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ケルト・メモ:(2)体感的キリスト教

 これもうろ覚えですが。
 今日、偶然にも途中からBS4で「知られざる古代文明:マヤのピラミッド」をみたら、最後に極めつけの文言が研究者の口から発せられて、脱帽。
 征服者スペイン人がやってきてキリスト教を強要した。マヤ人たちはそれまで多神教だったが、それまで1000の神を信じていたとして、彼らはキリスト教を単に1001番目の神として受け入れたに過ぎなかった、と。
 まあ、ケルト人にとっても、同じことであったのではないか、と私は思う。

 ところで、多神教の中で自分の守護神として一人の神を選び取ることを「一神礼拝」monolatryといいます(実は研究者レベルでは、アブラハムもそうだったとされてます)。キリスト教側では教義的に自分たちは「唯一神礼拝」monotheismだ、と一生懸命主張するわけですが、実際の信者たちの多くにとっては「一神礼拝」にすぎなかったりします。
 信者であれば体感的にこのことは分かっているのですが(特にカトリックでは)、頭で自分はキリスト教を理解できていると思いこんでいる非信者たちは(いや、自分はちゃんと信じていると思っている人でさえも)、この肝腎な部分が分かっていないので、見当外れの言説を飽きもせず再生産しているように思うのは、私だけでしょうか。

 理念追求の神学や哲学はそれでいいとして(正直本音では、いいとはまったく思ってませんが (^^ゞ)、現実を直視すべき歴史やってる人がそれでは、どうも、ね。

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殉教のテンション:遅報(1)

 2/5に偶然見た、NHK BS4K「知られざる古代文明 発見! ナスカ;大地に隠された未知なる地上絵」。2年以上前の再放送のようだ。俳優の佐藤健がレポーター。 
 新しい考古学的成果でいい加減な従来説が崩壊し、なかなかいい線いっている気がしました。私はこれまでそれに触れている著述家たちは現地に入っていると思ってきたが、どうも違うらしい(現地に入るためには特別な許可がいるらしいし)。ひょっとして航空写真しか見ないであれこれもっともらしいことを言ってきたのだろうか。今回現地に入っての調査団は山形大学チーム。やっぱり現地に立ってみて初めて分かることがある、という当たり前のことを地で行っている好例。あの線が実は足幅しかなくて、おそらく片足を引きずって描かれたものということなど、聞いて驚くことばかり。
 たしか、あれを用水路だといった説もあったよな。赤面ものだ。
 南アメリカでの人身犠牲についても、ここでも自ら自発的に提供した者もいたらしい。キーワードはやっぱり水資源。雨乞いなのだ。研究者が「命は大切、だからそれを守るために大切な命を捧げる」という視点で述べて、それに対して佐藤が「どういうテンションでやったのでしょうかねえ」と反問すると、研究者のほうが「あっ、テンションっていう表現はなかなかいいですね」と返す場面があって、面白かった。
 私的には、殉教の場面で、このテンションを考えてみたいと思ってます。

[後日補遺]このシリーズのマヤ文化もみることできた。そこでも水資源がかの文明の衰退と関連していたらしいとされ、ただしナスカとは逆に干魃ではなくて、雨量が多くてそのためだったと。この真逆な発想には学ぶべきものがある。

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ケルト・メモ:(1)鹿の奇蹟譚とキリスト教

 読書会で読んでいる、ヤン・ブレキリアン『ケルト神話の世界』上、138-142ページに出てきている聖エダーンSt.Edern(聖ユベールSt.Hubert)の牡鹿の角の間に十字架を見たという幻視に関連して、ローマ市内のSant’Eustathio教会の正面屋根上にも枝角をもった鹿が飾られているが、関連は、という質問が〇〇さんからありました。そういえばそうだよね、というわけで、家に帰って調べてみたのですが、Eustathiusの伝説のほうが時代的にかなり古いので直接の関係はないけれど、類似伝承としては知られていたようです(普通だと、古い方が先行伝承なので、翻訳者もそのように想定してます。p.141)。

 以下、ウキペディア情報。エウスタティウスは、ローマ皇帝トラヤヌスに奉職していた将軍で、元々の名前はPlacidusだった。彼はティヴォリで牡鹿の狩りをしていた時、鹿の角の間に十字架を幻視したので、すぐに家族ともども改宗し、名前をEustathius(堅固)と変えた。彼はヨブと同様の数々の試練を受けたが、信仰を堅持した。だが、118年に異教犠牲を拒否して、妻子ともども青銅製の牛像の中に入れられあぶり殺された、のだそうです。 
 たぶん伝説上の人物だったせいでしょうが、カトリック教会は、1970年に聖人暦から彼を削除しましたが、地方的崇敬は存続しているそうです(これがカトリックでは普通の対応である)。未だ英国国教会や正教会では聖人で9月20日が祭日だそうです(手元にある光明社版の『カトリック聖人傳』下巻、1938年、p.282には、その日付の[共祝]欄に以下のように書かれている:ローマにおいては聖エウスタキオ将軍、その妻聖女テオピスチス、その子聖アガピトおよび聖テオピスト各殉教者ーー猛獣の餌食にされようとしたがなんの危害もこうむらず、最後に鉄牛の内部に押しこまれて焼きころされた)。 この教会、パンテオンのすぐ西南にあります。

 その広場の一画にあるカフェがくだんの「サンテスタッチオ・イル・カフェ」で、エスプレッソが絶品(黙っているとズッケロ入りとなる)。ローマ1、と私は思ってます。ローマに行くと必ず行き、お土産に豆を買います。今度いったら、この御縁で,鹿と十字架の図案付きカップも買おうかな(ウェブでも購入可能のようだけど,送料とかかかりそうだし)。でも我が家にはカップがもういっぱいあって、すでに断捨離趣味の嫁さんの標的にされてる気配があって、苦悶 (^^ゞ

【後日談】今回(2019年5月)の渡伊で首尾よく購入! 帰国して勇んで開けてみると・・・カップは壊れていた・・・。こんなことは初めてだっ、とほほ。嫁さんはにこやかに笑ってました。

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下水構造考:トイレ噺(1)

 老衰の母から、広島の実家の管理を任されて、賃貸2軒と自宅の3軒長屋の管理人となって、2,3か月に一回は帰省している。
 とはいえ、偶発的な事故には対処できないので、地元の不動産会社に一般的な管理をお願いしているのだが、ちょうど帰省していたときに出会ったトラブルで学ぶことがあった。

 それは真ん中の家で下水が風呂場であふれたので、下水の掃除をしなければならないという事案であった。その作業は、業者がやってきて掃除して簡単に終わったのであるが、私はその時初めて、台所や風呂場の家庭排水とトイレの汚物排水が同じ下水で流れているという、驚愕の事実を知ったのだった。
 それまでは、汚物は別のルートで汚水槽につながっていて、そこで多少の処理がなされて街路地下の排水溝に行くものと思い込んでいたのだが、業者さんから、下水は家庭排水も汚物も同一の下水溝を通り、雨水は別ルートなのだ、ということを教えられたのであ〜る。

 マンションや公共建築物なんかだと確か地下に下水を貯めての沈殿構造があって、年に何回か掃除もしているけど、一般住居ではどうも垂れ流しが一般的なようである。

 ということで、私は古代ローマ遺跡での下水構造のお勉強もしてますけど、目の前にあっても地下に埋もれているとなにも見えていない、という話でした。

 以下はつけたし。

 そのあと、考えるでもなく思いついたのは、だったら風呂場で小便くらいしても結局は同じことじゃん、という禁じ手であった。むしろ西洋式水洗トイレで流す水の節約と、トイレットペーパーの節約、下水の詰まり問題解消、という視点からは、・・・よきことかもしれない、という結論になるのであ〜る。

 まあ、幼児が風呂で気持ちよくなってとか、小学生が学校のプールでトイレに行くのが面倒で、といった話はなんとなく知っていた私ではあったが(チコちゃんもそういってたよな)。オリンピック選手もご同様とのこと。

 それでなくとも、冬なんか湯船につかって温まっても洗い場に出ると寒いわけで、小をもよおすのは理解できる。

 数日前、メールで送られてきたウェブ・ニュースに「シャワー時に小便する人が〇〇%」という記事が出ていて、あれれ、と。「朝シャン」ならぬ「シャワ・ション」かあ。
 試しにググってみたら、この話題は早くも(?)2007/12/6に「YAHOO!知恵袋」に出てまして。次は2011年、そして2013年。このあたりまでは否定的な見解が多いです。2017年から肯定派が多くなってるような。
 そして今年になると大流行。ま、例のごとく最近は過激な書き込みだらけのようで(俺は大もやってる、とか)。こうなるとまったく信用できませんが。

【参考文献】有田正光・石村多門『ウンコに学べ!』ちくま新書、 2001年。

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奇蹟譚発生を考える:モーゼの奇蹟:飛耳長目(2)

 偶然見たケーブルテレビで、旧約聖書に書かれているモーゼの「10の災い」は火山の噴火がもたらした異常気象が原因だという話をやっていた。
 その可能性はあるかもと思ったが、もひとつ、出エジプトの際の「海が分かれた」という件が、サントリーニ島の大噴火で、一時的に地中海の海水が地下空洞に吸い込まれ、海水が引いたその時のことだ、というのもやっていて、こうなるとこりゃちょっと眉唾だわ、と。

 でもそれで思いついたのは、津波だったらありかも、と。南アメリカでの地震の影響で日本にも影響あるようだから、ユーラシア大陸西端のどこかで大地震が起こって、そのため急に海水が後退し海底が露出、その後にどっと津波が来ることはありえるわけで。もちろんモーゼご一行様の移動経路は紅海ではなくて、地中海の海岸沿いをシナイ半島に向かっていたときの葦の原(マンザラ湖やバルダウィール湖)でのことだったようですし。

 ま、それがヘブライ人たちの「出エジプト」のときにちょうど起こったというのは、どう考えてもできすぎの話ではあるが、あのころこんな意表外のことあったよね、というレベルで人びとに記憶されていたものが、後世になって「あの時」それが起こった、という奇蹟譚に造られた可能性は十分あるかも、と。
そもそもカエサル『ガリア戦記』で、ローマ兵は大西洋で潮の満ち引き現象に初めて出会って驚いた、ということは、地中海世界では干満は目立たなかった、ということらしいし。

 地震にせよ火山噴火にせよ、直撃受けていない遠距離の人びとにとっては、その結果としての天変地異や天災は「神の懲罰」としてしか理解できなかったのは当たり前だったろうし。

 新約聖書の福音書に書かれているイエス誕生時の、星の移動に導かれた東方3博士の件も同様で、しかもそれは当時のローマ皇帝アウグストゥスの登場を言祝ぐ吉兆として、前12年のハレー彗星が同定されていたりしているのも、事後予言として「あのころ、こんなことありました」という一般論が、「あの時」と短絡的にイエスやアウグストゥスに結びつけられた、と考えればいいだけのことのような気がする。民族の記憶とはこういうもののような気がする。

 こういう問題は史実としてあった、と居丈高になる必要はないと、私は考えたい。

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翻訳:『ペルペトゥアとフェリキタスの受難記』

 20年近く前に翻訳したものをアップする(但し、随時修正を加えている:一例を挙げると、旧訳での「教理研究者」を「洗礼志願者」と)。邦訳としてはその時にも教文館版(土岐正策訳、1990年)があったが、それが底本にしたH.Musurilloの英訳(1972年)には、とりわけ古代ローマ史に関する知識に問題が散見されたこと、それ以上に、フェミニズム史学華やかりし頃、女性史関係の叢書の巻頭言部分で一部引用された邦訳の意味不明さに辟易したという体験から、より正確な邦訳を目指したわけである。なお、もとの邦訳に際してはより古いHenri Leclercqの解釈(1939年)を意識的に採用してみたのだが、それを今現在見直している。その際の参考文献は以下である。Thomas J.Heffernan, The Passion of Perpetua and Felicity, Oxford UP, 2012. 節の区切り方も、Heffernan版に従って変更した。また特にXI-XIIIを中心に、どうも当時の北アフリカ沿岸部のキリスト教典礼でギリシア語が常用されている節を感じたので(とりわけ天使たちの言葉は、ミサ聖祭で使用された典礼や聖歌の慣用句だった可能性が強く、さらに司教・司祭との会話部分)、ギリシア語訳を並記してみた。そのとき原稿でワードのArialフォントを使用したギリシア語表記がこのブログではうまく表記できていないことをお断りしておく。

 また、本ブログの別所に2001/5/13の日本西洋史学会大会古代史部門での口頭発表レジメを掲載しているので、興味ある向きは参照してください。

 この殉教者行伝に関する邦訳の聖人伝としては、以下がある。
①「三月七日(2)聖女ペルペチユア殉教、聖女フエリシテ殉教、他四名の聖殉教者」シルベン・ブスケ『聖人物語 三月之巻』1912(明治45)年3月16日印刷[全12巻、聖若瑟教育院、1910(明治43)-1926(大正元)年]。
②「3月6日 フェリシタス、ペルペツア両聖女殉教者(Ss.Felicitas et Perpetua MM.)」光明社編『カトリック聖人傳』上巻、光明社、第三版、昭和38年(初版、昭和13年)、215-218頁。
③「167 聖サトゥルニヌス」ヤコブス・デ・ウォラギネ(前田敬作・山中知子訳)『黄金伝説』第4巻、人文書院、1987年、339-343頁(原著は13世紀半ばの著作)。

【追記:2019/7/1】筆者はこれまで『殉教者行伝』と表記してきたが、Passioというラテン語表題により忠実に『受難記』と改訳する。また2系列存在するActaであるが、これは『行伝』と表記することにする。

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『聖ペルペトゥアと聖フェリキタス受難記』Passio Sanctarum Perpetuae et Felicitatis

I (1)もし古い信仰の諸模範がexempla 、神の恵みを立証し人間形成に参与することで、そのため諸文書に書かれてきたとするならば、というのは、それらの朗読と出来事の描写によって、神はあがめられ人は強められるからだが、それならば、新しい諸文書が等しく両方の目的にふさわしく書かれないことがあろうか。(2)というのは、同様にこれらもいつか古くなるであろうし、そして後代の人々に必要になるからである。古代性のほうが優先的に尊敬されるので、たとえそれらは、それが生じたその時代において、より小さな威厳しかないと見なされるのであるが。(3)しかし、唯一の聖霊の力がvirtutem、もろもろの時代の諸世代に(同じように働いていると)判断する人々は,以下のことを見るべきだろう。より大いなるものとは、より新しくそして最新(=最後)のものであるとみなされるべきである。なぜなら、恵みの豊かさ(噴出)は現世の最終の時期に定められているからである。(4)「だが終わりの日々に」と主は仰せになる。「わたしはわたしの霊をすべての肉carnem の上に注ぐ。すると、息子たちと娘たちは預言するであろう。そしてわたしの僕たちとはしためたちの上に、わたしはわたしの霊を注ごう。すると、若者たちは幻をみ、老人たちは夢をみるだろう」【行伝2.17-18cf. ヨエル23.1-2】。(5)それゆえ、我々も、同じように約束された新しい預言と幻を承認してあがめ、聖霊の他の力をも教会の道具と見なすのである。そこにも同じものが派遣される。主は、あらゆる賜物を管理なさり、すべての人々におのおのに応じて分配なさる【エフェソ4.7】。我らは、不可避的に順序正しく記入し、神の栄光のため朗読を言祝ぐ。それというのも、信仰の弱い人ないし懐疑の人が、殉教あるいは啓示への評価によって、ただ古人たちの場合だけのみに神の恵みが改宗をもたらした、と考えることがないために、である。常に主は、約束されたことを実行なさり、非信者たちには証しを【マルコ6.11】、信者たちには恵みを【ヨハネ3.36】お約束くださってきた。(6) それゆえ我々もまた「聞き、かつ見、そして触れて」【ヨハネ第一書簡1.1】、そしてまた汝らに伝える【ヨハネ第一書簡1.3】。兄弟たちと幼子たちよ、というのは、あなた方の中で居合わせた人たちは主の栄光を思いだし、そしてそれをいま聞いて学んでいるのなら、聖なる殉教者たちと、また彼らを通して主イエス・キリストとの交わりを持つことができるからである【ヨハネ第一書簡  1.3:】、彼に光輝と誉れが、代々に至るまでin saecula saeculorumες τος αἰῶνας τν αώνων)、アーメンAmengr. μήν)【ヨハネ黙示録5.13】。

 (1)若い洗礼志願者たちがcatechumeni逮捕された。レウォカトゥスRevocatus と彼の奴隷仲間conserua eiusのフェリキタスFelicitas、それにサトゥルニヌスSaturninus とセクンドゥルスSecundulus である。彼らの中にウィビア・ペルペトゥアVibia Perpetua もいた。彼女は上流の生まれでhoneste natahonestiores)、十分な教育をほどこされliberaliter instituta、既婚婦人にふさわしい妻だったmatronaliter nupta(2)父と母、それに二人の兄弟fratres が存命中で、その一人は等しく洗礼志願者だった。そして乳房(複数形=pl.)に一人の乳児の息子をfiliorum infantem 抱いていた。(3) しかしながらautem彼女自身はおよそ22歳だった。彼女は彼女の殉教のすべてを順に、続いてこれから(示すように)自ら物語った。いわば彼女の手で、そして彼女の意志で書き付けて残したのだった。

 (1)彼女は言った。「まだ、私たちが監視人prosecutor たちとともにいて、そして私に父が言葉でもって改心させようと望んで、そして彼の愛情によって思いとどまらせるようにし続けた時、私は言います。『お父様、見えますか、たとえば、ここにある容器、水差し、ないしは他のものが』。そして彼は言いました。『見えるとも』。(2)そこで私は彼に言いました。『それでは、それをそうである別の名前で呼ぶことはできるでしょうか?』。彼は答えた『できない』。『それでは私はキリスト教徒ですから、私であるものとは違う、別のもので呼ばれることはできないのです』。(3)その時、父はこの言葉に怒って、私から両目を抜き取る勢いで、私に向かって詰め寄ってきました。しかしただ悲しみに打ちひしがれ、立ち去りました。悪魔の狡猾さを持っていたのですが、うち負かされたのです。(4)その後、数日、私は父に煩わされずにいましたので、私は主に感謝しました。そして彼の不在で私はくつろげました。わずかな日々のまさしくこの期間に、私たちは洗礼を受けました、そして私に聖霊が話しかけました。『洗礼ののちは、ただ肉の忍耐以外のなにも期待すべからず』。(5)数日後、私たちは牢獄に収監されました。そして私はびっくりしました。というのは、私はこんな暗闇をまったく体験したことがなかったからです。(6)なんとひどい日だったことか! 大勢の人いきれによる大変な暑さ、軍隊の職権乱用。最後に、そこにいた乳飲み子の心配で私は苦しめられたのです。(7)その時、テルティウスTertius さんとポムポニウスPomponius さん、祝福された執事さんたちがbenedicti diaconi、私たちの世話をしておられたのですが、こころ付けを用立ててくださいました。というのは、わずかな時間でも、牢獄のよりよい空間に移って、私たちがくつろげるようにと。(8)その時、全員が牢獄から出て、自由になれたのです。私はすでに絶食で衰弱していた乳飲み子に授乳しました。彼のことが心配で、私は母に話しかけ、そして兄弟を(単数=s.fratrem 勇気づけ、息子を委ねたのでした。私はそのため憔悴していました。というのは、私のために彼らが憔悴しているのを私が見ていたからです。(9)このようなもろもろの心配に幾日も私は耐えました。そして私と共に乳飲み子が獄中で過ごせるようにと願い出て、そしてすぐさま私は元気になりました。そして私は乳飲み子のための心痛と心配から解放されました。そして私にとって牢獄は突然軍団司令本部praetorium となりました。というのは、私はどこよりもそこにいることを好むようになったのです。

 (1)その時、私の兄弟(s.)が私に言いました。『主において姉妹よ、もう大きな地位にdignitasあるのだから、幻を求めたらどうですか、受難するのか、一休みできるのかが、あなたに示されるでしょう』。(2)そして私は主との語らいを会得し、彼の大きな恵みを体験していましたので、確信をもって彼に約束して、こういいました。『明日、あなたに伝えるでしょう』。(3)そして私が求めたところ、私に次のことが示されました。私はとても巨大な青銅のはしごをみています。それは天へと伸び、そして幅が狭いので一人づつしか登れません。そしてはしごの両脇にはあらゆる種類の鉄器具類が打ち込まれていました。そこには、剣、やり、鈎(かぎ)、短剣がありましたので、もしだれであれ無造作に、または上の方に気をつけずに登ろうとしたならば、彼は引き裂かれ、彼の肉は鉄器具類に刺さってしまうでしょう。(4)そして、はしごのすぐ下には(一匹の)龍が横たわっていました。とても巨大でして、それは登っていこうとする人々を待ち伏せて、立ちはだかり、また彼らが登ってこれないように追い払ってました。(5)しかしサトゥルスSaturus さんが先に登っていきました。彼はあとから私たちのために自発的に自らを(官憲に)委ねたのでした。というのは、彼は自ら私たちを教導してくださっていたのですが、私たちが連行された時に、たまたまその場にいなかったのです。
(6)
そして彼ははしごのてっぺんに着くと、振り返り私に言いました。『ペルペトゥアよ、私があなたを守りますから。でも、あの龍があなたに噛みつかないように注意しなさい』。そして私は言いました。『龍は私を傷つけないでしょう、イエス・キリストの名において』。(7)そして龍ははしごのすぐ下で、私を恐れているように静かに頭を投げ出していました。そしてまるで最初の階段を踏みつけるかのように、私はその頭を踏みつけました。(8)そして私は登っていき、そして見たのです、無限の広さの庭を。そしてその中に白髪の男性が座っていましたが、彼は牧者の衣装を身につけ、大変大柄で、羊たちの乳を搾ってました。そしてまわりに(白い衣装の)志願者たちが何千といました。(9)そして彼は頭を起こし、私に言いました。『よくやってきましたね、子供よtegnongr.τέκνον)』。そして彼は私に大声で呼びかけ、そして彼が搾りたて(のミルク)で作ったチーズから、私に一口ほどくださいました。そして私は両手を重ねて頂戴し、そして食しました、そして回りにいたすべての人々が言いました。『アーメンAmengr. μήν)』。(10)そして私は騒がしい声で目覚めたのです。今まで未知だった甘い味を飲み込みながら。そしてすぐに私の兄弟(s.)に話しました。そして私たちは来るべき受難を理解したのです。そして私たちはもはや現世にはなんの希望も持たなくなりました。

 (1)しばらく日にちが過ぎて、尋問が行われるという噂が広まりました。しかし私の父が都市からde civitate やって来ました。彼は苦悩で消耗し、そして私を転向させようと、私へと登ってきてascendit ad me 言いました。(2)『哀れんでおくれ、娘よ、私の白髪を!父を哀れんでくれ、もし私がお前によって父と呼ばれるのに値するなら。もしお前をこの手ずからこの歳の花盛りまで私が導いてきたなら。もしお前をお前のすべての兄弟たちよりも私が上に置いてきたなら! 私を人々の恥辱の中に委ねないでおくれ! (3)お前の兄弟たちのことを考えなさい! お前の母や叔母さんのことを考えなさい! お前の息子のことを考えなさい。あれはお前のあと生きることはできないだろう! (4)強情を張るものではない。私たちすべてを破滅さないでくれ! わしらのだれも、自由に話しかけられはしないだろう、もしお前がそんなことを甘受しようものなら』。(5)これらのことを彼は言ったのでした、父がその慈愛のために言うように。彼は私の片手に接吻し、そして私の両足に自らを投げ出し、そして私を涙ながらに娘ではなく婦人と呼んだのでした。(6)そして私は私の父の問題で悩みました。なぜなら彼一人が私の全一門の中で私の受難を喜んでいなかったからです。そして私は彼を力づけて言いました。『このことは、あの(裁判の被告席の)台の中でも生じるでしょう。というのは神がお望みになられたであろうからです。いつか分かってください、確かに私たちは私たちの権力の中にではなく、神の中にあるべき存在なのです!』。そして彼は私から去っていきました、悲しみながら。

 (1)別の日に私たちが遅い朝食をとっていると、私たちは突然引き出されました。それは私たちが尋問されるためでした。そして私たちは広場にad forumつきました。噂はただちに広場の近くの地域に広まり、そして大勢の民衆がやってきました。(2)私たちは(被告席の)台に上りました。尋問されてほかの人々が(キリスト教徒であることを)告白しました。そして私の番になりました。そして父がその場に私の息子と現れ、そして階段から私を引きずりおろし、嘆願したのです。『乳飲み子を哀れんでくれ!』と。
(3)
そして、財務管理官procurator のヒラリアヌスHilarianus は、そのとき(アフリカ)属州総督proconsul で死去したミヌキウス・ティミニアヌスMinucius Timinianus の座にいて死刑執行権ius gladii を拝命していたのです。彼がこう言います。『おまえの父の白髪を大切にせよ! 乳飲み子の男の子を大切にせよ! 諸皇帝の健康のために犠牲を行え!』。(4)そして私は答えました、『いたしません』と。ヒラリアヌスは言います。『お前はキリスト教徒か?』。そして私は答えました。『キリスト教徒です』。(5)そして父は私を転向させようとしつこかったので、ヒラリアヌスによって取り押さえよと命令されました。そして……彼はむちで痛めつけました。私の父のできごとは私を悲しませました、まるで私がむち打ちされたように、こうして私は彼の哀れな白髪のために悲しみました。(6)そのとき、彼は私たち全員に判決を下し、そして野獣刑を宣告しました。そして私たちは晴れ晴れと牢獄に降りていきました、(7)そのとき、乳飲み子は私から乳房(pl.)を含み、私とともに牢獄にいることになっていたので、ただちに父のもとへ助祭のポムポニウスさんを乳飲み子を求めて送りました。しかし、父はそうしませんでした。(8)そしてそれは神が望んだことだったのです。彼は以前よりは乳房(pl.)を慕わなくなっていて、それらも私にいらだちをなさなくなっていたのです。私は、乳飲み子の不安も乳房(pl.)の痛みにも苦しまなくなっていたのです。

 (1)その後、数日して、私たち全員で祈ってますと、突然祈りの最中に私から声が出てきたのです。そして私はディノクラテスDinocrates の名前を呼んだのです。そして私は唖然としました。というのは、決してそれはその時以外に私の心に浮かばなかったからです。そして私は苦しみました。彼の死を思い出したからです。(2)そしてすぐに、私がふさわしくそして彼のためにそうせねばならない、と気づきました。そして私は彼自身のためにしばしば祈りをし、そして主に対してうめきingemescere 始めたのでした。(3)ただちにその夜、私に以下が示されました。(4)私はディノクラテスが暗い場所からでてきたのを見ました。そしてそこには多くの人たちがいました。彼は大変に暑がりそしてのどが渇いていて、顔つきが汚くそして顔色は青ざめていました。そして彼の顔面には傷がありました。彼が死んだときそれを持ってました。(5)このディノクラテスは私の肉の上での兄弟で、7歳でしたが、彼は病弱のため顔面の腫瘍が悪化して死んでいたのでした。そのために彼の死はすべての人々によって嫌悪されたのです。
(6)
この彼のために私は祈祷oratio をしたのです。そして私と彼との間にはかなり距離がありました。そのため私たちはおたがい相互に接近できないほどでした。(7)さらに、ディノクラテスがいたその同じ場所に水をたたえた水槽がありました。それは子供の身長よりも高い縁を持っていました。そしてディノクラテスは飲もうとするかのように背伸びしました。(8)私は悲しみました。というのは、その水槽には水があったのですが、でも縁の高さのために彼は飲めなかったからです。(9)そして私は目が覚めました。そして私の兄弟が窮していることを知りました。しかし私は、彼の苦労に私が役立つであろうことを信じていました。そして私は彼のために毎日祈りました。それは、私たちが兵営の牢獄にいくまでのことでした。というのは、兵営の余興(見せ物)でmunura castrensia 私たちは戦わされることになっていたのです。そのとき、副帝ゲタの誕生日に。(10)そして私は彼のために昼も夜も祈りました。うめき、涙を流し、それが私に許されるようにと。

 (1)私たちが(自殺防止用拘禁具の)革ひもで過ごした日に、私に以下が示されました。私は、私が以前見ていたあの場所を見ています。そしてディノクラテスを。(彼は)清潔な身体で、よい衣服を着て、くつろいでいます。そして傷があったところに、私は痕跡を見ます。(2)そして以前私が見たあの水槽も、子供のおへそほどに縁が低くなっています。そして水がそこから絶え間なく流れ落ちていたのです。(3)そして、縁の上には水でいっぱいの黄金の平鉢fialagr. φιάλη)があります。そしてディノクラテスは近づき、そしてそれから飲み始めました、その平鉢はけっして尽きることがありませんでした。(4)そして彼は水を堪能し、子供たちがよくやるように水で遊びはじめました。彼は喜んでいます。そして私は目覚めたのです。そのとき、彼が罰から移り出たことを私は悟ったのでした。

 (1)ついでしばしの日々の後、百人隊長補佐optio の兵士milesプデンスPudens、彼は監獄長praepositus carceris だったのですが、彼が私たちをあがめ始めたのです。私たちの中に大きな力を悟ったようです。彼は多くの人々が私たちに(接見することを)許可しました。それで私たちと彼らは相互にくつろいだのでした。(2)ところで、見せ物の日が近づいたので、私の父が私のところに入ってきます。心労で消耗して。そして彼は彼のあごひげをむしり取り、そして地面に投げつけ始めました。そして自ら顔面を打ち据え、そして彼の歳に不平をいい、そしてあらゆる被造物を揺り動かすであろうような多くの言葉を語りました。私は彼の不幸な老年のため悩みました。

 (1)私たちが戦うはずの前日に、私は幻の中でin horomate(gr.ραμα)以下を見ます。執事のポムポニウスさんが、牢獄の入り口にやってきて、そして激しく叩きます。(2)そして私は彼の方に行き、それを開けました。彼は帯なしの白衣を着ていました。それには多くの玉飾りがついています。(3)そして彼は私に言いました。『ペルペトゥアよ、私たちはあなたに期待してます。お出でなさい!』。そして彼は私の手をとりました。そして私たちはでこぼこの、そして曲がりくねった場所を通って歩き始めました。(4)やっとのことでついに、私たちはあえぎながら円形闘技場へad amphitheatrum つきました。そして、彼は私をアレーナの中央に導き入れ、そして私に言いました。『おびえてはなりません! ここに私はあなたと共にいて、そしてあなたと共に一緒に働きます』。そして彼は立ち去りました。(5)そして私は大観衆を見つめます。彼らは熱狂していました。そして私には野獣に定められていることが分かっていましたので、私は不思議に思いました、なぜ野獣たちが私に放たれないのかと。(6)そして私に対してエジプト人が出てきたのです。ものすごい形相で、助手たちを伴ってcum adiutoribus、私と戦うために。そして私には美しい青年たちが現れました。私の助手たちそして世話係たちfautoresです。(7)そして私は(衣服を)奪い去られ、そして男になりましたfacta sum masculus。そして世話係たちは私をオイルで磨き始めました。そうするのが競技ではin agonem 習慣だったのです。そして私が見ると、それに対しかのエジプト人は土ぼこりの中をin afa 転がり回っています。(8)そしてとても巨大なある人物が出てきたのでした。たしかに彼は円形闘技場の天井のてっぺんを突き出るほどで、帯なしでした。彼は、2つの縁飾りclavus の間から胸の真ん中で紫衣を(みせて)着ていて、そして金と銀でできた多くの玉飾りもつけていました。そして彼は帯同していたのです、剣術師範のlanista 鞭のようなものと緑の枝を。その中に黄金のリンゴ(pl.)がありました。(9)そして彼は静粛を要求し、言いました。『このエジプト人は、もしこの者(女性形)に勝てば、この者を剣で殺すだろう。そして、もし彼女が彼に勝てば、彼女はかの緑(の枝)を得るだろう』。(10)そして彼は去りました。そして私たちは相互に接近し、そして私たちは両拳を放ち始めました。彼は私の両足をつかもうとしました。他方で私は彼の顔面を(両方の)かかとで打ちました。(11)そして私は空中に持ち上げられ、そして私はほとんど地面を踏むことなく、彼を打ち始めました。でも、時間がかかりそうだと見てとった私は、両手を組みました。指(pl.)の中に指(pl.)をつっ込んでそうしたのです。そして彼の頭をとらえようとしたのです。そして彼は顔面から倒れました。そして私は彼の頭を踏みつけたのです。(12)そして人々は歓呼し始めました。そして私の世話係たちは詩篇を歌い始め、そして私は剣術師範に近づき、緑(の枝)を受け取りました。(13)そして彼は私に接吻し、そして私に言いました。『娘よ、汝とともに平安あれ』。そして私は栄光とともに生者門へとportam Sanavivariam 向かい始めました。そして私は目覚めました。(14)そして理解したのでした、私は野獣とではなく悪魔に対してこそ戦おうとしていることを。しかし私が勝利することも分かりました。(15)こうして見世物の前日にいたるまで私は過ごしました。さらに見せ物そのものの実際については、もし誰かが欲すれば、その人が書くでしょう。

 (1)ところで、そして祝福されたサトゥルスは彼自身の以下の幻を述べた。それを彼自身が記したのだった。(2)彼は言った、「私たちは受難しました。そして私たちは肉から離れました。そして私たちは4人の天使によって東に運ばれ始めました。彼らの手は私たちに触れていませんでした。(3)私たちはしかし、仰向けに垂直に上の方にではなく(すなわち、横たえられた死体のようにではなく)、まるでおだやかな丘陵を登るように(運ばれたの)でした。(4)そしてこの世を離脱すると最初に私たちは無限の光を見ました。そして私はペルペトゥアに言いました。というのはこの人は私の傍らにいたからです。『これこそ、私たちに主が約束されていたものです。私たちは約束を受け取りました』。(5)そして私たちが4人の天使たち自身によって運ばれている間に、私たちに広い空間が示されました。そこはまるで庭園のようで、バラの樹木やあらゆる種類の花々がありました。(6)樹木の高さは糸杉ほどもありました。それらの葉っぱが絶え間なく降下していました。(7)ついでさらに、庭園の中に別の4人の天使たちがいました。彼らは他よりもより輝いていました。彼らが私たちを見た時、彼らは私たちをうやうやしく迎え、そして他の天使たちに言いました、感嘆を込めて。『ご覧なさい、彼らです!ご覧なさい、彼らです!Ecce sunt, ecce sunt』【cf. バルク書2.25 ;ルカ13.30 Vulgateecce sunt;ヨハネ19.5 Ecce homoδο    νθρωπος】。そして、その4人の天使たち、すなわち私たちを運んでいた天使たちは畏れかしこんで、私たちを下に置きました、(8)そして私たちは私たちの足で広い道を競技場へとstadium 移動しました。(9)私たちはイオクンドゥスIocundum、サトゥルニヌスSaturninum そしてアルタクシウスにArtaxium 会いました。彼らは同じ迫害で生きながら燃えたのでした。そしてクイントゥスにもQuintum 。彼自身は獄中で殉教者として旅立ったのですが、私たちは彼らに尋ねました。他の人たちはどこにいるのですか、と。(10)天使たちは私たちにいいました。『まず来て、お入りなさい。そして主にご挨拶なさい!』。

 (1)そして私たちはその場所の近くに行きました。その場所の壁は次のようでありました。まるで光で作られたもののようで、そしてその場所の入り口の前に、4人の天使たちが立っておりました。彼らは入ってくる人々に志願者の(白の)ストラをstolas candidas 着せていました。(2)そして私たちは入りました。そして次のように斉唱している声を聞きました。『聖なるかなagios、聖なるかな、聖なるかな(γιος,  γιος,  γιος)【黙示録4.8】』と、絶え間なく。(3)そして私たちは、その同じ場所の中に座っているまるで白髪の人を見ました。彼は真っ白な頭髪を持っています。そして若者の顔つきです。彼の両足を私たちは見ませんでした。(4)そして右と左に4人の老人たち、そして彼らの後ろには別の多くの老人たちが立っていました。(5)そして私たちは入ったのですが、感嘆しながら玉座の前に立ちました。そして4人の天使たちが私たちを持ち上げ、そして私たちは彼に接吻しました。そして彼は、彼の片手を私たちへと(差し出し)顔をお向けになりました。(6)そして別の老人たちは私たちに言いました。『立ちましょうstemusΣταθμεν)!』。そして私たちは立ち、そして平和(の接吻)をしました。そして老人たちは私たちに言いました。『行きなさいiteπόλυσις)、そして喜びなさいluditeχαίρεσθε)【フィリッピ書簡3.1】』。(7)そして私はペルペトゥアに言いました。『あなたの望みはかなえられましたね』。そして彼女は私に言いました。『神に感謝Deo gratiasΤ  θε  χάρις)【第一コリント15.57】! 私は肉においても晴れやかでしたが、ここでこのようにより一層晴れやかです』。

ⅩⅢ (1)そして私たちは出ました、そして私たちは扉の前に司教episcopumτν  πίσκοπον)オプタトゥスOptatus さまを右に、教師役の司祭presbyterumτν πρεσβύτερονdoctoremアスパシウスAspasius さまを左にいるのを見ました。彼らは別々で、(2)そして意気消沈してました。そして彼らは私たちの足もとに身を投げ、そして言いました。『私たちを調停してください。なぜならあなたたちは出ていっていまったのです、私たちを残したまま』。(3)そして私たちは彼らに言いました。『あなたは私たちのパパさんでpapaπάππας)あり、あなたは司祭ではないですか。どうしてあなた達が私たちの足もとに身を投げるのですか』。そして私たちは心を動かされ、そして彼らを抱擁しました。(4)そしてペルペトゥアはギリシア語で彼らとしゃべり出しました。そして私たちは彼らを庭園の中のバラの樹木の下に別々に連れて行きました。(5)そして私たちが彼らと話していますと、天使たちがあの人たちに言いました。『彼らをくつろがせてあげなさい! そしてもしあなた達があなた達の中で何らかの不一致をもっているのなら、あなた達相互で解決なさい!』。(6)そして彼らはそれら(の言葉)で当惑しました。そして彼らはオプタトゥスさまに言いました。『あなたの平信徒をplebem 糺しなさい。というのは、彼らはあなたのところへ、まるで戦車競技場からde circo 帰ってきたかのように、そして党派で張り合っているかのように、集まってくるのですから』。(7)そして私たちには、まるで彼らが門を閉鎖しようと望んでいるかのように見えました。(8)そして私たちはそこに多くの兄弟たち(がいる)こと、しかも殉教者たちだということに気づき始めました。私たちは全員名状しがたい香りで強められました。それは私たちを満足させました。その時、私は喜びに満たされて目覚めたのでした」。

ⅩⅣ (1)これらきわめて顕著な幻視こそ、サトゥルスとペルペトゥア、至福なる殉教者たち自身のものであり、それらを彼らが自分で書き付けた。(2)セクンドゥルスをだが神はより早めに現世から、それゆえ獄中からの出立で召還された。これも恩恵であった。彼が野獣たちに与えられないようにとの。(3)とはいえ、魂ではないにせよとにかく彼の肉は、剣を認識したわけである(cf.ルカ2.35:剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう)。

ⅩⅤ (1)フェリキタスについては、実に(以下のようなことだった)。そして彼女に主の恵みがこのように到達した。(2)彼女はすでに8ヶ月のお腹だったので、つまり彼女は妊娠していて捕らえられたのだったが、見せ物の日が目前に迫り、彼女はおおいに悲しんでいた。お腹のために彼女は別にされてしまうのではないかと。というのは妊娠している者は(出産まで刑の)執行が許されないからである。そして他の冒瀆的な人たちの中で、後から彼女が聖なるそして高潔な血を流すことになるのでは、と。(3)しかし仲間の殉教者たちも真剣に悲しんでいた。同志のごときよき仲間を同じ希望の道に一人で残こすことになるのかと。(4)そこでひとつに結ばれて、見せ物の日の三日前に主に祈ってうめいたのだった。(5)祈りの後に直ちに陣痛が始まった。そして8ヶ月だったので当然困難で、彼女は出産において難儀して苦しんでいた時に、彼女に落とし格子の者(看守)たちの下役のある者がquidam ex ministris cataractariorum(gr.καταρράκτης)、言う。「この程度で苦しんでいて、獣たちに向かい合ったらどうするつもりだ。あんたは犠牲を捧げることを拒否した時は、屁とも思っていなかったらしいが!」。(6)そして彼女は答える。「今私が苦しんでいるのは、私(一人)が苦しんでいるからです。でも、そこでは他の人が私の中にいらっしゃるでしょう。彼は私のために苦しんでくださるでしょう。なぜなら私は彼のために受難しようとしているのですから」。(7)こうして彼女は一人の娘を生んだ。それをある姉妹(s.)が自分の娘として教育したeducauit

ⅩⅥ (1)聖霊は、見世物の顛末を書き記すことを許し給うた。そして許し給うたということは、書き記すことを望まれたということである。そこで、私たちはこのような大きな栄光につつまれた物語に何事かを付け加えるにふさわしい者ではないが、あたかもいと聖なるペルペトゥアの命令、というよりは彼女が私たちに託した遺言のように考えてこれを実行し、ペルペトゥアの毅然とした態度と崇高な精神の一例をつけ加えよう。(2)愚かな人々が密告したため、(第三アウグスタ軍団派遣の)軍団将校tribunus は、殉教者たちがある種の魔術で牢獄から連れ去られるのを恐れて、殉教者たちの監視と制限をこれまで以上に厳しくした。この時、ペルペトゥアは軍団将校に向かって抗議した。(3)「一体どうして私たちがくつろぐのを許して下さらないのですか。私たちはもっとも重要な罪人、つまり副帝の罪人で、副帝の誕生日に(獣と)戦うことになっていますのに。それとも、私たちがもっと太った姿でそこに引き出されたら、あなたの不名誉になるのですか」。(4)軍団将校は恐れ恥じて、殉教者たちをもっと人間らしく取り扱うようにと命じた。その結果、ペルペトゥアの兄弟たちや他の人々が訪れて、殉教者たちと一緒に食事することが許された。この頃までに、監獄の百人隊長補佐その人もキリスト教徒になっていた。

ⅩⅦ (1)そしてその翌日、彼らが「自由の食事libera」と呼ぶあの最後の食事を、彼ら自身の中では自由の食事ではなく「アガペ」(愛餐)としてagapem であったが、摂ったとき、彼らはおなじ確固不動さで人々にむけて以下の言葉を繰り返し述べ、神の裁きがあると警告しcomminantes、彼らの受難は恵みであると確証し、民衆の好奇心をあざ笑った。サトゥルスは言った。(2)「明日で十分ではないのですか、あなた達には。今日の友は明日の敵。しかしあなた達のために私たちの顔をしっかりと憶えておくがいい。私たちをその日思い出せるように!」。(3)このため、すべての人々は驚嘆して退去したのだった。彼らのうちで多くの者が信じた。

ⅩⅧ (1)彼らの勝利の日が明けた。そして彼らは牢獄からあたかも天へいくように円形闘技場の中へとin amphitheatrum 前進した。晴れやかな優美な表情で。もし(震えていたとしても、それは)おそらく、喜びによって奮えていたのであって、決して恐怖からではない。(2)ペルペトゥアは光り輝く表情で、そして穏和な足取りで後に従っていた。キリストの妻として、神のしとやかな娘として、両眼の活力で彼女はすべての人々の視線をなぎ倒していた。(3)同じくフェリキタスは喜んだ、野獣たちと戦うために健康を手に入れたことを。そして血から血へ、産婆からab obstetrice 三叉剣闘士へad retiarium 、出産の後に第二の洗礼で洗われることを(喜んだ)。(4)そして彼らは門の中につれていかれ、そして衣装、男はサトゥルヌス神の神官たちのsacerdotum Saturni、女性はケレス女神の聖女たちのsacratarum Cereris それを着るのを強要されたとき、気高い彼女は最後まで断固として抵抗した。(5)なぜなら彼女は言った。「今まで自発的に私たちがこのような目にあっているのは、私たちの自由を閉じこめないためだったはずです。だから、私たちの魂を私たちが委ねたのは、このようなことを多少でも行いたくなかったからだったはずです。これについてはあなた達も(意見が)一致していました」。(6)不正義が正義を容認した。軍団将校は屈した。そのままで、彼らはそのまま導き入れられたのだった! (7)ペルペトゥアは詩篇を歌った。すでにエジプト人の頭を踏みつけているのだ。レウォカトゥスとサトゥルニヌスとサトゥルスは見物の民衆に警告した。(8)そのあと、ヒラリアヌスの視野の下に彼らが達するやいなや、身振りと手振りで彼らはヒラリアヌスに語り始めた。「あなたは私たちを(裁いたが)」、彼らは話した、「だが神はあなたを(裁くだろう)」。(9)これで民衆は激昂し、並んだ闘獣士たちのvenatorum 鞭で彼らが虐待されることを渇望した。そしてとにかく彼らは感謝した。それで多少とも主の諸受難に従えたからである。

ⅩⅨ (1)しかし、「求めよ、さらば与えられん」(ヨハネ16.24)と述べた方は、求める人々おのおのに彼が熱望してきたところの結末を与えてこられた。(2)たしかに、もし彼らの中で殉教に関する彼らの願望をしゃべった時、サトゥルニヌスはすべての野獣に自分が差し出されることを要求すると公言していた。なぜなら、当然より大いなる栄光の冠を彼は得れるだろうから、と。(3)そこで見せ物の始めに、その彼とレウォカトゥスは、一匹の豹(ひょう)を体験させられ、さらにまた舞台の上で一匹の牡熊から虐待された。(4)しかしサトゥルスは、もっとも牡熊を嫌っていたので、むしろ豹のひと噛みで自分がかみ砕かれることを以前から期待していた。(5)このようにして、彼が一匹の牡猪の下に運ばれた時に、彼を牡猪にしっかり縛り付けようとしていた一人の闘獣士がvenator 、むしろその野獣によって下から突き上げられて、余興の数日後に死んだ。サトゥルスはまったくただ引きずられただけだった。(6)そして一匹の牡熊に彼が橋の中でしっかり結ばれてしまった時も、その牡熊は檻から出てこようとしなかった。そこで、二度、サトゥルスは無傷で戻らされたのである。

ⅩⅩ (1)しかしながら、悪魔は娘たちにはきわめて凶暴な雌牛を準備した。そしてそれは準拠すべき慣習法に反しているのだが、彼女たちの性に獣のそれさえも競わせたのである。(2)こうして、彼女たちは(衣服を)はぎ取られ、そして網をかぶせられて引き出された。市民たちは戦慄した。一方がしとやかな娘であり、一方が出産直後で乳房(pl.)から(乳が)滴っているのを観察したからである。(3)それで彼女たちは連れ戻されreuocatae、そして帯なし(の衣服)を着せられた。最初にペルペトゥアが投げ飛ばされ、そして腰まわりを切り裂かれた。(4)そして彼女は座り直すやいなや、脇が引き裂かれたチュニカを太ももを覆うため引き戻した。苦痛のためというよりも恥じらいをより一層感じたからである。(5)その後、彼女はピンをなくしたことに気づき、そして乱れた頭髪を(巻いて)縛った。というのは彼女は髪を振り乱して殉教を受け入れてはならない、彼女の栄光にあって嘆き悲しんでいると見られてはならない、と考えたからである。(6)このようにして彼女は立ち上がり、そしてうち倒されたフェリキタスを見つけた時、彼女は近づきそして彼女に手を差し伸べ、そして彼女を立たせたのだった。そして彼女たちは二人ともいっしょに立ち上がった。(7)そして民衆の冷淡さはうち負かされ、彼女たちは生者門へとad portam Sanavivariam 連れ戻されたreuocatae(8)そこでペルペトゥアは、ある、名前をルスティクスRusticusといい彼女にくっついていた洗礼志願者に支えられ、そしてあたかも眠りから覚めたかのように──その時まで彼女は聖霊の中に、そして恍惚状態にあったのだった──、周りを見回し始めた。そしてすべての人々が驚いたことに、彼女は言うのである。「いつ」と彼女は尋ねる。「私たちはあの雌牛へと連れ出されるのでしょうか。それを私は知りません」。(9)そして、彼女は何がすでに起こったかを聞いたときにも、虐待の印を彼女の体や服装に認める前には信じなかった。(10)そこで、呼び寄せられた彼女の兄弟(s.acccersitum fratrem suumと、かの洗礼志願者(s.)を励まして、言う。「信仰を守りIn fide state(第一コリント16.13;Vetus, vigilate state in fide)、そして互いにみな尊重しなさい!(cf., 第一ヨハネ4.7) そして、私たちの諸受難につまずいて(信仰を捨てて)はなりません!」

ⅩⅩⅠ (1)同様にサトゥルスは別の門のところで兵士militemプデンスを鼓舞して言う。「要するに」、彼は話す。「たしかに、私が期待し前もって言ったように、私はいまだ一頭たりとも野獣を経験していない。そして今こそ、心から信じなさい! 見て下さい、私はあちらに進み出て、そして豹のひと噛みで殺されますから。」(2)そしてただちに見せ物の最後に豹に投げ出され、ただのひと噛みで血で染められた。それで民衆は、戻ってくる彼に第二の洗礼を証しして何度も叫んだのだった。「申し分ない入浴Saluum lotum!申し分ない入浴!」。(3)たしかにとにかく彼は救済されたのだった、このように(血で)入浴したことで。(4)その時、彼は兵士プデンスに言う。「さようなら!」、そして言う。「私の信仰を覚えておいてほしい。そしてこれらのことがあなたを混乱させずに、むしろ強めますように」。(5)そして同時に指輪を彼の指から求め、そして自分の傷に漬けられた形見を彼に戻し、こうして彼に血の証拠と記憶を残した。(6)それからすぐに気を失い、他の者たちとともに刺殺されるのが常の場所[剥ぎ取り部屋か]に投げ捨てられた。(7)そして民衆が彼らを真ん中に求めたとき、というのは彼らが彼ら(殉教者たち)の体の中に剣が入るのを彼らの目でみて殺害の仲間となるためだったが、自発的に彼らは起きあがった。そして民衆が望んだそこに彼らは移動した。その前に相互に接吻した。こうして彼らは殉教を平和の儀式によって完成した。
(8)
他の人々もたしかに微動だにせず、そして沈黙と共に匕首(あいくち)を受け入れたのだが、すごかったのはサトゥルスで、まっさきに(梯子を)登ったように、まっさきに霊を(天に)返し、こうしてペルペトゥアを待つこととなった。(9)ペルペトゥアはだが別の苦痛を享受せねばならず、肋骨の間を差し貫かれ叫び声をあげた。そして新米の剣闘士のgladiatoris 戸惑っている右手を自分で自分の喉に運んだ。(10)おそらく、汚れた霊によって恐れられたこれほどの女性は、自ら望まない限りは殺されることはなかったであろう。

 (11)おお、もっとも勇気あるそしてもっとも祝福された殉教者たちよ! おお、真に我らの主イエス・キリストの栄光の中への招待者たち、そして選ばれた人たちよ! (彼の栄光)を賞賛し、そして尊敬し、そして切願する者は、たしかにそして古き人々に(ことどもに)劣らないこの諸模範を、教会建設のため読むべきである。それは、新しい諸力novae virtutes も、唯一のそして常に同じ聖霊が、そして全能の神なる父と彼の御子イエス・キリスト、我らの主が今までお働きになっていることを立証しているからである。彼に光輝と限りない権能が、代々に至るまでin saecula saeculorumες τος αἰῶνας τν αώνων)、アメン。

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2018/2/5-11フランス調査旅行

グランで出会った保育園児たち
古代のグランの復元想像図:中央の神殿前に聖なる泉がある
グランの閉鎖中の円形闘技場
グランの浴場跡
地下水路から水をくみ上げる井戸跡
見ることできなかったグランのモザイク博物館
グランの城壁跡(最西端付近:左が城壁内)

グランの小教区教会:手前の石垣の下に水場がある
教会下の水場の痕跡

 留学中の林君のお世話になって、約1週間、交通費・宿泊費は当方持ちということで、行ってきました。以下は、知人に書いたメールから採ってます。
 余裕があれば、年末のアルジェリア旅行も転載するでしょう。

2/5(月)成田1105-1555Paris AF275 Paris泊
6(火)Neufchâteau泊  Hôtel EdenValue Deal 69.30€
7(水)Metz泊 Inter-Hotel Modrne 86€+
8(木)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
9(金)Nimes泊 Aparthotel Adagio access Nîmes   60.80€
10(土)Paris泊 Hôtel Viator Paris  147.00€
11(日)Paris1605- AF272
12(月) -1205羽田

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2/7
浩志@ヌフシャトーです。

 2時に起きだして書きました。林君、書いてることで間違っていたら教えてください。

 昨日、今回の訪仏前半の山場のグランGrandに行ってきました。パリの東駅に隣接した宿泊ホテルは昨晩は全員白人従業員でしたが今朝は全員黒人でした。このあたりが現在のパリの状況なんでしょう。
 そこから8:10発のTGV(新幹線)に1時間40分、一面雪景色とスノウ・ホワイトが続くうち、Nancy着(雪のため30分程度延着でしたが、もともと待ち合わせ時間が40分あったので乗り継ぎはセーフ)。そこからToulまで地方線に乗り換えて、進行方向右側にゆったりとした水量の川をみつつ、15分(なぜか雪が消えてました)、本当はそのまま列車でNeufchateauまで行けるはずだけど途中が工事中とかで、そこで乗り換え時間5分のバスに飛び乗って、延々と平原状の地形での農地景観の中を直線で走る、よって旧ローマ軍道を彷彿させる道を40分、ようやく正午前にヌフシャトー駅前に到着できました。こういう複雑な経路だったので、林君抜きにはとうてい行き着くことはできなかったでしょう。感謝。

 ここのホテルに荷物を置き、フロントでお願いして、でも大分待たされたタクシーで、1時半にGrand目指して出発。タクシー代は往復70+10ユーロ。往復とも林君相手に絶え間なくしゃべり続ける同じ中年女性が運転手でした。ヌフシャトーの町外れには近世と思える城塞跡が残っているようで、水量の多い川を渡り、徐々に高度を上げていく感じでした。そこの自動車道も直線が主体でした。

 グランには20分も走ったでしょうか。まず小学生用と思われる漫画チックな掲示板のある広場で、町のパン屋で買ったパニーニをかじって、ちょうど2時間見学しました。ここの目玉遺跡の円形闘技場とモザイクの家は冬季休業中で、これは事前にわかっていたことなので、しょうがありません(もし開いていたらもう1時間は必要でしょう)。若干ぱらぱら小雨の降る曇り空の中、住民400名の小さな村落で、出会う人も皆無の村の中の道を、表示板にしたがって、厳重に金網で囲まれた円形闘技場(片方が未復元)、1035年に記録が初出の皇帝ユリアヌス下での女性殉教者、Libaireの殉教者記念堂(村の共同墓地付き)を覗き、列柱廊や浴場があった広場、閉館中で旧バシリカの床を飾っていたモザイクを収めた家は素通りして、当時この地域を丸く囲っていた城壁の土台跡、神殿跡に立っているという教会とその下の洗濯場、などを見学して歩きました。この間すれ違った住民は数名のみ。
 帰り道でのこと、モザイクの家の裏側で保育園の子供たちが園庭に遊びに出てきて賑やかな歓声が聞こえ、保母さん一人に10名余り、全員白人の可愛い顔で向かえてくれたので和みました。そのちょっと向こうにあるこぢんまりとした小学校には、場違いな感じで統廃合反対の横断幕が貼られていたのでなおさらでした。

 ここに、コンスタンティヌスが310年頃立ち寄り、ケルト起源のガリアの太陽神Grannusの聖域で、アポロン神の出現を体験し、30年間の統治を予言された、という異教側史料があって、それがキリスト教側にとっては、太陽神と重なり得るキリストやキーローの出現と、後年解釈されえたわけです。私見では、その後の展開を考えると事実は異教側にあって、それを強引に改ざんしたのがキリスト教プロパガンダだったと判断すべきで、私としては真偽を確かめるヒントを得るべくグランを訪問しなければならなくなったわけです。

 私にとっては、現在は寒村にすぎないグランが、かつては、ガリア古来の清冽な聖泉が存在し、霊験あらたかな治癒祈願の聖地で、当時巡礼が引きも切らず訪れてきていて賑わっていた保養地でもあったこと(帝国内有数の規模を誇る円形闘技場がその証です。おそらく東部のアスクレピオス神の医療施設エピダウロスなどに比すべき地だったのでしょう、規模はあれほどはありませんが)、212年ごろに時の皇帝カラカッラが訪れた記録もあるようで、それらが確認できたことで十分でした。
 あいにく季節はずれの訪問で、旧バシリカの広大な床モザイクが保存されている施設に置いてあるはずのパンフレットなども、入手できませんでしたが、ともかく、その夜のホテルのレストランでは林君と祝杯をあげたことでした。ちなみに二人で63.76で切りよく70(食前酒+生ビール)。イタリアのあっさりした味に慣れている私には若干重い夕食でした。
 到着時に林君がめざとく観察してましたが、この町ではフランス人以外は見ることありませんでした。我ら二人がまぎれもなく異邦人だったわけです。とはいえ別段奇異のまなざしに会うこともなく、それどころか、タクシー運転手のおばさんの甥は、木工の技術を習得して、日本人女性と結婚して東京に住んでいるのだそうで、最後の挨拶は日本語で「さよなら」でした。

 今日は、メッスに向かいます。そこの博物館にはグランの治癒神と深い関係のあるらしい円柱上に飾られた石灰岩製のAnguipedeの騎馬像が展示されていて、それを拝見するためです。同様のものは反対側に位置するEpinalの博物館にもあるようですが、そこに寄る時間は今回残念ながらありません。

 なお、ホテルに帰ってからの林君のウェブ調査では、ドイツのバイエルンのLauingen近くのFaimingenにはローマ時代のApollo-Grannus神殿があったようです。ここに212年にカラカッラがやってきて病気治癒のため神殿を建てたとのこと。ストラスブールを挟んで東西にガロ・ローマン時代の著名な治癒神神殿があったわけです(ないしは、Grannusという同一地名で両者は混同されていて、本当は片方だけだったのかも)。

 コンスタンティヌスにはなぜ、それを崇拝する意味があったのか。私見ではそれを、彼は当時トリーアを拠点にしていて、彼の麾下の最も信頼していたゲルマン・ガリア出身の兵士たちの支持を獲得する必要があったから、と想定しているわけですが、それ以上のことは、将来後続の研究者が実証してくれることを念じております。

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2/8
各位:豊田@Nimeです。

 アルジェリアから帰って、ずっと頭の中はアウグスティヌスだったのですが、2/5から丸一週間の予定でフランスに来ています。前半は北東の若干僻地にコンスタンティヌスの秘められた足跡を訪ねてましたが、朝の気温氷点下のMetzから半日かけてずっと同じTGVに乗り続け(一部300キロの速度ですが、在来線も走るのでそう速くなくて)、昨晩ニームにつきました。列車から降りて駅の階段を下るとき不覚にも足がもつれあぶなかったです。

 今日一日と明日午前中までここに滞在してパリに帰りますが、ニームでは単純に、昔撮っていたはずのどこかに行ってしまった円形闘技場の立ちション用トイレの写真再撮影するのが主務です。これだけなので大幅に時間余るのですが、ニームの博物館は改装のため閉館中の由で、今日は新たに博物館ができているというポン・デュ・ガールにバスで行く予定です。南仏では昔回った他のローマ遺跡も再訪したかったのですが(実は立派なトイレ遺構が多い)、その余裕がないのが残念です。

 そろそろ頭の中を帰国便がよぎりだしてますが、パリは雪だとかでちゃんと飛行機が飛んでくれるかどうか心配です。昨日フランスを北から南に縦断したのですが、ところどころに薄っすら残雪あっても、ずっと霧の風景でした。南仏のニームも夕食に出た夜の温度は3度と、体感的には北と変わりません。夕食は本格中華にありつけました。同行の林君は麻婆豆腐が食べれたと感激してました。私は「ポタージュ」と頭についていたので疑問でしたが、酸辛スープを頼んでみましたが、イタリアの「アグロ・ピッカンテ」と同じで、増量したその辛さに疲れが癒やされました。4皿と青島ビールを含め二人で50ユーロ。やっぱ中華は貧乏人の味方です。今回のホテルには台所もついているので、今日の夕食は分厚いステーキ焼こうと話してます。

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2/10
豊田@ニームです。

 昨日は、午前中に円形闘技場、昼にPons du Gard、夜はフランス料理でした。

 実は、今回訪仏の最後のミッションには失敗し、元気が出ません。

 舐めるように入れるところは見て回ったのですが、お目当てのものがみつかりません。座席下に位置するアーチ通路の曲線の内側に沿って立ちション用とおぼしき、だけど大理石製の平たい浅い彫りの石材がずらーとはめ込まれたのを、30年前には見た記憶あったのですが、・・・お母さん、あれはどこに行ったのでしょうか・・・。研究書にも写真があるというのに。林説では、立ち入り禁止の工事用具置き場にあるのでは、というのですが。

 負け惜しみですが、でも転んでもただでは起きない! 階段の上下で足をガクガクにしながら歩き回るうち、地階からの登り階段の踊り場部分に妙な遺物を今回見つけました。なぜかどこの通路にでもというわけではないのですが、添付写真のようなものが両方の壁沿いの床に浅く彫られてまして。ご丁寧に下方に小さな穴が開いているのと開いていないのがあって、統一感がなく、用途的によくわからない遺物なんです。
 ご存じの方、教えてください。私は、当然立ちション用便器と考えてますが。

 長くなるので昼は飛ばして、夜です。台所あっても油も調味料ないので、林君が探した地元のレストランに行きました。定食23.5ユーロのコース、二人で2016年産地元赤ワイン1本込みで70弱ユーロで、満腹しました。ワインも渋みが強く肉料理に合ってました。

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2/10
各位:豊田@パリです。

 本日、ニームでは十分すぎる時間を町歩きで消化し(17500歩、昨日は25000歩の由:晴れていて7度くらい、ひなたは暖かったが、風はきつかった)、午後にtgvに乗り、先ほどパリに着きました。車窓からの風景は、最初の1時間は晴れ、次の1時間はだんだん雲が多くなってきて、ところどころに残雪、そしてパリが近づくと、日没したせいでもないでしょうが、一面の残雪となりました。
 今日のホテルは、パリ・リヨン駅から歩いて5分くらい。

 そこでご報告があります。今回の宿泊ホテルすべてで、パスポートの提示を要求されませんでした。これはどうしたことなんでしょうか。あののんきなイタリアでも必ず提示するのに。

 2日続けてのフランス料理は重たいので、これから名代の中華料理屋にメトロに乗って行こうと思います。
 明日、帰国の途につきますが、天気予報だと「晴れ」らしいので、飛行機がちゃんと飛んでくれることを祈ってます。
 林君には本当にお世話になりました。

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先達の足跡:(1) G.Papini:意図的に忘れ去られた名著?

 また悪いクセが出た。
 アウグスティヌスに絡んで、ある邦語の文献を読んでいたら、とんでもない本にゆきあたってしまった。それは、戦前に出たイタリア語からの翻訳書で、上智だとキリシタン文庫に所蔵されていて、戦後も改訳版が出ていて、そっちは中世思想研にあった。
 それらを見ていたら、原本がみたく(ほしく)なり、年金生活者のくせに性懲りもなく海外古書に発注してしまったのだ。届いた紙装本は節約して安物にしたせいか、もうぼろぼろで・・・、ウェブ写真で見たものとは似ても似つかぬ姿だったのだが。
 以下は、原稿を書いたEvernoteからの転写である。いずれ写真を添付して紹介したい。

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 Giovanni PapiniのSaint’Agostino,1929 が出版されて、五十嵐仁は、すぐさまフィレンツェ在住の著者に翻訳許可を求める書簡をしたため、快諾を得た。翻訳の出版は1930(昭和5)年12月21日で、『パピニ 聖オーガスチン』発行所アルス、がそれである。

 なぜか翻訳者名には寺尾純吉という筆名を使っていた(後からそれらしいことがわかったが、外務官僚だったせいかも)。上智大学図書館の「キリシタン文庫」には、その翻訳者が和名の筆名で(だが、ローマ字でIgarashiのサインも添えられ)ヘルマン・ホィヴェルス先生(神父:1890-1977年)に献呈したものが未だ所蔵されている。ちなみに献呈の日付は1930年12月29日。どういう経緯か不明だが、その献本は長らくキリシタン文庫長だったヨハネス・ラウレス神父(1891-1959年)の手に移った、というよりキリシタン文庫に寄贈されたのだろう。
 装丁は小豆色のしっかりしたハードカバーで、背表紙には金字で著者名、書名、譯者名がイタリア語と日本語で表記され、表紙には黒字でイタリア語のみで、上に書名、下に著者名、その間に心臓に2本の矢が上から交差状に刺さり、下まで貫通し、心臓の上に炎が描かれた図案が配置されていて(今は詳しく触れないが,他に、炎の火花状のものが4箇所描かれている)、かなり凝った作りとなっている。

 その図案のあらましは、たぶんアウグスティヌス『告白』9.2に由来し、直接原著の表紙から構想を得たものだろう。調べてみると、13世紀創設の聖アウグスチーノ修道会の会章は心臓を貫いている矢こそ1本であるが、やはり心臓の上には炎が見えている。私のところに北イタリアのAlessandriaの古書店から来た原本古書の表紙は、白地で文字は黒、心臓関係の図案が赤、という違いはあるが、シンボル関係は翻訳本と同じである。

 翻訳書を開くと、口絵に白黒で、なんと私も大好きなアリ・シェフェール筆「聖オーガスチンと聖モニカ」(1854年)の白黒写真(原著にはない)、そのあとに「譯者序」が付されていて、翻訳の機縁などが述べられている。そこに1930年がかの聖人の没後1500年に当たることも明記されているので、原著や翻訳の契機は自ずと明らかであろう。ちなみに著者パピーニは1881年1月9日フィレンツェ生まれだから、当時49歳と気鋭の時期だった【逝去は1956年7月8日、65歳:ウェブ検索すると、若いときの個性的な頭髪の野心満々な姿と一緒に、どういうものか、言語障害をもたらした大病を患って衰えた姿の彼が、自宅の書斎で孫娘に口述筆記させている1955年9月19日付けの写真や、もう一人別の孫娘で役者の写真なんかも出てきた。巻末に付された同出版社の既刊本の列挙の先頭に、パピニ著大木篤夫譯『基督の生涯』も掲載されていて、著者はこの時期日本でもすでに定評ある書き手だったようだ。実は,その翻訳も後日入手してしまった。ところで上記シェフェールの絵は、ヌミディア人的風貌のアウグスティヌスを表現していて私には好ましいのだが、実は吉満義彦(1904-1945年)の『告白碌における聖アウグスチヌスの囘心への道』(Congregatio Mariana 2)上智学院出版部、1945年、の口絵にも使われていて、さすがと思わされる】。

 本書は、戦後の昭和24(1949)年3月に、中央出版社から、ジョヴァンニ・パピーニ(五十嵐仁訳)『聖アウグスチヌス』として訂正再版された。これは中世思想研究所にある。敗戦後という時代を反映して、薄っぺらな紙装本だが、表紙の図案は今回むしろイタリア語原著と同様となっている。ただ、すでに酸性紙特有の劣化が進んでいて、むしろ戦前もののほうが読みやすいくらいだ。この版には口絵も前書きもないが、その代わりに巻末に「譯者の言葉」が添えられていて、そこに版権取得時に著者から送られてきた快諾の書簡が紹介されていたり、翻訳者はその後1938年から「一官吏として」ローマに行き、終戦の暮れに浦賀に帰国したこと、原著者の生まれ育ったフィレンツェにもよく行ったし、ローマで最後に住んでいたジョヴァンニ・セヴェラーノ通りVia Giovanni Severano(ここはローマ・テルミニの北北東、というよりティブルティーナ駅の西側のといったほうが早いだろうか、Bologna広場の北西に延びている通りである)ではすぐ近所に著者のお嬢さんの婚家があって、「眼の不自由な作家が、ちょいちょいやってくることを、門番の口から聞きもした」が、訪れることもなく終わった、などと書かれていて、亡くなるだいぶ前から作家として著者が不自由な体だったこと、たぶんそれもあって訪問を遠慮していたことも窺える文章に出会え、私にとって興趣大いなるものがある。

 そして、問題の箇所は、原著でp.45-47、戦後の翻訳でp.42-44で、読者は見逃しがたい叙述に出くわすことになる。さすがイタリア人!と絶句せざるをえない、はずなのだが・・・。

 アウグスティヌスは、マダウロスから学業半ばで故郷に帰ってきて、無聊を囲う1年を過ごした時に堕落した生活に陥るが・・・

p.43-4「ここにかれは偽らない、しかも明瞭な言葉をもって、友情の堕落、肉慾にまで堕落した友情、肉慾と合體した友情に就いて暗示しているのである。・・・「肉慾によって穢された友情」とは、男の友だちを暗示している。」

 な、なんと、アウグスティヌスが女色だけでなく、男色もやってた、とパピーニが明言しているわけで、・・・もう脱帽するしかない。
 かくして、私の「珍説その3」も、90年近くも昔にすでに喝破されていて、新説とはいえないことに。まあ男色は、ローマ史からすると別段驚くべきことではないのだが。養子皇帝で帝権をつなげたいわゆる「五賢帝」の最初の四人は、まさしく女性に興味なかったから子もなしえず、その故の養子縁組だったことを想起すれば十分だろう。
 しかるに、我が国の自称アウグスティヌス研究者でこれを指摘している人を私は知らない(西洋では、ある女性研究者がそれを指摘している、とどこかで読んだ記憶があるが、それにしてもそれはここ2、30年前のことだったとボンヤリ記憶している)。しかも、パピーニのこの書物を利用して、アウグスティヌスとアンブロシウスの冷たい関係を指摘している、として本書を引用している研究者はいるのだが、男色のほうにはまったく触れないのである。これを偏向といわずしてなんと言うべきか。それにしても、これでは最近の並み居る研究者たちは相も変わらず縮小再生産に嬉々として従事している、と言われてもしょうがないだろう。

 実は、私主宰の読書会で,昨年出版された以下の岩波新書を読んだ社会人女性が、読後感として「男色以外とりようがないじゃないですか」と、それを指摘していた。
    出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』
 おせっかいな私は、筆者にこの点をどう考えるかメールで問い合わせたのだが、返事は「書き手が意図してない読み方をされてビックリです」だった(氏の筆力が意図せずしてそこまで接近しえていたことは、評価すべきであろう)。
 しかしながら、これこそ素人がプロを凌駕する健全な読解力を示した典型例というべきではなかろうか。繰り返す、これでは、専門家とは実はお仲間の中での共通言語で遊んでいる輩にすぎない、といわれても弁解の余地はないだろう。赤面して、研究者の看板を下ろしていさぎよく退場すべきであろう(誤解なきように:これは出村和彦氏に向けての言葉ではない)。

付記:ここでアウグスティヌス関係の「私の珍説」とは以下の事例である。(〇付きが現在オリジナルのつもり、△は先行研究不十分)

彼の『告白』叙述の秘密
彼の出生の秘密:ヌミディア性 △
彼の家族の秘密:母はめかけ? 〇【現在は撤回】
彼の男色疑惑 〇 → △
彼の異性関係の秘密 △
彼の立身出世の秘密:マニ教ネットワーク △
彼の回心の秘密:△
彼の司祭・司教就任の秘密 〇
彼の設立修道院の秘密 〇
彼の使用言語の秘密 △
彼の神学の秘密:南山大学の山田氏にお委せ 〇
彼の死後の図書移動の秘密 △
彼の遺骸移動の秘密 △
彼の神学が西部帝国に伝播した本当の理由 △

Giovanni Papini:1881-1956
戦前のアルス版
表紙裏の署名関係
戦後の中央出版社版
入手した原本
聖アウグスチノ修道会Ordo Sancti Augustiniの会章

【追記】2019/7末に上智大学文学部史学科編で『歴史家の◎◎』の4冊目が上梓された、らしい。まだ現物はみていないが、そこに私は「人間アウグスティヌスを『告白』から探る」を書いたので、興味ある方はご覧下さい。私的にはその1のつもりだが、その2を書く余裕あるのかどうか、先のことはわからない。

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アウレリウス・ウィクトル『ローマ皇帝列伝』翻訳について

【解題、試訳はまとめてブログから引き揚げ、今後の訂正を含めHPの「西洋古代史実験工房」のほうに移管した:ちなみにエウトロピウスと教皇列伝もそちらに移管した】

 日進月歩といいたいところですが、そうもいかず・・・(一応の訳了は1年後の予定ですが、さて)。いつまでたっても手直しに切りがないので、ばらばらですが、手を加えたところから、恥ずかしながらたたき台としてアップさせていただきます。(といいつつ、次回がいつになるやら)
 秦剛平氏は、エウセビオス『教会史』や『コンスタンティヌスの生涯』において、意訳箇所に逐一訳註をつけて克明に明記されてます。それは一般読者としては相当にわずらわしいのですが、研究者の翻訳倫理としては本来そうあるべきだ、と私も思います(その彼に細かいことですが私なりにイチャモンつけたい箇所もありますが、それは別の場所で)。ここではできるだけ逐語訳で作業し、最終的に読みやすい「超訳」 (^^ゞを試みたいというのが、私の念願ですが、もとより文才なく、その上先のない身なので、期待しないでお待ちください。
 いずれエウトロピウス『首都創建以来の略史』全10巻でも本来この作業をしなければと思ってますが、そのためにはだいぶ先まで惚けずに頑張らないと。しかしたとえ私がついえても、若い世代で継いでやってくださる方が出てくることを信じています。それが研究というものではないでしょうか。

本翻訳で使用のラテン語テキスト:
 Recensvit Fr.Pichlmayr et R.Grvendel, Sexti Avrelii Victoris Liber de Caesaribvs, in:Bibliotheca Tevbneriana, Leipzig, 1970 =http://www.thelatinlibrary.com/victor.caes.html
現代語訳註(*原文テキストを含まない):
 *by C.E.V.Nixon, An Historiographical Study of the Caesares of Sextus Aurelius Victor, Diss., Michigan, 1971.
 par Pierre Dufraigne, Aurelius Victor Livre des Césars, in:Les Belles Lettres, Paris, 1975.
 par Michel Festy, Sextus Aurelius Victor, Livre des Cesars, Thèse Doct. de l’Université Paul Valéry-Montpellier III, 1991.
 *by H.W.Bird, Aurelius Victor:De Caesaribus, Liverpool UP, 1994.
von Kirsten Groß-Albenhausen u. Manfred Fuhrmann, Die Römischen Kaiser Liber de Caesaribus, in:Tvscvlvm, Darmstadt, 1997.
索引辞書:
 Conscripsit Luca Cardinali, Aurelii Victoris Liber de Caesaribus Concordantiae et Indices, vol.I, in:ALPHA-OMEGA, Hildesheim/Zürich/ New York, 2012.

訳文中での記号、他:
[ ]:テキスト段階の異読・付加等の場合
( ):文脈上の翻訳者の補い
【 】:翻訳者のコメント
ラテン語表示:訳語の統一を図るために、ここでは便宜上入れていますが、形式はふぞろいかもです。
訳注:とりあえず『上智史學』60ー64号(2015ー18年)掲載を参照願います。なお、そのpdf文書は「上智大学学術情報リポジトリ」(http://digital-archives.sophia.ac. jp/repository/)から「アウレリウス・ウィクトル研究会」と検索にかけると、入手可能です。

 ここでは、本文のみをアップします。意味不明の箇所が散在し、現在進行形で訳語もあれこれ思案し、『上智史學』の試訳はすでにかなり修正しておりますので、翻訳についてはこのブログのほうを参照して下さい。
 このところ、いまひとつ著者の語感がつかめなくてどうしたものかと思案しているのは、死亡に関する単語をどう訳し分けるか、です。「亡くなった」「死んだ」「滅びた」「消えた」「殺された」「殺害された」「殺戮された」・・・。絞殺や斬殺など明確な場合はいいのですが、それも他の並行史料でどうあれ、それで見当つけるのは避けなければなりませんし、辞書的にも多義あって思いのほか面倒です。又、違和感にとらわれた例としてはgensがあります。ローマ人のそれには「氏族」と訳すべきなのでしょうが、ウィクトルは国外の野蛮人の場合もそれを使ってます。その場合は最初「部族」と訳し分けていたのですが、ここはウィクトルがローマ人を彼らと区別していなかったのではと思い直して「部族」で統一してみる試みをしています。
 共訳者の林君に言わせると、それはウィクトルが同じ単語を使わないで別の言葉で言い換えようとしているせいだ、ということになります。そういえばエウトロピウスの場合は同じ単語を使う傾向があって、翻訳も簡単だったことを思い出しました。その翻訳の場合、同一単語で訳せばむしろ簡単なのですが、ここではあえてこだわってみて、全巻で1,2度しか登場しない単語には角度のある訳語を付してみました(これは英独仏の近代語訳ではやっていないようです)。
 よろずご意見・ご指摘は遠慮なくお申し出ください。
 その際、本翻訳では、「直訳」「逐語訳」でやっている点だけはあらかじめご了解ください。具体的に言うと、「可能なかぎり単語の順番通りに訳す:勝手に入れ替えない」「複数形はそれがわかるように訳す:単数と明確に区別する」「時制も動詞の形どおりに訳す:歴史的現在は現在形で表記する」「極力同一訳語をつけるようにする:翻訳者の意訳によるニュアンスの変化をできるだけ排する」、といった、まあ当然のことなんですが。
 ただ、これまでこの翻訳作業に対して、共訳者間ではかなり辛辣にやり合っていて(だから先になかなか進みません:欧米現代語訳註も肝腎の箇所で参考にならない場合が多く)、ある場合はそれを押さえ込んで豊田個人訳として公表してきたのが実情ですが、であれば世の専門家の方々はもっと言いたいことがありそうなものですが、これまでわずかお一人のみしかご指摘頂戴してません。批判にも値しないしろものだからなのか、それとも、これが内弁慶な日本の学界の現状なのか、いずれにせよ、いずれまとめて公刊を予定している身からしますと、はなはだ残念なことです。  

【後記】 2019年1月に一応完訳して、現在見直しに入っている(手間取っているのは訳語の統一作業である)。先日いつものことながら偶然、1年前放映の「風雲児たち:蘭学革命篇」の再放送を見て、なんだか我々に似ているなと思わされた。「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せしか如く茫洋として」(杉田玄白(翼)著『蘭学事始』明治23年4月)という彼らと違って、我々には辞書も近代語訳もそしてコンコルダンスさえあるのだが、やっていることはエピソード「フルヘッヘンド」並の試行錯誤の連続である。『解体新書』は語学の完璧主義者前野良沢と、実は蘭語が苦手な、しかし世事に長けた杉田玄白の両様あって陽の目を見たわけだが、両方とも寸足らずの我らにどこまでできるのかごろうじろ、といったところか。いずれにせよ、52年後といわずどなたか全面改訂版をお出しいただけるまでの捨て石になればと、と思う。

【追記】一応の完訳版は2019年7月にアップしております。

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