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ペルペトゥア・メモ:(7)総督代理Hilarianusについて

 『受難記』VI.1以降で、とある都市の公共広場でペルペトゥアたちの裁判が開催されたことがわかる。その場所を研究者たちは例外なくカルタゴと考えてきているが、当時、属州総督=裁判官は管轄属州の主要都市を巡回していたので、なにも州都(今の場合はカルタゴ)である必要はないが、まあ州都での出来事としたいわけだ。彼女たちが収監されていた場所から歩いていける範囲に円形闘技場があったので、カルタゴがその条件を満たしているという事情もある。

 彼女たちの裁判官は「財務管理官procurator ヒラリアヌスHilarianus」だった。元老院管轄属州で最高の格式を誇っていたアフリカ州には当然執政官格の元老院身分が派遣されるのが常だった。ヒラリアヌスは「そのとき属州総督proconsulで死去したミヌキウス・ティミニアヌスMinucius Timinianusの座にいて死刑執行権ius gladiiを拝命していた」、要するに現職の総督が在任中に死亡したので、後任総督が派遣されるまで(ないし、次年時になるまで)、臨時に勅命によりおそらくカルタゴないしその近辺で皇帝直轄領の財務管理官だったヒラリアヌスが任命されたのであろう。Rives, 1996, p.5は、その線で年給金が10万セステルス級のprocurator provinciae Africae tractus Karthaginiensisと、20万級のProcurator IV publicorum Africaeの二つの候補を挙げ,後者と想定している。それが騎士身分の最高位であり、アフリカ属州のproconsulの代理にふさわしいとの判断からである。

 さて、その元来の職掌からヒラリアヌスは宮廷奴隷ないし解放奴隷出身者だった可能性が高い。そもそも命名法的にも本『受難記』で故意にcognomenのHilarianusのみで記され、他方proconsulという職名から元老院身分が確実な前任総督が姓名二単語Minucius Timinianusで表示されていることからも、それは傍証されるだろう。編纂者は冷厳に彼らの身分的違いを見極めていたのだ。

 奇しくもこのヒラリアヌスについて、同時代人テルトゥリアヌスが212/3年頃書いた『スカプラへ』ad Scapulam,3.1で以下のように述べている。「私たちは嘆かざるを得ません。いかなる都市も私たちの血を流して罰されずにはいられないだろうからです。属州長官ヒラリアヌス下でsub Hilariano praesideのようにです。人々は私たちの墓所の土地についてde areis sepulturarum nostrarum叫んだのです。’(キリスト教徒のための)土地などないareae non sint!’。(ところが)なくなったのは、彼ら自身の脱穀場areaeのほうでした。というのは、彼らは彼らの収穫物に事欠いたのです」。すなわち天罰として天変地異が異教徒を襲った,という意を同音異義語のだじゃれ含みで述べている(参照、大谷哲訳『歴史と地理』No.664, 2013-5, p.30;但し要修正)。ここで注目すべきは二点で、まずpraesesと当時もっぱら騎士身分担当属州の総督に付与された名称を使っていること。即ちここでも書き手のテルトゥリアヌスはヒラリアヌスの所属身分を明確に意識して殊更明記している。またそこでの叙述内容からは『受難記』とは別のキリスト教徒迫害理由が浮かび上がるはずである。

 1968年に公表された2つの碑文史料(A.Garcia y Bellido, Lapidas votivas a deidades exoticas halladas recientemente en Astorga y Leon, in : Boletín de la Real Academia de la Historia, 163, 1968, pp.203-204, figs.4 & 5 ≒ AE, 1968, 227, 228)を投入して、新たな知見が展開されるようになった。出土場所はスペインのレオン県のアストルガ。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、こんな碑文のことなど知りもしなかった。

 T.D.Barnes, Tertullian, Oxford, 1971, p.163 ; W.Eck, Miscellanea prosopographica, ZPE 42, 1981, p.235f. ;J.B.Rives, The Piety of a Persecutor, in: Journal of Early Christian Studies, 4-1, 1996, pp.1-25(idem, Religion and Authority in Roman Carthage from Augustus to Constantine, Oxford, 1995, p.244);Barnes, Early Christian Hagiography and Roman History, Tübingen, 2010, pp.304-7.

p.203 fig.4:男神たちと女神たちーー万神殿内で嘆願されるが正当かつ当然であるーーに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、正帝・・・の安寧のため・・・

p.204 fig.5:Jupiter Optimus Maximus,、Juno Regina、Minerva Victrixに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、敬虔かつ豊穣の正帝・・・の安寧のため・・・

 名前が削り取られた皇帝(たぶんコンモドゥス帝:在位180-192年)の治世下にスペインのアストルガで、Publius Aelius Hilarianusが財務管理官として奉職中に、子供たちと共に皇帝の安寧を願って2つの奉献を行った。ここでのヒラリアヌスが、203年ごろに北アフリカ属州カルタゴ付近に派遣されていた者と同一人物、と考えるわけである。それを、H.-G.Pflaum, Les Carrières procuratoriennes équestres sous le Haut-empire romain, Suppl., Paris, 1982, p.117 や、W.Eck, RE Suppl., XV, 1978, p.3, 69a)は、彼の職名を同じく20万級のprocurator Hispaniae Citerioris per Asturiam et Gallaeciam、ないしprocurator Hispaniae Taraconensisであると結論している。そして彼の父の名前もPubliusだったことが分かる。

 献辞文の一つはよろずの男女の神々に捧げられ、もう一つは帝都ローマのカピトリウムの三対神(ユピテル、ユーノー、ミネルウァ)に若干古風な用語で献辞している。これは、彼がローマ伝統の諸神格を崇敬していたことを示しているはずで、これを根拠にRivesらは、かく伝統的宗教に敬虔だった人物が、キリスト教徒たちのごとき蛮族的諸迷信に好意を示すことなどありえない、他方、他の属州総督たちは多くの場合、彼ほど宗教や迷信の諸問題にたいして興味を持たず、ただ単に彼らが理解した限りでの、一般的な諸先例に準拠して法律や命令を実施していたにすぎない、要するに、ヒラリアヌスをかなり熱心な異教信仰者として描いているわけである。しかし、そもそも公人としての宗教儀礼を個人的宗教心の表れと直結するのは先に結論ありきの安直すぎる理解だし、『受難記』を読む限り、私は、彼自身もレベル的に他の総督たち以上に熱心にキリスト教迫害していたとは思えない。たまたま副帝ゲタの誕生日祝賀の下達があり、それに必要な死刑囚を得ようとしただけのこととみたいのだが、上記テルトゥリアヌスの表現からは、キリスト教徒の墓地所有が問題になっていた可能性がある。真実は奈辺にあったのだろうか。

 さて若干余談ながら、同様に碑文研究から、このカルタゴのヒラリアヌスの子孫も孫の世代まで想定されている。息子P.Aelius Apollonianusとその息子でPrimipilaris職にあったP.Aelies Hilarianusである。

 続きとしていずれ、先任総督ミヌキウス・ティミニアヌスについて言及するつもりである。

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感染症の歴史:飛耳長目(27)

 今般の武漢ウィルスの流行で、なんと北朝鮮や大韓民国、さらには中華人民共和国の崩壊・衰退が、ウェブ上に希望的観測からか、それなりの知識人によってまことしやかに書き込まれていますが、まだまだパンデミックといえる状況では全然ありません。文字通り「大山鳴動鼠一匹」*かと(沈静化に努力されている当事者の尽力は言うまでもなく尊く、感染者や死亡者の方々にはお悔やみを申しあげますが)、効果がそうあるとは思えないマスクが店頭から消え去ったり(時節柄、これから花粉症対策で必要な私はたいへん迷惑しております)、またまたマスコミが扇動してちょっとはしゃぎすぎのような気がしてなりません。ま、発生源が憎まれっ子の中国ということもあるのでしょうが。「パンデミックでなく、インフォデミック」https://mainichi.jp/articles/20200205/k00/00m/040/035000c

 20世紀初頭、今とは比べものにならないくらい人々の移動が少なかった時代に、全世界で5千万人とも2千5百万ともいわれる死亡者(死亡者数です、念のため)をもたらしたのが、スペイン風邪でした(実際の発生源はアメリカ・カンザス州の軍施設だったとか)。これこそパンデミック。https://www.mag2.com/p/news/436737;http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html

 また昨年来、アメリカでは通常型のインフルエンザが猛威を振るっており、感染者数1900万人、死者数一万人を越えている由。これこそパンデミック、なのに、我が国では報道もされず、もちろんいつものよう米国人は入国拒否もされず。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55312830W0A200C2000000/

 これまでなぜか表だって主張されることはあまりありませんが、感染症が実はかくれた大きな爪痕を歴史に残してきたのは事実です。ヨーロッパ中世のペスト(黒死病)や、大航海時代のインカ帝国住民を襲った天然痘は有名ですが、この視点は西洋古代史でも、後2世紀後半から3世紀の地中海世界の衰退を考える時、有効でしょう。古代世界では、自然環境が自ずと文明圏の境界となり、それぞれ在地の風土病と折り合って生きていましたので、その境界を越えて侵入した外来の一定数の宿主の移動(多くの場合、軍事行動)が,自文明圏に未知の感染症を持ち込み、大流行をもたらしました。政治や経済の変化ばかり取り上げるのではない歴史がもっとあっていいと思っているのですが。昔より格段に危険度は高くなっているのですから。

 お医者さんのこんな書き込みもある。「新型コロナウィルスが他の感染症に比べてどのくらい恐ろしいのか、グラフで比較してみた【COVID-19】【2019-nCoV】」https://kaigyou-turezure.hatenablog.jp/entry/2020/02/16/111145

【参考資料】新型肺炎とSARS、MERSの違い:しかしいずれにせよ、この程度ではパンデミックとはいえないような。

      感染者数  死者数   致死率 患者1人から感染する人数

SARS 8096人 774人  9.6% 2~3人程度

MERS 2499人 861人 34.5% 1人か1人未満

新型肺炎 8243人 170人  2.1% 2.2人程度?

 (出典は、WHOや米医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンなどのデータによる。新型肺炎は30日現在。SARSは2003年の終息時、MERSは19年12月31日現在:https://mainichi.jp/articles/20200131/ddm/003/030/048000c?cx_cp=nml&cx_plc=bnr&cx_cls=newsmail-cp_article):もちろん、中国は統計操作では我が国政府以上に定評ありますので、あてになりませんが。2/13中国発表で、感染者数6万、死者1360 人:一説では今回の実態は10倍とか:となるとすでにパンデミックと言えるかもです。以下は、田中宇氏による悲観論の最たる見解。http://tanakanews.com/200212virus.htm

*あれれ、これって語源が、Horatius, Ars Poetica,139の「Parturient montes, nascetur ridiculus mus :山々が出産しようとしている。一匹の滑稽なネズミが生まれるであろう」で、ギリシア語の諺からのもの、とは知らなかった。「山々」が複数で、「ネズミ」が単数なのがミソか。ところで、私は今日の今日まで中国起源で「泰山」だと思い込んできた。どこで刷り込まれたのやら。

【追伸1】一方でこんなニュースも。ご冥福をお祈りします:「新型ウイルス、最初に警告の医師が死去 中国・武漢」https://www.afpbb.com/articles/-/3267127?cx_part=top_latest&fbclid=IwAR2pBmUoLw09jIMMesQuWcJdPpA8wJht6SlbWgfhkE1DgPFQ_F-7AipdH2E

【追伸2】2月7-9日、法事で故郷広島に来てます。こちらでマスクを買って帰ろうと目論んでいたのですが、のきなみ見当たりません(^^ゞ。2/9に帰京しておやっと思ったのですが、出た時よりマスクしている人がごっそり減っているような。よもや入手不能のため? 2/15:自宅近くのセブンイレブンでマスクが出回り始めた。そのせいかまたマスク姿が増加。なんとなく安心。

【追申3】田中氏の、ますます悲観的な続報、しかし早くも3日後に撤回。これでは所詮素人のインフォデミック。まあ言いっ放しの言論人ばかりの中で撤回するだけましであるが、いずれにせよ知識人を装うのなら悲観論を煽る素人談議的書き込みはやめてほしい。アクセス数を増やすためと言われても仕方ないだろう。http://tanakanews.com/200215virus.htm;http://tanakanews.com/200218virus.htm

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脳が溶けてガラス化?嘘でしょ:エルコラーノの遺体より発見

 これまで考古学関係でチェックしてきた「Archaeology News Network」の2020/1/23に「Mount Vesuvius Blast Turned Ancient Victim’s Brain To Glass」が掲載されて、わずか4日後に以下の邦語情報が出た。「脳が溶けてガラス化、窯焼きも、新たに浮上したベスビオ噴火の恐るべき死因:2000年前の遺体から読み解く死の真相、議論続く」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/012700049/

 簡単な原文を邦文のほうはだいぶふくらまして書いているが、それも事情を十分知らない日本の読者に向けて、親切というべきであろう。ただガラス質が見つかったのはただ一体のみ、それもcollegium Augustalium(Ins.VI.21-24)からの出土である。遺体の出土場所は、おそらく(a)から玄関に入って右隅の部屋(e)であろう。ここは最近中を覗けないようになってしまったが、これまでアウグストゥス礼賛会の管理人部屋とされていて、ベッドもあって、1961年にそのベッド上で25歳ぐらいの男性の遺骸が見つかった。オリジナル情報は、以下。『New England Journal of Medicine

右の写真は部屋(e)の内側から北(b)方向を写したもの

 ともかく現段階では、子細はまだ不明としか言いようがない感じだが、室内でもあり、頭蓋骨の破裂時にガラス容器が混入しただけのことのように思われるが、もちろん今回発表した研究者はその可能性も念頭に置いて検討し、だがそう結論しているようであるが、さて。

【追記】この記事、未だ読まれているようなので、2020/4/7の続報を。

 遺体の頭蓋骨から硝子質が発見され、その中から人間の脳組織や毛髪に見られるいくつかのタンパク質と脂肪酸が同定されたという、科学者たちの仮説は、高熱が文字通り被害者の脂肪と体組織を焼き払い、脳のガラス化を引き起こしたというものだ。この遺体は、1961年に当時の所長アメデオ・マイウリが、完全に焼け焦げて灰で埋まった木製ベッドの中から見つけたもの。

 60年振りの再調査で、一連の生体分子およびプロテオミクス分析によって、これらの遺骨の中に、人間の脳や髪の毛のトリグリセリドに典型的に見られる一連の脂肪酸と、とりわけ人間のすべての脳組織に非常に多く見られる7種類の酵素のタンパク質を発見し発見することを可能にした、と。

 実は、考古学の分野でも、医学・法医学の分野でも、このような残滓が発見されたことがないという点で、客観的に見て世界でも類を見ない発見であるが、ガラス固化は考古学で知られているが、これまでのものは、基本的には植物遺体に関するものである。人類学的サンプルの研究はこれからの趨勢と考えられている、とのこと。

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ヤーヴェ神の結婚・離婚報道?:遅報(23)

 1967年に、Raphael Pataiは、古代イスラエル人たちがヤーヴェ神とアシュラ女神Asherahの両方を礼拝していたと言及した最初の歴史家だった。その仮説は、Francesca Stavrakopoulou女史の調査によって新たな光があたることとなった。彼女は、シナイ砂漠のKuntillet Ajrud遺跡で1975/76年の発掘時に見つけられた前8世紀の大甕pithos上に興味深い銘文(むしろオストラコン)を見つけた。大甕は2つあったようで、問題のそれはAのほうで、それが以下である。

右図で、より巨大に描かれ男根ぶら下げているのがヤーヴェ神、右上で横向いているのがアシュラ女神とされる:真ん中の男(ここでは男根なし)は不明
こっちの第三の男には男根がある

 私はヘブライ語を読めないが、研究者によると落書きの上に「サマリアのヤーヴェと[彼の]アシュラ」,即ちヤーヴェ神の妻としてアシュラが並記されていると。  “Berakhti etkhem l’YHVH Shomron ul’Asherato” (“I have blessed you by Yahweh of Samaria and [his] Asherah”

 旧約聖書の「列王記 上」16.29-33には、当代のイスラエル王アハブ(第7代:前869-850在位)が、「シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシュラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」、さらに同、18.19にエリヤがアハブに「今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシュラの預言者と共に、カルメル山に集め」るよう言っている。要するにこの時期、神殿内にアシュラ像があった、おそらくヤーヴェと対の夫婦神としてだったと思われる。

 こうして、ヤーヴェ神は、かつて女神アシュラと結婚していたが、バビロン捕囚でかの地に単身赴任させられ、遠距離で夫婦関係は疎遠になり、その間ずっと別居状態で、帰国後復縁もできず離婚となってしまった、ということなのだろう。

【追記】以下のような、文字と絵とは無関係とする慎重論も、当然ある。http://www.messagetoeagle.com/ancient-yahweh-and-his-asherah-inscriptions-at-kuntillet-ajrud-remain-an-unsolved-biblical-mystery/

 いずれにせよ、人類創成以来、女神ーー>夫婦神ーー>男性神、といった神々の進化論の系譜からすると、ユダヤ教とて、女神時代、夫婦神時代があって一向に不思議ではないだろう。

 古い翻訳だが、ゼミでも輪読した以下を思い出してしまう。J.G.フレーザー『旧約聖書のフォークロア』太陽社、1977年(原著1923年)。さらに、永橋卓介(『イスラエル宗教の異教的背景』(基督教教程叢書 第13編)、日獨書院株式会社、1935年;『ヤハウェ信仰以前』国文社、1969年、など)も忘れがたく忘れたくない先駆者。彼は、フレーザー『金枝篇』の翻訳者でもある。いずれもまだ古書で入手可。

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私にとっての「三上」:トイレ噺(14)

 欧陽脩「帰田録」に「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)ち馬上・枕上・厠上なり」の言あり。すなわち、文章を考えるのに最も都合がよいという三つの場面。馬に乗っているとき、寝床に入っているとき、便所に入っているとき、というわけである。

 私に「馬上」の体験はない。確かに体験的に「厠上」は物思いにふけるにはいい場所のように思う。ただし、私に具体的成果の記憶はないけど、今後に期待しておきたい。そして「枕上」はさしずめ湯川博士だが、しかし私の場合は確実に眠ってしまう。だが「枕」ならぬ「夢」の中なら、いささか体験がある。今はむかし、修論の最終段階で、夢の中でひらめいた着想があった。「これで修論はできた!」と狂喜したのはいいが、もちろん,起きたらすべて忘れてしまっていたのは言うまでもない。 

 私の体験ではむしろ、風呂の湯船につかっているときに、着想が湧くことがある[かつてあった]。だから一時期,風呂の中に防水のメモ用紙をぶら下げていたこともある。いわば「湯上」というわけだが、用意万端だとかえって思いつかないものだ。これも今はむかし、40年近く前のことだが、青山学院大学での日本西洋史学会の口頭発表の前日(というより当日の丑三つ時)のこと、古代史なので残存史料は限定されている。レジメにそれらを網羅して印刷済みだったが、最後の詰め、というか史料をつなぎ新知見を紡ぎ出すための論理のつながりがどうしても決まらず、しかし発表時間は迫るしで時間切れぎみで、平凡な発表になるがしかたがない、諦めて風呂に入ってせめてさっぱりして人前にでなけりゃ、と湯船につかったとき、突然ひらめいたのである。私は水浸しのまま風呂を飛び出して部屋のメモ用紙に駆け寄り、メモった、ことがあった。まるでアルキメデスだったが、「ヘウレーカ!(ηὕρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びはしなかったが。おかげで自分的には満足のいく口頭発表をすることができた記憶がある。

 かくして今後への期待を含めて、「厠上」「湯上」、そして「夢上」が、私の場合の「三上」ということになる。
 しじょう、ゆじょう、むじょう

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考古学と神:遅報(22)

 ウィーン在住のジャーナリスト・長谷川良なる人物のブログ。2019/11/20「考古学者は「神」を発見できるか」:http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52261942.html

 以下の、この視点はたいへん面白かった。

 エジプトから60万人のイスラエル人を率いて神の約束の地、カナンを目指した指導者モーセの実存は今なお実証されていないことだ。60万人のイスラエル人がエジプトからカナンへ移動する場合、考古学的にも何らかの痕跡が残るものだが、これまで見つかっていないのだ。
 欧州で2015年秋、100万人以上の難民・移民が中東・北アフリカから彼らの“約束の地”欧州を目指して大移動したが、彼らの足跡は移動ルートのバルカンには残されている。移動途中、亡くなった難民・移民もいただろう。彼らの遺骨が埋葬された場合、何世紀後にその痕跡を辿れば、「西暦2015年ごろ、中東のシリアから大量の人々が欧州を目指して移動していた」という史実を解明するだろう。しかし、「出エジプト記」のイスラエルの大移動の痕跡は考古学者の努力にもかかわらず発見されていないのだ。

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 彼は「イエスの実の父はザカリアス」とも書いている。聖書学的にはきわものめくが、当時から知られていたイエス出生の秘密に関して、解釈的には面白い(http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52264551.html;http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/51755190.html)。私もこの話題を追ってドイツのBad KreuznachのRömerhalle博物館を訪れたことがある;私の方の説では、イエスの父はローマ軍団兵(ひょっとして補助軍兵士かもだが)Tiberius Julius Abdes Panteraであるが。

 ザカリアスとはマリアが妊娠中に身を寄せたことになっているエリザベツの夫のことだ。この見解、10年前の以下が種本らしいが、統一教会では40年も前から部外秘で言われていた由。Mark Gibbs, Secrets of the Holy Family, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2009. 著者はフリー・ジャーナリスト。残念ながら古書でなんと900ドル以上の高額、ないし我が国では新本は入手できない状況。また大学図書館も所蔵なし。日本ではまた、歯科医師の土屋仁なる人物も『クリスマス文書』文芸書房、1996、で書いているらしい。出版当時の定価2000円が、今では古書で6000円だが、まだ入手可能。内容的には専門家でないので問題が無きにしもあらず。

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ケルトの女神Epona:Ostia謎めぐり(3)

 場所は、III.xiv.1-15:Caseggiato di Annio 。「アンニウスの共同住宅」。アンニウス通りvia di Annioに沿った、西側から見た正面図では、左(北)から右(南)に、番地1,3,4,9,10,14(数字は、9を除いて出入口に付されている)が検討対象である。

↑ここ       

          1   3         4     9     10        14   
3Dレーザー測量による西正面図:九州大学堀賀貴教授よりの提供

 この箇所のスレートと文字モザイクの位置関係は以下のごとし。

京大で発表時のDeLaine女史配布レジメより

 但し、一番右側のスレートは、J.DeLaine女史の想定であって、原位置では下のように枠内にスレートはない。(J.Th. Bakker:https://www.ostia-antica.org/privrel/privrel.htmによると「Possibly from the facade of the Caseggiato dietro la Curia (I,IX,1)」)又、上図の文字モザイクとの対応関係を考えると、左端の「OMN[I]A」の下部にもうひとつスレート枠があっていいはずだが、現況ではその痕跡はない。

           ↑スレートはめ込み枠

 逆に、右端のスレートの上部にも銘文を印したTABULA ANSATAが予想されるが、上部の壁は崩壊しているので確かめようもない。ただ、判明している3つの銘文を連続で捉えるなら、「OMNIA FELICIA ANNI[I]」で、「アンニウスの(商売)すべて上首尾」と読めるので、右端スレートについてのDeLaine女史の想定が正しければ、「(女神)Eponaによって DE EPONA」に類する文言だっただろうということになる。

 さらに、区画14の南面右角の上部にニッチが確認される(DeLaine女史の位置づけは間違い)。ここにエポナ女神像が安置されていた可能性は高いが、店主のアンニウスの彫像だったかもしれない。

DeLaine女史想定位置↑             ↑現況のニッチの場所

 検討すべき論点は多い。スレートには以下が描かれている。現状左端が、両脇のドリウム[型式からスペイン産オリーブ油用と思われる:関連でこの集合住宅の北側に当然注目すべき]に挟まれた人物と右上に机に座った人物(どちらかがたぶんアンニウス)、中央は帆に風をはらんだ商船と舵をとっている人物、そして想定されている右端は、左右に馬を従え玉座に座り、右手で馬の口に手ずから餌を与え、左手に豊穣の杖らしきものをもった女神エポナが描かれている。このエポナ像は構図やアトリビュート的に他の一般的なエポナ像と比べて特異といっていいだろう(一般的なポエナ像は以下参照:http://www.epona.net;但し、Jovicic, Bogdanovic, New evidence of the cult of Epona in Viminacium.pdf掲載のFig.10の紅玉髄製貴石の構図は、女神像に限って極めて類似の印象)。

左スレート
中スレート:船体の前方にスレート制作年を表示する丸い押印が見られる
右端想定スレート:女神の頭部は失われている
左手に持っているのは鞭だろうか。今一不明
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コンスタンティヌス大帝の著名コイン:SPES PVBLIC

 いつもウェブ・オークションを見ているClassical Numismatic Groupだが、この1/14-15にNew Yorkで第48回国際競売が、出品1453ロット、売買予定総額780万ドルで開催予定とのメールが届いた(https://www.cngcoins.com)。そのカタログをみていたら、とんでもない出物に出くわした。それが326/7年コンスタンティノポリス造幣所第一工房打刻の一品で、表面に若々しい皇帝(実際には当時54,5歳)の右向きの横顔と周縁に「CONSTAN TINVS AVG」、裏面に、先端に「キー・ロー」の意匠の竿頭をいただき、三つのメダイ(当時の3皇帝、正帝コンスタンティヌス1世、副帝クリスプス、副帝コンスタンティヌス2世の肖像、という説あり)が描かれた軍旗(ラバルムlabarum:私は軍団旗の類いではなく、皇帝旗と考えている)を装着した旗竿の石鎚が蛇を刺し貫いているデザインと、「SPES PVBLIC[A]」(国家的期待)が打刻されたものである(一行下のAは第一工房の刻印と読む)。

コンスタンティノポリス建設開始は324年、落成式は330年だった。

 そのコインとその周辺に関する詳細は生きていたらいずれ多少立ち入って触れる機会を持ちたいと思っているテーマであるが、とにかく、コンスタンティヌス研究者にとってはまさに垂涎の的の記念貨幣である。もちろん私もオークションに出品されたのを見たのは今回初見で、出品者側の評価額3000ドルとなっているが、この額で決着しそうもない気がする。日本のどこかに一つはあってほしい品なので、本当なら暮れのボーナスをはたいてでもチャレンジしたいところだが、年金生活者で競売に参加する余裕がないのが残念至極。

【追記】しょっぱな1800ドルをつけた人がいたが、その後どうなっているかと先ほどみたら、なんとまだ15日以上のオークション期間を残して「Lot Withdrawn」の表示がっ。こういう場合どうなっているのか詳らかでないが、博物館とかの大口が介入して即金で落としたのだろうか。まあそうされても仕方のない一品ではある。私人の死蔵よりはいいのは確かである。

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トイレ・ウンコ・シッコ本:トイレ噺(12)

 人生の主役ではないくせに、人々の意表をついて笑いを誘い、またのぞき見趣味を満足させるテーマだからであろうか、汗牛充棟でありながら玉石混交の書籍が溢れている、そんな印象を持つ中で、ここでは特徴あるものをまとめておこう。

(01) 山田稔『スカトロジア(糞尿譚)』講談社文庫、1977年:筆者(1930-)は元京都大学人文研教授(1994年退官)。専門がフランス文学のせいか、本書は古今東西の諸文献からの博覧強記の引用がなされていて、私の読書意欲を刺激してくれた。冒頭、水上勉『雁の寺』、太宰治『斜陽』、夏目漱石『こころ』、火野葦平『糞尿譚』、ゴンクール『日記』、で始まっているが、白眉はスイフト『ガリバー旅行記』やラブレー『ガルガンチュワ物語』あたりだろうか。

(02) 藤井康男『異説糞尿譚:古今東西、ちょっとくさい話』カッパ・ブックス、1986年:著者(1930-1996年)は、株式会社龍角散社長だったが(薬学部卒業後、理学博士号も取得)、ほとんど会社に寄りつかない多趣味な粋人だったらしい。本書においても、その面目躍如で、普通の人が書くのを避けている件にも果敢に切り込んでくださっている。ご自分の体験を惜しげもなく吐露されていて、多数の女性との交流から情報を得ているようで、あれれと思わされるし(とりわけ女性の立ちションと排尿時の音にやたらこだわってらっしゃる)、クラシック通だからだろう、モーツァルトのすさまじいスカトロジックな書簡の紹介には畏れいった次第(p.29-38)。ただ一点、別役実『道具づくし』大和書房、1984に騙されて「かわやだんご」「かわやどびん」をマジに取り上げているのはご愛敬か(p.186-188)。


 参考までに別役が掲載している「かわやだんご」の図を示しておこう。もっともらしい彼の註記によると挿画は『和漢三才図会』掲載とのこと。ちなみに「どびん」のほうは言及のみで挿絵はない。

p.201掲載

(03) 有田正光・石村多門『ウンコに学べ!』ちくま新書、2001年。有田(1950-)と石村(1957-)は東京電機大学理工学部所属の理系と文系の研究者のコラボ作品である。なので本書前半には数字がよく出てきていて、私には有難かった。そして、水洗になって大小便が水に流されてたちまち目の前から消え去ることに慣れてしまった私たちに、ウンコの行く末、下水処理の現実:資源の浪費を教えてくれていて、たいへん説得的である。そしてむしろかつての人糞を肥料として活用していた時のほうが合理的だった、とサスティナブルな視点で論じている。

(04) 安川実『ふうらい坊留学記:日本青年、アメリカ西部を荒らす』カッパ・ブックス、1960年。著者(1933-2010年)は「ミッキー安川」という芸名で20世紀後半から21世紀にかけて活躍したマルチタレント。1953年アメリカのテネシー大学留学生時のエピソード(アメリカ人学生がトイレでまず小を出してから大に移動するのを見て、日本人は同時に排泄できると賭けにもちこみ掛け金をせしめた)は、私もカルチャーで利用させていただいた。このエピソード、日経の「私の履歴書」でどなたか名前を失念したが、我がこととしてパクって書いていたのを読んだ記憶もある。今回ググっていて復刊されているのを知った(『ミッキー安川(の)ふうらい坊留学記:50年代アメリカ、破天荒な青春』サンケイ出版、1980年;中公文庫、1999年;復刊ドットコム、2010)。

左端が初版で、順に歴代再版表紙

(05) 斎藤たま文・なかのひろたか絵『おしりをふく話』福音館書店、1998年。これは児童向きの『月刊たくさんのふしぎ』の1998年9月号(第162号)である。なにがいいかというと、日本における大便の後始末の素材の変遷を絵入りで説明していることで、たとえば他の著作では「昔は稲藁の束で拭いていた」と文字で書くだけでおわっているものを、藁の折り方を図で示してくれていて具体的この上なく、私にとって大変役だった。そして、昔の庶民は身近に豊富にあった素材を工夫して使って、また自然に戻していたことをさり気なく伝えてもいるが(川の上流で尻拭きに使ったクソベラを、下流で薪として拾っていた、というのは笑えた)、はたして想定読者層の小学生に内容の真意が伝わっただろうか。

(06) 安岡章太郎編『滑稽糞尿譚:ウィタ・フンニョアリス』文春文庫、1995年(初版、講談社、1980年)

 この本のいいところは、色々な著作からトイレ話に関する部分を引用してくれていることである。吉行淳之介、北杜夫、入江相政から始まって21名の日本人文筆家、そのあとチョーサー、ラブレー、オイレンシュピーゲル、バルザック、風来山人(平賀源内)の抜粋が続く。

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ケルト・メモ:(5)エポナ女神

 余りの高額に古書が出るまで様子見していたが、『ローマ宗教文化事典』原書房、2019年、をようやく購入した(けど、我慢したほどには大して安くならなかった)。気になる項目をちらちら眺めているうちに「エポナ」に行き当たった。そこに、エポナはもともとケルトの馬の女神であったが、ガリアの神のうちローマで唯一「エポナ祭」Eponaliaという祝祭が12月18日にもたれていた、と書いてあることに目がとまった(ほぼ同様な内容がウィキペディアや、一層詳しく『ケルト神話・伝説事典』東京書籍、2006年、66-68頁にも掲載されていたのは、迂闊だった)。Epona女神像で、一般に流布している上品なローマ的傾向の彫像は以下。

Salonica出土:4世紀;この地にエポナ信仰を持ちこんだのは皇帝ガレリウスという説もあるらしい。

 というのは、昨年の三月に京大で開催された九大の堀教授の科研での国際小シンポジウムで、オクスフォード大学のジャネット・ディレーンJanet DeLaine博士の「オスティアの街角にみる聖なるお守りたち」Seeking Divine Protection in the Streets of Ostiaの中で、これまでオスティア遺跡で帝国西部の神格のイメージは皆無だったはずが、突如エポナ女神を描いた平板reliefが登場したことに、私はおおげさでなく驚愕したことがあったからである。

 しかし、これはEric Taylor編集のHP「Ostia:Harbour City of Ancient Rome」 の「Terracotta objects」の中にすでに「E27317」として登録ずみのものだったことをあとから知ったので(https://www.ostia-antica.org/vmuseum/small_3.htm)、当方の調査不足にすぎなかったのだが。ディレーン女史は、この平板の元来の設置場所を、Caseggiato di Annio (III,XIV,4)の一番右側の空の枠内だったと想定している。下図がそれである。

Relief of Epona between two horses. Guida p. 97. Museo Ostiense. Inv. 3344.

 現地産の女神像は以下のようなものだった。見ての通り、素材・技量ともに劣るので、博物館でも見栄えしないし、見学者の興味をひくことも少ないだろう。なので結果的に見た目のいい「ローマ化」された大理石製のものの展示が幅をきかすことになるが、掛け値なしの現地発のレベルはこちらにあるのだ。

フランスのフレマン出土、ルクセンブルクのDuelem出土、ハンガリーのブタペスト出土

 続きは「オスティア謎めぐり(3)」のほうで。

【補遺】ローマ時代の文獻で「女神エポナ」が出てくるものをメモしておこう。

ユウェナリス『風刺詩集』8.155:執政官のあいだ、「毛持てる者」(ひつじ)と赭い若去勢牛(うし)をヌマ(王)の(定めた)流儀で(供犠として)殺しはしても、ユーピテルの祭壇の前で、(彼が)誓うのは、(馬の守護女神たる)エポナと臭い檻に描かれた(エポナの)像にかけてだけなのだ。

アプレイウス『転身物語』3.27:この厩の梁を支えている大黒柱の、ちょうど真ん中のところに馬頭観音(エポナ)のお像が小さなお宮に据えられてあるのが目につきました。見れば正しく真新しい薔薇の花冠がいくつか、小綺麗にそれには懸けまわしてあります。

テルトゥリアヌス『護教論』16.5:ところであなたがたの間では、あらゆる種類の役畜やすべての駄馬が、その女神エポナとともに崇拝されているのを、あなたがたは否定しないであろう。してみると、恐らくこのこと、つまりさまざまな家畜や野獣の中で、ロバだけしか崇拝しないということが、あなたがたがわれわれを非難する理由なのであろう。

テルトゥリアヌス『異教徒へ』11.6:すべてのロバですら、たしかに汝らにとって崇拝の対象である、彼らの守護者エポナと共に。そしてすべての畜群、そして畜牛、そして野獣を汝らは聖別する、そしてその上それらの厩舎をすら。

ミヌキウス・フェリクス『オクタウィウス』28.7:これが君たちが風聞によって得た話、ロバの頭は我々にとって聖なるものである、の出所である。そのようなものを崇拝する愚か者がどこにあろうか? また、それが崇拝されるなどと考える愚か者がどこにあろうか? もっともそれは、すべてのロバを君たちのエポナに捧げている、まさに君たちの中の者を抜かしての話なのだが、君たちはイシスの集団の儀式においてはロバを貪り食らう。

【閑話休題】私は四谷3丁目の老舗のイタリアン・リストランテで、二の皿としてロバ肉を食したことがある。それまでイタリア人がそんなものを食すことなど知らなかったのだが、ローマ時代にロバやラバは荷駄として多かったので、庶民は当然食しただろう、だったら食してみない手はない、と。食感としては普通の牛肉と変わることはなく、柔らかかった。まあ食用に育てられたものだろうが、往時庶民が食したのはきつい労働の挙げ句使い物にならなくなったなれの果てだったのだろうから、かなり堅かったに違いない。

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