イタリアの首都ローマから20km南東に、カステッリ・ロマーニCastelli Romani と呼ばれる丘陵地が広がっていて、古来より著名な保養・観光地である。その中でもひときわ有名なのがフラスカーティFrascati で、その名前の白ワインとポルケッタ(豚の丸焼き)が名物となっている。そこに林立する由緒ある別荘のひとつに、1582年に枢機卿Bonanniによって建設されたVilla Lancellotti がある。その後の詳しい来歴を辿るのは今は省略して(Wikipedia 参照)、ただちに本論に入ろう。
この別荘には、実は「トゥスクルム・モザイク」Il Mosaico Tuscolano と称される床モザイクが一階玄関間に保存されている。それは古代トゥスクルムの斜面に位置するカマルドリ会修道院の庭で発見されたものだった。それを最初に報告したのはE.Pinderで1862年9月のことだった(Musaico Tuscolano, Bullettino dell’Instituto di Corrispondenza Archeologica, 1862-9, pp.178-182)。その翌年、今度はH.Hirzel が Pinderの先行研究を批判的に再検討している(Musaico Tusculano, Annali dell’Instituto di Corrispondenza Archcologica, 35, 1863 pp.397-412。そして41年後にHans Lucas, Athletentvpen, Jahrbuch des kaiserlich deutschen archäologischen Instituts, 9-3, 1904, pp.127-136 が発見以来の研究を総括的に論じた。 余談になるが、19世紀と20世紀初頭の上記3論文はたいへん有難いことにウェブ検索で入手できた。研究はその段階で早くも終わったようで、私はこれまで後続研究を見つけ得ていない。
Pinder によると、そのモザイクは、12 passi × 6 passi(≒ 9m × 4.5m;他説では12m × 6m;いずれにせよ、上記写真を見る限り、私には幅と縦の比率が2対1のようには見えないのが不審)の長方形で、おそらく体育訓練場 palestraの床を飾っていたものだったらしい。その部屋の山側の壁面は、発掘当時まだかなりの高さで壁が残っていた(4〜5 passi)。そしてモザイクはほぼ完璧な保存常態で、白黒のテッセラだけで作製されていた。製作年代を彼はハドリアヌス時代としている。この別荘への移設の際、両脇の2つの小さな四角の枠内に銘文が埋め込まれ、以下のように書かれているらしい。「ROMANVM HOC VETVS OPVS E TVSCULO TRANSLATVM」(この古いローマ(時代)の作品は、トゥスクルムから移設された);「PHILIPPVUS LANCELLOTTVS HIC POSVIT ANNO MDCCCLXXIII」(フィリッポ・ランチェッロッティがここに1873年に設置した):典拠は以下、M.Domenico Seghetti, Frascati nella natura, nella storia, nell’arte, 1906(未見。なお1986年なり2007年にAtesa社から再刊されたらしい。なお、銘文中の2箇所の「U」表示はママ)。ここに登場する人名はフィリッポ・マッシミリアーノ・マッシモ・ランチェッロッティ公爵(1843-1915年)。彼は1865/2/22にエリザベッタ・アルドブランディーニ(1847-1937年)と結婚し、この別荘を翌年購入していた。
一見して分かるように、古代の接近格闘競技を中心に描いているが(具体的には、下部右から順に、ボクシング、レスリング、円盤投げ、徒競走?、パンクラティオン、幅跳び、など)、なぜか通常のそれ関係の本では紹介されることのないモザイクである(少なくとも、私は知らない)。私はググっていて偶然見つけた。その具体的解題は、地元のジャーナリストによって詳細に紹介されている。Achille Nobiloni, Il Mosaico Tuscolano della Villa Lancellotti a Frascati : Rinvenuto nel giardino dei Padri Camaldolesi nell’estate del 1862 (http://achillenobilonifrascati.blogspot.com/2010/01/:2010/1/14)
オスティア・アンティカ遺跡にはとても優れたHPがある。それが「OSTIA:Harbour City of Ancient Rome」(https://www.ostia-antica.org/)である。私など目的の箇所をチェックしようとすると、まず「Topographical Dictionary of Osita」をクリックして、さらに該当地区をクリック、出てきた画面でもっぱら「Plans」の方をクリックして目的の場所にアクセスするのが常だった。どうやら私は画像のほうを好むらしい。
ところが、その「Plans」に表示されていない遺跡について、だが実際には解説や写真が掲載されていることは、著名なSinagoga(IV.xvii.1)を扱ったときの体験で知っていた。実際には、https://www.ostia-antica.org/regio4/17/17-1.htm が存在しているのである。今回運動競技関係を調べていて、やはり地図では示されていない場所(上記と同じくIVに)にとんでもないモザイクがあるらしいことを、論文(Zahra Newby, Greek Athletics as Roman Spectacle:The Mosaics from Ostia and Rome, Papers of the British School at Rome, 70, 2002, p.195, FIG.8)掲載のピンぼけの白黒写真で知った。え〜なにこれ、とビックリ仰天、市街地からSinagoga へと行くVia Severiana 沿いの北側は中途半端に発掘されていて、それがどうやら浴場らしいことは実地に目撃していたので知っていたが、そこにこんなモザイクあったなんて知らないよ〜、と疑心暗鬼でググってみたら、いとも簡単にSinagogaと同様、上記HPに記載されてることも判明した。それが、「Terme di Musiciolus」(IV.xv.2: https://www.ostia-antica.org/regio4/15/15-2.htm)である。結局それは「Plans」ではなくその上の「Text menu」を子細に眺めればあったのだ。どうやら「Plans」の原図が古いままで、その後の新発掘を反映していなかったようなのだ!
写真の周囲がどうなっているのか、このモザイクの全貌を知りたいところだが、HP掲載の写真のほとんどすべては、Floriani Squarciapino女史の 1987年の論文掲載のものらしいので、現在コピー発注中。たぶん年を越さないとこないだろう。HPの解説によると、浴場名となったのは一番上に残存している男性「MVSICIOLVS」に依る。彼一人だけ衣を着て左手に棒をもっていることから、トレーナーないし審判と想定されたからのようだ。あと4名の肖像と名前(といってもニックネームだが)が残っているが(「FAVSTVS」「(V)RSVS」「LVXSVRIV[S] 」「PASCEN[TI]VS」)、いずれも裸であることから競技者たちである。ちなみに、この選手たち、アレクサンデルやヘリックスのような著名人ではなくて、他では名前が知られていないそうだ(Newby, p.195 は、拳闘士などでよく見ることある名前、としているが)。この画像では、競技の種類を判定する材料もみあたらない。Cf., Eds. par M.Cébellillac-Gervasoni, M.Letizia Caldelli, F. Zevi, Epigrafia Latina Ostia:Cento Iscrizioni in Contesto, Roma, 2006( 2010), pp.291-92, no.87:Mosaico con nomi d’atleti.