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再放送「徹底解明!コロッセオの秘密」をみた

 2023/5/20にNHK BSプレミアムで放映されたものの再放送を、2024/1/7にみた。フランス製作のものだったが(このところNHKのこの手の編集者はもっぱらフランス製作のものを使っている印象がある:製作費削減のせいか)、これまで見た記憶がうかつにも私にはなかったものだ。私からすると時々おかしなことを言っていたのだが、最新の考古学的調査の成果公表としては意味あると考える。間違ってはいけないのは、それでもわかってきたことはほんの一部にすぎないということだ。要するに、研究レベルでは本当のことは何もわかっていないのに、これまでいい加減な仮説を思い込まされていたという認識をこそ持つべきなのだ。

 たとえば、コロッセオの地下からアレーナへの昇降システム、我が国の歌舞伎で言う「奈落」は船への荷の積み下ろしから学んでの仕組みであるとしていたが、これは話が逆のように思えるし、その再現映像も幾つか言いたいことがある。

 第一に、船が波止場に横付けに表現されていること、さらに波止場から海に突き出ている上向きの装置の解釈として船舶係留装置を採用してロープを巻き付ける丸太をそこに入れ込んでいるようだが、荷の上げ下ろしのクレーンがらみかもしれないという件は、最近の拙稿「ポンペイ遺跡の謎を探る:(1)船舶係留装置考」(『西洋史学』50、2023、pp.193-211)で触れていて、しかしそこではわざと図示しなかったのだが、時に奴隷を動力源とする人力クレーンとの組み合わせとして描かれる場合があるが(下図の下の方参照)、文書史料や絵画資料に指摘・描かれているわけではないので、簡単に是認するわけにはいかないのである。

 私的には、海水がローマ・コンクリートをより強固にしていたというメカニズムの説明(真水と違い海水だとアルミナ・トバモライトという物質が成長して水の浸入を防いで強度が増す)は面白かった(この件はしかし、放映中のイタリア人の発見というよりも、すでに5年以上前にアメリカの研究チームが指摘していたのだが:https://wired.jp/2017/07/30/roman-concrete/)。そしてポッツォラーナでコンクリートを作る場合、海水を使用していたのではというのは面白い仮説だと思う。

 またたとえば、私のテーマであるコロッセオのトイレについては何も触れてくれていなかった。あの場で見世物をみながら持ちこんだ弁当なんか食べていた、とは言っていたが、排泄のほうには気付きもしないわけだ。ついでにいうと、コロッセオで殺された動物をその場で食べていたかのような誤解を生じさせかねない説明をしていたのは(おそらく翻訳レベルの誤訳)、いささか問題ありだろう。

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Pompeii,IX.10.1の製粉・製パン場について:新情報

2023/10/20に掲載済みの件だが、ここで新情報を付加して再掲載する。

●ポンペイで、邸宅内で選挙広告がみつかる  2023/10/3

 http://www.thehistoryblog.com/archives/68418

 ポンペイの通りや外壁には1500以上の選挙広告やスローガンが書かれている。今般、IX.10.1の製粉兼製パン業者の遺跡発掘から興味深い出土があった(隣りの2は縮絨工房の由)。

そこはポンペイの一番北を東西に走るノラ大通りに面していて、今年のつい数ヶ月前に発掘されたのだが、なんと邸宅内の家の守り神を祀った祭壇 lararium付近から選挙広告の文字断片がでてきたのである。この普通ではない状況を勘案して、おそらくその家が候補者の親戚か、庇護民か友人の邸宅で、選挙運動がらみの宴会がそこで行われたその残り香がその選挙広告だったのだろうと、研究者によって想像されている。ただその文字全体の確定はいまだきちんとなされていないようなので(一説には「「Aulus Rustiusを国家にふさわしい真のaedileにしてくださるようお願いします」と読めるらしい)、今は造営官aedilisに立候補していた人物名が他からもその存在が確認されるAulus Rustius Verusだったこと以上にここで触れないでおく(彼は、のち二人官duovir候補者として後73年に、それもネロがらみで前回触れたIX.13.1-3のあのC.Iulius Polibiusとペアで登場していた。よって造営官候補だったのは後73年以前ということになるし、おそらく二人官に立候補していることから、このとき造営官に選出されたのだろう)。下記写真にしても、どの場所に文字が書かれているのか、部分拡大写真はあるものの、そもそも私には未確認であることを付言しておく(下の右写真の左端中央隅のアーチがもしオーブンであるとすると、オーブンは平面図の7a、となると祭壇は4の西壁にあって、よって写真は左右を合成したものなのか)。

 左平面図:左1番地が製粉・製パン所、右2番地が縮絨工房  右写真:ララリウムの周辺壁面? あるいは合成写真?

 その他に2つの注目すべき出土が確認された。そのひとつは「ARV」と刻まれた石臼が出土したことで、こうなるとこの製粉・パン製造所は「Aulus Rustius Verus」の援助を得ていたということになって、当時の選挙活動の実態があからさまに見てとれると発掘者たちは指摘している(しかしたとえば、彼の投資設備を使って営業していた解放自由人だったとか、Verusは石臼製造業者だった、といった別の至極穏当な解釈もありそうだが、こういうマスコミ受けしそうな穿った解釈はポンペイ関係でよく見受けられる)。普通の写真では刻印部分が不分明なので文字部分をなぞったものを掲載しておく。

 もう一つは、ララリウムの祭壇からかつての献げ物の遺物が収集できたことで、分析によると、噴火前の最後の献げ物はナツメヤシとイチジクで、オリーブの実と松ぼっくりを燃料として祭壇で燃やしていたことが判明した。ある報告者が乾燥オリーブの実を暖炉で燃やしたことがあるのだそうだが、素晴らしい香りがしたらしい。そして、燃やした供え物の上にはひとつの卵を丸ごとのせ、祭壇を一枚のタイルで上から覆って儀式を終えていたらしい。なお祭壇の周りからは以前の献げ物の残骸も出てきて、ブドウの果実、魚、哺乳類の肉などが確認されたという。こうして文献史料からつい想像され勝ちなのだが、いつも高価な動物犠牲を奉献していたわけではない庶民層の日常的宗教慣習の具体例をおそらく初めて垣間見ることもできたわけである。

上の写真左が発掘途中で祭壇上部が露出したとき、右が発掘完了時の姿を示している

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【追記】2023/12/9付で大略以下のような情報が掲載された(http://www.thehistoryblog.com/archives/68977):「ポンペイのパン屋/製粉場では、奴隷にされた人々や動物の重労働が見られる」

 若干、イタリア、否むしろポンペイ遺跡特有のマスコミに媚びを売るような内容でどうかなと思う最初の出だしの色づけであるが。「Pompeii, IX, 10,1では、奴隷や家畜の悲惨な状況が見てとれる。発掘された生産エリアには外界との連絡ができないようになっている。 唯一の出口は家のアトリウムに通じており、家畜小屋ですら道路に直接アクセスすることはできず、いくつかの窓が鉄格子で固定されている。言い換えれば、それは、所有者が移動の自由を制限する必要があると感じていたことを示している。奴隷には解放の希望も感じられなかったし、ロバ・ラバの作業場である石臼間の間隔は狭く、目隠しをされた二頭はすれ違うためには歩調を合わさないといけなかった。」

 これは実際には外から侵入してくる泥棒への対策だったり、石臼の稼働を交互にして粉を劣化させる熱を持つのを防ぐ工夫と捉えればいいことであって、奴隷の逃亡を防ぎ、ロバ・ラバにいらぬ負担をかけているわけではない、とついイチャモンをつけたくなる口上部分である。

 しかしその後の叙述は、私には新鮮であった。「動物の歩みをガイドするために、玄武岩の舗装に半円形の切り欠き semi-circular cutouts が作られていて、それは同時に、動物が滑らかな玄武岩の平石の上で滑らないようにするという利点もあった」。

 以下の2枚の写真がそれを実証しているというわけである。たしかに玄武岩の床は滑りやすいが、その上を365日ロバやラバが歩くのだから丈夫な玄武岩が敷かれているのは当然でもある。この切れ込みに私は不覚にもこれまでまったく気づかなかった。この「半円形の切り欠き」がどこでも見受けられるのかどうか、今後注目して監察してみようと思う。

ここでロバやラバはこんなふうに働かされていた。

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映画「Perfect Days」を見てきた

 豊島園駅のそばには「ユナイテッド・シネマとしまえん」があって、そこで上演していたので、妻に声をかけていっしょに見てきた。予備知識としては役所広司が主人公ということだけ知っていて、しかし麻生裕未や三浦友和、そして田中泯の出演はまあ想定内といっていいだろうが、さりげなく石川さゆりが登場したのにはいささか虚を突かれた。あの声量はやはり常人ではない。

 そしてなによりも主人公が作業車に乗ったときに古いカセットテープから流れ出る音楽の鮮明さは印象的だった。それは監督が欧米人だからの感性なのであろうが、それに映像として「羅生門」以来の日本人の感性とされるようになった木漏れ日がくり返し映し出されるしかけだ(だが、やたら白黒のコントラストを強調させた映画「羅生門」と違って自然光で撮っているので、そうインパクトを感じることができない恨みが残ったなあ)。

 そして私が観賞する気になった渋谷区のトイレの数々。世界に誇る日本のトイレ水準と、それを日常的に維持している掃除員の手作業の対照、それに銭湯でこれもさりげなく見せる主人公のもう若くない肉体による、先行きの不透明さ。そんな平穏な彼の日常的ルーティーンを破るのが、他ならぬ肉親の闖入と仕事上のシフトの混乱というのもなかなかリアルな設定ではあった。

 ま、しかし、これが人生さ、それでいい、といわんばかりのエンディング。無口な彼が発した唯一の意味ある言語「今度は今度、今は今」もそれに通底しているようだ。

 ところで1100円だっけで購入したパンフレットの表紙、「PERFECT DAY」となってたぞ。そこに書いてあったロケハンの日数たった16日には驚いた。ドキュメンタリー方式だからできた技にしても、それ以前の緻密な事前調査なしにはありえなかったはずだ。スカイツリーや隅田川や桜橋の円錐形オブジェ、それに浅草の地下街とか、外国人(観光客)を意識した映像も各所にちりばめられていて、私は聖地巡礼したくなった、しないだろうが。

 

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宇宙時代の新価値観

 2024/1/4 NHK総合午後11時からの「ヒューマニエンス」での、「宇宙体験:私たちの”次なる章”がはじまる」が面白かった。

 地球上に住んでいる限り人間が逃れられない宿命として常識としてきたのが「重力関係」、それが人間関係ではすなわち上下関係に連動するのだが(社長室は一階にないという理屈は面白かった)、それが無重力空間では消え去ってしまう、というのである。この認識はある意味、ゴリラ体験なんかを超越しているようにさえ私には思えた。

 そして、宇宙船で地球を飛び出すのは人類のおそらく1%以下にすぎないであろうが、それは出アフリカにチャレンジした人々、大航海時代に船で荒海に挑戦し新世界を目指した人々に匹敵する行動なのではなかろうか。自分が産まれて生きてきた社会の閉塞感に敏感な人々、野心と好奇心に満ちた人々、彼らが宇宙に飛び出す未来はそう遠くないわけだ。

 その時、古代ローマ史などどれほどに意味を持ち得るのだろうか。疑問である。

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都市インフラの維持と、古代ローマ

 ゴリラの研究家がおかしなことを書いているのを読んであきれた:https://mainichi.jp/articles/20231228/k00/00m/040/172000c?utm_source=article&utm_medium=email&utm_campaign=mailcp&utm_content=20240103

 総じてずれたこと書いているなと思った中で、1箇所だけ「ん」と思ったところがあった。

 都市では「下水道や電力のシステムが至る所に配備され、維持するためのコストが高い。住居は密閉されているので冷暖房の設備が必要で、巨大なビルや工場には膨大な電力を供給しなければならない。」

 論旨はだから田舎住まいがいい、と流れていくのだが、人口減がこれから進む我が祖国は、いずれ都市生活の維持が困難になっていくのは確かで、すでに上水道配管の耐用年限が過ぎていて、いずれ都市財政に大負担となりそうなので民営化が模索されていると仄聞するのだが、最近やたら便利に使っている宅配便なんかも運転手不足でいつまで続くかだし、その上、電力問題が俎上に上がるようになったら・・・、とまあ自分の死後にまで思いは飛ぶのである。 

 実際には先のない身であるので、私自身の近未来への悲観はたんなる空想にすぎないが、私がおい待てよと思ったのは、ローマ帝国の衰退の件であった。ローマ文明の冠たる水道渠にしたところで、素人さんは忘れがちだが、そのメンテナンスには多大な労働力と技術力あってのもので、それらが失われていけば、単なる廃墟構造物に化すだけのことである。地震なんかの天災がその崩壊に追い打ちをかけるのは容易に想像できる。

 これからの日本の歩みは、古代ローマの衰退史の実相を追体験できる恰好の事例のように思えたのでる。

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驚愕! 50年前の Pompeii 盗品がみつかった!

 我が国では正月元旦早々能登沖で地震が発生したが、偶然地震がらみの情報が2週間前に届いていた。

2023年12月14日 :https://www.vrt.be/vrtnws/en/2023/12/14/pompei-marble-discovered-flanders-house-wall/

 1975年にポンペイから盗まれた西暦62年の地震を描いた重要な大理石のレリーフが、ベルギーのヘルツェレ Herzele のある家の階段の壁に貼られているのが見つかった。

 家主で当年とって85歳の Raphaël De Temmerman 氏は、1975年に家族でイタリアに旅行し、ポンペイを訪れていたとき、みやげ物を売りたいという男に声をかけられた。彼は大理石の板を見せ高額を吹っかけてきた。現金と品物を手早く交換すると、売り手は立ち去った。

 自宅に戻った一家は、その記念品を家の壁にはめ込んだ。それは50年以上もの間、昨年初め家が売りに出されるまでは、誰からも注目されることなく飾られていた。85歳になった Raphaël 氏がアパートに引っ越すことになり、息子のゲルト Geert 氏は興味本位でこの大理石の価値を調べてみることにした。

 Tongeren ( Limburg ) のガロ(ガリア)・ローマ博物館の専門家は、この大理石のレリーフは、1975年7月14日にポンペイ遺跡の銀行家 L.カエキリウス・イクンドゥス L. Caecilius Iucundus (V.i.26)の家のアトリウムにあった家庭祭壇 lararium から盗まれたものであることを確認した。https://archaeologyunearthed.quora.com/Stairway-decoration-in-Belgian-home-found-to-be-long-lost-Pompeii-artifact-Raphaël-De-Temmerman-80-and-his-son-Ge?ch=1&oid=140189318&share=6c393ab5&target_type=post

 問題の大理石平板には、紀元62年のポンペイ地震の場面が描かれていて、それはもともと二枚あった。そのうちの一枚は現在は2016年に新装なったポンペイ遺跡内の Antiquarium に展示され、昨年の夏の訪問時にも私はそれを見学している(https://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R8/8%2001%2004.htm)。

 これらの石板についてはこのブログでもかつて多少詳しく触れたことがある(2022/1/19:https://www.koji007.tokyo/wp-admin/post.php?post=25020&action=edit)。それは2022/1-4に東博で開催された「特別展ポンペイ」関連での書き込みだった(https://www.koji007.tokyo/wp-admin/post.php?post=25147&action=edit)。

 当然、イタリアはレリーフの返還を求めるはずで、まずはポンペイの専門家たちが確認に向かって真贋を判定することになる。一方、デ・テンメルマン氏は、イタリアのいくつかの法律に違反して持ち出したけれど、少なくとも50年間その略奪品を安全に保管していたと主張して補償を要求するらしい。

 やっぱり現物の写真は鮮明である。いずれにせよ、両板が並んで展示される風景を私の生存中に見ることが可能になることを期待している。

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故ジャン・ダニエルー枢機卿の名誉回復

 以下は、昨年7月にアップしたつもりになっていたもの。ずっと下書きのままでした。

 旧聞に属するが、私が在職中にテキストに採用してきた『初代教会』平凡社ライブラリー、の著者ジャン・ダニエルー Jean Daniélou の名誉回復の記事が、他を探していたら偶然出てきたので、ここに掲載しておく。著作権の問題あるので、ここには詳細を明記しないが、興味ある向きはお問い合わせください(k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。

(14 May 1905 – 20 May 1974)

 英文のウィキペディアでは、彼の死に関して以下のように簡単に述べている。「1974年、娼婦とされる女性の自宅で急死。調査の結果、イエズス会は、ダニエルーが女性の夫の保釈金を支払うために贈り物を持ってきたと発表した。他の多くの著名人と同様、ダニエルの兄は彼を強く擁護し、最も困っている人々のために常に尽くしてきたと指摘した。」

 とはいえ、私がダニエルー師を話題に出した時、日本人イエズス会士たちはスキャンダルめいた情報にとらわれていて触れたくない雰囲気だったのを思い出す。その中には新約学の人も含まれていたので私には意外だった。修道会の公式声明など信じていない感じだったからだ。同僚さえそうなのだから、他は推して知るべしだろう。死後の彼は陰口の対象であり、セクハラの当事者とされていたのである。

ダニエルー 奪われた真実                     2012年5月8日

 デュロン通り56番のアパートに呼び鈴はない。入るために、私はだれかが来るのを待っている。建物の前にはルーテル教会、その少し先にはタイ式マッサージ屋がある。隣は催眠セラピスト。反対の隣は怪しい金貸屋だ。家族連れがやってきて門をあける。私は中を見せてもらえないかと頼んだが、乱暴に押しのけられる。しばらくして化粧の濃い若い女性がやってきた。こわがりながらも、ついに入れてくれた。「あなたを入れたのは私じゃないわよ」と言って。私は4階まで、薄汚れたカーペットが敷かれた72段の階段を上る。薄暗さとわびしさにうんざりさしながら。4階。娼婦ミミ・サントーニのドアの前に私はいる。ノックはしない。1974年心臓発作に襲われたジャン・ダニエルー枢機卿は、この場所で死んだ。ダニエルーは第二バチカン公会議という神学シーズンの忘れられた主役である。彼は新神学Nouvelle Théologieの主要な提唱者の一人だった。キリスト教史料集 Sources Chrétiennes の創立者のひとりで、雑誌編集長であり約70冊の著書があり、公会議でもっとも影響力のあったメンバーに数えられる。しかし彼が死に、パリの新聞でスキャンダラスに報じられてからは黙殺されている。今日、その著書はほぼ全てが絶版になっている。

彼については、不可解な死の状況だけが記憶されている。

「いつも急ぎ足でしたね。まず頭から入ってきて、残りはその後!」

パリのマリアの御心会の家で会ったグラツィア・ザングランド修道女はこう語る。枢機卿は晩年、彼女たちのもとで過ごした。数十年来ともに暮らしていたイエズス会士たちと激しく対立して、修道女たちの家に引っ越してきたのだった。彼は1972年10月23日のバチカン放送局のインタビューで、思い切ったことを言った。

「今、信仰生活はとても重大な危機にあると思っています。改革についてより、むしろ退廃について話す必要があります。(中略)この危機の根本的な原因となったのは、第二バチカン公会議の誤った解釈なのです。」

これは彼が直属する上長らに対する非難に聞こえた。当時、各宗教団体の管長連合の長は、イエズス会総長【ペドロ・デ・アルペ師(在職1965-1983):ちなみに、師はスペイン出身の日本管区所属で、原爆投下時には広島長束の修練院にいた】だった。

グラツィア修道女は語る。

「ここにいらしてすぐ、私たちの朝課のミサを7時にあげることが可能だとおっしゃいました。しかし聖体拝領の後、枢機卿は20分の沈黙の祈りを捧げるためにお座りになりました。祝福をする前に。このように、修道院のあらゆるスケジュールがかき乱されました。」

実際のところ、司祭は二重生活をしていたのだろうか。

「そんな話は信じられません。」とグラツィア修道女は手を広げる。

1972年、若きノルウェー出身の彼女はダニエルー神父の簡素さに衝撃を受けた。枢機卿だとわかる外見の唯一の特長は、赤い靴を履いているということだけ。多くの任務を抱えているにもかかわらず、どうにか昼食は修道院で年老いた司祭のジラールといっしょに取ろうとした。さもなければジラールは一人になってしまっただろう。1974年5月19日、ダニエルーはブルターニュ地方に、ある修練の説教(とりわけ司祭の独身性の重要性ついて語っていた)のため赴いた。翌日ミサをあげ、キリスト教史料集の仕事をし、午後には町の反対側にある Porte de Clichy 行きの68番バスに乗り、娼婦ミミ・サント―ニの家に着いた。これはエマニュエル・ド・ボワソンが伝えたミミの談話である。

「収監されている夫の弁護士への費用を援助するために彼は来てくれたのです。彼はシーツのように潔白です。彼は私の方を見て、窓を開けるように言ったのです。『ここはたまらなく暑い!』と。」

最後の二日間の前触れの無い心臓発作は、多くの証言者たちが気づくことなく起きたのだった。サントーニはこう締めくくった。

「彼は膝をつきました。頭は床に打ち付けられました。最後に一呼吸、そして途絶えました。ずいぶん経ってから、私は自分に言い聞かせました。ひざまずくなんて、枢機卿にとって美しい死に方ではないかと。」

その死をとりまく状況は、残酷な新聞の報道合戦の的になった。だが、ダニエルーがこのような扱いを受けることは本当に妥当だったろうか。最初の著書『神殿のしるし Il segno del tempio』で、彼はクローデルの美しい一文を引用している。

「浄化された魂だけが、バラの香りを感じられるだろう。」そして解説する。

「私は純粋なまなざしを取り戻さなくてはならない。そうすれば、万物が光を放つメッセージへと戻るだろう。」

いったいダニエルー枢機卿とはどんな人物だったのか? 彼をよく知るひとたちが回想するように、自伝においてはどの箇所でも極めて自由で型にとらわれない人物のように思える。彼は、教皇からそして何度も総長から求められた世俗的な職分から離れたところにいた。既成概念とは無縁だった。「私は心から一教会人であり、聖職者であるのはほんのわずかだ。」

黙想会などでは、信仰に関して突き刺さるような問いかけをどんどんおこなっていた。

「神が人間の歴史に介入することなどありそうにない、とあなたたちが信じる権利を与えているものはなんだと思いますか。すなわち、聖なる歴史の正当性を私が受け入れる権利を正当づけるものはなんなのでしょうか。(中略)聖書の証言を完全に信用する権利が私にはあるのでしょうか。」

彼は困難と真っ向から向き合うことを恐れなかった。敬虔な言葉でごまかすこともしなかった。同時に、彼の偉大な信念は、強情一徹のものでもない。多大な関心を呼び起こした、フランス語版聖書の訳者アンドレ・シュラキとの公開討論で、彼はこう言った。「私はキリスト教徒として、あなたにイエス・キリストを宣言しなくてはなりませんが、望むことはただ一つ、あなたにキリストを認識していてほしいだけです。そのことは、ユダヤ教の価値に対して私が深い敬意を持つことを何ら阻むものではありません。」

非常に明瞭な率直さである。ダニエルーは対話のできる人間であり、毅然としたたくましい思想家でもあった。譲れない部分では、激しい言葉を使うことも恐れなかった。ヘブライズムのみならず、イスラム、ヒンズー、仏教、アフリカのアニミズムとなどいろいろな宗教を熟知し、評価していることを数多くの文章や会議において彼は示した。人間の宗教的体験をもとにして、共によりよく生きるために共通して利用できるものをなにかあぶりだすこと、それにはキリスト教が最も都合が良いということを明らかにしたいと真摯に取り組んだ。彼はこう言っていた。

「キリスト教はいろいろな宗教のなかのひとつではありません。あらゆる宗教の人々に向けられた本質的な神のメッセージなのです。」

彼が許すことのできない唯一の宗教的な立ち位置、それは無神論だった。「とても非人道的」であるとみなしていた。

「無神論に対しては、宗教の意義について全く無感覚でいられるということに、生理的ともいえるとまどいを感じます。キリスト教徒たちがなぜ無神論を断固としてはねつけないのか私にはわかりません。立派な無神論者が幾人かいるにしても。」

彼は学生たちに話をするのに時間をかなり費やした。配置の最初の数年間は、セーヴルの高等師範学校の司祭をつとめ、ソルボンヌ大学で文学部のカトリック団体付きの司祭を補助していた。次に聖母被昇天修道会の修道院長とともに Circolo san Giovanni Battista という信者の活動を始めた。le matinées spirituellesという信仰に関する講話に続く主日のミサには女子学生たちのグループが集まった。彼の著書の多くはこの説教から生まれたものだ。そのひとつ、「異教の神話とキリスト教の神秘」の冒頭の序文の中で彼はこう書いている。

「神の存在が多くの人から否認されていた昔は、とにかく話すことが必要だった。率直な口調で話すことは、論考の批判にも適していただろうし、心に届きやすいだろう。このことが私は興味深い。」

同様の証言は、グザヴィエ・ティレット神父の『ダニエルー枢機卿のノート Carnets del cardinal Daniélou 』の序文にもみられる。

「彼は、仰々しい研究者の称号やユートピア的な秘跡の司教杖を持ちながら行われる神学的考察を嘆いていた。根もないまま、人々や魂の欲望や飢えを真に経験することもないままそうすることを。彼は力いっぱい実験室の神学をはねつけていたのだ。」

ダニエルーは、人々になによりもキリスト的生活の素晴らしさを教えたいという願いに燃えたひとりの司祭であり、キリストの使徒であった。

【付加情報】2023/11/2のブログ「『ビジュアル世界の偽物大全』を買った;そしてイエズス会士」参照。

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解散命令権請求されても仕方ないカトリック教会

 年明けそうそう物騒かもしれないが、旧統一教会関係者の書いていることとはいえ、なるほどなと納得させてくれる「暴論」を紹介しておきたい。

 世論の圧力に屈して、日本政府が旧統一教会に強引に解散命令を請求した件で、だったら幼児性愛で物議をかもしているカトリック教会をなぜ放っておくのか、という理屈である(https://wien2006.livedoor.blog/archives/52376495.html)。

 その情報で私ははじめて知ったのだが、70歳の女性が気仙沼カトリック教会の神父から性的暴行を受けたと訴えた件で、昨年末にその事実を仙台司教区は認めて示談が成立したとか、2020年2月末の時点で日本の全16教区ならびに全40の男子修道会・宣教会、55の女子修道会・宣教会での調査で、聖職者から性的虐待を受けた事例16件が報告されたらしい(https://www.christiantoday.co.jp/articles/27922/20200407/catholic-priest-sexual-abuse-in-japan-investigation.htm)。しかしことの性格上それは実数からはかけ離れた数字と容易に想像できるわけだ。

 これは日本だけの問題ではなく、周知のように全世界のカトリック教会に普遍的に存在しているわけで、となると教皇の「任命責任」が問われてしかるべきであろう(https://wien2006.livedoor.blog/archives/52375988.html)、ということにもなるし、岸田政府がカトリック教会のそういった構造的問題を直視してなぜ日本のカトリック教会に解散命令を請求しないのか、というわけである。

 いや、なかなかに面白い指摘ではないか。こういった件に関しなぜか伝統的に対応が鈍いカトリック教会であるが、危機感をもって猛省すべきではなかろうか(マジにやると大変な事になりかねないという現状認識があるのかもしれない:背景に告解の内容の守秘義務という縛りが関連していたことにはすでに触れたことがある)。そしてこれはひとりカトリック教会だけの問題ではなく、プロテスタントでもかねて指摘されているのである(https://www.christiantoday.co.jp/articles/26560/20190213/southern-baptist-convention-sexual-abuse-700-victims.htm;https://www.christiantoday.co.jp/articles/32744/20230913/st-luke-uccj-japan-society-for-spiritual-care.htm;https://wien2006.livedoor.blog/archives/cat_50020859.html)。そして、これはキリスト教のみの問題ではなく宗教界全体の問題でもあり、さらにこれは宗教界のみならず・・・・・・。

【追記】上記関連でぐぐっていて「Christian Today」なるメールマガジンを知ったので、登録手続きをとりました。今後、毎週火曜日にそれからの一部情報をアップする予定です。

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謹賀新年

 うっかりしてここへの掲載を失念しておりました (^^ゞ

 画題はご存知の通り葛飾北斎の紙本の富士越龍図(画賛:佐久間象山)で、彼の死没年89歳に書かれたと想定されている。画賛抜きでより小さな絹本もあるが、あっちは龍がよく見えない。

 老境においてすら、あらがって身をよじって天に昇ろうとする、画狂老人ならぬ史狂老人たりえたいと想うのあまりに、である。

 また、今年はロシア、アメリカ、ウクライナ、それに台湾でそれぞれ首長の選挙が予定されていて、その帰趨によっては不可避的に国際的な大変動が予想されかねないわけで(実は日本でも自民党の総裁選があるが、国際政局への影響力は残念ながら全くないはず)、1月1日の被災者には申し訳ないが、今般の我が国の糸魚川静岡構造線の地震どころの話ではない予感がする。いずれにせよ不気味な新年の幕開けではある。

 なお、年賀ハガキはやめましたが、送っていただいた方にはかねてよりメルアド表記をお願いしておりまして、書いていただけた場合はメールでの返信はしております。よろしくご高配お願い申し上げます。

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研究者としてでもなく

 昨日届いた『図書』1月号をめくっていて、めずらしく心に残る記事が幾つかあった。ここでは竹内万里子のシリーズ「写真に耳を澄ます」4「語りの背後にあるもの」に触れておきたい。

 それは、私の妻がまたまた断捨離に目覚め、それまで我が家に保管してあった死亡した私から見ての義弟関係の書類を処分すると言いだしたことに関連している。私は個人的には市井の個人の記憶があっという間に消え去ることにいささかひっかかる性格なのだ。庶民の存在など消え去るのは造作もないことに、なぜか抵抗したくなる性分なのだが、だが実際問題として、庶民の家での限られた空間で保存するのはなかなか困難で、思うようにはいかないわけで。

 さて、登場するのは二人の女性である。一人が岐阜県に在住してダムで消えゆく運命の村を61歳から88歳で死ぬまで写真で撮りまくった増山たづ子さん(1917〜2006年)。村は彼女の死を追うように水没した。「ジャーナリストとしてでも研究者としてでもなく、ひとりの村民としてテープレコーダーとカメラを手に立ち上がった」。あとには10万枚を超える写真と600冊ものアルバムが残された。数冊の出版に結実している。

https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009072507_00000

 そして、偶然にも同じ岐阜県生まれで仙台に住んでいた小野和子さん(1934年〜)。35歳になって3人の子育てのかたわら、民話の採訪活動を始めたのである。50年以上にわたって「調査員としてでも研究者としてでもなく、ただひとりの主婦、いわば無防備なひとりの人間として、民話を求めて宮城県各地の村々をひたすら歩き続けた」。しば刈りの話は意味深である。

「聞く人が、受け取る人がいないと消えるのよ、残す人がいなければ全部きえてしまう,消えてったものはいっぱいある、私が拾ったものはほんのわずか」

 消えゆくものへの惜別の思い、ささやかな抵抗が、残そうという強い決意によって、思わぬ成果を産むことがある。私は何を残せるだろうか。

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