我ながら思いがけない展開になったきた。だから面白くて止められない。ただし、この墓銘碑情報、大昔どこかで目にしていたような気がしている。なにせ必読文献には、19世紀末のW.M.Ramsay,The Cities and Bishoprics of Phrygia, Oxford, UP, 1895 (この本、我が書棚を見てもみつからないし、我が図書館にもないのはおかしい。ひょっとして数年前に消火スプリンクラー装置の誤動作で9階が濡れたとき処分されたのか。私が寄贈した美術関係が見るも哀れな状況となっていて、これにはまったくもってやりきれない思いだ)や、20世紀初頭のW.M.Calder ら記憶に残るおなじみの研究者が名を連ねているからだ。今、関係文献を急いで収集している。昔も集めたはずだが、それを探すよりも今やググって入手した方が早いからので(すみません、コピー類の保管は乱雑なんです)。しかし肝心の墓碑銘の写真が見つからない。それもそのはず、どうやら1922年に宗教対立の中でイスラム教徒に破壊されたらしい。幸い2通の読み取りは残っていてということなのだ(Calder,Bulletin of the John Rylands Library, 13-2, 1929,p.257)。「はやぶさ2」ではないが、オスティアが奇縁で40年振りに私の念頭に舞い戻ってきたわけである。
そんな中で、見つけたのが以下の写真。別々に掲載されていたのを合成してみた。E.H.Buckler, W.M.Calder & C.W.M.Cox, Asia Minor, 1924.III: Monuments from Central Phrygia, JRS, 16, 1926, 204(p.80-82), PL.XII,204b, c. これについてはいずれゆっくりと(死んでからかぁ(^^ゞ)。
なお、エウテュケスつながりで、こんな写真もヒットした。元写真は、W.M.Caldar, Early-Christian Epitaphs from Phrygia, Anatolian Studies, 5, 1955, p.33-35, No.2(=B.W.Longenecket, The Cross before Constantine:The Early Life of a Christian Symbol, Minneapolis, 2015, p.115)。出土場所はGediz近くのCeltikcide(現在、といっても65年も前だがKutahiaの倉庫に保管、と)。なるほど、隠れキリシタンのマリア観音よろしく、さりげなく(といっていいのだろうか (^^ゞ)右手のひらに十字が(これはパンの切れ目を示している)、左手下にはブドウの房が見えているので、パンとワイン、聖餐式を示しているわけだ。我らのエウテュケスよりは1世紀半も先輩である。
なお、上記月報に掲載したかったができなかった写真を載せておく。掲載できたのは、上掲のオスティア遺跡のIV.vii.4「アレクサンデルとヘリックスの居酒屋」Caupona di Alexander e Helix で、出土場所で現場保存されている白黒舗床モザイクで(但し、もちろん修復は入っているはず)、3世紀初期の作だが、それにはめ込まれている人名(ALEXANDER, HELIX)と同名の二人が別所でも登場しているのが下図で、なんと私はこの件をオスティアの案内板で初めて知った、という体たらく。
この白黒舗床モザイクは、縦3.8m、横6.9m、三世紀前半の作で(すなわち、期せずして前出オスティアのと同時代となる)、1998年にポッツオリ(旧プテオリ)北東、メトロ駅とparco Bognarの間で、Enel S.p.A.の配管架設工事のとき出土した邸宅からの出土品(通称、villa del suburbio orientale di Puteoli)。
【補論2】今頃になって、アレクサンデルとヘリックス関係でようやく核心的な論文を見つけることができた。C.P.Jones, The pancratioasts Helix and Aledander on an Ostian Mosaic, JRA, 11,1998, 293-298. いずれおいおい紹介したい(それに依拠して某学会の月報をいまさら修正するとしたら、アレクサンデルとヘリックスはパンクラティオン競技者とすべき、となる:根拠はよくよく見ると拳がグローブをしているように見えないから)。
【補論2への追記】それらしき論文を2,3点見つけた。ひとつは、学会発表論文集所収の以下で、だが国内図書館に所蔵はないので海外発注するとしたらかなり高額となる。たかが25ページの論文に2万円。昔だったら即座に注文していたが、研究費がない身ではそうはいかない。個人的にお持ちの方からの連絡があると有難い。C.Gialanella, Il mosaico con lottatori da una villa del suburbio orientle di Puteoli, in:a cura di F.Guidobaldi-A.Paribeni, Atti dell’VIII Colloquio AISCOM, Firenze, 21-23 febbraio 2001, Ravenna, 2001, pp.599-624.
実は私のささやかな悪戯心で、「あれぇ、あんなところに方形区画がぁ? 行ったことあるけどそんなものありませんでしたよ」との、昔観光したことある読者からの指摘を虎視眈々と待っていたのだが、残念ながら未だ全然反応ないので(ど、読者数が圧倒的に少数のせいでしょう、たぶん (^^ゞ )、知らなかったと思われるのがしゃくなので、今回しびれを切らして台座復元前後の写真を掲載しておく。最初の二葉が1981年のもの、最後の一葉は台座が復元された後の1998年のものである。引用典拠は以下:R.Rea, Studying the valley of the Colosseum (1970-2000):achievements and prospects, in JRA, 13, 2000, pp.93-103.
その一つが、紀元後6世紀、皇帝ユスティニアヌスの時代にあった、ということになっている。普通にはそれは「疫病」とされているが、残存している文書史料によると、どうやら疫病にとどまらず、いわゆる「核の冬」の特徴に酷似していた。そうなると当時原水爆はないので、想定されるシナリオは次の3つ。小惑星衝突、彗星衝突、そして火山噴火。その気になって、3年前に強制スリム化された書棚をチェックすると、それでも以下があった。デイヴィッド・キーズ(畔上司訳)『西暦535年の大噴火:人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』文藝春秋、2000年(原著: David Keys,Catastrophe: An Investigation into the Origins of the Modern World, Ballantine Books,2000);石弘之『歴史を変えた火山噴火:自然災害の環境史』刀水書房、2012年;河合潤『西暦536年の謎の大噴火と地球寒冷期の到来 』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014年。