(1) 古代ローマの拘置所・監獄のイメージ
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拘置所代用の場合、明かり採りの窓(兼、地上との荷物の搬出入口)を塞ぐと暗闇となる
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(2) 202年打刻(ローマ造幣所)の副帝ゲタ(13歳)の貨幣
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(3) 古代の拳闘士(ボクサー)と拳闘士競技(ボクシング)
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https://www.history.com/news/only-known-boxing-gloves-from-roman-empire-discovered
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(4) 野獣刑 ad Bestias
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(1) 古代ローマの拘置所・監獄のイメージ
(2) 202年打刻(ローマ造幣所)の副帝ゲタ(13歳)の貨幣
(3) 古代の拳闘士(ボクサー)と拳闘士競技(ボクシング)
(4) 野獣刑 ad Bestias
帝都ローマの外港オスティアには、いまだ解き明かされていない謎が幾つも残っている。
この港町には東の城壁門外に墓地があって、紀元前からキリスト教時代までの遺跡が残っている。今回紹介するのは、後1世紀に創建され、その後増改築された「Tomba degli Archetti(弓の墓室)」(Heinzelmann M. – Martin A. – Coletti C. , Die Nekropolen von Ostia, München, 2000 掲載の図版だとB6)である。ここの北側外壁の装飾に、私にとってたいへん興味深い図柄がある。どうやら太陽 Sol(神)なのである。かなり遊び心が加味されているようでおもしろいので、いつか多少踏み込んで紹介したいテーマのひとつである。
この墓室は紀元後1世紀前半の創建になるが、おそらく二世紀前半(紺色)に改修、三世紀初頭(赤色)に増築されたようで、くだんの壁部分は、赤と黄色のレンガ、それに黒色の軽石がモザイク状に組み合わされている。本来5つのアーチ内に描かれていたが、うち現在4つが残存していて、図案は2種類あったようだ。
それにしても、なぜここに不敗太陽神Sol Invictusにつながるようなデザインが残されたのであろうか。
この墓室からは他にも興味深い遺物があって、ひとつはすでに失われてしまったらしいが、猪狩り(この墓室名はここから来ているらしい)と船の部品類を描いた多彩色のモザイク床である。もうひとつは、セウェルス朝時代に増築された南側の左の部屋のトラヴァーチンで囲われた通路上のまぐさ石上に「H(oc)・M(onumentum)・H(eredes)・N(on)[S(equetur)]」、すなわち「本建造物は相続人たちに[帰属]しない」(相続人といえども売買することを禁じる)という定形銘文が穿たれていることだ。
別件でググっていたらこんな写真集に行き当たりました。
http://iviaggidiraffaella.blogspot.com/2016/01/gli-scavi-di-ostia-antica-terza-parte.html
https://twitter.com/Ostia_Antica
このツイートは2014/10/17より開始され、2017/9/18段階で途切れている。
http://www.flickriver.com/groups/ostia_antica/pool/interesting/
ここの高精密な写真はとてもいい。昔、といっても7年前だが、登録数は1772枚だったのが、現在はなぜか半減してしまっている。
https://twitter.com/parcostiantica
これは、2016/11/25あたりから開始され、現在まで継続されている。署名は parco_archeo_ostia@parcostiantica。書き手はどうやら現所長のMariarosaria Barbera女史のようだ。
それによると、遅報ですが、16年間休館だったフィウミチーノ船舶博物館が、20年初めには公開されるとの告知が。
また、関連で「オスティア落書きプロジェクト」と銘打って、クラウドファンドが昨年行われて、目標額22万円のところ、18人から8万円強の寄付があった由。Ostiaってこの程度の認知度なんでしょうかねえ。ちょっとがっかり。
https://www.facebook.com/donate/441050056644467/
そこで目にとまった以下の写真は、Trajanus時代打刻(106-111年頃)のセステルティウス貨の裏面の Portus港。これは港の六角形に忠実のあまり、幾何学的にすぎて美しくないが。
もう一つのポルトゥス港の著名コインは、ネロ帝代のもので、これは我らの『古代ローマの港町:オスティア・アンティカ研究の最前線』勉誠出版、2017年、の背表紙と裏表紙カバーで目立たないようこぢんまりと使わせてもらった。
ケルンの中心街でプロテスタント教会の集会所建設予定地から、2017年に壁の遺跡が出てきたが、それがドイツ最古の図書館らしいことが判明した。内壁に80×50㎝のニッチが並んでいて、最初はそこに彫像が飾られていたと想定されていたが、同様な構造がエフェソスの「ケルソスの図書館」にも見られたことから、そう同定された。そこに2万の巻物が所蔵されていた由。ちなみにこの時期の書物は冊子本ではなく巻物だった。
https://www.history.com/news/ancient-roman-library-germany
https://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/roman-library-0010485
https://gigazine.net/news/20180802-spectacular-ancient-library-discovered/
数少ない研究者仲間の新保良明氏から以下の恵送をいただいた。
「『テルマエ・ロマエ』の主人公が現代日本にタイムスリップするのはなぜか」『地歴最新資料』第23号、2019/5/10、pp.2-6。
氏の中心論点は表題にあるのだが、それを拝読していて、アウグスティヌスは母モンニカの死亡で悲しみに暮れていたが、気持ちの切り替えを期待して、入浴した(p.5)という件があって、おや、おいおいっ、と。なんと典拠は、私が読書会まで開いて読んだ『告白録』(9.27-32=9.12)だったので、見逃していた事実にがっくり。ここでは宮谷宣史訳(教文館、2012年、p.305)で核心部分のみ引用する。
入浴するのがわたしにとりいいように思われました。というのは、入浴はパルネウムという名で呼ばれていますが、それはギリシァ人が入浴を「心から悲哀を追い払う」という意味でバラネイオンと言ったことに由来する、と聞いていたからです(11)。visum etiam mihi est, ut irem lavatum, quod audieram inde balneis nomen inditum, quia Graeci balaneion dixerint, quod anxietatem pellat ex animo. ・・・ わたしは入浴しましたが、入浴する以前と全く変わりませんでした。わたしの心から苦痛は、全く消え去りませんでした。quoniam lavi et talis eram, qualis priusquam lavissem. neque enim exudavit de corde meo maeroris amaritudo.
宮谷氏はここに以下のような註をつけている。註(11)「ラテン語の浴場を意味するbalaneaは、ギリシャ語のβαλανείονから来たとみなされて、これは、ギリシャ語の、βάλλω投げ出す、とἀνίαν嘆き、を意味する言葉から成り立っているとみなされ、このようなことが一般に言われていたのであろう。このような考えと習慣がヨーロッパに伝わっていたことは、たとえば、中世の代表的な神学者、トマス・アクィナスにも見られるので、興味深い(『神学大全』I・II、38・5参照)。」
ギリシア語が苦手だったアウグスティヌスでもこれくらいの耳学問はあったということだろう。彼が始終入浴していたかどうか、私には、ここでの叙述ではめったにないことだったような雰囲気が感じられてならない。ということは、おそらくアウグスティヌスにとって「入浴」するとは、気晴らしの遊興設備も整った公衆浴場でのそれだった可能性が強くなる。であれば、オスティア・アンティカには幾つも候補があった。それについてはいつか触れる機会をもちたい。
ここでは宿舎に付属していたであろう簡易風呂について知るところを簡単に触れておこう。たぶん日常的には冷水で身体を拭うくらいのことをしていたのだろうが、例えば温水を使うとなると、ギリシアのヒップバス式ではなく、いわゆるクレタのクノッソス宮殿で確認されているバスタブ・タイプや、チュニジアのケルクアン遺跡だとあちこちで見ることができる座浴式バスタブであったと思われる。それらはイタリア半島でも見ることができるし、現在でもその型の浴槽はある;前者はイタリアのホテルで今もよく見かけるし[ただし、往々にしてカーテンがないので、その場合、座ってそっとシャワーしないと浴室が水浸しになるのでご注意、というか、以前そういうこと考えない後輩のあと浴室に入ってひどい目にあったことを思い出す。すべるのである]、後者についても、私は南イタリア旅行で、アドリア海沿いのある博物館で見た記憶がある。また、かつてチュニジア旅行したとき宿泊したホテルの浴室がまさしくそれであったので、狂喜して写真も撮ったのだが、さてそれはどこにいってしまったのやら。
そういったバスタブ式の浴槽自体がオスティアの遺跡に残っているわけではないが(正確には、遺跡管理事務所の倉庫を調査してみないと結論できないけど)、設置されたであろう浴室(ラテン語でlavatrina)は、オスティアのIII.v.1のCasa delle Volte Dipinteの2階[https://www.ostia-antica.org/regio3/5/5-1.htm掲載の平面図のXXIV参照]に確認されているようなものだったのでは、と私は推測している。この建物の上階部分(2階と、今は失われてしまっているが3階)はおそらく宿泊施設だった。たぶん現在でいうモーテルに相当する施設で、というのは当時の移動・運搬手段だった馬やロバやラバの駄獣を収容したであろう厩舎がまさしく北側に隣接しているからだ(Ⅲ.iv.1:Caseggiato Trapezoidale)。また、この浴室の通路を隔てた部屋は台所で[XXVI]、そこには小振りながら水槽も設置されていたので、水をあたためるのには便利がよかったはずだ。というかひょっとしたらこの台所、湯沸のための設備だったのかも知れない。もちろん宿泊客のご主人様のため奴隷が食事をつくることもできたであろうが。なおこの建物は現在立入禁止になっている。写真はそうなる以前に撮影したものなので、悪しからず。
【追記】オスティア遺跡で、上階での浴場の存在を確認することは容易ではない。上階そのものが現在は残存していないからである。次善の策として排水構造、すなわち土管の存在がらみで筆者が見つけえた希有な例を紹介しておこう。III.x.1の「戦車御者の集合住宅」Caseggiato degli Aurighi の二階に奇妙な一角があることを三階に登った時、西方向を見下ろしてみつけることができた。
上図の下が一階、上が二階で、一階の23が上り階段で、二階から三階への踊り場右に入口のある部屋(一階の28部分の上)の一画が塀で囲まれているが、その中のやや北西寄りの床に、おそらく20cm級の土管穴をみることができる(年によってはそこから長い雑草が生えていたりする)。そこは立ち入り禁止の区域なので、望遠で写真を撮ったものが以下である。いずれにせよ、その土管穴の存在により、その区切られた区画が水を使用する場所だったことは間違いないだろう。
この件でウェブをググっていたら、以下を見つけた。山之内昶「フロロギア(1);(2)」『大手前大学人文科学部論集』1、2000、pp.71-83;2、2001、pp.105-119;山内彰編『風呂の文化誌 山内昶遺稿』 文化科学高等研究院出版局、2011年。ま、ほとんど日本語で読んでのまとめのようだが。ありがたかったことに、論文は自宅で簡単に降ろせて印刷できたし(1が西洋篇で、2が日本篇:実は著者の姓の表示が異なっているが、たぶん「山内」が正しい)、死後出版された著書はなんと上智の図書館に入っていた。これからみてみるつもりである。
1899年に、エジプトのファイユーム地方のTebtunisで、Bernard Grenfell とArthur Huntによって発見されていたパピルス文書をアメリカ・ライス大学の院生Grant Adamson君が2011年に解読し、2012年に公表した(Grant Adamson, Letter from Soldier in Pannonia, The Bulletin of the American Society of Papyrologists, Vol. 49 (2012), pp. 79-94)。この論文、自宅でググったらすぐさま入手できた。
パピルスの書き手はAurelius Polionで、紀元後214年頃に筆無精な家族に宛てて愚痴を書いている。彼はパンノニア・インフェリオル(現在のハンガリー)に派遣されていた第2アディウトリクス軍団Legio II Adiutrix(本部駐屯地は今のブダベスト)所属の兵士と想定されている。Aureliusという名前からすると解放奴隷あがりのような気がするが、さて果たして正規の軍団兵だったのか、それとも補助軍兵士だったのか。カラカラ帝の全自由民へのローマ市民権付与は212年だったので、それ以降だと軍団兵だった可能性があることになり、また、書簡中に「執政官格(総督?)のπα[ρὰ] τοῦ ὑπατεικοῦ 許可をえて」なる文言があるので、その属州が執政官格属州となったのは214年以降だったこともあり、書簡発信年の上限を絞ることができる、とAdamson君は想定しているが、兵士が外出許可を求めるのは軍団司令官のほうのはずで、はたしてそう言えるのだろうか、若干疑問。とまれ、庶民の生活証言の残存史料で貴重である。こういったパピルス史料に正面から立ち向かった研究(たとえ欧米の研究の紹介にせよ)の進展を期待せざるをえない。
興味ある方は以下をご覧下さい。
https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52200993/
私のHPのほうで、かつてヴィンドランダ出土の古代ローマの木製便座について言及したことありましたが、なんと、12世紀ロンドンで使用されていた便座についてのウェブ記事をみつけたので、興味ある人はごらんください。アップは2019年2月付けですが、実はこの便座、1980年代にテムズ川につながり現在は暗渠でかくされている地下河川フリート川のそばで発掘されていたけど、研究の資金難でなんと30年以上も調査されず、放り投げられていたようです。
しかも、この便座を利用していたと想定される家族名も、1100年半ばに帽子屋だったJohn de Flete(と彼の妻 Cassandra) が所有したアパートの裏にあたることから、彼らに特定された由です。いかにもイギリスらしい研究成果です。
https://www.museumoflondon.org.uk/discover/triple-medieval-toilet-seat-secret-rivers-docklands
なんでも今年5月から10月までロンドンのドックランズ博物館Museum of London Doclandsで公開されるそうなので、行かれる人はついでに見学するのも一興かと。
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【続報】2017年には、1000年前のヴァイキング時代のデンマーク最古のトイレが発掘された、とMuseum Southeast DenmarkのAnna Beck博士が公表した。トイレと言っても、写真を見る限り掘られた穴の遺構で、ローマ式のような立派なものではないようだ。しかし他の諸証言によるとこの地方の農村部にトイレが出現するのは1800年代のことらしいので、その真偽をめぐってはまだ論争中のようだ。http://mentalfloss.com/article/502111/archaeologists-may-have-unearthed-oldest-toilet-denmark
昨日、ウェブ検索していて偶然見つけた記事に興味をもち、今日四谷に行ったときに大学図書館で以下を借りた。
柳沼重剛『語学者の散歩道』研究社出版、1991年。
今から30年も前に上梓されたものである。これには2008年に再版された文庫版(今話題の岩波書店)もあるが、原典から削除されたものと付加されたものがあって、両方読み比べたほうがいいらしい。著者は改めて紹介する必要もない古典ギリシア・ラテン文学の碩学。
借り出してみたら、読まれていないこと歴然の新品同様の様態で、これならアマゾンの中古品としても十分売れそうである。ま、これが私がかつて在職していた大学での西洋古典の偽らざる現状をあらわしているということだろう。
さっそく帰りの電車の中で繙いて読み出した。語学能力に著しく劣る私には、ただただ敬して拝読するしかない内容で(なにせ、p.2には、留学先のイギリスで教授から「ラテン語やっていてイタリア語をやらんとはなんたることだ:What a shame!」といわれ、二週間の速成で身につけて一冊を読み報告したとか、p.3には、アメリカ進駐軍の中佐と語学交換教授したが、彼は九つめの語学として日本語を覚えたいと希望、それまでに英・独・仏・伊・露・西・希・トルコ語を読み書き話すことができた人で、などという話が平気で出てきて表題通り「語学者」の面目躍如なのだ)、しかし新版で削除された「一万年後の東京大学あるいはポケット・ティッシュについて」が、私の関心の射程にも触れていたせいか特に興味深かった。
一万年後になって東大があった場所を発掘した考古学者の書いた報告書が「およそ大学などというものではないものを想定する結論を出す。何が想定されていたかが思い出せないのだが、とにかくその推論の一つ一つが、非常にもっともらしいどころか、論理的ですきがない、にもかかわらず出てくる結論は東京大学を知っているわれわれには奇妙なことこのうえなく、しかも何ともおかしいのだ。・・・その時思ったことは覚えている。考古学というのは発掘品があるだけに危ないなということだ。発掘品、つまり証拠があるから強いのであると同時に、発掘品という、そのまま証拠だと信じられがちなものを手にするから危ないのだ。発掘品はたしかに証拠になり得る。しかし一つの発掘品は一つの事実だけの証拠になるのではなく、というよりは、一つの発掘品は、他と関連づけて(つまり、文章ならば前後関係を参照して)読み取って、それではじめて証拠としての力をもつ。だから一つの発掘品は、その読み取りかた次第で、いくつかの事実の証拠として利用できる。考えてみればあたりまえのことだが、われわれはつい忘れがちがだ」(p.260-1)として、身近な例として街頭で無料配布されているサラ金業者なんかのポケット・ティッシュが自宅のメール・ボックスにあって溜まっていたが、風邪気味だったので八つも持っていて交通事故に遭って意識不明になった場合、警察はこの身元不明人をどう断定するだろうか。「私の所持品の中に八つものサラ金業者のポケット・ティッシュがあった、これは事実である。しかしこの事実は、それだけではまだ何の証拠でもないということだ。ここまで思った時、ふだん私が学問だといってやっている仕事の中でも、これと似たようなことを、気がつかずにやっているのではないかと恐ろしくなった。危ないのは考古学だけではないということである」(p.263-4)。
それで思い出したことがある。史学科全体のゼミ代表者の卒論発表会が毎年年度末に開催されていたが、さていつごろのことだったか、日本現代史で70年安保の大学「紛争」を扱った男子学生がいた。その発表を聞いていて私は異常な違和感にとらわれたのだ。「全然違う、わかっていない、ずれている」と。私と同年齢の東洋史のO教授も同じだったとみえて、期せずして二人で突っ込んで彼をいじめる結果となってしまったのだが、ことほど左様に、その現場に身を置いた人間の感覚・記憶と、それをまったく知らない者の文字だけをたどっての把握の間には、埋めようもない溝が存在することを実感した瞬間だった。こういう体験はおそらく初めてのことだった。たった3、40年前のことなのに、まだ生存者もいるのに、現場感覚は失われているのだ。
で、思ったことは、オレも歳を食ったものだという感慨と、50年経たないと歴史として扱えないとよく聞かされてきたが、それは隠された史料がその頃にならないと出つくさない、という意味では正しいのだろうが、それにしても体験者の消えた後の歴史叙述とはいったいどれほど事実に切迫したものでありえるのだろうか、そして、それが2000年前の古代ローマとなるとほとんど不可能では、という思いであった。この疑念は柳沼先生の慨嘆に通底していると思う。ま、考えてみると、それを繫ぐのが専門研究者としての歴史学者の役割、のはずなのではあるが。そしてまた、はたして針小棒大のまやかしを我が論考がかいくぐっているであろうか。
【閑話休題】ちなみに私は1968年当時学部3年生で、1969年1月の東大安田講堂攻防戦のときイチョウ並木を切り倒したことで、知る人ぞ知るの惡名を轟かした革共同中核派の拠点校の広大に身を置いていたこともあり、いっぱしの全(文)共闘シンパだった。京大出身のO先生は民青同シンパだったようだが(なにせ奥さんとは歌声喫茶で知り合った、と聞き及んでいたのでそう思ったのだが、あるときそれを言ったら逆鱗に触れたので違うのかも知れない。ま、二人で互いに、この暴力集団が、とか、なに民コロが、とじゃれ合っていたわけだが、おかげであの二人は仲が悪いと学生が噂し、どうやら学生間で代々伝承されるというおまけもついて、学生の理解能力のなさにあきれ果て、また心外でもあったので、こんなところで共闘するとは予想外のことだった。そして、まあ二人とも大学を卒業式もなく卒業したわけで、決してそのトラウマのせいではないのだが(問題が何も解決されていない幕引きとなり、正直卒業式なんかどうでもよかった)、言い合わしたわけでもないのに、二人とも卒業生が主催する謝恩会参加を「謝恩されるいわれはない」と拒否する問題教員でもあった。ま、このあたり、橋口先生が学生のコンパで軍歌が唱われるのを嫌ってコンパに一切出席されなくなったという故事と一脈通じるのではと思う(今日日の学生さんは不思議に思うのだろうが、私の学生時代の1960年代後半には軍歌とかよく歌われていた。未だ色濃く戦後を引きずっていたわけだ。実際まだ兵役体験者が生きていたわけだし。そのへんの感覚が失われ出すと、またぞろ一国主義が地球規模で叢生され出している昨今、ま、人類は懲りない連中としかいいようもない現実がある:そこでの体験継承って大切なことはわかっているが、その成果を考えるとなんとも難儀なことだ)。
今回、また悪いクセが出て、あまり状態がよくない、それゆえ安かったローマ貨幣follisを競売で入手してしまった。郵送料・手数料込みで170ドル台。
それは、コンスタンティヌス1世時代の319年の、テッサロニカ造幣所打刻のいわゆる「陣営図」camp plan型貨幣で、ただ表面の皇帝像はコンスタンティヌスではなくて、銘文「CONSTANTINVS IVN NOB C」から息子のコンスタンティヌス2世。父帝だったらこの箇所が「CONSTANTINVS AVG」となる。
裏面左右の刻印は「軍隊の武徳 VIRT EXERC」、下には「TSB」とあって、テッサロニカ造幣所第二工房(Β:ベータ)を示す。問題は中央部分で、左右からの斜めにずれた線四本(というより、くの字型と逆くの字型の組み合わせというべきか)が交わる中央交点の上部に、右手を前方に伸ばし、左手にグローブを保持している神像が立っていて、その姿勢から、頭部の刻みがここでは不明瞭ながら、別例では放射冠をいただいているので、Sol神とされている。そのつもりで眺めると肩で留める騎馬用外套chlamysの輪郭が左肩側にかすかに見えている。こういった意匠は父帝でも同様である。より明確な刻印の類例を示しておこう。ちなみにこれも第二工房製作だが、一見して同一工房なのに同一金型でないことは明白。価格は私が今回入手したものの3倍、500ドル以上はしたと思われる。
コンスタンティヌス二世は、316年8月7日生まれとされているので、この貨幣打刻時は3歳くらいのはずだが、幼児というよりは青年の表情で表現されている。彼は生まれて半年の317年3月1日に、異母兄クリスプス(当時17歳くらい)と、東部正帝リキニウスの息子リキニウス(当時2歳未満)と共に、セルディカ(現在のブルガリアの首都ソフィア)で副帝とされていた。いうまでもなくコンスタンティヌス一世と東部正帝リキニウスの紐帯強化のためだった。ちなみにリキニウスは313年のミラノでの会談で、コンスタンティヌス一世の異母妹コンスタンティアと結婚していた。息子リキニウスは彼らの間の子である。
この類いの貨幣は、もっぱら319年にテッサロニカ造幣所で 打刻された。工房はAからΕまで5工房が確認されている。316年以降、この地域はコンスタンティヌス1世の領域だった。しかしこれは果たして「陣営図」なのか、そして太陽神と陣営図の組み合わせが、何ゆえこの時、ギリシア北部のこの場所で打刻されたのか、私には興味津々なのである。打刻皇帝名は彼ら父子以外に、正帝リキニウス、副帝クリスプス、副帝リキニウスが確認されているので、317年のセルディカで両正帝がそれぞれの息子たちを副帝に任命したことと関連があるのは確かだろうが。どなたかこの謎を解いてくれないものかと思うようになって久しい。
【追記】実は後から気付いたのだが、もうひとつ、コンスタンティヌス1世のものを持っていた。これも状態があまり好くないので、稀少品にしては購入経費を含めて110ドルとやたら安かった。ちなみに工房は第4(Δ:デルタ)。表面の胸像の胸をみると胴鎧装着のようだ。
ご感想やご意見はこちらまで:k-toyota@ca2.so-net.ne.jp
昨年の渡伊では失敗をした。それはフォロ・ロマーノの入場券でこれまで通り通常の12ユーロを購入したのだが、16ユーロの特別入場券Super ticketを購入すれば、ここ数年閉鎖されていたアウグストゥスの家Casa di Augustoやもう10年以上入れなかったリウィアの家Casa di Liviaなど7カ所の見学が可能になるが(ちなみに他は、Criptyoportico Neroniano, Museo Palatini, Aula Isiaca-Loggia Mattei, Tempio di Romalo, Santa Maria Antiqua[相変わらずRampa imperiale付き公開なのはうれしいが、教会でデジタル映像はもうやっていなかった])、それは一旦構内に入るともう修正が効かなかったことだ。逆にいうと、博物館とかこれまで追加料金不用で見ることできた重要な場所を見られなくなった、わけである。
今年の5月にはいつものように、いつも空いているグレゴリオ通りから入ったのだが、なんとこれまでになく1時間くらい行列するはめになった(その前にコロッセオは予約入場券を持参していたが、あまりの行列に諦めた:否、並んでいたのだがなぜか3列あって[バウチャーのガイドだと2列のはずなのだが]、入場直前になって係員から「我らの会社の券ではない」とわけのわからないことを言われ、列外に出されてしまったので、腹を立てたてやめたのだ:あとから考えると、そこは現地での客引きされた人が並ぶ列で、本当は本来の2列目とおぼしき真ん中の列に並ぶべきだったのだろう)。ともかく今回はどこもひどい人出で、サンピエトロ大聖堂に入るのも、フィレンツェでダビデ像を見るのも諦めた。なぜか今年春に訪れた京都や奈良のうんざりするような観光客の群れがそのまま移動してきたような感じだった(が、イタリアでのその主体は東洋人ではなく、白人だったのはどういうわけなのだろう、疑問である)。
グレゴリオ通り入り口に掲示されていた料金表を見ると、これまではコロッセオと共通券だったはずなのにそれは書いてなかったので、制度変更があったのかも知れない。ともかく12ユーロ払って正午ごろに入場したが、昨年から無料公開(但し、昨年は時間制限あったはず)された緑の散歩道Percorsi nel Verdeを、またまたなつかしさのあまり回ったり、簡単な昼食休憩していたので、時間切れで全部回ることはできなかった。だから全部見るとしたらそれだけで一日仕事となるだろう。
しかし、制度が変わるのは日常茶飯で、なにごとも計画性や永続性がないイタリアのこと[30年前になるだろうか、至るところで行われていたGruppo archeologicoの遺跡公開も、20年前くらいからあって便利この上もなかったArcheoBusも、今は昔、なくなってしまった:でもこんな昔話していると、永続性ないというのがおこがましい年月の流れであったのだなあ、と気付かざるをえないが]、入れるときに入っておかないと、次にいつ見ることができるかわからない。先のない身としてはどうしても欲張りたくなるのだが、足が思うに任せれなくなっていて、これはもうジレンマである。
今回の訪問で意表を突かれたのは、フォロ・ロマーノでの、コンスタンティヌスのバシリカとロムルス廟の間の小道vicus ad Carinasで、ウェスパシアヌスのフォロと平和の神殿につながっている箇所が整備されてすべて無料公開されていたことで、私的にはバシリカのエクセドラに安置されていたコンスタンティヌスの巨像の破片が落下していたはずの場所でもあり、これまでずっと横目でうらめしく眺めていた箇所だったので、たいへん嬉しかった(こういうサプライズがあるのもイタリアなのである)。この小路地からだと、コンスタンティヌスのバシリカ(Basilica Nova)の地下部分をかすめ、セプティミウス・セウェルス時代に大理石版の「Forma Vrbis Romae」(首都ローマ地図)が貼られていたという壁も間近で見ることができて、私など感無量となる(ウェスパシアヌスのフォロに入ることは現段階ではできない)。
【続報】2019年9月に再訪したとき、予想通りというべきか、当たり前のように、この通路は閉鎖されていた。「緑の散歩道」は予想通り逆に常時開設となっていた。だが、というべきか、7施設見学料をとられていたのに、午後から向かったフォロの2箇所は係員がいなくて、要するに見学できなかった。