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最近の古代史関係情報

 帰国以来、10月に入ってカルチャがらみで多忙だったが、昨日でようやく一段落ついた。とはいえ、来週月曜の準備をこれからしなけりゃならないが。そうそう、ローマでの盗難騒ぎの後始末も、一昨日のシルバーパス再発行、昨日の銀行訪問で新しいカードが送付されることになり、こっちも一段落だ(旅行傷害保険への申請は大した物損でないのでやってない)。それにしても以来軌を一にして詐欺メールがおびただしく送られて来ていて(銀行や信販のカード情報の漏洩可能性大のうえに、3億円とか10万円あげますなどという荒唐無稽なメールまでやたら送られてきて:昨日の報道だと私も購入している山田養蜂場関係40万件の個人情報漏洩があったとか)迷惑この上もないが、こっちも早く沈静化してほしいものだ。

 ということでこうしているうちに新情報が旧情報となってしまうわけではあるが、最近気になっている考古ニュースを点描しておく。

●海賊船のトイレ Toilets on a Piratw Ship and the Sorry Guy Who Cleaned them…  UPDATED 14 OCTOBER, 2023   ROBBIE MITCHELL

https://www.ancient-origins.net/sites/default/files/field/image/Pirate-Hygiene-Toilets.jpg

 これは文字情報よりもビデオの方が情報が多い。トイレはなぜか船首にあって、どうやら綱で尻を拭いていたらしい。これは近世の事例であるが、古代においても状況はたぶん大差なかっただろう。
https://www.youtube.com/watch?v=RXda4b_Mjws&t=699s

●エルコラーノの「パピルス荘」出土の巻物の非破壊解読

Herculaneum Scrolls Reveal New SecretsCollege student becomes first to unlock the Herculaneum scrolls     Nathan Steinmeyer  October 16, 2023

http://reply.biblicalarchaeology.org/dm?id=3798E468A211602F65DBD90F51686711D06065C183EB779C

 ネブラスカ大学の21歳のコンピューターサイエンス専攻の学部生 Luke Farritorはこれまで破壊することなくほとんど読むことのできなかった炭化した巻物を読む突破口を切り拓いたのかもしれない。

 彼は、人工知能(AI)プログラムに、ヘルクラネウムの巻物の3Dスキャンに含まれるかすかな「ひび割れ」を識別させるトレーニングを行ったところ、ファリターは巻物の0.6インチ四方の領域から10文字を検出することに成功した。この偉業により、ファリターは40,000ドル相当のファースト・レターズ賞を受賞した。ファリターの10文字には、いくつかの単独の文字と、”紫 “を意味するporphyrasという1つの単語が含まれていた。

 これまでは巻物を破壊して読んできていて、解読されたテキストの多くは、それまで知られていなかったフィロデモスPhilodemosという前1世紀のエピクロス派の者の書籍だったことが判明した。今後の研究の進展が期待される。それにしても、研究に賞金が出ているなんてことは知らなかった。

●ポンペイで、邸宅内で選挙広告がみつかる  2023/10/3

 http://www.thehistoryblog.com/archives/68418

 ポンペイの通りや外壁には1500以上の選挙広告やスローガンが書かれている。今般、IX.10.1の製粉兼製パン業者の遺跡発掘から興味深い出土があった(隣りの2は縮絨工房の由)。

そこはポンペイの一番北を東西に走るノラ大通りに面していて、今年のつい数ヶ月前に発掘されたのだが、なんと邸宅内の家の守り神を祀った祭壇 lararium付近から選挙広告の文字断片がでてきたのである。この普通ではない状況を勘案して、おそらくその家が候補者の親戚か、庇護民か友人の邸宅で、選挙運動がらみの宴会がそこで行われたその残り香がその選挙広告だったのだろうと、研究者によって想像されている。ただその文字全体の確定はいまだきちんとなされていないようなので(一説には「「Aulus Rustiusを国家にふさわしい真のaedileにしてくださるようお願いします」と読めるらしい)、今は造営官aedilisに立候補していた人物名が他からもその存在が確認されるAulus Rustius Verusだったこと以上にここで触れないでおく(彼は、のち二人官duovir候補者として後73年に、それもネロがらみで前回触れたIX.13.1-3のあのC.Iulius Polibiusとペアで登場していた。よって造営官候補だったのは後73年以前ということになるし、おそらく二人官に立候補していることから、このとき造営官に選出されたのだろう)。下記写真にしても、どの場所に文字が書かれているのか、部分拡大写真はあるものの、そもそも私には未確認であることを付言しておく(下の右写真の左端中央隅のアーチがもしオーブンであるとすると、オーブンは平面図の7a、となると祭壇は4の西壁にあって、よって写真は左右を合成したものなのか)。

 左平面図:左1番地が製粉・製パン所、右2番地が縮絨工房  右写真:ララリウムの周辺壁面? あるいは合成写真?

 その他に2つの注目すべき出土が確認された。そのひとつは「ARV」と刻まれた石臼が出土したことで、こうなるとこの製粉・パン製造所は「Aulus Rustius Verus」の援助を得ていたということになって、当時の選挙活動の実態があからさまに見てとれると発掘者たちは指摘している(しかしたとえば、彼の投資設備を使って営業していた解放自由人だったとか、Verusは石臼製造業者だった、といった別の至極穏当な解釈もありそうだが、こういうマスコミ受けしそうな穿った解釈はポンペイ関係でよく見受けられる)。普通の写真では刻印部分が不分明なので文字部分をなぞったものを掲載しておく。

 もう一つは、ララリウムの祭壇からかつての献げ物の遺物が収集できたことで、分析によると、噴火前の最後の献げ物はナツメヤシとイチジクで、オリーブの実と松ぼっくりを燃料として祭壇で燃やしていたことが判明した。ある報告者が乾燥オリーブの実を暖炉で燃やしたことがあるのだそうだが、素晴らしい香りがしたらしい。そして、燃やした供え物の上にはひとつの卵を丸ごとのせ、祭壇を一枚のタイルで上から覆って儀式を終えていたらしい。なお祭壇の周りからは以前の献げ物の残骸も出てきて、ブドウの果実、魚、哺乳類の肉などが確認されたという。こうして文献史料からつい想像され勝ちなのだが、いつも高価な動物犠牲を奉献していたわけではない庶民層の日常的宗教慣習の具体例をおそらく初めて垣間見ることもできたわけである。

上の写真左が発掘途中で祭壇上部が露出したとき、右が発掘完了時の姿を示している

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皇帝ネロ暴君像の再検討

 ここでは、以前紹介した皇帝ネロの私設劇場発掘報告との関連で、2年前の2021年に大英博物館が特集展示をした悪帝ネロ像の再検討がらみの情報を掲載しておこう。Thorsten Opper, ”Nero: the man behind the myth”, the British Museum, 2021, Pp.304.

 私なりの結論を先取りすると、悪帝の汚名がネロに付随するようになった決定的原因は、後64年のローマ大火でその責任をキリスト教徒に押しつけたという元老院身分タキトゥスの叙述が大いに影響していたらしいということ。再検討の史資料として、反皇帝の元老院勢力側とは一線を画するものとして、落書きとパピルス文書が挙げられていて、一般民衆にはネロおよび2番目の皇妃ポッパイア・サビーナに対して根強い人気があった証拠とされているが、落書きは彼女の故郷のポンペイからだし、パピルスの原作者は皇室御用達の占星術師にして叙事詩人だったので、さてどんなものかと思わざるをえない。しかしネロの死後、彼を僭称するニセモノの出現が相次いだという事実は、義経ジンギスカン説と同様に、彼の人気を裏づけているといっていいかもしれない。しかし同時にキリスト教徒にとって彼の復活出現は「反キリスト」の到来とみなされることにもなったわけである。

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【事例研究】悪帝ネロ再評価をめぐって:文書史料、落書き、そしてパピルス文書

(1)タキトゥスによる「ローマ大火」(後64年)叙述とその反ネロ的傾向性

 ・タキトゥス『年代記』15.38-44: 38 この後ですぐ[大火という]災難が起こった。偶然だったのか、元首の策略によるのか、不明である(両説あってそれぞれが信用のおける典拠をもっているので)。… 39 ちょうどこのとき、ネロはアンティウムに滞在していた。都に帰ってきたころには、パラティウム丘とマエケナス庭園を結ぶ「ネロの館」に今にも火が燃え移ろうとしていた。…ネロは呆然自失の態でいる罹災者を元気づけるため、マルス公園やアグリッパ記念建築物を、さらには自分の庭園までも開放した。そして応急の掛け小屋を設け、そこに無一物となった群衆を収容する。オスティアや近郊の自治市から食料を運ばせ、穀物の市価を三セルセスティウスまで下げさせた。このような処置は民衆のためにとられたはずなのだが、何の足しにもならなかった。というのも、次のような噂が拡がっていたからである。「ネロは都が燃えさかっている最中に、館内の舞台に立ち、目の前の火災を見ながら、これを太古の不幸になぞらえて『トロイアの陥落』を歌っていたcecinisse Troianum excidium」と。… 42 それはさておき、ネロは祖国の壊滅をこれ幸いと利用して、「黄金の館」を建てた。… 44 ついで神々の忿恚[ふんい:いきどおりの意]を和らげる手段が講じられる。…しかし元首の慈悲深い援助も惜しみない施与も、神々に捧げた贖罪の儀式も、不名誉な噂を枯らせることができなかった。民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為[嬰児殺害・人肉嗜食・乱交]で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。…  [國原訳]

左画像は、1951年米映画「クォ・ヴァディス」でPeter Ustinov(当時奇しくもネロと同年代の30歳)が怪演した鬼気迫る「芸術家」ネロ;右図は延焼範囲、黒の実線が当時の城壁、火元は大競技場北付近

(2)文書史料の傾向性の指摘:反ネロ的支配身分層

・ネロの自死後、彼は元老院により「記憶の抹殺」damnatio memoriae 処分を受け、彼が布告した法律や彼の彫像などは公的に廃棄された(ただし、69年に皇帝オトとウィテッリウスによって早くも復権している。むしろネロの後継者として自らを位置づけるのが得策と判断したからだろう。これは「一時的に」と表現されるのが通例であるにしても、ポピュリスト・ネロへの評判がいまだ根強かったことの反映と考えるべきだろう)。タキトゥスらの著述者たちはいずれも当時の支配者階級(元老院身分・騎士身分)に属していたので、共和政への復帰を目論む彼らの叙述が反皇帝・反ネロ的な傾向に捕らわれていたとしても不思議ではない。

・とりわけ、ネロが大火を眺めながら自作の『トロイアの陥落』を歌っていたという件は、トロイアの末裔を標榜していたユリウス・クラウディウス朝が第五代皇帝ネロで断絶したという事実を踏まえると、明らかに意図的事後予言の創作箇所といっていい。

 その上、ネロとポッパイアがポンペイを訪れた際に(後64年?:おそらく後62年の地震災害復興の視察か)、女神ウェヌス(=ヴィーナス=アフロディーテ)に捧げたものを賞賛する詩の落書きが残っている。なお、ポッパイアはポンペイ出身で、遺跡から西北西に直線で2.7kmに位置する豪華絢爛なOplontis遺跡はポッパイアの別荘と想定されている。

(3)Pompeii, Casa di C.Iulius Polibius(IX.13.1-3)の台所の壁に刻まれた落書き:後42-45年頃

Munera Poppaea misit Veniri sanctissimae berullum helenumque / unio mixtus erat / Caesar ut ad Venerem venet sanctissima ut tui te vexere pedes / caelestes Auguste millia milliorum ponderis auri fuit

「ポッパイアは最も神聖な(女神)ウェヌスに、緑柱石(エメラルド)beryllus、そしてイヤリング真珠、大きな一粒真珠を贈った / カエサル(ネロ)が最も聖なるウェヌス(神殿)を訪れたとき、そしてアウグストゥス(ネロ)よ、あなたの天の両足がそこにあなたを連れてきたとき、そこには夥しい重さの金があったのだ」。

  この落書きがネロ没落の10年後の後79年のポンペイ埋没まで残存し得ていたことは、少なくともポンペイにおいてネロやポッパイアへの根強い親近感が庶民・中産層に存在していたことの証しだった、と考えられているが、さて。

(4) ネロの皇妃ポッパイアを愛でたパピルス文書P.Oxy.77,5105:帝国東部での好意的評価?

 ネロ帝、ウェスパシアヌス帝(在位後69-79年)と密接な関係があった占星術師・叙事詩人アレクサンドリアのレオニダス作のHexameter(六歩格)詩「ポッパイアの神化」の、後3世紀の写しがパピルスの両面に各42行残っているのも、親ネロ的感情からだとしているが、さて。

表側                    裏側  

     第15-25節の訳

*インタビュー記事:https://globe.asahi.com/article/14439296

ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説『クォ・ヴァディス』(1895年、受賞はその10年後)がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、さらにこれが映画化され、悪役ネロのイメージが定着した。

だが、「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の大衆人気の高さを物語っている」と、研究者は語る。

コロッセオ考古学公園のアルフォンシーナ・ルッソ所長談:2021年6月21日

――ネロはどんな皇帝だったのですか。

「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。彼は、セウェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」

――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。

「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」

――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと、粗暴な印象は拭えません。

「この時代は、殺人も、近親相姦(そうかん)も、権力闘争の一環でした。同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」

【蛇足】上記ウェブ記事であるが、せっかく展覧会場で落書きが書かれた漆喰壁の写真をとっているのだが、ラテン語、いなむしろ筆記体を読めないせいで、とんちんかんな箇所を写してしまっていて、私的には使い物にならなかったことを付記しておく。

左が記者の撮った写真。右が本来の4行にわたる引用箇所を上部に示したもの。もっと左寄りで上のほうを写すべきだったのだ。

 

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「砂漠の英雄と百年の悲劇」をみた

 一昨日の10/17にNHK総合でみた。昨年初回放映の「映像の世紀バタフライエフェクト選」の「砂漠の英雄と百年の悲劇」。あっというまの45分間。一見に値する。今だと、10/23までNHK+で配信されている(https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2023101617910)。 但し要登録。私と同世代の山根基世の朗読もうれしい(朝日新聞「声の出ない私に力与えたあの場面 山根基世さんが語る「映像の世紀」https://digital.asahi.com/articles/ASQ975RZKQ8QUCVL03V.html?_requesturl=articles%2FASQ975RZKQ8QUCVL03V.html&pn=21」但し有料)。  

 1995年に放送開始した初回のものに新しい情報をいれていて(覆面落書家バンクシーなんかの)、それなりに工夫されているようだが、見ていて驚いたのは、パレスティナ抗争の発端を石油利権をめぐっての英国の二枚舌と断じていたことと(すなわち抗争の淵源はいわれているようにアブラハムとかモーゼとかからではなく、そう古くない:古来パレスチナは、アラブ人とユダヤ人が共存して暮らす場所だった。そこに対立の火種を持ち込んだのは、イギリスだった。両民族に独立国家建設を約束したのだ、とせいぜい100年前からに設定)、1972年の日本人によるテルアビブ空港乱射事件が、自殺を禁じられていたムスリムに自爆テロという「弱者の戦術」を誘発させることになった、と言い切っていたことだ(岡本公三登場)。

 繰り返す。「現代の紙芝居」にしても、一見に値する。

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ナポリ湾西部のカンピ・フレグレイでbradisismo現象活発化!

 イタリア在住の藤井さんから連絡があって初めて知ったが(退職後新聞購読やめたせいかも)、カンピ・フレグレイ地区で群発地震が発生しているようである。ちょっとググってみたら、10/2にナポリでもマグニチュード4.0を記録したらしいが、それを報じているイタリアメディアではちょうどナポリvsレアル・マドリードの試合を3日に控える中での地震でサッカーの試合が危ぶまれると、いかにもイタリア的な扱いなのがおかしくもある。

 上掲の地図をご覧いただくとわかるように、この地域は古来火山活動が盛んで大小24のクレーターが大地に刻まれている特殊地殻で、常時地面の緩慢な上下運動、すなわちbradisismo現象がみられるのである。ポッツオリでは毎年10cmの地盤の上昇が記録され、1950年代からの標高差は4mに達している由。

 しかし、今回の地震、実は以前からその兆候があったようで、さらにググってみたら、すでに6/11付で警告が発せられていることを知った。「ヨーロッパで最も危険な「スーパーボルケーノ」が噴火に近付いている可能性」(https://texal.jp/2023/06/11/europes-most-dangerous-supervolcano-may-be-close-to-erupting/)。

 これはイギリスの研究者たちが今年の6/9に学術誌に発表したものに基づいての報告である(Communications Earth & Environment: Potential for rupture before eruption at Campi Flegrei caldera, Southern Italy)。

 ここでは要旨を転載しておく。

「長い眠りから覚めた火山は、マグマが噴出する前に地殻を破裂させる必要がある。破裂の前には、地盤変動に伴う地震発生率の変動が繰り返され、局所的な地震によって解放される応力量をトレースする。イタリアのカンピ・フレグレイ・カルデラでは、1950-1952年、1969-1972年、1982-1984年、2004年以降の4回の地盤隆起のエピソードにわたって、噴火のシーケンスが展開されています。私たちは2016年に、最大の動きのあった場所で30~40cmの追加隆起の後、破裂へのアプローチが続くと予測した。我々は、地盤の移動量を伴う局所的な地震の数の変化に関する新しいデータで分析を更新した。ここでは、その後の事象が我々の予測を裏付け、動揺がカンピ・フレグレイの地殻の構造を変化させていることを示すものである。この結果は、火山が噴火する可能性、あるいは噴火せずに沈静化する可能性を評価するための新たな制約となる。」

 同じナポリ湾の東部にはウェスウィウス山もあるので、そっちではどういう地殻変動状況なのか、私的には大いに関心あるのだが、藤井情報ではとりあえずなんの被害もなかったようで、どうやら連動していないのが不思議でもありまた興味深い。

【追記】これをググっていたら、以下をみつけた。「2017年6月海外火山学実習報告(イタリア国ストロンボリ火山、カンピ・フレグレイ、ポンペイ)」(https://www.kazan-edu.jp/data/H29%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA%E5%AE%9F%E7%BF%92%E6%A6%82%E8%A6%81.pdf)。理学部系院生の現地実習の簡単な報告のようだが、それで何が分かったのか、その報告も読みたくなった。

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オペラ「修道女アンジェリカ」開幕

 一緒にローマで一年間コンドミニオで過ごしたことのある高久君から、新国立劇場のHPにインタビュー記事が掲載された、との連絡があったので、そのデータを転載します。
 10月1日に幕開けのペラダブルビル(二本立て)『修道女アンジェリカ/子どもと魔法』の女子修道院がらみで、出演者たちが彼に色々聞くという体裁です。

 ニコニコしている彼の写真を若干違和感もってみたのは、私の知っている彼はもっと巨漢だったから。かなり減量したのはとりあえずいいことだ。

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/news/detail/6_026391.html

 インタビューの内容は、博覧強記の高久君らしく表も裏も過不足なく解説している感じ。
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今日みた映画「パーフェクト・ケア」

 もう十年も前になるだろうか、テレビで偶然「老人の恋:紙の力士」(2010年)を見たときに、こりゃ笑い事ではないなと実感した(主演のミッキー・カーチスが良い味を出していて、家政婦役の丸純子もここでは悪賢くなくおとなしめで、その抑制で「後妻業の女」(2016年)以上の余韻が漂っているようにさえ私は感じた)。そして私の義弟が余命一年とかに宣告され後事を託されたとき、「気をつけてね」とつい言ってしまったのだが、その時の彼の表情からすでに察するものがあった。ひょっとしたらと覚悟していたが、まあ遊び友達レベルだったようで、しかし世の中には人生最期にいっしょに遊んであげる女性がいるなどということを初めて知った。

 今回帰国後、これも偶然「パーフェクト・ケア」(2020年・アメリカ)をテレビで見た。詳しくはネタバレになるが、ウィキペディアの詳細を究めた解説をご覧いただくとして(https://ja.wikipedia.org/wiki/パーフェクト・ケア)、私にとってきわめて印象的だったのは、アメリカにおける成功者・勝ち組には誠実・着実に仕事をしていてはとうていなれない、だが成功したあかつきには「成功の秘訣などない、ただ努力のたまもの」と公言するのが常である、ということを明確に主張していることだった。そして今回のテーマは、私自身の近未来に迫っている老人の看取りがらみの組織的収奪なのである。

 主演のロザムンド・パイクはこれまでいくつか出演映画をみていたが、清純派のたたずまいで、そんなに個性的な印象はなかった。むしろなにかアンバランスで不安定な感じがあって(おそらく生来淡泊な性格と冷たく見える目線のせいだと思う)、今回はそのアンバランスな目つきが悪女的役回りにぴったしで、私は、そんな彼女に冷酷に反撃をするロシア・マフィアのほうに徹頭徹尾肩入れして見てしまった。

 そして老人たちの主治医と結託して、老人を認知症に仕立て上げて、裁判所のお墨付きで法的後見人となり、これも結託している施設に実質的に強制隔離し、老人の財産を収奪していくプロセスは、さながら未来というかすでに現実社会を彷彿させているわけで、なかなかエグい内容だったのである。こういう新状況に着眼して容赦なく蓄財して太っていかねば勝ち組にはなれないというわけなのだ。その際、ターゲットになった老人はまったく無力なのだから、こりゃ悲惨である。おれおれ詐欺どころではないわけで。

 

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9/14 Pompeii遺跡彷徨

 さて今回の調査の最終日となった。朝から曇りで、途中でちょっとだけパラパラ降りはしたが、午後は快晴となる。ただ当方が目論んでいた調査は残念な結果となったというべきか。
 8時に例の作業員用入り口で今度は40歳くらいの女性クストーデ(監視員)のチェックを通過。エルコラーノ門外のマウソレオを下っていくと秘儀荘手前にある監視所で今度は50台の女性に止められ、まあこっちの書類にはマウソレオ調査と書いてあるので無理して突破せず引き返したのだが、ここから昔は遺跡周辺を歩く道が開けていたのに、規制線でいけなくなっており、なんとかならんかなと北壁の門毎にチェックしてみたプロセスで、私的にはいくつかの新発見があった。
 第一に、第11塔のメルクリオの塔が公開されていて、上にまで登れた。ここでは若い女性クストーデ3人が何ごとか激しく会話していたのがちょっと気になったが。
 第二に、ウェスヴィオ門前に規制線が張られ、給水施設にも行けなくなっていた。ただし作業・発掘関係者は綱を跨いで往き来していたが。私的にはそこから若干北を探った後、東に行き、カプア塔の調査地区と旧交を温めたかったのだが、自重した。
 第三に、その直下のウェスヴィオ通りに面した細長い第五地区の一部が発掘されていて、それに導かれるように入った第五地区の小道のどん詰まりで新発掘場所と思われる豪邸が公開されていて、大いに楽しんだ。ここには若い女性クストーデが2人いたが、かなりの復元修復の産物と見た。
 第四に、ノラ通りに面した「中央浴場」が公開されていて、in situで不意打ちの遺骸も見ることができた。ここは私がポンペイ遺跡を訪れるようになって一貫して閉鎖されていたので開いていたのは意外だったが(一度、通訳のIさんと一緒に雨の中を研究予約して入ったことはあったが)、それほど見栄えするものはないような。まあ肝心なところはカバーで隠しているのかもだが。
 第五に、すべての東側の門への道は手前で閉鎖されていた。

 ということで、遺跡の北面の地形景観の確認は今回果たせなかったが、ここには書かなかった場所を含め、幾つかの遺跡公開を見学することはできたので、まあよしとしよう。

 夜は打ち上げを兼ねてごひいきのトラットリア・ペッピーノに行く。3月と異なり、ジャルディーノに案内され、半ズボンの私は蚊の攻撃を覚悟したが、不思議にやられなかった。そして髭の叔父さんのカメリエーレ(給仕係)二人がテキパキ給仕してくれて好感度とてもよし。我ら二人ともうっかりケータイを持って行かなかったが、カメリエーレがiPadを持ってきてくれて(ということは紙のメニューはもうないわけ)、だけど注文は口頭でする仕組み。前菜がなかなか凝っていて美味な内容と量で、1の皿のパスタも美味且つ量的に充分あり、二人ともやはり2の皿には至らなかった。二人で75ユーロ(前回も頼んだヴィーノ・ビアンコ・デッラ・カーザ一本含む)置いて出る。やっぱりここはいい。

 翌15日は、ナポリ考古学博物館を見学してローマへ帰還。そして16日夜にトルコ航空機に乗り、17日夜羽田着の予定。

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9/13 サルノ川景観探査

 最近の私はポンペイ遺跡そのものよりも、周囲、とりわけサルノ川流域の景観に興味がある(Aqua Augustaがらみでの水源地点Serino探査は過去行ったことがある)。今年の3月にはポンペイ遺跡内の円形闘技場近くの大訓練場列柱廊にかねて出土壁画中心に展示がされていたMoregine遺跡の発掘地を訪ねたが、ポンペイ市街地から小一時間、積年の酷使でかねて不調の右足首をかばいつつ進んで到着。そのときこの付近、一面の平坦な土地柄で、市街地を離れると畑と空き地が展開し、ゴミ投棄で埋もれたような用水路は一本だけだったが、さながら2000年前にサルノ川の氾濫流域にラグーンが構成されていたことを予想させるものだった。

 今回は、そのサルノ川本体を目視すべくモルジネ遺跡からさらに300m南を走る河川に沿って西に向かって、可能なかぎり河口近くまで接近しようと考えた。前日にモルジネに行くには周遊鉄道はだめでバス利用しかない感触を得ていたのだが、1時間1本という感じでいつ来るかも、どこに停まるのかもあてにならないバスよりも、時間的にも短縮できて安全を期すなら徒歩2時間足らずと表示しているケータイの地図表示に従って歩いたほうが無難と判断して、宿舎を8時頃出発。東西を流れる小川のこれが2つめと思った小さな流れがどうやらサルノ川本流のようで、こっからはいつものように車両が疾駆する自動車道の、脇にあるかないかの歩道線を頼りに、河沿いを歩くことになる。しかし、古代の復元地図に登場するBottaroの丘らしい高みを判別・確認するには至らなかったが。

 この小川差し渡し20m足らずと思いがけなく幅の狭い川で、しかし水量は豊富とみえた。かつては汚染で悪名高かったようだが(現在も河岸は樹木が繁茂し、道筋に不法投棄は数知れず・・・)、しかしカモの親子が浮かんでいたりしているので、水質はかなり改善されているようだ。狭い自動車道を避けたつもりで、道を大幅に間違え引っ返すなどしてかなり手間取り、どうやら河口に最接近できたのは11時半。左右の土地は私有地らしいので、これ以上は無理に見えたが、実際には激しいゴミ投棄を尻目に右岸のかなり先までいけた。GoogleEarthを見てみると、橋を渡ってずっと北(右)に道がついていてそこから左折して海岸にでることできるようなのだが、そこまで行く勇気はとりあえず私にはなかった。

カモメと思しき鳥たち多数が浮かぶその河口付近の橋の上でしばらくたたずんでいたら、パカパカと蹄の音が高く響いて、一頭立ての馬車が通り抜けてゆく。結局これ一頭だけでなく、真剣な表情をした一人乗りの御者に操られた馬車に街中でも何台もすれ違って、河口に隣接する右岸の私有地と思しき鬱蒼とした草地に姿を消していったので、競走馬の調教馬場が奥にあるのかも知れない。

 それまで比較的楽に歩けたのは緩やかな平地続きだったせいだろう。10時頃から日差しも強烈になり、さすがに帰路は足取りもおぼつかなくなりもしたが、来るあてのないバスを30分待ってみたりしながら、帰路は2回ほど水補強したりして(やたら喉が渇いたのだが、同じようなテ・ペスカが河口付近の場末のバールで1.5だったが、ポンペイ付近では3.5とられたのはいかにもイタリア的であった)、私のiPhoneのヘルスケアで19.4km、28000歩を記録。9/8の17.2kmを凌駕した。足の疲労はそれほどでもなかったが、途中から腰ではなく背中の筋が痛み出したのはなぜ。

 宿舎に帰り着き、シャワーを浴びてハイネッケン2本を飲み干す。19時半頃1度目を覚ますが、なんだか昨日の魚というかポレンタがまだ残っている感じなので、夕食抜きにして二度寝する。ウトウトしながら起き出してこれを書いたのは4時からだった。これで基本今回のポンペイ訪問の活動は終了。最終日には表敬訪問で遺跡に入って、できればヴェスヴィオ門外に出て地形を確認してみたいものだ。

 

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9/12ポンペイ再訪

 一般には9時開園のポンペイ遺跡であるが、サンチュアリオ駅近に宿舎をとっている私は、まあ普通であれば円形闘技場の受付から入るところ、もちょっと西の作業員出入口を試すことにした。これまでの体験で駄目な場合もあったのだが。8時過ぎなのに初老の男性クストーデ(警備員)さんがちゃんといて、日本語でお出迎えされたのでこりゃいい兆候だと、書類を見せるとざっとみて、私の名前を確認、そして「他の人は」と問われたので「別の日です」と答えたらそれでOKだった。

 今回はポンペイの舌状台地の南端景観をチェックするのが主目的なので、極力南城壁寄りにまずは西をめざす。会う作業員ごとに朝の挨拶を交わせばなんのお咎めもない。彼らは朝7時頃から働いているらしい。スタビア門に達するとすでに発掘活動が始まっていて、男女が動いていた。ここには待合場所のエクセドラを兼ねた墳墓が二つあり、だけど規制線があったので、外に出ることは遠慮したのだが、外側にそれなりに巨大な墳墓遺跡があるのを遠目に眺めて写真のみ撮った。城壁内に戻ってすぐなぜか左側の城壁上に出る階段の鉄柵が開いていたので、上がって城門方向を見下ろすとこれがなかなかの光景で、そこから右に道があったのでたどっていくと、円形劇場下の訓練場の裏に出た。ここから訓練場のポルティコの2階をのぞき見することができたのは初体験だったが、なんだかこの付近大便臭かったなあ。ここをもちょっと西に進むと観光客がバスから降りてぞろぞろ入ってくる入口に繫がるわけだが、そこを今度は点在する犬の糞を避けながら南壁構造を見ながら歩き、入口手前でUターンして白人だらけの観光客に紛れて訓練場に舞い戻り、西北隅のトイレと旧交を温めたあと、スタビア通りに出る。それからは今度は遺跡の上から舌状台地南端を眺めつつ三角広場に至る。ここの劇場トイレは規制線あったので外から挨拶するだけにして、ドーリア神殿の南端を探るが、修復中というわけで従来より内側に金網が設置されていて、崖を上から見下ろすことできなくてちょっと心残りだった。

 こんな調子で最近公開されたフォロ手前の「幾何学模様のモザイクの家」まで行き、ここでも崖を上から見たかったが規制線で果たせず、フォロに出ると大変な人出だ。韓国人グループを2つほど見かけたくらいで同胞や中国人は見あたらなかった。それからは人の流れに抗してバシリカ、そしてウェヌスの神域、そしてアンティクワリウムに至り、横から南端を眺め、階段を下まで下るとポンペイ・スカーヴィ入口に至る。

 ここでフォロに引き返し、11時過ぎという早めの昼食を売店でたっぷり摂ったのは人出を避けたかったからだ。このあとエルコラーノ門まであちこちで遺跡との旧交を温め、引き返えす。郊外浴場方向は今回パスして遺跡外に出ると、これがまたえらい人出だった。そこでのモルジネ行きの段取調査の詳細は今は省略し、坂を下って左折、遺跡外の自動車道沿いから、右に展開するかなりの段差ある低地と南壁断崖を目視しながら東に移動して、本日の「調査」活動は終了。

上掲地図の右端中央の赤部分がスタビア門外の遺跡群:そこから西にむけての城壁および構築物については、以下参照:https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/Walls/walls%20p1.htm

 試しにGoogle Earthで高低差をみてみると、上掲地図の一番下を走っている自動車道は西側が海抜13m、東側が14m、緑地帯を挟んでの歩道は14-15m、ドーリア神殿は25m、フォロは33m、ウェヌス神殿は32m、Antiquariumのテラスは27m、スタビア門外が8mで、自動車道の南側はおおむね13m、さらに南に向かうとさらに低くなり、サルノ川に至ると3mとなる。いずれにせよ、舌状台地上のポンペイ遺跡とその下のかつてのサルノ川流域ラグーンとの落差は、火山噴火物を取り除いたスタビア門外の8mを基準にすれば25mはあったことになる。ちなみに都市ポンペイの最高度はウェスウィオ門の43mだった(ただしGoogle Earthではサルノ川河口が-3mとなっているので、海抜的には上記数字に+3mしなければならないはずである)。

 研究ノートを書いている時には忘れていたが、サルノ川のさらに向こうに立ち塞がる霞がかった山塊は実際には意外と迫っている感があったのが印象的だった。ちなみにポンペイ遺跡から南東に8〜10Kmの距離があって、最高山頂は1300m級である。

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9/10行動記:クラウディウス港北突堤調査

 結論を先に書くと、調査予定の3分の1で終わらざるをえなかった。しかしまあそれでもそれなりに充分であったと言うべきかもしれない。以下は3時前に目が覚めたので書いた。

 船舶博物館が初見だったOG君と二人で9時にチェントロのコトラル停留所前で落ち合うが(一人1.3ユーロ)、いっかな空港行きのバスがこない。日曜日のせいだろうが1時間待ってやっときた。それまで変な伯父さんが、空港行きの停留所はここではなくあっちだと、2度にわたって旅行者に親切そうにいうのを聞いていたのだが、あれは全くのガサネタだったわけだ。

 空港の第三ターミナルについて、今度は空港内シャトルバスの停留所を探す。その道すがらタバッキ(切符売り場)を探し帰りのコトラル券も入手するわけだが、第三から第一まで都合1往復して、シャトルバスには駐車場めぐりとヒルトン・ガーデン・イン行きの2種類あること、船舶博物館に行くのは後者でその停留所は第一ターミナルの一番端付近で、その手前の外側のバールがコトラル乗車券を扱っていることを知る。問題はこれだけではなかった。ヒルトン行きが来たので乗ったのはいいが、終点のインについたら降ろされて、「博物館は2本に一本しか行かない、後から来るもう一本に乗り換えろ」といわれ、ヒルトンにしては安っぽいがそれなりに豪華なインの待合室で場違いな感じで居心地は悪かったが待つことしばし、2台やってきて、しかもそれらの運転者が目の前で運転を交代するという我らには不可解な動きの後動きだす。こんどは例の巨大な犠牲者記念柱が見えたところでボタンを押して、博物館に無事到着。

 最初に回りをと、かつての港湾長官官邸に向かう。そのときOG君が「穴が開いてますね」という。たしかに土台部分に一定間隔で開いている。前回は気付かなかったことだ。こっちは当時湾内に向いていたから海岸側で、今回はぐるりと陸側の裏にも回って一巡したが、陸側に穴は見当たらない。そのあと自動車道を渡って、テルメ・貯水槽遺跡に向かうが、こっちは頑丈そうな鉄柵で囲まれていて入れそうもないので(本当は金網がめくれて潜り込める箇所あったのだが、今回は連れがいるので突破は遠慮した)、ちょっと裏側を回り込んだあとあきらめる。

 次は博物館裏の突堤遺構だ。これまで2回は遠慮して最北端だけ見て終わったのだが、今回は容赦せず自動車道で切断された箇所までいくと、自動車道の下が通り抜けれるので、ゴミだらけのそこにも突入してみる。なぜかそこの部分の穴は浅いことにまたOG君は気付いてしまうところが、やっぱり建築出身である。

 通り抜けた場所をまず東側からみて、そのあと自動車道沿いについた歩道をわたり西側をみる。前回私は迂闊にもこっち側にも穴があることに気付かなかったのだが、しかもその時も穴をのぞき込んだOG君はそれが壁を貫いていることに早くも気付く。私は膝を折ってしゃがみ込んでのぞくことができなくて(老人である)、えっホントというわけで、確認のため地面に膝をつけてのぞき込んでみると、たしかに向こう側の光りが見えるではないか! こっち側のほうが深く掘り下げているように見えるので高さの計測もしてみるが、突堤上から110cmで穴に達し、穴の空間は50cmほどもあり、その下の現代の地面までは40cmといったところだった。

 玄武岩の巨石がごろごろ集められているところを過ぎ、その先のクの字になっている場所で突堤上に登る。それぞれが差し渡し4mの厚さがあるが、クの字の中の空間の意味は我々には不明である。その先の自動車道でまたぶち切れている箇所に到達するが、自動車道の向こう側は厳重な金網で囲われていて入ることはかなわないし、目視段階でもたとえ入れても鬱蒼と樹木が繁っているので踏破はおそらく不可能であろう。ということで今回の突堤調査はここまでとなる。

 この後、自動車道を横切り元に戻り博物館に向かう。館内に入ると汗がどっと出て、自動販売機で2ユーロでテ・ペスカ(ピーチ味の紅茶)を買って飲むが、押し間違えたかもと一度回収したときになぜか小銭のチェントがじゃらじゃら出てきたので、ありがたく頂戴した。博物館内には男性受付一人(7ユーロ支払いはカードのみ)、クストーデは男性1,女性2と、3月よりは少なくなっているが、見学者はとりあえず我らのみだから、なんとも暇な仕事である。なので、OG君とイタリア人と日本人の働き方の違いについて若干論議することとなった。型通りの見学を終え、例の繋留装置の実測をお願いしてみると案に相違して男性クストーデが鷹揚に許可してくれた。奥行67cm、幅14−15cm、高さ42cm、穴の直径上下13cm,横12cm,といったところだった。穴の内部は削った時のノミ跡も確認できた。また自販機でテを買って博物館を後にする。シャトルバスの停留所横の木陰でまつことしばし、やってきてくれて、順調に空港に帰着することができた。

 今度はコトラルでリド方面の停留所をみつけ、来たバスに乗ったのはイイがこれがまたとんだ見当違いで(本当は乗車するとき必ず行き先をしつこいくらい確かめるべき:この時も韓国人シスターなんか、他の旅行者と運転手のやり取りを聞いて乗るのをやめていた)、飛行場の裏手をグルーと回って、北上し出す。回りは畑ばかりでこうなると終点まで行きつくしかないと諦念して思わぬ事とはいえコトラルの旅を楽しむことにする(途中居眠り付き:OG君が携帯で行き先を調べることができてたので不安はない)。車はなんと結局地下鉄A線の最西端一つ手前のコルネリア駅に到着するが、この駅、3月にはN田先生と別れた因縁の場所で、その時閉鎖されていた地下への階段をやたら深く降りて、1.5ユーロ1枚でテルミニ経由ピラミデ経由でOG君宿舎のステッラ・ポラーレまで直行、例の中華料理屋でOK君とも合流に成功して、ローマ最後の中華を食し,その後はジェラート屋である。それにしても一昨日のコトラルといい、不用意に乗るととんでもない旅をすることになるが、まあ時間的に余裕があり昼間で明るかったこともあり、なんだかコトラル便に習熟した感なきにしもあらずといったところであった。で、結末はいつも測ったように中華の開店直後に行きつくのだから、だれかの陰謀ではないかと冗談言い合う。

 帰宅して、移動の準備をして寝たわけだが、移動日は月曜なので混雑を避けるためちょっと早めに撤収することになりそうだ。

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