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ポンペイ近郊で二人の遺体発掘

 この情報、横文字で知っていて、アップしたつもりだったが・・・。日本語出たのでご紹介する。「伊ポンペイ遺跡で2人の遺体発掘 ベズビオ火山噴火の犠牲者」https://www.afpbb.com/articles/-/3317278?cx_part=logly

 ここでも無反省に、40歳の主人と若い奴隷、という物語的解説を発掘者がしているが、どうだろう。あざといことだ。

https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/11/the-bodies-of-cloaked-man-and-his-slave.html

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ボクシング? またはパンクラティオン?

 まだ会員を辞めていない某学会で月報にオリンピックゆかりの短文を書かないかと言われ、かねて気になっていたボクシングに触れてみるいいチャンスと快諾した。そして4葉の写真と1250字の原稿を送ったばかりである。

 さっきテレビをつけたら「大いなる西部」(米国・1958年)をまたやっていた。そこでちょうど、東部の優男役グレゴリー・ペックと西部の牧童頭役のチャールトン・ヘストンが殴り合いをする場面があって、まあだいたいは顔面攻撃に終始していたので、昔見たときはなんで顔だけなんだ、腹とか脚とかをなぜ攻撃しないのか、と思ったものだ。今回、これって本当は古代的なボクシングの名残ではないか、と思い至った次第。

 私はもちろんボクシングについてまったくの素人である。ググっての付け焼き刃で、耳の後ろが急所だと書いてあるのを見つけて、やっぱりプロは違うなあと感心した。後述のマンガでも、近代拳闘では禁じ手になっている「腎臓打ち」があると出ていた(コミック版『暗黒伝』第5巻、29-30頁)。こういった格闘技は急所を知らずして本当は論じられないはずなのだ。

この居酒屋の床モザイク全体の俯瞰図:John R.Clarke, Roman Black-and-White Figural mosaics, NY, 1979, Fig.58.

 なお、上記月報に掲載したかったができなかった写真を載せておく。掲載できたのは、上掲のオスティア遺跡のIV.vii.4「アレクサンデルとヘリックスの居酒屋」Caupona di Alexander e Helix で、出土場所で現場保存されている白黒舗床モザイクで(但し、もちろん修復は入っているはず)、3世紀初期の作だが、それにはめ込まれている人名(ALEXANDER, HELIX)と同名の二人が別所でも登場しているのが下図で、なんと私はこの件をオスティアの案内板で初めて知った、という体たらく。

バイア城カンピ・フレグレイ考古学博物館所蔵:私は何度も訪問しているが迂闊にも出会った記憶がない

 この白黒舗床モザイクは、縦3.8m、横6.9m、三世紀前半の作で(すなわち、期せずして前出オスティアのと同時代となる)、1998年にポッツオリ(旧プテオリ)北東、メトロ駅とparco Bognarの間で、Enel S.p.A.の配管架設工事のとき出土した邸宅からの出土品(通称、villa del suburbio orientale di Puteoli)。

発掘時状況:a cura di C.Gialanella, Nova antiqua phlegraea, Napoli, 2000, p.52.

 問題の人名だが、ここでの4人の登場人物のうち3名のそれが残っている(もう一人ももとはあったのだろう:枠線が途切れている破損部分でもあるし)。現況では、左端が「ELI.X」、 一人おいて3番目が「MAGIRA」、右端が「ALEANDER」と埋め込まれている。それをオスティアを前提に、私などは左端を一応「(H)ELIX」と読み込むわけだが、別説ではその人名の右端に短いが勝利のオリーブの小枝が描かれていること、人名も末尾が「.X」と標記されているので、勝利数10回を表しているとする見解もある。ただこの別説、他の3名についてはそういった標記がないのですぐには納得しがたい。むしろ左2名の文字部分は後世の誤った修復結果のように思われる。それに、頭上での字のバランスからみて、もともと「ELI」の冒頭にもう1字あった可能性が高い(同様に右側の「MAGIRA」も末尾に1,2文字あったかもしれない)。

 また、彼らの容姿を見ると全裸で、拳を握っているだけでグローブをはめているようには見えないので、拳闘士というよりも、総合格闘技のパンクラティオン競技者のように見える。となると、我々にはボクサーに見えたオスティアの両名も実はパンクラティオン競技者だったのか、それとも競技者にとって両競技のどちらかに常に特化していたわけではないのか、もしれない。

 ところで、舞台の中央には背の高い円柱がある。円柱の前に長いナツメヤシの枝があり、これもしばしば競技の勝利者に添えられるモティーフである。円柱の上にクッションが3つ並んでいて、その上に賞金の包みが1つ置かれ、「CL」と書かれた碑文により、その金額が150デナリウスであることが分かる(下記【補論1】での換算では、約20万弱)。競技の図案には同様の賞金が時に見られる。数字が書かれている場合、賞金額と想定でき、当時の実際を再現することができて興味深いので、いずれまとめてみたいテーマである。

L’Italia meridionale in età tardo antica,Napoli,1990,Tav.LXVIIより

 更にそれらの上には、長方形の小さな柄付きパネルtabulae ansataeがあって「ISEO EVSEBIA」と書かれている。これは競技が開かれたのがイシスの神域におけるエウセベイア競技を指し示すものと想定されている。イシス神殿は町の西郊外、今は海中に没している海岸のどこかにあったと想定されている。「エウセベイア競技」というのは、皇帝アントニヌス・ピウス(在位:138-161年)がキケロの別荘があった場所に、138年にバイアエで死亡した前任皇帝ハドリアヌスを一旦埋葬したが、その養父を記念しプテオリの競技場stadiumにおいて、五年ごとに開かれていた大会のことである(https://www.napolidavivere.it/2019/09/07/visite-gratuite-allo-stadio-romano-di-antonino-pio-a-pozzuoli/;藤井慈子『ガラスの中の古代ローマ』春風社、2009年、211、216-7頁)。

プテオリ・グループの「景観カット付球状瓶」の書き起こし:最上段左端に「STADIV[m]」が見える。2008年の発掘によると馬蹄形U型の開口部は逆に右となっている;下図参照。
右の写真は、左図の赤印部分を右下から写した視点

 モザイクに帰る。下の方、円柱の左側に青銅製のモデルをかたどったクラテールがあり、中にはパピルスの花穂が二つ入っている。その器は賞品なのか、オリーヴ油ないしは競技者たちが自分の体に振りかける細かい砂の入れ物なのか、または対戦相手を決めるクジを入れていたものだったのか。オスティアの場合も、パピルスの花穂と大鉢が登場している。

 ところで月報原稿作成のためググっていたら、技来静也という漫画家が、1997-2009年 に『拳闘暗黒伝CESTVS』(コミック版で15巻)、2010-19年に『拳奴死闘伝CESTVS 』(同9巻+継続中)、を書いていることを知り、慌てて購入した。漫画のストーリーはともかく 、巻末に関連コメントもあってこれがなかなかでスミにおけなかった。 漫画家といえども侮れない、というかむしろあちら様のほうが、読者数的には研究論文をはるかに凌駕しているので、我ながら何やってんだかと思ってしまう。 才能がない者は黙って引き下がるしかないが。 

 このマンガがらみでひと言付け加えておこう。このマンガの作者は当然のこと、当時の民衆がなぜこういった格闘技に熱中したのか、にやすやすと言及していて、私にはとても愉快だった。というのは、どこかで書いた記憶があるが、このテーマを専門的に追究しているはずの我が国の(そして彼らが依拠している欧米の)古代ローマ史研究者は、それについてほとんど核心に触れえていない現実があるからだ。桜問題同様、どう言い繕おうとエビデンス(え〜、わざと書いてます)はどちらにあるのか、隠しようもなく明白のはず。マンガのほうが自称研究者たちより先をいっているのである。とはいえ、民衆の熱狂や関心がただそれのみにあったと言い切れるほど事実は単純でなかったことも確かであるが。

『拳闘暗黒伝』第一巻表紙と、その第三話「帝都ローマ」より

 まったくの別件だが忘れないうちにここに書いておこう。古代ローマの裁判をググっていて、以下をYouTubeで見つけた。中央大学の試みで今から7年も前にここまでやってたのだ、と脱帽。 ここで史料となっている書字板はエルコラーノ遺跡の「二百年祭の家」出土。

 知の回廊 第90回「古代ローマの裁判」法学部准教授・森光監修・2013/02/03(https://www.youtube.com/watch?v=HrSRmDZ5FYc)  

 これからはこういった画像を利用したリモート授業がどしどし導入されるだろう。でも一定水準以上のアニメ作成のためには相当な資金が必要だ(中央大学ではたぶん業者、というよりも卒業生を相場より格安で活用しているのでは、と勝手に想像している)。でも一度作成すれ ば長期間有効に利用できるわけで。 同じ先生の公開講座「建物を通してみる古代ローマの社会と法」2017/04/04 もあった(https://www.youtube.com/watch?v=7opdWWJ7fws)。こっちでは、その感想コメントにもあったが、著作権のせいで、授業で使われた図面や写真がぜんぜん映っていない。これが大問題で著しく迫力不足。著作権問題をクリアーするための著作権代行協会なんかを文科省が作って垣根を低くしな いと、いつまでも文字重視から脱却できないだろう。視聴者数も伸びない(事実、前者19094回;後者1582回と、桁違いになっている:発表年代の長さの違いはあるが)。

【補論1】勝利者の報酬で一番著名と思われる、チュニジアの現Sousse博物館所蔵の野獣狩りモザイク(a.250 AD、Smirat出土)の中央で、給仕がお盆上に持っている4つの袋(その各々に無限大を示す記号∞が記されている)は、1000デナリウス×4=4000デナリウスの褒賞を意味している。スポンサーとおぼしきMagerius (左図の右隅上部に上半身のみ残存)と男女神を除いて,4名の闘獣士が登場しているので、一人当たり1000デナリウスとしても、アレクサンデルたちよりも相当に高額である。ちなみに当時の価格想定はきわめて困難だが(本音をいうと、どだい無理)、試しに1デナリウスを1250円としてみると、1000デナリウスは125万円、となる(中央2コラムの情報に関する検討は、別の機会に是非ともやりたい)。

 私が知っているので最高額は、シシリアはピアッツァ・アルメリーナの南側居室入り口脇の控え室の舗床モザイク「エロスとパンのレスリング」。賞金台上には勝利の若枝が差し込まれた容器が4つ置かれ、なんと賞金の包みは台の下に数字の真ん中や上に横棒付きの「XXII d」と書かれたのが2つ置かれている(なんで台の下なのか。賞金は付けたしというわけかぁ)。一説によると、あの金額は一袋「2万2000デナリウス」を示している由なので、合計なんと4万4000デナリウスとなる(上記換算では、5500万円)。競技者らしき姿は他に見えないので、4とか2が示す数字がなにを意味しているのか、とりあえず私には解せないのだが。

 同じピアッツア・アルメリーナの、反対側のクビクルムの「音楽家と演劇者の競技」モザイクでは、上に横棒付きの「XII d」の袋が2つあり、各々1万2000デナリウス(1500万円)と想定可能である。上記ともども想定外に高額の賞金だが、これは天界でのことのせいか。

 もう一例手元にあったので。1987年チュニジアのGafsa出土で、そこの博物館所蔵のギリシア式オリンピック競技を描いたモザイク。4世紀初頭作(こら、男同士で手なんぞ繫ぐんじゃない! にしても、全体になにげにリアルな描き方で、つながれた男の緊張感抜けた腰つき、なんか匂ってくる画材だなあ(^^))。ここでは「XXV」と記した袋が4つ見える。25デナリウス×4=合計100デナリウスなのか(上記換算だと、12万5000円)、それとも各競技の勝者にそれぞれ25デナリウスなのか(3万円強)。いずれにせよこっちは安いのも、興行ではなくて神聖なるオリンピック競技のせいか。

【追記】ところで最後のモザイクについて、「ナツメヤシの若枝が賞金数を示しているでは」という質問がきたので。以下とりあえずご返答:「一番上段、左が徒競走、中央不明a、右不明b ;2段目、左が不明c、中央がシュロを持った優勝者たちと主催者たち?(目線は 右方向)、右も不明d ; 3段目は、円盤投げと、ボクシング、レスリング  ;4段目が、優勝パレード、パンクラティオン、主催者たちと賞金台、松明競走 。以上、想定10種目、不明のa-dが何かを、残存画像から定めないといけないが、 枝の数に連動させてそれを確定するのはちょっとできないように思う。た だ賞金袋は4つの背後にまだあると見るべきかもしれない。その時枝の数がヒントになるだろう。賞金台の下中央に何が描かれているのかも気になる。」

【補論2】今頃になって、アレクサンデルとヘリックス関係でようやく核心的な論文を見つけることができた。C.P.Jones, The pancratioasts Helix and Aledander on an Ostian Mosaic, JRA, 11,1998, 293-298.  いずれおいおい紹介したい(それに依拠して某学会の月報をいまさら修正するとしたら、アレクサンデルとヘリックスはパンクラティオン競技者とすべき、となる:根拠はよくよく見ると拳がグローブをしているように見えないから)。

 なおオスティアには他に競技者関係の数点のモザイクが遺存している。それにも集中的に触れたいと思っているが、さて。そしてポッツオリのモザイクの研究論文を探している。ご存知寄りからの情報を願っている。・・・と、これらは私にとって新開拓分野で、つい足を踏み入れて切りがないのが困りものだ。

 で、思い出したのだ。オスティアのモザイク文字で、死ぬ前にぜったい紹介しておきたいのがあったことを。それが以下だが、詳細と私の妄想はいずれ必ず(「あれ、まだ命があるつもり」と、陰の声)。

【補論2への追記】それらしき論文を2,3点見つけた。ひとつは、学会発表論文集所収の以下で、だが国内図書館に所蔵はないので海外発注するとしたらかなり高額となる。たかが25ページの論文に2万円。昔だったら即座に注文していたが、研究費がない身ではそうはいかない。個人的にお持ちの方からの連絡があると有難い。C.Gialanella, Il mosaico con lottatori da una villa del suburbio orientle di Puteoli, in:a cura di F.Guidobaldi-A.Paribeni, Atti dell’VIII Colloquio AISCOM, Firenze, 21-23 febbraio 2001, Ravenna, 2001, pp.599-624.

 連絡先は、以下です。よろしく:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp

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1981年のコロッセオ西側景観

 私は4年ほど前の論文集掲載論文(「記念建造物の読み方:コンスタンティヌス帝の二大建造物をめぐって」豊田編『モノとヒトの新史料学:古代地中海世界と前近代メディア』勉誠出版、2016年、pp.72-92)で、現在のコロッセオ西側景観について言及した。本文中にも書いたが(p.88)、実はかの場所の一画にはハドリアヌス時代以降ずっと方形区画の台座が遺存していた。それは1936年にムッソリーニによって除去された。地下鉄工事開始はその翌年のことである。その方形区画が1983年、というから47年振りに復元され、現在我々が目にする景観となっている。その方形区画の上には皇帝ネロが作った巨像が姿を変えながら、少なくとも5、6世紀までは立っていたのである。そして、主を失った台座はなぜかそのまま14世紀間遺存され続けた。

地下鉄工事は地上の遺跡構造物を紙一重避けていたことがわかる
上記二葉はウェブから拝借

 実は私のささやかな悪戯心で、「あれぇ、あんなところに方形区画がぁ? 行ったことあるけどそんなものありませんでしたよ」との、昔観光したことある読者からの指摘を虎視眈々と待っていたのだが、残念ながら未だ全然反応ないので(ど、読者数が圧倒的に少数のせいでしょう、たぶん (^^ゞ )、知らなかったと思われるのがしゃくなので、今回しびれを切らして台座復元前後の写真を掲載しておく。最初の二葉が1981年のもの、最後の一葉は台座が復元された後の1998年のものである。引用典拠は以下:R.Rea, Studying the valley of the Colosseum (1970-2000):achievements and prospects, in JRA, 13, 2000, pp.93-103.

左隅の路上の円形は、メタ・スーダンスの場所を示している
南からサン・グレゴリオ通りを走ってきた自動車道はそのまま北進できたわけ。但し写真を見るといかにもローマらしく北から南への一通だったようだ
現在、南からの自動車道は凱旋(アーチ)門手前で東に逸れていて、ここ一帯は車両禁止で公園化している:中央右の樫の木(この時は4本かと:拙稿執筆時に一本切り倒されていたことが判明して、慌てて修正した)の立つ箇所が件の基壇

 古都といえども景観は次々に変わっていく。それというのも、ローマが旺盛に現在進行形で生き続けている街だからだ。

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うん・どん・こん考

 今、以下を読み直している。河合潤『西暦536年の謎の大噴火と地球寒冷期の到来 』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年。この本は、表題以上に研究者たちの立ち振る舞いとか、研究手法への言及が多くて、それなりに読ませる。私にも思い当たることが多い。その中でいわく「研究とは地味なもので、ある程度頭が鈍くなければ、粘り強く継続できるものではありません」と(p.157)。

 そして思い出したのが、運・鈍・根、だった。私が大学一年時代、教養の英語読解を担当したのがなぜか文学部英文学科教授の田辺昌美先生だった。普通は教養部の語学教師がするのだが。ディケンズの『デビッド・カッパーフィールド』がテキストだったが、授業中時々妙なことを仰る人で、今でも覚えているのは、文字通りではないが、こんな調子だった。「君ら、川に橋が架かっているのはなぜだと思う。あれは人が渡りたいと願うから橋が架かるんだ」。まあ、逆転の発想とでもいうべきか。

 その彼のご自宅はたまたま私の実家の近くだった。一度だけ夕刻お邪魔したことがあった(そうなった子細は今は述べない)。すでに晩酌をかなり召されていた先生は、赤ら顔で、それがクセだったが目をつむり首を左右に振りながら「なあ豊田、研究者は運鈍根なんだ、知ってるかい」。18歳で知るわけはない。運が必要、鈍感でなければならない、根を詰める性格でないとだめ、というわけ。「お前の所の高山(一十先生:古代ギリシア史)、あれはかまぼこと呼ばれていたんだぞ」。板(机)に張り付いた肉塊、今風にいうとガリ勉という意味だったのだろう。その時思ったのは、自分は鈍ではあるが、もとより運はなし、性格的に軽佻浮薄で持続力もない、かまぼこなんて無理、こりゃだめだ、と。

 齢73にして思うのは、鈍ではあるし、尻軽も直っていないが、多少は運はあったようだし、年取ってきたらかまぼこみたいにパソコンの前に座っていて飽きないなあ、と。

 運で思い出すのは、津山の女子大で何かの時、学生の前で話す機会があったとき、これも英文の若手教師が「誰でも人生で大きなチャンスは3回はある、それを見逃したり、間違った道を選ぶと、それっきり。だから賢くあれ」と。なんだか職場朝礼での部長さんの訓辞めいていたけど、これもあとからなるほどなと。

カイロス(チャンスの神)には前髪しかない,それを掴め:後悔先に立たず
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これどこの?:トイレ噺(18)

 下の絵は、古代ローマのトイレ、具体的にはイギリスのハドリアヌス長城の駐留軍(正確には補助軍)陣地に設置された水洗(流水型)トイレの復元想像図です。

Housesteads遺跡で発掘されたトイレと復元想像図

 こんな絵を見た後で次の写真見たら、古代ローマのだと思いますよね。

 でも違うんです。上の2つの写真はアウシュビッツの強制収容所のトイレです。どうやら水洗式ではなかったようです。ある情報では10秒間で用を足すことが求められていたそうですが、むしろ私は落とし紙になに使っていたのか気になります(ご存知の方、教えて下さい:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp)。

 反論が出るかもなので、こういう水洗式が設置されていたすばらしい強制収容所もありました(皮肉です、念のため)、と指摘しておきます。

 しかしこれを知ったあとで、古代ローマの公衆トイレについての俗説(開けっぴろげで、一種の社交場でした、なんて)を信じることできるでしょうか。

【補遺】https://www.youtube.com/watch?v=hR2SR-2Pows:不潔なので監視も甘くなり、赤ちゃんの隠し場所となり43名助かった、とガイドさんが話してますが、一日2度しか行けない規則だったそうなのだが、赤ちゃんは乳を求めて泣かなかったのだろうか。なんだか作り話みたいな気がする。

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535/6年の天変地異:はじめに

 我孫子での読書会の参加者から、後535年に全世界を襲った天変地異について背中を押された。中国や日本もその記録あるかも、いやあるはずです、と。6世紀となると私の研究射程圏から大幅にはずれるのだが、押されたからには挑戦せざるをえない。それにこれまで目をつぶってきてはいたのだが、ローマ帝国の衰退を考える上で、2世紀末から3世紀半ばに地中海世界を襲った天然痘と思われる疫病をその1とするなら、第二のそれが、それだったと思われるからである(第三は、西欧中世の黒死病となるだろう)。

 私の山勘での予想では、第1の破綻でローマ宗教からキリスト教の台頭、第2でムスリム台頭、第3でプロテスタントの台頭、となる。しかし1と3はともかく、2のムスリムについてはド素人なので、なぜムスリムがとすぐに疑問が浮かんでしまう。これが目下最大の悩みどころである。

 ブログのどこかに書いた記憶があるが、地球上の生物はごく稀にではあるが、文字通り絶滅の危機に直面してきた(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/091600540/)。その結果、哺乳類および人類が現在地球上での覇者となっているわけだが、人類の歴史は今のところせいぜい500万年くらいで、1億6500万年に及んだ恐竜時代とは比べものにならないことは、よくよく認識しておいたほうがいい。次の一手で跡形もなく消滅する可能性もあるのだし、実際、これまで死滅の縁に追い込まれたのも1、2回ではないからだ。

 その一つが、紀元後6世紀、皇帝ユスティニアヌスの時代にあった、ということになっている。普通にはそれは「疫病」とされているが、残存している文書史料によると、どうやら疫病にとどまらず、いわゆる「核の冬」の特徴に酷似していた。そうなると当時原水爆はないので、想定されるシナリオは次の3つ。小惑星衝突、彗星衝突、そして火山噴火。その気になって、3年前に強制スリム化された書棚をチェックすると、それでも以下があった。デイヴィッド・キーズ(畔上司訳)『西暦535年の大噴火:人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』文藝春秋、2000年(原著: David Keys,Catastrophe: An Investigation into the Origins of the Modern WorldBallantine Books,  2000);石弘之『歴史を変えた火山噴火:自然災害の環境史』刀水書房、2012年;河合潤『西暦536年の謎の大噴火と地球寒冷期の到来 』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年。

 といった具合で表題を見れば、読書会のテキスト(ブライアン・ウォード・パーキンズ(南雲泰輔訳)『ローマ帝国の崩壊:文明が終わるということ』白水社、2014年)が小惑星の衝突とする主張と異なって、大勢は火山噴火となっているわけで、まあその線を素人ながら私も納得するしかない。あと関連参照史料で書棚に『日本書紀』はあったが、中国の『南史』『北史』は適当な邦訳は我が図書室にもない感じだ。O澤先生にでも聞こうかな。

 

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ローマ時代のエロ本?:遅報(50)

 奴隷関係をググっていたら、遅ればせながら偶然以下がヒットした。あれ、これまで気付いていなかったのはなぜ、というわけでさっそく古書で注文した。トゥリヌス(烏山仁・翻案)『ローマ式奴隷との生活』三和出版、2016。なんと注文して翌日に速攻で送られて来た。

 購入前は、ほぼ同時期に出版された『奴隷のしつけ方』太田出版、2015;『ローマ貴族9つの習慣』太田出版、2017、と同様のものかと思っていたが、来たモノは大変なきわものだった。前2冊は、一応ジェリー・トナーなる西洋古典の研究者で、ケンブリッジ大学教授が、マルクス・シドニウス・ファルクスなる著者をでっち上げての、まあ偽書なのであるが、そのことをちゃんと明言している潔さがあったし、内容も高度だった。

 今回のトゥリヌスの口上は、翻案者によると、古代ローマ時代の文筆家(生没年不明)による『奴隷娘たちとの生活』Vitae cum Selviris からの翻訳、ということになっていて、斯界では著名なA氏が写本と彼の訳を持ち込んできたことになっている。本物にみせるための道具立てとしてもっともらしく、それなりに詳しくおおむね正しい解説メモ付きであるが(その努力賞として星2つ)、本文はまあトンデモ本とでもいうべき偽書であろう。

 そもそも書名のラテン語の綴りが間違っている。「奴隷女」のラテン語は「serva,ae」で、前置詞cumは奪格要求するから、複数奪格だとservisだし、「若い女奴隷」だと「servula,ae」のはずだから、「servulis」とするのが普通だろう。間違っても「selviris」ではないはず。ま、私の知らない,辞書にも載っていない隠語であれば、ご教示いただければと思う。もしそうでなければ、翻案者は気付いていないのか、読者を小馬鹿にしての手の込んだ仕掛けなのか、ともかく本書の表題を書いた御仁は、私並にラテン語に詳しくないおっちょこちょいなのは確かである。それに著者名のトゥリヌスから、私などつい想起するのはかの有名なMarcus Tullinus Ciceroであるからには、まあこれも意図的な作為的命名であることは明らかだろう。読者を騙してほくそ笑んでいる翻案者なりA氏のしたり顔が目に浮かぶようだ。

 以下蛇足である。我が国には大場正史大先生訳の、F.K.フォルベルグ『西洋古典好色文學入門』桃源社、1976年(原著出版、1882年)がある。全訳ではないが、碩学によるこのド真面目な本を読む方がよほど劣情を刺激するはず、少なくとも私にとっては。ところで、大場正史はこれまで筆名だと思ってきたが(昔それなりに調べたはず)、今回念のため改めてウィキペディアを検索してみると、1914/1/1佐賀県生まれ-1969/7/17死亡、と実名扱いになっていたのには、いささかビックリだった。

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日本トイレ最新情報:トイレ噺(17)

「コロナで脚光 日本発トイレ革新、世界へTOTO・LIXIL:クリーンテック 駆けるトイレ(上)」:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63652270Z00C20A9X11000/

「パナソニック、トイレの常識覆す樹脂のマジック:クリーンテック 駆けるトイレ(下)」:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63728150R10C20A9X13000/?n_cid=NMAIL006_20200914_Y

 シャワー・トイレをあまり日本の発明と得意げに公言してほしくないので、お尻を水で洗う先輩に、ヨーロッパのビデがあることを指摘しておきたい。もちろん水を使って手を使うアラビア式もある。

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権力は腐る:コンスタンティヌスの場合

 世情はあれこれ賑やかであるが、まあ露骨に民意を蔑ろにした政権交代の茶番劇といったところか。質問にまともに答えない体質や、討論が全然成り立たないのも今に始まったことではない。ことを荒立てない民度の高い日本人の叡知の現れなのであ〜る(皮肉です)。

 ここでは、安倍政権7年8ケ月どころではない、30年の長期政権を保持したコンスタンティヌス大帝(a.272-337年)について、知るところを若干書いておこう。

左、たぶん若い頃の大理石彫像(1823年以前にYork出土);右、手前が皇帝、奥が太陽神(313年Ticinum打刻金貨)

 彼は306年(34歳)に政権の一端に突如登場し、以後20年にわたる内乱を制して(310年[38歳]義父マクシミアヌス殺害、312年[40歳]義兄弟マクセンティウス殺害、324年[52歳]義兄弟リキニウス殺害:要するに彼の政治的上昇は、政略婚姻関係という仮そめの仲とはいえ親族殺しによって達成されたわけ)、その後13年間ローマ帝国の単独支配者だった。そして又、コンスタンティヌスは326年(54歳)に最初の内縁の妻ミネルウィナ系の長男クリスプスと正妻ファウスタを殺害に及ぶ。政治家の評価はいつの時代でも毀誉褒貶あい乱れ、難しいものだが、コンスタンティヌス大帝がらみでは、最初の「10年間はすばらしい君主だった、続く12年間は盗賊であり、最後の10年間はあまりの浪費で禁治産者だった」(4世紀末の無名氏『諸皇帝伝抜粋』Epitome de Caesaribus)との評価があって、その伝でいくと、彼は単独皇帝となってどうやら、”たが”が外れてしまったようなのである。

左、青銅巨像部分(カピトリーニ博物館);右、ハギア・ソフィアのモザイクの皇帝像

 一般に頌詞作品とみなされ、高名なる識者たちの評価も低いカエサレイアのエウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』Βίος Μεγάλου Κωνσταντίνου(Vita Constantini) であるが、先入観を排して注意深く読んでみると、なかなか隅におけない記述が含まれている。突っ込み処満載なのに、研究者はほとんど突っ込もうとしないので、私は不満である。

 その最たる箇所が第4巻第54章で、以下要約する。

 コンスタンティヌスは完全な人間の域に達していたが、彼はとくに慈悲深く(cf.,Ⅳ.31)「多くの人は、これを皇帝の弱点」とさえみなしていた。というのは、皇帝の我慢強さをよいことに悪を行った恥知らずの男たちが跳梁跋扈し、我々(=エウセビオスを含めた、おそらくキリスト教聖職者たちのことか)ですら気付かざるをえなかったのだが、①国民を食い物にした強欲で恥知らずの男たちがほとんど非難・告発されることがなかったこと、②キリスト教徒を僭称した者が教会内に忍び込み、「口にするも憚れる偽善」が生じた。皇帝は慈悲深さと寛大さのゆえ、また信仰深い誠実な性格のゆえに、自分への忠誠を狡猾に申し立てた自称キリスト教徒たちの「演技を信じるに至った」。このため彼は「彼らの不適切な振る舞いのために非難され」、こうして「妬みの霊がこの汚点」を彼にもたらした、のだと。

 そして第55章冒頭で「程なくして、神の裁きがこの者たちに下」ったと述べ、読者に事の真相が暴露されるのかと期待させるのだが、具体的には何も触れないままで、別の話題に転ずる。すなわち、コンスタンティヌスは死の直前に「いつもの聴き手[単数!:ひょっとしてエウセビオス?]を前に」遺言めいた挨拶をした中で、「無神論者の悲劇的最期」について長々と述べたが、それは「ご自分の周囲にいる一部の者[たち]を批判しているようにも見え」た。ここも意味深だが、さらに次いでエウセビオスの謎めいた表現が出てくる。皇帝は「その知恵を誇っている者の一人[誰のことやら]にご自分の話をどう思ったかと尋ねさえされ、その者は語られたことの真実性を証し、本心からではないでしょうが、多神教への非難に対して盛んに拍手喝采しておりました」。死の直前にこのような話を「腹心の者[集合名詞的に「たち」か]にすることで、皇帝はみずから、ご自身のために、よりよいものへ向かう旅立ちを何の支障もない容易なものにしようと」しているようであった、と(以上、秦剛平訳:但し[ ]内は私の付加。こういう箇所の単数・複数は慎重に吟味すべきだ)。

 いずれ触れたいテーマで、注意深く考察し味読すべき箇所であるが、今はくどくど解説する必要はないだろう。長期政権は佞臣を引き寄せ、権力者は孤独であるがゆえに彼らの跳梁跋扈を容認する。似非お友達関係である。こうして悪貨は良貨を駆逐し、それは世人たちには目に余るほどになる。たとえ平穏な時代であっても、否、そうであればこそ、文字通り長期政権は腐るのである。

 後日談だが、コンスタンティヌス大帝の死後、ファウスタ系の三人の息子たちが、祖父の後妻にして正妻のテオドラ系を抹殺するという挙に出て、血縁の血の上塗りをおこなっている。それもあってか、コンスタンティヌス一族の男系は、背教者ユリアヌスで断絶。ただし女系はコンスタンティノポリスで7世紀初頭まで存続していた。

 アメリカ合衆国で一世を風靡した「ケネディ王朝」も、J・F・ケネディ暗殺以降すでに60年近く過ぎ、子孫の相次ぐ不祥事で暗雲が垂れ込めている。2世、3世の政治家というのも難儀なことだ。つくづく同情させていただこう。「まさかの米上院予備選結果と”ケネディ王朝”の終焉」:https://wedge.ismedia.jp/articles/-/20769?utm_source=newsletter&utm_medium=email&utm_campaign=20200914

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