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「砂漠の英雄と百年の悲劇」をみた

 一昨日の10/17にNHK総合でみた。昨年初回放映の「映像の世紀バタフライエフェクト選」の「砂漠の英雄と百年の悲劇」。あっというまの45分間。一見に値する。今だと、10/23までNHK+で配信されている(https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2023101617910)。 但し要登録。私と同世代の山根基世の朗読もうれしい(朝日新聞「声の出ない私に力与えたあの場面 山根基世さんが語る「映像の世紀」https://digital.asahi.com/articles/ASQ975RZKQ8QUCVL03V.html?_requesturl=articles%2FASQ975RZKQ8QUCVL03V.html&pn=21」但し有料)。  

 1995年に放送開始した初回のものに新しい情報をいれていて(覆面落書家バンクシーなんかの)、それなりに工夫されているようだが、見ていて驚いたのは、パレスティナ抗争の発端を石油利権をめぐっての英国の二枚舌と断じていたことと(すなわち抗争の淵源はいわれているようにアブラハムとかモーゼとかからではなく、そう古くない:古来パレスチナは、アラブ人とユダヤ人が共存して暮らす場所だった。そこに対立の火種を持ち込んだのは、イギリスだった。両民族に独立国家建設を約束したのだ、とせいぜい100年前からに設定)、1972年の日本人によるテルアビブ空港乱射事件が、自殺を禁じられていたムスリムに自爆テロという「弱者の戦術」を誘発させることになった、と言い切っていたことだ(岡本公三登場)。

 繰り返す。「現代の紙芝居」にしても、一見に値する。

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ナポリ湾西部のカンピ・フレグレイでbradisismo現象活発化!

 イタリア在住の藤井さんから連絡があって初めて知ったが(退職後新聞購読やめたせいかも)、カンピ・フレグレイ地区で群発地震が発生しているようである。ちょっとググってみたら、10/2にナポリでもマグニチュード4.0を記録したらしいが、それを報じているイタリアメディアではちょうどナポリvsレアル・マドリードの試合を3日に控える中での地震でサッカーの試合が危ぶまれると、いかにもイタリア的な扱いなのがおかしくもある。

 上掲の地図をご覧いただくとわかるように、この地域は古来火山活動が盛んで大小24のクレーターが大地に刻まれている特殊地殻で、常時地面の緩慢な上下運動、すなわちbradisismo現象がみられるのである。ポッツオリでは毎年10cmの地盤の上昇が記録され、1950年代からの標高差は4mに達している由。

 しかし、今回の地震、実は以前からその兆候があったようで、さらにググってみたら、すでに6/11付で警告が発せられていることを知った。「ヨーロッパで最も危険な「スーパーボルケーノ」が噴火に近付いている可能性」(https://texal.jp/2023/06/11/europes-most-dangerous-supervolcano-may-be-close-to-erupting/)。

 これはイギリスの研究者たちが今年の6/9に学術誌に発表したものに基づいての報告である(Communications Earth & Environment: Potential for rupture before eruption at Campi Flegrei caldera, Southern Italy)。

 ここでは要旨を転載しておく。

「長い眠りから覚めた火山は、マグマが噴出する前に地殻を破裂させる必要がある。破裂の前には、地盤変動に伴う地震発生率の変動が繰り返され、局所的な地震によって解放される応力量をトレースする。イタリアのカンピ・フレグレイ・カルデラでは、1950-1952年、1969-1972年、1982-1984年、2004年以降の4回の地盤隆起のエピソードにわたって、噴火のシーケンスが展開されています。私たちは2016年に、最大の動きのあった場所で30~40cmの追加隆起の後、破裂へのアプローチが続くと予測した。我々は、地盤の移動量を伴う局所的な地震の数の変化に関する新しいデータで分析を更新した。ここでは、その後の事象が我々の予測を裏付け、動揺がカンピ・フレグレイの地殻の構造を変化させていることを示すものである。この結果は、火山が噴火する可能性、あるいは噴火せずに沈静化する可能性を評価するための新たな制約となる。」

 同じナポリ湾の東部にはウェスウィウス山もあるので、そっちではどういう地殻変動状況なのか、私的には大いに関心あるのだが、藤井情報ではとりあえずなんの被害もなかったようで、どうやら連動していないのが不思議でもありまた興味深い。

【追記】これをググっていたら、以下をみつけた。「2017年6月海外火山学実習報告(イタリア国ストロンボリ火山、カンピ・フレグレイ、ポンペイ)」(https://www.kazan-edu.jp/data/H29%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA%E5%AE%9F%E7%BF%92%E6%A6%82%E8%A6%81.pdf)。理学部系院生の現地実習の簡単な報告のようだが、それで何が分かったのか、その報告も読みたくなった。

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オペラ「修道女アンジェリカ」開幕

 一緒にローマで一年間コンドミニオで過ごしたことのある高久君から、新国立劇場のHPにインタビュー記事が掲載された、との連絡があったので、そのデータを転載します。
 10月1日に幕開けのペラダブルビル(二本立て)『修道女アンジェリカ/子どもと魔法』の女子修道院がらみで、出演者たちが彼に色々聞くという体裁です。

 ニコニコしている彼の写真を若干違和感もってみたのは、私の知っている彼はもっと巨漢だったから。かなり減量したのはとりあえずいいことだ。

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/news/detail/6_026391.html

 インタビューの内容は、博覧強記の高久君らしく表も裏も過不足なく解説している感じ。
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今日みた映画「パーフェクト・ケア」

 もう十年も前になるだろうか、テレビで偶然「老人の恋:紙の力士」(2010年)を見たときに、こりゃ笑い事ではないなと実感した(主演のミッキー・カーチスが良い味を出していて、家政婦役の丸純子もここでは悪賢くなくおとなしめで、その抑制で「後妻業の女」(2016年)以上の余韻が漂っているようにさえ私は感じた)。そして私の義弟が余命一年とかに宣告され後事を託されたとき、「気をつけてね」とつい言ってしまったのだが、その時の彼の表情からすでに察するものがあった。ひょっとしたらと覚悟していたが、まあ遊び友達レベルだったようで、しかし世の中には人生最期にいっしょに遊んであげる女性がいるなどということを初めて知った。

 今回帰国後、これも偶然「パーフェクト・ケア」(2020年・アメリカ)をテレビで見た。詳しくはネタバレになるが、ウィキペディアの詳細を究めた解説をご覧いただくとして(https://ja.wikipedia.org/wiki/パーフェクト・ケア)、私にとってきわめて印象的だったのは、アメリカにおける成功者・勝ち組には誠実・着実に仕事をしていてはとうていなれない、だが成功したあかつきには「成功の秘訣などない、ただ努力のたまもの」と公言するのが常である、ということを明確に主張していることだった。そして今回のテーマは、私自身の近未来に迫っている老人の看取りがらみの組織的収奪なのである。

 主演のロザムンド・パイクはこれまでいくつか出演映画をみていたが、清純派のたたずまいで、そんなに個性的な印象はなかった。むしろなにかアンバランスで不安定な感じがあって(おそらく生来淡泊な性格と冷たく見える目線のせいだと思う)、今回はそのアンバランスな目つきが悪女的役回りにぴったしで、私は、そんな彼女に冷酷に反撃をするロシア・マフィアのほうに徹頭徹尾肩入れして見てしまった。

 そして老人たちの主治医と結託して、老人を認知症に仕立て上げて、裁判所のお墨付きで法的後見人となり、これも結託している施設に実質的に強制隔離し、老人の財産を収奪していくプロセスは、さながら未来というかすでに現実社会を彷彿させているわけで、なかなかエグい内容だったのである。こういう新状況に着眼して容赦なく蓄財して太っていかねば勝ち組にはなれないというわけなのだ。その際、ターゲットになった老人はまったく無力なのだから、こりゃ悲惨である。おれおれ詐欺どころではないわけで。

 

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9/14 Pompeii遺跡彷徨

 さて今回の調査の最終日となった。朝から曇りで、途中でちょっとだけパラパラ降りはしたが、午後は快晴となる。ただ当方が目論んでいた調査は残念な結果となったというべきか。
 8時に例の作業員用入り口で今度は40歳くらいの女性クストーデ(監視員)のチェックを通過。エルコラーノ門外のマウソレオを下っていくと秘儀荘手前にある監視所で今度は50台の女性に止められ、まあこっちの書類にはマウソレオ調査と書いてあるので無理して突破せず引き返したのだが、ここから昔は遺跡周辺を歩く道が開けていたのに、規制線でいけなくなっており、なんとかならんかなと北壁の門毎にチェックしてみたプロセスで、私的にはいくつかの新発見があった。
 第一に、第11塔のメルクリオの塔が公開されていて、上にまで登れた。ここでは若い女性クストーデ3人が何ごとか激しく会話していたのがちょっと気になったが。
 第二に、ウェスヴィオ門前に規制線が張られ、給水施設にも行けなくなっていた。ただし作業・発掘関係者は綱を跨いで往き来していたが。私的にはそこから若干北を探った後、東に行き、カプア塔の調査地区と旧交を温めたかったのだが、自重した。
 第三に、その直下のウェスヴィオ通りに面した細長い第五地区の一部が発掘されていて、それに導かれるように入った第五地区の小道のどん詰まりで新発掘場所と思われる豪邸が公開されていて、大いに楽しんだ。ここには若い女性クストーデが2人いたが、かなりの復元修復の産物と見た。
 第四に、ノラ通りに面した「中央浴場」が公開されていて、in situで不意打ちの遺骸も見ることができた。ここは私がポンペイ遺跡を訪れるようになって一貫して閉鎖されていたので開いていたのは意外だったが(一度、通訳のIさんと一緒に雨の中を研究予約して入ったことはあったが)、それほど見栄えするものはないような。まあ肝心なところはカバーで隠しているのかもだが。
 第五に、すべての東側の門への道は手前で閉鎖されていた。

 ということで、遺跡の北面の地形景観の確認は今回果たせなかったが、ここには書かなかった場所を含め、幾つかの遺跡公開を見学することはできたので、まあよしとしよう。

 夜は打ち上げを兼ねてごひいきのトラットリア・ペッピーノに行く。3月と異なり、ジャルディーノに案内され、半ズボンの私は蚊の攻撃を覚悟したが、不思議にやられなかった。そして髭の叔父さんのカメリエーレ(給仕係)二人がテキパキ給仕してくれて好感度とてもよし。我ら二人ともうっかりケータイを持って行かなかったが、カメリエーレがiPadを持ってきてくれて(ということは紙のメニューはもうないわけ)、だけど注文は口頭でする仕組み。前菜がなかなか凝っていて美味な内容と量で、1の皿のパスタも美味且つ量的に充分あり、二人ともやはり2の皿には至らなかった。二人で75ユーロ(前回も頼んだヴィーノ・ビアンコ・デッラ・カーザ一本含む)置いて出る。やっぱりここはいい。

 翌15日は、ナポリ考古学博物館を見学してローマへ帰還。そして16日夜にトルコ航空機に乗り、17日夜羽田着の予定。

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9/13 サルノ川景観探査

 最近の私はポンペイ遺跡そのものよりも、周囲、とりわけサルノ川流域の景観に興味がある(Aqua Augustaがらみでの水源地点Serino探査は過去行ったことがある)。今年の3月にはポンペイ遺跡内の円形闘技場近くの大訓練場列柱廊にかねて出土壁画中心に展示がされていたMoregine遺跡の発掘地を訪ねたが、ポンペイ市街地から小一時間、積年の酷使でかねて不調の右足首をかばいつつ進んで到着。そのときこの付近、一面の平坦な土地柄で、市街地を離れると畑と空き地が展開し、ゴミ投棄で埋もれたような用水路は一本だけだったが、さながら2000年前にサルノ川の氾濫流域にラグーンが構成されていたことを予想させるものだった。

 今回は、そのサルノ川本体を目視すべくモルジネ遺跡からさらに300m南を走る河川に沿って西に向かって、可能なかぎり河口近くまで接近しようと考えた。前日にモルジネに行くには周遊鉄道はだめでバス利用しかない感触を得ていたのだが、1時間1本という感じでいつ来るかも、どこに停まるのかもあてにならないバスよりも、時間的にも短縮できて安全を期すなら徒歩2時間足らずと表示しているケータイの地図表示に従って歩いたほうが無難と判断して、宿舎を8時頃出発。東西を流れる小川のこれが2つめと思った小さな流れがどうやらサルノ川本流のようで、こっからはいつものように車両が疾駆する自動車道の、脇にあるかないかの歩道線を頼りに、河沿いを歩くことになる。しかし、古代の復元地図に登場するBottaroの丘らしい高みを判別・確認するには至らなかったが。

 この小川差し渡し20m足らずと思いがけなく幅の狭い川で、しかし水量は豊富とみえた。かつては汚染で悪名高かったようだが(現在も河岸は樹木が繁茂し、道筋に不法投棄は数知れず・・・)、しかしカモの親子が浮かんでいたりしているので、水質はかなり改善されているようだ。狭い自動車道を避けたつもりで、道を大幅に間違え引っ返すなどしてかなり手間取り、どうやら河口に最接近できたのは11時半。左右の土地は私有地らしいので、これ以上は無理に見えたが、実際には激しいゴミ投棄を尻目に右岸のかなり先までいけた。GoogleEarthを見てみると、橋を渡ってずっと北(右)に道がついていてそこから左折して海岸にでることできるようなのだが、そこまで行く勇気はとりあえず私にはなかった。

カモメと思しき鳥たち多数が浮かぶその河口付近の橋の上でしばらくたたずんでいたら、パカパカと蹄の音が高く響いて、一頭立ての馬車が通り抜けてゆく。結局これ一頭だけでなく、真剣な表情をした一人乗りの御者に操られた馬車に街中でも何台もすれ違って、河口に隣接する右岸の私有地と思しき鬱蒼とした草地に姿を消していったので、競走馬の調教馬場が奥にあるのかも知れない。

 それまで比較的楽に歩けたのは緩やかな平地続きだったせいだろう。10時頃から日差しも強烈になり、さすがに帰路は足取りもおぼつかなくなりもしたが、来るあてのないバスを30分待ってみたりしながら、帰路は2回ほど水補強したりして(やたら喉が渇いたのだが、同じようなテ・ペスカが河口付近の場末のバールで1.5だったが、ポンペイ付近では3.5とられたのはいかにもイタリア的であった)、私のiPhoneのヘルスケアで19.4km、28000歩を記録。9/8の17.2kmを凌駕した。足の疲労はそれほどでもなかったが、途中から腰ではなく背中の筋が痛み出したのはなぜ。

 宿舎に帰り着き、シャワーを浴びてハイネッケン2本を飲み干す。19時半頃1度目を覚ますが、なんだか昨日の魚というかポレンタがまだ残っている感じなので、夕食抜きにして二度寝する。ウトウトしながら起き出してこれを書いたのは4時からだった。これで基本今回のポンペイ訪問の活動は終了。最終日には表敬訪問で遺跡に入って、できればヴェスヴィオ門外に出て地形を確認してみたいものだ。

 

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9/12ポンペイ再訪

 一般には9時開園のポンペイ遺跡であるが、サンチュアリオ駅近に宿舎をとっている私は、まあ普通であれば円形闘技場の受付から入るところ、もちょっと西の作業員出入口を試すことにした。これまでの体験で駄目な場合もあったのだが。8時過ぎなのに初老の男性クストーデ(警備員)さんがちゃんといて、日本語でお出迎えされたのでこりゃいい兆候だと、書類を見せるとざっとみて、私の名前を確認、そして「他の人は」と問われたので「別の日です」と答えたらそれでOKだった。

 今回はポンペイの舌状台地の南端景観をチェックするのが主目的なので、極力南城壁寄りにまずは西をめざす。会う作業員ごとに朝の挨拶を交わせばなんのお咎めもない。彼らは朝7時頃から働いているらしい。スタビア門に達するとすでに発掘活動が始まっていて、男女が動いていた。ここには待合場所のエクセドラを兼ねた墳墓が二つあり、だけど規制線があったので、外に出ることは遠慮したのだが、外側にそれなりに巨大な墳墓遺跡があるのを遠目に眺めて写真のみ撮った。城壁内に戻ってすぐなぜか左側の城壁上に出る階段の鉄柵が開いていたので、上がって城門方向を見下ろすとこれがなかなかの光景で、そこから右に道があったのでたどっていくと、円形劇場下の訓練場の裏に出た。ここから訓練場のポルティコの2階をのぞき見することができたのは初体験だったが、なんだかこの付近大便臭かったなあ。ここをもちょっと西に進むと観光客がバスから降りてぞろぞろ入ってくる入口に繫がるわけだが、そこを今度は点在する犬の糞を避けながら南壁構造を見ながら歩き、入口手前でUターンして白人だらけの観光客に紛れて訓練場に舞い戻り、西北隅のトイレと旧交を温めたあと、スタビア通りに出る。それからは今度は遺跡の上から舌状台地南端を眺めつつ三角広場に至る。ここの劇場トイレは規制線あったので外から挨拶するだけにして、ドーリア神殿の南端を探るが、修復中というわけで従来より内側に金網が設置されていて、崖を上から見下ろすことできなくてちょっと心残りだった。

 こんな調子で最近公開されたフォロ手前の「幾何学模様のモザイクの家」まで行き、ここでも崖を上から見たかったが規制線で果たせず、フォロに出ると大変な人出だ。韓国人グループを2つほど見かけたくらいで同胞や中国人は見あたらなかった。それからは人の流れに抗してバシリカ、そしてウェヌスの神域、そしてアンティクワリウムに至り、横から南端を眺め、階段を下まで下るとポンペイ・スカーヴィ入口に至る。

 ここでフォロに引き返し、11時過ぎという早めの昼食を売店でたっぷり摂ったのは人出を避けたかったからだ。このあとエルコラーノ門まであちこちで遺跡との旧交を温め、引き返えす。郊外浴場方向は今回パスして遺跡外に出ると、これがまたえらい人出だった。そこでのモルジネ行きの段取調査の詳細は今は省略し、坂を下って左折、遺跡外の自動車道沿いから、右に展開するかなりの段差ある低地と南壁断崖を目視しながら東に移動して、本日の「調査」活動は終了。

上掲地図の右端中央の赤部分がスタビア門外の遺跡群:そこから西にむけての城壁および構築物については、以下参照:https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/Walls/walls%20p1.htm

 試しにGoogle Earthで高低差をみてみると、上掲地図の一番下を走っている自動車道は西側が海抜13m、東側が14m、緑地帯を挟んでの歩道は14-15m、ドーリア神殿は25m、フォロは33m、ウェヌス神殿は32m、Antiquariumのテラスは27m、スタビア門外が8mで、自動車道の南側はおおむね13m、さらに南に向かうとさらに低くなり、サルノ川に至ると3mとなる。いずれにせよ、舌状台地上のポンペイ遺跡とその下のかつてのサルノ川流域ラグーンとの落差は、火山噴火物を取り除いたスタビア門外の8mを基準にすれば25mはあったことになる。ちなみに都市ポンペイの最高度はウェスウィオ門の43mだった(ただしGoogle Earthではサルノ川河口が-3mとなっているので、海抜的には上記数字に+3mしなければならないはずである)。

 研究ノートを書いている時には忘れていたが、サルノ川のさらに向こうに立ち塞がる霞がかった山塊は実際には意外と迫っている感があったのが印象的だった。ちなみにポンペイ遺跡から南東に8〜10Kmの距離があって、最高山頂は1300m級である。

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9/10行動記:クラウディウス港北突堤調査

 結論を先に書くと、調査予定の3分の1で終わらざるをえなかった。しかしまあそれでもそれなりに充分であったと言うべきかもしれない。以下は3時前に目が覚めたので書いた。

 船舶博物館が初見だったOG君と二人で9時にチェントロのコトラル停留所前で落ち合うが(一人1.3ユーロ)、いっかな空港行きのバスがこない。日曜日のせいだろうが1時間待ってやっときた。それまで変な伯父さんが、空港行きの停留所はここではなくあっちだと、2度にわたって旅行者に親切そうにいうのを聞いていたのだが、あれは全くのガサネタだったわけだ。

 空港の第三ターミナルについて、今度は空港内シャトルバスの停留所を探す。その道すがらタバッキ(切符売り場)を探し帰りのコトラル券も入手するわけだが、第三から第一まで都合1往復して、シャトルバスには駐車場めぐりとヒルトン・ガーデン・イン行きの2種類あること、船舶博物館に行くのは後者でその停留所は第一ターミナルの一番端付近で、その手前の外側のバールがコトラル乗車券を扱っていることを知る。問題はこれだけではなかった。ヒルトン行きが来たので乗ったのはいいが、終点のインについたら降ろされて、「博物館は2本に一本しか行かない、後から来るもう一本に乗り換えろ」といわれ、ヒルトンにしては安っぽいがそれなりに豪華なインの待合室で場違いな感じで居心地は悪かったが待つことしばし、2台やってきて、しかもそれらの運転者が目の前で運転を交代するという我らには不可解な動きの後動きだす。こんどは例の巨大な犠牲者記念柱が見えたところでボタンを押して、博物館に無事到着。

 最初に回りをと、かつての港湾長官官邸に向かう。そのときOG君が「穴が開いてますね」という。たしかに土台部分に一定間隔で開いている。前回は気付かなかったことだ。こっちは当時湾内に向いていたから海岸側で、今回はぐるりと陸側の裏にも回って一巡したが、陸側に穴は見当たらない。そのあと自動車道を渡って、テルメ・貯水槽遺跡に向かうが、こっちは頑丈そうな鉄柵で囲まれていて入れそうもないので(本当は金網がめくれて潜り込める箇所あったのだが、今回は連れがいるので突破は遠慮した)、ちょっと裏側を回り込んだあとあきらめる。

 次は博物館裏の突堤遺構だ。これまで2回は遠慮して最北端だけ見て終わったのだが、今回は容赦せず自動車道で切断された箇所までいくと、自動車道の下が通り抜けれるので、ゴミだらけのそこにも突入してみる。なぜかそこの部分の穴は浅いことにまたOG君は気付いてしまうところが、やっぱり建築出身である。

 通り抜けた場所をまず東側からみて、そのあと自動車道沿いについた歩道をわたり西側をみる。前回私は迂闊にもこっち側にも穴があることに気付かなかったのだが、しかもその時も穴をのぞき込んだOG君はそれが壁を貫いていることに早くも気付く。私は膝を折ってしゃがみ込んでのぞくことができなくて(老人である)、えっホントというわけで、確認のため地面に膝をつけてのぞき込んでみると、たしかに向こう側の光りが見えるではないか! こっち側のほうが深く掘り下げているように見えるので高さの計測もしてみるが、突堤上から110cmで穴に達し、穴の空間は50cmほどもあり、その下の現代の地面までは40cmといったところだった。

 玄武岩の巨石がごろごろ集められているところを過ぎ、その先のクの字になっている場所で突堤上に登る。それぞれが差し渡し4mの厚さがあるが、クの字の中の空間の意味は我々には不明である。その先の自動車道でまたぶち切れている箇所に到達するが、自動車道の向こう側は厳重な金網で囲われていて入ることはかなわないし、目視段階でもたとえ入れても鬱蒼と樹木が繁っているので踏破はおそらく不可能であろう。ということで今回の突堤調査はここまでとなる。

 この後、自動車道を横切り元に戻り博物館に向かう。館内に入ると汗がどっと出て、自動販売機で2ユーロでテ・ペスカ(ピーチ味の紅茶)を買って飲むが、押し間違えたかもと一度回収したときになぜか小銭のチェントがじゃらじゃら出てきたので、ありがたく頂戴した。博物館内には男性受付一人(7ユーロ支払いはカードのみ)、クストーデは男性1,女性2と、3月よりは少なくなっているが、見学者はとりあえず我らのみだから、なんとも暇な仕事である。なので、OG君とイタリア人と日本人の働き方の違いについて若干論議することとなった。型通りの見学を終え、例の繋留装置の実測をお願いしてみると案に相違して男性クストーデが鷹揚に許可してくれた。奥行67cm、幅14−15cm、高さ42cm、穴の直径上下13cm,横12cm,といったところだった。穴の内部は削った時のノミ跡も確認できた。また自販機でテを買って博物館を後にする。シャトルバスの停留所横の木陰でまつことしばし、やってきてくれて、順調に空港に帰着することができた。

 今度はコトラルでリド方面の停留所をみつけ、来たバスに乗ったのはイイがこれがまたとんだ見当違いで(本当は乗車するとき必ず行き先をしつこいくらい確かめるべき:この時も韓国人シスターなんか、他の旅行者と運転手のやり取りを聞いて乗るのをやめていた)、飛行場の裏手をグルーと回って、北上し出す。回りは畑ばかりでこうなると終点まで行きつくしかないと諦念して思わぬ事とはいえコトラルの旅を楽しむことにする(途中居眠り付き:OG君が携帯で行き先を調べることができてたので不安はない)。車はなんと結局地下鉄A線の最西端一つ手前のコルネリア駅に到着するが、この駅、3月にはN田先生と別れた因縁の場所で、その時閉鎖されていた地下への階段をやたら深く降りて、1.5ユーロ1枚でテルミニ経由ピラミデ経由でOG君宿舎のステッラ・ポラーレまで直行、例の中華料理屋でOK君とも合流に成功して、ローマ最後の中華を食し,その後はジェラート屋である。それにしても一昨日のコトラルといい、不用意に乗るととんでもない旅をすることになるが、まあ時間的に余裕があり昼間で明るかったこともあり、なんだかコトラル便に習熟した感なきにしもあらずといったところであった。で、結末はいつも測ったように中華の開店直後に行きつくのだから、だれかの陰謀ではないかと冗談言い合う。

 帰宅して、移動の準備をして寝たわけだが、移動日は月曜なので混雑を避けるためちょっと早めに撤収することになりそうだ。

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9/9反省記:パラティヌス丘・コロッセオ

 この日は、コロッセオ予約が16時半となっていたので、午前中は宿舎でゆっくり過ごし、午後OK君が帰ってきたのと入れ違いにローマに向かう。昨日夕食をたっぷり食べていたので昼食抜きだ(朝はカチカチのロゼッタを例のスープと食した)。一縷の望みを持っていた1週間券はやっぱり終わっていたが、サテ現場に出てみると、強い日差しの中、コロッセオにそんなに人は並んでいない。私はちょっぴり旧交を温める気になってコンスタンティヌスのアーチ門をぐるりと回って写真撮ったりした(広角なのでもとよりうまく撮れない:しかし銘文の1箇所に妙な生き物が取りついていて時々尻尾を左右に振っていた、あれはなんだったのだろうか? これまで鳩は見たことあるけど:ケータイで目一杯拡大して撮りました)。

 東側の影でしばし座ってみたりしたあとで、このコロッセオ入場の時間限定はコロッセオのみのことで、パラティヌス丘なんかはそれ以前に入れるのでは、まあこういう件でグレゴリオ通りなんかだったらルーズに対応してくれるかも、と思い立ち、そっちに向かう。この時結婚式恒例の写真撮影をしていた。こんな衆人環視の中でやるなんて大した度胸だというわけで私も撮る気に。期待にたがわずお二人ともりりしかったです。お幸せに。

 グレゴリオ通り入口では行列はなくて、若い女性が紙を受け取って仲間の男性2名とふざけて、ケータイ風な機械で私持参の印刷物を腰をふりふりチェックできないように動かして見たり、誰ひとり読もうともしない。その後は荷物検査の叔父さんで、腰のポーチを示してもいらないよのジェスチャー。簡単に入構できたので、直ぐ横のトイレに行って準備完了。但し手洗いの水は出なかった。

 まず左手に道をとり、緑の散歩道の出口や宮廷内中庭への入口に向かうが、当方予想通り両方とも鍵や規制線で入れなくなっている。それで道なりに右に向かい階段を登って、一気に競馬場の上に出てパラティヌス博物館の方に向かう。途中左手下にドミティアヌス宮殿だっけが見えるがそこは噴水が設置され池が一部復元され水をたたえ、ご丁寧に音楽も流れているのを上から見物するわけだ。

 さて、博物館がどうもおかしい。左入口に女性門番がいて、スーパーカードNo.2の表示が立っていて、たまに中から人が出てくる。逆に回ったり、裏を見たりしたが、どこも入れる場所はないし、その下にある大公衆トイレへの進入口はない。やっぱりこりゃ特別券が必要なようだわ、他はどうなっているのだろうと、フォロ・ロマーノに下る。

 こっちも旧交を温めるべく女神ローマとウェヌス神殿方向に向かうもしっかり鉄柵が閉まっていて入れなくなっている。遠目になんだかイベント会場になっているようなテントが見える。引き返し際にフォロの博物館表示が新しくなっているのでよもやと思い入ると、これが大改造されていて以前のうらぶれた面影を一新している。ひょっとしてと奥に向かうと案の定、神殿西側の大ニッチの広間に入れた。ここは大昔東側から迷い込んで窓越しに出てけと注意された場所なんだけど、地階全体がぐるりと博物館化されてこざっぱりときれいになったものだ。コロッセオを見通す東端には出れなくなっているのが残念。

 そこからマクセンティウスの新バジリカに向かう。南側の階段が修復中で、コンスタンティヌス像設置場所に立って東を見通ししばし旧交を温める。午後の直射日光のもとこの空間に見物人はほんの数名という贅沢さ。

 聖道に戻るとそこは雑踏の賑わい。ロムルス神殿も封鎖されていたが、あとは議事堂まで行ってみるが手前で規制線あり、まあこのあたりはセプティミウス・セウェルスのアーチを含めコロナ以前からずっと入れなくなっている。ここからアンティクワ教会に向かう。ここにはスーパーカードの表示がないのにやっぱりクストーデが立っていて、たまに来る観光客の携帯チェックしているので、どこでカード購入したらいいのかと聞いたら、公式HPで24ユーロと答えてくれた。あれ、そんな文言あったっけと思ったが、やっぱりねと。これは私としては大失態なのだが、地下大公衆トイレを含めて、いったいどこでどうすれば見学券が購入できるのか、ふつうだと分からないようなそんな表示はやめてもらいたいものだ。それとも耄碌じじいの単純な見落としか? 以前もグレゴリオのチケット売り場でスーパーカードがほしいと連呼したのに全然相手にされず,普通券を売りつけてあしらわれ、それでそばにいた若い警備員に言ったら,ここの窓口でどうぞと指さされ、ようやく追加で入手できた。どうやら受付の人によって対応が違うようなのだ。このときも一般料金表示にそれは書かれてなかった。99%の一般観光客相手だとそれでいいにしろ、チケット売り場の販売員だってプロのはずなのにこの体たらくだ。たぶん無能な縁故採用者なんだろうと毒づくことしか私にはできないのがくやしい。

 さてコロッセオ予約の15分前になったのでティトゥス門から出る。ここの入口もどんづまりは大人数が詰まっていたが聖道に列はない。そしてそれはコロッセオでも同様で用紙を機械で透過して奥に向かえと指示され、そこでも荷物検査されて無事ご入館だ。私は今回は一般券なので舞台にも立てないし地下構造もなしだったが、2階でお鉢回りができたのは新体験だったのでは。ここでは通路での展示に新機軸あるのかだけ興味あったけど、規模が縮小されていた上に、書籍販売も少なくなった印象あって、わずか40分ほどでご退出。

 何かうまいものたべたいなと思いつつ、無策なままなにもないノルドに向かう。ピラミデ駅で西日のきつい中30分電車待ち。土曜や休日は1時間2本だからかしかたがないが。今日はそれまで1万2千歩台しか歩いていないがなぜか疲れた。その疲れもあってちょっと怖いとおもいつつ車内でうとうとするのが最近の私だ。これも老化現象か。宿舎手前で右に折れ、切り売りピザ屋で2切れ8ユーロ、北アフリカ系の小商店で冷えたハイネッケン2本と、テ・ペスカ大瓶を6.20ユーロで買う。財布から硬貨をじゃらと出して20チェン硬貨探していたらここの主人に1ユーロのコインをあらかた取られてしまうが、20チェント割引きされたようで、まあいいか。 

 宿舎に帰ってみると、室内は冷房がギンギンに冷えていた。シャワーを浴びて、ピザ半分を寝ていたOK君を起こして分けて、私一人でビール一本とテを空けてしまう。途中でブザーがなって、どうやら大家さんが陣中見舞いにガラス瓶に入った見慣れない水2本差し入れてくれたが(たぶん飲まずに冷蔵庫において出るだろうが)、当方パンツの下着だったのでろくな対応もできず失礼しました。それから3時間寝て、二度寝して午前5時起き。この日記を書く。

 

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9/8の行動(3):Mausoleo,Portus

 本日9時半にリド・チェントロでOG君と落ち合って、フイミチーノ周辺を探索予定だったが、ノルドでまさかの午前中3時間の運行ストップ騒動。理由は不明ながら、しかしぎりぎり九時台の列車は動いていたので、チェントロで待つことしばし、彼は歩いてやって来た(どうやらリド線をコトラルが買収したのとの関係での工事らしい)。予定通りコトラル1.1ユーロに乗って、上水塔を目印に間違って1駅早く降りてしまったが、まあこれは許容範囲。10時半開園(別情報では8時半説も)の30分前でちょうど監視員も到着した頃合いだったが、まずは周辺の遺跡・教会を案内、そして当時の税関であるstatioの痕跡を試しにあてどもなく求めて北東に道を辿ってみたのだが、その道のどん詰まりで立ち話をしていた3名の人たちに通りすがりで挨拶したところ、まあなにしにどこへというわけで、OG君がカナル(運河:トラヤヌスの)が見たいのだがと話したら、女性がそこへいける鍵をあずかっているとかで意外な展開となる。その彼女はアリタリアの乗務員だったが、日本を含め世界中を旅して、かなり日本人に好感をもっているようだったが、リタイアしてそこを終の棲家に選んで住んでいる由で、ポルトゥスに行く道についても「ずっと歩いていくと小さな橋があってそこを折り返す、向こう側にはローマまでサイクリングの道がある。水持って行かないと」といったことまで話してくれた。やおら鍵をとりだし意外なことに壁の鍵穴に突き刺すと門扉が重々しく開き、庭に入って行くと芝生で被われた土手があってそこを登ると、目の下が運河である。対岸まで目視20mといった距離感だが以前グーグルで調べたら40mはあったはず。対岸の水辺にはかつての護岸のなにかしらの石材が見え隠れしているように思えてシャッターを切る。その写真が以下。

 彼女と別れ、こんな僥倖もあるものよと話ながらネクロポリに引き返し、見学する。係員3名と作業員の姿もあったが、受付はカード支払いで一人7ユーロ。観光客は我らだけといういつもの風景。住み込みの番人さんはお払い箱となったようで犬もいなくなっていた。修復されたのだろう、遺跡のマウソレオもなんだかこざっぱりとした印象になっていたが、入口近くの右端のマウソレオの床モザイク(四季ではないものの農作業風景か)は初めて見た感じ。

 立体自動車道の先の3月に訪れたバールをめざすが、ここは折悪しく夏休みに入っていてお休み、その時に世話になったお爺さんのエディコラもしまっていた。しょうがないので別のバールをめざして自動車道沿いに歩き、とあるレストランにはいる。時間的に昼食時であったが、コーラだけ頼んで座り込み、OG君の携帯でウーバーを試すが確認の信号発信できないとかで、店に頼んでタクシー呼んでもらうと、これがまあ大型の立派なのがやってきた。たかだか立体道路を越えてポルトゥス入口まで数分間で、25ユーロを要求されるが、まあ無駄な歩きの代償と素直にお支払いする。

 この遺跡公園の入口にクストーデ風の3名が常駐していて、そのあとしばし歩いて受付にたどり着くと今回は若い男性が一人で受付にいる。ここでは現金で一人7ユーロ。建築のOG君のおかげでオスティアに比べてのトラヤヌスの巨大倉庫の建築に気付かされる。それに比べるとここのいわゆるセウェルスの倉庫はかなりこぢんまりしていることにも。トルローニアの館から宮殿方向を目指したが規制線があって行かれず、しょうがなしに道なりに受付方向に向かうが、最後の最後で妙な遺物に出くわす。まず丸い穴が連続して開いている山塊で、なんとも正体不明。遺跡公園の北西端とおぼしき辺りでは、その穴が連続して開いている壁体を目撃してしまう。あとからこれらは突堤であることが判明したが,あの穴ははたして突堤構築時の丸太跡なのだろうか、繋留装置が抜けた穴なのか。奥が深いので前者の可能性が高いようだ。

 受付そばの自動販売機で冷たくない缶ジュースで喉を潤し、とりあえず前回の中華屋をめざして自動車道を西に歩くが、行きついてみればすでに午後の休憩時間となっており、要するに夜の部の17時半まで待つわけには行かないので、タバッキでコトラルの切符1.3ユーロを手に入れ(ここでも喉がやたら渇くのでジュースを飲む)、空港経由でチェントロに帰り、そこで例の中華で昼兼夜の食事を摂ることに決めたのだが、乗るバスを間違えて延々とエウルまで行っちゃってそこでリド線に乗りかえるはめになり(乗車券1.3ユーロではとてもいけない距離でした)、こうして無事18時すぎに開店した中華に滑り込めたわけ。この日は奮発して北京ダックも食べたので二人で50ユーロかかったが、美味しかった。

 あとジェラート屋が表示でやたら推しているふうのグラニテを試しに食して帰宅。私はイチゴ味だったがなかなか美味だった。本日行きそびれた船舶博物館と北突堤探索は10日に再チャレンジすることにしてOG君と別れる。

 やたら疲れていたので、うたた寝もして、だいぶたってシャワーして寝る。この日ばかりは明け方まで7時間は寝たようだ。

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