投稿者: k.toyota

先達の足跡:(2) 水川温二

 エウセビオスの叙述について、戦前に以下のものがある。私的には、エウセビオスに対し温かい視線で、中庸を保ち落ち着いた論調で読ませる内容、と感じている(但し、註記によるとNPNF版(1890)の英訳に依拠)。とまれ、これまでエウセビオス関係の個別論文で私が見つけえた我が国最古のものである(それ以前に『教会史』の翻訳、鑓田研一訳『ユウセビウス信仰史』前後篇[賀川豊彦監修『信仰古典叢書』]、警醒社書店、1925年、が出版されてはいるが)。

 水川温二「教会史家ユウゼビウスの『コンスタンティヌス大帝伝』執筆の動機に就いて」京都帝國大學文学部西洋史研究室編『西洋史説苑:時野谷先生獻呈論文集』第1輯、目黒書店、1941年。

 しかし、戦後の研究者で彼のこの文献を引用する人を私はこれまで知らない。後述の弓削氏も引いていないと記憶する。

 ウェブで調べてみると、第八高等学校教授から名古屋大学文学部史学科教授になった人らしい(生没年不明:名古屋大学には彼の情報があるはずだ)。京都大学から1962年2月13日付けで学位が授与されている。ちなみに論題は『ローマの平和とキリスト教との接觸面に関する一考察』。知ることできた論文は以下で列挙しておくが、なんと『警友あいち』71号、1955年にも「イェズス・キリストの刑死」を書いていて(古書店から入手予定)、この表記の癖からひょっとしたらカトリック系だったのかもしれない(聖書の『共同訳』までカトリックは「イエズス」表記だった)。

「ユダス・マカベウスの叛乱」『史林』18-2、1933年

「セバステに於て殉教せる四十人の軍人に対する崇敬の歴史」『史林』23-1、1938年

「キリスト教迫害と父祖の道(MOS MAJORUM)」『名古屋大学文学部研究論集』2、1952年

「福音史家聖ルカの史観について:ユデア人の納税とイエズスの宗教運動」『名古屋大学文学部研究論集』5、1953

「ローマの支配を諷示する新約聖書の語について」『名古屋大学文学部研究論集』8、1954

「エフェゾ書に関する一考察」『名古屋大学文学部研究論集』14、1956

「小ブリニウスのビティニア総督としての使命について」『名古屋大学文学部研究論集』17、1957

「平和(PAX)と協調(CONCORDEA):キリスト教に於けるローマ的伝統に関する考察」『名古屋大学文学部十周年記念論集』1958年 

 このほかにも、子供向けの古代ギリシアの読み物もあるようだし、長谷川博隆氏が「カエサルの寛恕(clementia Caesaris)」『名古屋大学文学部研究論集』110、1991年、p.97で、「先師」と最大級?の敬意を表して、「ユリウス・カエサルの寛容とキケロ:ローマ帝政初期の仁政思想研究への序説」同『論集』32、 1964年;「カエサルの寛容とその帝国政策」同『論集』41、1966年、を引用されている。このように、きっと他にも業績があるに違いない。ご存知寄りの方からの情報がほしいところである。

 この時期のキリスト教迫害史研究の第1世代には、近山金次(1907-1975:慶應義塾大出身)、半田元夫(1915-1977:東京帝大)、秀村欣二(1912-1997:東京帝大)らがいる。こうした先達・先師の諸業績、忘れないようにしたいものである。

 エウセビオス研究については、彼の後は、25歳で以下を公表した弓削達(1924-2006:東京商科大)氏の破竹の独壇場となる。但し、『教会史』より『コンスタンティヌス大帝伝』のほうに重心がかかっていたが。

「ヘレニズム期アレクサンドリアにおける文獻考證學の性格について:基督教歴史學成立史研究の一部(その序)」『青山経済論集』1-1、1949年、pp.81-98.

 参考までに付言しておく。その後以下が出るが、これでこのテーマは終わってしまい、続稿は出なかった。

 「最近に於けるホメーロス研究の一傾向:『統一性の牧者』によるアレクサンドリア批判学者の断罪」『史学雑誌』60-7, 1951, pp.50-66.

【追補】ウェブで『名古屋大学文学部研究論集』の以下のリストを見つけた。http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/let/publications-contents/1951-2017_publications_contents.pdf

 その44、1967年の巻頭に水川氏の「略歴・主要論文」がみえた。彼の退官がその前年だったのだろう。そして泰斗・長谷川氏の論考が見え始めるのは65、1975年からである。こうした一覧表を眺めていると、著名な研究者の意外な経歴とか、すでに鬼籍に入られた存じ上げのお名前が散見されて、意想外に懐かしく楽しい。そういえば、以下のようないい導きの本もあった。土肥恒之『西洋史学の先駆者たち』中公叢書、2012年。これには、明治から敗戦までの私関係の広島大学、上智大学関係者も登場していて、よくぞ言及して下さったとその目配りに敬服したものである。

【追記1】日本における初期キリスト教史は、キリスト教神学から派生してきたといっていい。その嚆矢は、波多野精一(1877-1950:京都帝大)で、その弟子に東京帝大史学科から哲学科に転じた石原謙(1882-1976)や、京都帝大での後継者に有賀鐵太郞(1899-1977:同志社大)もいた。その後、史学からの人材が出てくるわけであるが、上記以外にも、キリスト教信者ばかりの中で、浄土真宗僧侶という異色の井上智勇(1906-1984:京都帝大)にも『初期キリスト教とローマ帝国』(1973)がある(レベル的にはそう高くないが)。後期ローマ帝国史を切り拓いた長友栄三郎(1911-?:慶應義塾大)も忘れてはならない。その第2世代に前出の弓削の他、その友人のマルキスト土井正興(1924-1993:東京帝大)が、1966年に書いた『イエス・キリスト』も忘れがたい。そして新田一郎(1932-2007:熊本大・京大院)もいた。それにしても、新田氏の没年は南川高志教授に問い聞きしてのことで、長友氏同様、ウェブ検索でヒットしないという、お寒い現実もある。翻って、冒頭の翻訳者鑓田研一については、十分な情報が書き込まれていた。賀川豊彦に師事したせいかもしれない。ちなみに生没年は、1892-1969。

 話は変わるが、最近女性研究者が増えたせいか、奥付著者紹介に生年が記載されないことが多くなっていて、研究世代確認には不便なことだ。出版社の自主規制と想像しているが、こういう誤った女権はやめてほしいと思う。

【追記2】『警友あいち』71号、1955年が届いた。それによると、その冒頭で水川温二は旧制高等学校の生徒だった時、キリスト教の洗礼を受けたと書いているが、それ以上のことは分からなかった。

【追記3】エウセビオス研究としては、迂闊にもこれまで射程に入ってこなかったものに、石本東生氏の以下がある。

「エウセビオスの『教会史』における自然環境」『奈良大地理』8, 2002, pp.1-11;「エウセビオスの『教会史』における宗教的環境とその特徴」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』35, 2002, pp.123-185;「エウセビオスの『教会史』に見る歴史観と環境観:コンスタンティノス1世を通しての一考察」『國學院雑誌』103-4, 2002, pp.17-29;「«Ουράνιες δυνάμεις» και «Φώς» στα Τρία Τελευταία Βιβλία της Εκκλησιαστικής Ιστορίας τον Ευσεβίου Καισαρείας:エウセビオスの『教会史』における《天の諸力》と《光》の意味」『プロピレア』(日本ギリシア語ギリシア文学会:広島大学)15, 2003, pp.1-14;「ヨセフスとエウセビオスの環境観と歴史観の相違:『ユダヤ戦記』と『教会史』における一比較研究」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』36, 2004, pp.75-144 . なお、同著者の以下は残念ながら未入手。「エウセビオスとフィロストルギオス:『教会史』における環境観の相違」『エーゲ海学会誌』15, 2001, pp.84-99. この一連の論文はおそらく後述の学位論文からの抜粋と思われる。『エウセビオス(カイザリア)の『教会史』(Ⅷ巻からⅩ巻)における自然・人間的・宗教的環境』(アテネ大学博士論文,ギリシャ語,単著)1999年11月。ちなみに2004年以降は観光学の分野に研究対象を移動されたようである。

ここで一言蕪辞を述べるとすれば、エウセビオスには『オノマスティコン』というパレスティナの地誌をまとめた一書がある。氏のような関心であれば、それを射程に入れて扱うのが常道と思われるのだが。

【追記4】2019/11/05に、なんと水川氏のお孫さんの淳さんからメールをいただいた。それで以下、付加訂正しておく。まずお名前だが「みずかわ」と読む(以下、敬称略)。

 温二は、岡山出身の水川復太の次男として、明治36年10月4日に生まれた。父・復太は、明治28年東京帝国大学法学部卒業生の一人で、「二八会」(https://ja.wikipedia.org/wiki/二八会)というその後の著名人が並ぶ同窓会の一員だったり、岡山県人会の学生会館である「精義塾(http://www.seigijuku.org/history.php)」の創始者でもあった。

 温二は、前述のごとく学生時代にカトリックの洗礼を受けていて(奥さまも息子さんも洗礼を受けていた由)、昭和41年頃名古屋大学を退官、昭和43年10月19日に亡くなられ、名古屋市天白区八事の墓地に十字架が刻んである墓に眠っておられるとのこと。わざわざ情報をお寄せいただいたお孫さんの水川淳氏には、深く感謝したい。

 戦前はもとより戦後の初期キリスト教史研究でもプロテスタント史家が主流であった中で、文面からそれとはひと味違うニュアンスを感じていた私の直感は、今回は当たっていたようだ。

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ペルペトゥア・メモ(1):鞭打ちと磔刑

VI.3:滅多にないことだが、他で読んでいる文献から関連記事がみつかった。フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』II.9.308:翻訳第一分冊、p.325。

   その日フルロスはかつて誰もしたことのない大胆な所業、つまり、騎士階級に属する者たちを審判の座の前で鞭打ちし、十字架に釘打ちするという所業をやってのけたからである。たとえ生まれがユダヤ人だったとしても、少なくともローマ人としての地位のある者たちをである。

 ヨセフスは、ここでのユダヤ総督フロルスGessius Florus (在職64-66年)を第一次ユダヤ戦争勃発を目論んだ張本人として描いている。

http://jewishencyclopedia.com/articles/12376-procurators

 その140年後、場所は北アフリカで、ペルペトゥアの父はアフリカ総督代理のHilarianusによって鞭打たれている。この総督代理の臨時職は、正規のアフリカ執政官格属州総督proconsul(アシア州と同格で元老院選出属州総督の筆頭ランク)のMinucius Timinianus(ギリシア語訳での表記のほうがより正しいとされているが、さてどうだろうか:「Mινουκίου Ὀππιανοῦ」= Oppianus ≒ Opimianus = PIR5 M 622,1983:ca.186 consul)の在任中の死亡によるもので、北アフリカのいずこか(おそらく州都カルタゴ周辺)の皇帝直轄所領の財務管理官procuratorだったヒラリアヌスは、後継の正規の総督が派遣されるまでのつなぎだったと思われる。こういった財務管理官の出自は、身分的には元老院身分に次ぐ騎士身分にランクされてはいても、おおよそ皇帝の宮廷における私的雇用人(奴隷、解放奴隷)であったから、姓名表記もここでのように個人名のみとなることが多い(ローマ市民が2つの姓名で表示される場合は、個人名・家系名で、今の場合、ミヌキウス・ティミニアヌスは、ca.123のアフリカ総督のT.Salvius Rufinus Minicius Opimianus,[PIR5 M623]が祖先と考えられるので、Minucius Opimianusと修正されているが、さて)。

 何が言いたいかというと、ペルペトゥアの父は笞打ちされているからには、元老院身分や騎士身分等いった特権身分ではなかった、ということ。ヨセフスがご1世紀半ばの例外事例を書き残しているものの、そしてカラカッラ帝の全自由民への市民権付与が目前の時期だったにせよ(それは、本来の市民権の内実の凋落を意味していたはずだ)。

【追伸】まったく別の話題ですが、磔刑つながりで。以前学生向けの論文集に磔刑がらみの事を書いた(「ローマ時代の落書きが語る人間模様」『歴史家の散歩道』上智大学出版、2008)。そこで十字架刑を体験した唯一の出土物を紹介したことがあったが、二番目ないし三番目の例として2000年前のイタリア出土の骨が2018年に公表されていた。いずれ再検討したいテーマであるが、なにせ先のない身なので、ここに明記しておきます。志ある人を求めています。https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2018/05/extremely-rare-evidence-of-roman.html#EKZb2MUx2dCPG5RE.97

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『ペルペトゥア殉教伝』読書会参加者募集中!

 2019年度春季の上智大学公開学習センターで以下を開講予定で、現在募集中です。10名の受講者があれば開催されますが、苦戦中です。これが本当に最後かな。連絡先は、03−3238−3552。

 「女性史からみたキリスト教殉教:『ペルペトゥア殉教者伝』をめぐって」

 水曜日 午後7時10分〜8時40分

 開催日:4/24、5/15、5/22、6/5、6/12、6/26、7/3、7/10 の8回

 ジョイス・E・ソールズベリ『ペルペトゥアの殉教:ローマ帝国に生きた若き女性の死とその記憶』白水社、2018年、¥5200+税

【後記】締め切り日までの申込み人数2名につき、開催不能となりました。別途、読書会を開催しますので、そちらにご連絡ください。

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ピュイ・デュ・フー:もうひとつのフランス革命論:飛耳長目(4)

 またまた偶然だが、BS4Kで、「体感世界最大級のスペクタクル劇」の再放送をみた。フランスの西端でナントに近いPuy du Fouでのテーマ・パークの紹介で、フランスではディズニーランド以上に好評を博している由。ヨーロッパの歴史を再現するという触れ込みで、古代ローマの戦車競技の再現など、見所が多いようで、全部見るなら3日間は必要らしい。

 実は、それ以上に私の興味を引いたのは、多数の地元民ボランティア出演による1793年の「ヴァンデ戦争」再現劇のほうだった。フランス革命で宗教弾圧に反対して決起した民衆・農民の反乱に対して、革命政府軍が無差別殺戮をした。革命とは、いわれているほど理想的でも立派なことでもない、という当たり前のことを堂々とイベントにして、自説を主張する心意気に感じるものがあったからである。

 かつて「フランス革命」を理想化する言説が世の中に溢れていた昭和30年代に高校世界史を学んだ私は、わが名物教師(故)西尾先生が「今でも革命記念日にブルボン王家の白百合旗を掲げるフランス人がいるんだ、そもそも三色旗だって白が真ん中にちゃんとあるでしょ」と時流と相容れない、刺激的な情報をさりげなく告げられたことがあって、ある意味強引に、世の中を相対的に見ることの大切さを学んだ気がする。本当にそうなのか、確かめてみたい、これが私の道を決めたと今でもそう思っている。

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偶然も強い意志がもたらす必然である:飛耳長目(3)

 先日、NHKスペシャル「平成史」第5回「“ノーベル賞会社員”~科学技術立国の苦闘~」で、田中耕一氏のノーベル賞受賞以降の苦悩と新境地開拓が放映された。https://news.nicovideo.jp/watch/nw4851000

 標記はそこで彼が言った言葉である。ノーベル賞級の発明発見の半分は偶然に見つけられたということで、それの意味することはこれまでもさまざまに表現されてきた(ルイ・パストゥール「幸運は用意された心のみに宿る」le hasard ne favorise que les esprits préparés)。今風に若干格好つけた表現をするなら「セレンディピティ」Serendipityということになろうか。

 我々のような文系の輸入研究分野(紹介史学)にひきつけてみると、まあ欧米の研究成果の横文字を縦にする世界は、多少の和製のこねくり回しをほどこしたところで、所詮猿まね、縮小再生産で終わってしまうこと必定なのだが、そこでセレンディピティ創出をめざすならどうしたらいいのかと考える時、これはもうひたすら原典史料の読破しかない、と私は思わざるをえない。理系の実験は何万通りの組み合わせを一つ一つ潰していって、しかし多くの場合は実験者の事前想定などいとも簡単に覆して、最初の想定だと失敗のはずの試みから偶然に発見されることがあるわけだが、それと同様の苦闘を、我々はギリシア語・ラテン語の原典との対峙の中でしなければならない、はずなのだ。この営みはオリジナルの成果などいつみつかるかわからないのだが(しかし、体験的に必ず新発見があることも確か、なのである:鶴岡一人曰く「グラウンドにゼニが落ちている」)、それが我々にとっての何万通りの実験なのである。上記放映で若手研究者が「研究者生命をかけ」て命じられた実験に向かっている姿があったが、はたして文系の我々はそれほどの覚悟をもってやっているのだろうか。

 とはいえ、人間相手の人文学は理系と違って実験はなかなか難しい。しかも、「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛び立つ」(G.W.F.ヘーゲル『法哲学』序文)とはよく言ったもので、すでに終わってしまった人生でようやく初めて見えてくるものがある、と思うのは私だけであろうか。若手にはそれまでなんとか生き延びてもらいたいと思うと同時に、なぜか職を得た途端に研究を止めてしまうあられもない現実を見るにつけ、なんだかなと思わざるを得ない私である。そっから先がまさしく正念場だろうに。

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はたして歴史的「事実」など存在するのか

 昔も読んだはずだったが忘れ果てていて、最近また読み直していてこんな文章に出会った。

  「私が学部生だった頃、歴史学の教授たちは、客観的な歴史は存在しない、と教えた。フォン・ランケ(Von Ranke)は死んだ。ランケの研究法もまた過去のものとなった。「起こった事をその通りに」見出す方法はない。歴史家たちは彼等自身の目的のために、彼等自身の偏見と立場から記述した。客観性を装っている者によって騙されるよりも、臆面もなく偏向している歴史家を読む方がましである、と教授たちはいった。」(モーリーン・A.ティリー「第39章 ペルペトゥアとフェリシティの受難」『聖典の探索へ:フェミニスト聖書注解』日本キリスト教団出版局、2002[原著1994]、p.621)。

 これでようやく納得したことがある。フェミニズムないしジェンダー史学華やかりし頃、学位を取って売り出し中のアメリカ系女性研究者たちの、私見ではやたら主観に走った論述に辟易した記憶があったからだが、彼女らの理解だとアメリカでは当時「臆面もなく偏向」した歴史が推奨されていたらしいことがようやくわかり、腑に落ちるものがあったからである(誤解なきよう付言しておく。これはティリー女史をあげつらってのことではない。私は彼女の論文を若干読んでいて、かねてその視角や論点に親近感をもっていた[もちろん批判点もあるが]。今回ウェブ検索し直してみると、彼女は1948年生まれで私より1歳若く、そして2016年4月に脾臓ガンですでに死亡していた。合掌)。

2013年のTV出演時

 確かに人は「真実」(truth)を追求しがちである。「真実」とは、「事実」(fact)に直観による信念を加えたものである。究極的な「事実」は一つでも、「真実」は主観的で人の数だけある。なるほど世間にはもっともらしく「客観性を装っている」研究があふれていることも確かである。しかしだからといって私は「事実」追求の矛先を緩めていいとは思わない。いわんや「臆面もなく偏向」していていいわけはない、はずである。それはむしろ歴史小説のジャンルだろう。しかし、歴史研究者にはほとんどの場合、歴史小説を書く文才はない。

 ただ客観的「事実」といえども唯一ではない。たとえばA地点で武力衝突が生じても、2、3ブロック離れたB地点は平穏そのものであれば、事件の評価にA地点とB地点の証言で温度差が生じるのは当たり前で、だが史料的にBしか残っていない場合、それが客観的「事実」になっていいはずはないからである。「事実」の認定には諸状況を勘案しての史料批判が必要で、しかしその検証を経たところで絶対的に正しい「事実」と断定できるわけでもない、と歯切れは悪くとも相対的位置づけに留めることは重要であろう。その意味ではじめて、たとえ真摯な研究者の立論といえども「独断と偏見」にすぎない、といえるのである。

【追伸】後付けではなく、歴史の瞬間瞬間には別の選択の可能性があったということを日本現代史で追体験したい向きは、以下をご一読されることをお勧めする(なに、私も教えてもらったのだが)。半藤一利他『大人のための昭和史入門』文春新書、2015年。こういった検証は現代史だから可能だと思わざるをえないが(しかし多くの人はすでにその可能性の存在を忘却している)、平行史料が消え去ってしまった古代史の場合、その存在を意図的に視野に入れて残存史料を相対化することが必要と考える。だが、どれほどの研究者がそれを行っているか、はなはだ疑問である。

【追記】こういう視点もおもしろい、というか本音だろう。「歴史」はどこまで遡るべきか

2020年01月15日):http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52265903.html

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ケルト・メモ:(2)体感的キリスト教

 これもうろ覚えですが。
 今日、偶然にも途中からBS4で「知られざる古代文明:マヤのピラミッド」をみたら、最後に極めつけの文言が研究者の口から発せられて、脱帽。
 征服者スペイン人がやってきてキリスト教を強要した。マヤ人たちはそれまで多神教だったが、それまで1000の神を信じていたとして、彼らはキリスト教を単に1001番目の神として受け入れたに過ぎなかった、と。
 まあ、ケルト人にとっても、同じことであったのではないか、と私は思う。

 ところで、多神教の中で自分の守護神として一人の神を選び取ることを「一神礼拝」monolatryといいます(実は研究者レベルでは、アブラハムもそうだったとされてます)。キリスト教側では教義的に自分たちは「唯一神礼拝」monotheismだ、と一生懸命主張するわけですが、実際の信者たちの多くにとっては「一神礼拝」にすぎなかったりします。
 信者であれば体感的にこのことは分かっているのですが(特にカトリックでは)、頭で自分はキリスト教を理解できていると思いこんでいる非信者たちは(いや、自分はちゃんと信じていると思っている人でさえも)、この肝腎な部分が分かっていないので、見当外れの言説を飽きもせず再生産しているように思うのは、私だけでしょうか。

 理念追求の神学や哲学はそれでいいとして(正直本音では、いいとはまったく思ってませんが (^^ゞ)、現実を直視すべき歴史やってる人がそれでは、どうも、ね。

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殉教のテンション:遅報(1)

 2/5に偶然見た、NHK BS4K「知られざる古代文明 発見! ナスカ;大地に隠された未知なる地上絵」。2年以上前の再放送のようだ。俳優の佐藤健がレポーター。 
 新しい考古学的成果でいい加減な従来説が崩壊し、なかなかいい線いっている気がしました。私はこれまでそれに触れている著述家たちは現地に入っていると思ってきたが、どうも違うらしい(現地に入るためには特別な許可がいるらしいし)。ひょっとして航空写真しか見ないであれこれもっともらしいことを言ってきたのだろうか。今回現地に入っての調査団は山形大学チーム。やっぱり現地に立ってみて初めて分かることがある、という当たり前のことを地で行っている好例。あの線が実は足幅しかなくて、おそらく片足を引きずって描かれたものということなど、聞いて驚くことばかり。
 たしか、あれを用水路だといった説もあったよな。赤面ものだ。
 南アメリカでの人身犠牲についても、ここでも自ら自発的に提供した者もいたらしい。キーワードはやっぱり水資源。雨乞いなのだ。研究者が「命は大切、だからそれを守るために大切な命を捧げる」という視点で述べて、それに対して佐藤が「どういうテンションでやったのでしょうかねえ」と反問すると、研究者のほうが「あっ、テンションっていう表現はなかなかいいですね」と返す場面があって、面白かった。
 私的には、殉教の場面で、このテンションを考えてみたいと思ってます。

[後日補遺]このシリーズのマヤ文化もみることできた。そこでも水資源がかの文明の衰退と関連していたらしいとされ、ただしナスカとは逆に干魃ではなくて、雨量が多くてそのためだったと。この真逆な発想には学ぶべきものがある。

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ケルト・メモ:(1)鹿の奇蹟譚とキリスト教

 読書会で読んでいる、ヤン・ブレキリアン『ケルト神話の世界』上、138-142ページに出てきている聖エダーンSt.Edern(聖ユベールSt.Hubert)の牡鹿の角の間に十字架を見たという幻視に関連して、ローマ市内のSant’Eustathio教会の正面屋根上にも枝角をもった鹿が飾られているが、関連は、という質問が〇〇さんからありました。そういえばそうだよね、というわけで、家に帰って調べてみたのですが、Eustathiusの伝説のほうが時代的にかなり古いので直接の関係はないけれど、類似伝承としては知られていたようです(普通だと、古い方が先行伝承なので、翻訳者もそのように想定してます。p.141)。

 以下、ウキペディア情報。エウスタティウスは、ローマ皇帝トラヤヌスに奉職していた将軍で、元々の名前はPlacidusだった。彼はティヴォリで牡鹿の狩りをしていた時、鹿の角の間に十字架を幻視したので、すぐに家族ともども改宗し、名前をEustathius(堅固)と変えた。彼はヨブと同様の数々の試練を受けたが、信仰を堅持した。だが、118年に異教犠牲を拒否して、妻子ともども青銅製の牛像の中に入れられあぶり殺された、のだそうです。 
 たぶん伝説上の人物だったせいでしょうが、カトリック教会は、1970年に聖人暦から彼を削除しましたが、地方的崇敬は存続しているそうです(これがカトリックでは普通の対応である)。未だ英国国教会や正教会では聖人で9月20日が祭日だそうです(手元にある光明社版の『カトリック聖人傳』下巻、1938年、p.282には、その日付の[共祝]欄に以下のように書かれている:ローマにおいては聖エウスタキオ将軍、その妻聖女テオピスチス、その子聖アガピトおよび聖テオピスト各殉教者ーー猛獣の餌食にされようとしたがなんの危害もこうむらず、最後に鉄牛の内部に押しこまれて焼きころされた)。 この教会、パンテオンのすぐ西南にあります。

 その広場の一画にあるカフェがくだんの「サンテスタッチオ・イル・カフェ」で、エスプレッソが絶品(黙っているとズッケロ入りとなる)。ローマ1、と私は思ってます。ローマに行くと必ず行き、お土産に豆を買います。今度いったら、この御縁で,鹿と十字架の図案付きカップも買おうかな(ウェブでも購入可能のようだけど,送料とかかかりそうだし)。でも我が家にはカップがもういっぱいあって、すでに断捨離趣味の嫁さんの標的にされてる気配があって、苦悶 (^^ゞ

【後日談】今回(2019年5月)の渡伊で首尾よく購入! 帰国して勇んで開けてみると・・・カップは壊れていた・・・。こんなことは初めてだっ、とほほ。嫁さんはにこやかに笑ってました。

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