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ペルペトゥア・メモ:(7)天への梯子

 ペルペトゥアの夢の中に出てくる「天に向かう(ヤコブの)梯子」La scala del cielo(di Giacobbe)に関して、以下の文獻から首尾よくフレスコ画の出版当時の残存状況のカラー画が入手できたので衆知します。

Joseph Wilpert, Roma Sotterranea : Le pitture delle Catacombe romane, Roma, 1903, tavole, Tav.153 ; testo, p.445, Fig.43.
 
 残存フレスコ画(カラー)はTav.153、復元線描画はFig.43、です。後者で、左右の図柄が同じなのはなぜ、と思っていたが、この原画をみたらWilpertの想像ということが今回判明。中央のイエス像も光輪はなかったのでは。出土場所は、Henri Leclercqによると( par Le R.P.dom Fernand  Cabrol, Dictionnaire d’Archéologie Chrétienne et de Liturgie, Paris, II/1, 1910, col.151-2)、cimetière de Balbineとなっているが、Wilpertでは、arcosolio dei Santi Marco e Marcelliano。製作年代は四世紀末となっているよう。

 この本は、国内では京都大学のみが所蔵していたので、コピーを取り寄せましたが、さすが京大図書館職員で、註記にTav.153, 164が出ているが、と問い合わせがあり、そっちも送ってくださいとお願い。半分当たりで首尾よく上記のカラー版が得られました。古書検索したところ、約90万円で購入可能です。どなたか私、というよりも上智大学図書館に寄附していただけると有難いのですが(^^)。

 実は上智大学には、なぜか以下が所蔵されてます。20年ほど前にそれを見つけたとき狂喜しました。でも・・・ドイツ語とはいえ、出版年など書籍データがイタリア語版とかなり重複しているので、ひょっとして同内容? 明日調べてみましょう。
 Joseph Wilpert, Die Malereien der Katakomben Roms ; Textband, Tafelband, Freiburg, 1903.

 調べたら、構成的に同じでした。かなり痛んでいるので、貴重図書にでもしてほしいと思う。さて、どちらが原文なのでしょうか。ドイツ語版は他に、立教大学、早稲田大学、東芸大が所蔵してます。

 なお、Via Latinaのカタコンベには、320-350年頃の次のフレスコ画がある。

 また、スペインのブルゴスには、四世紀中頃の日付の、以下のような石棺がある。その中央に梯子が。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、一生の思い出である。こんな石棺のことなど知りもしなかった。も一度行きたいと思うが、歩きではもう無理なのが悔しい。

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40年振りに再公開:ポンペイ「恋人たちの家」(I.x.11)

 時々覗いている「Archaeology News Network」(https://archaeologynewsnetwork.blogspot.com/2020/02/pompeii-house-of-lovers-reopens-to.html)に情報が。今度、渡伊したら必ず突入しなければ。

 場所はI.x.11の、Casa degli Amanti。1980年の地震による修復がようやく終わって、この火曜日(2/18)からの公開らしい。確かに以下の写真ではぼろぼろであった。https://pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R1/1%2010%2011.htm

 この家の名称は、以下の落書きに依っている(上図の部屋13の入り口南側に面した、列柱廊10東側の壁):“Amantes ut apes vitam mellita exigent.” :「恋人たちは、蜜蜂のように、蜜の(甘い)生活を営む」[CIL IV 8408a];この落書きの下に以下も見える。”Velle”:「そうあれかし」[CIL IV 8408b]

アヒルの下にも落書きがある。”・・・ Amantes cureges” [CIL IV 8408cでは、”Amantes Amantes cureges”と読んでいて、最後の単語は‘scil.curae egentes, vel egeni sunt’と注釈つき].「恋人たちは恋人たちの世話を焼きたがるものだ」といった類いの意味か。

 このフレスコ画の近くに、以下もあるらしい。”C(aius) Ann(a)eus / Capito / eq(ues) coh(ortis) X pr(aetoriae) / c(enturia) Grati”  [CIL IV 8405]:ガイウス・アンナエウス・カピト、第10近衛歩兵連隊騎士、グラトゥス中隊出身

【ついでに一言】ポンペイ関係でググっていたら、たぶん新顔で「Visitare Pompei」(http://www.visitarepompei.org/buy_now.php?order=23 )という画像解説に行き当たった。24時間使用で6ユーロ。かなり期待して試しに購入して見たが、まったくの期待外れだった。誰にもお勧めしません。金返せ〜。

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ペルペトゥア・メモ:(7)総督代理Hilarianusについて

 『受難記』VI.1以降で、とある都市の公共広場でペルペトゥアたちの裁判が開催されたことがわかる。その場所を研究者たちは例外なくカルタゴと考えてきているが、当時、属州総督=裁判官は管轄属州の主要都市を巡回していたので、なにも州都(今の場合はカルタゴ)である必要はないが、まあ州都での出来事としたいわけだ。彼女たちが収監されていた場所から歩いていける範囲に円形闘技場があったので、カルタゴがその条件を満たしているという事情もある。

 彼女たちの裁判官は「財務管理官procurator ヒラリアヌスHilarianus」だった。元老院管轄属州で最高の格式を誇っていたアフリカ州には当然執政官格の元老院身分が派遣されるのが常だった。ヒラリアヌスは「そのとき属州総督proconsulで死去したミヌキウス・ティミニアヌスMinucius Timinianusの座にいて死刑執行権ius gladiiを拝命していた」、要するに現職の総督が在任中に死亡したので、後任総督が派遣されるまで(ないし、次年時になるまで)、臨時に勅命によりおそらくカルタゴないしその近辺で皇帝直轄領の財務管理官だったヒラリアヌスが任命されたのであろう。Rives, 1996, p.5は、その線で年給金が10万セステルス級のprocurator provinciae Africae tractus Karthaginiensisと、20万級のProcurator IV publicorum Africaeの二つの候補を挙げ,後者と想定している。それが騎士身分の最高位であり、アフリカ属州のproconsulの代理にふさわしいとの判断からである。

 さて、その元来の職掌からヒラリアヌスは宮廷奴隷ないし解放奴隷出身者だった可能性が高い。そもそも命名法的にも本『受難記』で故意にcognomenのHilarianusのみで記され、他方proconsulという職名から元老院身分が確実な前任総督が姓名二単語Minucius Timinianusで表示されていることからも、それは傍証されるだろう。編纂者は冷厳に彼らの身分的違いを見極めていたのだ。

 奇しくもこのヒラリアヌスについて、同時代人テルトゥリアヌスが212/3年頃書いた『スカプラへ』ad Scapulam,3.1で以下のように述べている。「私たちは嘆かざるを得ません。いかなる都市も私たちの血を流して罰されずにはいられないだろうからです。属州長官ヒラリアヌス下でsub Hilariano praesideのようにです。人々は私たちの墓所の土地についてde areis sepulturarum nostrarum叫んだのです。’(キリスト教徒のための)土地などないareae non sint!’。(ところが)なくなったのは、彼ら自身の脱穀場areaeのほうでした。というのは、彼らは彼らの収穫物に事欠いたのです」。すなわち天罰として天変地異が異教徒を襲った,という意を同音異義語のだじゃれ含みで述べている(参照、大谷哲訳『歴史と地理』No.664, 2013-5, p.30;但し要修正)。ここで注目すべきは二点で、まずpraesesと当時もっぱら騎士身分担当属州の総督に付与された名称を使っていること。即ちここでも書き手のテルトゥリアヌスはヒラリアヌスの所属身分を明確に意識して殊更明記している。またそこでの叙述内容からは『受難記』とは別のキリスト教徒迫害理由が浮かび上がるはずである。

 1968年に公表された2つの碑文史料(A.Garcia y Bellido, Lapidas votivas a deidades exoticas halladas recientemente en Astorga y Leon, in : Boletín de la Real Academia de la Historia, 163, 1968, pp.203-204, figs.4 & 5 ≒ AE, 1968, 227, 228)を投入して、新たな知見が展開されるようになった。出土場所はスペインのレオン県のアストルガ。私は20年前に2夏がかりでカミーノを全踏破した。ブルゴス、レオン、そしてアストルガを通過したが、こんな碑文のことなど知りもしなかった。

 T.D.Barnes, Tertullian, Oxford, 1971, p.163 ; W.Eck, Miscellanea prosopographica, ZPE 42, 1981, p.235f. ;J.B.Rives, The Piety of a Persecutor, in: Journal of Early Christian Studies, 4-1, 1996, pp.1-25(idem, Religion and Authority in Roman Carthage from Augustus to Constantine, Oxford, 1995, p.244);Barnes, Early Christian Hagiography and Roman History, Tübingen, 2010, pp.304-7.

p.203 fig.4:男神たちと女神たちーー万神殿内で嘆願されるが正当かつ当然であるーーに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、正帝・・・の安寧のため・・・

p.204 fig.5:Jupiter Optimus Maximus,、Juno Regina、Minerva Victrixに、P.Aelius Hilarianus、Publiusの息子、皇帝財務管理官は、子供たちと共に、敬虔かつ豊穣の正帝・・・の安寧のため・・・

 名前が削り取られた皇帝(たぶんコンモドゥス帝:在位180-192年)の治世下にスペインのアストルガで、Publius Aelius Hilarianusが財務管理官として奉職中に、子供たちと共に皇帝の安寧を願って2つの奉献を行った。ここでのヒラリアヌスが、203年ごろに北アフリカ属州カルタゴ付近に派遣されていた者と同一人物、と考えるわけである。それを、H.-G.Pflaum, Les Carrières procuratoriennes équestres sous le Haut-empire romain, Suppl., Paris, 1982, p.117 や、W.Eck, RE Suppl., XV, 1978, p.3, 69a)は、彼の職名を同じく20万級のprocurator Hispaniae Citerioris per Asturiam et Gallaeciam、ないしprocurator Hispaniae Taraconensisであると結論している。そして彼の父の名前もPubliusだったことが分かる。

 献辞文の一つはよろずの男女の神々に捧げられ、もう一つは帝都ローマのカピトリウムの三対神(ユピテル、ユーノー、ミネルウァ)に若干古風な用語で献辞している。これは、彼がローマ伝統の諸神格を崇敬していたことを示しているはずで、これを根拠にRivesらは、かく伝統的宗教に敬虔だった人物が、キリスト教徒たちのごとき蛮族的諸迷信に好意を示すことなどありえない、他方、他の属州総督たちは多くの場合、彼ほど宗教や迷信の諸問題にたいして興味を持たず、ただ単に彼らが理解した限りでの、一般的な諸先例に準拠して法律や命令を実施していたにすぎない、要するに、ヒラリアヌスをかなり熱心な異教信仰者として描いているわけである。しかし、そもそも公人としての宗教儀礼を個人的宗教心の表れと直結するのは先に結論ありきの安直すぎる理解だし、『受難記』を読む限り、私は、彼自身もレベル的に他の総督たち以上に熱心にキリスト教迫害していたとは思えない。たまたま副帝ゲタの誕生日祝賀の下達があり、それに必要な死刑囚を得ようとしただけのこととみたいのだが、上記テルトゥリアヌスの表現からは、キリスト教徒の墓地所有が問題になっていた可能性がある。真実は奈辺にあったのだろうか。

 さて若干余談ながら、同様に碑文研究から、このカルタゴのヒラリアヌスの子孫も孫の世代まで想定されている。息子P.Aelius Apollonianusとその息子でPrimipilaris職にあったP.Aelies Hilarianusである。

 続きとしていずれ、先任総督ミヌキウス・ティミニアヌスについて言及するつもりである。

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感染症の歴史:飛耳長目(27)

 今般の武漢ウィルスの流行で、なんと北朝鮮や大韓民国、さらには中華人民共和国の崩壊・衰退が、ウェブ上に希望的観測からか、それなりの知識人によってまことしやかに書き込まれていますが、まだまだパンデミックといえる状況では全然ありません。文字通り「大山鳴動鼠一匹」*かと(沈静化に努力されている当事者の尽力は言うまでもなく尊く、感染者や死亡者の方々にはお悔やみを申しあげますが)、効果がそうあるとは思えないマスクが店頭から消え去ったり(時節柄、これから花粉症対策で必要な私はたいへん迷惑しております)、またまたマスコミが扇動してちょっとはしゃぎすぎのような気がしてなりません。ま、発生源が憎まれっ子の中国ということもあるのでしょうが。「パンデミックでなく、インフォデミック」https://mainichi.jp/articles/20200205/k00/00m/040/035000c

 20世紀初頭、今とは比べものにならないくらい人々の移動が少なかった時代に、全世界で5千万人とも2千5百万ともいわれる死亡者(死亡者数です、念のため)をもたらしたのが、スペイン風邪でした(実際の発生源はアメリカ・カンザス州の軍施設だったとか)。これこそパンデミック。https://www.mag2.com/p/news/436737;http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html

 また昨年来、アメリカでは通常型のインフルエンザが猛威を振るっており、感染者数1900万人、死者数一万人を越えている由。これこそパンデミック、なのに、我が国では報道もされず、もちろんいつものよう米国人は入国拒否もされず。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55312830W0A200C2000000/

 これまでなぜか表だって主張されることはあまりありませんが、感染症が実はかくれた大きな爪痕を歴史に残してきたのは事実です。ヨーロッパ中世のペスト(黒死病)や、大航海時代のインカ帝国住民を襲った天然痘は有名ですが、この視点は西洋古代史でも、後2世紀後半から3世紀の地中海世界の衰退を考える時、有効でしょう。古代世界では、自然環境が自ずと文明圏の境界となり、それぞれ在地の風土病と折り合って生きていましたので、その境界を越えて侵入した外来の一定数の宿主の移動(多くの場合、軍事行動)が,自文明圏に未知の感染症を持ち込み、大流行をもたらしました。政治や経済の変化ばかり取り上げるのではない歴史がもっとあっていいと思っているのですが。昔より格段に危険度は高くなっているのですから。

 お医者さんのこんな書き込みもある。「新型コロナウィルスが他の感染症に比べてどのくらい恐ろしいのか、グラフで比較してみた【COVID-19】【2019-nCoV】」https://kaigyou-turezure.hatenablog.jp/entry/2020/02/16/111145

【参考資料】新型肺炎とSARS、MERSの違い:しかしいずれにせよ、この程度ではパンデミックとはいえないような。

      感染者数  死者数   致死率 患者1人から感染する人数

SARS 8096人 774人  9.6% 2~3人程度

MERS 2499人 861人 34.5% 1人か1人未満

新型肺炎 8243人 170人  2.1% 2.2人程度?

 (出典は、WHOや米医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンなどのデータによる。新型肺炎は30日現在。SARSは2003年の終息時、MERSは19年12月31日現在:https://mainichi.jp/articles/20200131/ddm/003/030/048000c?cx_cp=nml&cx_plc=bnr&cx_cls=newsmail-cp_article):もちろん、中国は統計操作では我が国政府以上に定評ありますので、あてになりませんが。2/13中国発表で、感染者数6万、死者1360 人:一説では今回の実態は10倍とか:となるとすでにパンデミックと言えるかもです。以下は、田中宇氏による悲観論の最たる見解。http://tanakanews.com/200212virus.htm

*あれれ、これって語源が、Horatius, Ars Poetica,139の「Parturient montes, nascetur ridiculus mus :山々が出産しようとしている。一匹の滑稽なネズミが生まれるであろう」で、ギリシア語の諺からのもの、とは知らなかった。「山々」が複数で、「ネズミ」が単数なのがミソか。ところで、私は今日の今日まで中国起源で「泰山」だと思い込んできた。どこで刷り込まれたのやら。

【追伸1】一方でこんなニュースも。ご冥福をお祈りします:「新型ウイルス、最初に警告の医師が死去 中国・武漢」https://www.afpbb.com/articles/-/3267127?cx_part=top_latest&fbclid=IwAR2pBmUoLw09jIMMesQuWcJdPpA8wJht6SlbWgfhkE1DgPFQ_F-7AipdH2E

【追伸2】2月7-9日、法事で故郷広島に来てます。こちらでマスクを買って帰ろうと目論んでいたのですが、のきなみ見当たりません(^^ゞ。2/9に帰京しておやっと思ったのですが、出た時よりマスクしている人がごっそり減っているような。よもや入手不能のため? 2/15:自宅近くのセブンイレブンでマスクが出回り始めた。そのせいかまたマスク姿が増加。なんとなく安心。

【追申3】田中氏の、ますます悲観的な続報、しかし早くも3日後に撤回。これでは所詮素人のインフォデミック。まあ言いっ放しの言論人ばかりの中で撤回するだけましであるが、いずれにせよ知識人を装うのなら悲観論を煽る素人談議的書き込みはやめてほしい。アクセス数を増やすためと言われても仕方ないだろう。http://tanakanews.com/200215virus.htm;http://tanakanews.com/200218virus.htm

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脳が溶けてガラス化?嘘でしょ:エルコラーノの遺体より発見

 これまで考古学関係でチェックしてきた「Archaeology News Network」の2020/1/23に「Mount Vesuvius Blast Turned Ancient Victim’s Brain To Glass」が掲載されて、わずか4日後に以下の邦語情報が出た。「脳が溶けてガラス化、窯焼きも、新たに浮上したベスビオ噴火の恐るべき死因:2000年前の遺体から読み解く死の真相、議論続く」https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/012700049/

 簡単な原文を邦文のほうはだいぶふくらまして書いているが、それも事情を十分知らない日本の読者に向けて、親切というべきであろう。ただガラス質が見つかったのはただ一体のみ、それもcollegium Augustalium(Ins.VI.21-24)からの出土である。遺体の出土場所は、おそらく(a)から玄関に入って右隅の部屋(e)であろう。ここは最近中を覗けないようになってしまったが、これまでアウグストゥス礼賛会の管理人部屋とされていて、ベッドもあって、1961年にそのベッド上で25歳ぐらいの男性の遺骸が見つかった。オリジナル情報は、以下。『New England Journal of Medicine

右の写真は部屋(e)の内側から北(b)方向を写したもの

 ともかく現段階では、子細はまだ不明としか言いようがない感じだが、室内でもあり、頭蓋骨の破裂時にガラス容器が混入しただけのことのように思われるが、もちろん今回発表した研究者はその可能性も念頭に置いて検討し、だがそう結論しているようであるが、さて。

【追記】この記事、未だ読まれているようなので、2020/4/7の続報を。

 遺体の頭蓋骨から硝子質が発見され、その中から人間の脳組織や毛髪に見られるいくつかのタンパク質と脂肪酸が同定されたという、科学者たちの仮説は、高熱が文字通り被害者の脂肪と体組織を焼き払い、脳のガラス化を引き起こしたというものだ。この遺体は、1961年に当時の所長アメデオ・マイウリが、完全に焼け焦げて灰で埋まった木製ベッドの中から見つけたもの。

 60年振りの再調査で、一連の生体分子およびプロテオミクス分析によって、これらの遺骨の中に、人間の脳や髪の毛のトリグリセリドに典型的に見られる一連の脂肪酸と、とりわけ人間のすべての脳組織に非常に多く見られる7種類の酵素のタンパク質を発見し発見することを可能にした、と。

 実は、考古学の分野でも、医学・法医学の分野でも、このような残滓が発見されたことがないという点で、客観的に見て世界でも類を見ない発見であるが、ガラス固化は考古学で知られているが、これまでのものは、基本的には植物遺体に関するものである。人類学的サンプルの研究はこれからの趨勢と考えられている、とのこと。

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ヤーヴェ神の結婚・離婚報道?:遅報(23)

 1967年に、Raphael Pataiは、古代イスラエル人たちがヤーヴェ神とアシュラ女神Asherahの両方を礼拝していたと言及した最初の歴史家だった。その仮説は、Francesca Stavrakopoulou女史の調査によって新たな光があたることとなった。彼女は、シナイ砂漠のKuntillet Ajrud遺跡で1975/76年の発掘時に見つけられた前8世紀の大甕pithos上に興味深い銘文(むしろオストラコン)を見つけた。大甕は2つあったようで、問題のそれはAのほうで、それが以下である。

右図で、より巨大に描かれ男根ぶら下げているのがヤーヴェ神、右上で横向いているのがアシュラ女神とされる:真ん中の男(ここでは男根なし)は不明
こっちの第三の男には男根がある

 私はヘブライ語を読めないが、研究者によると落書きの上に「サマリアのヤーヴェと[彼の]アシュラ」,即ちヤーヴェ神の妻としてアシュラが並記されていると。  “Berakhti etkhem l’YHVH Shomron ul’Asherato” (“I have blessed you by Yahweh of Samaria and [his] Asherah”

 旧約聖書の「列王記 上」16.29-33には、当代のイスラエル王アハブ(第7代:前869-850在位)が、「シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシュラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」、さらに同、18.19にエリヤがアハブに「今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシュラの預言者と共に、カルメル山に集め」るよう言っている。要するにこの時期、神殿内にアシュラ像があった、おそらくヤーヴェと対の夫婦神としてだったと思われる。

 こうして、ヤーヴェ神は、かつて女神アシュラと結婚していたが、バビロン捕囚でかの地に単身赴任させられ、遠距離で夫婦関係は疎遠になり、その間ずっと別居状態で、帰国後復縁もできず離婚となってしまった、ということなのだろう。

【追記】以下のような、文字と絵とは無関係とする慎重論も、当然ある。http://www.messagetoeagle.com/ancient-yahweh-and-his-asherah-inscriptions-at-kuntillet-ajrud-remain-an-unsolved-biblical-mystery/

 いずれにせよ、人類創成以来、女神ーー>夫婦神ーー>男性神、といった神々の進化論の系譜からすると、ユダヤ教とて、女神時代、夫婦神時代があって一向に不思議ではないだろう。

 古い翻訳だが、ゼミでも輪読した以下を思い出してしまう。J.G.フレーザー『旧約聖書のフォークロア』太陽社、1977年(原著1923年)。さらに、永橋卓介(『イスラエル宗教の異教的背景』(基督教教程叢書 第13編)、日獨書院株式会社、1935年;『ヤハウェ信仰以前』国文社、1969年、など)も忘れがたく忘れたくない先駆者。彼は、フレーザー『金枝篇』の翻訳者でもある。いずれもまだ古書で入手可。

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私にとっての「三上」:トイレ噺(14)

 欧陽脩「帰田録」に「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)ち馬上・枕上・厠上なり」の言あり。すなわち、文章を考えるのに最も都合がよいという三つの場面。馬に乗っているとき、寝床に入っているとき、便所に入っているとき、というわけである。

 私に「馬上」の体験はない。確かに体験的に「厠上」は物思いにふけるにはいい場所のように思う。ただし、私に具体的成果の記憶はないけど、今後に期待しておきたい。そして「枕上」はさしずめ湯川博士だが、しかし私の場合は確実に眠ってしまう。だが「枕」ならぬ「夢」の中なら、いささか体験がある。今はむかし、修論の最終段階で、夢の中でひらめいた着想があった。「これで修論はできた!」と狂喜したのはいいが、もちろん,起きたらすべて忘れてしまっていたのは言うまでもない。 

 私の体験ではむしろ、風呂の湯船につかっているときに、着想が湧くことがある[かつてあった]。だから一時期,風呂の中に防水のメモ用紙をぶら下げていたこともある。いわば「湯上」というわけだが、用意万端だとかえって思いつかないものだ。これも今はむかし、40年近く前のことだが、青山学院大学での日本西洋史学会の口頭発表の前日(というより当日の丑三つ時)のこと、古代史なので残存史料は限定されている。レジメにそれらを網羅して印刷済みだったが、最後の詰め、というか史料をつなぎ新知見を紡ぎ出すための論理のつながりがどうしても決まらず、しかし発表時間は迫るしで時間切れぎみで、平凡な発表になるがしかたがない、諦めて風呂に入ってせめてさっぱりして人前にでなけりゃ、と湯船につかったとき、突然ひらめいたのである。私は水浸しのまま風呂を飛び出して部屋のメモ用紙に駆け寄り、メモった、ことがあった。まるでアルキメデスだったが、「ヘウレーカ!(ηὕρηκα!)、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びはしなかったが。おかげで自分的には満足のいく口頭発表をすることができた記憶がある。

 かくして今後への期待を含めて、「厠上」「湯上」、そして「夢上」が、私の場合の「三上」ということになる。
 しじょう、ゆじょう、むじょう

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考古学と神:遅報(22)

 ウィーン在住のジャーナリスト・長谷川良なる人物のブログ。2019/11/20「考古学者は「神」を発見できるか」:http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52261942.html

 以下の、この視点はたいへん面白かった。

 エジプトから60万人のイスラエル人を率いて神の約束の地、カナンを目指した指導者モーセの実存は今なお実証されていないことだ。60万人のイスラエル人がエジプトからカナンへ移動する場合、考古学的にも何らかの痕跡が残るものだが、これまで見つかっていないのだ。
 欧州で2015年秋、100万人以上の難民・移民が中東・北アフリカから彼らの“約束の地”欧州を目指して大移動したが、彼らの足跡は移動ルートのバルカンには残されている。移動途中、亡くなった難民・移民もいただろう。彼らの遺骨が埋葬された場合、何世紀後にその痕跡を辿れば、「西暦2015年ごろ、中東のシリアから大量の人々が欧州を目指して移動していた」という史実を解明するだろう。しかし、「出エジプト記」のイスラエルの大移動の痕跡は考古学者の努力にもかかわらず発見されていないのだ。

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 彼は「イエスの実の父はザカリアス」とも書いている。聖書学的にはきわものめくが、当時から知られていたイエス出生の秘密に関して、解釈的には面白い(http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52264551.html;http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/51755190.html)。私もこの話題を追ってドイツのBad KreuznachのRömerhalle博物館を訪れたことがある;私の方の説では、イエスの父はローマ軍団兵(ひょっとして補助軍兵士かもだが)Tiberius Julius Abdes Panteraであるが。

 ザカリアスとはマリアが妊娠中に身を寄せたことになっているエリザベツの夫のことだ。この見解、10年前の以下が種本らしいが、統一教会では40年も前から部外秘で言われていた由。Mark Gibbs, Secrets of the Holy Family, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2009. 著者はフリー・ジャーナリスト。残念ながら古書でなんと900ドル以上の高額、ないし我が国では新本は入手できない状況。また大学図書館も所蔵なし。日本ではまた、歯科医師の土屋仁なる人物も『クリスマス文書』文芸書房、1996、で書いているらしい。出版当時の定価2000円が、今では古書で6000円だが、まだ入手可能。内容的には専門家でないので問題が無きにしもあらず。

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ケルトの女神Epona:Ostia謎めぐり(3)

 場所は、III.xiv.1-15:Caseggiato di Annio 。「アンニウスの共同住宅」。アンニウス通りvia di Annioに沿った、西側から見た正面図では、左(北)から右(南)に、番地1,3,4,9,10,14(数字は、9を除いて出入口に付されている)が検討対象である。

↑ここ       

          1   3         4     9     10        14   
3Dレーザー測量による西正面図:九州大学堀賀貴教授よりの提供

 この箇所のスレートと文字モザイクの位置関係は以下のごとし。

京大で発表時のDeLaine女史配布レジメより

 但し、一番右側のスレートは、J.DeLaine女史の想定であって、原位置では下のように枠内にスレートはない。(J.Th. Bakker:https://www.ostia-antica.org/privrel/privrel.htmによると「Possibly from the facade of the Caseggiato dietro la Curia (I,IX,1)」)又、上図の文字モザイクとの対応関係を考えると、左端の「OMN[I]A」の下部にもうひとつスレート枠があっていいはずだが、現況ではその痕跡はない。

           ↑スレートはめ込み枠

 逆に、右端のスレートの上部にも銘文を印したTABULA ANSATAが予想されるが、上部の壁は崩壊しているので確かめようもない。ただ、判明している3つの銘文を連続で捉えるなら、「OMNIA FELICIA ANNI[I]」で、「アンニウスの(商売)すべて上首尾」と読めるので、右端スレートについてのDeLaine女史の想定が正しければ、「(女神)Eponaによって DE EPONA」に類する文言だっただろうということになる。

 さらに、区画14の南面右角の上部にニッチが確認される(DeLaine女史の位置づけは間違い)。ここにエポナ女神像が安置されていた可能性は高いが、店主のアンニウスの彫像だったかもしれない。

DeLaine女史想定位置↑             ↑現況のニッチの場所

 検討すべき論点は多い。スレートには以下が描かれている。現状左端が、両脇のドリウム[型式からスペイン産オリーブ油用と思われる:関連でこの集合住宅の北側に当然注目すべき]に挟まれた人物と右上に机に座った人物(どちらかがたぶんアンニウス)、中央は帆に風をはらんだ商船と舵をとっている人物、そして想定されている右端は、左右に馬を従え玉座に座り、右手で馬の口に手ずから餌を与え、左手に豊穣の杖らしきものをもった女神エポナが描かれている。このエポナ像は構図やアトリビュート的に他の一般的なエポナ像と比べて特異といっていいだろう(一般的なポエナ像は以下参照:http://www.epona.net;但し、Jovicic, Bogdanovic, New evidence of the cult of Epona in Viminacium.pdf掲載のFig.10の紅玉髄製貴石の構図は、女神像に限って極めて類似の印象)。

左スレート
中スレート:船体の前方にスレート制作年を表示する丸い押印が見られる
右端想定スレート:女神の頭部は失われている
左手に持っているのは鞭だろうか。今一不明
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コンスタンティヌス大帝の著名コイン:SPES PVBLIC

 いつもウェブ・オークションを見ているClassical Numismatic Groupだが、この1/14-15にNew Yorkで第48回国際競売が、出品1453ロット、売買予定総額780万ドルで開催予定とのメールが届いた(https://www.cngcoins.com)。そのカタログをみていたら、とんでもない出物に出くわした。それが326/7年コンスタンティノポリス造幣所第一工房打刻の一品で、表面に若々しい皇帝(実際には当時54,5歳)の右向きの横顔と周縁に「CONSTAN TINVS AVG」、裏面に、先端に「キー・ロー」の意匠の竿頭をいただき、三つのメダイ(当時の3皇帝、正帝コンスタンティヌス1世、副帝クリスプス、副帝コンスタンティヌス2世の肖像、という説あり)が描かれた軍旗(ラバルムlabarum:私は軍団旗の類いではなく、皇帝旗と考えている)を装着した旗竿の石鎚が蛇を刺し貫いているデザインと、「SPES PVBLIC[A]」(国家的期待)が打刻されたものである(一行下のAは第一工房の刻印と読む)。

コンスタンティノポリス建設開始は324年、落成式は330年だった。

 そのコインとその周辺に関する詳細は生きていたらいずれ多少立ち入って触れる機会を持ちたいと思っているテーマであるが、とにかく、コンスタンティヌス研究者にとってはまさに垂涎の的の記念貨幣である。もちろん私もオークションに出品されたのを見たのは今回初見で、出品者側の評価額3000ドルとなっているが、この額で決着しそうもない気がする。日本のどこかに一つはあってほしい品なので、本当なら暮れのボーナスをはたいてでもチャレンジしたいところだが、年金生活者で競売に参加する余裕がないのが残念至極。

【追記】しょっぱな1800ドルをつけた人がいたが、その後どうなっているかと先ほどみたら、なんとまだ15日以上のオークション期間を残して「Lot Withdrawn」の表示がっ。こういう場合どうなっているのか詳らかでないが、博物館とかの大口が介入して即金で落としたのだろうか。まあそうされても仕方のない一品ではある。私人の死蔵よりはいいのは確かである。

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