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コンスタンティヌス大帝の著名コイン:SPES PVBLIC

 いつもウェブ・オークションを見ているClassical Numismatic Groupだが、この1/14-15にNew Yorkで第48回国際競売が、出品1453ロット、売買予定総額780万ドルで開催予定とのメールが届いた(https://www.cngcoins.com)。そのカタログをみていたら、とんでもない出物に出くわした。それが326/7年コンスタンティノポリス造幣所第一工房打刻の一品で、表面に若々しい皇帝(実際には当時54,5歳)の右向きの横顔と周縁に「CONSTAN TINVS AVG」、裏面に、先端に「キー・ロー」の意匠の竿頭をいただき、三つのメダイ(当時の3皇帝、正帝コンスタンティヌス1世、副帝クリスプス、副帝コンスタンティヌス2世の肖像、という説あり)が描かれた軍旗(ラバルムlabarum:私は軍団旗の類いではなく、皇帝旗と考えている)を装着した旗竿の石鎚が蛇を刺し貫いているデザインと、「SPES PVBLIC[A]」(国家的期待)が打刻されたものである(一行下のAは第一工房の刻印と読む)。

コンスタンティノポリス建設開始は324年、落成式は330年だった。

 そのコインとその周辺に関する詳細は生きていたらいずれ多少立ち入って触れる機会を持ちたいと思っているテーマであるが、とにかく、コンスタンティヌス研究者にとってはまさに垂涎の的の記念貨幣である。もちろん私もオークションに出品されたのを見たのは今回初見で、出品者側の評価額3000ドルとなっているが、この額で決着しそうもない気がする。日本のどこかに一つはあってほしい品なので、本当なら暮れのボーナスをはたいてでもチャレンジしたいところだが、年金生活者で競売に参加する余裕がないのが残念至極。

【追記】しょっぱな1800ドルをつけた人がいたが、その後どうなっているかと先ほどみたら、なんとまだ15日以上のオークション期間を残して「Lot Withdrawn」の表示がっ。こういう場合どうなっているのか詳らかでないが、博物館とかの大口が介入して即金で落としたのだろうか。まあそうされても仕方のない一品ではある。私人の死蔵よりはいいのは確かである。

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トイレ・ウンコ・シッコ本:トイレ噺(12)

 人生の主役ではないくせに、人々の意表をついて笑いを誘い、またのぞき見趣味を満足させるテーマだからであろうか、汗牛充棟でありながら玉石混交の書籍が溢れている、そんな印象を持つ中で、ここでは特徴あるものをまとめておこう。

(01) 山田稔『スカトロジア(糞尿譚)』講談社文庫、1977年:筆者(1930-)は元京都大学人文研教授(1994年退官)。専門がフランス文学のせいか、本書は古今東西の諸文献からの博覧強記の引用がなされていて、私の読書意欲を刺激してくれた。冒頭、水上勉『雁の寺』、太宰治『斜陽』、夏目漱石『こころ』、火野葦平『糞尿譚』、ゴンクール『日記』、で始まっているが、白眉はスイフト『ガリバー旅行記』やラブレー『ガルガンチュワ物語』あたりだろうか。

(02) 藤井康男『異説糞尿譚:古今東西、ちょっとくさい話』カッパ・ブックス、1986年:著者(1930-1996年)は、株式会社龍角散社長だったが(薬学部卒業後、理学博士号も取得)、ほとんど会社に寄りつかない多趣味な粋人だったらしい。本書においても、その面目躍如で、普通の人が書くのを避けている件にも果敢に切り込んでくださっている。ご自分の体験を惜しげもなく吐露されていて、多数の女性との交流から情報を得ているようで、あれれと思わされるし(とりわけ女性の立ちションと排尿時の音にやたらこだわってらっしゃる)、クラシック通だからだろう、モーツァルトのすさまじいスカトロジックな書簡の紹介には畏れいった次第(p.29-38)。ただ一点、別役実『道具づくし』大和書房、1984に騙されて「かわやだんご」「かわやどびん」をマジに取り上げているのはご愛敬か(p.186-188)。


 参考までに別役が掲載している「かわやだんご」の図を示しておこう。もっともらしい彼の註記によると挿画は『和漢三才図会』掲載とのこと。ちなみに「どびん」のほうは言及のみで挿絵はない。

p.201掲載

(03) 有田正光・石村多門『ウンコに学べ!』ちくま新書、2001年。有田(1950-)と石村(1957-)は東京電機大学理工学部所属の理系と文系の研究者のコラボ作品である。なので本書前半には数字がよく出てきていて、私には有難かった。そして、水洗になって大小便が水に流されてたちまち目の前から消え去ることに慣れてしまった私たちに、ウンコの行く末、下水処理の現実:資源の浪費を教えてくれていて、たいへん説得的である。そしてむしろかつての人糞を肥料として活用していた時のほうが合理的だった、とサスティナブルな視点で論じている。

(04) 安川実『ふうらい坊留学記:日本青年、アメリカ西部を荒らす』カッパ・ブックス、1960年。著者(1933-2010年)は「ミッキー安川」という芸名で20世紀後半から21世紀にかけて活躍したマルチタレント。1953年アメリカのテネシー大学留学生時のエピソード(アメリカ人学生がトイレでまず小を出してから大に移動するのを見て、日本人は同時に排泄できると賭けにもちこみ掛け金をせしめた)は、私もカルチャーで利用させていただいた。このエピソード、日経の「私の履歴書」でどなたか名前を失念したが、我がこととしてパクって書いていたのを読んだ記憶もある。今回ググっていて復刊されているのを知った(『ミッキー安川(の)ふうらい坊留学記:50年代アメリカ、破天荒な青春』サンケイ出版、1980年;中公文庫、1999年;復刊ドットコム、2010)。

左端が初版で、順に歴代再版表紙

(05) 斎藤たま文・なかのひろたか絵『おしりをふく話』福音館書店、1998年。これは児童向きの『月刊たくさんのふしぎ』の1998年9月号(第162号)である。なにがいいかというと、日本における大便の後始末の素材の変遷を絵入りで説明していることで、たとえば他の著作では「昔は稲藁の束で拭いていた」と文字で書くだけでおわっているものを、藁の折り方を図で示してくれていて具体的この上なく、私にとって大変役だった。そして、昔の庶民は身近に豊富にあった素材を工夫して使って、また自然に戻していたことをさり気なく伝えてもいるが(川の上流で尻拭きに使ったクソベラを、下流で薪として拾っていた、というのは笑えた)、はたして想定読者層の小学生に内容の真意が伝わっただろうか。

(06) 安岡章太郎編『滑稽糞尿譚:ウィタ・フンニョアリス』文春文庫、1995年(初版、講談社、1980年)

 この本のいいところは、色々な著作からトイレ話に関する部分を引用してくれていることである。吉行淳之介、北杜夫、入江相政から始まって21名の日本人文筆家、そのあとチョーサー、ラブレー、オイレンシュピーゲル、バルザック、風来山人(平賀源内)の抜粋が続く。

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ケルト・メモ:(5)エポナ女神

 余りの高額に古書が出るまで様子見していたが、『ローマ宗教文化事典』原書房、2019年、をようやく購入した(けど、我慢したほどには大して安くならなかった)。気になる項目をちらちら眺めているうちに「エポナ」に行き当たった。そこに、エポナはもともとケルトの馬の女神であったが、ガリアの神のうちローマで唯一「エポナ祭」Eponaliaという祝祭が12月18日にもたれていた、と書いてあることに目がとまった(ほぼ同様な内容がウィキペディアや、一層詳しく『ケルト神話・伝説事典』東京書籍、2006年、66-68頁にも掲載されていたのは、迂闊だった)。Epona女神像で、一般に流布している上品なローマ的傾向の彫像は以下。

Salonica出土:4世紀;この地にエポナ信仰を持ちこんだのは皇帝ガレリウスという説もあるらしい。

 というのは、昨年の三月に京大で開催された九大の堀教授の科研での国際小シンポジウムで、オクスフォード大学のジャネット・ディレーンJanet DeLaine博士の「オスティアの街角にみる聖なるお守りたち」Seeking Divine Protection in the Streets of Ostiaの中で、これまでオスティア遺跡で帝国西部の神格のイメージは皆無だったはずが、突如エポナ女神を描いた平板reliefが登場したことに、私はおおげさでなく驚愕したことがあったからである。

 しかし、これはEric Taylor編集のHP「Ostia:Harbour City of Ancient Rome」 の「Terracotta objects」の中にすでに「E27317」として登録ずみのものだったことをあとから知ったので(https://www.ostia-antica.org/vmuseum/small_3.htm)、当方の調査不足にすぎなかったのだが。ディレーン女史は、この平板の元来の設置場所を、Caseggiato di Annio (III,XIV,4)の一番右側の空の枠内だったと想定している。下図がそれである。

Relief of Epona between two horses. Guida p. 97. Museo Ostiense. Inv. 3344.

 現地産の女神像は以下のようなものだった。見ての通り、素材・技量ともに劣るので、博物館でも見栄えしないし、見学者の興味をひくことも少ないだろう。なので結果的に見た目のいい「ローマ化」された大理石製のものの展示が幅をきかすことになるが、掛け値なしの現地発のレベルはこちらにあるのだ。

フランスのフレマン出土、ルクセンブルクのDuelem出土、ハンガリーのブタペスト出土

 続きは「オスティア謎めぐり(3)」のほうで。

【補遺】ローマ時代の文獻で「女神エポナ」が出てくるものをメモしておこう。

ユウェナリス『風刺詩集』8.155:執政官のあいだ、「毛持てる者」(ひつじ)と赭い若去勢牛(うし)をヌマ(王)の(定めた)流儀で(供犠として)殺しはしても、ユーピテルの祭壇の前で、(彼が)誓うのは、(馬の守護女神たる)エポナと臭い檻に描かれた(エポナの)像にかけてだけなのだ。

アプレイウス『転身物語』3.27:この厩の梁を支えている大黒柱の、ちょうど真ん中のところに馬頭観音(エポナ)のお像が小さなお宮に据えられてあるのが目につきました。見れば正しく真新しい薔薇の花冠がいくつか、小綺麗にそれには懸けまわしてあります。

テルトゥリアヌス『護教論』16.5:ところであなたがたの間では、あらゆる種類の役畜やすべての駄馬が、その女神エポナとともに崇拝されているのを、あなたがたは否定しないであろう。してみると、恐らくこのこと、つまりさまざまな家畜や野獣の中で、ロバだけしか崇拝しないということが、あなたがたがわれわれを非難する理由なのであろう。

テルトゥリアヌス『異教徒へ』11.6:すべてのロバですら、たしかに汝らにとって崇拝の対象である、彼らの守護者エポナと共に。そしてすべての畜群、そして畜牛、そして野獣を汝らは聖別する、そしてその上それらの厩舎をすら。

ミヌキウス・フェリクス『オクタウィウス』28.7:これが君たちが風聞によって得た話、ロバの頭は我々にとって聖なるものである、の出所である。そのようなものを崇拝する愚か者がどこにあろうか? また、それが崇拝されるなどと考える愚か者がどこにあろうか? もっともそれは、すべてのロバを君たちのエポナに捧げている、まさに君たちの中の者を抜かしての話なのだが、君たちはイシスの集団の儀式においてはロバを貪り食らう。

【閑話休題】私は四谷3丁目の老舗のイタリアン・リストランテで、二の皿としてロバ肉を食したことがある。それまでイタリア人がそんなものを食すことなど知らなかったのだが、ローマ時代にロバやラバは荷駄として多かったので、庶民は当然食しただろう、だったら食してみない手はない、と。食感としては普通の牛肉と変わることはなく、柔らかかった。まあ食用に育てられたものだろうが、往時庶民が食したのはきつい労働の挙げ句使い物にならなくなったなれの果てだったのだろうから、かなり堅かったに違いない。

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先達の足跡:(5) 安田徳太郎

 医師、歴史家。戦前は共産党シンパでゾルゲ事件にも連座、戦後著述家・翻訳者として著名(生没年:1898-1983年)。

 トイレ関係を再び漁っていたら、彼の『人間の歴史』全6巻、光文社(1951-57)がやっぱり引用されていた。わが図書館には所蔵がなかった(翻訳のE.フックス『風俗の歴史』や『エロチック美術の歴史』はあった)。他大学はどうかと思って上智のOPACで検索してみたが、なぜかヒットしなかった(あとで、東大でやってみたらちゃんと出てきた)。しょうがないので、全巻送料無料で1600円の古書を発注。

 とりあえず『人間の歴史』3所収の「肥料と女の風習」を拝読。分かりやすく説得的な文章。註記を見て驚いた。英独仏の文献を渉猟している。さすが京都帝国大学医学部卒。いずれ本腰を入れて紹介せねば。

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ローマ宮廷のトイレ(1)「ドミティアヌスの傾斜路」Rampa domizianea:トイレ噺(13)

 2015年の冬、オスティア調査の合間を縫って一日フォロ・ロマーノを再訪し歩き回った。ウェスタ神殿の南の、いつもは閉まっている「40人殉教者礼拝堂」Oratorio di XL Martyres(地図番号12付近)が開いていたので、こりゃ見逃せないと突入した。そこには中世の壁画があって、そこを拝見して出てひょいと左側を見ると30年間ずっと閉鎖され続けていたSanta Maria Antiqua教会(翌年公開された)の入り口をふさいで「MOSTRA / LA RAMPA / IMPERIALE / 20 OTTOBRE 2015-10 GENNAIO 2016」と書かれた目立たない白い立て看が目に入った。その時は意味もわからず4か月限定で何があるんだろうと歩み寄ると、その前で東西を走る通路に出て、目と鼻の先の東の端はパラティヌスの宮殿の丘に接して行き止まりで巨大な円筒型天井の構造物が。そこの右にガラス張りの入り口があって、番人もおらず中に入る。

Santa Maria Antiqua教会は9の先の1−5;6がRampa
正面左が「8」のOratorio di XL Martyres:その背後右上がRampaを登り切ったところの展望台
正面が「9」への入り口:その前を左に向かうと
「6」への入り口

 そこで展開した風景はなんとも奇妙な光景だった。ひたすら細長〜く高い天井が南への緩やかな上り坂の空間を支えている。そしてその坂の行き止まりまで行くと左折してさらに坂道が上に。そこを登り切って外に出て、今度は露天(現況)でまた左に折れて坂が続く。最後の綴れ折りを登り切ると展望台(現況)に出る。往事はそこから右にパラティヌス丘に出る道があったに違いない。すなわちこの綴れ折の坂道は、丘の上の宮殿からフォロ・ロマーノに通じる、おそらく皇帝専用の通路だったのである。

関係断面図
入り口から通路を見る:壁を隔てて左側の部屋は出土遺物展示室、右側がSanta Maria Antiqua教会
最初の綴れ折:右が上への坂道
2つ目の綴れ折
3つ目の綴れ折
上空からのRampaの眺望:左上が展望台とパラティヌス丘の地面、右の奥まった建物がSanta Maria Antiqua教会
展望台での西から北の眺望:左手前のギリシア十字型の屋根がOratorio di XL Martyres

 そこから帰りに来た道を下っていくと、一階の最初の綴れ折の隅に妙な構造物があることに気付いた(というのは嘘で、そこに向けてライトが点いているので登りの時にもう分かっていた)。まず左壁に沿って走る溝の遺構があり、その先に階段と囲いが見える。目を凝らしてみると、奥の奥になんと二人分の便座が設置可能な空間が飛び込んできたのである(実際には進入禁止の綱があるので接近して見ることはできない)。

壁沿いに溝が走って暗渠の中、すなわちトイレへと水を導く仕組みになっている
遺物の現況:この箇所は、現状までに幾度か改修されている:以下の写真や復元図は、a cura di Patrizia Fortini, La rampa imperiale:scavi e restauri tra foro romano e palatino, Electa, 2015, p.91-99.

正面奥の平石2枚はトイレの足台:上部構造は残っていない。

 このトイレは、皇帝専用だったのかもしれないが、それにしてはちょっと豪華さが足らないような気がする。とまれ、このトイレについては欧米の専門家たちも知らなかったようで、これまで誰も触れていない新知見ということになる。

 これ以降、渡伊の折に毎回訪れているが、Santa Maria Antiquaともどもずっと公開されていた(但し、公開初年の2016年にはレザー光線での3D映像などあったが、それはない)。しかし2019年夏、入場券売り場でそれらの見学も可能のはずの「Pass Super」を購入したのだが、なぜかタッチの差で見学が叶わなかった。午後は駄目になったのであろうか。

【メモ】パラティヌス丘には、ものの本で言及されているトイレが他に2箇所はあるらしいが、非公開で筆者未見である。毎年再訪のたびに奇跡の僥倖を願って寄っている。だから(2)とか(3)の続きがいつになるかは、不明。

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新刊紹介『ウンコロジー入門』:トイレ噺(11)

 これも他をググっていたら偶然引っかかった:https://news.yahoo.co.jp/byline/iidaichishi/20191227-00156556/。井沢正名著、偕成社、2020/1、¥1650

 私はかねてよりトイレ問題に関心をもっていたので、この広告を見て即発注したところ、年末の繁忙期にもかかわらず、即翌日に届いた。すこぶる快腸、否、快調である。表紙から絵本なのかと思っていたら、前半白黒、中盤カラー図版を含めて、基本的には文字情報からなっていた。かつて納棺師ないし納棺夫という職業があることを映画「おくりびと」(2008年)で知ったが、今回本書で「糞土師」という言葉を学んだ。さりげなく現状に対する憤懣が表現されて、秀逸な命名である。

 私的に特に興味あった第2章「正しくたのしいノグソをしよう」をさっそく拝読。この章は表題とは裏腹の内容を含んで5節と1コラムからなっていて、最初の2節は「トイレに流したウンコのゆくえ」「ウンコの処理に必要なもの」で、要するに、水洗トイレになってどれほどの資源の無駄遣い、というか下水処理場での処理に不必要な電力・薬品類・重油が使われるようになったか、が述べられている。

 そして第4節で展開されている「災害時でもだいじょうぶ! ノグソの底力」は意表をついていてたいへん面白かった。最近多発している災害時に大問題となっているのが避難所でのトイレ問題である。そこで、私には意外な情報が色々あった。たとえば2016年の熊本地震での直接死は50名だったが、避難所住まいでの体調悪化で関連死した人は223名もいたこと、現在もっとも心配されている南海トラフ巨大地震が発生した場合、駿河湾の海岸沿いには全国の製紙工場の4割が集中しているので、紙の供給が大幅に減少する事態が予想されること、などなど。

 そして,著者の体験談:「東日本大震災ではわたしの住む町でも電気が5日間、水道は3週間も止まりました。周囲の人たちはトイレを流すために、側溝や沢から水を汲んで苦労していましたが、毎日葉っぱノグソのわたしは、普段通りにすごすことができたのです。」

 平和ボケのわが同胞は、美食のほうには蘊蓄を傾け大枚をはたいて一向に怪しまないのんきな日々を送っていらっしゃるが、その結果の生産物ウンコ問題にはいつまで目を閉じたままですませる気だろうか。

【追記】冒頭に示したウェブの最後の写真説明、大便の後始末の葉っぱとして「チガヤの穂はミンクのような肌触り」を読んで、思い出したことがある。昔読んだ本にイギリス(スコットランド?)ではそこらに生えている苔がビロード状の肌触りで尻拭きに使っていた、とあった。尻拭きについて、詳しくは同じ著者の『葉っぱのぐそをはじめよう』山と渓谷社、2017年にはカラー写真付きで詳しく紹介されていて、ありがたい。

 ただ、一点のみ気になることが。大便の件は詳しく論じられているが、もうひとつの小便に触れられていないような気が。その利用に関しては古代ローマの方がはるかに進んでいたということか(後から届いた『葉っぱのぐそをはじめよう』、pp.036-039,160、には簡単だがあった:しかも、苔の効用にまで触れてくれていたのには驚いた)。

 話は若干それるが、思い出しついでに。昔、児童学科や幼児教育学科に所属していたときの実験考古学での火起こしで行きついたのは、火きりぎねにウツギ(中空の空木)、火きりうすには桧(ひのき)、火口(ほくち)にはガマの穂が最適の道具だった。最初使っていた、あじさいの枝や杉板は消耗度が激しいのである。以下、参照:https://www.bepal.net/know-how/campfire/11639。但しここの説明で本当に肝腎なポイントがひとつ抜けている(これこそ企業秘密なのだが)。火きりうすに下図のように△の切れ目を入れ(そして、その頂点部分にひきりぎねを安定させるため○の窪みを浅く彫っ)ておくことである。私はこれを原始時代の女性器の性的三角形(駆け出し教師の私のバイブルのひとつ:木村重信『ヴィーナス以前』中公新書、1982、参照)と関連あると授業で説明してきた。天才的着想だと今でも自認してはばからないが、もっと想像力を駆使して言うと、ひょっとして大人の下卑た、ないしませた子供の、凸と凹の遊びの中からこの火起こしの技術が生まれたのではないか、と。

 またついでに書いておこう。原始美術史の大家木村先生たちには共通の欠落点がある。p.60の図27の女性裸像:タタール・パザルジックPazardzik(トラキア)出土と、マリア・ギンブタス(鶴岡真弓訳)『古ヨーロッパの神々』言叢社、1989(原著1974)、p.207の写真207-209、とを比較せよ。普通、女性裸像の写真は正面と側面が掲示されるが、裏面も見てみることで、実はこれらの「女性裸像」は、ある場合は男女性器を表現した「両性具有」であることがわかる、と私は確信している。これは本当に逆転の発想でヒョウタンからコマなのであるが。

【追記2】伊沢氏の別の本『くう・ねる・のぐそ:自然に「愛」のお返しを』ヤマケイ文庫、2014は、文庫本だから本文では白黒写真だったが、なんと末尾にカラー写真の綴じ込み付録があった(中古で入手したのだが未開封だった)。「危険度」表示も付してあり、立派な配慮と感じた。恐る恐る開封してみたがこのたびの『ウンコロジー入門』掲載レベルだった。

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イエズス会の助修士ロサドさん

 出身高校の広島学院同窓会事務局から「ロサドさんの木工小屋」という表題で同報メールが届いた。読んでいて不覚にも涙ぐんでしまった。https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20191225-00156241/

 書き手のおおたとしまさ氏は広島学院の卒業生ではなく、東京の麻布高校らしい。私は1966年の卒業生なので,1967年に広島に赴任したロサドさんとは入れ違いだったが、彼以前にも一人助修士さんがいたことを覚えている。大柄なアメリカ人だった記憶がある。ちなみに、我々は司祭にならない修道士のことを、助修士と呼んでいた。英語では「ブラザーbrother」。聖職者修道士を助ける修道士、といったくらいの意味だった。司祭は「ファーザーfather」である。

 マスコミで色々物議をかもしているカトリック教会だが、こういう生き様を貫いている人たちもいることを忘れてほしくない。召出しを受けた彼ら、彼女たちの多くは地道に黙々と日々の役目を果たして生きているのである。彼らなりの葛藤がないとは思わないけれど。

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新・旧国立競技場のトイレ話:トイレ噺(10)

 もうオリンピックも目前だが、かつての国立競技場には面白い便器があった。競技者の女性が素早く用をたせるように、立ちションできる便器である。実際に使用されたことはないと書いている書き込みがあるが、ホントだろうか。

この形式:本物はたしかTOTOのトイレ博物館(北九州市)に保管されている

 今回新装なった新国立競技場でもトイレに色々工夫が凝らされているようだ。詳しくは以下をご覧下さい。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191222-00010002-flash-peo&p=1

 しかし問題もあるようだ。男性では大が少ないし、一般のトイレはウォシュレットではないし、男女共用といってもあれはむしろ車いすなど身障者用だし、いつも指摘されている女性用での大行列もたぶん解消されそうもない、らしい。

 本当の男女共用と長蛇の列解消について、ちょっと考えてみたい(こっちの話題は遡ること2011年情報なので遅報となる。知らなんだ〜)。なんと、フランスでは女性の要望で、女性の立ちション用の便器をパリで設置予定だったらしいが、どうなっているのだろう。それとは別に、女性用の立ちション用専用グッズはすでに販売中で、我が国でもネット販売で購入可能とか(もともとは登山なんか用だったらしい)。これが普及すれば、男性専用のほうも女性に開放されて、女子トイレの長蛇の列も解消されるかも。それにトランスジェンダーの人たちも、公共トイレで問題視されなくなるかもという利点もある気がする。アマゾン・コムのカスタマーレビューでの実際の使用感は、多少の改良が必要なようだが、まずまずのようだ(問題はどうやら安い中国製にあるようだが)。https://wotopi.jp/archives/16018;https://www.afpbb.com/articles/-/3144070;https://ameblo.jp/kitanotake4/entry-12279267309.html

実際にアマゾンや楽天に掲載されていた
これはグッズ不用の、女性立ちション用便器改良型だそうで・・・。これこそ本当の男女共用?! まあちょっと受け狙いの写真としか思えないけど。

 実践例もアップされてる。https://www.a-kimama.com/outdoor/2016/12/61340/;https://matome.naver.jp/odai/2141266043562281601;https://www.excite.co.jp/news/article/Rocketnews24_827002/

 いやあ、すさまじいまでのトイレの進化でびっくり。しかしまだまだ先の話のような。でも、女性の立ちションは世界中どこでも20世紀初頭までは見慣れた風景だったようだ。日本でも20世紀半ばまでどうやら普通だったらしい。一説によると特に関西とか、田舎で。http://yamatos59.blog17.fc2.com/blog-entry-244.html?sp。さらにこんな方法もあるらしい。https://www.wikihow.jp/女性が立ち小便をする

 そういえば、衆人環視の中での、和服の前をはだけての授乳姿も普通だったなあ。

【追記】なぜかこのブログ、よく読まれているようです。2021/8/16や2022/10/11で続編を報告しました。

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アウグスティヌス時代の信者たちの実態

 コミカレで以前アウグスティヌスをしたときに付録として配布したプリントをここに添付する。小論「人間アウグスティヌスを『告白』から探る」上智大学文学部史学科編『歴史家の調弦』上智大学出版、2019、pp.217-235、ではアウグスティヌスの生態を探ったが、このプリントでは、当時のキリスト教信者の実態を、フランシスコ会司祭のアマンが余すところなく暴露している。日本の研究者にはなぜかこういうしごく下世話な視点が欠落していて、きれい事、事実の探求よりも所詮護教なのである。その当否は読者各自のご判断にお委せせざるをえないが。

【付録】A.-G.アマン『アウグスティヌス時代の日常生活』上,リトン, 2001(原著1971)。

   著者:Adalbert-Gautier Hamman(14 Juin 1910〜20 juillet 2000)

   フランシスコ会司祭、Migneのラテン教父集成の補巻を刊行するなど、教父学の権威

結婚・家庭生活関係の実態

p.133- アフリカでは、試し結婚[足入れ婚]こそ知られていなかったが、キリスト教徒の場合でさえ、さまざまな状況を考慮せねばならなかった。ローマ法でいう「結婚の誉」が確立するまで、裕福な家庭は息子に同棲することを容認していた。

p.141- アフリカの教会会議では、司教や聖職者の息子が異教徒や異端者の女を娶ることがないよう求めている。しかし実際の生活においては、法はあってなきがごとしだった。一つ屋根の下で異端者の嫁とカトリック教徒の義理の母が暮らすこともあった、とアウグスティヌスは記している(『詩篇講解』44.11)。

 自由人と女奴隷の結婚は煩瑣に見られたにちがいない。小作人の状態は労働や生活水準などあらゆる面で奴隷の境遇と大差なかったからである。

 実際の法律は、こうした結婚を法律上一種の内縁関係であり貧者同士の結婚である「事実婚」contuberniumと同一視していた。

p.145- 教会は、異教徒の法律家には思いもよらなかった夫婦の平等をまっ先に言明した。しかし、アンブロシウスやアウグスティヌスにおいてさえ、計画と実行には隔たりがあった。夫と妻の関係をキリストと教会の関係になぞらえるほど、婚姻締結証書tabulae nuptiales中で聖化された男性優位の思想は、長い年月の間に人びとの心に定着し、難攻不落の城塞のごとくにたちはだかっていたのである。アウグスティヌスは自らこう語っている。「あなた方の妻はあなた方の下婢であり、あなた方が彼女たちの主人であることは、議論の余地なき事実であります」(『説教』332.4)。

p.148  アウグスティヌスは、ヒッポの教会で夫婦間の貞節を説いて夫たちの不評を買った。しかし彼は、ひるむことなく法律によって裏づけられた男性の特権を攻撃した。彼は、夫婦間の貞節を守らねばならなくなることを恐れて洗礼を受けない市民がいることを指摘した。

   私のことを憎んで「この男は妻が自分を見に教会に出かけることを知っているのだ」などと言っている人々がいることを私は承知しています(『説教』82.11)。

 アウグスティヌスは、春を売る男や女に対して寛大さを示したが、それは売春婦が人々のストレスを取り除く社会的役割を担い、一般女性が売春に陥るのを防いでいると考えたからだ(『秩序論』Ⅱ.4.12)。

p.150 金持ちは大勢の女を自分の思うままに操っていた。彼女たちは非常に便利な存在で、家庭での楽しみも享受した。しかし、アウグスティヌスはこうした下女の愛をののしり、妾は売春婦であると考えた。

p.151 世論は、夫が姦淫を犯すことを非としなかった。妻に禁じられた罪が夫には許されていた。既婚婦人が奴隷と寝台をともにしているところを現行犯で捕らえられると、彼女は公共広場に引きずり出された。しかし、男の方はそういう処罰を受けることはない、とアウグスティヌスは指摘している(『説教』161.9)。

p.159 監視の目を盗んで密会は行われた。厳しすぎる体制には落伍者がつきものである。神に身を捧げているはずの修道女が夜ごと助祭の家に通ったことに、キプリアヌスは気付かなかったのだろうか。他の聖職者は彼らの言によれば「名誉にかけて」修道女と寝ることを習慣にしていた。疑い深くなった司教は、娘たちが処女であるか否かを産婆に調べさせている(Cyprianus,Epistula,61)。

 残念ながら、その結果は知られていない。

 親は息子のいたずらを気にかけなかった。少年時代は過ぎ去ってゆくものである。彼らの犯す過ちは許してやる必要があった。父親は息子たちの力と男らしさの発露を誇りにさえ感じた。キリスト教詩人ペラのパウリヌス[5世紀の詩人。アウソニウスの孫]は、女中たちにすがった若き日の思い出を詩に書いている。彼は彼女たちが気楽に、ただで遊びにのってくれたと記している(Paulinus de Pella, Eucharisticos, 165-166)。 

 アフリカの多くの家庭でも同じようなことがおこなわれていたのだろう。母親さえも息子の行為を自慢することがあった。

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新刊紹介:『絵で旅するローマ帝国時代のガリア』マール社

 翻訳者が知り合いの、瀧本みわさんと長谷川敬氏のお二人から献本が届いた。著者はジェラール・クーロンで、イラストはあのジャン=クロード・ゴルヴァン。原著初版は2002年,第2版は2006年だが、この翻訳は3版の2011年に依拠している。考古学的知見に基づく再現イラストの威力ははかりしれない。絵本を見るような気楽さで、当時の風景をイメージすることができるわけだからだ。もちろん解説文の内容も専門家が書いているので高度で安心して読める。

 ただ、BookFinder.comによると、現在は2016年4月版(ハードカバー)ないし10月版(紙装版:ハードもあるような)が新刊として出回っているようだ。これが第3版の増刷なのか、第4版なのか、私には気になるところである。まあ初版から5年ごとに出し直しているので、第4版の可能性大であるが。

左が2002年初版、右は2016年版の表紙、か?

 というのは、私が最近興味を持っているGrandの遺跡について、翻訳冒頭の「第3版に向けて」で、「とりわけグランの復元図は、修正する必要があ」り、新たな復元図を発表予定、と書いてあるからだ。これは不意打ちだったので、いささか慌てて、翻訳者に問い合わせたところ、長谷川氏のほうから、復元図そのものは第2版とまったく同じだが、図の解説では聖域の泉の左の大神殿を「アポロ・グランヌスの神殿」 としていたものが、第3版では紹介文は消え、また第2版では単に「バシリカ」とのみ紹介されていたものが、 第3版ではモザイクについての記述が追加されている、と丁寧な回答があった(ご多忙中にもかかわらず、深く感謝します)。

 だが、あの「第3版に向けて」での言及がその程度の修正にすぎないものとは思えないので、現在、崩壊寸前の小教区教会付近の場所が神殿に該当しているので、そこらあたりの発掘調査から何も出なかった、とでもいうのだろうか。

 当方がとりあえず梗概で得ている最新情報(Pacal Vipardの2015年の論考)では、その件よりも、カラカッラ帝の訪問について「証拠は現在の仮説を覆すには至っていないが、きわめて脆弱である」と述べている程度なのである。こうなると空振りを覚悟で2016年版の遅いほうを入手するしかないが、さてアマゾン・コムでの発注なのでこちらの注文通り10月のほうが届くかどうか。ともかくやってみないと始まらない。物入りなことである。

【追記】注文していたものが届いた。当方の狙い通りの10月出版のいわゆる第4版だったが、内容的には第3版の増刷版のようで、とりあえず修正箇所はみあたらなかった。残念である。

【蛇足】ところで、こういう楽しい本を眺めているとつい忘れがちなのだが、古代ローマの基幹産業はあくまで農業であって、ということはおそらく人口の8〜9割は農業に携わっていて、そういう彼らにとって、とりわけ属州での都市生活はもとより、いわずもがなローマ的な文化装置は、たとえ享受できたにせよ生活のほんの一部にすぎなかった。これまで研究者がもっともらしく言ってきた「ローマ化」なんてその程度、と理解すべきなのだ。論より証拠、ローマ軍がブリタニアから撤兵したとたん、それ以前のドロ屋根住居の生活水準に逆戻りした事例を思い出すだけでいい(というより、現地庶民はそんな生活をずっと持続していただけのことだろう)。ブライアン・ウォード・パーキンズ(南雲泰輔訳)『ローマ帝国の崩壊:文明が終わるということ』白水社、2014(原著2005)。なに、ローマ帝国の衰退・崩壊ではなくて、そこが本当は本質的になんらローマ化してなかっただけのことなのだ。

 ローマ化の指標とされてきた闘技場にせよ劇場にせよ、公衆浴場、神殿にせよ、それらは第一義的に征服者とそれに追従して恥じない現地の上層者のための設備だった。これは連想するだけで分かりそうなことだ。満蒙開拓団が入植した満州で、日本敗北後たとえレンガ造りの構造は残っているにしても、伊勢神宮の分社は跡形もなくなっているはずだ。ハワイでは、日系移民によって祭神にカメハメハ大王やワシントンやリンカーンが加えられて存続しているらしい:しかし、これを誰も「ハワイの日本化」とは言わないだろう。

 なのに現代の研究者は訳知り顔で「ローマ化」と平気で言っちゃうのである。自分の頭で何も考えていないのだな〜、と思ってしまう。

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