入浴するのがわたしにとりいいように思われました。というのは、入浴はパルネウムという名で呼ばれていますが、それはギリシァ人が入浴を「心から悲哀を追い払う」という意味でバラネイオンと言ったことに由来する、と聞いていたからです(11)。visum etiam mihi est, ut irem lavatum, quod audieram inde balneis nomen inditum, quia Graeci balaneion dixerint, quod anxietatem pellat ex animo. ・・・ わたしは入浴しましたが、入浴する以前と全く変わりませんでした。わたしの心から苦痛は、全く消え去りませんでした。quoniam lavi et talis eram, qualis priusquam lavissem. neque enim exudavit de corde meo maeroris amaritudo.
そういったバスタブ式の浴槽自体がオスティアの遺跡に残っているわけではないが(正確には、遺跡管理事務所の倉庫を調査してみないと結論できないけど)、設置されたであろう浴室(ラテン語でlavatrina)は、オスティアのIII.v.1のCasa delle Volte Dipinteの2階[https://www.ostia-antica.org/regio3/5/5-1.htm掲載の平面図のXXIV参照]に確認されているようなものだったのでは、と私は推測している。この建物の上階部分(2階と、今は失われてしまっているが3階)はおそらく宿泊施設だった。たぶん現在でいうモーテルに相当する施設で、というのは当時の移動・運搬手段だった馬やロバやラバの駄獣を収容したであろう厩舎がまさしく北側に隣接しているからだ(Ⅲ.iv.1:Caseggiato Trapezoidale)。また、この浴室の通路を隔てた部屋は台所で[XXVI]、そこには小振りながら水槽も設置されていたので、水をあたためるのには便利がよかったはずだ。というかひょっとしたらこの台所、湯沸のための設備だったのかも知れない。もちろん宿泊客のご主人様のため奴隷が食事をつくることもできたであろうが。なおこの建物は現在立入禁止になっている。写真はそうなる以前に撮影したものなので、悪しからず。
【追記】オスティア遺跡で、上階での浴場の存在を確認することは容易ではない。上階そのものが現在は残存していないからである。次善の策として排水構造、すなわち土管の存在がらみで筆者が見つけえた希有な例を紹介しておこう。III.x.1の「戦車御者の集合住宅」Caseggiato degli Aurighi の二階に奇妙な一角があることを三階に登った時、西方向を見下ろしてみつけることができた。
1899年に、エジプトのファイユーム地方のTebtunisで、Bernard Grenfell とArthur Huntによって発見されていたパピルス文書をアメリカ・ライス大学の院生Grant Adamson君が2011年に解読し、2012年に公表した(Grant Adamson, Letter from Soldier in Pannonia, The Bulletin of the American Society of Papyrologists, Vol. 49 (2012), pp. 79-94)。この論文、自宅でググったらすぐさま入手できた。
パピルスの書き手はAurelius Polionで、紀元後214年頃に筆無精な家族に宛てて愚痴を書いている。彼はパンノニア・インフェリオル(現在のハンガリー)に派遣されていた第2アディウトリクス軍団Legio II Adiutrix(本部駐屯地は今のブダベスト)所属の兵士と想定されている。Aureliusという名前からすると解放奴隷あがりのような気がするが、さて果たして正規の軍団兵だったのか、それとも補助軍兵士だったのか。カラカラ帝の全自由民へのローマ市民権付与は212年だったので、それ以降だと軍団兵だった可能性があることになり、また、書簡中に「執政官格(総督?)のπα[ρὰ] τοῦ ὑπατεικοῦ 許可をえて」なる文言があるので、その属州が執政官格属州となったのは214年以降だったこともあり、書簡発信年の上限を絞ることができる、とAdamson君は想定しているが、兵士が外出許可を求めるのは軍団司令官のほうのはずで、はたしてそう言えるのだろうか、若干疑問。とまれ、庶民の生活証言の残存史料で貴重である。こういったパピルス史料に正面から立ち向かった研究(たとえ欧米の研究の紹介にせよ)の進展を期待せざるをえない。
さっそく帰りの電車の中で繙いて読み出した。語学能力に著しく劣る私には、ただただ敬して拝読するしかない内容で(なにせ、p.2には、留学先のイギリスで教授から「ラテン語やっていてイタリア語をやらんとはなんたることだ:What a shame!」といわれ、二週間の速成で身につけて一冊を読み報告したとか、p.3には、アメリカ進駐軍の中佐と語学交換教授したが、彼は九つめの語学として日本語を覚えたいと希望、それまでに英・独・仏・伊・露・西・希・トルコ語を読み書き話すことができた人で、などという話が平気で出てきて表題通り「語学者」の面目躍如なのだ)、しかし新版で削除された「一万年後の東京大学あるいはポケット・ティッシュについて」が、私の関心の射程にも触れていたせいか特に興味深かった。
昨年の渡伊では失敗をした。それはフォロ・ロマーノの入場券でこれまで通り通常の12ユーロを購入したのだが、16ユーロの特別入場券Super ticketを購入すれば、ここ数年閉鎖されていたアウグストゥスの家Casa di Augustoやもう10年以上入れなかったリウィアの家Casa di Liviaなど7カ所の見学が可能になるが(ちなみに他は、Criptyoportico Neroniano, Museo Palatini, Aula Isiaca-Loggia Mattei, Tempio di Romalo, Santa Maria Antiqua[相変わらずRampa imperiale付き公開なのはうれしいが、教会でデジタル映像はもうやっていなかった])、それは一旦構内に入るともう修正が効かなかったことだ。逆にいうと、博物館とかこれまで追加料金不用で見ることできた重要な場所を見られなくなった、わけである。
グレゴリオ通り入り口に掲示されていた料金表を見ると、これまではコロッセオと共通券だったはずなのにそれは書いてなかったので、制度変更があったのかも知れない。ともかく12ユーロ払って正午ごろに入場したが、昨年から無料公開(但し、昨年は時間制限あったはず)された緑の散歩道Percorsi nel Verdeを、またまたなつかしさのあまり回ったり、簡単な昼食休憩していたので、時間切れで全部回ることはできなかった。だから全部見るとしたらそれだけで一日仕事となるだろう。
Aurelius Victor, Liber de Caesaribus, 14.1-4:(ハドリアヌスは)東方で和平を整えてローマに帰還する。そこでギリシア人たち、ないしヌマ・ポンピリウスのやり方で諸々の儀式、諸法令、諸体育場、教師たちを差配し始めた。それほどにたしかに、有能な人々のための諸学芸のための一つの学校、それを人々はアテナエウムと呼んだのだが、それを彼は創設し、そしてケレスとリベラの秘儀、それらはエレウシナと名付けられているが、それをアテナエ人の方式でローマにおいて執り行うほどだった。
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ハドリアヌス帝の「アテナエウム」
Roberto Meneghini, Die Kaiser Foren Roms, Darmstadt, 2015, S.97-8.
・・・ さらに大がかりな発掘が、2007年に、新しい地下鉄[C]線の建設のための試掘調査の中で、S.Maria di Loreto教会とPalazzo delle Assicurazioni Generali[in Piazza Venezia:ヴェネツィア広場東側に面したジェネラリ保険会社ビル]の間の巨大な花壇の中心で、始まった。ローマ遺跡管理局によって実施された諸調査は、すでに1902年から1904年に出くわしていた建築物のさらなる部分の発見へと導いた。それはヴォールト天井をもつ巨大な空間で、約13×22mの床面積からなっていて、123年から125年の時代の夥しいレンガ刻印のおかげで日付されることができた。[その空間の]両側には大きな、60cm幅の演壇階段が取りつけられていた。それらは元来大理石平板が張られていて、そしてたぶんsubsellia(低い腰かけ)として役立っていた(図版117)。
ローマから帰ったばっかりなのに、5/8付け情報によると、皇帝ネロの黄金宮殿Domus Aureaの修復中の2018年秋に偶然、華やかなフレスコ画で装飾された部屋に通じる穴を発見したという。そこは、責任者Alfonsina Russo女史らによって「スフィンクスの広間」Sala della Sfingeと名付けられた。AD65-68年建築とのこと。これだから、ローマは、イタリアは・・・油断できない。http://www.neldeliriononeromaisola.it/2019/05/271475/
またこんなのも見つけた。これは2017年のオークションに出たモザイクらしく、出土地等の由来は不明であるが、ホメロスの『イリアス』III.1-9を最古とするピグミーとサギcranesの闘いを描いたものとされているが(cf., Augustinus, De Civ.Dei, XVI.viii.1)、闘っているようには見えない。http://benedante.blogspot.com/2017/06/pygmies-and-cranes.html