私は大昔に、ヘルムート・トリブッチの『蜃気楼文明:ピラミッド、ナスカ、ストーンヘンジ』工作舎、1989年(原著:Helmut Tributsh, Das Rätsel der Götte, Ullstein Verlag, 1983)、を大きな驚きで読んだ記憶がある。あまりの衝撃に大学教養課程の西洋古代史の授業の推薦本にしたほどだ。ひとつひとつの事例の正否は横に置いておいて、彼の桁外れの着想力に心底びっくりしたのである。細かい内容はもう忘れてしまったが、その中にブリテン島に先行的に巨石文明が存在していたというちゃぶ台返しがあったことだけは強く印象付けられて、今でも覚えている(2019年3月23日にトリブッチがらみで関連ブログ)。
この建物の 二階は戦車競技のための皇帝御座所(貴賓席) Pulvinarとして使用されていたという説さえあるようだ。ここでの「二階」は我が国での三階を意味するので(あちらでは我々の一階を「地階」、二階を「一階」と称する)、となると高度的に「小姓養成所」の前庭部分と連結した土地のさらにその上階があったことになる。大競技場の観客席の高さを超えていなければならないのだが、その構造物は、マクシミヌス以降の地震災害で跡形もなく崩壊してしまったのだろうか。私にはそうは思えない。むしろ再現図では以下のようにパラティヌス丘寄りの観客席に御座所が設定されている例が多い(私は2008年には、御座所は東方向にあったと想定していた。cf., Ed by A.Carandini, The Atlas of Ancient Rome, Princeton UP, 2012, vol.II, table a.t.25:いずれにせよ、人目を避けるため地下道が利用されたはず)。見世物の主催者として、競技者や民衆との一体感・親密感を醸成する意味からもそのほうが妥当と思うのだが、どうだろう。
本パピルスについての詳細な検討は以下の論稿でなされている。Anna Dolganov, Fritz Mitthof, Hannah M. Cotton, Avner Ecker, Forgery and Fiscal Fraud in Iudaea and Arabia on the Eve of the Bar Kokhba Revolt: Memorandum and Minutes of a Trial before a Roman Official (P.Cotton). Tyche, Bd. 38 (2023), Pp.135: doi.org/10.25365/tyche-2023-38-5
ポンペイでは19世紀以降、降り積もったパーミスpumice(pomici di Pompei)とサージの火砕流で埋もれた遺体の型は、分解後に残った空間に石膏を流し込むことで作られてきた。しかし、研究チームが現在修復中の最も有名な型86個のうち14個の骨片からDNAを抽出したのは、つい最近のことだ。この分析により、血縁関係、性別の判定、個人の祖先の追跡が可能になり、鋳型の外見と配置のみに基づいたこれまでの多くの解釈に疑問が投げかけられた。
Elena Pilli, Stefania Vai, Victoria C. Moses, et al., Ancient DNA challenges prevailing interpretations of the Pompeii plaster casts. Current Biology. Vol.34, Issue 22, November 18, 2024:doi.org/10.1016/j.cub.2024.10.007