススがゲルマニクスの父で、(カリグラは)彼(ゲルマニクス)から生まれ、彼ら(アウグストゥス、アグリッパ、ドルスス)が祖先だったからである。

3-3:彼らの慎み深さと、そしてまたatque、オクタウィアヌスを別にしての時期尚早の突然の滅亡に(加えて)、大衆vulgus は同時にsimul(カリグラの)母と兄弟たちの(死)にも同情していた。ティベリウスが彼らをさまざまな死で命を奪ったからである。

3-4:その理由で、あらゆる者がこれほどの家系のfamiliae 没落を青年へのadulescentuli 期待でなだめようと努めたわけで、その後たまたまtum quia 彼は軍隊内で生まれ[そこから彼は添え名を軍用靴にちなんで得ていた]、諸軍団にとって愛らしくかつ受け入れられていた。

3-5:加うるに、彼はきわめて聰明だったので、誰もが彼ら(祖先)に似るだろうと信じていた。だがそれは、まったく期待とは裏腹がいわば自然法naturae lege であるかのように、しばしばまるで意図したかのごとく、悪人たちが善人たちからbonis、野育ちの者たちがより教養ある者たちから(生み出され)、他のことどもでも同様で、また逆も真なのである。

3-6:ついにはdemum その先例から賢人たちの多くが、子供たちなどいない方がよりましだと考えるに至った。

3-7:しかもなおceterum、カリグラにおいては、彼らはそれほど間違ってはいなかった。実際、彼は長い間精神の狂暴さを慎み深さと、かつac 見せかけの従順さで覆い隠していたので、その結果正当にもmerito 人口に膾炙したように、彼よりより良い従僕たちはfamulos いなかったが、彼ほど残酷な主人もいなかった。

3-8:要するにdenique、職権を手に入れた彼は、このような諸々の本性(を持つ者)が近頃常にそうであるように、その年の数か月間諸々の偉業を、民衆に対し、元老院議員らの内部で、兵士たちと共に司った。そしてある陰謀が報告されると、とても信じられないかのように、(そんな陰謀は)自分にふさわしくない、なぜなら(自分の)生命など誰にとっても負担あるいはaut 厄介でないからだ、とやっとのことで公言していた。

3-9:しかし突如、最初はさまざまな悪行で無実のごくわずかな者たちを粉砕してからはcaesis、あたかも獣が生き血を飲み干すかのように本性をむき出しにし、こうしてその後三年間が過ぎたがconsumptum、その間元老院と、そしてまたatque 最良者たちoptimi 各々のたび重なる災難で地球はterrarum orbis ひどく損なわれた。

3-10:そればかりかquin そのうえetiam、姉妹たちを凌辱し、かつac 既婚貴婦人たちを弄んでは、神々の装束を着て歩き回っていたが、それは「予は近親相姦によってユピテル神であり、しかるにバッカナリアの合唱でリベル神なり」と主張するためであった。

3-11:かと思えばneque secus、ゲルマニア内に踏み込む期待で一ヶ所に諸軍団を集結させた挙げ句、二枚貝や巻き貝を大海【大西洋】の岸辺で拾い集めるよう命じたりもした。

3-12:その際彼自身、あるときは流れるようなウェヌス女神の衣装で(兵士たちの)間に立ち、またあるときは武装して、自分への戦利品(貝殻)は人間たちからではなく天界から獲得したものだと強弁したが、明らかにこのような類いの魚(海産物)をギリシア人たちの呼ぶところにしたがいーー彼らはあらゆるものを大げさに言いたがるのだがーー、ニンフたちの瞳と彼は解釈したのである。

3-13:これらのことで増長して、(自分のことを)ご主人様dominus と呼ばせdici、そしてまたatque 支配の標章を頭に巻き付けようと企てるに至った。

3-14:それが原因で、カエレアを首謀者として、鼓舞された者たちmotiーー彼らにはローマ人の武徳が宿っていたーーが、かくも恐るべき破滅からpernicie 彼を刺殺して国家を(専制政治から)解放した。タルクイニウスを追放した際のブルトゥスの卓越した偉業が再現されたことだろう、もし真のローマ人においてただ軍隊がそれを行ったのであれば。

3-15:しかしながら(実際は)市民たちは怠惰にも外国人と蛮人を軍隊に徴募する欲望に取りつかれ、道徳は退廃し、自由は押し潰され、そしてまたatque 所有への欲求は増大していた。

3-16:とかくするうちにinterim、つまりdum 元老院決議によりそのうえetiam 女性たちも含めた皇帝たちのCaesarum 部(氏)族とgentem、すべての縁戚関係を武装兵たちが捜索していて、たまたまforte ウィミウスなるエピルス(エペイロス)生まれの(近衛大隊)歩兵所属の百人隊長がーー彼らは宮殿でしかるべき拠点で見張っていたーー、身を潜めていた(ティベリウス・)クラウディウスをぶざまな隠れ場所で見つけ出し、彼を引きずり出して、仲間たちに向かって叫んだ、「お分かりか、元首であらせられる」と。

3-17:そしてなるほどsane 彼は(精神的に)より一層常軌を逸していたのでvecordior、きわめて扱いやすいと洞察力のない人々に見られていた。そのことが伯父ネロ(ティベリウス)の邪悪な気質に対して援軍とauxilio なり、兄の息子カリグラにおいても嫉妬とならなかった。そればかりかそのうえquin etiam 彼は兵士たちと平民militares plebisque の精神をanimos 掴んでいて、つまりdum 彼への(一族の)目にあまる専制で、彼自身はきわめて哀れむべき存在と同情すらされていた。

3-18:そのようなこと、そして多くのことが突如思い出され、誰も躊躇することなく彼をそこにいた群衆がtrubae 取り囲み、同時にsimul 他の兵士たちmilitum とかなりの大衆がvulgi 殺到してきた。それを元老院議員たちが把握するや否や、(自分たちが)この企てをausum 鎮圧可能かどうかと、すぐさまocius(人を)派遣する。

3-19:しかし、さまざまなそして忌むべきtetrisque 諸反乱seditionibus で共同体と全身分が引き裂かれてしまった後なので、いわばtamquam 帝権からの(命令であるかの)ように全員が(彼に皇帝として)委ねたのである。

20:こうしてローマでは王的職権が強固となり、そしてより平易に露見されたのは、死すべき存在(人間たち)の努力など運命の女神 fortuna にとってかくも空しく、そして打倒されてしまうcaesosque ということだった。

第4章
4-1:かくしてigitur クラウディウスは、恥ずべきほど胃(の腑の食欲)に従順にもかかわらず、等しく常軌を逸し、そしてまたatque 忘れっぽくて臆病な精神でanimi、そしてきわめて怠惰だったにもかかわらず、多くのことを恐怖によってにせよ、特にpraecipue 貴顕階層の諸助言にたいして、やはりtamen すばらしい配慮を示していた。その階層を彼は畏怖していたので尊重したのだった。実際quippe、愚か者たちの諸々の本性は、こうしてproinde 助言者たちの意のままに行動するagunt からである。

4-2:要するにdenique、よき後見人たちによって彼においては諸悪徳が、そして且つac ガリアにおいてはドルイド僧たちの悪名高い迷信が押さえ込まれた。可能なかぎりの有益な諸法がjura 提案された。軍事的職務も遂行され、諸国境は維持され、ないしローマ帝国に(新たに)以下が委ねられた:東方ではメソポタミア、北方ではレヌス(川)とダヌビウス(川)、そして南方ではマウリ人が諸属州に加わったが、(最後のものは)ユバのあと王たちが廃されたことによる。そしてムスラミイ人の軍勢がmanus 粉砕されたcaesaque。同時にsimul 極西では、ブリタニアの各地が粉砕されたが、彼はブリタニアのみを訪れ、オスティアより海路進発した。これに対してnam、他のところ(の征服)は将軍たちがduces 遂行したのである。

4-3:そのうえさらにadhuc、穀物供給の欠乏が解決された。それをカリグラが引き起こしていた。つまりdum 彼は、全世界から船舶を駆り集め、海上通路をmare previum 諸劇場と諸戦車のため公共的損失をしてまでも造ろうと頑張っていたのだ。

4-4:かと思えばneque secus、人口調査を新たにおこない、元老院から多くの者たちが追い出されたがmotis、ある軽薄な青年がadulescens いて、彼を自分たちにとって素晴らしいと親が主張したのでそのままにした時、彼(クラウディウス)は正しくも付け加えたものである。父親こそ子どもたちにとって監察官なのだから、と。

4-5:だが彼は配偶者メッサリナの、そして同時にsimulque 彼が身を任せっきりだった解放奴隷たちの甘言により堕落へと引きずられていった際に、ただ暴君たちのそれらだけでなく、しかしながら、夫や主人が愚かであれば、女性たちや、そしてまたatque 奴隷の最も愚かな部族ができそうなことを犯したのだった。

4-6:なぜならnamque、かの妻は最初至る所で当然のごとく姦通をおこなっていた。そしてそれで、非常に多くの者たちが身内もろとも消滅させられたexstincti。それは本性あるいは恐怖から(彼女の誘いを)断ったからである。つまり女性たちのよく知られた手練手管でartibus、彼女がかつて言い寄った者たちを自分に言い寄ったと告発したせいである。

4-7:その後dehinc、より凶暴になった彼女は、より貴顕な女性たちを、結婚していようが処女であろうが、娼婦のように自分とともに売春させ、男たちも参加を強いられた。

4-8:そしてこのようなことを恐れる者がいたら、犯罪をでっち上げて彼自身と家系familiam 全体に残酷極まりなく振る舞った。

4-9:なぜならnamque、クラウディウスは、上で我々が示してきたように、天性非常に怖がりだったので、彼らは、彼に恐怖、ことにmaxime 共謀への(恐怖)を吹き込むことによって、悩ませていたからである。そのような策略で解放奴隷たちさえもそのうえetiam 彼らが望んだ者たちを破滅へと追いやった。

4-10:彼らは、最初は(メッサリナの)諸々の悪事を黙認していたが、女主人と対等とされるや否や、彼女をもまた、主人も知らぬうちに、しかしあたかもやはり(彼が)命令したかのように、護衛兵たちをsatellites 通じて殺害した。

4-11:そしてなるほどsane、(その)女性は次のようなところまで進んでしまった。つまり、精神(趣味)animus とそのうえac 愛妾たち(に会う)ために夫がオスティアへと出立している間に、彼女はローマで結婚式を他の男と挙げてしまった。それでこのため(彼女は)より悪名を高めたのだが、つまりdum 不可思議にmirum 思えるのは、彼女が皇帝の(目と鼻の)先で皇帝以外の男と結婚したことである。

4-12:こうして、最高職権を手にした解放奴隷たちは、淫蕩、追放、殺戮caede、財産没収によってあらゆることを損ない、そして家長(クラウディウス)の愚かさを駆り立て、その結果かの老人は兄弟の娘(小アグリッピナ)との結婚を渇望するまでに至った。

4-13:彼女は先妻よりも一層理不尽とみなされていたとしても、そしてそれゆえidcirco 同様の(運命)に怯えてもいて、毒薬で配偶者(の皇帝)を片付けてしまった。

4-14:彼の(統治)六年目にーー彼は一四年間統治したがーー、首都創建八〇〇年祭が驚くほどmire(の規模で)祝賀され、そしてアエギュプトゥス(エジプト)ではフェニックスが目撃された。うわさではその鳥は五〇〇年ごとにアラビアから名高い諸所へ飛来するとのことである。そしてまたatque アエガエウス(アイガイオス)海の中に突如巨大な島が、ある晩に出現した。それは月蝕defetus lunae が起こった時のことだった。

4-15:しかもなおceterum、(クラウディウスの)葬儀funus は、かつてのタルクイニウス・プリスクスのように長らく秘匿され、つまりdum 女性の手練手管でarte 堕落した番兵たちcustodesは、(彼を)病人に見せかけ、そしてまたatque 彼によってとかくするうちにinterim、継子ーー彼(ネロ)を彼はほんの少し前に子どもたちの中に受け入れていたーーに国家の管理を任されたと(偽って見せかける)。

第5章
5-1:かくのごとき方法で、ルキウス・ドミティウス[これに対して(というのも)nam それが断然certe ネロの名前で、父はドミティウスだった]が皇帝とされた。

5-2:彼ははるかに若くして義父に等しい年数専制政治をdominatum 司ったgessisset。やはり(はじめの)五年間は、首都をurbe 殊にmaxime 飾ったので、正当にもmerito トライヤヌスはきわめてしばしば証言したものである、すべての元首たち(の統治)はネロの五年間にはるかに及ばない、とその期間にそのうえetiam ポントゥス(ポントス)を属州法のjus provinciae 下に、ポレモ(ポレモン)の許可によって移動させた。その彼のために彼(ネロ)はポレモニアクス・ポントゥスと呼ばれているappellatur。そして同様にコッティアエ・アルペスもコッティウス王の死により、そうなった。

5-3:それゆえ、年齢が武徳にとって障害にならないことは、これから十分にsatis確認できるcompertum。(だが)放縦によって本性が堕落すると、それ(武徳)は容易に変化し、そしてその消失はいわば若気の至りの法則のように、より危険になって戻って来るものなのだ。

5-4:なぜならnamque、彼(ネロ)はその類の不品行で残りの人生を過ごしたのでegit、かくのごとき人物についていささかなりとも思い出すのは不快かつ忌まわしい、まして(彼は我が人類)部(氏)族のgentium 指揮者 rectorem であったのだ。

5-5:彼は、つまりdum 会衆者たちを前にギリシア人の発明による冠をかけての競技大会certamen において竪琴を弾き始めた挙げ句、次のようなことにまで進んでしまった。すなわち、自分と他人の貞節に容赦せず、最終的にextremum 結婚する乙女たちの見せかけでベールを身にまとい、公然と元老院で婚資を与えられ、皆が祝祭の慣わしで祝う中、あらゆる怪物どもから選り抜かれた者との手権婚にin manum 同意したのである。

5-6:それはなるほどsane、彼においてきわめて些細なことと見積もられるべきである。

5-7:実際、犯罪者のように拘束された者たちに対して野獣の皮を被った彼は、(男女)両性に対し(彼らの)生殖器に顔をこすりつけたり、男どもを去勢してより重大な破廉恥行為に及んだのだから。

5-8:そしてまたatque、これらの中でも彼が母親すらそのうえetiam 汚したと多くの者がみなしているが、つまりdum 彼女もまた専制欲に駆られていて、悪事がなんであれ息子を服従させようと熱望していた。

5-9:それをにもかかわらず著作家たちは種々証明に及んでいるので、私は真実だとみなしている。

5-10:なぜならnamque 気質に諸悪徳が浸蝕するとinvaserint、人間たるもの、羞恥心から外的関係に結びつこうとは決してしないものだからである。罪を犯す習慣、新奇さそして彼により甘美さをもたらすものは、最終的にはextremum 彼の身内の者たちの中でin suos 果たされるagit。

5-11:そのことは彼ら(二人)によってより以上に露見された。つまりdum、あたかも一種の進歩であるかのように、彼女(アグリッピナ)は他人たちから叔父との結婚へ、そしてまたatque、他人たちの拷問から夫の死mariti exitium へと、(他方)彼(ネロ)のほうは漸次、ウェスタの巫女、それから自分自身へとin sui(進み)、最後に両者ともども彼らの身内での悪事scelus へと経過した。

5-12:だがかくのごとき(悪徳の)魅惑にもかかわらず、やはりtamen 彼らは一体となれず、それどころかそれで彼らはがむしゃらに振る舞い、つまりdum 互いに奸計を巡らした挙げ句、先手を打たれて母のほうが亡くなった。

5-13:かくしてigitur 彼はあらゆる人の法jux と神の掟をfas 親族殺しで摩滅させ、かつac ますますmagis magisque 最良者たちの中でin optimos 荒れ狂ったので、多くの者たちはなるほどsane 様々な時宜に国家を解放するために共謀した。

5-14:それらが露見し粉砕されるとcaesisque、一層粗暴になった彼は、首都を焼き払いincendio、平民は至る所に放たれた野獣たちにより、元老院をも同様の死で廃棄することを決議し、(王的)支配という新しい座を求めだしたが、そのうえそれは殊にmaximeque パルティア人のある使節が刺激したためだった。彼がたまたま宴会の中にいた時、いつものように宮廷楽士たちが演奏していたが、(使節は)自分用に竪琴奏者を一人(もらいたい)と(ネロに)求めたところ、彼には自由が与えられている(からだめだ),というのが返答で、(ただしネロは)付け加えた、「もしわが身内の者たちの中でほしい者がおれば差し上げよう」と、宴会の参加者たちを示しながら、「帝権のもとではいかなる者も自由を委ねられていないのだから」と言った。

5-15:かつac、ヒスパニアを統治していたガルバが自分の死exitinum が(ネロにより)命令されたことを知って、たとえ老年にもかかわらず、帝権を奪い取って(国家を)救済しなかったなら、もっと多くのことを(ネロの)悪行imperio が疑いなく成し遂げていただろう。

5-16:しかしながら、彼(ガルバ)の(ローマ)入城で、去勢された一人の男を除いて、彼(ネロ)はまったく見捨てられた。かつてその彼を去勢して女性に形作ることを企てていたのだが。彼は自らを一刺しした。それは、長らく殺害者(が現れること)を哀願していたのだが、そんな死への役目をたしかにqidem 誰も引き受けようとしなかったからである(在位:五四年一〇月一三日〜六八年六月九日)。

5-17:これがカエサルたちの部(氏)族のgenti 終わりだった。そうなるだろうと予兆の多くが告げていた。そして特にpraecipue、彼らの地所で諸凱旋のために聖別されていた月桂樹の聖林が枯れ、そしてまたatque、雌鶏たちが滅亡した。それら(雌鶏)はとりわけadeo 多くいて白く、諸々の宗教儀礼により適していたので、それらのためにローマで今日でも場所が確保されているほどである。

第6章

6-1:しかし、ガルバ、彼は非常に傑出したスルピキウス部(氏)族の出のgente まさしく貴顕であるが、その彼がローマに入ったとき、あたかも贅沢あるいはaut そのうえetiam 残虐さをも援軍にしてやって来たかのように、彼は強奪し、略奪し、荒廃させ、そのうえac 嫌悪すべきやり方であらゆるものを荒らしvesto 汚してしまった。

6-2:これらの事どもによってさらに忌まわしくなった彼は【つまりdum もっと穏やかに配慮するだろうという期待を持った人々がよりひどく感情を害していたのだが】、というのは同様に、兵士たちからの支援を(ガルバの)過度の金銭への欲望が弱めたので、オトが首謀者となって殺害されてしまう。彼(オト)は彼(ガルバ)の養子縁組でピソが優先されたことにとうてい耐えられず腹を立て、扇動されそして武装した(近衛)大隊を広場へと率いて行った。

6-3:そこに、(リンネルの)胴鎧でおおってガルバが騒擾を鎮めるために急いでやって来たが、クルティウス沼そばで粉砕された、帝権の七か月とかつac 七日目のことだった(在位:六八年六月八日〜六九年一月一五日)。

第7章

7-1:かくしてigitur サルウィウス・オトは、ネロのかつて恥ずべきことに親友であったが、青年期の終わりからそう時を経ずしてより偉大となり、主権を奪取した。

7-2:それをほぼ八十五日間予見されたやり方で掌握した彼は、その後、ガリアから下って来たウィテッリウスによりウェロナの戦闘で敗走させられ、彼自ら自決した(六九年一月一五日〜四月一五日)。

第8章

8-1:こうして、アウルス・ウィテッリウスに職権が移されたが、より汚れたそれは、このような始まりで(その方向に)進行していったことであろう、もしウェスパシアヌスがもっと長い間ユダエア人との戦争ーーそれを、ネロの命令により招来されたのだがーーにかかずらわっていたならば。

8-2:彼はガルバによる事績と彼自身(ガルバ)の制圧(という情報)を受け取ったとき、同時にそれゆえモエシアとパンノニアの諸軍の使節たちが(決起を)促すべく来たのに応じて、帝権を獲得する。

8-3:実際先述の兵士たちは、オトが近衛兵たちによって、ウィテッリウスがゲルマニア諸軍団によって(皇帝と)なったことを確認後、対抗心に駆られてーー彼らの間では常のことであるがーー、自分たちが(彼らに)劣っていると見られないために、ウェスパシアヌスを強く促したのだった。彼(ウェスパシアヌス)にすでにシュリアの諸大隊は(彼の)経歴の卓越性のため同調していた。

8-4:実際ウェスパシアヌスはレアテに祖先を持つ新家系のnova familia 元老院議員だったが、勤勉さと、平時とかつac 戦時における事績によって、大いに貴顕であるとみなされていたのである。

8-5:彼の軍団司令官たちがイタリア内に越えてきて、クレモナでの自軍の敗走で、ウィテリウスは首都長官サビヌス、彼はウェスパシアヌスの兄だが、(その彼と)一億セステルティウスで兵士たちを証人として帝権放棄を約定した。しかしほどなくして、それが詐欺だとある情報から推測し、ほとんど怒りに任せて、彼自身(サビヌス)と敵対党派の他の者たちをカピトリウムもろともーーそこを彼らは安全のための避難場所に確保していたーー焼きつくした。

8-6:とはいえ、それらのことが真実であり、かつac 敵の接近が明らかになると、彼(ウィテッリウスは)は隠れていた門番の小屋から引き出され、近親殺害者たちへのやり方で束縛されてゲモニアの階段へと(連れて行かれ)、階段を引きずられた。可能な限りの方法と人による殴打で、彼は肉体を刺し貫かれティベリス(川)へと放り込まれた。それは暴君の八ヶ月目のことで、彼は生まれて五十と七年(五十七年間)以上だった(在位:六九年四月一六日〜一二月二二日)。

8-7:手短かに私が言及してきたこれらすべての者たち、特にpraecipue 皇帝たちの部(氏)族はgens、とりわけ文学的教養と、そしてまたatque、雄弁術において秀でていたので、もしあらゆる悪徳でアウグストゥス以外の彼らが過度に陥らなければ、ことに(彼らの)諸学芸は疑いなく取るに足らぬ破廉恥行為を覆い隠したはずである。

8-8:彼らの事績より、性癖mores が勝っていることは十分明白であるにもかかわらず、しかしながらいかなる良き者にもbono、とりわけ最高指揮者には、両方がもし可能ならば等しく必要なのである。しかしもしそうでなければ、人生の計画など果てしなく後退するので、(指導者たるもの)少なくとも優雅さの、そしてまたatque、学識の権威を受け入れるべきなのである。

第9章

9-1:同様にこのような家系の出だったウェスパシアヌスは、あらゆることにおいて高潔で、気付いたことを明らかにする弁舌の才に欠けることはほとんどなく、長らく出血し疲弊した地球をterrarum orbem しばらくして元の状態に戻した(在位:六九年七月一日〜七九年六月二三日)。

9-2:というのも最初は、暴君のtyrannidis 追従者たちをsatellitesーーもし彼らがたまたまひどく凶暴でなければだがーー、拷問にかけて抹殺するよりも、転向させるほうを彼は選んだ。非常に賢明にも彼は、邪悪な諸々の犯罪行為は多くの者によって恐怖によって遂行される、と考えていたからだ。

9-3:それから多くの悪事が犯罪の罰を免れて消え去ることを彼は黙認していたが、彼が(以前から)そうであったように親切にも、無知なる凡愚どもに、どれほどの重荷と煩わしさが帝権に内在しているかを示しながらであった。

9-4:同様に諸神事に傾倒していた彼は[それらの真実性を多くの業務により確認していた]、後継者たちに子供たち、ティトゥスとかつドミティアヌスがなるであろうことを信じていた。

9-5:加えて、非常に公正な諸法令とlegibus 注意喚起により、そしてより有効にも、(自分の)生き様の見せかけによって、悪徳の多くを減らしたのだった。

9-6:だが、ある者たちが、(現在)誤ってみなしているように、金銭に対しては小心であった。とはいえ以下は十分明白である、国庫のaerarii 窮乏と、かつac諸都市の破滅により、それほど長期間ではなかったが、彼は新たな国庫収入の課税をpensio 求めたにすぎないのだ。

9-7:実際、ローマではカピトリウムーーそれが炎上したことを我々は上記で言及したがーー、平和の神殿、クラウディウスの諸記念建造物、円形闘技場など数多くの壮大なもの、それに他の多くのものや、かつac(彼の)広場(の建設)を彼は開始するか、完成させたのである。

9-8:さらにローマ法が及ぶあらゆる大地にomnes terras おいて、諸都市は素晴らしい洗練さで再建され、諸街道は最高の技術により開通され、フラミニウス街道では山々が(トンネルを)掘られて、通行がたやすくprono なった。

9-9:これほど多くのことがしばらくして、農民たちを使役せずに成し遂げられたconfectum ことは、(彼の)貪欲さよりも思慮深さを証明した。同時に人口調査が古き習いに従って実施されて、元老院から恥ずべき者たちが順にquisque 追い出され、かつac あらゆる所から最良の人物たちがoptimis uiris 選ばれて一〇〇〇の部(氏)族gentes が整備された。(その中から)やっとのこと二〇〇(の元老院身分)を見いだしたというのも、暴君どものtyranuorum 冷酷さによって多く(の家系)が消滅させられていたためだった。

9-10:かつac 戦争によってパルティア人の王ウォロゲススは和平を余儀なくされ、そしてまたatque パラエスティナという名だったシュリアは属州となり、ユダエア人もまた配下となったが、それは息子のティトゥスの努力による。彼を、イタリアに移動する(時に)彼(ウェスパシアヌス)は対外軍事行動のために残し、しばらくして勝利者となった(ティトゥス)を近衛長官職に昇進させていたのである。

9-11:そのうえetiam この顕職はやはり最初から有力であったのだが、より一層おごり高ぶり、そしてまたatque 正帝から二番目と帝権に関してなった。

9-12:しかしながらこのご時世(現代)では、つまりdum 諸顕職のhonorum 品位は見下され、良き者たちに無教養な者どもが、かつac 賢明な者たちに役立たずたちが混在し、多くの者どもが統治権でpotentia その名を空虚にし、そしてみじめな者たちに傲慢に振る舞い、誰であれ最悪者に服従を余儀なくさせられ、穀物供給という見せかけで(実は)強奪が行われているのだ。

第10章

10-1:しかもなおティトゥスが帝権を手に入れて以来、とても信じられないことだが、彼(ティトゥス)が真似ていた(ウェスパシアヌス)を、とりわけ文芸において、そして寛容さにおいて、かつac 諸々の責務においてはるかに凌駕していたことである。

10-2:要するに、先行元首たちによる承認事項は後継(元首)たちによって追認されるべしとする慣習があったのだが、彼は帝権を獲得するやいなや、これらのことを保有者たちに一つの勅令によって自発的に担保し、そして(将来のために)あらかじめ備えたのだった。

10-3:同様に苦もなく、(ティトゥスは)たまたま自らに対し陰謀を企んでいた者たちを見張る用意があった。それはとりわけadeo、最高位の二人の者が計画していた悪事を否定することができず、元老院議員たちが告白者たちに関して処刑すべしと決意したときのことだが、見世物に連れて来られた彼らを(ティトゥスは)自分の両側に座るように命じ、意図的に剣闘士ーー彼らの戦いを見に来ていたーーの剣を求め、(刃の)鋭さを調べるように、一方と、そしてまたatque もう片方に(剣を)委ねた。

10-4:彼らは打ちのめされ、そして(ティトゥスの)志操堅固さに感嘆するのだった。「見たかね」と彼は言う、「諸職権は天命によって委ねられ、そして無益に(権力獲得を)企てるという希望や失う恐怖によって悪行が犯されるのだよ」。

10-5:こうしてita二年とかつacほぼ九か月後に、円形闘技場の工事が完成してから、入浴した彼は毒によって生涯の四十年目に亡くなった(在位:七九年六月二四日〜八一年九月一三日)。一方(彼の)父は七十年目に没していたがobisset、皇帝として十年間(統治した)。

10-6:なるほどsane 彼の死はとりわけ諸属州の民にとって大きな悲しみであったので、人間種族の至宝とgeneris humani delicias 呼んで、(彼が)いなくなってしまった世界を嘆き悲しんだ。

第11章

11-1:かくしてigiturドミティアヌスは、兄にして、そしてまたatque、最良の皇帝の殺害により、私的かつ公的な悪事によってさらに狂乱した彼は、同時に堕落した青年時代において略奪、殺戮、処刑を行ない始めた。

11-2:諸々の情欲を伴った破廉恥行為によって、かつacより大胆になった彼は、傲慢以上のもので元老院議員たちを利用したのである。というのも、彼は自らを主人にして神と言わせ始めたからである。そのことは速やかに後継者たちによって退けられたが、ずっと後により堅固になって次々に復活された。

11-3:しかしながらドミティアヌスは,初めは寛容さを装いつつとりわけadeo 怠惰ではなかったので、内政でも戦争でもdomi belloque より忍耐強いとみなされているほどであった。

11-4:そしてそれゆえidciroque、ダキア人とカッティ人の軍勢に完勝した際には九月と一〇月を、ゲルマニクスと前者を、自分自身の名から後者を呼んでいたのだった。父によって、あるいは兄の熱心さによって始められた多くの工事を、そしてまたatque ことにinprimisカピトリウムを完成させた。

11-5:それから良き者たちの諸殺戮によって凶暴となった彼は、滑稽なほどに無気力と化してすべての者を遠くに退けてからハエの群れを追いかけていた。それは情欲にふけって精力が消耗した後のことであったが、その恥ずべき実践のことをギリシア人の言葉で「寝台の格闘」κλινοπάληνと彼は呼んでいたのである。

11-6:これゆえ、多くの冗談があった。たとえば、宮殿に誰かいるかと尋ねた人に、次のような返答があった。「一匹のハエもたしかにいないよ、ひょっとして格闘技訓練場ではないかな」と。

11-7:こうして彼はますますmagis magisque 冷酷さにおいて極端となり、自分の身内の者たちによってそのうえetiam 一層不信の目で見られていたのだが、解放奴隷たちの助言によって、妻ーー彼女は役者の愛を夫より好んでいたーーも(その陰謀を)知らなかったわけではなかったのだが、生涯の四十五年目、専制のおよそ十五年目に諸々の処罰を受けることとなった(在位:八一年九月一四日〜九六年九月一八日)。

11-8:ところで元老院は剣闘士の方式で葬儀を執り行って、(彼の)名前を削り取るべして決議した。

11-9:そのことによって動揺したmoti 兵士たちがーー彼らには諸々の私的便宜が公共の出費によってたっぷり及んでいたのでーー、殺害の首謀者たちを罰することを彼らの習慣でより扇動的に嘆願し始めたのだった。

11-10:彼らは気乗りせず不本意であったが、賢明な者たちを通じて抑えられてやっとのことでvix 最良者たち(に)敬意(を払うこと)に同意した。

11-11:同様に彼らによって戦争が企てられていたのだが、それは、方向転換した帝権は物惜しみのない贈り物による諸役得の略奪のために彼らにとっての悲嘆であったからであった。

11-12:このときまでローマかイタリア生まれの者たちが帝国を支配していたが、このときから外国人も(支配することとなった)。たぶんプリスクス・タルクイニウスに見られるようなはるかにより良い人物たちを私は知らない。

11-13:かつac 多くのことを聞き読んできた私にとって、たしかに以下のことはまぎれもなく確認されるcompertum。すなわち、首都ローマが異国人たちの武徳と、そしてまたatque 外から持ち込まれた諸学芸によって特にpraecipue 成長したことは。

第12章

12-1:というのも、誰がクレタ人ネルウァよりも聡明で、そして殊にmaxime温和であったというのであろうか。

12-2:彼は非常な高齢でセクアニ人の地(にいたのだが)ーーそこに暴君(ドミティアヌス)を恐れて退去していたーー、帝権を諸軍団の恣意により獲得したが、(自分より)肉体的にも精神的にも勝っていて、強靱な人々によってでなければ(帝権は)司れないと知覚したとき、六とかつac 十ケ月目で自らそれ(帝権)から退位した(在位:九六年九月一八日〜九八年一月二七日)。それ以前に(現在)「通路」Pervium と呼ばれている広場をforo奉献し、そこにはミネルウァ神殿が(他以上に)突出しかつ華麗にそびえていた。

12-3:常に褒めるに値することではあるが、あなたにどれほどの事ができるにせよ、野心でがむしゃらに追い立てられないよう判断すべきで、他方帝権においてもとりわけadeo 死すべき者ども(人間)は熱望のあまり、それを非常な老齢にある者でさえ貪欲に求めるものである。

12-4:この点、彼は(そういう判断能力を)付与されていて、後継者(トライアヌス)の武徳について、それがいかほど賢察だったかを、ますますmagis magisque 明示すべきなのである。

第13章

13-1:というのも、ヒスパニアの都市イタリカ生まれながら非常な高位で、そしてまたatque そのうえetiam 執政官職の地位にあったウルピウス・トライアヌスを、彼は養子縁組に受け入れて(帝権を)委ねたからである。

13-2:彼よりわずかでもaegre 内政ないし軍事においてdomi seu militiae より傑出した者を見出すのは難題であろう。

13-3:実際彼は初めて、それどころかaut(現在まで)そのうえetiam この人のみがローマの諸力をイステル(ドナウ河)の向こうまで拡大した。すなわち、ダキア人たちのフェルト帽をかぶったそして豊かな[粗野な]諸民族nationibus や、デキバルス王、かつac サルドニ人がひとつの属州内に馴致された後の事であった。同時に太陽の昇る地(東方)においては周知のインドゥス河とエウフラテス河流域の間にいるあらゆる諸部族gentes が戦争によって弱められ、そしてまたatque コスドロエスという名のペルシア人の王に対し人質たちが命じられ、そしてそれら(の地)の中に未開諸部族をtentes 通る一本の道路が建設されたが、それによって(今日においても)容易にポントゥス海からガリアまで移動できるのである。

13-4:諸要塞が(防衛上)懸念がありあるいはaut 攻撃を受けやすい場所に建設され、一つの橋がダニビウス(河)に架けられ、かつac 諸々の植民都市のためにcoloniarum 多くの人々が移住させられた。

13-5:そのうえ彼は、ローマでドミティアヌスによって着手された広場、そしてまたatque 他の多くのものをより立派に手入れして飾りつけた。そして永続的な穀物供給の決議を驚くべきことに製パン共同組合に提案して確立した。同時に公益のため国家のどこであれ起こっていたことをより迅速に知らせるべく、公共駅便を運用した。

13-6:無論、(その維持は住民からの租税の)責務が十分に活用されてのことだったが、(それも)ローマ世界の破滅の中で、後世の者たちの貪欲と傲慢により変わり果ててしまった。だが、ここ数年イリュリクム道長官アナトリウスが軽減したことでその諸力が十分なものとなっていることは除く。

13-7:とりわけadeo 国家にとって良い悪いはなにもないわけだから、属州長官たちのやり方次第で反対に変えることができなことなどありはしない。

13-8:彼(トライアヌス)は公正にして寛容で非常に忍耐強く、そしてまたatque 友人たちに対して非常に義理堅く、実際親友スラのためにスラナエという建築物を聖別したほどであった。

13-9:彼は(自らの)高潔さに自信を持っていたので、スブラヌスという名の近衛長官に、そうするのが習慣であったのだが、職権のpotestatiaしるしである短剣をpugionem 委ねたときには繰り返し次のように諭したほどであった。「汝にこれを私の警護のため委ねる、もし私が正しく行動しているのなら。もしそうでなければ、それ以上にmagis 私に対して用いよ」と。なぜなら万人の統治者が間違いを犯すほうこそ、正当性がないからである。

13-10:そればかりか今やquin etiam 彼は酒好きーーその悪徳にネルウァと同じく苦悩していたのだがーーもまた思慮深さにより克服したが、それはかなり長い宴会のあとで出された諸命令を遂行するのを禁止してからのことであった。

13-11:これらの武徳によりほとんど二十年にわたり帝権を行使して、アンティオキア(アンティオケイア)とシュリアの他の諸所での大地震のterrae motu 絶望的状況によって彼は衰弱(消耗)し、元老院議員たちの懇願によってイタリアに引き返す途中に高齢で亡くなった。その前に帝権に一市民にして近親であるハドリアヌスが受け入れていた。

13-12:それ以降、副帝たちと、そしてまたatque 正帝の称号は分けられ、かつac 国家に次のことが導入された。つまり、二人あるいはそれ以上の者たちが種々の最高統治権を持ち、家族名と職権において異なったものとなった。

13-13:にもかかわらずquamquam 他の者たちは、トライアヌスの妻プロティナの(ハドリアヌスへの)偏愛により帝権が獲得されたとみなしていて、(それを)彼女は夫の遺言によって支配相続人に定められたように見せかけたのだ、と。

第14章

14-1:かくしてigiturアエリウス・ハドリアヌスは雄弁術とトーガをまとう仕事のほうにより適していたが、東方で和平を整えてローマに帰還する。

14-2:そこでギリシア人たち、ないしヌマ・ポンピリウスのやり方で諸々の儀式、諸法令、諸体育場、教師たちを差配し始めた。

14-3:とりわけadeoたしかに、そのうえetiam 有能な人々のための諸学芸のための一つの学校、それを人々はアテナエウムと呼んだのだが、

14-4:それを彼は創設し、その上atque、ケレスとリベラの秘儀、それらはエレウシナと名付けられているが、それをアテナエ人の方式でローマにおいて執り行うほどだった。

14-5:その後、平穏な状況では常のこととはいえ、より怠惰になった彼は田舎の所有地ティブルに隠棲し、首都を副帝ルキウス・アエリウスに託した。

14-6:(そこで)彼自ら、幸福で富裕な者たちにとってそれが習いとはいえ、諸宮殿を建設し、宴会、彫像、絵画を差配したのである。とうとう彼は、あらゆる事どもを十分念入りに調達するようになった、(といっても)それらは放蕩でふしだらなものだったのだが。

14-7:かくして諸々の悪いうわさが発生した。すなわち、彼が青少年たちと淫蕩に身を投じていたと、その上atque、アンティノウスの悪名高い犯罪行為に身を焦がし、(あげく)他の諸理由からではなく、彼(アンティノウス)の名前による一都市を建設したり、それどころかaut(かのギリシア的な)青年のためにephebo 諸立像を(各地に)設置したことである。

14-8:それらをたしかにある者たちは、慈悲深くかつ信心深い(行為)と思い込んでいる。というのはハドリアヌスが天命の延長を切望したとき、魔術師たちは(ハドリアヌスの)身代わりとなる一人の志願者を求めたが、全員が尻込みした時、アンティノウスが自らを差し出した、と彼らは記載している。それ故に彼に上述の諸儀礼が(行われたのだ、と)。

14-9:我々はその件を未解決のまま残さざるをえないが、にもかかわらず本性的にいい加減な(彼のような人物の場合)、(彼ら=ハドリアヌスとアンティノウスのように)年齢がはるかに離れた関係(もありではと)我らは見積もるからである。

14-10:その間に副帝アエリウスが死んだ、彼は精神的にあまり優れておらず、そしてそれゆえidircoque 軽蔑的に扱われていたのだが、(ハドリアヌスは新たに)副帝を選出するために元老院議員たちを召集する。

14-11:彼らが急いで集まっているとき、たまたまアントニヌスが老齢の舅あるいはaut 父親の足取りがおぼつかないのを片手で支えているのを見た。それを見て驚くほど喜んだ彼は、(アントニヌスを)諸法令でもって副帝に採用するよう、そして直ちに彼(アントニヌス)の名前で元老院のかなりの部分が殺害されるべしと命じる。(というのは元老院を)彼は嘲笑の的にしていたからである。

14-12:それからほどなくして、彼はバイアエで癆症によって亡くなったが、それは帝権(にあること)二十二年目に一ヶ月足らずで、かくしゃくとした老年だった。

14-13:しかし元老院議員たちは元首(アントニヌス)の懇願にもたしかに、彼(ハドリアヌス)に神君の栄誉honorem を授ける件で決して心を動かされなかった。それほどまでに、多くの自分たちの(元老院)身分の人物たちを失ったことを悲しんでいたのだ。

14-14:しかしその後すぐさま彼らの死が悲嘆であった人々が突然現れて、自分たちの(親族を)抱きしめたので、拒絶していた(ハドリアヌスの神格化)を決議する。

第15章

15-1:かくしてアウレリウス・アントニヌスにピウス(敬虔なる者)の添え名が(与えられた)。この者をほとんど諸悪徳の破滅は汚していなかった。

15-2:彼は非常に古い家系の、自治都市ラヌウィウム出身の人物で、首都の元老院議員であった。

15-3:とりわけadeo 彼は性格的に均衡がとれていて有徳だったので、彼が明瞭に示したのは、永続的な平和とそのうえac長期の平安によってすら揺るぎなき諸々の本性は堕落しないし、そして彼により、もし英知の諸支配が存在するなら、諸都市はついには幸運(に恵まれる)、ということであった。

15-4:要するに、同じ人物は二〇年間国事を遂行したのだが、(帝権を)持続し、首都創建九〇〇年目を壮麗に祝った。

15-5:はからずも、彼は諸凱旋式の欠如のゆえに怠慢とみなされているけれど、それはまったくそうではない、というのも疑いなくより重要なのは、誰も敢えて確立された秩序を乱さないこと、自分自身を誇示するために自分自身の(名声の)ために戦争を平穏な諸部族に行わないということであるのだから。

15-6:そればかりか今やquin etiam 彼は、男(の子たち)に恵まれなかったので(自分の)娘の夫でもって国家に配慮したのである。

第16章

16-1:というのも、マルクス・ボイオニウスーー彼はアウレリウス・アントニヌスと呼ばれ、同じ町の出身で同様の貴顕の出であり、まさに哲学と雄弁術への熱意において格段に際立っていたーーを、家系familiamと、その上atque、帝権の中に受け入れたからである。

16-2:彼(マルクス・アウレリウス)のすべてのことは、神意により内政と軍事(の両方)において行動され決議された。それらを妻の統治の無思慮が汚していたのであるが。なぜなら彼女は(以下のように)たいへんな好色さへとのめり込んでいたからである。彼女は、カンパニアに滞在した際に水夫たちから(相手を)選ぶ目的で海辺の心地よい諸所に居座った。なぜなら彼らの多くは裸で働いており、(彼女の)破廉恥行為にとってより一層都合よかったからである。

16-3:かくしてigitur アウレリウスは、義父がロリウムで生涯の七十五年目の後に亡くなると、速やかに兄弟であるルキウス・ウェルスを統治権の共有に受け入れた。

16.4:その彼(ルキウス・ウェルス)の指揮によって、ペルシア人は最初優位にあったにもかかわらず、最終的にはウォロゲスス王の時に勝利を許すこととなった。

16-5:ルキウスは日ならずして亡くなる。そのため彼が血縁者(マルクス・アウレリウス)の策略に嵌められたという作り話の材料となった。

16-6:うわさでは、彼(マルクス・アウレリウス)は彼(ルキウス・ウェルス)の諸々の事績への嫉妬で悩まされ、食事中にある計略を行ったのだ、と。

16-7:というのも彼は片面に毒を塗った小刀ーーそれが意図的にひとつだけ置かれていたのだがーーで豚の子宮の一片を切り分け、その一片を食べてから、親しい者たちの間で常であるように、毒が触れてあったもう一方を兄弟に差し出したのである。

16-8:これらは、これほどの人物においては、悪事へと傾きがちな諸精神抜きなので、信じることはできない。

16-9:というのも、ルキウスはウェネティアの都市アルティヌムで病死したこと、そしてマルクスには聡明さ、柔軟性、高潔さ、そのうえac 文才が備わっていたことはよく知られていて、マルコマンニ人を息子コンモドゥスーー副帝として代行していたーーとともに攻撃しようとしていた彼は、懇請する哲学者たちの集団に取り囲まれたことがあった。彼らは、諸学派で(決着が)困難で、そのうえac 未解明(の諸論点)について彼が説明する前に、遠征あるいはaut 戦いに身を委ねないようにと(懇願したのである)。

16-10:かくのごとく戦争の諸々の不確かさが彼の安全を(脅かしかねないと)して、学問の諸研究によって恐れられていたのである。そして彼が支配していた間は良き諸学芸がartes 非常に栄えたが、(それは)そのうえetiam 諸時代における彼の栄光だと私はみなしている。

16-11:諸法令のあいまいさもおどろくほど解消された。そして再出頭保証契約vadimodium の習慣を廃止して一日のうちに訴訟を通告して執り行うべしという法が適切にも導入された。

16-12:万民に区別なくローマ市民権が与えられ、多くの都市が創建され、植民され、現状修復され、装飾を施されたが、その上atque、ことにinprimis ポエニ人のカルタゴーー火災が無残にも被害を与えていたーーと、地震でterrae motu 崩壊したアシアのエフェスス(エフェソス)と、そのうえac ビテュニアのニコメディア(ニコメデイア)ーーそのうえac我らの時代においてケレアリスの執政官在職年にも(地震があったが、それと)同じニコメディアーーがそうだった。

16-13:諸凱旋式が次の諸民族から(の勝利で)行われたが、それら(の民族)はマルコマルス王のもと、カルヌントゥムという名のパンノニアの都市からガリア人の中心部まで広がっていた。

16-14:こうして帝権の一八年目に、生涯にわたりきわめて壮健だった彼はウェンドボナで、すべての死すべき運命にある者(人間)たちの多大な悲嘆の中で、亡くなったのだった。

16-15:最終的に、他のことでは別々に別れていた元老院議員たちと、そのうえac大衆がひとつにまとまって、諸神殿、諸円柱、祭司たちを決議した。

第17章

17-1:だが息子(コンモドゥス)は始めから暴力的専制によってきわめておぞましくみなされていたが、特にpraecipue(彼の)父祖たちの記憶と正反対の(ことをやった)時にそうだった。その記憶は後世の者たちにとってとても重大で、不敬な者たちへの一般的は嫌悪とは異なり、あたかも(自分たちの)家系の破壊者たちであるかのように、より一層彼らは呪うことになるのである。

17-2:彼はたしかに戦争については精力的だった。それをクアディ人に対して上首尾に行われたので、九月をコンモドゥス(の月)と呼んでいた。

17-3:彼はローマの統治権にふさわしくない諸家屋をやっとのことで入浴に用立てるため建てた。

17-4:彼はひたすらprorsus 生来残忍かつ粗野でferoque あったので、とりわけadeo たしかに剣闘士たちを見せかけの闘いでしばしば惨殺した。その際、彼自身は鉄製の、対戦者たちは鉛製の【なまくら】刃を使用したのである。

17-5:そしてそのような方法で彼が多くの者たちを屠っていた時に、たまたま(そんな)彼に対し、名をスカエウァという者ーー彼は、勇敢さとそのうえac 肉体の強壮さ、そして戦闘の技にarte 熟達していたーーが、(コンモドゥスの)かくのごとき道楽に冷や水を浴びせた。彼(スカエウァ)は役に立たないと見極めた剣を放棄して、彼(コンモドゥス)自身が武装していたその(剣だけあれば奪い取るので)両者ともに十分だ、と言う。

17-6:それで恐れをいだいた彼(コンモドゥス)は、試合の中で常に生じがちな(ことだが、)短剣をもぎ取られて屠られないようにconficeretur スカエウァを(対戦相手から)退け、その上atque、他の者(剣闘士)たちをとても恐れて、野獣や猛獣(の野獣狩り)に凶暴さに方向転換するようになった。

17-7:そのような事どもで血に飽くことを知らない者(コンモドゥス)を皆が恐れ、彼に対して殊にmaxime 近親の者が(各々)陰謀を企んだ。実際quippe 専制に対してとりわけadeo 忠実な者などおらず、彼自身の取り巻きどもすら(実は)そうなのである。つまりdum、彼らによって(専制者たちの)統治権は維持されているのだが、彼ら(取り巻きども)が冷酷さに走りがちな(専制者の)淫らなpronos 気質にmentem 用心しているうち、いかなる方法ででも(彼を)倒すほうがより安全だと考え出すものなのだが、コンモドゥスをたしかに(その通りに)最初ごく秘密裏に毒殺しようとしたのだった。支配のほぼ三と、その上atque、一〇年(一三年目)のことだった。

17-8:(しかし)毒薬の効果は、(コンモドゥスが)たまたま腹を食べ物で満たしていたために(希釈され)台無しになった。しかし彼が胃痛を訴えたので、医学の専門家で、(当の)陰謀の首謀者の指図によって、彼は格闘技訓練場に急行した。

17-9:そこでマッサージ担当の下僕によってーーというのもたまたま彼も計画に関与していたからだがーー、喉をあたかも(レスリングの)技のようにarte両腕を結んでかなり激しく圧迫されて、彼は息絶えたのだった。

17-10:そのことを知ると元老院はーーヤヌスの祝祭(正月元旦)のために夜明けに全員集合していたのだがーー、(そして)平民たちも同様に、(彼を)神々と人々の敵(と認定し)、その上atque、その名の抹殺を承諾した。そして速やかに首都長官アウルス・ヘルウィウス・ペルティナクスに帝権が委譲される。

第18章

18-1:彼(ペルティナクス)はあらゆる学識と、そのうえac非常に古風な習慣を持ち、過度に吝嗇で、(その点で)クリウス家とファブリキウス家に匹敵していた。

18-2:彼を兵士たちーー彼らには、すでに世界が疲弊して衰弱していても、何ごとも十分だと思えなかったーーは、ディディウスが扇動者となり、(ペルティナクスを)帝権の八〇日目にむごたらしく刺し殺した。

第19章

19-1:だがディディウス【あるいはサルウィウス?】・ユリアヌスは、近衛軍兵士たちを当てにしていた、彼らにかなり法外な諸々の約束で関係を強いていたからであるが、夜警隊長官職から専制政治のdominatus 諸顕章へと進み出た。

19-2:彼の家系は貴顕で、都市法の知識で際立っていた。実際彼は多様かつ拙劣に法務官たちによって提示されていた勅令を順序正しく整理した最初(の人物)だった。

19-3:ここから十分確認されているのはcompertum、功名心を抑制するのを本性が支えなければ、博識は無力ということである。

19-4:というのも、苛酷な指導者がたしかにより正しく生きるべきところ、悪行へと進んでしまうなら、それは新罰則で償われるべしと、彼は布告していた。だが彼は熱望(していた権力)を長く我が物とすることはできなかった。というのも、彼(ディディウス)に起こった事ども(の情報)を受け取ると直ちに、セプティミウス・セウェルスーー彼はたまたまシュリア総督として大地の果てでextremis terris 戦争を行っていたーーが皇帝に選出されてミルウィウス橋付近の野戦で完勝したからである。そして(セウェルスにより)派遣された者たちは、逃亡者を追跡し、ローマの宮殿で討ち果たしたのだった。

第20章

20-1:かくしてigiturセプティミウスは、ペルティナクス殺害の際、諸々の破廉恥行為への憎しみと同時に、悲嘆と、その上atque、怒りでかき乱されて、近衛大隊を直ちに軍務から解き、(反対の)党派のすべて(の人々)を粉砕し、ヘルウィウス(ペルティナクス)を元老院決議で神君たちの間に記載する。サルウィウス(ユリアヌス)の名と、その上atque、彼の諸著作あるいは事績が廃棄さるべく命じる。(だが)彼はそのことのみ成し遂げることができなかった。

20-2:それほどまでに諸学芸の学識へのdoctarum artium 敬意は力を持っていたので、著述家たちにとって(専制者の)蛮行すらたしかに記憶の邪魔とはならないのだ。

20-3:そればかりか今やquin etiam、このような類いの死は彼ら(著述家たち)自身にとっては栄光(のきわみ)で行為遂行者には呪詛となる。

20-4:すべての人々、特にpraecipue 後世の者たちはかくして、そのような諸々の本性は、おおっぴらな悪巧み抜きに、そのうえac狂気による場合を除き、押し潰されることはありえない、と考えているからである。

20-5:そのことをすべての良き者たち、そのうえacそれ以上にmagis 私は信じるべきなのだ。なぜなら、私は、田舎(生まれ)で、その上atque、取るに足らぬ無教養な父から生まれたが、これらの諸時代の中で上流身分層たちの生活を多くの学問(を収めたこと)によって過ごしてきたからである。

20-6:そのことは、私個人としては、我ら(人類)の部族のgentis(特徴)だと考えている。その(部族)はある種の天命により良き者たちをごく稀に生み出すのだが、しかし彼らを育てた者が誰であれ、それはそれ自身の(努力で)各々種々の高みを持つ。たとえばセウェルス自身のように。彼以上に国家の中で光輝ある者は(かつて)誰もいなかった。彼は高齢で死去したにもかかわらず公務停止と弔辞によって喪に服することが(元老院によって)同意されたが、(それは)彼の(ような残酷だが有能な)人物の、生まれるべきかあるいはaut 死すべきかについての正当性を(云々することは)、決して妥当でないと按配してのことだった。

20-7:明らかに風紀を糺すことに彼が過酷だったので、(人々は)古人たちの高潔さへとあたかも気質の健全さが到達した後で、彼を寛容であるとみなしたのだった。

20-8:したがって率直さは、始めは不安であるとみなされるが、(それに接した)暁には、快楽と放縦になるのである。彼はペスペンニウス・ニゲルをキュジクス(キュウジコス)近郊で、クロディウス・アルビヌスをルグドゥヌムで打ち負かして死を強いた。

20-9:彼らのうち前者はアエギュプトゥスを保持していた軍司令官で、戦争を専制の希望で仕掛けmoverat、後者、すなわちペルティナクス殺害の張本人は、そのこと(で報復を受ける)恐れからブリタニアへとーーその属州を彼はコンモドゥスにより得ていたのだがーー渡ろうとしていて、(しかしセウェルスは)ガリアで(アルビヌスの)帝権を奪取したのだった。

20-10:これらの数え切れないほどの殺戮caede行為により、彼(セウェルス)はあまりにも残酷で、そして頑固者pertinax との添え名を受けたのだが、にもかかわらず(日々の)生活においても同様の吝嗇(家だったの)で、それ以上にmagis 彼が(その添え名を)採用した、と多くの者はみなしている。我らには、(彼の)過酷さ(のゆえその名を)課されたと信じるのを好む気質がある。

20-11:というのも、(セウェルスの)敵対者たちのある者がーー諸々の内戦においてよくあることだが、地理的条件でアルビヌス側についたのだがーー、そうした理由の説明で以下のごとく最終的に締めくくった、「私は尋ねたい、もし貴官(が私の立場)であれば、どうしたかと」。彼は答えたものだ、「予も耐えるだろう、汝と同様(これから受けるはずの処刑を)」と。

20-12:こんなことを言ったりしたりすることほど、良き者たちにとって無情なことはない。というのも神聖な者たちは、この種の諸軋轢に対し、それらがいかに入念に仕組まれたとしても、そんな宿命をとがめ立てするものであり、そして、破滅(を選ぶ)よりもそれ以上にmagis 隠蔽へと、市民たちは事実を曲げることを享受してしまうものなのである。

20-13:だがかの者(セウェルス)は(当初敵対する)諸党派の抹殺に執着していたが、そのためその後はより温和に振る舞いはしたものの、むしろ彼は(そういった)行動(がもたらしかねない)不可避性を罰するのを好んでいた。それは思いやりを期待して国家的破滅へと諸陰謀が徐々に進展する(のを未然に防ぐ)ためだった。(そういった)事どもへと諸時代の欠陥で[なり勝ちな]諸感覚を彼は悟っていたからである。また私は否定しない、法外に猛威を振るいかねないこのような諸犯罪は、ほとんど幻覚以上の(やり方でようやく)根絶されうると。

20-14:彼(セウェルス)は幸運に恵まれそのうえac わきまえていて、特にpraecipue とりわけadeo 武装にarmis ついて精通していたので、いかなる交戦においても勝利者とならずに(戦場を)去ることはなく、そしてアッガルスという名のペルシア人の王を屈服させて帝国を拡大した。

20-15:そう間を置かずアラビア人をも同様に攻撃し、今あるように(帝国の)主権の中に属州の形で移した。

20-16:アディアベニ人もまた、もし彼が大地のterrarum 不毛さで忌諱しなければ、貢納諸国の中に(唯々諾々と)甘受してしまっただろう。

20-17:これらの偉業から、アラビクス、アディアベニクス(であった彼)を、パルティクスの添え名で元老院議員たちは呼んだ。

20-18:これらのことよりさらに偉大なこととして、彼はブリタンニアを攻撃し、それ(ブリタンニア)が役に立つ限り、敵どもを敗走させ壁を造り上げたが、その壁は島を横切って両方から大海の境界まで築かれた。

20-19:そればかりか今やquin etiam トリポリスーー(セウルスは)そこのレプティスという町の生まれなのだがーーからも好戦的は諸部族を遠くへと遠ざけた。

20-20:こういった厄介ごとは苦もなく彼によって達成されていたのだが、それだけに一層彼は失敗した者たちに対しては容赦がなかったが、勤勉な者に対しては誰でも褒美によって称揚した。

20-21:のみならず些細な略奪行為でさえたしかに罰を受けないままにしておくことはなく、身内の者たちに対してそれ以上にmagis 厳しかった。そのことが軍司令官たちのducum 不正、それどころかそのうえaut etiam 一党派を装ってさえ行われることを、敬虔ある人物(の彼)は悟っていたからである。

20-22:彼は哲学、演説の練習をすること、すなわちあらゆる一般教養に傾倒した。同時に彼は自伝を文飾と信頼性の両方を(兼ね備えて)作成した。

20-23:彼は格段に公正な諸法令の創設者であった。内外においてdomi forisque これほど偉大な彼だったが、妻の諸々の醜聞が栄光の極みを取り去った。とりわけadeo名高いことだが彼女に愛情を持っていたので、放蕩が知れても、そのうえac(彼女が)陰謀で有罪でも手放さなかった。

20-24:これは、一方で最下層の者にとって、他方統治権者たちにとっても恥辱で、それ以上にmagis 彼にとってそうであった。その彼を私人たちのみならず特権身分の人々、それどころかaut 破廉恥な者ども、しかしながらverum 諸帝国や諸軍隊、その上atque、諸々の悪徳自体も(唯々諾々と)甘受したのである。

20-25:というのは、彼は両足を病んでいたので、ある戦争を逡巡していたのだが、そのことで兵士たちは不安に駆られ、彼の息子バッシアヌスーー副帝として共に居あわせていたーーを正帝としたので、彼(セウェルス)は命じた、自らを法廷に運び入れ、すべての者たち(すなわち、)命令権保有者(息子のバッシアヌス)、そのうえac 軍団将校たちtribunos、百人隊長たちcenturiones、そして諸歩兵部隊cohortes、彼らが首謀者で起こったことであったが、(彼らを)被告人という形で出頭させよ、と。

20-26:それで恐懼し、多くの(闘いでの)勝利者たる軍隊が地面にひれ伏し、慈悲を懇願したのだが、その時、彼は言う、「お前たち、(やっと)わかったようだな」、と片手でmanu(自分の頭を)たたきながら「頭が片足以上に支配する能力があるということが」と。

20-27:それからほどなくしてエボラクムという名のブリタンニアの自治都市で、支配すること一八年間で病没した。

20-28:彼はやや下層(家系)の生まれであり、最初は自由七学科を(学び)、その後(裁判が行われる)広場で鍛えられたが、そのことであまり満たされずーーその種の事どもにはよくあることだがーー、つまりdum 彼はさまざまなそしてより良き職(に就くこと)を企て、あるいはaut 求めた挙げ句、帝権に登り詰めた。

20-29:そこできわめて困難な事どもーー激務、諸々の心労、恐怖、そしてひたすらprorsus あらゆる不確実性ーーを経験させられた彼は、あたかも死すべき運命にある者たちの人生の目撃者であった。彼は言う、「私はあらゆることをやってみたが、何も役に立たなかった」と。

20-30:遺骸は、息子たちのゲタとバッシアヌスがローマへ運んだのだが、驚くほど(盛大に)祀られ、マルクスの墓所に埋葬された。彼(マルクス)に彼はとりわけadeo 敬意を抱いていたので、彼のために(マルクスの息子)コンモドゥスを神君たちの中に記載することを命じ、彼を兄弟と呼んで、バッシアヌスにアントニヌスの呼称を付加したほどであった。なぜかというと、彼(コンモドゥス)から、多くの疑わしい出来事のあとで、諸々の顕職のhonorum 諸前兆として元首金庫の弁護士職を獲得したからである。

20-31:このように、苦労人たちは、諸々の順境の始まりと彼らの保証人たちのことを覚えているものなのである。

20-32:だが、(セウェルスの二人の)後継ぎたちは、あたかもお互い同士の闘いを命令で受け取ったかのように、速やかに関係を絶った。こうしてゲターー彼の名前は父方の祖先からavo 来ていたのだがーーは、彼のより控えめな本性のため兄弟(バッシアヌス)に圧迫感を与えていたので、(ゲタは)襲われて殺害された。

20-33:その勝利は、パピニアヌスの死によって一層忌まわしいものとされた、なぜならなるほどsane 記録に興味ある者たちが見なしているところによれば、彼(パピニアヌス)はその頃バッシアヌスの文書箱を管理しており、それが習慣であるが、ローマに宛てた(文書を)可及的すみやかに作成するよう命令されたのだが、ゲタの(死を)悲嘆して、同僚に、親族殺しを犯すより覆い隠すほうがぜったい簡単でないと言って、そしてそれゆえidcircoque 死を賜った。

20-34:しかしながらこれらのことは厚かましいimprobe たわごとである。というのも彼(パピニアヌス)が近衛長官職を司っていたことはたしかに明白なことで、彼(バッシアヌス)の愛人でそのうえac 長官職に就けていたその人物に見境なくこれほどの侮辱を加えることはできないからである。

第21章

21-1:しかもなおアントニヌスは、不可解な見せかけの贈り物をローマの平民に施し、両の踵まで垂れた衣服を贈与したので、カラカッラと呼ばれた。のみならず同様の服にアントニヌス風(アントニニアナエ)という名を自分自身にちなんで与えた。

21-2:彼は、人口も多く馬上で驚くほど巧みに戦うアラマンニ人の部族にモエヌス川付近で完勝した。彼は忍耐強く、愛想がよく、穏やかだった。幸運にも同僚にも恵まれ、その配偶者においても父と同じだった。

21-3:というのも、彼は義母のユリアーー彼女の悪行を上記で私は言及しておいたがーーの美しさの虜となって、妻に(したいと)熱望したからである。なぜなら彼女はきわめつきの権勢願望家で、青年の目の前であたかも(彼の)存在を知らなかったかのように、裸の肉体を委ねて、そして「したいものだ、もしできることなら」と言い出した彼に、とても厚顔無恥にも[実際彼女は貞節を衣服とともに捨て去っていた]、彼女は「したいのですか。どうか仰せのままに」と答えたものだ。

21-4:アエギュプトゥスの祭儀が彼を通じてローマに持ち込まれ、その上atque、肥大化した首都に一つの新しい街道のすばらしい増加と、そして一つの浴場用建築物が美しい装飾で完成された。

21-5:それらのことを成し遂げてからconfectis、シュリアを巡回していたときにエデッサで統治権の六年目に死ぬ。

21-6:遺灰は公共の哀悼(に供する)ためにローマへ連れ帰られ、その上atque、アントニヌスたちの間に葬られた。

第22章
22-1:その後dehinc オピリウス・マクリヌス Opilius Macrinus は、近衛長官職を司っていたが、皇帝として、そしてその同じ人物の息子、名はデァドゥメヌスが副帝と諸軍団から呼ばれたappellantur。

22-2:彼らのうち、彼(息子デァドゥメヌス)に対しては、失った元首(カラカッラ)への並はずれた憧憬があったため、(諸軍団は)青年をアントニヌスと称した vocavere。

22-3:(だが)彼ら(両帝)については苛酷で saevos 、その上atque、反市民的な性格としてしか、さしあたりinterim 我々には思えない。

22-4:それゆえに、四とそのうえac 十ヶ月(十四か月)あまり、かろうじて帝権が保たれただけで、(両帝を)擁立した彼ら(諸軍団)によって、彼ら(両帝)は殺害された。

第23章
23-1:そしてマルクス・アントニヌスが呼び寄せられた。彼はバッシアヌスから生まれ、父が亡くなると、ヘリオガバルスとシュリア人たちが呼んでいる太陽神ソルの神官職にあった。あたかもアジールのように奸計を恐れて(その神殿に)逃げ込んでいたので、そしてそれゆえ(彼は)ヘリオガバルスと呼ばれる;そしてローマに神の似姿 dei simulacrum【御神体】を移して、パラティヌスの奥殿 penetralia の中に諸祭壇を設置した。

23-2:彼以上に忌まわしく impurius 、不潔で inprobus 、たしかにそれどころかquidem aut 厚顔無恥な petulans 女性たちはいなかった:なぜなら全世界から最も淫らな者たち obscoenus を彼は探していたからで、(すなわち)見た目で、情欲を駆り立てる諸々の手練手管においてartibus(最も淫らな者たちを彼は探していた)。

23-3:このような事どもが、日ごとに増えていったので、そのうえac ますますmagis magisque アレクサンデルの(人気が)増し、オピリウス(前帝マクリヌス)の殺害が確認されcomperta、彼(アレクサンデル)を貴顕階級 nobilitas は副帝と正式声明していたが、彼への愛情が積み重ねられ、近衛軍兵舎内で、支配の三〇番目の月に(ヘリオガバルスは)押し潰された。

第24章
24-1:そしてただちに、アウレリウス・アレクサンデルが、ーー彼はシュリア生まれで、(その場所は)カエサレアとアルケという二重の名前があるーー、彼の配下の兵士たちの尽力で正帝の統治権を委ねられた。

24-2:彼は青年にもかかわらずquamquam、年齢以上の才覚 ingenium をやはりtamen もっており、速やかに大々的に準備してペルシア王クセルクセスに対して戦争を仕掛ける。彼(ペルシア王)は撃破され、そして逃亡したので、(アレクサンデルは)ガリアへときわめて迅速に赴いた、そこがゲルマン人たちの強奪にさらされていたからである。

24-3:その時、諸軍団の騒動が起こり、そして彼は断固として打ち負かしたがabjecit、それは当面は栄光と、後には死exitio と見なされた。

24-4:というのはnam、それほどの厳格さの力 vis を兵士たちは恐れていたので、[そこからそのうえetiam、彼はセウェルス<厳格>の添え名を与えられた]、偶然少数の者たちと共に行動していたagentem 彼を、ブリタンニアの村 vicus で、その名前はシキリア Sicilia だが、(兵士たちは)惨殺したのだった。

24-5:きわめて華やかな建造物が首都ににぎにぎしく建造され、そして母への献身については、彼女の名前はマンマエアであったが、(通常の)敬愛以上だった。

24-6:そのうえさらにadhuc ドミティウス・ウルピアヌスを、ヘリオガバルスは近衛長官に任じていたが、(アレクサンデルは)彼を同じ顕職honore に留めおき、そしてパウルスを(統治の)初めに祖国に戻すようにとーー両者とも法律の権威であったーー、選良たちに対し、その上atque、等しくとても熱心に、説いた。

24-7:(彼は)十三年間を越えることなく帝権を行使したが、国家をあらゆる点で強化して残した。

24-8:それ(国家)は続いてその後、ロムルスからセプティミウスまで競って上昇していく。バッシアヌス(カラカッラ)の数々の賢察によりconsiliis いわば頂点に立ったのだった。

24-9:そこから速やかにconfestim 落ちなかったのは、アレクサンデルの(おかげ)だった。それ以来abhinc、つまりdum(諸皇帝は)自国民を支配するのを他国民を服従させることよりもより熱望するようになり、その上atque、彼らの中でそれ以上にmagis 武装していて、ローマの地位をほとんど深淵に突き落とした、そして帝権へと入ってきた者たちは種々雑多になり、善人も悪人も、貴顕な者たちも、その上atque、卑賤な者たちも、そのうえac 多くの野蛮人たちさえいることになった。

24-10:実際、すべての事どもが、至る所で混乱させられ、そして何事もその本来のやり方でできなくなると、各々が、喧噪(のただ中)においては常であるがuti、他の人々の諸職務ーー彼らが(本来)支配することのできない(はずの)ーーをひったくるのを当然fas とみなして、そして、善き諸習慣の諸学芸を無残に退廃させるのであるcorrumpunt。

24-11:かくして、運命の女神の力が、(一旦)奔放に解き放たれると、破壊的な衝動(情欲)によって死すべき者たちを駆り立てるagit。それは、長らくたしかに壁のごとき武徳により制止され(てきたのだが)、ほぼpaene すべての者たちが、様々な破廉恥行為へと屈服させられた後になると、そのうえetiam 生まれや教育でinstituto 最下層の者たちにすら国事publica を委ねたのである。

第25章
25-1:なぜならnamque、ガイウス・ユリウス・マクシミヌスは、トレベッリカで属州統治していてpraesidens、兵士たち出身として初めて、ほとんど文盲であったが、統治権を諸軍団の投票で獲得した。

25-2:にもかかわらずtamen そのうえetiam 元老院議員たちは、つまりdum 非武装(の自分)たちが武装者(マクシミヌス)に抵抗するのは危険と判断して、これを承諾した。そして彼の息子も、同様に名前はガイウス・ユリウス・マクシミヌスだったが、副帝とされた。

第26章
26-1:彼らは二年間全権を掌握し、まったくhaud 不都合なく、ゲルマン人たちに対して戦闘が行われていたのだが、突如アントニウス・ゴルディアヌス(一世)、アフリカ総督proconsul が軍隊によって、元首としてprinceps テュドルスの町Thydri oppidum で、本人不在で任命される。

26-2:(ゴルディアヌス一世は)そこに呼ばれ、あたかもそのことによって選出されたかのように、到着する。反乱seditio で迎えられるも、それを容易に鎮めてカルタゴへ向かう。

26-3:そこで、諸々の凶兆ーーそれらの恐怖で彼は苦悩させられていたのだがーーを追い払うため、神儀を常のごとく行っていたageret 時、突如一頭の犠牲獣 hostia が子を産んだ。

26-4:それを腸卜師たちと、その上atque、殊にmaxime 彼自身が [というのはnam、彼はその知識の実践において半端なく精通していたので]、次のように解釈した。彼(ゴルディアヌス一世)にはたしかに殺害が定められている、しかしながらverum 彼は子孫たちに帝権をもたらすであろう、と。そして彼ら(腸卜師たちとゴルディアヌス一世)はより詳細に解釈を進め、同様に一人の子供(ゴルディアヌス三世)の死exitum を告げたのである。彼らは予言した、(その子は)あの(産まれた)羊pecus のように温和で、その上atque、純真だが長寿ではなく、そして陰謀にさらされる、と。

26-5:とかくするうちにinterim、ローマではゴルディアヌス(一世)の滅亡が確認されるとcomperto、ドミティウスの教唆により、首都長官と残りの(死刑執行権を持つ)裁判官たちが至るところで近衛大隊によって粉砕されるcaeduntur。

26-6:実際、ゴルディアヌス(一世)は、自身に帝権がゆずり渡されると知った後、量的に十分な報酬を約束し、ローマへと使者たちとそのうえac 諸書簡で確約していたのだが、これら(の約束)が彼の殺害で台無しにされたのではと、兵士たちはやきもきしていたのだった。(連中のような)人種は、金銭により強く執着し、そして忠実でそのうえac 有能なのは金もうけのみなのだ。

26-7:だがat 元老院は、本当に誰ひとり指揮者たちrectoribus がいないと、外見上首都が捕獲されたように見えて忌まわしい事どもが勃発するのでは、と怖れ、最初に諸職権の差し替えをし、続いてより若い人々を(元老院議員)名簿に登録し、クロディウス・プピエヌスとカエキリウス・バルビヌスを副帝caesares に任命した。

第27章
27-1:そして同時期に、アフリカにおいて兵士たちがゴルディアヌスーー彼ははからずもforte 父の幕下で、緋色の縁飾付トガを着用し、そのうえac 次いでdeinceps 近衛長官として居合わせたのだがーー、すなわちゴルディアヌス(一世)の息子を正帝に選出した。なるほどsane 貴顕階級nobilitas はその行為をはねつけなかった。

27-2:要するにdenique、彼は首都の起伏に富んだ(場所の)中に呼び寄せられ、その上atque、その中心部で近衛軍の手勢manusは、剣闘士たちの諸家系(郎党)familiasと新兵たちの部隊によって、戦列をacie 抹殺(殲滅)させられたdeletae。

27-3:つまりdum これらのことがローマで行われているgeruntur 間に、ユリウス・マクシミヌス(父子)たちは、彼らをたまたまforte その時にトラキアが留めていたのだが、これらのことが生じたことを受けて、イタリアへと急いで向かうpetunt。

27-4:彼らをプピエヌスは、アクイレイアの攻囲で屠った。それは戦闘で、打ち破られた者たちを(他の)生存者たちが次々に見放した後のことだった。

27-5:彼ら父子の帝権については、二年間に、このような諸経過のため、(もう)一年が必要とされた。

27-6:その後あまり時を置かないで、兵士たちの騒擾で tumultu クロディウス(パピエヌス)とカエキリウスは、ローマで、パラティウムの中で粉砕されcaesis、ゴルディアヌス(三世)が単独で支配を継続した。

27-7:そして、その年に(ゴルディアヌス三世は)五年ごとの競技大会certamine ーーそれをネロがローマへと導入し、(その後)拡大強化されていたがーー(それを開催した後に)、彼はペルシア人たちに向けてin Persas 進発した。それはまずマルクスが閉じていたヤヌスの聖所を古のやり方で開けてからのことであった。

27-8:それから、戦争が目覚ましくinsigniter 行われている時に、マルクス・フィリップス近衛長官の数々の奸計により、彼(ゴルディアヌス三世)は帝権六年間で亡くなったperiit。

第28章
28-1:かくしてigitur トラコニテス(出身)のアラビア人マルクス・ユリウス・フィリップスは、息子のフィリップスを同僚とし、様々な事柄に関して(帝国)東部について処理し、そしてアラビア(属州)にフィリッポポリスの町oppidum を創建して、彼ら(父子)はローマへと向かった。そしてトランス・ティベリス(地区)に貯水場が建てられた。というのは、その地区を水の窮乏が悩ましていたからだった。彼らは、首都の一千番目の年を、あらゆる種類の祝祭で祝賀することになる。

28-2:そしてそれゆえ、それは一人の名前を(私に)思い出させるのであった。またもや私の時代にその後に一千一〇〇番目(の年)が、執政官フィリップスにより、いつものごとく(ut solet)、何らの宗教儀式も行われずに過ぎ去ったからだ:とりわけadeo 日に日に首都ローマへの配慮は縮小しているのである。

28-3:無論、その時代に怪奇現象と異常現象によって(このことは彼に)通告されていた、と噂されている;これらの事どもから一つをすぐさまbrevi 思い出すのが望ましい。

28-4:というのはnam 神祇官たちpontifex のおきてlexにしたがって犠牲獣たちが捧げられた時に、一頭の雄豚の胎児(腹部)に雌の生殖器が認められたのである。

28-5:そのことを、腸卜師たちは、子孫たちの崩壊と予告し、そしてより重要な諸凶事が生じるだろうと解釈した。

28-6:予言通りにならないように見積もって、皇帝フィリップスは、その後たまたまtum quia、はからずもforte 息子に似た一人の(ギリシア人風の)青年 ἔφηβος を【男色楼の】貸部屋meritorium の前を通り過ぎたとき気づいたので、男娼の習慣を退けんものと、きわめて気高くも【顧問会議?に】諮問した。

28-7:とはいえ、それは(今でも)残っている:実際、場所の状態を変え、一層の破廉恥行為で悩まされている。つまりdum より貪欲にavidius 危険な事どもを何であれ、死すべき者たちは禁じられていても追い求めるものなのである。

28-8:それに付け加えるなら、はるか以前に別のことをエトルリア人たちの(腑分けの)諸学芸が(予言して)吟じていた。それら(予言の内容)は、良き人々は大部分がおとしめられ、最も女々しい者どもが誰であれ幸福になるであろう、と主張していた。

28-9:彼らはまったく真理に無知である、と私はみなす。というのも、どんなにすべての事どもが望み通りに成功していたとしても、しかしながら、慎み深さが失われて誰が幸運でありえるというのか。それ(慎み)を保持することで、その他の事どもは我慢できるのである。

28-10:これらが行われてactis、息子は首都に残され、彼(フィリップス)自身は、年齢のため肉体が弱っていたにもかかわらずquamquam、デキウスに対してウェロナへと進発し、滅ぶcadit/cado 。(というのは)軍隊が敗走させられ、失われたからである。

28-11:これらがローマで確認されるとcompertis、近衛軍陣営で息子は殺害されるinterficitur。彼らは、統治の年数で五(年)を行使したagunt。

第29章
29-1:だがat デキウス【249年6月か? パンノニアで皇帝歓呼】は、シルミウムのある村vicus の生まれだったが、軍務の段階から帝権を志していた、そして敵対者たち(フィリップス父子)hostium の殺害nex をきわめて喜び、エトルスクスという名前の息子を副帝にする【250年5ないし6月;251年6月以前に正帝】;そしてただちに彼(エトルスクス)をイリリア人たちへと先遣させ、(彼自身は)しばらくの間ローマに留まる、(それは)彼が築いている諸建造物を奉献するためだった。

29-2:そしてその間に、彼(デキウス)に対しヨタピアヌスの、ーー彼はアレクサンデル【大帝、ないしセウェルス】の後裔を鼻にかけ、シュリアで諸変革を企て、兵士たちの意向により死没したのだがoccubuerat、(その彼の)ーー頭部が、それが慣習であるがuti mos est、予期せず(ローマに)運ばれてくる。そしてそれらの日々と同時にsimul、ルキウス・プリスクスに、ーー彼はマケドニア人たちを総督として支配していたが【249/50年】ーー(兵士たちにより)専制dominatio が委ねられた、(それは)ゴート族の攻撃によって、トラキアの大部分が強奪された後に、彼らが彼のところに到達したからだった【250 年末】。

29-3:このため、デキウスが可及的速やかにmaturrime ローマから離れると、ユリウス・ウァレンスが民衆を煽って帝権を獲得した。しかしながらverum 両者【??】はまもなく粉砕されたcaesi、それはプリスクスを(元老院の)ノビリタスが祖国の敵hostem と決議した時のことだった。

29-4:デキウスたち(父子)は、蛮人たちをダヌビウス(川)を越えて追撃していて、アブリットゥスで奸計にかかって滅んだcecidere【251年6月前半】、支配の二年間が過ぎていた。

29-5:しかしデキウス(父子)の輝かしい死を、多くの人々が称賛している。なぜならnamque 息子はきわめて向こう見ずに交戦していて、戦列内で in acie 滅んだのだがcecidisse、父はしかるにautem、打ちのめされた兵士たちが皇帝を慰めようと多く(の言葉)を投げかけた時、即座にstrenue 答えた、一人の兵士の損失は自分にとって軽微と思われる、と。こうして(父帝は)戦争を再開し、弛みなく闘っていた時に、(息子と)同じような仕方で亡くなったinterisse。

第30章
30-1:これらの事どもを元老院議員たちpatres が確認したcomperere ときに、ガッルスとホスティリアヌスに正帝での帝権を、ガッルスから産まれたウォルシアヌスを副帝と定めたdecerno。

30-2:その後、疫病が発生する。激しく猛威を振るっていたそれにより、ホスティリアヌスは亡くなった。ガッルスとウォルシアヌスに(民衆の)賛意が獲得された。というのは、気にかけてそして入念に、彼らは最貧層の個々人の埋葬を差配したからである。

第31章
31-1:かくしてigitur 彼らはローマに留まっていたので、アエミリウス・アエミリアヌスが(モエシアで)最高職権を兵士たちを買収してcorruptis かっさらった。

31-2:この(権力)奪取に対し、進発した彼ら(ガッルスとウォルシアヌス)は、インテランInteramm で自らの(兵士たち)によって粉砕されるcaeduntur、(彼ら兵士たちが)アエミリウスからより大きな報酬を期待したからである。彼(アエミリウス)にとって、労苦も不利益も全くなく、勝利が転がり込んだ。同時にsimul それゆえ、節度のない者どもが、贅沢と放縦によって(帝国に)果たすべき公的職務を退廃させてしまったcorrupeant。

31-3:これらすべてにより、なるほどsane 二年間が経過したprocessit。これに対してnam、アエミリアヌスもまた三か月間帝権の使用に際し控えめに振る舞ったが、病気で命を奪われたabsumptus est、(その彼のことを)(元老院の)領袖たちはproceres 初めは(国家の)敵とhostem 呼んでいたが、その後、先行者たちsuperioribus(ガッロやウォルシアヌス)が運命の女神によって消滅させられるexstinctis と、常のことだがuti solet、(彼アエミリアヌスに)正帝の称号を与えたのだった。

第32章
32-1:だがat 兵士たちーー彼らは(帝国内の)至るところからラエティア付近apud Raetias に集結させられて、差し迫った戦争のためにとどまっていたーーは、リキニウス・ウァレリアヌスに帝権を譲り渡すdefero。

32-2:彼は十分にsatis 傑出する出自にもかかわらずquamquam、やはり、そのうえそのとき習慣だったとはいえut mos etiam tum erat、軍事に邁進していた。

32-3:彼の息子ガッリエヌスを、元老院は副帝に選出するcreat。そしてすぐにティベリス(川)が夏の盛りに(もかかわらず)洪水の様相を示して【まだ雨期でもないのに】氾濫した。

32-4:(予言の)精通者たちprudentes は、国家の破滅を、かの青年の不安定な本性によるものであると歌ったcecinere。というのは、(ガッリエヌスは)呼び寄せられてaccitus、エトルリアからやって来ており、前述の(川の)流れはそこから(来ている)からである。それ(国家の破滅)は、無論速やかにconfestim 起こった。

32-5:これに対してnam、彼の父はメソポタミアにおいて、どっち転ぶか分からないそして長期間の戦争を準備中だったが、ペルシア人たちのPersarum 王の、彼の名前はサペルSaper だったが、(その彼の)たくらみによりdolo 計略ではめられcircumventus、むごたらしく切り裂かれてlaniatus、亡くなった:帝権の六番目の年であり、きわめて頑健な老年期だったのだが。

第33章
33-1:同時期に、リキニウス・ガリエヌスは、ガリアからゲルマン人たちを即座にstrenue 遠ざけarceret、イリュリクムへ急ぎ下った。

33-2:(それは)そこでibi、インゲブスIngebus をーー彼はパンノニア人たちを差配していたが、ウァレリアヌス【ガリエヌスの長男のJunior】の災難を確認してcompertaーー、帝権への欲望が襲っていたからで、(ガリエヌスはインゲブスを)ムルシアMursia で完全にうち破り、そしてつづいてレガリアヌスを(完全にうち破った)、(そのレガリアヌスは)、ムルシアMursina で破滅が生き残らせた兵士たちを受け入れ、戦争を再び行ったのである。

33-3:これらのことが上首尾でそのうえac祈願以上の結果となったので、人間たちの性(サガ)で、より放逸な者solutior(ガリエヌス)が、息子サロニヌスSaloninus ーー彼が副帝の栄誉honorem を授けていたーーともども、国家ローマをほとんど難破状態へと委ねた。とりわけadeo 次のごとくであった、トラキアを自由に闊歩したゴート人たちが、マケドニア人たちとアカエア人たち、そしてアシアの諸境界までを占拠し、メソポタミアをパルティア人たちが、オリエンスについては盗賊ども、否むしろあの情婦(ゼノビア)が支配し、アレマンニ人たちの軍勢がvis その時同時にイタリアを、フランク人たちの諸部族がgentes ガリアを強奪しdirepta、ヒスパニアを確保しpossiderent、そのうえac タラコ人たちの町oppidumを強奪direpto、そしてほぼpaene 荒らしvastato、そしてちょうどよくin tempore 船々を入手し、一部はアフリカにまで渡った;そしてイステルIster(ダヌウィウス)川の向こう側(の領土)が失われた、それらを(皇帝)トラヤヌスが得ていたのであったが。

33-4:こうして、ほとんどあらゆる方向から風神たちが荒れ狂いsaevientibus、小者に大者が、最低の者が最高の者に、世界全体で混在させられていたのであるmiscebantur。

33-5:そして同時にsimul、(帝都)ローマを疫病が猛威を振るった。それ(疫病)はしばしばきわめて深刻な不安と、その上atque、精神の絶望を発生させる。

33-6:これらの出来事の間に、彼(ガリエヌス)自身は諸々の料理屋popinae や居酒屋でganeas 沈没し、ポン引きたちlenonum やそのうえac 大酒飲みどもvinariorum との親交を深め、配偶者サロニナ(どころか)、その上atque、ゲルマニア人たちの王アッタルスの娘で破廉恥きわまりない愛人、名はピパに身を任していた;

33-7:そのため、そのうえetiam(ローマ)市民たちははるかに凶暴な諸暴動を発生させたのだった。

33-8:(ガリア分離帝国皇帝たち)全員の最初の人物、ポストゥムスは、たまたまforte 蛮人たちをガリアで統治していたのだが、帝権をひったくるべくereptum 取りかかっていたierat。大勢のゲルマニア人たちを追い払ったが、彼はラエリアヌスとの戦争に引きずり込まれた。その彼を(ポストゥムスは)同様に幸運に恵まれて撃退したが、彼自身の部下たちの騒擾でtumultu 亡くなったperiit、というのは、(部下たちは)モンゴティアクム[現マインツ]人たちの強奪をしつこくせがんだのだが、彼ら(モンゴティアクム人たち)はラエリアヌスを支持していたからだったが、彼(ポストゥムス)が拒絶したからである。

33-9:かくしてigitur 彼は殺されeo occiso 、マリウス、かつてquondam 鉄鍛冶職人で、そのうえそのときetiam tum 軍事に十分satis 秀でていたわけでないが、(その男が)支配をregnum 獲得する。

33-10:こうしてporinde、全てのことが限界までextremum 落ち込んでいき、それでこのような連中のために、諸々の帝権とそのうえac 全ての人びとの武徳の栄誉がdecus 嘲りとなったのである。

33-11:このゆえにhinc さらにdenique ふざけてioculariter (以下のように)呼ばれてもdictum 決して不可思議でないと思われるmirum videri、たとえ、ローマ国家をマリウスが再建しようと努力したとして、それは、それ(ローマ国家)を同様の職種artis と血統と、そのうえac 名の始祖たるマリウスが強化しているからだった、と。

33-12:この者が二日間の後に喉を掻き切られるiugulato と、ウィクトリヌスが選ばれる。彼は戦争の知識においてポストゥムスに匹敵したが、しかしながらverum 収まり切れない性欲を持っており、始めのうちは抑制されていたそれ(性欲)によって、二年間の帝権の後に、ほとんどの者が暴力的に凌辱され、アッティティアヌスAttitianus の妻をconiugem 熱望し、そして悪行が彼女によって夫に知らせられた時、密かに兵士たちによって、暴動へと焚きつけられて扇動されaccensis、アグリッピナ(現ケルン)で殺されるocciditur。

33-13:アッティティアヌスがその地位に置かれていた主計担当官の一団(派閥)はactuariorum factiones、軍隊exercitu 内で勢力があり、それはやばいことを追求しても悪行がなし遂げられ得るほどだった;人間の中でこの種の連中はとりわけpraesertim この時代において放埒でnequam、賄賂がききvenale、狡猾で、反逆的でseditiosum、所有に貪欲で、その上atque、諸犯罪をなしそして隠匿するについては、まるでquasi 天性そうであったかのようだった。(この種の連中は)穀物配給を支配していて、そしてそのためeoque 生産物を差配する人びとや自作農たちの幸せにとって有害で、都合よくin tempore【=33.3】これらの人びと(諸皇帝)に賄賂を使うことに精通しており、これらの人びと(諸皇帝)の愚行や窮乏damnum で財をかき集めていたのであった。

33-14:とかくするうちにinterim、ウィクトリアが息子のウィクトリヌスを失うとamisso、諸軍団から莫大な金銭でもって承認を得て、テトリクスを皇帝にした。その彼は、貴顕な家系の生まれで、属州長官職でpraesidatu アクイタニア人たちを治めていた。そして彼の息子テトリクスにも副帝の諸徽章がinsignia 分け与えられる。

33-15:だがat、ローマに居たガリエヌスは、すべてが平和であると、国家の危機について無知な人びとに、厚かましくも improbe 説いていた。そのうえetiam 頻繁にcrebro、望んでいるように物事が行われるのが世の常であるが、彼は諸々の見せ物ludos とそのうえac 諸凱旋の祝典を、より一層抜かりなく見せかけて正式に認められるように、挙行する。

33-16:しかし、危機が迫ってきてはじめて、(ガリエヌスは)ようやく首都(ローマ)をurbe 発つ。

33-17:なぜならnamque、アウレオルスは、ラエティア(二州)のために諸軍団を管理していていたpraeesset が、皇帝権へと呼び寄せられた、いつものことだが、これほどの無気力なignavi 軍司令官(ガリエヌス)のducis 怠慢socordiaに刺激され、帝権を得ようとしてローマへと急行しつつあった。

33-18:彼をガリエヌスは橋の付近で、その橋は彼の名前からaureolus という名付けられているが、戦列で撃破された彼をメディオラヌム(現ミラノ)へと追い込んだ。

33-19:その都市を、つまりdum 彼(ガリエヌス)があらゆる種類の攻城兵器によって攻撃している間に、彼は身内(の部下たち)によって滅びたinteriit。

33-20:実際quippe、アウレオルスは、包囲の緩む望みがほとんどないと見て、ガリエヌスの軍司令官たちducum と軍団将校たちのtribunorum 名前を、あたかも彼(ガリエヌス)が殺害を決定したような(文書を)彼の策略でastu 作成し、そしてその諸文書をlitteras 城壁外へと、意図的にこっそりと投げ捨てた。それらがたまたまforte(書類上に)言及された者たちに発見され、死をexitii 命じられた(という)恐れと(それが本当なのかという)疑念を引き起こさせたが、しかしながらverum それら(の文書)が流出したのは、(ガリエヌス)の従者たちのministrorum 不注意incuria によるのだ、と(理解された)。

33-21:このため、アウレリアヌスの助言によりconsilioーー彼(アウレリアヌス)の軍隊内での敬意gratia と,その上atque、栄誉honos が際立っていたのでーー、敵対者たちのhostium 突入が偽装され、不意でそのうえac 危険な事態にはよくあることだが、護衛たちがstipatoribus 誰一人保全していなかった(彼)を彼ら(敵対者たち)は天幕から真夜中に引きずり出した。そして一本の投げ槍でtelum 彼は刺し貫かれるtraicitur、(それが)一体誰のものだったのか暗闇のため確かめようもないのだが。

33-22:こうして、殺害のnecis 張本人たちを特定できなかったことにより、ないし、それというのは公共善のため起こった(ということで)、(この)殺戮はcaedes 罰を免れたのである。

33-23:にもかかわらずquamquam、諸道徳はそれほどまでに沈み込まされたわけであるprolapsi、(すなわち)国家よりも自分(の利害)のために、そして栄光への熱意よりもより以上の統治権のために多くの人々が行動してしまうagant ほどまでに。

33-24:このためまた、同様に物とそのうえac 名の本質もが堕落し、しばしば破廉恥行為によってより強大になった者が、たとえ武装によってarmis 征服して、専制を排除したところで、公的なものが押し潰される(という事態を)もたらすのである。

33-25:そればかりかそのうえquin etiam、かなり多くの人々が(ガリエヌスと)同等の性欲(を持っているにもかかわらず)天上の集団にnumerum 連れ帰られている、(彼らは実は)ようやくのこと葬列にふさわしいだけなのだが。

33-26:誰かがもし、諸事績への信頼を妨害しなかったならば、ーー(その)信頼は、正直な者たちをhonestos 記憶の報酬によってpraemium あざむかれたままにさせておかず、(そしてまた)邪悪な者たちにimprobis 不朽かつ輝かしい名声をもたらすはずもないのだがーー、わだかまりなく武徳が追求されていたであろう。というのは、かの真実にして、その上atque、唯一の栄誉はdecus、かのもっとも悪しき者(ガリエヌス)に対して各人の好意によって授けられていたからで、それは非道にも良き者たちから取り去られたdemptum ものであった。

33-27:要するにdenique、ガリエヌスをクラウディウスによって元老院議員たちは神君と呼ぶことを屈服させられた、というのは彼(クラウディウス)は彼(ガリエヌス)の意向でarbitorium 帝権を獲得していたからだ。

33-28:というのはnam、出血でそれほどにひどい傷で自分に死が差し迫っていることを彼(ガリエヌス)が悟った時、帝権の諸々の徽章をinsignia クラウディウスへと定めたからでdestinaverat、(その時、クラウディウスは)将校tribunatus【?:通例は軍団将校の意だが、今の場合は方面軍司令官あたりだったはず】の顕職でティキヌムTicinum(現パヴィア)の予備軍勢(を指揮するため)に留め置かれていたのだった。

33-29:それ(帝権)はなるほどsane(ガリエヌスから)もぎ取られたのだ、(というのも)ガリエヌスの数々の破廉恥行為は、(未来において)諸都市が存在する限りdum、隠し通されることはできず、また、誰であれ(未来において)最も邪悪な者であれば、常に彼と同様で類似した者とみなされるであろうからだ。

33-30:とりわけ(orそれほどに)adeo、(いずれ)死すべき運命にある元首たちや、その上atque、最高の人士たちは、人生の栄誉decus として、その上atque、なるべく名声を乞い求めでっち上げて、推測の限りではあるが天に近づくか、あるいは人々の評判によって神君として賞賛され(ようとす)るものだからである。

33-31:だが、元老院はこのような死がexitio 確認されるとcomperto、(ガリエヌスの)取り巻きどもsatellites や親族たちをpropinquosque、ゲモニアの階段へとがむしゃらにpraeceps 追い立てるagendos べしと決議し、(彼らは)元首金庫の保護者patronoque fisci によって、元老院議事堂内に連行され、両目をえぐり出されたことは、十分にsatis 周知のことで、乱入してきた大衆はvulgus、同一の雄叫びで、大地母神と冥界の神々に対しても懇願した、不敬な諸座がsedes impias ガリエヌスに与えられますように、と。

33-32:そのうえac クラウディウスが速やかにメディオラヌム(現ミラノ)を奪還して、あたかも (降伏した)軍隊の要請であるかのように、彼らの中でたまたまforte 生き残った者たちは容赦されるべきであると指示しpraecepisset なかったならば、(ミラノの)貴族と平民はplebesque より残酷に猛威を振るったgrassarenturであろう。

33-33:そして、元老院議員たちをたしかにローマ世界共通の不利益以上に、彼(ガリエヌス)は固有の身分の侮辱によってcontemelia 苦しめ続けていた。

33-34:というのも、はじめてprimus 彼自身が、自らの怠慢の恐怖をmetu、帝権が貴族たちの中で最も優れた者たちに移されることのないように、元老院が軍務に(奉職すること)を、そして軍隊が(元老院に)近づくことを禁止したからである。この者には九年間の統治権がpotentia あった。

第34章
34-1:しかしクラウディウスの帝権を、兵士たちは、一般的なfere(彼らの)本性に反して、絶望的な諸事実が正当に諸々の対処をするように強いていたので、あらゆるものが破滅に瀕しているのを認識すると、熱心にavide 賛同しかつ褒めそやした。その人物(クラウディウス)は諸々の苦難に耐え、そして公正でそのうえac ひたすらprorsus 国家に献身的で、

34-2:実際quippe、長い中断から(共和政代の)デキウスたちの慣習を更新したのだった。

34-3:というのはnam、彼(クラウディウス)はゴート人たちを敗走させることを切望していたcuperet のだが、彼らを長い期間が過度に強固にし、そのうえac ほとんどporope 居住者たち(同然)にしてしまっていたのであるが、シビュラの書から伝承されていたのは、もっとも身分の高い第一人者が勝利に誓約されるべきvovendum ということである。

34-4:そして、彼(クラウディウス)はそう見られていたので、自身が献げられるべきだった時に、彼はむしろ自らそれを責務と心得て進み出た。彼は実際元老院の、その上atque、すべての者たちの筆頭者princeps であった。

34-5:こうしていかなる軍隊の損失もなしに、蛮人どもは追い払われfusi、そして撃退されたがsummotique、(それは)かの皇帝が生命を国家に奉納するべくdono 委ねたdedit 後のことだった。

34-6:とりわけ(それほどに)adeo 善き者たちには市民たちのcivium 安全とそのうえac長い彼らの記憶がより貴重なのである;それらはただ栄光にとってのみならず、しかしながらそのゆえある程度はratione quadam 後世の者たち【彼の子孫と称したコンスタンティウス一族】の幸運にも役立つのである。

34-7:その彼から、もし本当にコンスタンティウスとコンスタンティヌス、その上atque、我らが諸皇帝【コンスタンティウス二世や(副帝)ユリアヌス】が(由来している)なら、・・・・・・そして・・・の体の・・・、それは兵士たちによって、諸特権の、あるいはseu 放縦の希望spe でより一層受け入れられた。

34-8:その結果、勝利はみじめで、そしてより苛酷だった、つまりdum、臣下にとってそれが常であるが、欲望を罰なしで犯すためには、弛緩した諸帝権(のほう)を有用なそれらよりもより都合いいので守ろうとするからである。

第35章
35-1:しかもなおceterum、アウレリアヌスはこれほどの成功によってよりたくましくvehementior、すみやかにconfestim、あたかもquasi 戦争のやり残しがあったかのように、ペルシア人たちの中に進んだprogressus est。

35-2:彼らを殲滅させdeletis、彼はイタリアへと戻ってきたrepetivit。そこの諸都市がurbes アラマンニ人たちの諸々の荒涼によってvexationibus 破滅に瀕していたaffligebantur からである。

35-3:同時にsimul、ゲルマン人たちがガリアから駆逐されdimotis、テトリクスーー彼について、我々は上記で言及しておいたーーの諸軍団は、軍司令官自身(テトリクス)ipso duceが裏切者proditore になって、粉砕されたcaesae。

35-4:なぜならnamque、テトリクスは、属州長官praeses ファウスティヌスのたくらみでdolo、買収された兵士たちによってしばしば襲われたので、アウレリアヌスの庇護をpraesidium 書簡で哀願していたimploraverat、そして彼(アウレリアヌス)が到着すると、戦列をacie 見せかけで戦闘に出撃させ、自ら(はアウレリアヌスに投降して)委ねる。

35-5:こうして、指揮者rectore なしだとありがちなことだが、混乱した諸隊列はordines 押し潰されoppressi sunt、彼自身は高慢なcelsum 二年間の帝権の後、(捕虜として)凱旋式の中で行進させられ(たけれど)、(アウレリアヌスは彼を)ルカニアの監督官職にcorrectura、そして(彼の)息子に恩赦veniam と、その上atque、元老院議員の栄誉honorem を追綬したcooptavit。

35-6:かと思えばneque secus、首都の中で貨幣鋳造職人たちが殲滅されたdeleti、というのは、彼らは、首謀者フェリキッシムス、貨幣鋳造会計官rationali と共に、貨幣の刻印を削り取っていた【量目をごまかしていた】ので、処罰への恐怖から、彼らは戦争を実施したが、以下のようにゆゆしき(事態)だった、彼らはコエリウムの丘に結集し、戦闘員のbellatorum ほぼfere 7000人を屠ったほどだった。 

35-7:これほどたくさんの、そして大きな功績を上首尾に行って、彼(アウレリアヌス)は、ローマに太陽神Sol のために壮麗な聖所をfanum 築いた、それは豪華な奉納物で飾られていた。そのうえac、ガリエヌスに関して起こった事どもが決して生じないように、彼は、城壁で首都を可能なかぎり強固に外周をより広くして取り囲んだ。そして同時にsimulque、豚肉の利用を、ローマの平民に十分与えられるよう思慮深くかつ気前よく調達した、そして殲滅されたのは、財政上のそして告発者たちの乱訴でcalumniae、それらは首都を悲惨にしていたのだが、このような業務の諸書き板tabulis や諸記録をmonumentisque 火で消滅し、その上atque、ギリシアの慣習によって破棄が決議されたdecreta。それらの間に、貪欲avaritiam、公金横領peculatum、諸属州の略奪者たちを、軍人たちのやり方に反して、彼も彼らの集団numero の出身だったが、法外なまでに追求した。

35-8:そのために、ある下僕のministri 悪事によって、その彼に秘密の職務を彼(皇帝)は任せていたのだが、彼(皇帝)は計略ではめられcircumventus、コエノフルリウムで亡くなったinteriit。かの者は諸略奪praedaeと違反の自覚があったので、巧妙に作成された諸文書を軍団将校たちにtribuni、あたかも恩恵からであるかのように委ねた、それらは彼らを殺害することをinterfici 命じていた;彼ら(軍団将校たち)はその恐怖で刺激されて、悪行をfacinus なし遂げたのだった。

35-9:その間にinterea、兵士たちは、元首(アウレリアヌス)を失って、諸使節をlegatos ただちにstatim ローマへと向ける。それは、元老院議員たちが彼ら自身の判断で皇帝を選ぶためだった。

35-10:彼ら(元老院議員たち)によって、それは汝らの自身の責務にmunusなかんずくふさわしいconveniretと答えたので、これに反してrursum 諸軍団は彼ら(元老院議員たち)に委ねるreiciunt。

35-11:こうして、どちらも慎み深さと、そのうえac 抑制によって張り合うことは、人々の武徳において類いまれでrara、とりわけpraesertim このようなことについて、そのうえac 兵士たちにおいてはほとんどprope 知られていない。

35-12:それほどまでに、かの人物(アウレリアヌス)は、厳格で、その上atque、清廉なincorruptis 諸学芸でartibus 影響力があったので、彼の殺害のnecis <通知>はnuntius 首謀者たちにとってはauctoribus 死でexitio、邪悪な者たちにとっては恐怖でmetui、そのうえac おぼつかない人たちにとってもdubiis 同様でsimul、最良の者各々にとっては憧憬で、誰にとっても傲慢あるいはaut 誇示ではなかった。そしてかつそのうえatque etiam、あたかも彼にだけロムルスに(起きたような)空位期間の見せかけが転がり込むのだから、はるかにまさに(他の誰よりも)より一層誇りにするに足るのである。

35-13:その事実は、特にpraecipue 以下を徹底的に知らしめた、すべてはその中で円環のように回転する(だけで)、そして(新たなことなど)何も起ったりはしなかった、ということを。というのは、これに反してrursum 天性の力は時の機会をaevi spaio もたらすことはできないからである。

35-14:そのうえさらにadhuc、元首たちの武徳によって、物事は容易に復興できたり、ないし衰弱させられたりもし、そしてより強固な人々をがむしゃらにpraeceps 諸不品行に委ねるのである。

第36章
36-1:かくしてigitur ようやくtandem 元老院は、アウレリアヌスの滅亡後interitum およそcirtiter 六か月目に、タキトゥスを執政官格たちのうちから、なるほどsane 温厚な男だったので、皇帝に選出するcreat。ほとんどあらゆる者にとってより喜ばしいのは、兵士の凶暴さferocia から元首を任命する法ius を領袖たちがproceres 取りもどしたことだった。

36-2:(とはいえ)やはりtamen その喜びはlaetitia 短くbrevis、結末はexitu 我慢できるものではなかった。なぜならnamque、タキトゥスはすみやかにconfestim 支配の二〇〇日目の昼にluce ティアナで死んだからであるmortuo、その時やはりtamen(彼は死の)直前にアウレリアヌス殺害のnecis 首謀者たち、そして殊にmaximeque、軍司令官ducem ムカポールーーというのは、彼自身の一撃で(アウレリアヌスは)滅びた occiderat からだった——、その彼を(タキトゥスが)拷問にかけてい(て死んだのだっ)た。同一人物の兄弟フロリアヌスは、元老院か兵士たちの決議consulto なしに、帝権を侵蝕したinvaserat。

第37章
37-1:彼は一ヶ月あるいはaut二ヶ月やっとのことで専制を手放さずにいたがretentata、タルススで彼の配下の者たちにab suis 殺害される。

37-2:それは彼らがプロブスをイリュリクムにおいてなされたことを受け入れた後のことで、(プロブスが)戦争に関する並はずれたexercitandisque 知識(を持ち)、そして様々に兵士たちを訓練すること、そのうえac 新兵たちを鍛えることに関して第二のハンニバルも同然だったからである。

37-3: なぜならnamque、その者(ハンニバル)がオリーブの木々でアフリカの大部分を諸軍団を用いて(満たしたが)、諸軍団の余暇は国家や、その上atque、リーダーたちにductoribus 疑われてしまうと考えてのことで、同じやり方で、この者(プロブス)は、ガリア、両パンノニアおよびモエシア人たちの諸々の丘をぶどう畑で満たしたからである。その後たしかに野蛮人たちの諸部族がgentes 疲弊させられたのであるが、その諸部族は、我らの元首たちが彼らの配下の者たちの悪事によってscelere 殺害されinterfectis、同時にsimul サトゥルニヌスがオリエンスで、アグリッピナ(現ケルン)でボノススが軍隊により粉砕されるとcaesis、闖入してきていたのだったirruperant;これに対してnam、(サトゥルニヌスとボノススの)両者とも専制政治をdominatum、軍事司令官たちが指揮していた軍勢をmanu 使って、企てていたのだったtenvaverant。このためqua causa、(プロブスは)すべてのことどもを受け入れreceptis、そして平和をもたらし、短時間でbrevi 兵士たちは不用になってしまうだろうと言った、ということが暴露されたproditur。

37-4:このためhinc 要するにdenique、それ以上にmagis 苛立った者たち(兵士たち)が、わずか六年以内にシルミウムで(プロブスを)惨殺した、それは貯水地とそのうえac 排水路で彼自身の故郷の都市を干拓させることを強いられたからで、その都市は湿地帯にあって冬の雨水で(今も)損なわれているからであるcorrumpitur。

37-5:それ以来abhinc 軍隊の統治権はpotentia 増強し、そのうえac 元老院によって選出されるべきcreandique 帝権や元首の法は、我々の記録にいたるまで引ったくられた、それを(元老院)それ自体が怠惰のために望んだのか、(軍隊への)恐怖によってか、あるいは(軍隊との)軋轢を嫌悪odio してのことだったのかどうかは、不確かであるがincertum。

37-6:実際、ガリエヌスの勅令により失った(元老院議員の)軍務を回復することも可能となったであろう、タキトゥスが統治する時に、諸軍団が慎み深くmodeste (その支配を唯々諾々と)甘受しておれば、そしてまたneque フロリアヌスが無謀にtemere(帝権を)侵蝕するinvasissetようなことをしなかったなら、あるいはaut (共和政代の規律正しい)歩兵中隊のmanipularium 評定でもってjudicio、帝権がだれか良い人物に、(すなわち元老院議員という)最高位の amplissimo、そのうえac それほどの身分の者が陣営内で過ごしていればdego、委ねられたであろう。

37-7:しかしながらverum つまりdum、彼ら(元老院議員たち)は余暇を享受し、そして同時にsimulque 富に十分注意を払い、その使い方とおごり高ぶりを不滅(の栄光)よりもより高く評価し(た結果、彼らは)、兵士たちやほぼpaene 野蛮人たちが、(元老院身分)自らとそのうえacその後世の者たちを支配するようになるべく、道を整えていたことになる。

第38章
38-1:かくしてigitur カルスは近衛長官職の重職にあったが、正帝の衣をまとわされ、息子たちカリヌスとヌメリアヌスを副帝に(した)。

38-2:そしてそれゆえet quoniam プロブスの死が知られたので、蛮族の各々が好機とみてopportune(帝国国境を)侵蝕していたのでinvaserant、ガリアの防衛のためad muninentum 長男を派遣し、(カルス自身は)ヌメリアヌスを随行してメソポタミアにすぐさまprotinus 進んだpergit。というのもquod、そこがあたかもペルシア人たちとの恒常的な戦争(状態)にあったからである。

38-3:敵どもをhostibus 敗走させた際、つまりdum、(カルスは)軽率にも栄光へより貪欲となり、パルティアの周知の首都[ク]テシフォンを越えてしまい、雷に打たれ炎上してしまった。

38-4:このことを、ある者たちは正当にも彼に起こったことだと記載している。というのもnam cum 諸々の神託は、前述の町oppidum までは勝利によって到達できると告げていたが、彼はより先に進んでしまい、処罰を受けたpoenas luit からである。

38-5:こうしてproinde、(凡夫の常であるが)もろもろの宿命をfatalia 逸らすのは厄介でarduum、そのためeoque 未来の知らせも聞き流してしま(い勝ちになるものである)。

38-6:だがatヌメリアヌスは、父を失い、同時に戦争がなし遂げられたconfectum と評価し、軍隊を撤退させようとしたとき、近衛長官で義父アペルの諸々の奸計によりinsidiis、彼は消されるexstinctis【3節でのカルスの「炎上」と対句で、ヌメリアヌスは「消火」されたと、言葉遊びか】。

38-7:その機会をもたらしたのは、青年(ヌメリアヌス)の両眼の苦痛である。

38-8:要するにdenique、長い間その(ヌメリアヌス殺害の)悪行はfacinus 秘匿されていた、つまりdum、輿で閉ざされ、死人を外見上病人のようにみせ、風で視力が損なわれないように(という口実で)、運ばれていたからである。

第39章
39-1:しかし、腐ってきた四肢の臭気で、悪事がscelus 露見するとproditum、軍司令官たちducum と軍団将校たちのtribuniorumque 助言により、警護兵たちを支配しているdomesticos regens ウァレリウス・ディオクレティアヌスが、英知(に優れていた)ため選ばれるがdeligitur、彼はやはりtamen その諸々の(性格的な)特徴によりmoribusi 気位の高いmagnus 男であった。

39-2:実際quippe、彼は金を(織り込んだ)絹の衣服をもとめ、そのうえac 紫と貴石の力を靴下に熱望した最初の人だった。

39-3:これらのことは、おごり高ぶりかつ尊大な精神において市民性を越えていたにもかかわらずquamquam、やはりtamen その他のことどもと比べれば軽微なことである。

39-4:なぜならnamque、彼はすべての人々のうち、自らをカリグラとドミティアヌスの後で、ご主人様と公然と言わせ、自らを神のごとく崇拝させ呼ばせることを受容した最初の人だったからである。

39-5:これらのことでもって、(ディオクレティアヌスの)本性がどうであれ、私は以下を確認するcompertum(自明であると考える)、最下層の者たちは誰であれ、殊にmaxime 高みに上がった時、傲慢と、その上atque、野心によって抑制のきかない者となる、と。

39-6:それゆえ、マリウスが父祖の記憶において(そうであったように)、それゆえかの者(ディオクレティアヌス)が我らの(記憶)において、(ローマ人)共通の振る舞いを超越してしまっており、つまりdum、統治権に関与したことのない精神は、あたかもtamquam 飢餓から回復した者のように、飽くことを知らないのである。

39-7:そのためquo、貴顕階級にnobilitati 大多数の者たちが傲慢を帰しているのは、私には不可思議に思えるmirum videtur。貴族のpatriciae 部(氏)族のgentis 諸々の煩わしさのmolestiarum 思いは出memor、 (それで)悩まされている者にとって、特権のjuris 避難場所としてremedio ほんの少し際だたせて扱(ってほしいだけの)ことなのだが。

39-8:しかしながらverum、ウァレリウスの中のこれ(傲慢)は、その他の長所で隠され、さらには彼自身しかしご主人様と呼ばれることを黙認し、父親として振る舞った。そして(彼が)十分に聡明な男である事は明白である、現状のうとましさを知らしめることを、(ご主人様という)名の凶悪さを妨ぐこと以上にmagis 欲したことで。

39-9:とかくするうちにinterim、カリヌスは、起こったacciderant 事どもについてより一層知らされ、起こっている諸暴動がより安易に平定の方向に向かうだろうという期待で、イリュリクムへと急いでイタリアを迂回して向かう。

39-10:そこでibi、彼(カリヌス)はユリアヌスを、彼の戦列を敗走させて討ち果たすobtruncat。なぜならnamque、彼(ユリアヌス)はウェネティ人たちに監督官職をcorrectura 行使していたのでageret、カルスの死をmorte 知り、 帝権をひったくることeripere を熱望し、到着した敵にhosti(カリヌス)に向かって進んでいったのだった。

39-11:だがat、カリヌスはモエシアに到達した際に、即刻illico マルクス川Marcus(Margus)近くでディオクレティアヌスと交戦しcongressus、つまりdum 敗残兵たちを貪欲にavide 急追していて、配下の者たちの一撃でictu 亡くなったinteriit。というのも、(彼は)情欲においてlibidine 抑制がきかず、兵士たちの大多数(の女たち)を手に入れようとしたからである。彼女らの男たちはより一層敵対感を募らせていたが、やはりtamen 憎しみと侮辱を、戦争の終結eventum まで先延ばししていたdisfulerant のであった。

39-12:彼にとってきわめて上首尾となりそうだったので、それを恐れて、このような(カリヌスの)本性がますますmagis magisque かの勝利によって放縦にならないように、彼は彼ら(兵士たち)自身によって報復されたultus のである。これがカルスと息子たちの最期である;(カルスは)ナルボが祖国で、二年間の帝権だった。

39-13:かくしてigitur ウァレリウス(ディオクレティアヌス)は、軍隊への最初の演説で、剣を抜き、太陽を見据えて、ヌメリアヌスの災難を知らず、また帝権を熱望していないと誓いを立てていた時、すぐ近くに立っていたアペルを一撃で一刺しする;彼(アペル)の策略によって、我々が先述している通り、若者(ヌメリアヌス)は善良で能弁で、(アペルの)婿であったが、滅びたからだった。

39-14:その他の者たちには恩赦が与えられ、そして敵対者のほぼ全員と、そのうえac 殊にmaxime 突出した男、(すなわち)アリストブルスという名の近衛長官が、彼ら自身の職務に留め置かれたretenti。

39-15:このことは、人間が記憶して以後、内戦で誰も資産fortunis、名声fama、地位をdignitate 奪われなかったことなど、新奇で、そしてかつatque、驚くべきことだった。というのは、我々は、(事後処理が)並はずれて誠実にpie そして穏やかに行われ、追放、財産没収、そしてatque そのうえetiam 諸処刑suppliciis や諸殺戮にcaedibus 限度が設けられることを歓喜するからである。

39-16:なぜ、私はそれらのことについて言及すべきであろうか、(すなわち)多くの人々や外国人たちを仲間に引き入れ、ローマ法の恩恵の下で見守りまた促進することについて。

39-17:なぜなら、彼(ディオクレティアヌス)が、カリヌスの(ガリアからの)出立によってdiscessu、ヘリアヌスとアマンドゥスがガリアで、住民たちがバガウダエと呼ぶ野育ちの連中とそのうえac 盗賊たちの軍勢により駆り立てられ、広範に荒らされていた地域において諸都市の多くを襲っているのを確認すると、(ディオクレティアヌスは)直ちに、(彼との)友情に誠実なマクシミアヌスを、にもかかわらず(彼は)半ば田舎育ちだったが、やはり軍事と、その上atque 本性において優れていたので、皇帝に命じる。

39-18:この者にその後、守護神礼拝でヘルクリウスという添え名がcognomentum 付け加わった。ウァレリアヌスがヨウィウスとされたように;そこからそのうえunde etiam、軍隊内ではるかにlonge 図抜けているpraestantibus 諸々の補助軍auxiliis 兵士たちに、その名が課せられた。

39-19:しかしヘルクリウスはガリアに進発し、敵は撃破されるか、あるいはaut 受け入れられ、すべてを短期間で鎮圧することをなし遂げた。

39-20:その戦争で、カラウシウスは,メナピアの市民であるが、より抜かりない諸行動で耀いていたenituit;そして彼を、同時に舵取り[その職務で青春時代に賃金を(得るべく)訓練されていたので]に精通していたので、彼ら(マクシミアヌスとディオクレティアヌス)は艦隊を調達しparandaes、そのうえac 海を脅かしているinfestantibus ゲルマン人たちを撃退するために、その長官職に任じた。

39-21:(カラウシウスは)このことによって一層傲慢となり、未開の地で多くの人々を粉砕しながらも、戦利品のすべてを国庫に持ち帰らないようにしていたため、ヘルクリウスを恐れて、というのもそのヘルクリウスによって彼自身の殺害が指示されたことが確認されたので、帝権を引き寄せるためにブリタンニアへと急行した。

39-22:その頃、東方ではペルシア人たちが、アフリカではユリアヌスとそのうえacクインクエゲンティアニの諸民族が、激しく混乱を巻き起こしていた。

39-23:そのうえさらに、アエギュプトゥスのアレクサンドリアでは、アキレウスという名の者が専制の徽章をinsignia 身に帯びていたinduerat。

39-24:これらのことが原因となって、彼ら(マクシミアヌスとディオクレティアヌス)はユリウス・コンスタンティウスと、ガレリウス・マクシミアヌスーーアルメンタリウス(牧夫)という添え名であったーーを副帝に擁立しcreatos、縁戚関係に呼び寄せる。

39-25:前者(コンスタンティウス)はヘルクリウスのまま娘[テオドラ]を、後者(ガレリウス)はディオクレティアヌスから生まれた娘[ウァレリア]を得て、それぞれ最初の妻たちと別れて娶る。ティベリウス・ネロとそのうえac 娘ユリアについてアウグストゥスがかつてquondam 行なったように。

39-26:彼らのなるほどsane 全員にとってイリュリクムが祖国であった。彼らは教養には乏しかったにもかかわらずquamquam、やはり田舎やそのうえac 軍事(での生活)の諸々の悲惨さに鍛えられており、国家にとって十分にsatis 最良の者たちであった。

39-27:それゆえに、以下は自明であるconstat。高潔で聡明な者たちのほうが、悪しき意識に対してより抜かりなく対応でき、そしてそれに対し困窮を免れていた者たちは、つまりdum 自分たちの諸力をopibus すべてと過信しがちなので、ほとんど対処できないのである。

39-28:しかし、彼らの一致が殊にmaxime 知らしめたのは、武徳において本性とよき軍事の経験がーーそれは彼らにとりアウレリアヌスとプロブスの教育によってinstitutum だったーー、ほぼpaene 十分だった(ということである)。

39-29:要するにdenique 彼らはウァレリウス(ディオクレティアヌス)を、父として、偉大な神のように敬仰していたsuspiciebant。そのことをどのようでかつどれほどのものであるかは、首都(ローマ)の創建から私たちの時代まで、近親の者たちのpropinquorum 諸悪行によってfacinoribus 明示されている通りである。

39-30:そしてその諸戦争の重荷がmoles、それについて我々は上で言及したが、より鋭くacrius 急迫していたために、帝国を四分して、アルプスの向こう側の諸ガリア全体はコンスタンティウスに委ねられcommissa、アフリカとイタリアはヘルクリウスに、イリュリクムの沿岸からずっとポントゥスの海峡まではガレリウスに(委ねられた);残り(の東部)をウァレリウスは手放さなかったretentavit。

39-31:このため要するにdenique、イタリア(半島)の一部[北部]に、諸貢(納税)の莫大な損害がmalum 引き起こされたinvectum。これに対してnam (ヘルクリウスは他の)全土には、同じ実行に際してしかし控えめにmoderate 振る舞ったageret、それというのも軍隊と、そのうえatque、皇帝も常にあるいはaut だいたいの場合その部分(ミラノを中心とする北イタリア)にいたからだが、(そこが軍隊と皇帝を)支えることができるように、諸課税pensionius のため新法が導入されたのである。

39-32:それはなるほどsane、かの諸時代の慎み深さmodestia においては我慢できてもtolerabilis、このような嵐(の諸時代)においては、破滅になってしまったのである。

39-33: とかくするうちにinterim、ヨウィウスはアレクサンドリアへと進発してproficio、一つの任務を副帝マクシミアヌス(ガレリウス)に信託していたがcredita、それは(ガレリウスが自分の)諸領土をあとに残して、ペルシア人たちの諸突進を遠ざけるべくarceret、メソポタミア内に進むように(という任務だった)。

39-34: 彼らによって初め激しく苦しめられた彼(ガレリウス)は、速やかにconfestim 古参兵たち、そのうえac 新兵たちからなる軍隊を結集し、アルメニアを経由して敵対者たちへとhostes 急行したcontendit;それが、ほぼ唯一の、またはより容易に打ち負かすための道なのである。

39-35:要するにdenique、ちょうどその時ibidem(ガレリウスは)ナルセウス王を、同時にsimul 子どもたちと妻たち、そして王宮を、主権の中にin dicionem 屈服させたsubegit。

39-36:とりわけ(それほどに)adeo、勝利者ウァレリウスが、彼の意向によってnutu あらゆることが行われたので、不確実をincertum 理由にして(新獲得領土を属州にすることを)拒絶しなかったならば、ローマのファスケスが新属州内に運び入れられたferrentur であろう。

39-37:しかしながらverum、(占領地の)より有用な諸々の大地のterrarum 一部が、やはりtamen 我らに獲得された;それらがより執拗に返還要求されるので、最近の戦争が、並はずれて深刻かつ破壊的に招来されたのである。

39-38:だが、アエギュプトゥスの中ではアキレウスが(ディオクレティアヌスによる)巧みな取引で敗走させられ、諸々の処罰を受けた。

39-39:アフリカにおいて、あちこちで諸々の同様の事績がなされ、そしてカラウシウスのみに、(ブリタニアの)島の帝権が付託された。(それは彼が)住民たちへのもろもろの指図とそのうえac 防衛で好戦的な諸部族に対してgentes、より好都合と認められた後のことだった。

39-40:彼に対し、なるほどsane 六年後にアレクトゥスなる名前の者が計略により包囲する。

39-41:彼(アレクトゥス)は彼(カラウシウス)の許可で、財務をsummae rei 管理していたが、破廉恥な諸行為とそれらを行ったゆえの犯罪による死への恐怖から、悪事によって帝権をもぎ取ったのであった。

39-42:彼(アレクトゥス)によって使用された(帝権)を、短期間でbrevi コンスタンティウスは、アスクレピオドトゥスーー彼は近衛長官として統括していたーーによって、艦隊【cf., 39.20】をそのうえac 諸軍団の先遣されていた一部と共に殲滅した。

39-43:そしてその間にinterer、マルコマンニ人は粉砕されcaesi、そしてカルピ人たちの民族全体が我らの土地に移動させられた、ほとんどその一部はすでにjam その時tum アウレリアヌスの(時代)からいたのだが。

39-44:より少なくない平和への熱意によって、諸職務が最も公正な諸法令によって拘束され、そのうえac 穀物価格調査官たちのfrumentariorum 有害な輩が退けられた、今やそれらと最も似た存在は伝奏官たちagentes rerum【=a. in rebus】である。

39-45:彼らは、諸属州内でひょっとしてforte 何らかの暴動になるかもしれない動きがあるかどうかを、調査および告げ知らせるべく存在したとみられていたのだが、非道にも諸々の告発がでっち上げられ、至る所で恐怖が引き起こされ、特にpraecipue もっとも遠隔地では誰でも、彼らはあらゆるものをむごたらしく強奪していたのだった。同時にsimul、首都(ローマ)の穀物とそのうえac 納税者たちの安全が気にかけられ、そして用心深く保たれ、そして上流身分層のhonestiorum 上昇、その代わりにa contra 、破廉恥行為者たちは償わされ、諸武徳へのあらゆる熱意は増大されていた。最古の諸々の宗教儀礼は非常に敬虔に遂行され、そのうえac 不可思議なmirum 方法で、新たにそのうえさらに立派に洗練された諸々の建物によって、ローマの諸々の丘の上および他の諸都市が装飾された、殊にmaxime、カルタゴ、メディオラヌム、ニコメディアがそうだった。

39-46:しかし、彼らはこれらの事を行っていたにもかかわらず、度を越した諸悪徳が存在した。というのも、ヘルクリウスはあまりにも情欲で行動し、(男女の)人質たちの身体に関して(彼の)気質の欠陥をたしかに抑制できないほどだったからだ。ウァレリウスに関しては、同僚皇帝たちの中で誠実な信頼がなるほどsane なかった。それは多大なる不和を恐れるあまりのことだった。つまりdum 様々な主張によって共同統治の平穏を乱される、と彼が考えていたからである。

39-47:このためそのうえetiam 首都(ローマ)の武装armis すら無力化されたも同然で、諸近衛大隊の、その上atque、都市警備隊の中の員数が減らされた、これにより、たしかにquidem 多くの者たちが帝権(の首都機能)が移ったと主張するのである。

39-48:なぜなら、差し迫った事どもの検査官がscrutator、天命(神託)によって国内の諸災難が、そして何らかの崩壊が目前に迫っているとローマの状況を確認すると、支配の二〇年目が祝賀された際に、(まだ壮健だったにもかかわらず)より権力を有している者(ディオクレティアヌス)が、国家の管理を放棄したのであった。その際、(彼は)ヘルクリウスをその見解へと、やっとのことで導いていた。彼(ヘルクリウス)は彼(ウァレリウス)よりも一年短い職権だった。そして、にもかかわらず他の者たちは別の事どもを高く評価するので、真の敬意がgtratia 実際には崩壊していても、我々には(彼の)卓越した天性によって、周囲(の思惑)から離れて、(彼は)普通の生活へと下野したのだと思われたのである。

第40章

40-1:かくしてigitur コンスタンティウスと、その上atque、アルメンタリウス(ガレリウス)が彼らを継承し、セウェルスとマクシミヌスがイリュリクム生まれであるが、副帝として、前者はイタリアを、そして後者はヨウィウスが得ていた諸領土を任じられる。

40-2:そのことに、コンスタンティヌスは耐えられず、彼の精神はすでにその時少年のころから並はずれて強かったので、(父を継いで)統治すべきであるという激情によって苦しめられていたので、(ガレリウスのもとからの)逃走を計画し、追跡が台無しになるように公用馬などを、通過した行路の至るところで殺害して、ブリタニアへと到着する。というのは、彼はガレリウスによって(父コンスタンティウスの)忠誠をつなぎとめるために、人質という口実で掌握されていたのである。

40-3:そしてたまたま同じ日々に、同じ場所(ブリタニア)では国父の、否むしろ(コンスタンティヌスの)産みの親のコンスタンティウスに、臨終が差し迫っていた。

40-4:彼が死ぬと、居あわせたすべての者たち、すなわち(コンスタンティウスの)配下の者たちによって、彼(コンスタンティヌス)は帝権を獲得する。

40-5:とかくするうちに、ローマの大衆と近衛軍団騎兵部隊turmae praetoriae が、マクセンティウスを、父ヘルクリウスにより長い間却下されていたのであるが、皇帝に正式に認める。

40-6:その情報をアルメンタリウス(=ガレリウス)が受け取ると、副帝セウェルスに対して、たまたま(セウェルスが任地である)首都(ローマ)へ向かっていたので、武装してarma 敵に向かって速やかに進むよう命じる。

40-7:彼(セウェルス)は城壁の周囲に滞陣していた時、自身の(手勢)によって見捨てられた。彼らを褒賞でマクセンティウスが引き込んだのである。彼(セウェルス)は逃亡し、そしてラウェンナで包囲され、没したobiit。

40-8:このことで激したガレリウスは、会議の中にヨウィウス(=ディオクレティアヌス)を受け入れ、古くからの知己リキニウスを正帝に選出し、そして彼(ガレリウス)は彼(リキニウス)をイリュリクムとそのうえac トラキアの防衛に残して、ローマへと急行した。

40-9:そこでibi 彼は包囲により長引かされ、兵士たちが先の連中がそうであったように、同じ方法で誘惑されるのではと心配して、イタリアから退却した。そして少し後にpaulosque post 悪疫性の(ただれた)傷により消耗死した。それは、土地が十分にsatis 国家に益するように広大な森を伐採しcaesis、その上atque、ヌビウス(川)へとパンノニア人たち(の地に)にあるペルソ(現バラトン)湖から放流させるよう(土木工事を)行っていた時の事だった。

40-10:そのためcuius gratia、彼はその属州を妻の名前にちなんでウァレリアと呼んだ。

40-11:この者(ガレリウス)にとり(正帝として)五年の帝権で、コンスタンティウスにとり一年のそれであった。なるほどsane 両者とも副帝の統治権を十三年間司どった後のことだった。

40-12:とりわけadeo(ディオクレティアヌスによって与えられた)驚異的な天性の諸々の恩恵によって、彼らはそれ(素質)を、もし学識の諸心情からa doctis pectoribus 進発させ、そして愚昧により害されなかったなら、彼らはまったくhaud 疑いなく出色なもろもろを持ったであろうに。

40-13:それゆえquare 確認されていたのはcompertum、博識、優雅さ、人品のよさが、とりわけ元首たちにとって不可欠であるということである。というのも、それらなくしては、天性の良きものが、ほとんどあか抜けないだけでなく、あるいはそのうえaut etiam おぞましい存在として軽蔑されるようになってしまい、そして逆に、それらは、ペルシア人たちの王キュルス(キュロス)に永遠の栄光を調達したのである。

40-14:しかし私の記憶では、それらがコンスタンティヌスを、(彼は)それ以外の諸々の武徳を備えているにもかかわらず、諸天まですべての人々の祈願によって遡上させたのであった。

40-15:彼がたしかに、もし気前よさと、その上atque、野心に抑制を、そしてそれらの諸学芸によって設けていたら、特にpraecipue 増長した諸々の本性はingenia、栄光への執着によりむしろ一層対極へと進んだのだが、まったくhaud それほど神から遠くない存在になっていただろうに。 

40-16:(コンスタンティヌス)は、首都と、その上atque、イタリアが荒らされたことをvastari 確認するcomperit。そして、(二人の)軍隊と二人の皇帝たち(セウェルスとガレリウス)が敗走もしくは買収されたことを知る。(その時コンスタンティヌスは)和平を諸ガリアで確立して、マクセンティウスに向かう。

40-17:その時点でea tempestate、ポエニ人たちの所でアレクサンデルが長官prefecto として【実際は、管区長官vicarius】司っていたが、専制政治へとdominatui 愚かにも身を投じた【308年】。彼自身は老齢で弱っていたが、農夫でそのうえac パンノニア人の両親たちよりも常軌を逸しており、兵士たちが拙速に求められ、諸々の武装のarmorum 半分をやっとのことでvix 持ちえたのだった。

40-18:要するにdenique、彼(アレクサンデル)に暴君から送られたごく少数の歩兵大隊によりcohortibus、近衛長官ルフィウス・ウォルシアヌスとそのうえac 軍事(に長けた)軍司令官たちがduces、小競り合いでlevi certamine(彼を)屠ったconfecere。

40-19:彼を打ち倒すと、マクセンティウスはカルタゴ、すなわち諸々の大地の栄誉decus で同時にsimul アフリカの中できわめて美しい(街)が荒らされvastari、強奪されdiripi、そして焼き払われるようincendique 命じた。彼は、粗野でそして非道でinhumanus、そのうえac 著しい情欲のためより忌むべきtetrior(存在)だった。

40-20:そのうえさらにadhuc(彼は)臆病で、そして戦争嫌いで、その上atque 恥ずべきことにfoede 無為へとdesidiam 傾きがちで、そこまでusque eo イタリア中で戦争が燃えさかり、そしてウェロナで彼の(手勢)が敗走させられても、少しもhihilo くじけることなく、普段通りのことをsolita 差配していて、父の死によってもexitio 動揺させられなかった。

40-21:なぜならnamque ヘルクリウスは天性きわめて放縦で、同時にsimul 息子の無気力さをsegnitiem 心配して、軽率にも帝位へ舞い戻ってきたのだった。

40-22:そして、外見上役目と見せかけて諸々の策略を企んで、婿のコンスタンティヌスを苛烈に苦しめていた時に、正当にもようやく亡くなった。

40-23:しかしマクセンティウスは日々より凶暴になり、ようやく首都からサクサ・ルブラへと九ローマ・マイルほど辛うじて進んだところで、戦列がacie 粉砕され caesa、逃亡して自身ローマへと舞い戻ろうとして、敵に(対して)ミルウィウス橋に設置しておいた諸々の奸計によって、ティベリス(川)の渡河中に命を奪われた。暴君の六年(目)のこと(だった)。

40-24:彼の殺害によってcede、とても信じられないことだが、喜びと歓喜で、元老院とそのうえac 平民たちも小躍りしたはずであった。彼らを、彼(マクセンティウス)がこれほどまでに痛めつけていたからであった、彼は近衛兵たちに大衆の殺戮をかつて賛同したことがあり、そして以下の最初の人物として、最も悪い企てをもってinstituto、(租税の)責務を見せかけにして、元老院議員たちpatres と自営農民たちにaratores、自らが浪費するために金銭をpecuniam 調達するように強いたほどだったからである。

40-25:彼ら(元老院義委員たちと自営農民たち)の嫌悪によって、近衛諸軍団praetoriae legiones とそのうえac 諸々の予備部隊はsubsidia、首都ローマ(のため)urbi Romae よりも諸党派により適合していたので、徹底的にpenitus 廃棄させられsublata、同時にsimul 諸々の武装armaと、その上atque、軍服(戎衣じゅうい)のindumenti militaris 使用も(廃棄された)。

40-26:そのうえさらにadhuc、彼(マクセンティウス)が壮麗に建設していたすべての建造物、首都の聖所(ロムルス神殿)、そのうえatque(新)バシリカをフラウィウス(コンスタンティヌス)家の功績のために、元老院議員たちはpatres 聖別した。

40-27:彼(コンスタンティヌス)によって、そのうえその後etiam post、大競技場が驚くほど飾り立てられ、そのうえatque、入浴のためにad lavandum 企てられた建造物は、他の諸(浴場)に  まったくhaud 引けを取らないものであった。

40-28: (コンスタンティヌスの)諸彫像ができるだけ活気のある諸々の場所に置かれ、それらの多くが金を素材にして、あるいは銀製なのである。他方、アフリカでは、フラウィウス(コンスタンティヌス)部(氏)族(ゲンス)に向けて神官団(の創設)が決議され、そしてキルタの町にoppido、そこはアレクサンデルの攻囲によって崩れ落ちていたが、原状復帰され、そして装飾を施され、コンスタンティナの名前が下賜された。

40-29: とりわけadeo、(コンスタンティヌス以上に)より受け入れられそしてより際立っていた者など、暴君どもの撃退者たちのうちに誰もいない。彼ら(撃退者たち)への好意は、彼(コンスタンティヌス)よりも、ついにdemum より増大したであろう、もし彼ら自身が控えめで、そのうえatque、節度があれば(の話)であるが。

40-30:実際quippe、台無しにされた人間たちの諸気質は、良き人(コンスタンティヌス)への期待に対して、より残忍に害されるものである、破廉恥きわまりない指揮者がrector 変えられ、さまざまな困窮の力が持続している時には。

第41章

41-1:つまりdum これらのことがイタリア内でなされている間に、マクシミヌスは(帝国)東部において、二年間の正帝の帝権の後、リキニウスによって撃破され、逃亡させられ、タルススで亡くなる。 

41-2:こうしてローマ世界の権能はpotestas、(コンスタンティヌスとリキニウスの)二人によって掌握され、たとえ彼らがリキニウスに嫁がされたフラウィウス(コンスタンティヌス)の妹によって、二人の間が結びつけられていたとしても、(両者の)相反する性質のため、やはり気を配って三年間(だけ)協同することができた。

41-3:なぜならnamque、前者(コンスタンティヌス)には他の†並はずれてadmodum すばらしいことどもが、後者(リキニウス)には吝嗇でそしてたしかにその野育ちのみtantummodo が、内在していたからである。

41-4:要するにdenique、コンスタンティヌスはすべての諸々の敵を、顕職honore とそのうえac 保有資産ごと保全し、そして受け入れた。その点、彼は慈悲深かった、(すなわち)そのうえetiam、古くそしてきわめて忌むべきteterrimumque 横木(pl.)を用い(両足の)脛をへし折る処刑【磔刑のこと】を、初めて退けようとしたほどだった。

41-5:これゆえに、彼は(新らしいローマの)創設者ないし神deo とみなされた。リキニウスにおいては、たしかにquidem 無実のそのうえac 貴顕階層の哲学者たちにも、奴隷的に扱う習慣だった諸磔刑(pl.)が、制限されなかった。

41-6:彼(リキニウス)はなるほどsane さまざまな諸戦闘で敗走させられ、彼(コンスタンティヌス)をひたすらprorsus 押し潰すのが困難であると思われたので、同時にsimul、姻戚関係によって僚友(関係)が回復され、そして是認されたのは、副帝たちの帝権に、フラウィウス(コンスタンティヌス)から生まれたクリスプスとコンスタンティヌス(二世)が、リキニウスからのリキニアヌスだった。

41-7:このことはたしかにquidem ほとんど長続きせず、そして任用された者たちに幸運が恵まれはしないだろう、それは以下で明らかなことだった。日蝕によりdefectu solis、同じ月々に(pl.)iisdem mensibus 昼間がdie 損なわれた【実際はおそらく火山噴火の影響で数ヶ月間日中も暗くなったことを言っているのだろう】。

41-8:こうして、六年の後に平和は破られ、トラキア人たち(の地)でリキニウスは敗走させられ、彼はカルケドン(退却を)甘受した。

41-9:そこでici 、(リキニウスは)自身の援軍のためマルティニアヌスを帝権に追加選出したが、共に押し潰されたoppressus est。

41-10:このようにして、国家は一人の意向でunius arbitrio 司られ始め、(コンスタンティヌスの)子どもたちによって、副帝たちの名前で諸々の異なる(諸職務)を手放さなかった。なぜならnameque、その時に、我らが皇帝コンスタンティウスに、副帝の徽章が委ねられたからである。

41-11:彼らの中の、生まれの点でより早い者(クリスプス)が、その理由ははっきりしないが、父(コンスタンティヌス)の評定によって滅びた時に【326年】、突如repente ラクダ部隊の指揮官magister pecoris camelorum カロケルスCalocerusがキプロス島を見せかけの支配で無謀にもdemens 掌握していた。

41-12:その彼が、神の掟にあったように、奴隷あるいは盗賊どものやり方で、拷問にかけられると、(コンスタンティヌス一世は)首都(コンスタンティノポリス)を創建し、そして諸々の宗教儀礼を形作り、並はずれた精神を呼び覚まし、同時にsimul 軍事組織を刷新した。   

41-13:そしてその間に、ゴート人たちとサルマタエ人たちの諸部族がgentes ひれ伏し、そして全員の中で最年少の息子が、名をコンスタンスというが、副帝となる。

41-14:彼のせいで、(将来)混乱が起きるといった、諸々の前兆の驚異が露見した;実際に、帝権開始のその日に続くかの夜に、もえ続く炎によって天の様相が炎上したのであった。    

41-15:それ以来ほぼabhinc fere 二年が経過すると、(異母)兄弟の息子を、彼は父親に由来しダルマティウスという名前であったが、(コンスタンティヌスは)副帝に命じた。兵士たちは猛烈に妨害したのだが。

41-16:こうして、帝権の三十二年目、全(ローマ)世界を十三年掌握して、生まれて六〇と、そのうえatque 二以上で(すなわち、六十二歳で)、彼はペルシア人たちへと向かったが、(それは) 彼らによって戦争が起こり始めていたからだったが、ニコメディア近くの田舎で、アキュロアと皆が称しているvocant ところで、彼はみまかった。このことを、諸支配にとって忌むべき星辰、彗星と皆が称するものが予告していたごとくだったのだが。

41-17:遺骸は彼自身の都市(コンスタンティノポリス)へと連れ帰られた。このことをなるほどsaneローマの民衆はきわめて不快にみなしたのである。実際quippe、彼の諸々の武装armis、諸法律、寛容な帝権によって(コンスタティヌスが)その都市を新たなローマと(すなわち、首都にしてしまったと、ローマの民衆は)みなしたのだ。

41-18:ダヌビウス(川)を渡る一つの橋が築かれ、諸々の陣営と要塞がより多くの場所に適切に置かれた。

41-19:(帝都ローマとコンスタンティノポリスへの)オリーブ油と穀物の例外的な納入が退けられた。それらによってトリポリスとそのうえac ニカエアがより一層苛烈に悩まされていたからである。

41-20:これらの(都市)うち、先の(トリポリスの)者たちは、セウェルスの帝権のころ、(かの同郷の:cf., 20.19)市民に(すなわち、セプティミウス・セウェルスのことで、皇帝就任の)祝賀の意味で献上していたのであるが、そしてうわべを取り繕っているうちに(既成事実化されて)、その敬意が諸々の責務に逆転し、(トリポリスの)後世の者たちの破滅へと向かった。他方の(ニカイアの)者たちを、マルクス・ボイオニウス(M.アウレリウス・アントニヌス)は制裁金で衰弱させていた。これは、(ニカイアの人々が)際だった本性を持つヒッパルクス(ヒッパルコス)が、その土地生まれだったことに無知だったからだった。財政の逼迫はきわめて厳しく焦眉の課題だったので、そしてあらゆる事どもが(まさしく)神儀と同等とみなされたであろう、もし彼(コンスタンティヌス)がわずかな威厳すら持たない者たちに国事への便宜を(与えることを)甘受しなかったとしたら(の話であるが)。

41-21: これらのことが、煩瑣に起こったにもかかわらず、やはり最上の本性と、そしてかつatque、国家の最良の諸慣習において、たとえささいな諸悪徳でもそれ以上にmagis 際立ち、そしてそれゆえに容易に指摘されがちで、そればかりかそのうえquin etiam より激しく煩瑣に足元をすくわれるのである、たとえ、その諸悪徳が模範となる栄誉のためにdecus、最も力強い諸武徳によって是認され、そしてかつatque、まねしようとすることへと招くことになるからだ。

41-22:かくしてigitur、速やかにダルマティウスは、誰が使嗾者であるのか分からないが、殺害されるinterficitur。そしてただちにstatimque 三年後に、遅かれ早かれ(コンスタンスとの兄弟間の)宿命的といえる戦争において、コンスタンティヌス(二世)は滅びるのであるcadit。

41-23:この勝利によって、コンスタンスは一層おごり高ぶり、同時にsimul 年齢についてあまり気にせず、そしてかつatque、精神において闊達であった。そのときまでadhuc、下僕たちの頑迷固陋によっておぞましく、そしてかつatque、貪欲な傾向があり、そして兵士たちに軽蔑され、凱旋後の 一〇年に、マグネンティウスの悪事によってはめられてしまった、なるほどsane 彼(コンスタンス)は、対外諸部族のgentium 諸暴動を鎮圧していたのだが。 

41-24:彼(コンスタンス)は、それら(諸部族)の人質たちから、金銭でより優雅な少年たちを獲得した、そのことできわめて洗練されていると思われたかったからであるが、彼はこの種の情欲で悶々としていたことは確かなことと思われている。(それでも)やはり、これらの諸悪徳が存続したままであったほうがよかったのだ!

41-25:なぜならnamque、すなわち野蛮な部族の出だったマグネンティウスのおぞましくかつ凶暴な本性によって、同時に後に起こったこれらによって、とりわけあらゆるものが消滅させられたのでexstinctis、彼(コンスタンス)の帝権がまったくhaud 不当でなく熱望されたのだった。       

41-26:その後たまたまtum quia 、ウェトラニオがVetranio、(彼は)ひたすらprorsus 文盲でそして本性的にきわめて愚鈍、そしてそれゆえidcircoque、野育ちのagresti 愚行vecordia で最悪(の人物)であったが、イリュリクム人たちのところで歩兵長官としてpeditum magisteri 兵士たちを管理していた時、専制を上モエシアのきわめて不毛の地の生まれの者が、厚かましくもimprobe 占有したのであった。       

第42章

42-1:彼(ウェトラニオ)を、コンスタンティウス(二世)は一〇ヶ月以内に弁舌の力によって、帝権から下ろし、私人の隠棲へと身を退かせた。

42-2:この(平和裏での政権奪取の)栄光は、帝国誕生後、彼(コンスタンティウス二世)ただ一人が能弁と寛容さによってもたらしたのである。

42-3:これに対してnam、両者のかなりの部分の軍隊が集合していた時、評定の趣で演説が行われたことにより、こういった事はほとんどやっとのことで、それどころかaut 多くの血により得られるはずのものだったが、雄弁さによって彼は成し遂げてしまったのである。  

42-4:このことを十分に satis 知らしめることになったのは、内政ばかりでなく軍事でもmodo domi verum militiae、(コンスタンティウス二世の)弁論の多才さがきわだっているということである。これ(多才さ)によって、ついにはdemum 厄介ごとすらきわめて容易に成し遂げられる。もし(その才ある者が)慎み深さと、その上atque、廉直さにおいて優位にあるのであれば、であるが。  

42-5:こういったことは、殊にmaxime 我らの元首(コンスタンティウス二世)から知られているところである;彼をやはり、直ちにstatim 他の諸々の敵のところへイタリアに向けて急行できないように、苛酷な冬と閉ざされたアルプス(山脈)が阻んだのであった。 

42-6:とかくするうちにローマで大衆が堕落し、同時にマグネンティウスに対する反感もあった。ネポティアヌスは、フラウィウス(家)の母方の血統の近親者であるが、(ローマ)都市長官が粉砕されると、武装した剣闘士たちの軍勢によって皇帝とされた。

42-7:彼(ネポティアヌス)の愚鈍な本性は、とりわけローマの平民にとって、そして元老院議員たちにとってpatribusque 死(を意味したの)だった。というのは、至る所、(すなわち)諸々の邸宅、広場、通り、そして神殿が、そしてかつatque、血と諸々の屍によって墳墓のように覆い尽くされるほどであったからである。

42-8:彼(ネポティアヌス)によってだけでなく、しかしながらverum そのうえetiam 急いでやって来たマグネンティウスの(手勢)にも(ローマは荒らされ)、(その手勢は)三十日に三日足らず(二十七日間)で敵(ネポティアヌス)を打ちのめしたのである。

42-9:しかし、すでにそれ以前に、外的諸暴動(の発生)が疑われていたので、マグネンティウスは兄弟のディケンティウスに諸ガリアを、コンスタンティウスはガルスに、彼の名前を自分のそれに変えさせて(Fl.Claudius Constantius )、オリエンスを、副帝たちとして委ねていた。

42-10:彼ら自身(マグネンティウスとコンスタンティウス)は、お互いに、より激しい諸戦闘によって三年間衝突した;最終的にextremum、コンスタンティウスが、ガリアへと逃亡した彼(マグネンティウス)を追撃して、両者(マグネンティウスとディケンティウス)をさまざまな罰でもって、彼ら自ら自殺するように強いた。  

42-11:そしてその間に、ユダエア人たちの反乱が押し潰されたoppressa 。彼ら(ユダエア人たち)がパトリキウスを非道にも支配のregni 見せかけで登位させていたからである。

42-12:多くの時を置かずに、冷酷で、そしてかつatque、残忍な精神のため、ガッルスは正帝の命により亡くなった。

42-13:このように(ディオクレティアヌス以来)長い間隔を置いて、ほぼfere 七〇年後に、一人者へ国家の管理が戻された。

42-14:この近年の平穏さは、市民的動揺のために帝権へと駆り立てられたシルウィヌスによって、これに反してrursus(騒乱へと)企てられ始めたのであった。

42-15:なぜならnamque、そのシルウァヌスはガリア内で野蛮人の両親たちから生まれ、軍人の身分になり、同時にsimul マグネンティウスからコンスタンティウスへと移ったために、歩兵長官職をかなり若かったが獲得していた。  

42-16:そこから、彼はより高い(地位に)恐怖ないしは狂気に駆られて登りつめた時、諸軍団の、それらによる庇護を彼は期待していたのだが、その諸軍団の騒擾により、約二〇とそしてかつac 八日(二十八日間)で、惨殺された。

42-17:このため、このようなことが天性押さえがきかないガリア人たちの間で(反乱が)繰り返えされないように、とりわけゲルマン人たちがしばしば(諸ガリアの)一部を襲っていたため、彼(コンスタンティウス二世)は、副帝に血縁関係ゆえに受け入れられたユリアヌスを、自身にアルプスの向こう側の諸地域について任じた。そして彼(ユリアヌス)は粗野なferas 諸民族を短期間で屈服させた、悪名高い王たちを捕獲することにより。

42-18:これらの事どもは、彼(ユリアヌス)の力とはいえ、元首(コンスタンティウス二世)の幸運とやはりそして賢察によって起こったのである。

42-19:そのことはとりわけ以下において際立っている、ティベリウスとガレリウスは他の人々に服従していてこそ多くの偉業を(なしえたのだが)、しかるにautem 彼らは、自身で統率と、そしてかつatque、卜占をするとなると、同等よりも少ない経験しかなかったのである。

42-20:だが、ユリウス・コンスタンティウス(二世)は、三と、そしてかつatque、二十年で(二十三年間)正帝として帝権を支配し、外的諸暴動ばかりでなく内的なそれらに忙殺されていて、(今現在)彼はようやく諸武装を解いている。

42-21: 彼(コンスタンティウス二世)は、多くの暴君たちを駆逐し、そしてとかくするうちに、ペルシア人たちの突進に耐えて、サルマタエ人たちの部族に偉大な栄誉で彼らの面前に着席し、一人の王を与えた。

42-22:そのことを、グナエウス・ポンペイウスが、ティグラネスを復権させた折に、そしてかろうじて祖先のうちほんの少数の者たちがなしたことを私たちは確認しているcomperimus。

42-23:彼(コンスタンティウス二世)は、交渉事に対して柔和で寛容で、文章の優雅さで賢明で、そしてかつatque、穏やかかつ心地よい話し方で語ることができ;彼は労苦に忍耐強く、そして且つac 諸々の矢を(狙いを)定めることに驚くほど迅速で;彼はあらゆる食べ物への情欲と、そしてかつatque、あらゆる(性的)欲望への勝利者である;父親への敬意では十分に慈悲深く、そして彼自身については過度に番兵custos なのである;彼はよき元首たちの生涯によって国家の静謐が導かれることを熟知している。

42-24:(だが、以下のような)これらが、多くてかつそれほどに周知で(彼を)損なったのである、(すなわち)諸属州のそして且つac 軍事の指揮者たちをrectoribus 吟味することへの乏しい熱意、同時にsimul 下僕たちの大部分による理不尽な諸慣習、その上さらにadhuc それぞれよき人物の軽視neglectus。

42-25:そしてかつatque、私は手短に真実を解きほぐそう:皇帝ご自身よりもより光輝ある者はいないがゆえに、腰巾着どものapparitorium 大部分以上に凶暴なものはない、と。

【翻訳メモ】atqueの多用

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キリスト教徒が書いた最古のパピルス公表?!

 2019/7/11にアップされた情報です。スイスのバーゼル大学が所蔵していたパピルスの手紙( P.Bas. 2.43)は、実は大学に1900年以来100年以上所蔵されていたもので、このたびその大学所属のSabine R.Huebner教授の著書 Papyri and the Social World of the New Testament, Cambridge UP, 2019/8出版予定、 で紹介されてるらしい。

 速報によると、このパピルスは230年代に日付可能で、それによって少なくとも従来知られていたキリスト教徒が書いた書簡よりも40、50年古く、最古のものと認定された(もちろん、聖書を除いての話だが)。出土地は中央エジプトのFaiyum地方のTheadelphia(現Kasr El Harit)村で、ローマ時代からの最大のパピルス類一件文書として著名なHeroninos文書に属しているとのこと(cf., Wikipedia, Heroninos Archive)。バーゼルのコレクションは65文書あるが、これまでほとんど非公表で調査もされていなかったらしい。現在、Huebner教授のもとで編集プロジェクトが進行している由。

 問題のパピルスは、Arrianosなる人物からその兄弟Paulos宛に書かれたもので、文面内容は取り立てて注目すべきものではないが、文面の最後に「’主において’お元気で」を意味する短縮語を使用していることで、これをもってHuebner教授はこの書簡の書き手が、nomen sacrumと言われるキリスト教独特の略語を使用しているので、キリスト教徒であると断定する根拠としている。女史はまた、当時Paulosという名はエジプトでは珍しかったので、彼の両親はキリスト教徒だったのだろうと推定している。しかも、この兄弟は教育も受けていて、おそらく地主階級ないし公的役人の息子たちだったのだろうとも。

くだんのパピルスのrecto(表側)全体写真
問題の文末:最後の21行目「 -[ρω]ς ἐν κ(υρί)ῳ 」と読むらしい(以上、https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2019/07/the-worlds-oldest-autograph-by.html#ih4iZ3iJvw417UuF.97

 素人ながら、私見ではパピルス文書の表側のように見える(recto:パピルス紙は薄片を縦と横にならべて接着し、繊維が横になっているほうが書きやすいので表側となる)。Heroninos文書が書かれたのは249〜268年で、しかし通例反古パピルスを活用して裏側(verso)を使っている由なので、表側が230年代というのも頷ける。しかし、Huebner女史はウェブでは英訳のみ提示し、ギリシア語文面の解読はおろか、肝腎の「主において“in the Lord”」のnomen sacrum部分を表示していないので(パピルス見ても、残念ながら私には解読不能でして (^^ゞ)、本の出版を待つしかないのが歯がゆい。

【追伸】ということで、手っ取り早く、パピルスやっている高橋亮介氏にメールで問い聞きしました。最後の行は「 -[ρω]ς ἐν κ(υρί)ῳ 」で、「 κῳ 」の上には短縮語を示す横棒「 ‾」が上に書かれているとのこと。いわれてみると、ちょっと後にずれてますがみえました。なお、ご教示いただいたデータベースに写真も読みもありました。ただ、この書簡は「P.Bas.16」として1917年にErnst Rabelによってすでに表裏とも解読されていて、最初の読みは以下(http://papyri.info/ddbdp/p.bas;;16)。2019年の女史の読みは以下(https://www.trismegistos.org/text/30799)。これみると女史のは、1917年と1968年のMario Nardiniの読みを踏襲していて、ただP.Bas.16の番号をP.Bas. 2.43に付け替えているだけのことのようで、だったら新発見ではないことになる(色々細かい問題はありますが、ここでは触れません)。としたら、なんかちょとおかしいよね。こうなると速報に値せず、むしろ「遅報」のほうがふさわしい。新刊書の宣伝にまんまと乗せられた感じです。とまれ、情報には感謝。

 なお、膨大なパピルスのデータベースとしては、以下もある(http://digitalpapyrology.blogspot.com/)。くだんのHeroninos Archiveはいまだ半分くらいしか公表されていないらしい。私のようなつまみ食いでなく、こういう研究に若手がじっくり腰を据えて、果敢に挑戦してほしいものだ。研究の目鼻がつくのに5年、独自の見解出せるのに10年はかかるかな。それではもたないというのであれば、手っ取り早く業績稼ぐ工夫がいる。私は手元に以下の文獻持ってるけど、これなんかで目星つけるといいかも。Ed.by Roger S.Bagnall, The Oxford Handbook of Papyrology, Oxford UP, 2009.

 ところであとから気付いたのだが、このHeroninos Archive、以前「遅報9」で紹介したパピルスも同じ発見者たち(Bernard GrenfellとArthur Hunt)でした。私もだんだん興味が高まって、年甲斐もなく手をつけたくなりますが、実は今から40年も前に大迫害関係でちょっと調べていたパピルスがありまして、当時は予備知識もなく放り投げておりました。気が向いたらまた紹介するでしょう。とまれ、庶民の時間・空間の再構成にパピルスはいい素材だと思います。

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バチカンに勝算あるのか:最新世界キリスト教情報(2019/7/8)

 第1485信:2019/7/8

 今回の筆頭に「天主教愛国会への参加許可するが強制はしない、とバチカン新指針」との記事がでていた。昨年、バチカンと中国の間で「暫定合意」がなされて以来、混乱が続いている。当然、台湾や香港の高位聖職者からは決定に対して異論が出てきていた。どういう勝算があってバチカンはこのような行動に出たのか、果たして深謀遠慮あってのことなのか、私には未だ判然としない。暫定合意の核心は、中国側がすでに任命していた司教をバチカンが追認することにあった。ところで片手落ちにも、これまでバチカンに忠誠を誓ってきた地下教会やその聖職者に関しての取り決めの有無は今に至るまで明らかにされていない。だが、中国側がこれまでに倍して居丈高に地下教会に対して振る舞うのは当然で、混乱が生じないはずないことは事前に十分に予想されたはずである。それに対して今回バチカンは「良心に照らし合わせて、現状では愛国会に登録することができないと決断した者の選択を理解し、また尊重する。バチカンはこのような決断を下した者に今後も寄り添い、それぞれが試練に直面しているとしても、信仰における信者との交流をお守りするよう主に願う」と記している。同情と理解に満ちた言葉とは裏腹に、これまでの行きがかりを捨て、気持ちを整理して、早く愛国会に合流しなさい、と言っているようにしか思えないのだが。

 司教叙任権問題なので、教会法的にみるときこの妥協に正統性があるようには到底思えないが、これが実は、その場その場での状況に合わせてきていた教会法の真の実態であった、と考えればいいだけなのかも知れない。汎用性のある、体制教会にとって都合のいい法文が収集され保存され教会法となり、後世の教会にとって都合の悪いものは意図的に忘却ないし抹殺されてきたというのが、実態だったのだろう(もし再発見されても、地方的決定に過ぎないとか、異端的で誤っている、として葬るわけ)。このダブルスタンダードを研究者は想定して立ち向かわなければ、まんまと制度教会の術中にはまることになるだろう。それにしても、これが266代目教皇フランシスコ下におけるいかなる新機軸になるのだろうか。

 こういった視点から3、4世紀の北アフリカのキリスト教分裂を考え直してみると、さてどうなるのだろう。実はあの時の喫緊の課題は、これまで研究者がかかずらわってきている表側の神学的論義にあったのではなく、ローマ教会や有力信者が北アフリカに保有していた所領保全にあった、という見解に私は1票を投じているのだが(それが、前に触れた故M.A.Tilley女史の論文である:Theological Studies, 62-1, 2001, pp.3-22)、その時ローマ教会と大土地所有者側に立って現地で論陣を張ったのが、アウグスティヌスだった。あの時も地元のドナトゥス派のほうが圧倒的に優勢だった。中国でも目下圧倒的に有力なのは地元の天主教愛国会のほうなのだが、ローマのバチカンは今回、現地の誰の後ろ盾になって事態を乗り切ろうというのだろうか。現代の中国に、はたして劣勢を覆すアウグスティヌスがいるとでもいうのだろうか。

【追伸】2019/7/15発信の同情報によると、「カトリック天津教区の石洪禎司教、愛国教会不参加で司教の権利失う?」の記事。

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イタリア情報:ブログの消長と坂本鉄男先生

 イタリアの情報(私の場合、言うまでもなく歴史とか考古学関係)を得るのにこれまでたいへん役立ってきたブログにcucciolaさんによる「ルネサンスのセレブたち」があった。現地の新聞や雑誌からのトピックスの紹介がすばらしかった。書き手の女性はたぶん美術系で、イタリア人と結婚されてCastelli Romaniにお住まいであった。私にとっても貴重な情報をたくさん掲載されていたが(関係分は保存している、はず)、先日行ってみると休止の掲示があって、なぜか過去ログも全部読めなくなっていたので、単純な休止とは思えない。理由は不明ながら、私的には著作権侵害などでの中断でないことを念じている(こっちも居直って危ない橋を渡っているので(^^ゞ)。再開を心待ちにしている次第。なにしろ退職してそれまで継続的に購入していた考古学関係の一般向け雑誌を打ち切ったので、なおさらである。

【追伸】cucciolaさんのツィッター(自己紹介「小食で下戸、なのに食文化に興味津々の一主婦」)は、2014/1から始まり、今年の6/2まで書き継がれていて、未だ読めることを確認。これだけでも相当量の情報だ:https://twitter.com/cucciola1007(その中でお名前とお写真も入手できたが、一般人であらしゃるのでここでの掲載は思いとどまっておこう)。

 他にも「ダ・ヴィンチの食堂」をお書きになっている(いた、というべきか)。2017/6/3の「すさまじきもの イタリアのコネ社会:連載」(http://circus-magazine.net/posts/2637)をご覧あれ。こういう感性、私は大好きなのである。

 このように、ブログは書き手の都合で突然終わる運命を辿る。たとえば、今は昔、パソコン通信時代から古代ローマ史関係の書き込みが盛んにされていた「古代ローマ」(http://www.augustus.to/:2000/8以降)は、2000/8/18からaugustus氏主催で始まったが、まだ昔の過去ログが読める。途中から髙島某氏が盛んに出版情報を掲載しだして、たいへん賑わっていたが、2012/11月に彼の書き込みが前触れもなく中断すると、ぴたりと書き込みがなくなり、1年に3通ほどが続き、とうとう2018/2以降現在まで投稿はひとつもない。また、それが掲載しているリンク先36(玉石混合ながら)中,20年後の現在も見ることできるのは10となっていて(継続更新しているものはもっと少ない)、その半数は海外の検索サイトである。ここからも、残念ながら我が国のデータ蓄積力の底の浅さを感じざるを得ない。いつになったらシステマティックな構築がなされるようになるのやら。心許ないことである。

 それに代わって新顔が現れていないわけではないが、どれもこれも短命で開店休業ばかりのようだ。どうも我が国の研究者は、小規模な個人商店の認識しかないようで、それでは記事的に片寄っていて読者には面白くなくて、しかも早晩息切れしてしまうわけである(このブログもご同類には違いないが)。

 そんな中で、いつからか始められたのか存じ上げていないが、坂本鉄男先生がずっと産経新聞に隔週(昔は毎週)の火曜日に「外信コラム:イタリア便り」を書かれていて、今も継続されていて、市井のイタリア的感覚を発信し続けていらっしゃる(たまに新聞記者と誤解されて叩かれているが)。私はかつてウェブで産経新聞が無料だったときからこのコラムを愛読していたが、産経の無料が終わって、しかし今は日伊協会のHPで若干の遅れはあるが読むことができるのは有難い(https://www.aigtokyo.or.jp/?cat=27:但し、現在は2010年11月以降のもの:私はそれを2009年 11月15日からすべて保存している)。それはこんな話で始まっている。

彼がまだ現役だったころのお写真

坂本鉄男 イタリア便り 犬と外国語

    イタリアの有力紙の一つによると、犬は人間の2歳から2歳半の幼児と同じ頭脳を持つという。また、一番頭のよい犬種は「名犬ラッシー」の種類のコリーで、次いでプードル、シェパードの順になるらしい。  ここで、「犬と外国語」について私の経験をお伝えしたい。  約30年ほど前、ローマで真っ白な縫いぐるみのようなかわいい子犬を購入したことがある。購入直後、わが家を訪問した当時のローマ市立動物園の園長氏が子犬を見るなり「この犬は羊の群れを守るためオオカミと闘ったことで有名なマレンマ犬だ。体重は30キロ以上になりますよ」という。   しかし、幸いメスであったことと、少し雑種だったことから体重は二十数キロで止まった。だが、オオカミと闘った祖先には申し訳ないほど気が弱く、散歩中に小猫を見ても大きな体をしているのに立ちすくんでしまう。   家族の愛情を一身に集めたが約11年の短い寿命だった。愛犬で一番困ったのは旅行のときであった。家庭内では日本語しか使わないため純粋なイタリア犬なのに自国語が全然わからないこと。このため、旅行に行くのに犬屋に預けるのはあまりにもかわいそうだ。   結局、日本に1カ月ほど帰国旅行したときは、ナポリまで車で運び日本語が達者な大学の同僚夫妻に世話を頼み、1週間前後のときは大学の教え子に自宅に泊まってもらった。犬だって外国語には弱いのである。

 そして、今年の2/19はこんな具合。

坂本鉄男 イタリア便り 誰がために鐘は鳴る

   時計が1軒の家にいくつもある現在と違って、昔は洋の東西を問わず、お寺や教会の鐘の音は冠婚葬祭などの宗教的行事のみならず、時刻を知らせる役割も果たしていた。  日本の童謡「夕焼け小焼け」や、ミレーの名画「晩鐘」などは、寺や教会の鐘の音が子供や農民に遊びや仕事をやめて帰宅する時間が近づいたことを知らせていたことを示す代表的な童謡と絵画である。   ローマから東に約160キロのぺスカッセロリ村は海抜約1千メートルの山地にあり避暑地として名高い。  この村に約1,100年前に創立された「聖ピエトロ・パオロ教会」の司祭アンドレア・フォリオ神父は、村の少子高齢化で教会の鐘が葬式ばかりに鳴るのにうんざりして一計を案じた。「村民の諸君、特に若い女性の皆さん、今度から赤ちゃんが生まれるたびに赤ちゃんの100歳までの長寿を祈り教会の鐘を100回鳴らすことにします」と。奇抜な案に村民は驚いたものの多くが賛成した。  イタリアの少子化は著しく、一昨年の老齢化による死者の数が63万4千人だったのに対し、新生児は44万8千人であった。  これではフォリオ神父が心配するごとく、教会の鐘はまさに「誰(た)がために鳴る」のか問いたくなる。

 坂本先生は1930年3月のお生まれなので、そろそろ90歳。すごい、の一言である。代わりの人材がいないというよりは、余人に代え難いのである。一昔前の研究者にはこういう傑物・快物がごろごろいた、という印象があるが、現在は、一見情報があふれかえっていて、その中に埋没を余儀なくされ、しかもその実その大半はつぶやいた途端に消え去る泡沫情報といっしょの運命をたどるようで、昨今の思考の軽さはなんなのだろう。なんだかな、と慨嘆したくもなる。

 又、最近私が注目しているのが「ARCHAEOLOGY NEWS NETWORK」の「Archaeology」である(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/#Pu8yKs0jVC7UIz6m.97)。ここに掲載されたトピックスを他のウェブ記事を加味して継続的に紹介するだけでも、かなりの有益な情報を共有することができると思うのだが。といっても、なにしろ量が多いので、自分の持ち領域をそれぞれ分担する仲間が数人いるといいな、と思ったりしている。なにせ古代ローマの考古学は日本ではまだ黎明期以前、地中海のそれを紹介するだけで意味あることだと、私など思っているのだけれど。

 しかも、である。このHPを見ていると、新発掘の情報のみならず、遺跡で観光客が遺物を失敬して捕まった記事(やっぱり、ね)、それから、エジプトやギリシアが遺物を持ち帰った西欧諸国の博物館に返還要求をし、それを拒否したり、返したりしている記事、それどころか盗難品が出てきたの、また博物館がフェイクを掴まされているのが判明したの、といった普通おもてに出ない情報も出ていて、なかなか目端がきいてセンスがいいのである。

【追記】2021/4/6に久々に「イタリア便り」をチェックしたが、昨年12月15日までで、その後の転載がない。・・・・

【追記2】2021/6/23付産経新聞情報があった:「イタリアから45年以上コラム執筆 坂本鉄男氏引退」(https://www.sankei.com/article/20210623-PG73V2PG5RMIPPQF4IHNQHFDUI/)。以下最初の方だけ無断転載する(そのあと、幾つかの記事が再掲されていて、私もお世話になった故ピタウ大司教の話も出てきて・・・)。写真も掲載されているが、近影とはいえず2003年のものだが、私も歳とって思うことは、写真だけは元気なころのものが絶対いい、と。

  産経新聞国際面で外信コラム「イタリア便り」などを45年以上執筆してきた坂本鉄男氏(91)がこのほど引退することになりました。長年のご愛読、ありがとうございました。

  坂本氏は東京外大助教授を経て1971年からイタリアのナポリ東洋大教授を務め、2002年の退官後もローマに在住してきました。イタリア語に関する著作や訳書、編纂(へんさん)にあたった辞書が多数あります。

  現地での研究・教育活動の傍ら、1970年代半ばから昨年12月までの長きにわたり、産経新聞の嘱託で毎週のようにイタリアとバチカン市国に関するコラムを執筆しました。

  79年に本紙コラム「イタリア通信」(当時の名称)でイタリア文化会館のマルコ・ポーロ賞を受賞。83年には日伊文化交流への功績でイタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ章、2000年に日本国勲三等瑞宝章を授与されました。

■坂本鉄男氏の話

日本の家庭の食卓でスパゲティやピザなどイタリア料理が一般的になり、イタリアを訪れる日本人観光客は驚くほど多い。そこで日本人はイタリアをよく知っているような錯覚を抱くが、実際には日本人のイタリアおよびバチカン市国に関する政治・社会・文化的知識は非常に乏しい…。

この間隙を埋めたいと考えたことが、産経新聞の依頼でイタリアに関するコラムや記事を書くようになった理由である。「客員特派員」という肩書を付けられていた時期もあるが、正式の記者や社員だったことは全くない。新聞社と一般稿者という奇妙でまれなる関係のまま40年以上、自分の目で見た現実のイタリアを読者に伝えてきたわけである。

こうした関係上、話題の選択などは私個人の経験と責任で自由に行うことができたことは幸いであったと言わねばならない。産経新聞と読者諸氏に改めてお礼を述べたい。

 一抹の寂しさを感じざるを得ないが、本当に長い間ご苦労様でした、と言いたい。

【追記3】2022/8/26 最近、このWebを訪問する人がちらほらいて、気になったのでひょっとしてと思ってぐぐったら、案の定でした。ご冥福をお祈りいたします。

https://www.sankei.com/article/20220429-B2T4NGH7CNL4RO55EDMZG2K5ZI/

坂本鉄男氏が死去 本紙コラム「イタリア便り」執筆

2022/4/29 19:37

「イタリア便り」の坂本鉄男氏(2003年7月撮影)
「イタリア便り」の坂本鉄男氏(2003年7月撮影)

産経新聞で外信コラム「イタリア便り」を45年以上執筆した坂本鉄男(さかもと・てつお)氏が28日、イタリア・ローマの自宅で死去した。92歳。葬儀は未定。東京外大助教授を経て、イタリアのナポリ東洋大教授を務め、2002年の退官後もローマに在住。1970年代半ばから2020年12月まで産経新聞の嘱託でイタリアやバチカン市国に関するコラムを執筆してきた。

【追記4】別情報によるとなんだか壮絶な情報が。いったい何があったことやら。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%89%84%E7%94%B7

Ex prof giapponese uccide la moglie e poi fa harakiri: omicidio suicidio rituale a Roma La Sicilia 2022/04/29

 ビックリしてイタリア在住者に問い合わせた。即答で返事があり、それによると、1歳年下の奥さまが長らく寝たきりで回復の見込みなく苦痛もひどかったという事情があったようだ。ご本人はどうやらharakiriではなく、セネカ的手段だったらしい。痛ましいことであるが、あまりにも日本人的な選択で言葉もない。西欧だったら尊厳死への段取もとれたのでは、とつい思ってしまうのだが。

ただただ、ご夫婦のご冥福をお祈りします。

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