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河岸河床監督官の石柱みっけ?:オスティア謎めぐり(14)

 前の書き込みの続き。Mauro Greco氏の叙述内に「2つの大きな石柱」があって未だ直立しているほうにラテン語碑文が刻まれていてと、写真も2葉添えられていた(下の写真)。ただどうやら二つとも同一石柱の写真で、しかもそれから刻字を読み取るのは無理なようだ。立っていないほうの石柱はどうなっているのだろう、といつものない物ねだりで気になるところではある。

 最終的にみつけた場所をGoogle Earthで表示しておこう。大通りに面したOstia Antica 遺跡の正面玄関の真ん前に教皇ユリウス二世が枢機卿時代に創建した砦があり(下の写真①だと右下隅の三角形構造物)、そこの白丸を基点として黄色の線を辿って最初の三叉路(白丸)を左折して次の三叉路の交差点中央(白丸)にそれ(ら)があった。基点からの距離は340m ほど。

写真①  Ostia遺跡    煉瓦色の屋根が屋敷   中央の白色の道筋と白丸の交差地点が石柱設置場所

 かのお屋敷(といってもそれほどの豪邸にはみえないが)は、オスティア遺跡だと以前このウェブで扱ったことのある「御者たちの浴場」Terme dei Cisiarii (II.2.I3) の北側真裏になる。今から20年も前そういえば、ミトラエウムを探しあぐねて格子越しにのぞき込んで、境界に設置された頑丈な金属製の柵に寄りすがって「ここにあるんだろう。入りたい」と嘆息したことを思い出してしまった。

 これももう数年前のこと、思い立ってテヴェレ川のかつての川筋(Fiume Morto)の痕跡を求めてボルゴの東北地域の畑の中をさ迷ったことがある。遺跡の神様も哀れに思ってくださったのだろう、偶然、一面の畑の真ん中にぽつんと保存された遺跡にひとつだけ行きつくことができた(いずれ触れる予定)。平べったい農地の中の農道をひたすら歩くだけなのだが、そのときは体調思わしくなく、めまいに襲われたこともあり、涼しい午前中に出発しても炎天下なので昼過ぎには体力と同時に気力も奪われてしまう。しかしあきらめず帰り道は西に歩いて現在のテヴェレ川の左岸に至り、川筋沿いに道がある限り下ってみた。そこはちょうどオスティア遺跡の本当にま裏だったが、そっから先は葦の原になっていて、ワンゲルでは普通の昔とった杵柄とはいえ、その時の私にはもはや藪こぎする余力は残っていなかったし、単独行だったので河岸で事故った時が怖かったので、川辺でしばし休憩してからUターンした。川筋のすぐ南側はオスティア遺跡の敷地なのだが、ここも丈夫な柵で閉鎖されているので、目前に慣れ親しんだ遺跡を見ながら大回りせざるを得ないことを呪いながらだったが、その帰り道、何が幸いするかわからないもので、実は今問題の石柱が設置されている交差点で件の石柱にこれも偶然遭遇し、由来もなにも知らないまま念のために写真も撮った記憶がある。今はそれを探す手間を厭って手っ取り早くGoogle Earthのストリートビューを利用しての写真を掲載しておく。有難い時代となったものだ。

写真② 左奥にAldobrandini家の建物がみえる   東から見た石柱   右の道を行くとテヴェレ川左岸に出る   

 ストリートビューは撮影機器が通った道にしか進めないので、今の場合、左の道はAldobrandini家のお屋敷のファサードに導く並木のアプローチ道であり、私有地だから撮影されていない。それで石柱のそっち側や裏側の映像は確認できないのが残念だ。だが、石柱のそばに倒れた切り石が見つかったのは、なにはともあれ収穫だった。但し、重そうだし、ここでひっくり返したりして刻文をチェックしたりしていると(何もないかもだが:じゃあなんなのさ、この切り石)、車で通りすがる地元民のみなさんに怪しまれること請け合いだろう。

写真③ 石柱を北西側からみる

 さて、その石柱に刻まれている銘文は以下の通りらしい:CIL XIV 4704 = AE 1922, 95(但し、未確認)。不完全だが現段階での試訳も付記しておく。

1 C(aius) Antistius C(ai) f(ilius) C(ai) n(epos) Vetus /

2 C(aius) Valerius L(uci) f(ilius) Flacc(us) Tanur(ianus) /

3 P(ublius) Vergilius M(arci) f(ilius) Pontian(us) /

4 P(ublius) Catienus P(ubli) f(ilius) Sabinus /

5 Ti(berius) Vergilius Ti(beri) f(ilius) Rufus /

6 curatores riparum et alvei /

7 Tiberis ex s(enatus) c(onsulto) terminaver(unt) /     

8 r(ecto) r(igore) l(ongum) p(edes) //

9 Sine praeiudic(io) /                 

10 publico aut /                    

11 privatorum                     

 1行目のAntistiusのみ祖父まで書いた若干くどい念入りな標記なのは、彼が執政官格の本監督官評議会の筆頭者だからで、後の4名は法務官格だったから、だろう。

 6行目から7行目冒頭に出てくる「curatores riparum et alvei / Tiberis」は一般に知られている政務官職名だが、Greco氏が書いている「オスティア・アンティカの」di Ostia anticaが抜けているのが気になるし、その語が di Ostiaと、しかもアンティカと現代表記したイタリア語なのだ。奇妙だとようやく気付いたが、あれはGreco氏の勝手な付加だとすれば、帝都ローマのcuratores (pl.)がこれを建てたことになって、それはそれでリーゾナブルではある。

 実は、8行目については別の読み方もあり、最後に欠字もあるようだ(あってほしい)。ちょっと調べてみたら、9-11行目は研究論文などでなぜか省略されている場合が多い。定型表現のようだが、異読もあり、いずれにせよこの銘文いずれきちんと検討・詳述できればと思っているので、ご意見いただければ嬉しい。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 ところでこの探険、もうひとつの思わぬ副産物にこれも偶然出会った。それは続きで。

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アルドブランディーニ家とミトラエウム:オスティア謎めぐり(13)

堀賀貴編著『古代ローマ人の都市管理』九州大学出版会、を読んでいて、関連でちょっと調べたら、アルドブランディーニ家がらみで偶然23つの事例が引っかかってきた。 ことの発端は以下である。ティベリス川の洪水に古来悩まされ続けたローマは、河岸河床監督官を定めたというくだりで、その官職名curatores riparum et alvei Tiberis をググっていて(それはそれで、「使徒行伝」13.4-12に登場するキプロス総督[正確には騎士身分から派遣される管理官procuratorのはず]Lucius Sergius Paulus/Paullusと関係あるかものという名前も出てきて、知らなんだ〜と大いに興奮したのだが、念のためと田川建三大先生の注解書を開いてみたら、すでにK.Lakeが1933年の注解書でちゃんと説明しているように同一人物とはいえない、とそっけなく却下なさっていて、私はエウセビオス研究がらみでかねてK.Lake先生のご研究を尊敬してきたので、こりゃもうあかんとガックリ)、たまたまなんと、curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica もヒットした。 おいおいこれはなんなんだ、そんな官職オスティアにあったって聞いてないよ〜とそっちをググり出すと、Mauro Greco氏が2018/2/4にアップされた「Il cippo dei Curatores riparum et alvei Tiberis di Ostia antica」(http://visiteromeguide.altervista.org/cippo-dei-curatores-riparum-alvei-tiberis-ostia-antica/)が引っかかった。最近クラウディウス帝のローマ市域石標pomerium cippus を紹介していたので、あれれこんなものオスティアにあったかいなと、レジメ作成作業を中断してとうとう大幅に横道にそれることに。Mauro Greco氏によるその紹介文に「オスティア・アンティカをよく知る人なら、遺跡の左側にあるアルドブランディーニ家の敷地に沿った未舗装の道を散歩したことがあるだろう。アルドブランディーニ家の敷地に通じる大通りから数十メートルのところにある分かれ道で、2つの大きな石柱に出会う」とあって、これまたはじめて知った「アルドブランディーニ家」Aldobrandini という存在(ググってみれは、これはフィレンツェ起源の大変な名家だった。以下の[付記]参照)や、それが遺跡の左側にあるという叙述に、どっちから見て左側なんだ、現在牧場風の空間が広がっている右側の間違いじゃないの〜、と首を傾げながら、Google Earthで検索したりググってみたりする中で、今度は「Mithraeum Aldobrandini」なんてものもヒットして(http://www.visitostiaantica.org/en/2017/07/02/the-mithraeum-aldobrandini/:但し、Stefania Gialdroni女史撮影の掲載写真は表紙の1枚を除きすでに見ることできなくなっている)、これはひょっとして20年も前に気になって探していた19番目のミトラエウムのことでは、と。 昔、オスティア遺跡にあるミトラエウムに興味を持ち調べたときの知識では、オスティアのローマ側からの入城門 Porta Romana門の右側城壁をテヴェレ川方向に辿ると塔があって、そこがミトラス教の祠だった、というごく簡単な説明しかなかったと記憶しているが、現地で遺跡とテヴェレ川の間のそれらしい場所を見当つけて道伝いに探し歩いたこともあったのだが、農地と私有地だらけで、その上甲高い番犬どもに吠えられたりで目的を果たせなかった過去があった。今回みつけた写真はあのとき探せなかったのも道理で、「塔」というにはおこがましい小型の構造遺物で、しかも「アルドブランディーニ家」の私有地の中にあって非公開ということも分かり、まあこれで一応積年の疑問を解消することができただけでなく、上記ウェブ掲載のリンク先に飛んでみるとなんとそれは例の「OSTIA:Harbour City of ancien Roma」で、いつの間にか充実した記事となってアップされていて(https://www.ostia-antica.org/regio2/1/1-2)、めでたく写真や碑文も入手できたのである。そのウェブの管理人Jan Theo Bakker氏の尽力はかくも偉大なのである。これはこれで十分紹介する内容を備えているので、誰か手早く紹介すればいいのになと思わざるを得ない。ああ、天我をして十年の命を長らわしめば・・・。 さて本論のcippusに話を戻したいが、それは続きで。最後にGialdroni女史撮影の「塔」の表紙写真を転載させていただこう。
ところでこの項目、なんど段落切っても修正されない。どうしたことか。読みづらくて申し訳なし。 [付記]2021/11/24 帝都ローマのトラヤヌス市場の3D画像をGoogle Earthで切り取ろうとしたら、そのすぐ北に「Villa Aldobrandini」を見つけてしまった。これは今は庭園だけのようだが、フラスカーティには文字通りの豪邸があるようだ。
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オスティアって実は季節労働だった、はず:オスティア謎めぐり(12)

 以下で触れる件は、一般向けのカルチャでは話してきたが、これまで秘中の秘として温めてきた構想である。文献的に見落としあれば、ご連絡いただけると幸甚である。k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

 帝都ローマの外港オスティアのことを調べていると、私は思考の落とし穴のひとつに、古代地中海世界の船舶航行にとって航行可能期間が春から夏にかけてと限られていたという指摘から、あることに気付いてしまった(やっぱ、才能は隠せんものじゃの〜 (^^ゞ)。それは、当時の港湾労働のかなりの部分が人力に頼っていたという当たり前の事実から、当時の人力の最大の供給源は奴隷だったはずで、ここまではそれぞれ従来から普通に言われていたことであったが、ちょっと待てよと。

 前段と後段を繫いで、はたと気付いたのが、じゃあ航海不能の期間に奴隷たちはどうしていたのか、ということだった。奴隷の所有者は無駄飯を食わせていなかったはずだ。これを別視点から見てみると、港湾労働が季節労働だったということであり、具体的には繁忙期は3月から9月までで、10月から翌年の3月までの実に半年が、毎年決まったように港での仕事閑散期となるのであれば、私が奴隷所有者であれば当然、労働力の有効活用の途を探ったに違いないはずなのだが、というわけである。

 奴隷労働の季節的転用といっても、なにしろ本邦どころか管見の限りとはいえ欧米研究者の文献中にも具体的に触れているものにお目にかかったことがなく、データ的に若干間遠いけれどようやく見つけえたのが以下の図33と解説だった。K.グリーン『ローマ経済の考古学』白水社、1999年、p.191、図33.

 

この図をじっくり拝見していて、なんと都合いいことに、地中海世界では港湾作業の閑散期が農繁期にあたり、とりわけオリーブ収穫期に集約的な労働力が必要とされていた、すなわちおそらく春先から港湾労働に投入されていた奴隷たちは、秋以降はオリーブの、そして穀物やブドウの手入れや収穫作業へと就業場所を移動していたのでは、との想定が可能になったのではと思う。

 私は、後四世紀の北アフリカの初期キリスト教運動でのドナティストの一派、キルクムケリオーネスを久々に思い出してしまった。彼らは、属州の現地人なので、いかにカラカッラ帝以降とはいえローマ市民権保持者として遇せられていたとは思えないが、奴隷ではなく、季節労働に従事する無産階層、いわば現代のフリーターだった(厳然と存在していたいわゆる下級市民humiliores:別件だが、池袋での運転ミスした現代の上級市民honestioresさん、当然のことながら処罰されてよかったと思う。でも収監はされないのだろうけど。同様にサクラ問題の最上級市民に対しても厳正にやってほしいと思うのが私のような庶民感情なのだが、ま、政権に媚びるどっかの国レベルの我が国司法体制ではだめでしょうね、残念ながら)。

 引き続いて次に湧いて出る疑問、ではオスティアでの半年間の港湾労働従事中、奴隷はどこに宿泊していたのか、という問題が出てこざるをえない。果たして港湾労働に従事していた奴隷たちはあの立派な集合住宅内に居住していたのであろうか。そんなことはありえない(家内奴隷でも一室を与えられたかどうか不明だし)。冬が雨期で春から夏は乾期の地中海気候を考慮にいれるなら、臨時宿舎としてせいぜいテント生活していたのでは、との可能性を指摘したくなるのである。そのほうが昼間の熱がこもっている石やレンガ作りの家屋内で過ごすより、はるかに快適という事実がある(私はそれをローマ滞在中や、サンチャゴ巡礼中の巡礼宿で目撃・体験した。日本と違いなぜか蚊が出てこないので、野外での夜のほうがすがすがしい)。奴隷の逃亡を防ぎ、管理しやすい区画が奴隷用にオスティアのどこかに割り当てられていたのではないか、というわけである。雨期には使い物にならな単なる野っ原だったらなおさらいいはずのその場所がどこだったのか、が当面の課題となろう(現段階で私は、川向こう、とりわけ当時存在していたテヴェレ川の大湾曲部分が最適ではと密かに思っている)。

 また、先行研究者たちによってオスティアの集合住宅から居住者数が想定されてきているのだが、このような諸事情を勘案するなら、奴隷以外の、解放奴隷やローマ人たち、それに貿易に従事して地中海各地から往来していた非ローマ人たちの滞在状況も、現代の海岸のリド・ディ・オスティアでの観察から、ヴァカンツァ期の夏以外多くの集合住宅が無人化し、スーパーも休業して街自体が閑散化していることから連想して、貿易商はもとより、役人・商人たちも同様に相当規模で年中行事的にローマや本拠地とオスティア間を人口移動していた、と想定してもあながち間違ってはいないような気がする。要するに立派な居住家屋も季節使用されていたに過ぎなかったのでは、というわけである。

 そこからさらに、オスティアでの社会インフラ、とりわけ特徴的な多数存在する公共浴場や大規模な製パン工房なども、繁忙期を想定してのそれであって、閑散期にはその多くが店じまいしていたはずという結論が容易に導かれるのであ〜る。

 ただし、そもそもオスティアは創建以来状況の変化の中で都市機能的にずいぶんと変容してきた挙げ句、最後は大理石やトラヴァーチン、ついでにおそらく焼成レンガなどの建築資材の石切場・採掘場となる運命を辿っているからには、二〇世紀における発掘状況で姿を現したその都市景観はその最終段階の姿に他ならないわけで、要するに転用や放棄・破壊を蒙ったあとの景観から、往時を再現しようとするには慎重な配慮が必要とされねばならない。たとえば私など実は、オスティアはポンペイに比べてバール関係がやたら少ないことに不審を覚えたものであるが、それも5,6世紀の都市凋落期の姿とすればなんとなく納得できるような気がしないでもないのである。それにしてもあまりに少ない気がするので、別の仮説を加味すべきだと思っている:現段階では、オスティアは基本的な都市機能が一般市民を前提とした消費都市ではなく、なによりも特殊港湾都市であり、そこに集住していた主要構成員が奴隷であるという特異事情、すなわち、基本的に廉価な賄いで養われていた身分層からなっていたせいでは、と考えている。奴隷には身銭を切っての購買能力が、お目こぼし程度にはあったにしても、基本的に備わっていないはずと考えるからである。

 サァテかくのごとき珍説、いつものことながら、はたしていつになったら真面目に取り上げられることになるのやら、もって瞑すべし。

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その昔、山本七平がいた:先達の足跡(7)

 最近、研究者仲間から「いまどきの学生は映画ベン・ハーもしりませんから」と聞いた。今でも時折放映されているにもかかわらず、そうなのだそうだ。私が幾度となく見てきたそれは、3度目の映画化のもので1959年製作だったので、もう60年も前、私も多感な?中学生だったころになる。

 蛇足ながら、今やそれとだいぶおもむきの違う新作も登場しているが、それすら若い人がどれほどみていることやら:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC_(2016%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)。

 だから、生涯が1921年から1991年(享年69歳)だった山本七平を知る人も少なくなってきているのも当然だろう。その彼を最近私はしばしば思い出している。それは彼が『空気の研究』という小論を1977年に文藝春秋から出していたからだ。私はこれを読んで(出版後かなりたってのことだったと思う:手元には1983年発行の文春文庫版があるがこれとて古本入手だった可能性がある)、日本人は回りの空気に影響されて行動してきたし、これからもそうするはずだ、ということを勉強したのだが、最近ウェブ情報でこの「空気」という表現によくお目にかかるような気がしてならない。たとえば今日、こんなインタビュー記事があった。「自民党総裁選で見えるもの:社会の空気一変の怖さ」:(https://mainichi.jp/articles/20210917/dde/012/010/019000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article&cx_mdate=20210919)。

 あの文庫本の解説で日下公人は、山本の手で「戦中戦前の日本人の思想様式や行動様式が今も変わっていない」ことが提示され、「大正族や昭和ヒトケタ族にはその伸縮しない物差しの重要性と必要性はよくわかるのである。その世代は理由がよく分からない戦争に捲き込まれて、ひどい苦労をさせられたからである」と喝破している。昭和ヒトケタ世代すら消え去ろうとしている昨今、大多数を占めるに到った戦争体験のない国民に、どれほどの説得力があるか不明であるが。一抹の不安を感じざるをえない私である。いや私も昭和22年生まれの戦後族だが、池田内閣以前はまだなんとなく戦前・戦中を引きずっていた気配があった。なにせ復員軍人が社会の主要生産世代だったのだから。

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フォロ・ロマーノの「黄金の里程標」って何なのさ?

 エウトロピウスのラテン語訳を見直していたら、いまさらながらであるが、翻訳仲間からの指摘で妙なことに気がついた。ローマ皇帝たちの治世年月日の表記が基数と序数のごった混ぜが普通に登場することである(詳細は後日予定)。その流れで気になったのは、I.4.1 に2つ初出の「里程標」miliariumである(全10巻中に他に、I.5.2, 8.3, 15.2, 17.1, 19.2, 20.3, II.5, 8.1, 12.1, III.14.1, VI.6.3, 13, VII.15.1, VIII.8.4, IX.2.3)。ちなみにこっちの場合はいずれも序数(第〇〇番目)で表記されているのが特徴なのだが・・・。

 アッピウス軍道の第一里程標は、フォロ・ロマーノの基点から1480mのはずのところ、現在、3世紀後半創建のアウレリアヌス城壁に組込まれているPorta Appia(現サン・セバスティアーノ門)を出てすぐの所に設置されていたと想定されているが(但し、現在そこの民家の壁に塡め込まれる形で設置されているのはレプリカで、現物はミケランジェロによってカンピドリオ丘の再整備時に移設されている:ちゃんとレプリカ円柱の右隣の柄付碑銘板tabula ansata にイタリア語で由来が書かれているのを見逃すことなかれ)、ちょっと気になったのでフォルムからの直線距離をGoogleで確認してみたら、2960mもあった。逆に現在アウレリアヌス城壁付近から1ローマ・マイルの距離を遡ってみるとカラカッラ浴場を通り過ぎて大競技場手前止まり、という結果になった。

、白丸から白丸への黄線がアッピウス軍道の1ローマ・マイルに相当;、第一里程標のレプリカ;、カンピドリオの坂から正面向かって右にある本物
 同様に,北に伸びるフラミニウス軍道はほとんど直線なのでもっと分かりやすいはずだ。ミルウィウス橋は第三里程標とされているが、この橋から直線で4440m遡ってみると、ヴェネツィア広場手前付近で尽きてしまう。要するに、いずれもフォロ・ロマーノには行きつけなかった。あれれ、これは一体どうしたことか。
 この数字をみて、フォロ・ロマーノには「黄金の里程標」Miliarium Aureum なる里程標基準点があって(これは俗称で、「帝都里程標(基準点)」Miliarium Urbis が正式名称だった由)、ロストラ(演説台)の左側に位置しているという私のこれまでの常識が揺らいでしまったのだ(なお、対照的にロストラの右側には「帝都ローマ基準点」Umbilicus Urbis Romae があった:これも里程標基準点とよく誤解されているのでご注意ください)。

 いったいどういうことなんだと、逆走しての到達点、ヴェネツィア広場と大競技場手前をしばし眺めているうちに ・・・ おおひょっとしたら、と思いついたのがRomaのpomerium、具体的には前6〜4世紀初頭にかけて建築されたセルウィウス王のそれじゃないかと。で、それを地図で重ねてみると、あ〜ら不思議、まさしく合致しちゃったのであった。
「13」がPorta Fontinalis、「6」がPorta Capena
 フラミニウス軍道だとPorta Fontinalis、アッピウス軍道だとPorta Capenaからに相当するわけだ(但し、両門とも今は姿形もなく消えてしまった)。要するに里程標表示は、フォロの基点からではなくて、セルウィウス城壁・城門から先の距離だったわけで、日本語ウィキペディア掲載の「黄金の里程標」の説明の最後にそういう説もあると付け足しで述べられているが、そのほうが断然正しかったわけである。なお、あとからググって存在を知ったが、以下参照。3年前にすでに正確な情報をアップしていて、書き手のTatsuoさんの慧眼には敬服:http://roman-ruins.com/milestone/

 これは私にとって恥かきのとんだ落とし穴だったわけだが、じゃあフォロで見つかったという黄金の里程標って一体なんだったんだ?と。余計な知識があってそのせいで安直に考えて間違っていたわけで。諸説あるものの、どうやらそれは、前20年にアウグストゥスが軍道監理官curator viarumになったことを記念して創建されたもののようで(Dio, LIV.8.4)、大理石を金メッキされた青銅で被い、各々の軍道が始まる城門から重要都市に至る里程が記されたものだったようで、少なくともそこが軍道の基点になっていたわけではなかった、という事情が判明(ここでは一応「基準点」と表記しておくが)。
 いずれにせよ、私のように文字情報に踊らされて分かった気になるのではなく、やっぱり具体的に実地に数字化して確認してみるものである、こらお前、これでプロといえるか、と今さらの如く反省した次第。

 以下参照:https://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/romanforum/milliariumaureum.html;https://it.wikipedia.org/wiki/Miliario_aureo
、フォロ・ロマーノ西端のロストラを挟んでの両基準点の位置;、帝都ローマ基準点跡、本来円錐形だったらしい。背景はセプティミウス・セウェルスのアーチ門(下の左の写真でそのアーチ門左にもっともらしく円錐形の先端が描かれている)
、里程標基準点の復元想像図(里程標の形式を取っていた);、その残存遺物

【付記1】今読んでいるユウェナリス『サトゥラェ』III.10に「水の滴るカペーナ(の門)の古いアーチのところで」との文言をみつけた。ユウェナリスは後60-120年の人なので、当時すでに古色蒼然としていても不思議ではない。

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古代ローマ時代、男女のやや異なる食生活判明

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2021/08/new-research-shows-men-and-women-of.html

 といっても、ポンペイ近郊のヘルクラネウムでの事例だが。その遺跡では、人々が火砕流からの避難場所を求めていた海岸と平行に走る9つの隣接したフォルニチfornici(石造りの地下室)から、合計で340個体が発掘されている。今回そのうち17遺体のタンパク質の構成要素であるアミノ酸を分析した結果、これまで考えられていたよりもはるかに詳細に、同時代に生きた人々の食生活を復元することができた。

ただし、現場で公開されている遺骨はすべてレプリカ

 男性は女性に比べて食事中のタンパク質の約50%を魚介類から摂取していること、また、男性は女性に比べて穀類から摂取するタンパク質の割合がわずかに高く、女性は動物性食品や地元産の果物や野菜から摂取する割合が高かった。すなわち、男性は、漁業や海洋活動に直接従事する可能性が高く、一般的に社会の中でより特権的な地位を占めていた。また、早い時期に奴隷から解放され、新鮮な魚のような高価な商品をより多く手に入れることができたからだろう、とは研究者の言。

 研究チームは、この新しいアプローチを用いて、古代の食生活をより正確に定量化し、最近の栄養記録と比較し、ヘルクラネウムの食生活では、動物性食品が主流となっている現代の地中海沿岸の平均的な食生活と比較して、魚介類の貢献度が高かったことを示唆している。一方、穀類の摂取量は古代と現代でほぼ同じ割合でした。詳しくは以下参照。

https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abg5791

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半ミイラ化遺骸、ポンペイより出土

 2021/8/17公表:ポンペイ遺跡区画の東端の「サルノ門」Porta Sarno外の、ヴェスヴィオ周遊鉄道の先にあるネクロポリスを調査中の発掘隊が、「M.Venerius Secundio」の墓銘碑を有する中規模の石造墓の奥から、一体の遺骸を発見した。骨格分析から60歳以上の男性と判明したが、当時火葬が普通のところ、半ミイラ化した土葬遺骸の出土はめずらしい。ポンペイ埋没の数十年以前の埋葬。

このネクロポリスは遺跡区画東端のさらに東で、写真の撮影地点あたりの新発掘で出土した:現在未公開
、件の墳墓                  、墓標

 銘文は私の読み取りだと以下のごとし。「M VENERIVS COLONIAE / LIB SECVNDIO AEDITVVS / VENERIS AVGVSTALIS ET MIN / EORVM HIC SOLVS LVDOS GRAECOS / ET LATINOS QVADRIDVO DEDIT」:「M.Venerius Secundio、 植民都市(ポンペイ)の解放奴隷、(女神)ウェヌス(神殿)の、アウグストゥス(礼拝団)の番人、そして彼らの従者【min(ister) 】、彼は単独でギリシア語とラテン語の(演劇)諸競技を4日間にわたり提供した」。遺骸の頭部には毛髪と左耳の耳たぶも確認できた。

 被葬者は、死亡時には解放奴隷になっていたが、たぶん前歴がポンペイ市所属の公的奴隷だったのだろう。同時に女神ウェヌス(ポンペイの守り神であった)神殿と、アウスグトゥス礼拝団の番人を兼ねた従者として終生勤務していたと思われる。そしてまた、ギリシア語とラテン語の競技を4日間主催したことからも、そこそこの経済的上昇を果たすことに成功し、こうしてポンペイでギリシア語演劇が上演されていたことを実証した初めての証言者ともなった(ポンペイでは奴隷や売春婦がギリシア語を話していたという記事あるので、当たり前といえば当たり前なのだが)。またこの墓地の囲い内からは二人の火葬墓(遺灰壺)も出土し、その一つが「Novia Amabilis」と刻まれた人型墓柱columellaを持っているので、それはたぶん妻のものと思われている。

 霊廟奥の小墓室の遺体    頭部は枕の上に置かれている。耳たぶ↑

 他にも興味深い出土品があるがここでは触れない。とりあえず以下を参照されたい。http://pompeiisites.org/en/comunicati/the-tomb-of-marcus-venerius-secundio-discovered-at-porta-sarno-with-mummified-human-remains/

 私的に興味があるのは、2点。ポッツオリで活躍したリタイア銀行家で、書写板出土で著名なL. Caecilius Iucundusの邸宅(V.1.26)の、その書写板にもこのVeneriusは登場しているとのコメントがあるのだが、現在まだ未確認。第二は、墓碑銘中の「MIN / EORVM」にちょっと突飛な別解釈あって、旧約聖書の「ヨブ記」11.1, 20.1に登場する「ナアマ人ツォファル」(新共同訳表記)との関連を探って、我らのVeneriusをユダヤ教ないしキリスト教と関連する東方人種(ならば土葬も合点される)と見るわけである。また、後世のアウグスティヌスとヒエロニュムスでは,彼らをファリサイ派が異端視しているナザレ人と関連づけている由だが、さて。

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女性専用トイレがなくなる?

https://mainichi.jp/articles/20210814/k00/00m/040/070000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=article&cx_mdate=20210816

 というのはちょっと大袈裟か。小規模事業所での設置基準を見直そうという動きに対して、だけどどうもうまく動いていないようだ。

 労働安全衛生法に基づく1972年制定の「事務所衛生基準規則」というのがあって、トイレは「男性用と女性用に区別する」と明記されているのだそうだ。50年も前のこの法律は、車椅子やオストメイト(人工肛門利用者)に対応したバリアフリーのトイレや、性別を区別しないトイレがカウントされず、要するに時代遅れになっていた。

 2018年から再検討を始め、今年3月に現行の内容を原則として残しつつ、「同時に就業する労働者が常時10人以内」の場合は、男女兼用の「独立個室型」トイレを一つ置けば済むことを特例として認める考えを示した。これは今はやりのマンションを事務所に使うような場合も想定していたようである。

 それに対して、予想外の、女性トイレをなくすなという反対が出てきているそうで。全部なくなるというわけではないのだが、やっぱり女性には共用は忌避観あるようで。

【追記】ググったら、2015年にすでにこんな情報が載っていた。筆者はトランスジェンダーの方らしい。「男女共用トイレの話 [性社会史研究(一般)]」(https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2015-04-10-5)。ここでは証拠としてあげられている明治40年の新聞挿絵を転写しておくが、筆者の言では、「こういう状況が1950年代までは確実に続いていたし、その名残りが1970年代まであった」とのこと。歴史は回り、装いを新たにして、その状況に復帰するだけのこと、としている。

1907年(明治40)の「公設便所」の状況。左から男性、女性、男性。

 私の体験記:今をさる40年以上前、1978年に岡山県津山市の女子大・短大に就職したのだが、赴任直後の四月に中国縦貫道を観光バスに乗って姫路城へのバス旅行があった。そして城内の公衆便所に入ってみると中央通路の一方が上図のようなコンクリート製の古典的男子立ちショントイレで、他方が木造個室の女性用(および男子大用)が並んでいて、まあ当時はそれが普通だったにせよ、今回はいやしくも赴任直後の女子大の威厳あるべき新任教員であるのに、押し寄せ列をなしている教え子たちの嬌声を背後に立ちションさせられて閉口した記憶がある。ひょっとするとお互いさまだったかもだが。

 こんなブログもみっけ。「男女兼用トイレmp3-mp4」(https://www.sm3ha.ru/song/%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%BC%E7%94%A8%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC.html)。かつて紹介したことある(2020/8/23)スケスケトイレの「検証 スケスケの公衆トイレ 用を済まして確かめてやる」(https://www.youtube.com/watch?v=VoROw7wVdss)をみる目的で行ったので誤解なきよう。それにしても最後には驚かされた。たぶんやらせでしょうが。

 最近、こんな情報も。「「男女共用」ではなく「すべての性のトイレ」がアメリカで広がるわけ」(https://tripeditor.com/435064)。この立場からすると女性用トイレに反対する人たちにはトランスジェンダーの人たちへの配慮がない、ということになるが、いかが。

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「焼き場に立つ少年」の検証をめぐって

 米軍海兵隊第5師団所属軍曹のカメラマンで当時23歳のジョー・オダネル Joe O’Donnell氏(1922-2007)が長崎で撮影した私的写真(1989年公開:そもそも第5師団は福岡・佐賀県占領を担当だった由:長崎県は同第2師団管轄)をもとにしたNHK ETV特集「“焼き場に立つ少年”をさがして」をみた。これも昨年の再放送だが、未見の人にはお勧めする。NHKオンデマンド(単品¥220)で見ることできる。

彼は7か月(1945/9-1946/3)の任務を終え帰国、1949年からホワイト・ハウス専属カメラマンとして勤務、トルーマンからジョンソンに至る四代の大統領を撮影する任務に就いていて、ケネディ国葬の日が3歳の誕生日だったJFKジュニアの敬礼写真を撮ったのも彼だそうで、その筋では著名人だったようだ(但し、異論・反論あり:【補遺4】参照)。

 NHKのそこでの追跡の仕方が歴史学研究に通底していて、そっから始めるか、といささか興奮。米軍が北九州で撮影した4000枚の中から、まずオダネル撮影分127枚を摘出。それを時系列的に並べて、彼が担当地福岡・佐賀以外の長崎へ行った可能性(写真のない空白期日)を割り出すと、1945年10月13−17日あたりが該当。夕方でフラッシュを焚いているので曇りの日となり、気象台資料から15、17日にさらに特定【後日談:でも彼の上陸港は佐世保で、大村に師団本部があったという記述もあり・・・。参照、【補遺1】の吉岡、それにオダネル『トランクの中の日本』】。

 写真の分析はさらに進み、洋服だと男性は右前のところそうなっていないし、胸の名札は普通左胸に位置していたので、あの写真は左右反転であること(住所や名前は読み取れず:後から考えてみると、意図的に消された可能性あるかも)、さらにはカラー化のプロセスで、少年の鼻の中に布片の詰め物が認められ、また写真の左目の白眼の様子から出血痕が見て取れるとし、そういった白血病(血小板減少)の症状の被爆量(含む、2次被爆)の想定から被爆後2か月あたりまでと判定。

、反転させた写真;、カラー化したもの(いずれもウェブから入手)

 回りの風景からも焼き場の位置を想定する。背景は段々畑風。石柱に刻まれた字は旧字体「縣」と思われるがそれ以上の追求はできなかった由(この石柱は何らかの公的な境界表示と思われるので、その意味で重要証拠のはず。よって私にはあの程度の調査では納得できない)。足元の電線は電車用の通信ケーブルで、その手前の石垣は線路沿いによくあった加工石材と鉄道関係者が証言を寄せる。こういう風景全体から旧国鉄長崎本線の大草・長与駅と道ノ尾駅の間の線路の上側に少年が立ち、被写体までの距離1.8mで撮影、と絞られていく。となると当然、長崎の爆心地(浦上)付近での撮影ではなくなる、はず(すなわち、NHK想定撮影地は爆心地から直線で3.4〜5.1kmと距離がある:少年たち兄弟はもちろんそこで被爆したわけではなく、どこかで被災して移り住んできて暮らしていたにすぎなかったのかもしれない)。

、3Dでの環境再現;、放送製作者が撮影現場と同定しているかのような映像(NHKオンデマンドより:著作権的にやばいですが、参考までに一時的に掲載してみました)

 別情報では、少年の名前も実名候補が挙げられているが、どうも間違いだったようだ。上述の想定場所とすると、撮影者オダネル氏がどうして長崎の手前で列車から降りて(ないしは帰り際途中下車して)、高台から見下ろして焼き場を見つけえたのか、そして線路の下側すぐに焼き場があったことになるが、はたしてそんなことあるのだろうか、私には謎である(http://leoap11.sakura.ne.jp/iroiro/new/yakibanitatushounen.pdf)【後から入手した『トランクの中の日本』によって、ジープや馬を使っての撮影行と判明】。また、オダネル氏の手記によると、血が滲むくらいきつく唇を噛みしめていたのなら、なぜその出血(これも口内出血を含め白血病の症状)をカラー復元していないのか、疑問(これはたぶん、出血が認められなかった、すなわちオダネル氏の報告が誇張だった、との判断か)。

以下は、2019/8/10 日テレのもの(ウェブから入手)。

 いずれにせよ、オダネル氏のシナリオに従うと、この少年も弟も、おそらく以前紹介した戦災(原爆)孤児だったのでは。敗戦後2か月、とうとう弟は死んだ。そして彼自身も白血病でおそらくは・・・。https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_22.html;http://www.kirishin.com/2019/11/22/39020/;https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2019/08/c06351757f3044e5ff1ed8f8da500642.pdf

【補遺1】2021/8/17:ようやく入手できた吉岡栄二郎『「焼き場に立つ少年」は何処へ』長崎新聞社、2013/8/9、p.28掲載の図版2「オリジナル密着プリント」をスキャンし、反転させ、露出を明るめに加工したもの。

 吉岡氏は、オダネル氏の数々の矛盾する証言を(上掲のp.24-5で早くも「一説に、オダネル氏は一九九〇年ごろより認知症の兆候が見られたという記述がある」と紹介:そこまで言わなくても、45年間という歳月は、健康人でも記憶の混濁は生じて不思議はない。但し、1990年ごろというと彼が写真の封印を解いた直後からとなる。彼が国の裏切り者と非難され出し、それらに対する抗弁のあげくの言説の揺れだったのかもしれない)、現地調査や地元の生存者の証言とつき合わせて5年間かけて検証し、結果、場所も個人も特定できず、この写真の意義を「写された特定の場所や人にあるのではなく、時間を超越した”象徴的な含意”にある」と結んでいる(p.104)。私もそれでいいのだろうと思う。そもそも、米軍や日本の撮影隊によって写された被爆者の姿は、ほとんど身元が判明しているが、ことこの写真に限っては、写真集やテレビでも紹介され全国的に反響を呼んだにもかかわらず、少年も場所も未だ特定されていない。彼が地元民ではなく敗戦間際の戦災移住者で、戦後まもなく死亡したかどこかに移動した可能性すらある、はずだ。

 結局、2019年のNHKの特集での新味は、場所を旧国鉄長崎本線の道ノ尾駅から大草駅間に想定している点にある。あらかたのことはすでに吉岡氏叙述の中で検討されていた。

現在発注中の以下がまだ未入手だが(ジョー・オダネル著/ジェニファー・オルドリッチ(聞き取り)/平岡豊子訳『トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録』小学館、1995年;ジョー・オダネル写真・坂井貴美子編著『神様のファインダー:元米従軍カメラマンの遺産』いのちのことば社、2017年)、参考までにこれもやばい写真を一時アップしてみる。オダネル氏に同行した通訳が(あるいは、役回りは逆か)釣り竿を持った少年に振り付けしている場面のように思われる。ここでも少年は軍隊式にピシッとみごとなまでに直立不動を決め、素足である。彼の名前は判明し、生存も確認された:西依政光くん。ただ撮影場所は長崎市内ではなくなんと佐世保(長崎県内ではある)のようで、西依くんは6月にそこで空襲を受けずっと防空壕住まいをしていた戦災孤児だった(https://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=KDT0401600)。となると、オダネル氏がたとえ「NAGASAKI」といっていたとしても(日本の現地名にうとい米人による聞き取り調査・編集の場合だと一層)、それは長崎県域の佐世保、大村、諫早などを意味している可能性は十分あったはずだ(それを吉岡氏も指摘している:pp.52-56)。

「原爆の夏 遠い日の少年:元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い」BS-i、2004年制作より。このとき西依さんは67歳の由で、だったら1945年は8歳となる勘定。オダネルとの再会後の彼の言葉があまりに印象的なので、無断引用で孫引きします。(https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=790&id=21960869)

覚えてるっちゅうより その この人たちが こがん殺生ばしてしもたか 焼け野原にしたちゅうことに 全然そこまで考えんちゅうか ただ 家が焼けたちゅうことだけですよね
進駐軍が敵ちゅうことなんか ぜんぜん考えんですもんね その時分は この人のために 家が焼けたとなんたちゅう
そしてもう 遠か親戚ば頼って あっちに一ヶ月 こっちに一ヶ月ちゅうてですね 住みながら ずーっと 
とにかくもう裸一貫ですからね もうなんもなかですからね 着替えもなんもなし 下は履くもんもなしですね
もうほんと しかし あの時期がいちばんよかったですよ
今の時分でなく あの時期がいちばんよかったですよ なんも心配しなくてですよね

【補遺2】 以下をみつけた。2006年製作・NHKスペシャル「解かれた封印:米軍カメラマンがみたNAGASAKI」49分(http://kazh.xsrv.jp/?p=9068;https://ameblo.jp/creopatoran/entry-12503687701.html)。この録画も是非みるべきだろう。そこでは、オダネル氏の離婚した最初の妻との間の長男タイグTyge O’Donnell 氏が登場し、1989年以降の写真公表による父の苦悩がより深く描かれている。そこで強調されていたことに、彼が第5師団管轄外の長崎県域(さらには廣島、宮崎)で軍に無断で私的に写真を撮影し、密かに持ち帰っていた(公用写真はすべて軍に提出が義務づけられていたので、有り体に言って,軍規違反)、ということがある。戦場や冷戦下での情報秘匿という意味もあったのだろうが、そういう状況下で彼が撮影した写真はネガ状況で300枚はあったらしいが【『トランクの中の日本』p.4-5】、帰国後母に見せようと点検し、あまりにも悲惨なものは捨て、トランクを封印した【『神様のファインダー』p.43-45】。また、米国内で彼を非難する声もかなりあって彼を精神的に追い込んでもいたし、それが原因で離婚に繫がった由。

【補遺3】コメントで寄せられた高橋様のご指摘に導かれ、私なりにGoogle Earthで想定場所を眺めてみた(3D)。土地勘のまったくない私でも臨場感が味わえる、ありがたい時代になったものだ。

線路の手前は現ローソンとその駐車場:撮影場所は建物の右あたりかも
あの写真だと、単線の線路のすぐ上の段に少年は立っていた、はず。焼き場は線路を越えて現在ローソンの駐車場となっているあたりだったのかもしれない。踏切左の箱に「西高田踏切」の表示が読める。テレビ撮影時に向こうの山裾にあった2階建ての家がすでになくなっていて、その変化に驚かされる。手前中央の小川(用水路?)は手前方向に135m流れて(一部暗渠化?され)浦上川に至っているようだ。

 2021/8/19 0時 原爆孤児のことをNHK ETV1「ひまわりの子どもたち:長崎・戦争孤児の記憶」でやってます。例の銭田兄弟たちが出演して、例の向陽寮(長崎市岩屋町666番地)での生活を話しているが、被災孤児の生き抜くための生き様がきれいごと抜きで述べられていて(盗みとか)興味深い。また、出演者たちはある意味勝ち組であり、いずれも男性のみということから、一人も登場しない女性孤児たちのその後の運命の苛酷さをつい想像してしまった。

【補遺4】オダネル氏認知症ないし「妄想虚言癖」疑惑問題

 aburaya氏のブログ(2013/10-2015/11)を見つけてしまった。彼は写真資料に興味をお持ちの方のようだ。以下はその最初あたりからの転載:https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11634614592.html?frm=theme

 aburaya氏は最初は単に焼き場に立つ少年の子守姿や直立不動を他の写真と比較することから始められたようだが、それからじゃんじゃん思索が深まっていっているのが興味深い。たぶんオダネル氏の写真を求めてググっているうちに米国ウィキペデイアに行きつき、禁断の文言を知ってしまったのだろう(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11647428622.html?frm=theme)。そっからは一気呵成で、日本のメディアが(実は知っていて、だが視聴者を意識して美談仕立てにするために)触れるのを避けてきた問題に容赦なく突入する。いや単に邦訳しただけなのだが,その破壊力たるやメガトン級である(https://ameblo.jp/nagasakiphotographer/entry-11666636231.html)。そのへんをオダネル氏の息子や4度目の再婚者坂井紀美子氏がどこまで事実に肉薄して書いているのか、発注中の本が届くのが待ち遠しい・・・【本が届いて読んだのだが、まったく触れていなかった。彼の死後のことなので、後書きとかで触れてほしかったのだが、売れ行きにも関わるので出版社は触れてほしくなかっただろうが】。

 実はいつもの悪いクセで、私も弟はただ寝ているだけじゃないか(だって、aburaya氏の写真のように、生きていても背後に首折れて口も開けて寝ているのが普通なんだし)、とか、戦災孤児であれば栄養失調で足がむくんでいても当たり前だろう、といった疑問は思いついていたが、そんな突っ込みをみだりにおこなってオダネル氏を誹謗するのは避けたいとの「忖度」がこれまで働いていたのだが、さてさて。いつもながら事実は残酷である。

 現代史ではかくのごとく、否応なく本人にとって知られたくなかったり、痛くもない腹を探られたりして、有象無象の「事実」があぶり出されてくる。なにしろ当事者や利害関係者がまだ生存しているのだから、異論が出てこないはずはない(事実は一つではなく、目撃者の数だけある)。オダネル氏の言動への疑惑が表面化したのは、なんと新聞に彼の訃報が生前の業績とともに掲載されて、それを読んだ読者から、あれは違う、自分が撮った写真だ、おかしい!という投書が寄せられたことが発端だった由)。

 2000年前の古代ローマにおいても実情は同じはずなのだが、すでに都市伝説化し俗耳にはいりやすい言説や美談が再生産されている面もあることを失念してはならない。証拠がないのではなく、失われてしまった、ないし抹殺されてしまったに過ぎないのだ。史料が「ない」がゆえに、そんな事実が本当になかったとはいえないのである。むしろ仮説的にではあれ、複数の「あった」可能性を常に念頭に置きつつ、周辺情報を突き合わせて「より」客観的な「事実」をめざすべきなのである。さらにややこしいことをいえば、史料が残っていたとしても、それは意図的偽造ないし意図せざる誤解だった場合もあるのだ。プロの歴史学徒であれば「事実」を暴く勇気を持たねばならない、はずだ。それは同時に自らの足元を崩すことにも繫がりかねない営みなので、凡百の徒は足を踏み入れることなどせず美談に逃げ込んでお茶を濁すのが通例となる、のだが。

【後日談:2022/7/12】なぜかここ数日この記事が読まれているようなので、あれから一年また敗戦記念日が近づいたせいなのかと思ったりもしたが、関係記事を追跡する気になってググってみたら、上記検証でお世話になった高橋さまのブログを見つけることができたので、関心お持ちの方はご一読ください。M高橋「「焼き場に立つ少年」の謎の撮影場所を徹底検証する」2021/8/19(https://nagasaki1945.blog.jp/archives/10658149.html)。新事実を含め執念の論究と拝見しました。高橋さまとの往時のやり取りは「コメント」をご覧ください。2021/8/25あたりでこの問題への私の仮説を提示しています。

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