投稿者: k.toyota

アウグスティヌスも入浴した

 数少ない研究者仲間の新保良明氏から以下の恵送をいただいた。

 「『テルマエ・ロマエ』の主人公が現代日本にタイムスリップするのはなぜか」『地歴最新資料』第23号、2019/5/10、pp.2-6。

 氏の中心論点は表題にあるのだが、それを拝読していて、アウグスティヌスは母モンニカの死亡で悲しみに暮れていたが、気持ちの切り替えを期待して、入浴した(p.5)という件があって、おや、おいおいっ、と。なんと典拠は、私が読書会まで開いて読んだ『告白録』(9.27-32=9.12)だったので、見逃していた事実にがっくり。ここでは宮谷宣史訳(教文館、2012年、p.305)で核心部分のみ引用する。

 入浴するのがわたしにとりいいように思われました。というのは、入浴はパルネウムという名で呼ばれていますが、それはギリシァ人が入浴を「心から悲哀を追い払う」という意味でバラネイオンと言ったことに由来する、と聞いていたからです(11)。visum etiam mihi est, ut irem lavatum, quod audieram inde balneis nomen inditum, quia Graeci balaneion dixerint, quod anxietatem pellat ex animo.  ・・・ わたしは入浴しましたが、入浴する以前と全く変わりませんでした。わたしの心から苦痛は、全く消え去りませんでした。quoniam lavi et talis eram, qualis priusquam lavissem. neque enim exudavit de corde meo maeroris amaritudo.

 宮谷氏はここに以下のような註をつけている。註(11)「ラテン語の浴場を意味するbalaneaは、ギリシャ語のβαλανείονから来たとみなされて、これは、ギリシャ語の、βάλλω投げ出す、とἀνίαν嘆き、を意味する言葉から成り立っているとみなされ、このようなことが一般に言われていたのであろう。このような考えと習慣がヨーロッパに伝わっていたことは、たとえば、中世の代表的な神学者、トマス・アクィナスにも見られるので、興味深い(『神学大全』I・II、38・5参照)。」

 ギリシア語が苦手だったアウグスティヌスでもこれくらいの耳学問はあったということだろう。彼が始終入浴していたかどうか、私には、ここでの叙述ではめったにないことだったような雰囲気が感じられてならない。ということは、おそらくアウグスティヌスにとって「入浴」するとは、気晴らしの遊興設備も整った公衆浴場でのそれだった可能性が強くなる。であれば、オスティア・アンティカには幾つも候補があった。それについてはいつか触れる機会をもちたい。

 ここでは宿舎に付属していたであろう簡易風呂について知るところを簡単に触れておこう。たぶん日常的には冷水で身体を拭うくらいのことをしていたのだろうが、例えば温水を使うとなると、ギリシアのヒップバス式ではなく、いわゆるクレタのクノッソス宮殿で確認されているバスタブ・タイプや、チュニジアのケルクアン遺跡だとあちこちで見ることができる座浴式バスタブであったと思われる。それらはイタリア半島でも見ることができるし、現在でもその型の浴槽はある;前者はイタリアのホテルで今もよく見かけるし[ただし、往々にしてカーテンがないので、その場合、座ってそっとシャワーしないと浴室が水浸しになるのでご注意、というか、以前そういうこと考えない後輩のあと浴室に入ってひどい目にあったことを思い出す。すべるのである]、後者についても、私は南イタリア旅行で、アドリア海沿いのある博物館で見た記憶がある。また、かつてチュニジア旅行したとき宿泊したホテルの浴室がまさしくそれであったので、狂喜して写真も撮ったのだが、さてそれはどこにいってしまったのやら。

クノッソスのテラコッタ製バスタブ:隣室には水洗式トイレもある由
ケルクアンの座浴風呂の一例

 そういったバスタブ式の浴槽自体がオスティアの遺跡に残っているわけではないが(正確には、遺跡管理事務所の倉庫を調査してみないと結論できないけど)、設置されたであろう浴室(ラテン語でlavatrina)は、オスティアのIII.v.1のCasa delle Volte Dipinteの2階[https://www.ostia-antica.org/regio3/5/5-1.htm掲載の平面図のXXIV参照]に確認されているようなものだったのでは、と私は推測している。この建物の上階部分(2階と、今は失われてしまっているが3階)はおそらく宿泊施設だった。たぶん現在でいうモーテルに相当する施設で、というのは当時の移動・運搬手段だった馬やロバやラバの駄獣を収容したであろう厩舎がまさしく北側に隣接しているからだ(Ⅲ.iv.1:Caseggiato Trapezoidale)。また、この浴室の通路を隔てた部屋は台所で[XXVI]、そこには小振りながら水槽も設置されていたので、水をあたためるのには便利がよかったはずだ。というかひょっとしたらこの台所、湯沸のための設備だったのかも知れない。もちろん宿泊客のご主人様のため奴隷が食事をつくることもできたであろうが。なおこの建物は現在立入禁止になっている。写真はそうなる以前に撮影したものなので、悪しからず。

日本式に表現すると「2階」平面図
オスティアの浴室入り口部分(水の流出を防ぐ土手の存在に注目)
部屋の奥を見る:床と壁の接続面に防水のため漆喰が厚く重ねられていることに注目
窓際左隅の排水構造:穴の向こう側に二階トイレが設置されているので[平面図のXXVの窓際]、使用済み汚水は糞尿を流すのに再利用されたわけ

【追記】オスティア遺跡で、上階での浴場の存在を確認することは容易ではない。上階そのものが現在は残存していないからである。次善の策として排水構造、すなわち土管の存在がらみで筆者が見つけえた希有な例を紹介しておこう。III.x.1の「戦車御者の集合住宅」Caseggiato degli Aurighi の二階に奇妙な一角があることを三階に登った時、西方向を見下ろしてみつけることができた。

 上図の下が一階、上が二階で、一階の23が上り階段で、二階から三階への踊り場右に入口のある部屋(一階の28部分の上)の一画が塀で囲まれているが、その中のやや北西寄りの床に、おそらく20cm級の土管穴をみることができる(年によってはそこから長い雑草が生えていたりする)。そこは立ち入り禁止の区域なので、望遠で写真を撮ったものが以下である。いずれにせよ、その土管穴の存在により、その区切られた区画が水を使用する場所だったことは間違いないだろう。

 この件でウェブをググっていたら、以下を見つけた。山之内昶「フロロギア(1);(2)」『大手前大学人文科学部論集』1、2000、pp.71-83;2、2001、pp.105-119;山内彰編『風呂の文化誌 山内昶遺稿』 文化科学高等研究院出版局、2011年。ま、ほとんど日本語で読んでのまとめのようだが。ありがたかったことに、論文は自宅で簡単に降ろせて印刷できたし(1が西洋篇で、2が日本篇:実は著者の姓の表示が異なっているが、たぶん「山内」が正しい)、死後出版された著書はなんと上智の図書館に入っていた。これからみてみるつもりである。

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エジプト人兵士のパピルス書簡解読:遅報(8)

 1899年に、エジプトのファイユーム地方のTebtunisで、Bernard Grenfell とArthur Huntによって発見されていたパピルス文書をアメリカ・ライス大学の院生Grant Adamson君が2011年に解読し、2012年に公表した(Grant Adamson, Letter from Soldier in Pannonia, The Bulletin of the American Society of Papyrologists, Vol. 49 (2012), pp. 79-94)。この論文、自宅でググったらすぐさま入手できた。

 パピルスの書き手はAurelius Polionで、紀元後214年頃に筆無精な家族に宛てて愚痴を書いている。彼はパンノニア・インフェリオル(現在のハンガリー)に派遣されていた第2アディウトリクス軍団Legio II Adiutrix(本部駐屯地は今のブダベスト)所属の兵士と想定されている。Aureliusという名前からすると解放奴隷あがりのような気がするが、さて果たして正規の軍団兵だったのか、それとも補助軍兵士だったのか。カラカラ帝の全自由民へのローマ市民権付与は212年だったので、それ以降だと軍団兵だった可能性があることになり、また、書簡中に「執政官格(総督?)のπα[ρὰ] τοῦ ὑπατεικοῦ 許可をえて」なる文言があるので、その属州が執政官格属州となったのは214年以降だったこともあり、書簡発信年の上限を絞ることができる、とAdamson君は想定しているが、兵士が外出許可を求めるのは軍団司令官のほうのはずで、はたしてそう言えるのだろうか、若干疑問。とまれ、庶民の生活証言の残存史料で貴重である。こういったパピルス史料に正面から立ち向かった研究(たとえ欧米の研究の紹介にせよ)の進展を期待せざるをえない。

Grant Adamson君

興味ある方は以下をご覧下さい。

https://news.rice.edu/2014/03/14/rice-grad-student-deciphers-1800-year-old-letter-from-egyptian-soldier/

https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52200993/

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中世ロンドンの3人用トイレ便座「再」発見:トイレ噺(4)

 私のHPのほうで、かつてヴィンドランダ出土の古代ローマの木製便座について言及したことありましたが、なんと、12世紀ロンドンで使用されていた便座についてのウェブ記事をみつけたので、興味ある人はごらんください。アップは2019年2月付けですが、実はこの便座、1980年代にテムズ川につながり現在は暗渠でかくされている地下河川フリート川のそばで発掘されていたけど、研究の資金難でなんと30年以上も調査されず、放り投げられていたようです。

 しかも、この便座を利用していたと想定される家族名も、1100年半ばに帽子屋だったJohn de Flete(と彼の妻 Cassandra) が所有したアパートの裏にあたることから、彼らに特定された由です。いかにもイギリスらしい研究成果です。

https://www.museumoflondon.org.uk/discover/triple-medieval-toilet-seat-secret-rivers-docklands

 なんでも今年5月から10月までロンドンのドックランズ博物館Museum of London Doclandsで公開されるそうなので、行かれる人はついでに見学するのも一興かと。

http://karapaia.com/archives/52271748.html

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【続報】2017年には、1000年前のヴァイキング時代のデンマーク最古のトイレが発掘された、とMuseum Southeast DenmarkのAnna Beck博士が公表した。トイレと言っても、写真を見る限り掘られた穴の遺構で、ローマ式のような立派なものではないようだ。しかし他の諸証言によるとこの地方の農村部にトイレが出現するのは1800年代のことらしいので、その真偽をめぐってはまだ論争中のようだ。http://mentalfloss.com/article/502111/archaeologists-may-have-unearthed-oldest-toilet-denmark

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一万年後に思いをはせてみる:遅報(7)

 昨日、ウェブ検索していて偶然見つけた記事に興味をもち、今日四谷に行ったときに大学図書館で以下を借りた。

 柳沼重剛『語学者の散歩道』研究社出版、1991年。

 今から30年も前に上梓されたものである。これには2008年に再版された文庫版(今話題の岩波書店)もあるが、原典から削除されたものと付加されたものがあって、両方読み比べたほうがいいらしい。著者は改めて紹介する必要もない古典ギリシア・ラテン文学の碩学。

 借り出してみたら、読まれていないこと歴然の新品同様の様態で、これならアマゾンの中古品としても十分売れそうである。ま、これが私がかつて在職していた大学での西洋古典の偽らざる現状をあらわしているということだろう。

 さっそく帰りの電車の中で繙いて読み出した。語学能力に著しく劣る私には、ただただ敬して拝読するしかない内容で(なにせ、p.2には、留学先のイギリスで教授から「ラテン語やっていてイタリア語をやらんとはなんたることだ:What a shame!」といわれ、二週間の速成で身につけて一冊を読み報告したとか、p.3には、アメリカ進駐軍の中佐と語学交換教授したが、彼は九つめの語学として日本語を覚えたいと希望、それまでに英・独・仏・伊・露・西・希・トルコ語を読み書き話すことができた人で、などという話が平気で出てきて表題通り「語学者」の面目躍如なのだ)、しかし新版で削除された「一万年後の東京大学あるいはポケット・ティッシュについて」が、私の関心の射程にも触れていたせいか特に興味深かった。

 一万年後になって東大があった場所を発掘した考古学者の書いた報告書が「およそ大学などというものではないものを想定する結論を出す。何が想定されていたかが思い出せないのだが、とにかくその推論の一つ一つが、非常にもっともらしいどころか、論理的ですきがない、にもかかわらず出てくる結論は東京大学を知っているわれわれには奇妙なことこのうえなく、しかも何ともおかしいのだ。・・・その時思ったことは覚えている。考古学というのは発掘品があるだけに危ないなということだ。発掘品、つまり証拠があるから強いのであると同時に、発掘品という、そのまま証拠だと信じられがちなものを手にするから危ないのだ。発掘品はたしかに証拠になり得る。しかし一つの発掘品は一つの事実だけの証拠になるのではなく、というよりは、一つの発掘品は、他と関連づけて(つまり、文章ならば前後関係を参照して)読み取って、それではじめて証拠としての力をもつ。だから一つの発掘品は、その読み取りかた次第で、いくつかの事実の証拠として利用できる。考えてみればあたりまえのことだが、われわれはつい忘れがちがだ」(p.260-1)として、身近な例として街頭で無料配布されているサラ金業者なんかのポケット・ティッシュが自宅のメール・ボックスにあって溜まっていたが、風邪気味だったので八つも持っていて交通事故に遭って意識不明になった場合、警察はこの身元不明人をどう断定するだろうか。「私の所持品の中に八つものサラ金業者のポケット・ティッシュがあった、これは事実である。しかしこの事実は、それだけではまだ何の証拠でもないということだ。ここまで思った時、ふだん私が学問だといってやっている仕事の中でも、これと似たようなことを、気がつかずにやっているのではないかと恐ろしくなった。危ないのは考古学だけではないということである」(p.263-4)。

 それで思い出したことがある。史学科全体のゼミ代表者の卒論発表会が毎年年度末に開催されていたが、さていつごろのことだったか、日本現代史で70年安保の大学「紛争」を扱った男子学生がいた。その発表を聞いていて私は異常な違和感にとらわれたのだ。「全然違う、わかっていない、ずれている」と。私と同年齢の東洋史のO教授も同じだったとみえて、期せずして二人で突っ込んで彼をいじめる結果となってしまったのだが、ことほど左様に、その現場に身を置いた人間の感覚・記憶と、それをまったく知らない者の文字だけをたどっての把握の間には、埋めようもない溝が存在することを実感した瞬間だった。こういう体験はおそらく初めてのことだった。たった3、40年前のことなのに、まだ生存者もいるのに、現場感覚は失われているのだ。

 で、思ったことは、オレも歳を食ったものだという感慨と、50年経たないと歴史として扱えないとよく聞かされてきたが、それは隠された史料がその頃にならないと出つくさない、という意味では正しいのだろうが、それにしても体験者の消えた後の歴史叙述とはいったいどれほど事実に切迫したものでありえるのだろうか、そして、それが2000年前の古代ローマとなるとほとんど不可能では、という思いであった。この疑念は柳沼先生の慨嘆に通底していると思う。ま、考えてみると、それを繫ぐのが専門研究者としての歴史学者の役割、のはずなのではあるが。そしてまた、はたして針小棒大のまやかしを我が論考がかいくぐっているであろうか。

【閑話休題】ちなみに私は1968年当時学部3年生で、1969年1月の東大安田講堂攻防戦のときイチョウ並木を切り倒したことで、知る人ぞ知るの惡名を轟かした革共同中核派の拠点校の広大に身を置いていたこともあり、いっぱしの全(文)共闘シンパだった。京大出身のO先生は民青同シンパだったようだが(なにせ奥さんとは歌声喫茶で知り合った、と聞き及んでいたのでそう思ったのだが、あるときそれを言ったら逆鱗に触れたので違うのかも知れない。ま、二人で互いに、この暴力集団が、とか、なに民コロが、とじゃれ合っていたわけだが、おかげであの二人は仲が悪いと学生が噂し、どうやら学生間で代々伝承されるというおまけもついて、学生の理解能力のなさにあきれ果て、また心外でもあったので、こんなところで共闘するとは予想外のことだった。そして、まあ二人とも大学を卒業式もなく卒業したわけで、決してそのトラウマのせいではないのだが(問題が何も解決されていない幕引きとなり、正直卒業式なんかどうでもよかった)、言い合わしたわけでもないのに、二人とも卒業生が主催する謝恩会参加を「謝恩されるいわれはない」と拒否する問題教員でもあった。ま、このあたり、橋口先生が学生のコンパで軍歌が唱われるのを嫌ってコンパに一切出席されなくなったという故事と一脈通じるのではと思う(今日日の学生さんは不思議に思うのだろうが、私の学生時代の1960年代後半には軍歌とかよく歌われていた。未だ色濃く戦後を引きずっていたわけだ。実際まだ兵役体験者が生きていたわけだし。そのへんの感覚が失われ出すと、またぞろ一国主義が地球規模で叢生され出している昨今、ま、人類は懲りない連中としかいいようもない現実がある:そこでの体験継承って大切なことはわかっているが、その成果を考えるとなんとも難儀なことだ)。


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興味津々の「陣営図」貨幣

 今回、また悪いクセが出て、あまり状態がよくない、それゆえ安かったローマ貨幣follisを競売で入手してしまった。郵送料・手数料込みで170ドル台。

 それは、コンスタンティヌス1世時代の319年の、テッサロニカ造幣所打刻のいわゆる「陣営図」camp plan型貨幣で、ただ表面の皇帝像はコンスタンティヌスではなくて、銘文「CONSTANTINVS IVN NOB C」から息子のコンスタンティヌス2世。父帝だったらこの箇所が「CONSTANTINVS AVG」となる。

 裏面左右の刻印は「軍隊の武徳 VIRT EXERC」、下には「TSB」とあって、テッサロニカ造幣所第二工房(Β:ベータ)を示す。問題は中央部分で、左右からの斜めにずれた線四本(というより、くの字型と逆くの字型の組み合わせというべきか)が交わる中央交点の上部に、右手を前方に伸ばし、左手にグローブを保持している神像が立っていて、その姿勢から、頭部の刻みがここでは不明瞭ながら、別例では放射冠をいただいているので、Sol神とされている。そのつもりで眺めると肩で留める騎馬用外套chlamysの輪郭が左肩側にかすかに見えている。こういった意匠は父帝でも同様である。より明確な刻印の類例を示しておこう。ちなみにこれも第二工房製作だが、一見して同一工房なのに同一金型でないことは明白。価格は私が今回入手したものの3倍、500ドル以上はしたと思われる。

 コンスタンティヌス二世は、316年8月7日生まれとされているので、この貨幣打刻時は3歳くらいのはずだが、幼児というよりは青年の表情で表現されている。彼は生まれて半年の317年3月1日に、異母兄クリスプス(当時17歳くらい)と、東部正帝リキニウスの息子リキニウス(当時2歳未満)と共に、セルディカ(現在のブルガリアの首都ソフィア)で副帝とされていた。いうまでもなくコンスタンティヌス一世と東部正帝リキニウスの紐帯強化のためだった。ちなみにリキニウスは313年のミラノでの会談で、コンスタンティヌス一世の異母妹コンスタンティアと結婚していた。息子リキニウスは彼らの間の子である。

 この類いの貨幣は、もっぱら319年にテッサロニカ造幣所で 打刻された。工房はAからΕまで5工房が確認されている。316年以降、この地域はコンスタンティヌス1世の領域だった。しかしこれは果たして「陣営図」なのか、そして太陽神と陣営図の組み合わせが、何ゆえこの時、ギリシア北部のこの場所で打刻されたのか、私には興味津々なのである。打刻皇帝名は彼ら父子以外に、正帝リキニウス、副帝クリスプス、副帝リキニウスが確認されているので、317年のセルディカで両正帝がそれぞれの息子たちを副帝に任命したことと関連があるのは確かだろうが。どなたかこの謎を解いてくれないものかと思うようになって久しい。

【追記】実は後から気付いたのだが、もうひとつ、コンスタンティヌス1世のものを持っていた。これも状態があまり好くないので、稀少品にしては購入経費を含めて110ドルとやたら安かった。ちなみに工房は第4(Δ:デルタ)。表面の胸像の胸をみると胴鎧装着のようだ。

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フォロ・ロマーノ見学での注意点

 昨年の渡伊では失敗をした。それはフォロ・ロマーノの入場券でこれまで通り通常の12ユーロを購入したのだが、16ユーロの特別入場券Super ticketを購入すれば、ここ数年閉鎖されていたアウグストゥスの家Casa di Augustoやもう10年以上入れなかったリウィアの家Casa di Liviaなど7カ所の見学が可能になるが(ちなみに他は、Criptyoportico Neroniano, Museo Palatini, Aula Isiaca-Loggia Mattei, Tempio di Romalo, Santa Maria Antiqua[相変わらずRampa imperiale付き公開なのはうれしいが、教会でデジタル映像はもうやっていなかった])、それは一旦構内に入るともう修正が効かなかったことだ。逆にいうと、博物館とかこれまで追加料金不用で見ることできた重要な場所を見られなくなった、わけである。

 今年の5月にはいつものように、いつも空いているグレゴリオ通りから入ったのだが、なんとこれまでになく1時間くらい行列するはめになった(その前にコロッセオは予約入場券を持参していたが、あまりの行列に諦めた:否、並んでいたのだがなぜか3列あって[バウチャーのガイドだと2列のはずなのだが]、入場直前になって係員から「我らの会社の券ではない」とわけのわからないことを言われ、列外に出されてしまったので、腹を立てたてやめたのだ:あとから考えると、そこは現地での客引きされた人が並ぶ列で、本当は本来の2列目とおぼしき真ん中の列に並ぶべきだったのだろう)。ともかく今回はどこもひどい人出で、サンピエトロ大聖堂に入るのも、フィレンツェでダビデ像を見るのも諦めた。なぜか今年春に訪れた京都や奈良のうんざりするような観光客の群れがそのまま移動してきたような感じだった(が、イタリアでのその主体は東洋人ではなく、白人だったのはどういうわけなのだろう、疑問である)。

やっと入り口が見えだして撮った写真:S字型の行列

 グレゴリオ通り入り口に掲示されていた料金表を見ると、これまではコロッセオと共通券だったはずなのにそれは書いてなかったので、制度変更があったのかも知れない。ともかく12ユーロ払って正午ごろに入場したが、昨年から無料公開(但し、昨年は時間制限あったはず)された緑の散歩道Percorsi nel Verdeを、またまたなつかしさのあまり回ったり、簡単な昼食休憩していたので、時間切れで全部回ることはできなかった。だから全部見るとしたらそれだけで一日仕事となるだろう。

 しかし、制度が変わるのは日常茶飯で、なにごとも計画性や永続性がないイタリアのこと[30年前になるだろうか、至るところで行われていたGruppo archeologicoの遺跡公開も、20年前くらいからあって便利この上もなかったArcheoBusも、今は昔、なくなってしまった:でもこんな昔話していると、永続性ないというのがおこがましい年月の流れであったのだなあ、と気付かざるをえないが]、入れるときに入っておかないと、次にいつ見ることができるかわからない。先のない身としてはどうしても欲張りたくなるのだが、足が思うに任せれなくなっていて、これはもうジレンマである。

 今回の訪問で意表を突かれたのは、フォロ・ロマーノでの、コンスタンティヌスのバシリカとロムルス廟の間の小道vicus ad Carinasで、ウェスパシアヌスのフォロと平和の神殿につながっている箇所が整備されてすべて無料公開されていたことで、私的にはバシリカのエクセドラに安置されていたコンスタンティヌスの巨像の破片が落下していたはずの場所でもあり、これまでずっと横目でうらめしく眺めていた箇所だったので、たいへん嬉しかった(こういうサプライズがあるのもイタリアなのである)。この小路地からだと、コンスタンティヌスのバシリカ(Basilica Nova)の地下部分をかすめ、セプティミウス・セウェルス時代に大理石版の「Forma Vrbis Romae」(首都ローマ地図)が貼られていたという壁も間近で見ることができて、私など感無量となる(ウェスパシアヌスのフォロに入ることは現段階ではできない)。

聖道から北に折れる
この上にコンスタンティヌスの巨像があった
この壁は平和の祭壇の内壁だったが、そこに首都ローマ地図が貼られていた由
左が復元想像図、右が現在の壁面での地図断片の想定位置

【続報】2019年9月に再訪したとき、予想通りというべきか、当たり前のように、この通路は閉鎖されていた。「緑の散歩道」は予想通り逆に常時開設となっていた。だが、というべきか、7施設見学料をとられていたのに、午後から向かったフォロの2箇所は係員がいなくて、要するに見学できなかった。

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ハドリアヌスのアテナエウム発見:遅報(6)

 本稿は、豊田ゼミ論集『COMMENTARII』第 28号(2017年)からの修正転載で、『上智史學』61(2016年)、p.154、註(3)への補遺を兼ねている。(知的所有権の問題があるので、ここでは部分的にあえて情報を開示していない。全責任は豊田にある)

 以前ゼミ論集『COMMENTARII』第28号、2017年、pp.42-49に掲載した記事を再掲する。なおこれは、『上智史學』61、2016年、p.154、註(3)への補遺でもある。

 SHA, Pertinax伝、11.3:(ペルティナクスは)、その日、詩[の朗読]を聞くために準備していたアテナエウムへの出発を生贄を捧げた際の悪い予兆のために延期したので・・・                   

 Alex.Severus伝、35.2:(アレクサンデル・セウェルスは)、ギリシア語やラテン語による雄弁家の朗読や詩人の歌を聴くために、アテナエウムへしばしば通った。

 Gordiani伝、3.4:(ゴルディアヌス1世は)後に成人してからは、アテナエウムで、自分が仕える皇帝たちが聴講に来ている時も、「論争」型練習演説を弁じたてていた。

Aurelius Victor, Liber de Caesaribus, 14.1-4:(ハドリアヌスは)東方で和平を整えてローマに帰還する。そこでギリシア人たち、ないしヌマ・ポンピリウスのやり方で諸々の儀式、諸法令、諸体育場、教師たちを差配し始めた。それほどにたしかに、有能な人々のための諸学芸のための一つの学校、それを人々はアテナエウムと呼んだのだが、それを彼は創設し、そしてケレスとリベラの秘儀、それらはエレウシナと名付けられているが、それをアテナエ人の方式でローマにおいて執り行うほどだった。

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ハドリアヌス帝の「アテナエウム」

  Roberto Meneghini, Die Kaiser Foren Roms, Darmstadt, 2015, S.97-8. 

 ・・・ さらに大がかりな発掘が、2007年に、新しい地下鉄[C]線の建設のための試掘調査の中で、S.Maria di Loreto教会とPalazzo delle Assicurazioni Generali[in Piazza Venezia:ヴェネツィア広場東側に面したジェネラリ保険会社ビル]の間の巨大な花壇の中心で、始まった。ローマ遺跡管理局によって実施された諸調査は、すでに1902年から1904年に出くわしていた建築物のさらなる部分の発見へと導いた。それはヴォールト天井をもつ巨大な空間で、約13×22mの床面積からなっていて、123年から125年の時代の夥しいレンガ刻印のおかげで日付されることができた。[その空間の]両側には大きな、60cm幅の演壇階段が取りつけられていた。それらは元来大理石平板が張られていて、そしてたぶんsubsellia(低い腰かけ)として役立っていた(図版117)。

図版117

 あらゆる諸要素は、以下を指し示している、それは講堂auditoriumであったと。また、たとえレンガ刻印が10から15年くらい後の日付を明らかに抱かせるとしても、それにもかかわらず、それはAthenaeumとして同定されるだろう、それは、一種のアカデミアで、皇帝ハドリアヌスによって135年のパレスティナでの戦争からの彼の帰還ののちに建設された(Aur.Vic.,Caes.14.2)。その建物の床ーーそれはなお広範囲に保存されているがーーは、灰色の花崗岩からなる長方形の平板で構成されている。それら平板は細長いGiallo Antico[北アフリカ産黄色大理石]の平板によって囲まれている。その外見はそれと同時に、いわゆる[隣接するトラヤヌスの広場の二つの]図書館の中に付設された床と似ている。その建物は、我々が見てきたように、ハドリアヌスによって完成された。諸発掘の続行はより広い建築諸構造を白日のもとに曝した。それらは以下を証明する、3つの同様な広間に関する複合体が重要で、それらは1902年から1904年に発見された曲がった道の回りを放射状にぴったり合っていた(図版118)。

図版118
  付図a 旧来の発掘状況(トラヤヌス神殿外の左側面の空白部分が埋められたわけ)
付図b 一番北の講堂か
付図c  同左を横から見る
付図e ヴェネツィア広場周辺 中央右の不等辺方形部分が発掘現場

ハドリアヌスのアテネウム

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 ハドリアヌスのアテナエオ

                エレナ・パナレッラ(メッサッジェーロ紙)

世紀毎の変遷図:イタリアでは、場所の変遷を描くとき、こういう書き方を時々する

 ローマでは、どんな発掘にも本当の驚きが待っている。こうして、パラティーノのネロの回転宴会場を支えていたと考えられる構造物の発見に次ぐものとして、「国父の祭壇」[「ヴィットーリオ・エマニエーレ二世記念堂」のこと]の正面にあるマドンナ・ディ・ロレート広場における地下鉄C線建設にともなう掘削のさなか、詩人や哲学者、文学者、科学者などを迎え入れるために建設されたハドリアヌスのアテナエオが発見された。

 発見は2007年にさかのぼる。発掘作業の結果、ここ70年で見つかった公共建築の中でも特に重要なものの一つが、中心部の考古学区域に再び姿を見せた。この建物は保存状態がよく、考古学特別局に委ねられることになった。

発掘現場

 だが、この大きく反響を呼ぶ建物の今後の運命はどうなるのだろうか。コロッセオの長を務める考古学者ロゼッラ・レアは、現地説明会で次のように明言している。「もちろん構造物は修復されます。有効利用ならびに一般公開ができるように作業を行なっているところです。作業現場の柵に設けられた開口部から日々顔をのぞかせて、驚嘆しながら通り過ぎていく人の数から考えますと、ローマ市民や観光客の皆さんも公開を大いに待ち望んでいるのではないでしょうか」。さらに加えて、「トラヤヌスの広場周辺でのこの発見は、ヴェネツィア広場一帯の価値をさらに高めてくれるかもしれません。そして将来、地下鉄C線の駅をつくることができたなら、この遺跡は地下鉄出入口と一体化した、他に例を見ない観光コースの一部となることでしょう」。何はともあれ、人や車が行き来するそばで、頑丈な柵の裏側に最新の異例な考古学的な発見が隠れている。そこは、アテネにおけると同様、ローマでも討論や公演が行なわれていた場所である。レアによれば、123年――両執政官の名が刻印された無数のレンガから得られた年代である――以降に、「講堂アウディトリウム(全部で三つある)のそれぞれの部屋の中央で、作者や雄弁家が朗読や朗唱を行なったり、修辞学の講義をしている様子が目に浮かびます。聴衆は演壇階段の上の座席や立ち見席にいたでしょう。演壇階段は当時、壁もそうですが、表面を大理石で覆われていました。この大理石は中世にはぎ取られてしまい、今では下の方にほんのわずかに残っているだけです」。

 この場所の調査を行なったのは、考古学者ロベルト・エジディである。古代よりも新しい時代の部分は、中世考古学者のミレッラ・セルロレンツィが担当した。セルロレンツィは「年代学研究や特定された金属、発見された鋳塊から考えると、いくつか仮説はあるのですが、銅貨を製造するためのローマにおけるビザンツの造幣局があったのではないかという説があります」と説明している。

歴史的な事実

 ローマの地下鉄C線建設工事では、重要なモニュメントがいくつも発見された。その中でも、ヴェネツィア広場に位置する、おそらくハドリアヌス帝によって133年に建設された講堂アウディトリウムは群を抜く発見である。この講堂は「アテナエオ」として知られているが、アテネのアテナ神殿にあったものをモデルとした、200人まで収容可能な哲学の施設である。

 考古学者ロベルト・エジディは「教養豊かな皇帝であったハドリアヌスは、古典期ギリシアで行なわれていたような聴衆を前にした朗読、講演、詩の競演の伝統を再興しようと望んでいました」と述べている。

 発掘により、対になるように配置され、座席として用いられていた二つの演壇階段――849年に起きた地震により上層階が崩れ、今も一部が埋まっている――、廊下、そして中央部では、50メートル向こうのトラヤヌス帝の記念柱の脇にハドリアヌスが建てた図書館の床とそっくりな、古代黄色大理石の平縁のある花崗岩の床が出てきた。だが、203-211年に制作された古代ローマの地図、セウェルス帝の大理石平面図「フォルマ・ウルビス」には登場しないことから、この発見は予見されていないものだった。

 たくさんの考古学的遺物――中世初期にいたるまで再利用されていたローマ時代のタべルナや16世紀の館の基礎も含め――がヴェネツィア広場で見つかっている。

 考古学調査が必要とされていたのは、階段や通気孔を設ける部分のみである。全長25キロに及ぶ地下鉄は、深さ25-30メートルの場所に通される予定だからである。この深さは、かつて人が住んでいたあらゆる時代の層よりも深い。いずれにせよ、掘削する部分の多くで、またもローマ時代の地層に達することになろう。多くの驚きが待ち受けているかもしれない。

 沿線各地でその他にも建造物が見つかっているが、それらはネロ帝が建てたギリシア体育館の列柱廊、カンポ・マルツィオを貫いてテヴェレ川にまでに達していた運河、サン・ジョヴァンニ門とメトロニア門の間のアウレリアヌスの市壁の遺構と思われる。パンターノ・ボルゲーゼ地区で発見された、銅器時代や青銅器時代(前四-三千年紀)にさかのぼる考古学的証拠もある。

 文化財省次官のフランチェスコ・ジーロ、ローマ考古学局局長アンジェロ・ボッティーニ、アンドレア・カランディーニ教授も参加した『考古学とインフラ:経済発展と文化遺産』という学会において、現状報告が行なわれた。

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ローマでハドリアヌスのアテナエオが地上に姿を現わした

               カルロ・アルベルト・ブッチ(レプブリカ紙)

 地下鉄建設工事の最中に四角い部屋が見つかった。建設工事が中断されることはなく、地下鉄C線の出入口は数メートル移されることになった

 ハドリアヌス帝の記憶が、地下わずか5メートルのところに隠れていた。それは「国父の祭壇」の正面で見つかった。英国貴族院議場のような、対置された二重の演壇階段という、これまで例を見ない形をしていた。おそらくはアテナエオの座席であろう。ハドリアヌス帝は紀元後133年に、詩人、雄弁家、哲学者、文学者、科学者、官吏たちを集め、ギリシア語やラテン語で弁論、詩の競演、白熱した討論で競い合わせるためにアテネオを建設した。

 それは、アウレリウス・ウィクトルが諸術の天才たちの競技の場と呼んだ有名な講堂であった。そして、アテネのアテナ神殿で見たものをモデルに、哲人皇帝が自らの費用で建設したものである。だが、ローマにおけるこの哲学機関の痕跡はこれまで失われていた。その足跡を探る動きはだいぶ昔からあった。

 これまで発掘が行なわれたことがなかったヴェネツィア広場のこの一角には松の木が植えられていたが、これらの松は調査を進めるために昨年切り倒された。まさにその下に、パレスティナ旅行からの帰国後にハドリアヌスが建てることを望んだアテナエオがあったのではないかという仮説については、10月21日にローマの考古学特別局の考古学者たちが説明を行なうことになっている。その日は、地下鉄建設代表委員のロベルト・チェッキが市内全域の建設工事の進捗状況を報告する予定の日である。発見のニュースは二重の意味でよい知らせだった。これまで知られていなかった建物(203-211年の地図である大理石平面図「フォルマ・ウルビス」には載っていない)が博物館化される予定であること、そして地下鉄C線の出入口を数メートル先に移すことが可能であるという意味においてである。

 したがって、ローマでは、パラティーノのネロの回転宴会場を支えていたと考えられる構造物の最近の発見に次ぐ、もう一つの重要な発見ということになる。すべては2008年4月に起こった。ヴェネツィア広場のサンタ・マリア・ディ・ロレート教会脇の最初の調査において、モニュメンタルな階段が出てきた。それは帝政期の公共建築の入口と目された。そしてその直後、考古学局の考古学者アンジェロ・ボッティーニは、この階段が上り下りするためのものというよりも、着席するために設けられたということを明らかにした。それから「双子の階段」の発見があった。それで、アテナエオではないかという仮説が具体化した。これこそ、大広間の段なのではないか。

 まずは発掘を完了させる必要があった。市の清掃局がごみの収集のため、清掃車をそばに駐車することに決めたせいで悪臭が漂う中ではあったが、作業は進められた。「ローマ地下鉄」の作業場の柵の向こうをのぞくと、長方形の部屋の形がもうはっきりと見える。対に置かれた二つの階段は、上層階の崩壊により部分的に埋まっている。演壇階段はそれぞれ六段あるが、二つあるこの階段の一方では、部屋の出口があるために少し短くなっている。部屋の大きさは長さ約20メートル、幅3メートルである。中央部は皇帝や詩人たちが作詩を行なった場所だが、そこには古代黄色大理石の平縁がついた花崗岩の床がある。

 それは、ハドリアヌスが50メートル向こう、トラヤヌスの円柱の脇に建てた図書館の床と同じタイプのものである。床はすべて同じ高さにある。したがって、統一的で、モニュメンタルで、輝かしい都市プランと結び付いたものである。

コメント

 皆がだいたい同じことを言う。おそらくアテナエオが見つかった。思わず「素晴らしい発見だ」と言いたくなるものだ。ローマでどこを掘っても、何らかの芸術作品が見つかるのは誰でも知っている。時折、下水道維持工事等に立会うことになれば、必然的に古代ローマのアンフォラの破片や、あちこちに散らばったアンフォラの取っ手を見ることになる。つるはしで既にひどく傷つけられた後であるか、これからそうなるかであるからだ。

 何日か前のこと、サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ教会近くで、オプス・レティクラトゥム床を備えた貴族のドムスが開けられたが、すぐさま閉じられた。では、中にあったものは? 闇の中である。

 それでは今聞いてみよう。アテナエオにあったものはありふれたものだったのだろうか。ヘルマス像、碑文、欠けた彫像、そういったものは何もなかったのだろうか。ローマでは、街路樹の根元の土中を探していても古代の遺物が見つかるのだが、地下鉄A線、B線、C線建設工事では石ころさえ出てこない。ローマの地下にはこうしたものがたくさんあるということは分かっているので、遺物が見つかっていることは確かである。でも、そうした遺物がどういう運命をたどったかを見る必要がある。なぜなら、我々のところでは、何年か後に外国の博物館で再発見されるものを除き、遺物が姿を消してしまうのが通例だからである。

 そして、厚かましくもそれらを「盗まれたもの」と呼ぶのである。誰かが彫像を腕の後ろに隠して、まるでブリーフケースみたいに持ち去ってしまったかのように。彫像一体を包んでしまうには、そうした梱包を専門とする会社、高い専門能力、幅広い運搬機械、広い空間、使える時間が必要となる。博物館の扉が開いて彫像がクレーンで引き出されていたとき、監督や他の人たちは何をしていたのだろうか。

 考えられるのは二つである。今までがそうであったように、誰かが地下鉄の下で発見された遺物(それはとても大切な遺産である)をすべて持ち去ってしまうのか、アテナエオの遺物を私たちに見せようと心に決めるのか。後者でない場合、何度も繰り返されているように、我々の考古学遺産、国家財産が消失することになる。これまでずっと起こってきたように。

地下鉄建設工事

 首都の地下鉄C線は2000年に完成するはずであったが、掘削はまだ続いている。一方で建設費用は19億ユーロから33億ユーロ(公のお金だけで)に跳ね上がった。それ以外に通例の多額の贈与(私的なお金)がたくさんある。唯一、大規模工事に対する会計検査院の非常に厳しい報告書(2012年2月1日)が出されているが、それはただ著しい不名誉である。

 22年も待った挙げ句、無制限に公金を浪費し、何百回も厳粛に告知を行い、何百万回も鑑定や検査をし、何十億回も変更や調停を行なった後でも、2012年初めになっても地下鉄新線はまだできていない。工事がいつまでも終わらない作業現場に加え、見通しが不確かなこともあって、どれだけのお金を飲み込んでいく危険があるか誰も分からない底なし井戸である。

 もう、2000年以降、費用の増大から駅建設の中止にいたるまで、ありとあらゆることが起きている。無限に起こる一連の変更(2011年7月までに39回におよぶ)を考慮に入れなくても、である。こうした変更の結果、2001年の事業の費用見通しでは19億ユーロであったのに、2009年にCEPI(経済発展関係閣僚会議)が30億ユーロ以上の資金を交付しても不足することとなった。フランチェスコ・ルテッリからワルテル・ヴェルトローニ、ジャンニ・アレマンノ、マリーノの市長時代にいたるまで、長期間にわたって首都行政が実施する非常にお金のかかる経済的政治的ビジネスを進めていくために、これだけの金額が使われた。アンジェロ・バルドゥッチ、アネモーネ、頓挫しそうな地下鉄C線のために相談役として招聘されたベルトラーゾといった人びとも関わっているのを見てきた。事業を監視し、事業実現の任を引き受けている地下鉄C線株式会社の元に集結した大手ゼネコンを監査するために採用された元国庫会計監督庁のアンドレア・モノルキオに言及するまでもない。地下鉄会社の株主にはメッサッジェーロ紙のオーナーであるフランチェスコ・ガエターノ・カルタジローネが所有するヴィアニーニ社や、アスタルディ、アンサルド、カルピ・レンガ積み工および日雇い労働者組合、建設業協同組合といった他の有力者が名を連ねている。

 20年続いている事業の結果はどうだろうか。その答えが会計検査院から出された。長い審査を経て、会計検査院は爆弾報告書を提出したところである。182ページにのぼる文書で、国家事業の実施を統制するための中央部局が書いたものであるが、濫費や遅延を狙い撃ちし、地下鉄C線の実際の作業状況やコストの問題点を初めて指摘した。大変厳しい一撃だった。多くの箇所で、「事業の全体的な実現可能性に関しては、予測不可能な点がないとはいえない」とある。たとえば、会計検査官は、どのようにして「完成前に資金が尽き」ていくのかに注目しながら報告書を書いている。一方で、もともとの計画は「中心部の区間において二義的補完的とみなされる事業をやめることで、著しく見直しが行なわれ」ているようである。

 では、アテナエオについては? ハドリアヌスが126-128年頃、つまり長い旅を終えてローマに戻ったときに、カンピドーリオの上に哲学や修辞学、法学を教えるアテナエオの建設を命じていたことは分かっている。ハドリアヌスはギリシア哲学に熱を上げており、ひげを伸ばしていたのもまさに皇帝が心酔していたギリシアの風習によるものである。

ハドリアヌスのアテナエオ

 ハドリアヌス帝のアテナエオは、史料によってその存在が知られるが、これまで発見されていなかった。地下鉄C線掘削中にヴェネツィア広場で姿を現わした帝政期の階段にはどのような意味があったのか、あるいはむしろ、この階段はどういった施設の一部だったのだろうか。ヴィットリアーノ[「国父の祭壇」のこと]のまさに正面、5メートルの深さの場所で、ローマの考古学的発見の中でも最も新しい異例の発見がなされた。アテネ同様に、ローマでも討論や公演が行なわれていた場所である。

 二年前に特定された階段のまさにその正面に、同種の階段が見つかった。階段は発見されたばかりだが、残念ながら保険会社の建物の下に隠れており、そこで地中に潜り込んでいる。階段には多色の大理石床があって、観客席の役割を果たしていた。皇帝ハドリアヌスはアテネにおいて、132年建設の大図書館の脇にアテナエオを建てていたが、これはその正確な復元である。上演や討論、演説や詩の朗読を行なう講堂である。

 すべては、表面を大理石で覆ったローマン・コンクリートの最初の大階段の発見に始まった。15メートルの幅の堂々とした五段の演壇階段が、ヴェネツィア広場において地下鉄C線の出入口をつくるために掘削を行なっていたさなかに姿を現わした。

 演壇階段はジェネラリ保険会社ビルに向かって下っており、花崗岩と黄色大理石の床の前で地表に達していた。設備はどちらの側でもレンガの柱で閉じられている。この柱は崩れているのだが、おそらく地震によるものだろう。用いられているレンガはローマの「二フィートレンガ」、すなわち一辺59センチの黄色がかった正方形の厚くて大きなレンガである。柱には大規模な火災の跡が見られるが、おそらくは390年の火事によるものだろう。

 ハドリアヌスに関しては、「アクロポリスの南にはテセウスのアテネ、アクロポリスの北にはハドリアヌスのアテネがある」と言われることがよくあった。アテネでは、ハドリアヌスの図書館がフォーロ・ロマーノのきわ、北側にあった。この図書館は同皇帝により132年に建てられたもので、アテネで最も大きい建物であった。アテナエオはこの図書館のそばにあり、皇帝のお気に入りの場所であった。アテナエオについては史料の叙述から分かっている。その双子であるローマのアテナエオは、帝政期の考古学知見にとり思いもかけない援軍となった。

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黄金宮殿の皇帝ネロの秘密部屋?発見

 ローマから帰ったばっかりなのに、5/8付け情報によると、皇帝ネロの黄金宮殿Domus Aureaの修復中の2018年秋に偶然、華やかなフレスコ画で装飾された部屋に通じる穴を発見したという。そこは、責任者Alfonsina Russo女史らによって「スフィンクスの広間」Sala della Sfingeと名付けられた。AD65-68年建築とのこと。これだから、ローマは、イタリアは・・・油断できない。http://www.neldeliriononeromaisola.it/2019/05/271475/

https://www.afpbb.com/articles/-/3224521

https://www.afpbb.com/articles/-/3224521h

 気が向いたら、ネロ関係でのかつての新発見「円形回転宴会場」の記事を掲載するでしょう。

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おもしろトイレ・モザイク新発見:トイレ噺(3)

 ほんとは遊んでいる場合じゃないんですが (^^ゞ  これも遅ればせながらですが、面白いウェブを見つけてしまって。しかしこういう話題は図版や写真がないと説得力ありませんので、典拠を明記してあえてアップします。ご寛容のほどを。

 場所は小アジア半島南部の、Antiochia ad Cragumのローマ遺跡の紀元2世紀の公衆浴場内のトイレから面白い床モザイクが発見された(2018/11/2)。 

https://www.livescience.com/64000-dirty-jokes-mosaics-discovered.html;https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/search/label/Archaeology?updated-max=2018-11-14T08:00:00-08:00&max-results=10&start=839&by-date=false#yxIPrbQjzYfkfUHG.99



出土状況を俯瞰する
モザイク中心部

 左の区割りはギリシア語でナルキッソス。ギリシア神話で、水面に映った自分の美しい顔にみとれ、自分に恋い焦がれて死んだ。そのあとに水仙が咲いたので、欧米では水仙をナルシスと呼ぶ。この故事に倣いつつ、このモザイクは男根をしごいている次第。なお鼻が長いのは、当時の美術表現では醜男を表現している由。だから、水に映してうっとり見ているのは顔ではなく、自慢の男根ということになる。彼のかぶっている帽子は、腸卜師ないし占い師のアトリビュートに類似しているように見えるが、さて。

辻占い師:国立ナポリ博物館所蔵

 右区割りのテーマはギリシア語からガニュメーデース。美貌の彼に一目惚れしたゼウスは鷲に変身して、彼をさらってオリュンポスの神々に酒を注ぐ給仕にした。このモザイクで彼は酒瓶の代わりに右手にトイレ掃除用具のスポンジを持っていて、トイレにふさわしい絵柄となっている。ただそれだけではなくて、こっちの構図はなかなか複雑。たとえば彼は左手で鷲ではなくサギのような首とくちばしが長い鳥の頭をなでている。お尻の後に出ているもの(は私には最初男根に見えたのだが:こういう構図はナイル河畔風景図によく登場するピグミーでおなじみ、といいたいが、前の方に睾丸らしき袋が見えるので、ちょっと無理か)を、鳥が長いくちばしで突いているようだ(発掘者は、鳥がスポンジをガニュメーデースのお尻(より露骨に言えば、肛門)に当てている、と想定している)。

ピグミー像:国立ナポリ考古学博物館の旧秘儀の部屋前設置のナイル河畔風景モザイク(筆者撮影)

 ギリシア・ローマ時代では白鳥などの首の長い鳥は男根をあらわしているわけで、ガニュメーデースのかぶっているのはフリュギア帽となると、これはもう小アジアという場所柄もあり、自ずとキュベレの若いツバメのアッティスも連想させる。こうなると二重に男色を暗示しているように思えてしまう。なんともはや、ということで観る者の知識レベルに応じて幾重にも謎解きの読み込みが可能となる仕組みなのかしらん。

これは2018/11に公表されたポンペイ出土のレダと白鳥のフレスコ画
http://labaq.com/archives/51903082.html

 ギリシア神話をパロって、浴場やトイレの使用法には色々ありまっせと、用を足しに寄っている人たちの笑いを誘い、同時に知恵比べを挑んでもいるといえる。この手の内容は、 以前論文で扱ったオスティア・アンティカ遺跡の「七賢人の部屋」のフレスコ画と通底しているといっていいだろう。実はオスティア・アンティカ遺跡にはもう一つ、興味深い趣向を示す事例がありまして。機会があればまた紹介します。

【追伸】このブログを読んだ某君から、さっそく、ガニュメーデースの男根の描き方で亀頭が露出ているのは意味ある、とご指摘が。たしかにギリシア・ローマでの男性(神)像はおしなべて慎ましく上皮で包まれて(え〜、直接的に表現するなら、包茎で)描かれているのが常でして、これは性欲という獣(自然)的な欲望を理性で抑制できている神や人間の理想像を表現しているんだそうです。私など地中海人には包茎が多いのかしらん、とあて推量してましたが (^^ゞ、やっぱ観念論ではあきません。けど、その実証に励むのは・・・ちょっとねぇ・・・パスです。

 逆に旺盛な欲望の持ち主の場合は亀頭露出で表現されるわけです。ギリシア壺絵だとサテュロスなんかそうですよね(包茎もいるけど:下の図版は露頭型です」)。その下の、国立ナポリ考古学博物館の旧「秘技の部屋」所蔵(現在は、同一場所を整備して、年齢制限付きで公開[その実、いかにもイタリア的でして、チェックなし])のポンペイ出土フレスコ画(ヘルメスの姿を取ったプリアポス像)なんかもそうです。

紀元前6世紀半ばの壺絵:国立マドリッド博物館所蔵
(著者撮影)

【追記1】レダと白鳥のフレスコ画発見場所だが、ひょっとすると2018年夏に、第5地区で同じフレスコ画でPriapusの絵が発見されていたが、そこと同一邸宅かもしれない。 https://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/priapus-fresco-pompeii-0010592

【追記2】ピグミー関係ググっていたら、偶然こんなのを見つけてしまった。今回発見のと画題が似かよっている、といえなくもないような。

スペインのイタリカ、Casa del Planetarioモザイク部分

 またこんなのも見つけた。これは2017年のオークションに出たモザイクらしく、出土地等の由来は不明であるが、ホメロスの『イリアス』III.1-9を最古とするピグミーとサギcranesの闘いを描いたものとされているが(cf., Augustinus, De Civ.Dei, XVI.viii.1)、闘っているようには見えない。http://benedante.blogspot.com/2017/06/pygmies-and-cranes.html

KRA以外のギリシア語が読み取れない。有識者からのご指摘を期待したい。ΚΟΠΡΟΣなら「糞」なんだけど。下の一文もさっぱり。一種の早口言葉か

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小学生が読む古代ローマ・トイレ話:トイレ噺(2)

 2017年の2月に、見知らぬ女性からメールが送られてきた。彼女は小学生対象の雑誌を編集している由で、私のHPで古代ローマのトイレ話を知ったので、使わせてほしい、という内容だった。少しでも納税者の子弟に恩返しできればと、もちろん私はよろこんで快諾。こんなことは初体験だし。くだんの女性は後日イラストレーターの女性と一緒に大学の研究室に姿をみせ、諸々の相談となった。こうして、九大の堀先生との共同監修で、2017年4月号に総天然色(我ながら表現が古い!)の見開き2ページで掲載された。そして翌年「好評につき再掲載したいので、修正ありますか」と。そして今年もその連絡があった。主役は張れないが息抜きのコラムとしてはいい話題なのだろう。

『チャレンジ4年生わくわく発見Book』ベネッセ、で不動の12-13ページ!

奇しくも同時期に、一連の「うんこ漢字ドリル」が出現し、これはもう大反響で(私ももちろん孫向けに購入)、なんと半年後には二匹目のドジョウをねらって別出版社から「おなら」も出版された(こっちもしょうがなしに購入)。さすが「おしっこ」はまだ(というか、もう出ない)みたい。絵本「おしりたんてい」シリーズは2016年から出版されている。子供がよろこぶお下劣な身振りのドリフはかつて教育ママさんたちにさんざん叩かれたが、これも時代なのだろうか・・・。

 そんなことを思い出して久々に「古代ローマのトイレ」でググってみたら、私の2015年5月月報掲載の「古代ローマ・トイレの落とし穴」の(1)が、5番目に出てきたが((2)は15番目)、なんとなんとそれらを参考サイトに引用しているHP(https://anc-rome.info/toilet/)に8番目で遭遇できた。有難いことだ。ちなみに、1番目は「高い技術で知られる古代ローマのトイレは、それほど衛生的じゃなかったみたい」だった(その元になった英語論文は2016年1月)。こうして徐々にではあれ、より正確な情報がじわじわと拡散していくのを観るのは、嬉しいし楽しみでもある。

 それでふと思い出したことがある、某有名出版社から某著名教授(とその教え子)の名前で某翻訳書が出版され、さっそくウェブに幾つか高く評価する高名な肩書きをお持ちの人たちの書評が書き込まれた。もちろんアマゾン・コムのレビューも異口同音に称賛の嵐。だが某学術誌で書評を求められてその翻訳書を精読していた私が見るところ、出版社の宣伝文に依拠しての、まあ誤読もいいところのよいしょの内容だったので、私は、世の高名なる識者の読解力がおかしい、と辛口の苦情をレビューに書いた(もちろん書評本文にも)。これも気になっていたので昨日確認のためググって見たら、いつの間にかよいしょ書き込みは(もとより、レビューも)跡形もなく消え去ってしまっていて、驚いた。

 読んでいる人は読んでいるということか。恥を知る人がいたというわけか。しかし、素人の市井の人はともかくとして、自分の見解を修正したらそれを明記するのが、研究者たるものの矜持のはずなのだが、ささっと消して、なかったことにしてしまったのですね、と反問せざるをえない私だった。業界情報に詳しくはないが、きっとインターネット時代に対応して、ウェブへの書き込みが売らんかなの新手の宣伝方法になっているに違いない、と睨んでいる。ま、私でもそうするだろうから。

 と、まあ、他人のことは気軽に言えちゃうのだが。私自身も最近昔の発表レジメ見ていて、あれれどうして、という類いの誤記を見つけてしまった。これなど今さら訂正する機会もないわけで。気付いた人は教えてくれよな〜、と言いたくもなるのだが、層の薄さのせいか気付く人もいないわけで・・・。ひたすら恥じ入るのみ。

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