カテゴリー: ブログ

「夏服の少女たち:ヒロシマ・昭和20年8月6日」

 ウンザリするような暑さに疲れ果て、エアコンつけて、テレビをつけたら偶然、NHK特集でやっていた。1988年制作で、今年大当たりの広島女学院の、出身の杉浦圭子アナウンサーが朗読している。昨年もみたような記憶が。この作品は、13歳の県女一年生たちの復元動画、彼女たちが残した日記の朗読と、あとに残された親の現況を組み合わせての映像である。慟哭ではなく、日本人らしく押し殺した嗚咽なのだ。

 「変わらないのは親子の情だけ」と昭和19年に夫を、そして翌年娘を失って残され93歳になった母親は言っていた。ここでの濃厚な親子関係は今も変わっていないのだろうか、とつい思ってしまう。

 60分弱で、いまだとYouTubeで見ることできる。https://www.youtube.com/watch?v=Rvwbo_dl_1k

 ここに行ったら、その下にあったのが次で、これもつい見てしまった。「少女たちの日記帳 ヒロシマ 昭和20年4月6日~8月6日」(https://www.youtube.com/watch?v=v2-O8Lk7zoQ)。ドラマ仕立てで、素材は同じ日記帳なのに、こっちのほうがリアルな女子中学生っぽい描写がいろいろあって・・・(笑)。これは2009年8月6日NHK BSハイビジョンで放送されたもの。

 それだけでない。今回私は初めて、中学一年生が家屋疎開に大量動員されていた理由を知った。知らなかったが、昨年の8/6に放映されていた。「原爆が奪った“未来” :中学生8千人・生と死の記録」(https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/p14MBylDng/)。2004年に新史料(https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/66106)が出てきてその経緯が判明。中学に入ってすぐの生徒の動員はなんと原爆投下一ヶ月前の決定だったのだそうだ。放映ではごり押しをした中国軍管区司令官の陸軍藤井洋治中将の実名も出ていた(https://www.rijo-castle.jp/rijo/wp-content/themes/rijo-castle/assets/pdf/magazine/shirouya58.pdf)。あとからみつけた朝日新聞デジタル(但し有料)にそれ関係が載っていて、そこでは中将は発見史料掲載通りに○○中将とされている。「いらだつ軍人、抵抗する学校 8月6日、動員された8千人の子たちは」(https://digital.asahi.com/articles/ASR7X61YZR7XPTIL003.html?iref=pc_rensai_article_short_1898_article_1)。

 いずれも撮影から35年、14年たってしまい、遺族はみな既に鬼籍に入られていると思うと、万感せまるものがある。

Filed under: ブログ

被爆者は世界中にいる

 昨日、墓参りと実家の様子をみるために久しぶりに帰省した。一週間ほどいる。駐車場横の花壇は思い切り雑草が生えていた。家の中に入ると特に二階はすごい熱気がこもっていた。

 窓を開けて、テレビを付けると、民放で原爆関係をやっている。ああそうだった、この時期広島は民放でも原爆特集をよくやっている。

 でも思う。被爆者は被爆国は、広島・長崎だけではない。このことを忘却の得意な我が国民は忘れていやしないか。試しにググってみた。2019年8月7日発信の「日本だけではない、被爆国」(https://www.jrc.or.jp/international/news/190807_005824.html)、日本赤十字社の記事だ。その冒頭に引用文でこう書いてあった。

「1945年、アメリカのニューメキシコ州で世界で初めての核実験が行われてから、これまで2,050回を超える核実験が行われきました。アメリカはネバダ砂漠や太平洋で、ロシアはカザフスタンや北極海で、イギリスはオーストラリアや太平洋の島国で、フランスはアルジェリアや南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチで、中国は新疆ウイグル自治区で実施しました。ワシントンやモスクワなどの大都市から遠く離れ、多くの場合は植民地や先住民族の暮らしている土地でした。核実験により被爆した人たちは、世界各地に存在しています」(川崎 哲『核兵器はなくせる』、岩波ジュニア新書、2018、p.60)。

 そう、アメリカは最初の実験のあと爆心地にご丁寧にも州兵を入れてさえいた。残留放射能の知識がなかったといえばそれまでだが、だからアメリカが最初の被爆者の国であることにほとんどの人が気づいていないようなのはおかしい(当然、識者はご存知でしょうが)。

 私はもちろん第五福竜丸関係で、かなり昔、南太平洋での現地人の被爆者の話は聞いていた。改めてそうなんだと思ったのは、アルジェリアに行く前の事前勉強の中でのことだった。幼い頃、いやもう中学生ごろの記憶をたどってみたら、そう確かにそんなことが新聞記事にあった。フランスは植民地のサハラ砂漠で盛んに実験をやっていたのだ。そこにはもちろん何も知らされずに先住遊牧民がいたし、アメリカ同様仏軍兵士も爆心地に行進さえさせられていた。2014/8/5中国新聞発信「アルジェリア核実験被害の現実 仏公共放送記者 ラルビ・ベンシーハ氏に聞く」(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=34377)。人体実験でもあったのだろうから、この兵士たちはやっぱり現地出身者だったのだろうか、とふと思う。

 ところで、川崎さんの本を我が図書館で検索したがヒットしない。え、どうして?

Filed under: ブログ

警視庁池袋署への出頭

 数日前に、なんと標記の警察署から紙の郵便が届いた。以前盗まれた自転車の場合は練馬署だったので、どうして池袋署なのかまるで思い当たる節もなく、私の保険証(ただし期限切れ)が落とし物で届いたので、取りに来いということなのだが、手元に現行のものはあるのでわざわざ期限切れのものをこの猛暑のなか受領に行くのも億劫この上もないのだが、なにせ警視庁というものものしい文言に刺激されて(うちの嫁さんに引きずられてテレビでそんなドラマばっかり見ている影響も否定できない:所詮本庁じゃなくて所轄だけどさ(^^ゞ)、昨日の午後,病院経由大学に行く前に寄り道して、とことこ歩きなれない池袋西に行ってきた。到着時すでに午後4時30分で受付辛うじて滑り込み。

 受領時に西武百貨店で拾われたとの説明あったが(だから池袋署か)、さて普段持ち歩かないものがそんなところでどうしてとこれも合点がいかなかったのだが、家に持ち帰ってよくよく見たら、これは保険証本体ではなく、身分証代わりに使えるかもと思って私がカラーコピーして作って常時サイド・ポーチにカードといっしょに入れていたものじゃないか!、あ、分かった、やっと思いだしたぞ、我孫子の帰りに百貨店に寄って買い物したけど、500円以上だっけを買ったら登録抽選できますといわれ、その受付に行って西武のカードを出したことあったけど、その時に一緒に出て落ちたのだな、どうりで受領したときの手触りも厚めだったわけだ、と。

 しかしこのコピー、区役所なんかだと通用した試しがこれまでなかったしろもので、一目で見破られてしまうのだが(当たり前だが本物でないと身分証として通用しない)、警察ではご丁寧に保管していただけたわけである(所轄、たるんどるぞ!)。でも嫁さん曰く、ケーサツは落とし物が届いたからそう処理しただけなのよ、と。部署が違うとおのずと目が利いたり利かなかったり、まあそんなものだろう、当たり前だがなるほどな、と。

 それにしてもこれからこんなことが増えていくのだろうか。やだなあ。

Filed under: ブログ

後期高齢者の断捨離

 思い立ってこのところ粗大ゴミの断捨離が続いている。これまでは、使用不可となっていたプリンタや大学から持ち帰っていた大型スキャナの断捨離だったが、ずっと和机でやって来た老妻が、足がしびれ立ちあがるのも億劫になってきたので(机に両手をついてよいしょとかけ声かけないと立ちあがれない)、椅子にすわる洋机にしたいと言いだし、津山で家を新築して以来40年近く使ってきたそれなりに重厚なヤマハ家具製の座机を捨てることにし、組立ても簡便な安価な勉強机を購入した。しっかりした勉強机用の椅子は何本も出ている足がじゃまといって、部屋の隅に転がっていた補助的丸椅子でいいのだという。つくづくお金のかからない人だ。

 昨夜その入れ替えをおこなったのだが、その後に机横に置いてあるゴミ箱を空にしようと持ち上げたらやたら重い。断捨離趣味の妻らしく、この機会にあれこれたまっていた雑品を一掃しただけでなく、なんと本を数冊ゴミ箱にぶち込んでいたせいだ(医学関係もあった)。これが私にはできない技なのである。

 そして、その入れ替え作業で痛感したのが、老人の断捨離って意外と難儀だなということだった。当たり前のことだがもう若くはないわけで、和机の足を分解し、やたら重たい上板を玄関外に運び出すだけの作業で若いときはなんてことないはずなのに、腰に負担がかかっている感覚のせいで、否、そういった肉体的以上に精神的にそれに触発されて動きが緩慢になりタイギイのである。

 私にとってより喫緊の課題は書籍の整理で、実はこの一週間、イタリアから届いたばかりの薄いパンフ形式の本が行方不明となっていて、積みあげている書籍の山の中をあれこれ探したけど未だ発見できていない(上のほうにあるはずなのにない、だから引っかき回す、だけどない,否、目にとまらない)。時間はあっという間に過ぎていってバカにならないし、そのプロセスで不要な書籍がまたえらくたまっているな感に捕らわれたのだが、家具の時もそうだったが、それなりに思い入れもあるモノを捨てるという営みは、私のように昔から脳外記憶保存型の(要するに生来記憶力が弱いからそうなる)、周辺にそれに代わるモノを置いておかないと安心できないわけで(記憶力がよければこんなこと不用だろうが)、はなはだ苦手な作業なのだ。だがしかしどうにかしなきゃと重い腰をあげる気になっているのも、死後に迷惑かけたくないということよりも、空間的にもう限界こえている思いが最近とみに出てきているからだろう。だけど妻のようにゴミにして出す思い切りのよさは私にはないので、そのためかかるであろう時間・手間が意識に先走るから厄介なのだ。

 実際には再び広げて参考にすることもないだろうコピーの山も厄介だ。いつかまた見るかもとか、必要出てくるだろうからと、ファイルボックスの中にそれなりに項目別にいれている書類の山が場所を塞いで増殖していて、これまた老妻の怨嗟の的となっているのだが、あと○年で終わりの私の研究人生を死亡時から見返してみるなら、もうすでに不用品のはずといっていいのだが。

 そう、この発想がようやく芽生え出したというべきか。

 ああ、ベランダ隅のゴミと化した藤製戸棚の分解もしなきゃならんが(ハリーポッターが始まって豊島園にカラスがもどってきて、てきめん姿を消していたハトがまたなぜか出没し出し、そこでくうくう鳴いているし)、この暑さである。一日延ばしにしてきたが、夕方になって陽が落ちたらやるかのう。

Filed under: ブログ

ヒッポクラテスのお言葉

 古代ローマ史のイタリア語論稿を読んでいて、幾分唐突に出会った箴言である。ヒッポクラテスも言っている、la nostra vita è breve ma le ricerche continuano, la conoscenza acquisita è ingannevole, il giudizio è difficile. だから私はもう述べますまい、という箇所での引用だった。

 前半はどこかで聞いたことある、なかなかしゃれた文言だなというわけで、典拠を知りたくてググってみたら、ヒッポクラテス『全集』の冒頭に書かれているらしいことがわかった。「人生は短く、術のみちは長い」。これはどこかで聞いたことある。しかしその次に以下が続いていることは知らなかった。イタリア語訳だと「得られた知識は欺瞞的で、判断はむつかしい」となる。私が惹かれたのは「得られた知識は欺瞞的で」という箇所で、これを私は「現段階の研究は将来乗り越えられるそんな存在に過ぎないのだ」と読解し、こりゃ研究者たる者常に頭に刻み込むべきだと感じたのである。しかし原文だと「機会は逸しやすく、診断はむつかしい」、すなわち、彼は医者だから、この箴言の本来の意味は「短い人生の間に、医術の道を究めるには時間がかかる。しかも患者に適切な処置を施す機会は逃しやすく(失敗することも多く)、実に診断はむつかしい」といった意味になるはずだ。翻訳が重なっていくうちに、原意が微妙に曲げられていくわけである。

 世に流布している前半についても、ゲーテによって順序を逆転させて「芸術は長く、人生は短い」などと言われる場合が多く、芸術至上主義の表明と明らかに意味が変化してしまっている。問題は、ヒッポクラテスは芸術なんて意図していなかったにもかかわらず、なのだ。これはそもそもギリシア語原文でのtechneが、セネカによってラテン語でarsと訳され、それが英語のartを経て、日本語では「芸術」に変じたからである。これについては泌尿器を専門とする医学部教授による論稿をみつけた。斉藤博「ヒポクラテスの箴言「人生は短く,術のみちは長い」について」『埼玉医科大学医学基礎部門紀要』10、2004,61-75ページ。

 換骨奪胎、誤訳文化ニッポンの面目躍如である。もちろん立派なグリーク・ラテンの諸先生たちはさすがに読み誤ってはいないようだが、なにせ大多数の常民にとっては世に膾炙している俗論(俗事)のほうが耳に快いわけで(だからこそ流布する)、いくら「本当はこうなんですが」と指摘したとしても蟷螂の斧なのである。げに刷り込みは恐ろしい。いや、知名度の差というべきか。

 余談だが、上記論文には孔子『論語』の例の有名な文言も出てきている。だけど十五歳から六十歳までの格言、私にはこれまで少しも納得いかなかったのだが(私の場合、そんなに思い切りよく、どれも断念できなかったので)、今回「七十にして心の欲する所に従って、矩をこえず」にいささか思うところあった。76歳目前の私の場合、矩をこえるエネルギーが既に失われちゃっていて、もはやこえようにもこえることができないというわけなのである。

Filed under: ブログ

帝国主義はいつも同じ

 テレビで映画「クーデター」(2015年米国)をみた。その中でピアース・ブロスナン演ずる正体不明の男がこんなことを言っていた。「欧米企業はこの国を食い物にしている。まず俺が友好的に現れる。インフラ構築のための貸し付けを申し出る。彼らには払えない額だ。次に発電所、水道、道路を造る。何だってかまわない。借金が払えなくなったら、乗っ取りだ」。

 かつてタキトゥスは『アグリコラ』21で、ローマ帝国が野蛮人を手なずける手立てを大略以下のように述べている。まず軍事力で十分に恐怖の念を植え付け、その一方で寛容政策で平和の魅力を教示する。そうするとそれまでローマに対等な意識をもって振る舞っていた多くの部族も、人質を送ってよこすようになる。この連中にさらに快適な生活を味あわせ、公的な援助をして、インフラを整備させ、酋長の子弟に教養学課を学ばせ、他の部族より優秀だとおだてると、これまでラテン語を拒否していた者まで熱心に学びはじめる。こうしてローマの服装さえも尊重されるようになる。それから人々を悪徳へと誘うもの、例えば逍遙柱廊、浴場、優雅な饗宴にふけさせる。何も知らない原住民は、これを文明開化と呼んでいたが、実は奴隷化を示すひとつの特色でしかなかった、と。

Filed under: ブログ

現生人類も人肉を食べていた

2023/6/29発NATIONAL GEOGRAPHIC「人類が人肉を食べた最古の痕跡か、145万年前、骨に石器の切り痕:1970年に見つかっていたヒト族のすねの骨を最新手法で分析」(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/23/062800333/?P=1)

 米スミソニアン国立自然史博物館の古人類学者ブリアナ・ポビナー氏は6年前にナイロビのケニア国立博物館に収容されている数十個のヒト族の骨を調査した。それらは1970年に著名な人類学者メアリー・リーキー氏が発見した骨だった。ポビナー氏はそれに他の獣骨で見慣れた石器による切り痕を見つけた。

 要するに、肉を食べるためにつけた切り痕だったという結論で、これまで80万年前に確認されていた人類共食いの痕跡の可能性が、一挙に145万年前までさかのぼることとなった。

 すでにチンパンジーやネアンデルタール人に確認されていた共食いが現生人類にも立証されたわけで、ありていにいって空腹を満たすため肉の供給源としてやっていたのだろう、ということらしい。

 50年前に発掘された遺物を最新技術(この場合は3Dスキャンでのデータベース比較)で検討し直すことで思いもよらない再発見することができるわけである。私にとってはこれが注目点だ。

Filed under: ブログ

トイレのウェブ発見:第一報

 ラルゴ・アルジェンティーナ関係でぐぐっていて、とんでもないブログをみつけてしまった。私的には大収穫。

 管理人は、Bob Cromwell氏で、旅行してるうちにおもしろ情報がたまり、2010年にこのサイトを作ったらしい。https://toilet-guru.com/blog/1.html

 サンダル履いてエフェソス見物ですか。かなり怪しいグルに思える。

 私的には、テッサロニカのガレリウス帝のトイレをさっそくコピーさせていただいた。

 ここではとりあえず、ラルゴ・アルジェンティーナの場所を示しておくが、ウェブ上の帯をクリックして他の遺跡にいくことができる。https://toilet-guru.com/roman-republic.html

 最初、Webの帯に日本のトイレ表示が使われていたのでおやっと思ったが、日本にも来ているようでトイレの紹介もしている。情報は若干古い感じがする。というか、彼にとってはシャワートイレよりもこれまで伝統の金隠しの古典的トイレのほうがよほど興味深かったようだ。

 なお、今現在話題の米・元大統領トランプの彼のゴルフ・リゾートのシャンデリアがぶら下がった”ださい”トイレに山積みされた極秘資料入れた段ボール写真なんかも掲載されていて勉強になる。

 

Filed under: ブログ

6/20一般公開:Largo di Torre Argentinaの神域、そして巨大トイレ

 このブログでも2021/4/30に一年後に公開と紹介していたこの神域の整備がようやく終わって、この6/20から一般公開された。

 私にとって、この区画は20世紀末に1年間ナヴォーナ広場に滞在していたので、この付近は食堂や書店、エディコーラ、停留所と、とてもなじみのある地区にある遺跡だったが、とりわけ、西のカンポ・デイ・フィオーリからの流れで「ポンペイウスの100の列柱ポルティコ」(ここがカエサル暗殺の場)の東端の巨大トイレ(上図だと右上の5の下)が目視できるのできわめて注目してきたのだが、現在の地上の上から見るしかできなくて、見えるから一層もどかしいことこの上ない遺跡でもあった(https://www.youtube.com/watch?v=7rKi4jfrZjI)。そのくせなぜかこの神域遺跡は猫の楽園になっていて、人間様を尻目になんで猫は自由に入れるんだよ〜と恨めしく思ったことだ。

 知人が教えてくれた今回の公開紹介の画像を見ても、東側からのがほとんどで、さて西側のトイレ方面、諸神殿の後ろ側に回り込める遊歩道の存在は望み薄だ。

https://video.yahoo.co.jp/c/19762/d898618986595f9e42bd38b8d5ddaffbebd7
8483

 この遺跡関係の情報量はかなりあるが、今は以下の件だけでもアップしておこう(後から確認したら、前回も紹介していた(^^ゞ)。オスティア遺跡への往復で渡伊中必ず一度は寄っていたローマ国立博物館分館のモンテ・マルティーニ博物館で、あるときふとこの神域出土品が置かれていたのに気づいた(なにしろ、ギリシア系の莫大な彫像の所蔵量なのでいちいち確認して見ていないわけでして(^^ゞ)。その代表が、B神殿から出土したフォルトゥーナ女神像断片。実に巨大な彫像で、頭部と肌を見せている部分は大理石であとは青銅製なんかだったらしい。こういう彫像をアクロリスacrolithという。その伝では、コンセルヴァトーリ地階中庭のコンスタンティヌス大帝の巨像もそれにあたる。

Filed under: ブログ

ヴェーヌへの書評が眼にとまり

 ポーランドのウェブ「News from world of ancient Rome17/06/23」がメールで送られてきて、それを見ていたら、今さらであるが、「Review: When Our World Became Christian: 312 – 394」が眼にとまった(https://imperiumromanum.pl/en/reviews/review-when-our-world-became-christian-312-394/)。

 私はこの2007年出版のヴェーヌの著作の邦訳が2010年に岩波書店から出た機会に、書評を依頼されて書いたことあり(『西洋史学論集』50、2013/3、pp.154-157)、そこでヴェーヌの才気には敬意を表しつつも、稚拙な言説が見受けられたので、まああれこれ酷評したことがあったので(それ以前に眼にとまっていたAmazon読者の手放しの高評価は素人さんだからしょうがないがーーと一応言ってみるが、そのレベルが大手を振っているわけ:だいぶ経って行ってみたらものの見事に消去されていて、へ〜状態ーー、我が国碩学たち?の、ヴェーヌの意図を誤読しての提灯記事に辟易していたこともあったからだったが(著者の著述意図を翻訳者が誤った先入見・刷り込みに引きづられて訳すと、微妙なニュアンスを軒並み誤読・誤訳して、読者にとって理解しづらい文体となる):抜き刷りを書店編集部に送ったのだが、受領返信もなかったのに驚きもしなかったけど、とても失礼なんじゃないかな:それ以前から感じていた編集者のレベル低下を実感したものだ)、さてポーランドではどう読まれているのだろうと興味を持ったわけである。

 短い新刊紹介なので、大枠では評価しつつ、だが「フランスの知識人の間では例外ではない、政治的な「赤」への傾倒を示す独自の信念を持っていることは理解できるが、それが科学的な研究分析にそれほど強い影響を及ぼしてはならないと思う。私が問題だと思うのは、記述された状況において、著者の政治的シンパシーが過去の事実の解釈の一部に強くバイアスをかけ、その結果、彼の仕事の科学的側面が損なわれていることである」といかにもポーランド的体験に基づいた批判眼を示しており、ヴェーヌは「まだ外国語に翻訳されていないAleksander Krawczuk教授の著作に見られるような客観性を羨むべきだ」と、辛辣であったのは、ちょっと違うんだけど、なるほどなと思ったことだ。

Filed under: ブログ