① XIX.2-6:自分はどの野獣にやられたいかという、獄中での男どもの与太話は、いかにも獄中での会話でありそうな話で、リアリティ十分で面白かった。その中でHeffernanの指摘で興味深かったのは、サトゥルスが自分は豹の一噛みで死にたいといっていたが、実際にはまず猪、ついで牡熊に向けられたけれど、野獣の都合で闘獣がうまくいかず、結局彼の予言通り豹により瀕死の重症を負ったことを、サトゥルスの予言の成就とみなしている点だった。
② XIX.5:闘獣士がサトゥルスと猪を「しっかり縛りつけ」ようとしたとは、闘わせる人間と野獣、野獣同士を、互いに鎖で繫いでいたことを意味していた。
③ XIX.6:サトゥルスが牡熊と対決させられたとき、彼が「橋の中で縛られ」たsubstrictus esset in ponteという意味が自明でない。熊が檻から出て死刑囚が縛られている台の階段を上っていく装置が「橋」に見えたのだろう。観客が見やすいようにするため、そういう舞台をしつらえたようだから。これについては、以下の論文で、奴隷売買の台catasta、舞台の奈落pegma、演台pulpitumといった装置と同様のものをponsと呼んでいたことが分かった。Jean-François Géraud, «Ad bestias ».Manger des hommes, Journées de l’Antiquité et des Temps anciens 2012-2013, Université de La Réunion, Apr 2012, pp.19-46.
私はこれまでこのサトゥルスに関して、ギリシア語Σάτυροςから、ギリシア神話に登場する半人半獣(通例、上半身が人間で下半身は山羊)のラテン語表記、したがっていささかマイナス・イメージを持っていて、だから本殉教伝も当時の読者にいらぬ憶測をさせないためにも「ペルペトゥアとフェリキタスの」すなわち「永遠の繁栄・豊かさ」と呼び習わされてきたと考えて来た。だがThomas J.Heffernan, The Passion of Perpetua and Felicity, Oxford UP, 2012, p.275によると、ラテン語形容詞のsatur,-ura,-urum「満ち足りた、豊富な、肥沃な」を語源にしている由である。こうして、キリスト教的な意味でサトゥルスとは、「聖霊に満たされし者」というプラス・イメージの名前となり、紀元後3世紀半ばのカルタゴ司教キュプリアヌスは書簡(21,28)で彼とは別人のサトゥルス2名に言及しているので、北アフリカでは決して珍しい名前ではなかった由である。
すなわち、殉教伝は J.Armitrage Robinson, 1891以来、一応原典はラテン語で書かれているとされてきたわけであるが、サトゥルスの文章では、どうも教会典礼での常套句、特にミサ聖祭における祈祷文がかなりの割合で繰り返されている気配があって、しかもそれはミサ聖祭の実際の場ではラテン語ではなくギリシア語で唱えられていたのではないか、という点だった。これは、特に天上で天使たちが喋っている言葉において顕著だったのではと思えた。そこで殉教伝の翻訳見直しでもラテン語のウラに潜んでいたであろうギリシア語を並記してみる気になったわけであるが、これは同時にラテン語原典から訳されたギリシア語訳版への見直し、という側面も併せもつことになって、これまでは問題をあまり複雑にしたくなかったので(すっきり原典とされるラテン語版叙述で事態を捉えたいと)、これまで避けていたギリシア語訳版をも射程に入れざるを得なくなってしまうことになるのだが、逆に考えると、もしそうだとして、なぜそれらがラテン語に訳されなければならなかったのか、が今度は気になりだしてしまうのである。よく言われていることであるが、キリスト教においては、3世紀初頭は北アフリカのみならず帝都ローマにおいてさえも、まだギリシア語が典礼使用語であり、聖職者もギリシア系が圧倒的に多かったわけで(それは、北アフリカで2世紀後においても相変わらずアウグスティヌスを取り巻いていた状況でもあった)、そうであればなにゆえここでもラテン語なのだろう、という疑問である。そこでうろうろしていたら、なんと最新研究書のEliezer Gonzalez, The Fate of the Dead in Early Third Century North African Christianity, Tübingen, 2014, p.6-8は、通説をひっくり返して、ペルペトゥアはギリシア語で書き、編纂者はラテン語で書いた(よって、論の赴くところ、編纂者がペルペトゥアの部分をラテン語訳したことになるのであろう)、という仮説を提出していることに気付いてしまったりもする。
次いで、ペルペトゥアの夫問題にはシスターの文献がなぜか2012年以降ようやく引用されるようになってはいるが、やはり全幅の賛意からではないように感じるのは、私のひが目であろうか(たとえば、Thomans J.Heffernan, The Passion of Perpetua and Felicity, Oxford UP, 2012, p.273, 328;Ed.by Jan N.Bremmer & Marco Formisano, Perpetua’s Passions :Multidisciplinary Approaches to the Passio Perpetuae et Felicitates, Oxford UP, 2012, p.59, n.12;Rex D.Butler, The New Prophecy, and ‘New Visions’ : Evidence of Montanism in the Passion of Perpetua and Felicitas, BorderStone Press, 2014, p.91, n.18;Eliezer Gonzalez, The Fate of the Dead in Early Third Century North African Christianity:The Passion of Perpetua and Felicitas and Tertullian, Tübingen, 2014, p.5, n.2, in:Studien und Texte zu Antike und Christendom, 83;Petr Kitzler, From Passio Perpetuae to Acta Perpetuae, de Gruyter, in:Arbeiten zur Kirchengeschichte, vol.127, 2015, S.41, Anm.178)。とはいえ、まあこの調子で、刺激的すぎる事実が徐々に受け入れられていけばいいと思う。
最初に私事に触れることをお許し戴きたい。私が本書の存在を知り入手したのは出版直後のことで、翌年前期の演習で十四名のゼミ生たちとともに読み始めた。当時の授業記録を確かめると、演習をするにはゼミ生が多すぎたので、テキストとゼミを二つに分け週二回でそれぞれ読み進めている。註を含めて二〇〇頁強だったので半期で読了し、後期は関連著作のPeter Dronke, Women Writers of the Middle Age, Cambridge UP, 1984と、Cecil M.Robeck,Jr, Prophecy in Carthage : Perpetua, Tertullian, Cyprian, The Pilgrim Press, Clevel an Ohio,1992の関連箇所へと向かった。そして、一九九九年度の院ゼミでラテン語原典の精読に入った。その成果は幾つかの口頭発表のあと論考にまとめられた(1)。
そして、Ⅱ・3の最後の一文である。ラテン語原文を、M訳は版本的根拠がないにもかかわらずカッコで括り、著者(=邦訳者)もそれに準拠し「(ここからの彼女の試練の物語はすべて彼女自身が、彼女の考えに従い、彼女自身が選んだ順序で書き記した通りである)」(一二五頁)と訳す。土岐訳は当然のことカッコをはずし「Pその人が、自分の受けた殉教の顛末を、直接自分の手で書いたかのように、すべて順序立てて物語り、自分の意志で(我々のために)残したのである」として、拙訳「彼女は彼女の殉教のすべてを・・・自ら物語った。いわば彼女の手で、そして彼女の意志で書き付けて残したのだった」に近い(以上、下線は評者)。M訳=邦訳者と土岐=豊田の違いは、P自身が書いたのか、彼女は物語っただけで第三者が書いたのか、にある。サトゥルスの場合、彼は「自身の以下の幻を述べた。それを彼自身が記した」としている(Ⅺ・1。 但しXIV・1に誤解を招きやすい文言あり)。よってこの件での軍配は、もちろん編纂者の意図的改竄の可能性も含めて、わが方にあると確信しているが、多くの先行研究者は前者を採用してきた。彼らは、後述のYouTube(「The Perpetua Documentary」)で市井の一視聴者が「She did not write it herself」と喝破しているのを、どう受け取るのだろうか。この一事をもってしても殉教伝全体の構造把握に決定的に重要な文言に、著者を含め研究者が意外に無頓着なのは驚かされる。
註(4)管見の限りでも、Amy G.Oden, Church History, 67-3, 1998 ; S.Benko, The Catholic Historical Review, 84-4, 1998 ; Shira L.Lander, Journal of Women’s History, 11-3, 1999 ; Judith E.Grubbs, The American Historical Review, 104-2, 1999 ; M.Heintz, Journal of Early Christian Studies, 7-2, 1999 ; S.Hervé, L’Antiquité Classique, 69, 2000 ; M.Whitby, Classics Ireland, 7, 2000.
註(5): そのうち主要四冊(二〇一二〜一四年)が以下で書評に取り上げられている。Journal of Early Christian Studies, 24-3, 2016, pp.458-460 ; 25-2, 2017, pp.307-319. とりわけ,今後の研究において版本レベルの検討から出発して逐語的・テーマ的に詳細にいるThomas J. Heffernan, 2012は、見落とせない。
註(6) Jennifer A.Rea and Liz Clarke, Perpetua’s Journey : Faith, Gender, & Power in the Roman Empire,Graphic History Series, Oxford UP, 2017. DVDもある(Catholic Heroes of the Faith:The Story of Saint Perpetua, 2009)。 また、関係アニメ・動画も枚挙にいとまない。興味ある向きはYouTubeで、たとえば以下のキーワードを入れると、簡単に鑑賞することができる。 The Story of Saint Perpetua and Saint Felicitas(スペイン語版やインドのドラヴィタ族のマラヤーラム語版もある);Martyrdom of Perpetua; The Perpetua Documentary;St Perpetua and her vision of her little brother in Purgatory !
(4)邦訳について:ここでも初期原稿を転載しておこう。
「訳者あとがき」によると、原書の誤記は断りなしに修正されている由だが(二七八〜九頁)、英語表記「Felicity」については一言あってよかったのではないかと思う。これは書評でBenkoが「Felicitas」とすべきだと指摘していた点である(初出十一頁:但し本訳書では修正済み)。評者が気付いた範囲でも、なぜか一次文献にポリュビオスが抜けているし、六九頁でカルタゴのそれが帝国第二の闘技場となっているのも、通例はカプアがそれに当てられているので異論があるかもしれない。ちなみに、最大はローマのコロッセオ、次いでスパルタクス叛乱で著名なカプア[現Santa Maria Capua Vetere]、スペインのItalicaと続き、その後は僅差とはいえフランスのCaesarodunum[Tours]、Augustodunum[Autun]、そしてカルタゴとなる計算だからだ。
邦訳はよくこなれていて読みやすい。そのために邦訳者は多くの時間を費やしたはずである。しかし重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、ケアレス・ミスがないわけではない。たとえば、編纂者の手になる冒頭部分に限っても、Pを考える上でキー・ワードとなりえる「matrona」が本文中では「貴婦人」とされている割には(たとえば一〇、一五頁)、[図1・1]では通常訳の「既婚婦人」となっている(二一五頁も)。ここは予断を避けるためにニュートラルな後者で統一すべきではなかったか。また、註(2)の位置が一文ずれたりもしている(一六頁)。六八頁でcolumnsを「円柱」としているが、遺跡写真を見れば一目瞭然で「(土留めの)支柱」とすべきだろう、云々。文献一覧で(そして註記でも)、邦訳を並記する労多き作業をされていて有難いが、管見の限り少なくとも一〇以上見逃しがある。専門家にはいずれも周知とはいえ(たとえば、von Franz, Prudentius, Dumézilなど)、一般読者のために是非再版の機会に付加してほしい。ここで見過ごしやすいものを挙げるなら、第二章註 (17)のオットー・キーファー(大場正史譯『古代・ローマ風俗誌』桃源社、一九六四年、三二頁[但し全訳ではない]; 初版Otto Kiefer, Kurturgeschichte Roms unter besonders Berücksichitung der römischen Sitten, Berlin, 1933 ; 英訳初版 Sexual Life in Ancient Rome, London, 1934)にしろ、彼が引用しているウェレユス・パテルクルス(西田卓生・高橋宏幸訳『ローマ世界の歴史』京都大学学術出版会、二〇一二年、三六頁)など。また、第三章註(19)以降数カ所引用のテルトゥリアヌス『スカプラへ』も目立たないところで邦訳がある(大谷哲訳『歴史と地理:世界史の研究』No.664:235, 二〇一三年、二九〜三三頁)。こういったことを敢えて指摘するのは諸先達の業績に敬意を表したいがためである。
また、たとえば『殉教伝』Ⅲ〜Xでの記述が、彼女の獄中日記が元になっているかどうかという論議はなかなか決着しないようである。私見では、彼女を明らかに預言者として位置づけようと種々工夫を凝らして読者を意図的に(誤読へと)誘導している編纂者はいうまでもなく、獄中でおそらく「キリスト再臨直前の最後の預言者」との思いで彼女の言動を逐一聞き漏らすことなく記録しようとしたはずの筆(速)記者が存在したはずなのであるが、そのような視点で立論している研究者は皆無である。管見の限りで、たしかに一応検討している論文があるものの(Jan N.Bremmer, Perpetua and Her Daiary : Authenticity, Family and Visions, in : Hrsg. von Walter Ameling, Märtyrer und Märtzrerakten, Stuttgart, 2002, pp.77-120;Vincent Hunink, Did Perpetua Write her Prison Account ?, Listy filologické, 133, No.1/2, 2010, pp.147-155)、それでも私見からすると核心に迫っているとは言いがたい現実がある。
また、あとから気付いたことだが、著者は北アフリカの邸宅の床を飾っていた舗床モザイクに血なまぐさい図像が多く、それが北アフリカ的風土の特徴でペルペトゥアにも影響を与えていた、と強調している(九二頁)。まあそう言われてみるとその種の画材がたしかに多くあったなと思い出したりして、なんとなく納得させられてきたのだが、しかしまんまと著者の罠に嵌められていることに気付いたのは、本ブログに掲載するため「野獣刑 ad Bestias」や「野獣狩り Venatio」のモザイクを収集し出してからだった。すなわちバルドー博物館などの所蔵品を総体として見た場合、血なまぐさいモザイクはあることはあるが、著者のようにことさら声高に言って強調するほどには多くないのである・・・。そしてまた、帝国東部や北部においてもこの種の「残酷なモザイク」は存在していて、それについて著者はもちろん知らぬ振りを決め込んでいるわけで、このあたりの印象操作には気をつけないと、とは自戒を込めての反省点。たしかに野獣刑はかなり刺激的な描写となってはいるが、それは再発防止を含めての犯罪者の処刑方法なので、見せしめという別要素が入ってくるわけで、猛獣の狩りなどと同列には論じ得ないように思えるのだが、どうだろう。
この港町には東の城壁門外に墓地があって、紀元前からキリスト教時代までの遺跡が残っている。今回紹介するのは、後1世紀に創建され、その後増改築された「Tomba degli Archetti(弓の墓室)」(Heinzelmann M. – Martin A. – Coletti C. ,Die Nekropolen von Ostia, München, 2000 掲載の図版だとB6)である。ここの北側外壁の装飾に、私にとってたいへん興味深い図柄がある。どうやら太陽 Sol(神)なのである。かなり遊び心が加味されているようでおもしろいので、いつか多少踏み込んで紹介したいテーマのひとつである。